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角川e文庫
大迷宮
横溝正史
目 次
黒メガネの少年
タンポポ.サーカス
高原の怪屋
無気味なおじ
足の悪い家庭教師
もう一人のぼく
大サーカス王
怪しいもの
夢かまぼろしか
船から消えた男
大金塊
おそろしい顔
第二の家
抜け穴のどくろ男
さいしょの家
カピの死
|鍵《かぎ》の|謎《なぞ》
面をかう人たち
軽気球の老人
少年歌手
あいずの口笛
暗やみの騒動
空中の大曲芸
津川先生の射撃
アルミの短刀
三人めの少年
鐘楼の怪
怪物と猛犬
マリアさまの像
怪物と鬼丸博士
人間の丸太ン棒
鏡三の綱わたり
怪屋包囲
鬼丸博士の死
第二の鍵
奇怪な大発明
五人のちかい
眼帯の男
三人のゆくえ
どくろ男の正体
わなに落ちる
剣太郎あらわる
船中の三少年
暗号の手紙
あかつき丸襲撃
怪獣男爵の脱走
鬼丸太郎の告白
迷宮島
迷路を行く
地底の爆発
男爵の最期
第一の|鍵《かぎ》
黒メガネの少年
世の中には、妙なまわりあわせがあるものだ。それこそ|芝《しば》|居《い》や小説にだって、めったにないような、人に話せば、うそだといわれそうなほど、ふしぎなめぐり合わせがあるものだ。そして、そういう妙な、ふしぎなめぐり合わせがたびかさなるうちに、いつか、とんでもない事件に|捲《ま》きこまれていることが、ままあるものである。
これからお話しようとするこの物語の主人公、|立花滋《たちばなしげる》の場合がそうだった。
滋があんなにサーカスのファンでなかったら――いやいや、滋がいかにサーカスのファンであったとしても、去年の夏、軽井沢へ|避《ひ》|暑《しょ》にいかなかったら――いやいやいや、滋がいかにサーカスのファンであり、そしてまた、去年の夏、軽井沢へ避暑にいったとしても、あの日、いとこの|謙《けん》|三《ぞう》と、自転車の遠乗りに出かけて、大夕立ちにあわなかったら、これからお話するような、あんなにも奇怪な、そしてまた、あんなにもおそろしい事件に|捲《ま》きこまれるようなことはたぶんなかっただろう。
しかし、こんなふうに書いていくと、これを読まれる読者は、きっと、いったいなんのことだと面くらわれるにちがいない。
よろしい。それではここに、わかりやすいように、滋が去年の夏、軽井沢へ避暑にいったというところから、物語をすすめていくことにしよう。
滋はことし十四歳、したがって去年の夏は十三歳で、中学の一年生だったが、滋のつもりでは、その夏はどこへもいかないで、家で勉強しようと思っていた。
ところが夏休みもおわりにちかい、八月も二十日すぎになってから、軽井沢へ避暑にいっているいとこの謙三から、そんなに勉強ばかりしているとからだをこわすから、たとえ一週間でもいいから、こちらへ来てのんびり遊んで暮らすようにと、しんせつなさそいの手紙が来た。
ちょうどそのころ、滋は、あらかじめきめておいただけの勉強はすましていたし、それに謙三のいうことも、もっともだと思ったので、おとうさんやおかあさんのゆるしをえて、一週間の予定で軽井沢へ遊びにいくことにした。
それが八月二十三日のことなのだが、あとから思えば滋は、この汽車の中からして、この事件に捲きこまれるふしぎなめぐり合わせに出あっているのだった。
もう夏もおわりにちかいせいだったからか、軽井沢へいく汽車は思ったよりもすいていた。滋はゆうゆうと、ふたりぶんの席を占領して、本を読んだり、また本を読みあきると、窓のそとの景色をながめたりしていた。
この汽車は夕がたごろ軽井沢へつくはずで、いとこの謙三が、駅まで迎えにきてくれることになっているのである。
さて、滋のまえの席には、親子かと思われるような年ごろのふたりづれが乗っていた。ひとりは五十か、あるいはもっと年をとっているかと思われるような老人だったが、顔じゅうにショウキさまのようなひげを黒ぐろとはやしているのが、ちょっと人目をひいた。
せいはあまり高くはなさそうだったが、ずんぐりとかたぶとりをしたからだをしている。
そして、度の強そうなメガネをかけ、頭にはおしひしゃげたような、山のひくい、つばの広い帽子をかぶり、この暑いのにちゃんと背広の三つぞろいを着ているのだ。
そして、ネクタイのかわりに、黒い細いひもをむぞうさにむすび、手にはまるで棒みたいな、太いステッキを持っているのだが、顔じゅうをうめるようなひげといい、帽子も洋服もまっ黒なところといい、太い棒みたいなステッキといい、なんとなく、気味の悪い感じだった。
さて、その連れというのは、十七、八の少年なのだが、これがまた、ちょっと妙ないでたちなのである。
灰色がかったじみな背広に、同じ色の鳥うち帽――と、いうところまでは、べつにかわったことはないのだが、子どものくせに黒メガネをかけ、しかも、この暑いのに、顔じゅうかくれてしまいそうなほどの、大きなマスクをかけているのが気になる。
黒メガネにマスク――といえば、だれでもすぐに変装ということを考えるだろう。まったくこれくらいかんたんな変装道具はない。
滋も、すぐそう思った。しかし、あいてはじぶんと、いくらも年のちがわぬ少年なのだから、滋は、すぐその考えをうち消した。そして、きっと目がわるいところへ、かぜでもひいたのだろうと同情した。
だから、滋はそれきりふたりのことは気にもかけず、さっきもいったとおり、本を読んだり、窓の外をながめたりしていたのだが、そのうちに、はっとするようなことがおこったのである。
それは、まもなく、列車が軽井沢へつこうというころだった。
棒のようなステッキを持った男が、思いだしたようにポケットをさぐると、
「そうそう、忘れてたよ。ここにキャンディーがあるんだが食べないかね」
そういって、なにやらアメ玉みたいなものを取り出した。
ところが、ちょうどその時、少年は目にごみでもはいったのだろう。黒メガネをはずしていたのだが、そこへ、キャンディーを出されたものだから思わずマスクをはずした。
それはほんのちょっとの間のできごとだった。
だが、そのちょっとの間に、すっかり少年の顔を見てしまった滋は、思わずあっという叫び声が出そうになるのを、あわててのみこむと、いそいで本のかげへ顔をかくしてしまった。
滋はその少年を知っていたのである。
タンポポ.サーカス
立花滋の家は|東中野《ひがしなかの》の奥にあるのだが、その夏のはじめごろ、近所のあき地に大きなテント小屋がたった。
いったい、何ができるのだろうと思っていると、それがサーカスだった。しかも、少年少女タンポポ.サーカスという、かわいい名まえのサーカスだった。
子供は、だれでもサーカスがすきだが、滋も大すきだった。
そのサーカスというのが、少年少女タンポポ.サーカスという名のとおり、団員というのが、ほとんど、十二、三から十七、八歳までの少年少女ばかりなので、いっそう子どもたちに人気があった。
おとなといっては、力持ちの男と、いろいろおもしろい芸をして、見物を笑わせる小男のピエロのふたりだけ。
いやいや、そのほかに、いつも猛獣使いが持つような、長い皮のむちをふりまわしている、こわそうな団長がいたが、そのほかはぜんぶ少年少女なのである。
滋は、このサーカスがたいそう気にいったので、三度ほど見にいったことがあった。ほんとうはもっと見にいきたかったのだが、|小《こ》|遣《づか》いがたりなかったので、そうは見にいけなかったのである。
滋は、そのサーカスのなにもかもが気にいった。
力持ちの男が、大きな米俵を三つもいっしょに、手玉にとるのにも目をみはったし、ピエロがいろいろ、へんなことをして笑わせるのもおもしろかった。
また、じぶんと同じ年ごろの少女が、二頭の馬にかた足ずつのせて、広いテント小屋のなかを走りまわるのにも感心した。
しかし、なんといっても、滋がいちばん気にいったのは、ブランコ乗りの少年だった。
テント小屋の高い|天井《てんじょう》に、ぶらさがっている七つのブランコ、そのブランコからブランコへと、トンボがえりをうちながら、飛びうつっていく少年の芸当をみたときには、だれでも手に汗をにぎらずにはいられない。もし、ちょっとでも、見当がくるって、むこうのブランコにつかまりそこなったら……下には、|網《あみ》もなにもはってないのだから、それこそ、こっぱみじんと、からだがくだけるにちがいない。
しかし、その少年はけっしてやりそこなうことはなかった。まるで鳥かチョウのように七つのブランコを、つぎからつぎへとわたっていくその身のかるさ、あざやかさ。そして、少年が七つのブランコをわたってしまうと、いつも、手に汗にぎって見物していた人びとは、いっせいに、ほっと安心のため息をつき、それから思いだしたようにわれるような拍手かっさいをおくるのだった。
その少年こそは、タンポポ.サーカスの人気王、タンポポ.サーカスはこの少年によって、見物を集めているといっても、まちがいがないくらいだった。
いま、軽井沢へいく汽車のなかで、思いがけなくも乗りあわせた黒メガネにマスクの少年というのが、なんとそのサーカスの少年だったではないか。
滋は胸がドキドキした。そして、なんともいえぬおそろしさに、全身から冷汗が出てきた。
なぜだろう。サーカスの少年といっしょに乗りあわせたのが、なぜ、そのようにおそろしいのだろう。
それには、わけがあった。
ちょうどその日から数えて、三日まえのことだった。サーカスの人たちが、顔色をかえて、口ぐちになにかわめきながら、町を走りまわっているのを見て、滋はふしぎに思った。
そこで近所のおじさんにわけをきくと、
「なに、サーカスの子どもがひとり逃げたのだよ」
と、おしえてくれた。そして逃げたのは、ブランコ乗りの少年だとつけくわえた。それから、そのあとで、
「あのサーカスの団長というやつは、とてもひどいやつで、気にいらぬことがあると、|誰《だれ》かれのようしゃなく、あの長いむちでピシピシなぐるんだそうな。それがおそろしさに、逃げだしたんだろうが、かわいそうにつかまらなければよいが」
と、近所のおじさんは心配そうにため息をついた。
「どうして、おじさん、つかまるとどうかなるの」
と、そこで滋が聞くと、
「どうかなるのどころじゃない。つかまると、それこそ、死ぬか生きるかというほどのひどい|仕《し》|置《おき》にあわされるんだよ。つまり、ほかのものに対するみせしめだね」
と、おじさんはまた、心配そうにため息をついた。
滋はそのときついでに、その少年の名が|鏡三《きょうぞう》というのであることも、近所のおじさんからおそわった。
ああ、その鏡三少年なのである。いま、滋の目のまえに腰をおろしているのは……。
滋はおそろしさに、からだがふるえるようだった。
ああ、この少年が黒メガネやマスクをかけているのは、けっして目がわるいためでも、かぜをひいているせいでもないのだ。さいしょ滋があやしんだとおり、顔をかくすためなのである。
滋は、そっと汽車のなかを見まわした。ひょっとすると、タンポポ.サーカスの追手のものが、乗っていはしまいかと思ったからだ。しかし、さいわい、それらしい人のすがたは見あたらなかった。
滋は、ほっと胸をなでおろすと、こんどは連れの男は、何者だろうと考えた。
つかまれば、生きるか死ぬかというような、ひどい仕置をうけることは、鏡三もよく知っているにちがいない。それを知っていながら、鏡三は、じぶんだけの考えでにげだしたのだろうか。
いやいや、まだ十七や八の少年に、それほどの大胆さがあるとは思えない。と、すれば、この棒のようなステッキを持ったショウキひげ男が、そそのかして連れだしたのではあるまいか。
滋は本のかげから、そっとふたりのようすを見たが、そのとき気がついたのは、鏡三自身、ひどく、連れの男をおそれているらしいことであった。
それに気がつくと、滋はまたゾッとした。
もし、じぶんが、鏡三を知っているということを、この男が知ったらどうするだろう……そう考えると、滋はまた、なんともいえぬおそろしさで、背すじがつめたくなるような感じであった。
高原の怪屋
「へへえ、するとそのサーカスの少年と、ショウキひげの男も、この軽井沢におりたというんだね」
「そうなんです。それでね。ぼくきょうまで、町をあるくたびに、あの人たちに出あいはしないかと気をつけていたんですが、とうとういちども出あいませんでした」
それは|滋《しげる》が軽井沢へきてから六日めのことだった。滋はそのつぎの日、東京へかえる予定だったので、おわかれに自転車の遠乗りをしようということになって、|謙《けん》|三《ぞう》とふたりで軽井沢から三十キロほどはなれた山のなかへでかけた。
滋はこのサイクリングの途中で、はじめて謙三に、サーカスの少年のことをうちあけたのである。
「ぼく、このこと黙っていようかと思ったのです。しかし、どうしても気になるものだから……ぼくにはあのふたりが、軽井沢の近所にいるように思えてしかたがないのです。しかし、ぼくはあす、東京へかえらねばならんでしょう。それで、にいさんにお願いして、そういうふたり連れを見つけたら、気をつけてもらいたいと思うんです」
「ふふん」
謙三も目をまるくして、
「しかし、滋君。その少年が、サーカスからにげだした鏡三という少年にちがいないということは、だいじょうぶかい。もしや人ちがいでは……」
「いいえ、絶対に人ちがいではありません。それにだいいち、子どものくせに黒メガネをかけたり、マスクをしているのがおかしいじゃありませんか。あれはタンポポ.サーカスの、追手の目をくらますためですよ」
「そういえばそうだね。ところが、その鏡三少年は、ひどく、連れの男をおそれているようすだったというんだね」
「そうなんです。だから、ぼく心配なんです。ぼくにはあの男が、むりやりに鏡三君を連れだしたとしか思えません。そして、それにはなにか、深い秘密があるような気がしてならないのです」
「深い秘密だって?」
|謙《けん》|三《ぞう》は両手をうつと、
「滋君、きみはまるで、|探偵小説《たんていしょうせつ》か冒険小説のようなことをいうね。アッハッハ、おもしろい。よし、ひきうけた。おれがきっと、そのふたりをさがしだしてやる。ただし、そのふたりが軽井沢にいるならばだぜ」
謙三というのは秀才の大学生で、しかも柔道三段という豪のもの。
いったい人間というものは、だれでも、秘密だの、冒険だのということに、心をひかれるものだが、謙三もその例にもれず、滋の話にひどく興味をおぼえたらしく、山のなかの草っ原に自転車をとめてねころぶと、この事件について、それからそれへと空想のつばさをのばすのだった。
謙三と滋が、あの大夕立ちのまえぶれに、ぜんぜん気がつかなかったというのも、つまりそのとき、あまり話にむちゅうになっていたからなのである。
そして、ふたりがはじめて気がついたときには、空はもう、まっ黒な雲でおおわれているのであった。
「あっ、いけない。滋君、夕立ちだ」
そうさけぶと、はや、謙三は自転車にとびのっていた。滋もそれにつづいたことはいうまでもない。
だが、ふたりがものの一キロといかぬうちに、ザーッとしのつくような雨が落ちてきた。と、同時に、ものすごいいなずま[#「いなずま」に傍点]と雷鳴――。
「しまった。滋君、|超《ちょう》スピードだ」
ふたりは背なかを丸くして、山道を走っていく。そのうえから、ぼんをひっくりかえしたようにふりそそぐ雨、あたりはしだいに暗くなって、いなずまと|雷《かみなり》の音がものすごい。
ふたりはむちゅうになって山道を走っていたが、運の悪いときにはしかたがないもので、ものの四キロと来ないうちに、とつぜん、滋があっとさけんで自転車からとびおりた。
「滋君、ど、どうしたんだ」
謙三も、少し行ってから、自転車をとめてふりかえった。
「にいさん、すみません。自転車の空気が抜けてしまったんです」
「空気が抜けたア?」
さすがに、謙三も顔色をかえた。
夕立ちはいよいよはげしくなるばかり、しかも、そこから軽井沢までは、まだたっぷり二十五キロはあるのだ。とても、自転車をひいては步けない。
「しかたがない。そのうちに農家でもあったら、空気入れのポンプを持っていないかどうか、聞いてみよう」
「にいさん、すみません」
ふたりは自転車をおして步きだした。
しかし、もともと人家のない山をよって、サイクリングに来たのだから、おいそれと家など見つかろうはずがない。
ふたりはびしょぬれになってしまった。雨がズックリ|肌《はだ》へしみとおって、かぜをひきそうだった。
ふたりは寒さにガチガチ歯を鳴らしながら、それでも一生けんめい、四キロぐらい步いたが、そのころにはもう、とっぷりと日が暮れて、あたりはまっ暗になっていた。
ああ、もうこうなっては、たとえタイヤに空気がはいっても暗い夜道のこの雨のなか、とても山道は走れない。
しかも夕立ちはなかなかやむけしきもなく、雷鳴こそはやや遠ざかったものの、いなずまはまださかんにふたりの前後を照らしている。
滋はさすがに子どもで、心ぼそさが胸にあふれて、いまにも泣きだしそうになったが、そのときだった。さっと光る、いなずまと同時に、
「あっ、あそこに家が見える!」
謙三のさけび声――。
しかし、そのときにはもういなずまは消えて、あたりはうるしのようなやみだった。
「家が見えるんですって?」
「うん、いまにまた光るから見ていたまえ。右手のほうに見えるから」
謙三のことばのとおり、それからまもなく、またもや、さっと青白い、いなずまの光が地上をはっていったが、滋はその光のなかではっきり見たのである。
右手の小高い丘のうえに、洋館が一けんたっているのを……。
滋はそれを見たとき、虫が知らせるとでもいうのだろうか、なんともいえぬ気味悪さに、ゾクリとからだをふるわせたのだった。
無気味なおじ
「にいさん、なんだか気味の悪い家ですね」
「どうして?」
「だって……」
「ハッハッハ、滋君、それは神経だよ。いなずまの光でみるから、気味がわるいように思うのさ。なに、べつにかわったことがあるものか。いや、たとえ多少気味がわるいとしても、あそこへたのむよりほかにしかたがない。このままじゃ、ふたりともかぜをひいてしまう」
おりおり光る、いなずまをたよりに、ふたりは丘の道をのぼっていった。かみなりの音は、もうよほど遠くなっていたが、雨はまだ降りしきっている。ひょっとすると、夕立ちから、そのまま、|地《じ》|雨《あめ》になったのかもしれない。高原では、ふつうの雨でも平地より、ずっと、いきおいがはげしいのだ。
ふたりはまもなく洋館の前までたどりついたが、なるほどそばへよってみると、滋のいうとおり、気味のわるい建物だと、謙三も|眉《まゆ》をひそめた。
それは古めかしい|煉《れん》|瓦《が》|建《だ》ての洋館だったが、壁いちめんにはったつたの葉が、ザワザワと風にざわめいているのが、なんともいえず無気味である。しかし、いまはそんなことを気にしているばあいではない。さいわい門がひらいているので、ふたりは中へはいっていくと、玄関のベルをおした。
ジリジリジリ……広い建物のずっと奥でベルの音がするのが、あたりのしずけさを思わせて、なんともいえぬ気味わるさである。
やがてベルの音におうじて、奥のほうから、かるい足音がきこえてきたかと思うと、なかからドアがひらいた。
そして顔を出したのは、あきらかに召使いと思われる六十ぐらいの老人だったが、感心なことには、ちゃんと洋服を着ている。
「なにかご用かな?」
と、いう老人の問に対して、謙三が、てみじかにわけを話して、空気入れのポンプはないかとたずねると、
「ああ、空気入れならここにある。お入り」
なるほど、玄関へはいってみると、自転車が二台に空気入れがひとつおいてある。いったい軽井沢というところは、自転車のとてももてはやされるところだから、空気入れもたいていの家にあるのだ。
謙三は、そのポンプをかりて、タイヤに空気を入れにかかったが、まえにもいったとおり、自転車がなおったところで、この雨の夜、とても軽井沢まではかえれない。とはいえ、このとっつきのわるい老人に、これ以上のことをたのむのもどうかと、謙三もこまっていたが、そのときだった。おくのほうから老人をよぶ、わかい男の声がきこえた。
「ああ、若さまのお呼びです。ちょっと待ってください」
老人は、あたふたと奥へはいっていったが、しばらくすると、かえってきて、
「若さまにおふたりのことをお話したら、たとえ自転車がなおってもこの雨ではかえれまい。よかったら、とまっていかれたら……と、こうおっしゃるのですが……」
謙三と滋は思わず顔を見あわせた。渡りに船とはこのことである。そこでふたりが礼をのべると、どうぞこちらへと通されたのは、りっぱな広間で、老人が気をきかしたのか、ストーブにあかあかと火が燃えている。
「それにあたっていてください。いま、着がえを持ってきますから」
そういって、老人が出ていくのと、ほとんどいれちがいに、ドアの外から、
「|剣《けん》|太《た》|郎《ろう》のお客さんというのはこちらかい」
と、太い、さびのある声がきこえたかと思うと、ひとりの男がせかせかとはいってきたが、ひと目そのすがたを見たとたん、滋は思わずあっと、じぶんの口をおさえた。
おお、なんと、その男こそ汽車で出あった、棒のようなステッキを持ったショウキひげの男ではないか。
むろん、今夜は家のなかだから、ステッキは持っていない。
しかし、帽子をぬいだその頭が、まるでパーマネントでもかけたようにちぢれて、さかだっているのが、ライオンみたいにおそろしい感じなのだ。
しかも、汽車の中では気がつかなかったが、おそろしいガニまたである。
ちぢれっ毛の男は、うたぐりぶかい目つきで、じろじろふたりを見ていたが、すぐ、あやしいものではないと安心したのか、ツカツカとそばへよってくると、早口で、妙なことをいい出した。
「ああ、剣太郎のお客さまというのはきみたちだね。ええ、そう、剣太郎というのがこの家の主人で、わしは、そのおじになるのだが、きみたちにあらかじめ注意しておきたいことがある。剣太郎はちかごろ、神経衰弱の気味でな、少し気がへんになっとるんじゃ。だから、みょうなことをいうかもしれんが、気にかけぬようにしてくれたまえ」
「妙なことといいますと?」
謙三がたずねると、
「つまりじゃな。じぶんと同じ人間が、もうひとりこの家のなかにいるというんじゃな。いやいや、もうひとりのじぶんが、この家のどこかにかくれてるといってきかんのじゃ。そんなばかげたことがあるはずがないといっても、そこが病人でな、どうしても、じぶんがもうひとり、この家のなかに……」
だが、そのとき、ろうかのほうで足音がしたので、ちぢれっ毛の男は、ハタとばかりに口をつぐんだ。
そして、とってつけたような笑顔をつくると、
「――剣太郎やお客さまはこちらじゃよ」
と、みずから立って、ドアをひらいたが、そのとたん、滋はふたたびあっといきをのんだのである。
ああ、ドアの外に立っている少年、それこそまぎれもなくタンポポ.サーカスの人気王、鏡三少年ではないか。
だが、しかし……。
これはなんということだろう。ちぢれっ毛の男のことばによると、その少年の名は、剣太郎というらしいのだ。
それにしても、その剣太郎のいう、もうひとりのじぶんというのは、なんのことだろう。
滋はなんともいえぬ無気味さに、胸をドキドキさせたが、しかし、あとから思えばこの無気味さは、まだまだほんの序の口だった。
そのま夜中、滋がはからずもみた、人食い寝台の気味のわるさ、おそろしさ……。
ああ、じつに、この家こそは、化物屋敷だったのである。
足の悪い家庭教師
剣太郎は、部屋のなかへ入ってくると、いかにもなつかしそうに、
「夕立ちにあっておこまりだったでしょう。おや、たいへんだ、ずぶぬれになりましたね。じいや、じいや、早く着がえをもってきて……ああ、|津《つ》|川《がわ》先生がいらっしゃった」
剣太郎のことばに、ドアのほうをふりかえって滋は、そこでまた、思わずからだをふるわせた。
それもむりはない。ドアの外に立っているのは若いのに腰のまがった男なのである。二十七、八の色の白い、ちょっとみれば詩人か音楽家という感じの青年だが、気の毒なことにはからだが不自由なのだ。おまけに足も悪いとみえて、家のなかでステッキをついている。
その青年はろうかに立って、しばらく滋と謙三を見ていたが、やがて安心したように、
「剣太郎君、じいやさんにたのまれて、お客さまの着がえをもってきましたよ」
そういいながら、部屋のなかへ入ってくるところをみると、はたして足が悪いらしく、左のほうをひきずるようにしている。
「先生、ありがとう。それでは、あなたがた、さっそく着かえなさい。着がえがすんだら食事にしましょう。ぼくたちも、ちょうどこれから、食べようと思っていたところです」
足の悪い青年のもってきてくれたのは、パジャマに、そのうえへ着る部屋着のガウンだった。滋と謙三が、礼をいって、手ばやくそれに着かえてしまうと、剣太郎がニコニコしながら、
「それで少しはさっぱりしたでしょう。さア、それでは食堂へまいりますが、そのまえに、おたがいに名のりあおうではありませんか」
そういって少年は、自分は|鬼《おに》|丸《まる》剣太郎といって、この家の主人であるといった。
「それから、そこにいるのがぼくのおじさんで、鬼丸博士です。
有名な科学者ですから、名まえはごぞんじかもしれませんね。それから、こっちにいらっしゃるのは、ぼくの家庭教師の津川先生です。からだが不自由ですけれど、たいへん、しんせつな方です」
それは十六、七の子どもとは思えないほど、てきぱきとした口のききかただった。謙三もあわてて、そのあとから名のった。
「いや、これは失礼いたしました。ぼくは|立《たち》|花《ばな》謙三といって、軽井沢へ避暑にきているものです。こちらは、いとこで同姓滋」
「ああ、そうですか。それでは立花さん、食堂へまいりましょう」
食堂には、りっぱなごちそうが用意してあった。
しかし、滋はそのごちそうも、ろくろくのどをとおらなかった。見れば見るほど剣太郎が、サーカスの少年に生き写しだったからなのだ。
やわらかそうな髪の毛を、左でわけて、ふっさりと、ひたいにたらしているところから、細くて、しなやかで、それでいて、いかにもすばしっこそうなからだつきまで、鏡三少年にそっくりなのである。
滋はなんだかこわくて、気味がわるくて、まともに顔をあげられなかったが、剣太郎のほうでは、少しもそんなことには気がつかない。
「立花さん、今夜はほんとによく寄ってくださいましたね。ぼく、このあいだから、さびしくてさびしくて、しようがなかったんです。お友だちがほしくてしようがなかったんです。おじさんは、むやみに友だちをつくっちゃいけないといいますけれど、ぼく、まだ子どもでしょう。やっぱりお友だちがほしいんです」
「剣太郎や」
そのとき横から、たしなめるように声をかけたのは鬼丸博士だった。
「おまえにはりっぱなお友だちがあるじゃないか。津川先生という……」
それをきくと剣太郎は、さっと、ほおをあからめた。
そしてしばらくうつむいたまま、ナイフとフォークをいじくっていたが、やがて顔をあげると、
「ええ、それはそうです。津川先生はりっぱな方です。なんでもおできになります。立花さん、津川先生はああいうおからだですけれど、とてもお強いんですよ。それに弓だってピストルだって、百発百中の名人なんです。でも……お友だちとしては年がちがいすぎるんですもの。ぼくはやっぱり……」
と、やさしい目で滋を見ながら、
「この人くらいのお友だちがほしいんです」
その声がいかにもさみしそうだったので、滋はなんとなく気のどくになった。それとともに、いままで気味わるく思っていたこの少年が、それほどでもなくなってきた。
少年は、さみしそうに笑いながら、
「ぼくはきっと、さびしがりやなんですね。ときどき、さびしくて、さびしくて、気がちがいそうになることがあります。おじさんや津川先生は、それを、病気だといいます。それはそうかもしれません。でも、あのことだけはそうじゃないのです。けっして病気のために見た夢でもまぼろしでもないのです。ぼくはほんとうに見たんです。この目で見たんです。この家のなかにもうひとり、ぼくと同じ人間がいるのを……」
鬼丸博士は、だしぬけにせきをすると、滋や謙三にむかって、パチパチと目くばせをした。
――そうら、いわんこっちゃないでしょう。頭がへんになってるんだから相手にならないように、という意味なのだろう。
もう一人のぼく
謙三は、うなずいて、気の毒そうな顔をしていたが、なに思ったのか滋はテーブルの上からのりだして、
「それはどういうわけですか。じぶんと同じ人間がいるなんて、気味のわるい話ですね」
そうたずねると、剣太郎はいかにもうれしそうに、
「ああ、きみ、よくたずねてくれましたね。ぼくがこの話をすると、ほかの人はみんな、いやな顔をするんですよ。おじさんだって、津川先生だって、じいやだって。……きみだけです。そう熱心にたずねてくれるのは。
……でも、これはうそじゃないのです。この家のなかに、もうひとり、ぼくと同じ人間がいるんです。もうひとりのぼくがいるんです」
「いつ、その人を見たんですか」
「いつ……? そうですね」
剣太郎は指おりかぞえていたが、
「そうそう、あれは二十三日の晚でした。夜中にふと目をさますと、だれかが上から、ぼくの顔をのぞいているのです。それがぼくでした。ぼくはその晚、窓のカーテンをしめわすれてねていたので、月の光ではっきり顔が見えたのです」
滋は思わずはっと息をのみこんだ。
二十三日といえば、滋が軽井沢へきた日ではないか。しかも、その汽車のなかで滋は剣太郎に似た少年が、鬼丸博士といっしょに乗っているのを見たのである。そのことと剣太郎の話とのあいだに、なにか関係があるのではないだろうか。
「それは気味のわるい話ですね。そして、そののちも、その人を見たことがあるのですか」
「ありますとも、二度も三度も……一度は、ぼくがふろへはいっていると、窓の外からのぞきました。そのつぎは、居間で本をよんでいると、ドアの外を通ったのです。三度めは、動物室で、ぼくがカピの|剥《はく》|製《せい》を見ていると……」
滋は、びっくりして相手の顔を見なおした。
「動物室ってなんですか。カピの剥製ってなんのことですか」
そうたずねると、剣太郎は顔をあかくして、
「そうそう、きみはなにも知らないのでしたね。動物室というのは動物の標本をならべてあるところです。あとで見せてあげましょう。それはすばらしいんですよ。カピというのは、ぼくがかわいがっていた犬ですが、今月の十五日に、きゅうに血をはいて死んだのです。それで、おじさんにお願いして、東京へもっていって、剥製にしてもらったんです。かわいそうなカピ!」
滋は謙三と顔を見あわせた。なんだかへんな話である。やっぱりこのひとは病気なのではないだろうか……。
剣太郎もそういう顔色に気がついたのか、
「ああ、きみも、うたがっているんですね。きっとぼくを気ちがいだと思ってるんでしょう」
「いえ、そ、そんなことはありません。でも、だれかいると思ったら、どうしてさがしてみないのですか。さがしてみたら、いるかいないか、はっきりわかるでしょう」
「もちろん、さがしてみましたよ。おじさんや津川先生、じいやにも手つだってもらって……でも、どうしても見つからないんです」
「それじゃ、やっぱり……」
「病気のせいだというんですか。いいえ、そうじゃないんです。そうじゃないんです」
剣太郎は、やっきとなって、
「ぼくは知っているんです。ぼくと同じ人間、いや、もうひとりのぼくがこの世にいるということを……子どものじぶんから知ってるんです。子どものじぶん、ぼくはいつもそいつと遊んでいたんです。そいつはぼくとそっくりでした。どっちがどっちかわからないくらいでした。そいつの顔を見ていると、そいつがぼくだか、ぼくがそいつだかわからなくなるくらいでした。ぼくたちはとても、なかがよかったんです。