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作者:日-木原音瀬 当前章节:15403 字 更新时间:2026-6-22 21:16

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[木原音瀬] 片思い

 人は予想しない出来事に遭遇すると頭の中が真っ白になるということを、吉本智は身を持って体験した、三笠高志の結婚話を最初に聞いた時、まるで時計が止まるように思考が一時停止したからだ。

 カレンダーだけ見ればすぐそこに春の数字が迫ってきているのに、毎朝氷点下を記録する低空飛行の気温が、暖かい季節の気配を寄せつけない二月のなかば。吉本は馴染みの居酒屋で、高校時代からの気の置けない仲間二人と酒を飲んでいた。

 吉本とその隣の門脇は大学生だが、座卓を挟んで向かいに座る三笠は社会人だった。高校三年に進級して間もない頃の面談で、勉強が嫌いだった三笠は、担任の『大学に進学しようと思ったら、家で一日最低でも5時間は勉強しなくちゃ駄目だろうな』の言葉に、あっさり進学を諦め、地元の建設会社に就職した。

 働いている者と学生。環境が変われば、同じように歳を重ねているつもりでも少しずつ考え方が異なってきて疎遠になるのが常だが、三笠とは卒業して三年経った今も一ヶ月に二、三度と頻繁に会っている。

 今日集まった口実がなんだったのかは、もう忘れた。忘れたけれど、きっと思い出すのも馬鹿馬鹿しくなるようなくだらない理由だろう。三笠が得意先の会社に大きな仕事を回してもらったとか、切手収集マニアの門脇が珍品を手に入れたとか…結局理由はどうでもよくて、みんなただ集まって飲みたいだけなのだ。

 今年は雪ばかり降ってうんざりだという話題から話は始まり、雪が降るたびに工期が遅れて散々だと三笠がぶつぶつとぼやいていた。それからどう話が逸れたのか、ゼミの教授が毎回大量のレポートを提出させると、門脇が珍しく文句を言い出した。ゼミのなんたるかもわかっていないであろう三笠が、もっともらしくフンフンと相槌を打つ様を、吉本は白けた気持ちで眺めていた。

「三好ゼミは、大変だって噂だからな」

 同情の色を見せながらも、吉本は門脇がわざわざ面倒臭いゼミを選んで入ったことも、文句を言いつつ教授に気に入られていることも知っていた。が、その部分についてはあえてなんのコメントもいれなかった。

 門脇のゼミの話よりも、吉本は三笠の喉元に興味をそそられていた。男なら誰にでもある喉の軟骨。隆起した喉仏が三笠が喋るごとにゆるゆると動く。それだけなのに、すごくいやらしく感じる。指で触れてみたい。いや、それだけじゃなく舌先で感触を確かめたい。

 そんな場面を想像するだけで体が熱くなり、妄想を打ち消すように熱燗に手を出した。酒は冷酒に限る、そう思っている吉本も、粉雪がちらつくこの季節には熱燗がうまいと思ってしまう。

 門脇は三笠相手に一通りの文句を吐き出し、賑やかだった座卓の上にちょっとした沈黙が落ちた。最初来た時からどこかそわそわと落ち着きのなかった三笠が、はにかむようにうつむけていた顔を、すっと上げた。

「俺、結婚するから」

「はあっ?」

 吉本の返事は、ひどく間の抜けたものだった。それは三笠という男と結婚という言葉が、うまくドッキングしなかったからだ。

「誰と」

 思わずそう聞き返した。

「誰って…女の人だよ」

 少し得意げな顔の三笠と対照的に、吉本はぽかんと口を開けたまま、続く言葉もなかった。沈黙に、三笠は高校時代にバスケットで鍛えた頑丈な体と不必要に高い背を小さく丸めて、上目遣いに吉本を見た。昔から変わらない角刈りの髪をやたらにかき回す。

「なんだよ、喜んでくれないのか」

「当たり前だっ。おまえは何考えてんだ」

言い切った吉本に三笠は唇を尖らせて、助けを求めるように門脇へと振り向いた。驚いていたのは最初だけ、すぐさま冷静な顔を取り戻した門脇は

『いや、まあ…よかったはないか』とあっさり呟いた。

 吉本は力任せにテーブルを叩き、その音に驚いたように三笠は背を正した。

「俺たちが素直に 『おめでとう』と言うとでも思ってるのか。このクソ馬鹿ッ、冗談じゃない」

 三笠は唇を噛んで、拗ねた子供のような顔をしている。でも言い返してこない。黙り込んだ三笠を鼻先でフンッと笑い、吉本は残った酒を飲み干すと、空になった猪口で、テーブルをコンコンと叩いた。昔からいつも肝心なところが間の抜けている大男が、自分に頭が上がらないのを吉本はよく知っていた。

「今まで色恋沙汰で散々俺たちの手を煩わしておいて、今頃になって女と結婚するなんて言われても納得できないんだよ」

 吉本の言葉に、三笠は座卓から身体を引くようにしてボソボソと呟いた。

「彼女なら大丈夫だと思うんだ。俺、本気で彼女のこと好きになったんだよ。だから!」

 カチンとくる。三笠の言う

『本気で好きになった』の言葉は、もう数え切れないほど聞いた。三笠は恋をするたびに口癖のようにそう言っていたからだ。いつもなら聞き流せるのに、今回に限って吉本の鼓膜に引っかかる。理由はわかっている。相手が

『女』だからだ。

「おまえが女に本気だなんて世も末だな。それだけお溜まりあそばしてるとは思わなかったよ。明日は地震が津波が来るんじゃないか」

「吉本ッ」

 溢れる嫌味を門脇に窘められて、吉本は弾を抱えた機関銃をふさぐために手酌で猪口に酒を注いだ。けれど半分も満たないうちに銚子は空。舌打ちして飲み干したあと、吉本は続けざまに生ぬるいビールを呷った。気まずい沈黙が座卓の上に落ちる。門脇は軽くため息をつくと肩をすくめ、三笠に向かって諦めたように笑った。

「お前が納得して幸せになろうと思ってるのなら、俺は何も言わないよ。お前は恋愛じゃ全然報われなかったから、見てる俺たちは可哀相だと思ってたんだ。二十一で、少し早すぎるかなって気はするけど…」

 恋愛関係に報われなかった男は、照れくさそうに、嬉しそうにニッと笑った。

「そう言ってもらえてホッとしたよ。結婚となると俺も考えたんだけどさ、なんて言うかその…男を好きになるのは変わらないかもしれないけど、今は何より彼女のことを幸せにしてやりたいって思うんだ」

 聞いているだけで、背筋に鳥肌が立つ。どんな顔でそんな白々しいことを言っているのかと思えば、最悪三笠の目は真剣だった。

「現実逃避だな」

 吐き捨てると、吉本はこちらを見ている三笠の鼻先に、人差し指を突きつけた。

「そう簡単にお前の性癖が直るもんか。お前のソレは生まれつき、性質の悪いビョーキだよ。女と結婚したってすぐに男に目が行くに決まってるんだ。それですぐさま離婚なんてことになったらお笑い種…」

 何も言わない門脇の、睨みつける視線に押されて吉本は口を閉じた。三笠は悲しげに顔をうつむける。

「まだ親にも話してない。親友だから…お前たちに最初に話をしたんだ」

「だから何。 『話してくれてありがとうございました』って感謝しろとでも言うのかよ」

 小馬鹿にした態度で肩をすくめた。傷つける、攻撃する言葉なんていくらでも唇からあふれてくる。

「吉本、いい加減にしないか。ふざけるにもほどがあるぞ」

 門脇に右腕を掴まれる。自分たちの周囲に漂う重苦しい雰囲気を吉本は鼻先で笑った。

「お前が本当にその女と結婚できたら、祝儀袋に百万包んでやるよ」

 どこまでも不真面目な吉本の態度に、三笠ではなく門脇のほうが怒って気難しい顔でむっつりと黙りこんだ。

「門脇、お前全然飲んでないじゃないか。もっと飲めよ。余ってももったいないからさ。吉本も…そうだ、日本酒のほうを追加してやろうか」

 三笠が手の振りをつけて、大きな声で話しかけてくる。もともとの騒ぎの原因が、気まずい場の空気をなんとかしようと一人焦っている姿は吉本の目に滑稽に映った。

 黙りこんだ門脇の肩を、三笠がポンと叩いた。

「俺は気にしてないんだから、お前が怒ることないよ。吉本にしてみたら、俺に散々迷惑かけられて今さら結婚って言われても納得できないのも無理ないだろうしさ。それに吉本がふざけて俺をからかうなんていつものことだし、真面目に取って怒るだけ馬鹿らしいよ」

 いかにも自分を知っているという口ぶりが鼻につく。お前は何も知らないくせに。俺のことなんて何一つ知らないくせに。話を聞いていると苛立ちが増す一方で、とうとう吉本は無言のままダッフルコートをつかんで立ち上がった。

「もう帰るのか」

 靴を履く吉本の背中に、追いすがるように三笠の声がかぶさる。吉本は振り返り、五千円札をバンッとテーブルの上に叩きつけた。

「じゃあな」

「吉本、あのさ…」

 三笠が何かを言いかけたのには気づいていたが、無視して店を出た。表は風が強くて、寒さに首筋がすくみ上がる。吉本はコートの前をしっかりと合わせ、両手をポケットに突っ込み、雪解け水に濡れた黒\光りする歩道を足早に歩いた。

 いつもならほろ酔い加減の量の酒なのに、ちっとも酔えなかった。そればかりか三笠の 『結婚宣言』のせいで飲み会は台無し。気分は最悪だった。

 雪の気配を残す外気の冷たさが、中途半端に酔いが抜けた体に染み込んでくる。コートの中に突っ込んでも少しも温かくならない指先を口許にあてて息を吹きかけると、白く凍る吐息は一瞬で散らばって消えた。

 大学の近くにある古い商店街。ステンドグラスを模した趣味の悪い街灯が、シャッターの閉まった足音だけが、ヒビが入りところどころ欠けた歩道の上に響いていた。

「冗談じゃない」

 薄暗い道をまっすぐ地下鉄の駅に向かって歩きながら、気がつくと吉本は一人ぶつぶつと呟いていた。三笠が結婚する。よりにもよって

『女』と。歩道に転がる空き缶を力任せに蹴飛ばした。それは駐車していた車のバンパーに当たり、カンと乾いた音をたてた。

 地下鉄の階段の前に立ち話をしている高校生の隣をすり抜けて、改札へと下りる。ホームへ続く階段の途中で発車のベルが鳴りはじめ、どうしようかと迷ったけれど走らなかった。目の前で電車は遠くなり、次が来るまでにはもう少し時間がかかる。吉本はため息をついて円筒形の支柱にもたれた。

 階段にいた高校生のホームに下りてくる。最初は気づかなかったが、よくよく見ると黒\い学生服、襟の水色の縁取りはまぎれもなく母校の制服だった。卒業して三年も経つのに、制服を着ていたのが昨日のことのように思えるのが不思議だった。

 三笠と門脇との付き合いも五年になる。高校二年生の時に同じクラスになり、それ以来だ。最初、席が近かったことで吉本は門脇と親しくなった。そして門脇の幼なじみで仲のよかった三笠とも、自然に話をするようになっていた。

 門脇はおとなしい男だった。目立つことが嫌いで、クラスの中心に立つことはなかった。頭はいいがそれをひけらかさず、いつも一歩引いてクールに周りを見ていた。優しげな顔に似合わず言うことは時に辛辣で厳しい。だけど何かあってもこいつなら助けてくれる、そんな懐の深さと安心感を人に与える男だった。

 三笠は門脇と正反対のタイプだった。騒ぐことで大好きで、学校行事の類は率先して参加していた。よくぞ高校に進学できたと感心するツルツルの脳味噌、知能指数に反比例する運\動神経は、仮に人の才能を百とするとその九十九までが回されたんじゃないかと思うほど無意味に発達していた。明るい、というより何も考えていない性格は単純明快。まるで一桁の足し算ぐらい容易。運\動能力に回りすぎた神経は気づかいや情緒といった部分が鈍感で、いつも吉本を苛々とさせた。

 門脇は大切な友達だけど、三笠のほうは門脇と一緒にいるから仕方なく付き合っているのであって、どちらかといえば蔑ずんでいた。鬱陶しいけど門脇と仲がいいから…そう思って我慢していた。

 三笠のカミングアウトは突然だった。今日の

『結婚する』の告白と同じように。あれは高校三年の時だった。九月の初め、秋空は透明な青色で雲一つなく、潔いほど高く澄みきっていた。昼休みに三人でぶらっと屋上に出て、そこで吉本と門脇は四時間目にあった小テストの答え合わせをした。二人が熱心に話をする中、三笠は一人でぼんやりと空を見上げていた。

 寂しげな三笠に気づいてはいたけれど、吉本は無視した。どの教科にもまして数学が苦手な男に、さっきの難解な問題が解けるはずもない。話に参加できないなら、わからなくても黙って話を聞いているか。最初から聞かないようにするしかない。三笠が選んだのは後者だった。

「あのさ…」

 会話の途切れた隙に三笠が遠慮がちに話しかけてくる。無言の苛め、というほどでもないがそろそろ仲間に入れてやらないと可哀相か、と優越感に浸りながら吉本は機嫌よく振り返った。

「なんだ」

 自分から話しかけてきたくせに、三笠はなかなか喋り出そうとしなかった。迷うように顔をうつむけ、何度も舌先で唇を舐める。けれど両手をクッと握りしめたあと、決心したように顔を上げた。

「前々から気づいてたんだ。どうしようかと迷ったんだけど…お前らは友達だし、隠してるの嫌だから言うよ。俺ってなんか男が好きみたいなんだよな。ホモってやつ…」

 吉本は心臓が冷水を浴びせかけられてキュッと縮んだような気がした。なんと言えばいいのかわからなかった。おそるおそる隣を振り向くと、門脇もぽかんと口を開けたまま目を丸くしている。友人たちの驚きをよそに、三笠は淡々とした調子で続けた。

「中学の時から気になるのは男ばっかりで、おかしいと思ってたんだ。隠しとくつもりもなかったんだけど、確信できなくてさ…」

「あっ…ああ……」

 ふだん滅多なことでは動じない門脇でさえ、ふらふらと視線を泳がせている。隠しきれない動揺が、全身から滲み出す。

「俺さ、好きな奴がいるんだ。だけど男相手だとなかなか好きって言えなくてさ…苦しいんだよ。お前らなら相談に乗\ってくれるかなと思ってさ」

 沈黙は長かった。吉本は動揺する自分の心をなだめるのに必死で、三笠の言葉に返事をすることができなかった。状況を理解して、先に体勢を立て直したのは門脇だった。

「恋愛は個人の自由だからな。俺にはそういう経験がないから…上手くアドバイスできるかどうかわからないが、話を聞くぐらいならできると思う」

 ずっと緊張した面持ちだった三笠が、ホッとした顔で笑った。

「正直言うとさ、気持ち悪がられたりするんじゃないかって心配だったんだ。そう言ってもらって俺、安心した」

 耳許で交わされる会話。吉本は大きく深呼吸した。胸に手をあててみる。三笠の告白を最初に聞いた時のように動揺はしていない。もう大丈夫、俺は落ち着いている。吉本は胸に置いていた手をこめかみにあて、長めの横髪を背後にかき上げた。

 門脇が、コンクリートの剥げたかけらを軽く蹴飛ばした。

「…お前の好きな男って誰だ。俺たちの知ってる奴か」

 聞いているのは門脇なのに、三笠の視線がチラチラと自分に向けられてくるのはどうしてだろうと吉本は思った。

「野球部の…湯口だよ」

 小さな声で告白する。一瞬で吉本の頭は真っ白になり、表情は凍りついた。瞬きも忘れて三笠を凝視する。反応のない吉本に声が聞こえなかったと勘違いしたのか、よりにもよって三笠はもう一度、湯口の名前を繰り返した。吉本は何かを頭で考える前に、三笠に罵詈雑言を浴びせかけていた。

「お前はまともじゃねえよ。変態だよ、変態。気持ち悪いんだよっ」

 三笠は目を大きく見開き、今にも泣き出してしまいそうなほど表情を崩した。赤い顔で唇を噛みしめ、それでも吉本に言い返してきた。

「でも好きなものは好きなんだよ。仕方ないじゃないかっ」

 口よりも先に手が出た。吉本は三笠の胸ぐらをつかむと、無我夢中でその頬を殴った。自分より身長の高い三笠が、ひび割れたコンクリートの上に腰からドッと倒れ込む。始めて人を殴ってしまったショックと、拳の痛みで右手はブルブルと大きく震えた。屋上にいるほかの生徒が、騒ぎに気づいてじっとこちらの様子をうかがっている。仰向けに倒れていた三笠が、左頬を押さえながらゆっくりと上体を起こした。惚けたような目と視線が合った瞬間、吉本は数歩後ずさり一目散に屋上から逃げ出していた。

 階段を駆け下りて慌ただしく教室に飛び込み、窓際にある自分の椅子に座ると机の上に突っ伏した。硝子越しの日差しが剥き出しの首筋を焼いて痛かった。だけどカーテンを引こうとか、日陰に場所を変えようとは思わなかった。真夏を思わせるようなうるさいセミの声と、教室の喧騒。いつもは気にならない煩わしいものが、自分の中の怒りを無性に煽りたてた。

 三笠など死んでしまえばいいと思った。あんな頭の悪い男が一人ぐらいいなくなったからといって、誰も困らない。『好きな人は?』と聞かれて

『湯口だよ』と照れくさそうに返事をした時の三笠の顔…思い出しただけで虫唾が走る。

 告白できない、苦しい、悩んだと言いながら三笠は平然とした顔で 『湯口を好きだ』と言った。その能天気さが許せなかった。

 三笠がホモだろうがノーマルだろうがどうでもいい。一つだけ、どうしても我慢ならなかったのは、三笠が吉本と同じように男を好きな人種ということでも、それを平然と言ってのけたということでもなく、吉本と同じ湯口を好きになったという事実だった。

 高校に入学して間もない頃、吉本は同じクラスの湯口に恋をした。野球部だった湯口は、整ってはいないけど男らしい顔だちをしていた、口下手で、真面目で、何より野球が大好きで、少しでも上手くなろうと人一倍努力していた。最初は不器用な体育会系のクラスメイトが少し気にかかる程度。興味があったから自分から積極的に話しかけて、仲よくなった。

 友達付き合いが長く、深くなっていくにつれ野球しか見えてない湯口に吉本は夢中になった。野球以上になれなくても、周りの友達の中では一番近い場所にいたい。だから一生懸命、いい友達のふりをした。努力のかいがあって湯口も吉本を信頼してくれた。二年になってクラスが離れても、自分を慕ってクラスに遊びに来て、相談ごとを持ちかけてくるようになるまで。

 友達の中の一番でいいと思っていた。湯口が女の子に恋心を寄せる普通の男だということはわかっていたから、思いを打ち明ける気なんてなかった。告白したらすべてが壊れる。友達ですらいられなくなるかもしれない。湯口に嫌われこそすれ、軽蔑されるのは耐えられなかった。

 湯口が好きだと、本人はおろか誰にも言えない。胸の中で大事に大事に育てて殺していくしかない恋心。仕方がないと諦めていた。納得していた。それなのに三笠はあとになってしゃしゃり出てきて、吉本が死んでも言えないと思っていた言葉を、いとも簡単に言ってのけた。

 自分の中の秘密の宝物を、三笠の手でぐちゃぐちゃに汚された、そんな気がした。

 昼休みの終わる少し前に、三笠と門脇はそろって教室に戻ってきた。三笠は教室に入るとまっすぐに吉本の席までやってきた。三笠が近づいてくるのが見えたけれど、吉本はわざと窓際に顔を向けた。

「さっきは、ごめん」

 吉本はゆっくりと振り返り、左頬が赤くなった男の顔を下から睨みつけた。

「門脇に言われて俺も反省した。吉本は湯口の親友だもんな。その親友を俺が変な目で見てるって知ったら、そりゃあ怒るよな」

 うつむきながらの視線がチラチラと自分の様子をうかがっている。いつまでもあからさまに怒っているのも、少し離れた場所で心配そうにこちらを見ている門脇の手前、大人げない気がした。膝に置いた指をグッと握りしめる。怒りでふつふつ煮えたぎっている感情を、吉本は理性で抑えつけた。

「俺もいきなりで驚いたんだ。殴ったりして悪かったな。大丈夫だったか」

 吉本が柔らかい態度を見せたとたん、安心したのか三笠はふうっと息をついて、はにかむように笑った。

「平気、平気。俺ってほら、頑丈だから。はは…。吉本さあ、安心していいよ。俺も湯口に告白する時はちゃんとそれなりの手順を踏んで、絶対無理強いしたりしないからさ」

 指先はブルブル震える。こいつは湯口を諦めるどころかまだ迫る気でいる。もう駄目だった。人前だと思っても止まらなかった。吉本は教室で派手に三笠を殴り飛ばしていた。

 あれだけ吉本に怒られたにもかかわらず、三笠の湯口への恋心は冷めることがなかった。冷めるどころか、大暴走した三笠は湯口に告白したのだ。しかも時と場所を選ばなかった告白は一日で全校生徒の知るところとなった。

 恋人になるのは女の子だと疑ってもみない健全な男子高校生の湯口は、もちろん、男からの告白を嬉しがったりしなかった。三笠は気味悪がって、吉本に相談してきた。

「三笠ってなんか気持ち悪いよ。俺もうあいつと話したくない。お前は三笠と仲いいからこんなこと言ったら気を悪くするかもしれないけど…」

 自分にこんな役を押しつけた三笠を、吉本は呪っても呪いきれなかった。

「三笠はちょっと変わってるけど根はそんなに悪い奴じゃないから、湯口が嫌だって言えばそれ以上迫ってこないよ。大丈夫。あまり気にするな」

 友達を歩く言う薄情な奴だと思われたくないために、かばいたくもない三笠をかばいつつ、真剣な顔で湯口にアドバイスする。そんな自分に嫌気が差しながら、親友の演技をする。

 男からの告白を心底嫌がっている湯口に、吉本は告白の『現実と結果』を見せつけられたような気がした。うんうんと話を聞きながら内心、泣きたかった。それと同時に自分の気持ちを知られなくてよかったと思った。言わば三笠は、吉本の告白をシュミレーションしたことになるのだ。

 吉本も湯口に告白する場面を想像しなかったわけじゃない。けれど頭の中は都合よくできているから、想像の中で告白した吉本が湯口に振られることはなかった。湯口は突然の告白に驚きながらも

『俺も、前から…』そう言って抱きしめて、キスをしてくれた。どれも甘ちょろい夢。現実じゃない。

 湯口はきっぱりと三笠を振った。潔癖な湯口は二度と三笠と口をきかなかった。自分は絶対にああはなりたくない。吉本は強くそう思った。

 湯口に振られてから、目に見えて落ち込んでいた三笠だったが、周りが驚くほどの早さで立ち直った。立ち直った理由は新しい恋をしたから。望みはないとわかっていても、吉本がいまだぐずぐずと湯口を諦めきれないでいる間に三笠は前の恋を捨てて、次の恋に全力投球を始めていた。それもまた男。三笠の変わり身の早さにはさすがに門脇も呆れて、だけど『好きになったものは仕方ないよな』そう言って苦笑いしていた。

 湯口の件で親友に自分のセクシャリティを告白して、周りにも『ホモ』だと浸透したことで何かが吹っ切れたのか、三笠は自分が好きになった人間に対する好意を隠そうとしなくなった。そんな下心見え見えの三笠の言動が、そばにいる吉本は恥ずかしかった。三笠は好きになった相手には牛のように突進し、なりふりかまわず告白する。周りから見ても駄目なのがわかるのに、好かれようと必死になる。そしてこっぴどく振られては落ち込んで、吉本で門脇に泣きついてきた。そんな三笠の姿を目の当たりにするたびに、ざまあみろと思う反面、惨めな自分の姿がだぶって切なくなった。

 門脇は三笠に相談を持ちかけられても、黙って話を聞いてやることがほとんどだが、吉本は違った。三笠が振られたと泣いていても、かまわずに怒鳴りつけた。

「最初からあいつは駄目だって俺が言ってやったのに、人の忠告を聞かないからそうなるんだぞ。これに懲りて次はまともな恋愛をするんだな」

 まとも、とは女の子とのお付き合いを指してのこと。三笠が女を好きになれないだろうということは、自分もそうだからわかっているのに、三笠相手だと吉本はどこまでも無責任になれた。まともになれ、まともになれと言い続けて、気がつけば四年も経っていた。三笠は一度も恋が叶うことなく、そして吉本は好きになった相手に一度も思いを伝えることがないまま月日が過ぎていた。

……電車がようやくホームに入ってくる。地の底を引きずるような音に、吉本はふっと我に返った。終電に近いためか電車の中はさほど混んでおらず、吉本はドアから離れた場所にある座席に腰を下ろした。

ほどなく電車はアパートの近くにある地下鉄の駅に着く。自動改札を抜け、肩を丸めるようにして暗い街灯の公園を突っ切る。こんなに寒いのに、ベンチには寄り添うような人影がまばらに見えた。

金物屋の角にある自動販売機の前で立ち止まって煙草を買い、アパートまで三十メートルほどの距離を吸いながら歩いた。苛々としたせっかちな足取りは、いつもより早く吉本をアパートへと到着させる。部屋の中に入るなり、吉本は服を脱ぎ捨ててソファーの背に放り投げた。外気とあまり変わりがない室内の温度。酒で多少温まっているとはいえ、温かい衣服を脱ぎ取られた皮膚には一瞬にして鳥肌が立った。

裸のまま居間を横断してバスルームに入り、小さな鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。顔の形は悪くない。精悍さには多少欠けるものの、すっとした顎のラインはきれいだし、鼻も高くて形もいい。切れ長の目と薄い唇も気に入っている。雑誌を見ていても、このモデルなら俺のほうが上だ、と思う瞬間がよくある。自己評価は決して過剰なものではなく、現に何度もモデルをしてみないかと誘われたことがあった。近寄ってくる女もあとを絶たない。

 バスタブに湯を張り、念入りに顔と体を洗う。標準よりも長いすらりとした形のいい両足。ジーンズは輸入品しかサイズが合わないというのが、吉本の密かな自慢でもあった。きれいな体をバスタブに沈め、徐々に上がっていく体温を心地よく感じながら目を閉じる。けれどじっとしていると考えたたくもないヤツの顔が頭に浮んできて、ムカムカして利かん気の子供のように吉本は湯を叩いた。

「女と結婚なんて、そんなの絶対に上手くいきっこない。それに、見つけようと思ったって見つけられないような上等な男がそばにいるのに、あいつはドコに目をつけてるんだっ」

 バシャバシャと音をたてて湯で顔を洗った。なぜか急に言いようのない不安にかられ、慌てて湯からあがると、バスルームの中にある、湯気で曇ったガラスを手のひらで拭った。自分の顔を映す。湯上がりでも充分にいい顔、そのことにホッとする。ふと、自分のしていることが馬鹿らしく思えて、冷たいタイルに額を押し当ててため息をついた。

 就職してからも三笠は相変わらすで、コンビニの店員や工事のアルバイトに来ていた学生と、道端の小石をせっせと拾うような恋をしては、ものの見事に振られていた。そんな三笠が仲よくしている女がいると聞いたのは三か月ほど前、門脇の口からだった。

 十一月も終わり、大学の学食の陽のあたる窓際の席に座って、今年も年末に三人でどこかに行こうかと話をしていた時に、門脇が今回は三笠が駄目かもなあ…と何げなく呟いた、仕事でも忙しいのかと聞くと、門脇は嬉しそうに、そして意味深に笑った。

「この前、三笠が女の子と街を歩いてるのを見かけたんだ。いい雰囲気だったからデートかってひやかしてやったら、三笠は否定するんだけど女の子のほうはニコニコ笑ってたんだよ。あとから聞いたら一緒にいたのは同じ職場の事務の子で、迷惑かけたことがあったから、お詫びに夕食をおごってたんだって言ってた、可愛い感じの子で、ボーっとしたとこが三笠に似てたな」

 吉本は興味のないふりで、相槌も打たずに親子丼を箸でつついた。けれど門脇が三笠の話を始めてからは箸でかき混ぜるだけ、ご飯の一粒も喉を通らなかった。

「あの間抜けに似てるってことは、相手の女も相当天然ボケなんだな」

 門脇はちょっと眉を上げて、困ったように苦笑いをした。

「そう言うなよ。三笠も悪気があるわけじゃないんだ。それに、ひょっとしたらあの子なら三笠もほだされるかもしれないって思ったりしてさ。まあ、これは俺の希望だけど」

「まさか」

 箸をトレイの上に置いて、吉本は大げさに肩をすくめた。

「あいつの好きになる奴を門脇だって何人も見てきたじゃないか。今さらアイツにまともな恋愛ができるもんか」

 けどな…と呟いて、門脇は親指を顎の先にあてた。

「俺はあいつがもとからホモってわけでもないと思うんだ。小学生の頃は、俺と一緒になってクラスの有紀ちゃんがいいって騒いでたしな。男が好きなのは一過性で、気に入った女の子を見つけたら納まるところに納まるんじゃないかと思うんだが…」

「三笠がどうなるかなんてわからないし、そんな可能性の話をするだけ時間の無駄だよ」

 まあな、と門脇はうつむき、それ以上三笠の話はしなかった。だけど話題が変わってからも吉本の頭の中は、『三笠の女』という事実に埋め尽くされていた。

 授業を終えてアパートに帰ってからも、門脇の話がずっと気になっていた。どうしてここまで三笠のことが気になるのか吉本は考えた。言わば三笠は自分の恋のシュミレーションだ。どんな恋愛をしてはいけないのか、どうすれば相手に嫌われるのか、三笠は身を持って教えてくれた。三笠が失恋して傷つけば傷つくほど、吉本は心のどこかで安心していた。自分だけじゃない、もっと惨めな奴がほかにもいる。言わば自分と三笠は『報われない恋』という点では一心同体だったはずだ。それなのに女を好きになって、好きになれて、一人だけまともな世界に抜け出そうとしている。

 自分の性癖を否定したくて、吉本も何度も異性に目を向けようとした。実際、女の子と付き合ったこともある。だけど一度も満足のいく性交渉を持つことができなかった。

 キスはできる。触れるのもなんとかなる。だけど柔らかい乳房と白い裸体を前にしても何も感じないのだ。まるで犬や猫を仰向けにして『感じろ』と言われているのと同じだった。ひどい時には嫌悪感さえ混じることもあった。

 けれど女と一緒にベッドに入って、何もできないのは男としてのプライドが許さなかった。吉本は女を抱きながら男の裸体を想像した。そうするとなんとか交わることはできた。けれど想像だけで持久力があるはずもなく、吉本はセックスは一方的な、淡白なものになりがちだった。女も馬鹿じゃない。淡白なセックスに退屈して、吉本が切り出すよりも先に別れを言ってきた女もいた。

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