付き合った中には美人で聡明な文句のつけようのない女もいた。覚悟を決めてその柔らかい体を抱きしめても、そこにもっと筋肉の張りを求めてしまう。抱く、だけじゃなくて、強い力に抱かれたい欲求が自分の中に存在している。
自分はどうやら
『真性』で、この先もずっと同性愛者として生きていかないといけないのに、三笠は女を好きになって楽になろうとしている。惨めなのは自分一人だけになってしまう。三笠がホモでなければ、最初から自分一人だけなら、こんな風に置いていかれる寂しさは感じずにいられただろう。今まで三笠を馬鹿にすることで自分を慰めてきた。三笠という対象がいなくなることは、吉本の孤独を煽りたてた。
置いていかれるという寂しさ、悔しさ、妬み、不安。考えはじめたらキリがなくて、抜け道などどこにもなくて、情けなくて、『三笠に女ができたかもしれない』という可能性だけで傷ついて、吉本はその日、眠れぬ夜を過ごした。
それから何度か三人で飲む機会はあったが、門脇は三笠の女のことを話さなかったし、たまに会う三笠も何も言わなかった。だから門脇の言っていた女はただの友達だったんだろうと吉本は思うことにした。そして女の話など忘れた頃、年明けに吉本は三笠が女と歩いているのを偶然、見かけてしまった。
その時吉本は知り合って間もない女の子に誘われて、遊園地に遊びに来ていた。遊園地なんて子供っぽい場所は吉本は趣味ではなかったけれど、女の子が行きたがるから仕方なく付き合っていた。真冬なのにソフトクリームが食べたいと女の子が言い出して、
『どうしてこのクソ寒い時期にソフトクリームなんだ』と釈然としないまま、女の子をベンチに残して、売っていそうな売店を探し歩いた。
園内を探し回って、ようやく売っている売店を見つけた。売店のすぐ近くにあるベンチでは、クソ寒い中、ソフトクリームを食べている酔狂なカップルが一組いた。その神経を疑いつつ、遠めに見るカップルの男のほうは好みかもしれないと思った。背も高いし、体つきもしっかりしてるし、顔も……そこまで吟味したあとで、吉本はピタリと足を止めた。
よくよく見れば、カップルの男のほうは三笠だった。三笠は子供みたいな顔で嬉しそうにソフトクリームを舐めていた。一緒にいる女の子は…顔はよく見えないけどおとなしそうな雰囲気の子だった。体育会系でスマートな雰囲気とはほど遠い三笠とその子は、似合いと言えないこともなかった。客観的に見ると中のいい『恋人同士』のようだった。
三笠なんかがいいと思った自分を鼻先で笑い、デートの時ぐらいもうちょっと服装をどうにかしろとか……いつものように腹の中で揶揄することも、笑い飛ばすこともできなかった。吉本はその場に立ち尽くしたままずっと三笠を見ていた。ソフトクリームを食べ終えた二人はベンチを立ち、吉本がいる場所とは逆の方向に並んで歩いていった。三笠は吉本に気づきもしなかった。
ソフトクリームを買うのに、必要以上に長くかかってしまったことを吉本は女の子に謝らなくてはいけなかった。夕暮れ近くにその子と別れてから、吉本は無理に明るく振る舞う努力をしていた自分に疲れを感じていた。シャワーを浴びたあと、部屋の中で一人きりテレビをつけて、好きなバラエティを見ていても、少しも笑えなかった。
自分がこんなにショックを受けているのは、三笠が女と付き合っていたからだ。恐れていたことが現実になったからだ。自分だけが確実に取り残された。確かにそれもある。あると思うけど…。
昼間に見た三笠を思い出した。あんなでかい図体のくせに、子供みたいな顔で笑っていた。あんな笑い顔、最近見たことがなかった。散々躊躇ったあと、吉本はソファーに腰掛けたまま、震える手で寝巻きのウエストをずり下げた。パンツごと膝下まで押し下げて、熱く昂りはじめた中心をそっと握りしめる。目を閉じて、誰かにそこを弄られている場面を想像した、太い指で優しく、そして乱暴に、激しく。それも今まで創造もしたことがなかった男に。
シャツの下から手を入れて、乳首を摘む。揉まれて、転がされて、さんざん尖らせたあとで、指はまた中心を弄りはじめる。頭の中でキスして、裸で抱き合って、昂る場所を弄り合って、それから…。
勢いよく手のひらを汚すもの。ソファーに片足を乗\せ、下半身剥き出しのあられもない格好のまま吉本はぼんやりと自分の汚れた手を見つめていた。
「冗談だろ…」
自分のしたことを否定しつつ、吉本は下半身の汚れを拭き取って服を整えた。水でも飲もうとキッチンの流しに立つ。妄想の止まらない頭の中が、三笠とキスしてまさぐり合う場面を映し出す。昂りのおさまらない中心が流しの下の扉にあたって、その刺激だけで腰砕けになり、みっともなくキッチンの床に座り込んだ。顔がカッと赤くなり、だけどそこで再び吉本は下半身に手を伸ばした。
考えたくないのに。考えた。今まで自分は三笠の何もかもを否定してきた。頭が悪くて、みっともない男なんか嫌いだった。だけど本当にそれだけだったんだろうか。三笠が女と会っていると聞いた時、あんなに気落ちしていた自分の反応は過剰すぎやしなかっただろうか。いつから、どこからそうなっていったのかはわからないけど、もしかしたら…。
「気のせいだ。 遠目に見た三笠がたまたまいい男に見えたから、そう思うだけだ。 きっとそうだ」
言っては見たものの、それはせめてもの抵抗、悪あがきだった。その夜、吉本は初めて三笠に抱かれる夢を見た。三笠が相手だったのに、自分にはなんの抵抗もなかった。恥ずかしい部分に触れられることを、みっともないほど喜んでいた。『好き、好き…』とうわ言のように呟いては、正直な気持ちを垂れ流して、三笠の性器に嬉しそうに唇を寄せていた。
冷たいタイルに張りついていたせいですっかり湯冷めしてしまい、吉本はもう一度湯に入り体を温め直してから、風呂を上がった。酔いもすっかり醒め、そうするとまだ飲み足りないような気がして冷蔵庫の中からビールを取り出した。ソファーに腰掛け、勢いよく飲み干す。ビール一本ごときじゃ少しも酔えなくて、吉本は冷蔵庫から日本酒を取り出した。
大学に入ってから酒の味を覚え、そして自分が底なしのザルだということを知った、どんなに飲んでも顔色は変わらないし、記憶がなくなることもない。ただ飲むと理由もなく楽しくなるから、苛々した時は必ず手が出るようになっていた。冷蔵庫にもいろんな種類のビールや日本酒が常備してある。訊ねてきた友人が、中を覗いて呆れるぐらいに、一升瓶片手にコップ酒など、くたびれた中年のオヤジのようで最初は抵抗があったが、慣れてしまえばどうってことない。だいたい猪口じゃ間に合わないし、ビールじゃちっとも酔えない。
三笠は結婚する。本当に結婚するんだろうか。吉本は半信半疑だった。自分がそうだから言えるのだが、どんなに魅力的な女が目の前に現れたとしても、本能で男を好きになることがそう簡単に治るとは思えなかった。
だけど三笠は頭は悪いくせに妙に生真面目で、こうだと決めたらテコでも動かない頑固なところがある。一時の気の迷いで女と結婚しても、結婚後は女を自分の鎖にしてそつがない人生を送ってしまうかもしれない。
吉本は激しく嫌だと思った。三笠が女に触れていると想像するだけで気分が悪くなる、気分が悪くなるだけならまだしも、だんだん悲しくなってきて、三笠相手に涙ぐんでしまう自分が情けなかった。
三笠を好きかもしれないと気づいてからも、吉本は何度も気のせいだと自分を誤魔化そうとした。だけど門脇に誘われて三笠も交えて三人で飲むごとに、吉本は自分の中の悪趣味を自覚せずにはいられなかった。
面倒臭いからの一言で、就職したあとも角刈りの髪。高い身長にしっかりとした体。男らしく太い眉。今まで
『冴えない』と笑い飛ばしていたものすべてが、明らかに吉本を刺激していた。
いいと思う反面、そう思う自分を情けなく感じてわざと三笠につらくあたることもあった。三笠を好きになった自分に腹を立てながらも、いいなと転がる気持ちは止まらなかった。相反する気持ちより三笠相手に夢精する下半身のほうがよほど正直だった。
自分の気持ちを認めて相手に好きだと言えばいいのかもしれない。今まで想うを寄せたノーマルな男と違って三笠はホモなんだから、自分だって恋愛の対象になれるはずだった。けれど三笠に好きだと言うのは、ノーマルな男に好きと告白する以上に抵抗があった。
今まで嫌いで、散々馬鹿にしてきた男だ。頭も悪くて、鈍感で、馬鹿にしているのを隠してもやらなかった男。そんな男相手に自分から下手に出るみたいに『好きだ』なんて言ったらどうなるだろう。惚れた弱みから、やっぱり主導権は三笠のものになるんだろうか。三笠に好き放題アレコレと指図されるようになってしまうのだろうか。
三笠は女にやりたくない。だけど自分から好きだと言うのは抵抗がある。吉本だってこのまま三笠を放っておくつもりはなかった。いつかは好きだと言おうと思っている。だけどそれは今日、明日と切羽詰った話ではなかった。今みたいに怒鳴りつけるだけではなくて、もっと時間をかけて少しずつ三笠に優しくして、自分の存在を意識せずにはいられなくなるようにしたい。そして三笠のほうから自分に『好きだ』と言わせたい。
だけどそんな悠長なことも言ってられなくなった。とにかく女との結婚は阻止しなくてはいけない。どうやって三笠を引き留めたらいいのだろう。相手の女に三笠の性癖を暴露してやろうかと思ったが、そこまで姑息な手を使うのも罪悪感があった。要は三笠が自分から結婚したくないと思うようにさせればいいのだ。
不意に吉本は閃いた。惚れっぽい三笠。そんな三笠が夢中になるような、ノーマルな男を紹介すればいい。あの単細胞は理想に近い男が目の前に現れたら、本来の自分を思い出すに違いない。それで結婚をやめれば、時間稼ぎができる。
…吉本は自分の知りうる友人すべてを頭の中でひっくり返して考えた。今まで見てきた経験からして、三笠のタイプはスポーツマン系だけどそう暑苦しくなくて、顔はそこそこでも真面目な感じの男だ。三笠のタイプの男を、必死になって探した。ようやくこいつは、と思う男を見つけるまで吉本はその日、安心して眠ることができなかった。
飲み屋で三笠といさかいを起こした翌日、寝不足の瞼を擦りながら吉本は一限目の授業のある教室へと入っていった。表はうっすらと雪が積もるほど寒かったのに、眠気をかき消してはくれなかった。コートを脱ぎながら、門脇の姿を探した。吉本が見つけるまでに、門脇のほうが吉本を見つけて軽く手を上げた。
「昨日は途中で帰ったりして悪かったな」
隣に腰掛けながら、吉本は謝った。
「まったくだ」
そう言いながら、怒った気配は感じられなかった。門脇がものごとにこだわらないあっさりした性格でよかったと思う。友人の中にはクールだと言う奴もいるが、それぐらいが一番付き合いやすい。それに吉本は知ったかぶりで無責任な説教をするような熱い男が何よりも嫌いだった。
「お前が帰ってから、三笠とずっと話してたんだけどさ…」
門脇はボールペンを顎先に押しつけてノックしたあと、クスリと笑った。
「結婚するとか言いながら、あいつプロポーズもまだらしい。どうやら昨日は俺たちへの奴なりの結婚するぞって言う『決意表明』だったらしい」
「はあっ…」
吉本は肩の力が一気に抜けた。
「来月の三日が彼女の誕生日だから、その日に申し込むつもりだってさ」
力が抜けたのも一瞬。どちらにしろ三笠の『結婚しよう』という姿勢に変わりはないのだ。
「あとがどうなろうと知ったこっちゃないけど、まともになろうという努力だけは買ってやってもいいかな…」
呟き、吉本は少しだけ三笠に譲歩するふりをした。門脇は口許だけで小さく笑った。
「…あいつはつらい恋が多かったからな。派手に祝ってやろう。本当のこと言うと、昨日はお前がひどく怒ってたから、どうなることかと思ってたんだ」
吉本は大げさに両手を広げてみせた。
「何回も何回も、よりにもよって男同士の恋愛に俺たちはさんざん巻き込まれたんだぜ。それなのに今頃になって何ごともなかったみたいに女と
『結婚』なんざ虫がよすぎるんだよ。愚痴の一つや二つは言ったって罰はあたるもんか」
「まあな。…そういえばお前が怒るのはいつも三笠のことだな。気の置けない仲だから自然とそうなるのかもしれないけど、もう少し三笠に対するあたりを柔らかくしてやってもいいんじゃないか。あれはあれでけっこうこたえてるんだぞ」
今まで三笠に対する態度で門脇に面と向かって批判めいたことを言われたことがなかっただけに、吉本はドキリとした。
「誰にでもってわけじゃなくて、三笠に対してだけだろう。 ほかの奴にはそんなことないのに…」
「やることなすこと目に余るからさ。次からは気をつけるよ」
門脇は短いため息をついて肩をすくめた。
「そういえば、三笠がまた飲もうって言ってたよ。俺たちにも彼女を紹介したいんだと」
「紹介ねえ…」
「お前さえよかったら、今日にでも俺が三笠に連絡をつける。どうやらあいつ、プロポーズ前に俺たちに彼女の品定めをしてもらいたいらしいんだよな」
「自分で選んどいて何が品定めだ」
「まあ、そう言うなよ」
助教授が教室の中に入ってくる。門脇は正面を向きすっと口を閉じた。門脇の横顔を盗み見しながら、どう切り出したものかと吉本は迷った。
「俺は明日でもいいけど」
門脇が振り返り、首を傾げた。
「あの、三笠の彼女の紹介の…」
「ん…三笠に連絡取ってみるけど、明日ってのは急だな。 あいつと彼女の都合がつけばいいけど」
三笠との連絡を取ってくれるのはいつも門脇。そのことが普通になっていて、吉本は今まで自分から三笠に電話したことはない。現に、吉本は三笠の電話番号を知らない。三笠は就職した時、名刺に携帯に番号を書いて門脇と吉本に渡してくれたけど、そんなものとうの昔になくしてしまっていた。
「今回は俺が三笠に連絡を取ろうか」
そう言った吉本に、門脇は首を振った。
「三笠に用があるから、俺のほうからかけとくよ」
「あ、うん…」
断られると思っていなかっただけに、吉本は内心焦りを覚えた。躊躇った末に…吉本は切り出した。
「俺も三笠に用があるんだ。だから三笠の電話番号を教えてくれないか。名刺をなくしたんだ。だから…」
最後のほうは言い訳のように、実際にそうなのだけど…声が小さくなる。門脇は吉本が五年来の友人の電話番号を覚えてないことをさして気にする風もなく、吉本のノートの端に三笠の携帯と家の電話番号を書きつけた。
門脇から三笠の電話番号を聞き出したその日の夜、吉本はさっそく電話をかけることにした。三笠は働いているから、そう考えてかけるのは夜の九時以降に決めた。
九時になると同時に電話の前に正座した。電話をするだけなのに緊張して、なかなか受話器に手が出せない。ただただ石のようにじっと座り込んでいた自分に腹が立って、勢いで電話を押したのは九時三十分を過ぎた頃だった。
『はい、三笠です』
あれだけ緊張していたのに、三笠の声を聞いたとたんに、すうっと肩の力が抜けた。
「俺だよ」
『えっ、誰?』
携帯の電波が届きにくいところにいるのか、声に雑音が混じる。
「吉本だよ」
『あっ、ああ…吉本ね。珍しいなあ。なんの用だ?』
「お前、明日は暇?」
『明日? 明日は…夜なら大丈夫だと思うけど。もしかして俺の彼女を紹介するって話かなあ。それなら明日は彼女の都合が悪くて駄目だって門脇には言っておいたんだけど』
その話はすでに門脇から伝達ずみだった。
「別口の話だよ」
『あっ、そうなの? 門脇は何も言ってなかったけどなあ。まあ、大丈夫だと思うけど』
「門脇には関係なくてさ、俺の友達で、お前に会いたいって奴がいるんだ」
『吉本の友達?』
怪訝そうな声になる。
『…会うのはいいけどずいぶん急だなあ。それにどうして吉本の友達が俺に会いたがってるんだよ』
乗\り気でない声の調子に、吉本は一人で苛々した。
「知らないよ。ただお前の話をしたら面白そうな奴だから会わせろって言うからさ」
吉本は何度も唇を舐めた。嘘をつくことに罪悪感はないが、変に唇が乾く。
『もしかして、俺に会いたいって言ってる奴って男か』
「まあな」
三笠は不意に黙り込んだ。
「悪いけどさ…、やめとくよ」
予想しなかった三笠の辞退に、吉本は焦った。
「なんだよ、会うぐらいいいだろ」
『今はさ、男に会いたくないんだよな』
ぽそりと三笠は呟いた。
『珍しく吉本が誘ってくれたのに、ごめんなあ。俺ってほら、惚れっぽいからさ…』
三笠の言おうとするところの意味を、吉本は正確にくみ取った。
「新しい男に目移りしたくないから会わないようにしてるのか」
『んっ、その、なんて言うか…』
吉本はハッと短く笑った。
「女と結婚するとか言いながら、男を見ないように予防線張るなんて、お前の決心なんてその程度のものなんだな」
三笠は受話器の向こうで沈黙していた。
「よーくわかったよ。お前が俺たちの紹介しようとしてる女は、見たこともない俺の友達にも負けるかもしれない、その程度の存在ってことなんだろ」
『吉本、俺はただ…』
「もういい。金輪際俺の友人はお前に紹介しない」
『意地悪言うなよ。…会うよ、その友達に会うのが嫌なわけじゃないんだ。ただ…』
「いいよ。その気も失せた」
『そんな言い方をされたら、俺はどうすればいいのかわからないよ』
三笠は困惑していた。
「今の話はなかった、それでいいだろ。じゃあな」
ブツリと電話を切った。切った当初は自分の思い通りに三笠が動かないことに、思いのほか自分で自分のことをよくわかっている三笠に苛立っていたけれど、冷静になると自分で絶好の機会を潰してしまったのだということに気づいた。嫌がりながらも三笠は『会う』と言ったのだ。変に意地を張ったりしないで、素直に引き合わせればよかった。あんな電話の切り方をしたんじゃもう一度『さっきの話だけど…』とかけ直すこともできない。
ほかの男をあてがうこともできないとなると、三笠はこのままずるずると…。吉本は慌てて手帳を取り出してカレンダーを見た。三笠がプロポーズするつもりだという彼女の誕生日まで、あと三週間も時間は残っていなかった。
午前六時と、まだ夜も開けきらない薄暗い時間に目が覚めた。寝たのは午前二時に近く、ふだんなら絶対に目を覚ますような時間ではないのに、浅い眠りと凍るような寒さが瞼をこじ開けた。慌てて入れる暖房のスイッチ。底冷えする朝に、冷たくなる指を握りしめてシーツの中で丸くなる。柔らかい木綿の布地の中にできる、自分の体温で温められたわずかな空間。心地よい温み。体温の匂いがする。
不意に三笠は女と寝たことがあるんだろうかと考えた。聞いたことがないから、実際どうなのかわからない。自分はさておき、三笠はセックスが下手そうだと思う自分がおかしくて吉本はクスリと笑った。だけど調子に乗\って具体的に女と寝ている三笠を想像してしまい、指先同様、胸の中も一瞬で凍りついた。想像じゃなく、現実かもしれない。この寒い朝に、三笠は女の胸でまどろんでいるかもしれない。
そう思うと気が気じゃなくて一人で苛々した。喧嘩して、紹介する計画を潰してしまったのは昨日の夜。その後も三笠の結婚のことばかり考えた。もうほかの男をあてがって三笠の目を女から逸らすこともできない。焦る気持ちを落ち着かせようと何度も深呼吸すると、空調で温めきれない冷たい空気に喉が痛んだ。結論から考える。どんな状態が一番望ましいものなのか。望まれる状態は、三笠が結婚しないことだ。自分のことを好きになることだ。
だけど三笠は吉本の気持ちを知らない。好きだなんて気持ちを知られないように振る舞っている。当然といえば当然だ。
好かれていると知ったら、三笠は自分のような男をまず放っておかないだろう。頭もまずまず、顔は整ってて、スタイルは外人並みの自分みたいな男など、探そうったって難しいからだ。もし自分が三笠に好きだとでも言おうものなら、三笠は自分のことを離さなくなるに違いない。
あとになるか先になるかの違いだ。いっそのこと自分から三笠に『好きだ』と言ってしまおうか。告白…あいつに好きだと言うのか、この俺が。好きだから結婚しないでくれと言うのか、この俺がっ!
あんな十人並みの頭の悪い男に、どうして自分のほうから下手に出るみたいに『好きだ』なんて言わなくてはいけないのだろうか。それなりに『好意』の気配を三笠の前で散らつかせてやれば、三笠は絶対に自分になびいてくる。自分から言わなくたって、三笠のほうから好きだと言うだろう。
手の内を先に明かすのは屈辱だった。あの男は根が単純だから、こちらが下手に出ればそれだけ大きな顔をするだろう。絶対に付け上がらせたくない。恋愛だって主導権は自分を握る。あいつには死んでも命令などされたくない。けれど…このままだったら三笠は確実に女のものになってしまう。
考えた末に、諦め妥協して、吉本はようやく自分が納得できるやり方を見つけた。
冬の気配がいつまでもなくならないのは、昼間でもすっきりとしない薄曇りが続くせいかもしれない。ここのところ毎晩のように降り積もる雪は、積雪自体が稀なこの地域で、もの珍しさを通り越してはた迷惑な存在になりつつあった。
今日もやっぱり夜半過ぎから雪が降りはじめた。玄関から出たとたんに、終電に近い暗い表にはチラチラと白い結晶が舞っていた。道の端にうっすらと白く降り積もるそれは、歩いた跡が靴の形に残り、またそれを隠そうとするように上から上から積み重なった。
人のまばらな駅のホームで、ヒックとしゃっくりをしてしまう。隣に立っていたOLらしいスーツ姿の女性が振り返って眉間に皺を寄せた。かっこ悪さに吉本は少しだけ顔を赤くしてうつむいた。電車に乗った時も、吉本はずっと立ったまま、口許を押さえてしゃっくりが出ないように我慢していた。
二十分ほど乗って降りた地下鉄の駅。道順は知っていたが思いのほか遠いことに辟易しつつ、それでも足取り軽く吉本は歩いた。ようやく見えてきた安物の汚い二階建てのアパート。そこに三笠が住んでいると思うだけで、異様に胸が騒いだ。
思い切り蹴り飛ばせば壊れてしまいそうな薄い扉。乱暴に何度も何度も叩いた。最終電車が行き過ぎるのを待っての来訪、夜中だということも隣人への気づかいも忘れることができたのは、勇気を振り絞るためにかつてないほど飲み干した日本酒のせいだろう。ほろ酔い加減で、扉を叩くたびにふわふわと体が揺れるのは心地よかった。だけどいつまで待っても三笠は出てこない。
吉本は扉を叩くのをやめて、そっと薄い扉を耳をあてた。人の動く気配がする。ガタガタとものを蹴散らすような音に
「誰だ」唸るような声。俺だよ、と吉本は独り言のように呟いて、ケラケラと笑った。近づいてきた足音が勢いよくドアを開けて、その反動で吉本は後ろ向きに軽く尻餅をついた。
「えっ…何。お前、吉本」
眠っていたのかトロンとした不機嫌な目が自分を見下ろしている。尻餅をついたまま吉本は、三笠と視線を合わせてニッと笑った。
「もう電車がないんだ」
平然と言ってのけた吉本に、三笠は寝癖のついた硬そうな髪をかき回して、それとわかる大きなため息をついた。
「金貸してやるからタクシーで帰れよ。こっからだと三十分もかからないだろ」
三笠は座り込んだままの吉本の腕をつかみ、立ち上がらせようとした。わざと足許を振らつかせて飛び込んだ三笠の胸は、昔から鍛えているだけあってどっしりとしていた。鼻先にあたる太い首筋からはかすかに汗の匂いがした。三笠の腕の感触を味わいながら、吉本は小さく呟いた。
「帰っても…家の中に入れない」
「なんだよ、それ」
三笠は怪訝な声で呟く。
「家の鍵、落としたんだ」
そう言い、吉本はクスクス笑った。三笠はもう一度大きなため息をついて歩こうとしない男を抱きかかえるようにして部屋の中に入れた。一度引越しの手伝いの時に見たきりの三笠の部屋。その時と変わらず、鍋やヤカンが一つずつしかない狭いキッチン。炊飯器は流しの下に無造作に置かれている。奥にある六畳ほどの居間には布団が敷かれていて、女の気配がないことにホッとして吉本はため息をついた。煎餅のように薄っぺらい布団の中央はぽっかり穴になっていて、三笠はその中から蓑虫よろしく這いずり出てきたに違いなかった。その姿を想像するだけで、おかしくて笑えた。笑っていると、三笠が変な顔で振り返った。
吉本は蓑虫の穴を崩すように、うつぶせに布団の上に転がった。布団から三笠の匂いがする。さっきの首筋の匂い。
「水、飲むか」
差し出されるグラス。大量のアルコールのせいか喉はカラカラに渇いていた。
「珍しいよな…」
布団の上に膝を立てて座り、夢中に水を飲み干す吉本を身ながら三笠は呟いた。
「吉本が酔ってるのも、俺のアパートに来るのも珍しいよ」
もうそろそろ仕掛けてやる。時間をかけるつもりはない。うつむけていた顔を上げて、三笠と視線を合わせると、吉本はにっこりと笑った。いつものように見下す皮肉な笑みではなくて、誰にでも好感を持たれるような愛想のいい顔で。三笠は驚いた顔ですっと視線を逸らせた。ちょっといい顔をしてやったら顔を赤くする。単純な男だ。吉本は空のグラスを畳の上にわざと放り投げ、三笠はそれを慌てて拾いに行った。投げたものを取りに行って戻ってくる姿は、まるで犬のようだった。
「ちょっと嫌なことがあってさ。飲みすぎたかな…気持ち悪い」
吉本はシャツの一番上のボタンを指先でいじった。けれど触れるだけ。はずしはしない。三笠がじっと自分を見てると知っての、計算しつくされた仕種。
「気持ち悪い」
だめ押しに一度呟く。三笠は吉本は指を払うと、ボタンを上から二つだけはずした。はずそうとする三笠の指は滑稽なほど震えていた。ボタンをはずすとすぐさま指は離れた。吉本は三つ目のボタンに指をかけ、胸許をゆっくりと扇いだ。三笠の視線が、胸許から離れなくなるのがわかる。
「飲みすぎた」
呟きながらジーンズのベルトをはずし、上のボタンだけはずした。布団の上に座ったまま緩く首を傾げる。これだけの据え膳を三笠はただ黙ってじっと見ている。吉本は立てていた膝をゆっくり両側に開いた。三笠がゴクリと唾液を飲み込む音が聞こえる。
予定ではそろそろ三笠が自分に飛びかかってきてもおかしくない頃だが、なかなかアクションを起こしてこない。かといってどこかに行ってしまうわけではなく、ただじっと自分を見ている。仕方がないから、吉本は自分から動いた。
「水が飲みたい」
グラスを探すふりで三笠ににじり寄り、三笠の後ろに指を伸ばすふりで、猫のように体を擦りつけた。けれど三笠の背後のグラスが空なのは知っている。自分でさっき放り投げたからだ。一応グラスをつかむ。だけどそれはすぐ指先から離れて畳の上を転がった。きつく拘束。ようやく三笠に抱きしめられていた。
やっと食いついてきた。こうなるだろうということはわかっていたけれど、三笠の理性が勝って誘いに乗らないかもしれない可能性もあった。
俺のものだ。強い力に吉本はそう確信した。この男は俺のものだ。誰にもやらない。抱きしめてくる体は、温かいを通り越して熱かった。その熱さに鼓動がどんどん早くなる。
そのまま布団のうえに押し倒された。閉じていた目を開いて三笠を見る。無精髭が残る顎先、怖いような、そんなやけに切羽詰った目。三笠は吉本と視線が合うと動きを止めた。吉本はふっと笑うと先を促すように目を閉じた。案の定、間を置かず三笠は吉本の唇に噛みついてきた。
言葉のない行為。シャツの中を乱暴にまさぐり、首筋から脇腹に下りてゆく指。女とした時と比べようもない快感が、何度も吉本の背筋を走り抜けた。無骨な指が胸の先を撫で回す。刺激に尖った乳首を摘む。乱暴な仕種は痛みを伴う。力加減の全然わかってない三笠に吉本は眉をひそめたが、慣れない不器用な仕種さえ腰は震えた。
まさぐる指がシャツをたくし上げる。袖口のボタンがはずれなくて、シャツは吉本の手首から抜けない。そのまま、両手を上げた格好のままで放っておかれる。
薄暗い電灯の下にさらされる裸の胸。三笠は吉本の背中に腕を回す。少し体を起こすと、中途半端な姿勢のままで胸の先に吸いつかれた。湿った唇の感触。粒を転がす舌の感触に気が動転する。変な風に腰が痺れて、それが快感からだとわかってるけど、なんだかたまらなくなって三笠の頭をどかそうとした。だけど絡まった服が邪魔をして、腕がうまく動かない。
「や……や…」
小さな抵抗など無視して唇は動く。胸の先から腹のラインに沿って落ちてゆく舌先。三笠の顎がジーンズのウエストにかかる。ジッパーを下げるジリジリという音が淫猥に響く。耳をふさぎたくなる。下着越しにも固くなっているのがわかるであろうソコを、見られている羞恥心は一瞬。次の瞬間にはジーンズごと下着をはぎ取られていた。ひやりとした空気の感触に思わず太腿をきつく閉じると、三笠は乱暴にそれを押し開いた。
見られているのがわかる。自分のソレが容姿同様、色も形も申し分ないものだとわかっていても、品定めされるような視線は耐えられない。背筋が小刻みに震えるのは、恥ずかしいことよりも恐怖に近かった。自分のソコがどういう風に評価されているのか、馬鹿なことを考えて恐ろしくなった。
足をばたつかせて膝頭にあった三笠の指を払う。体を反転させて起き上がろうとした。逃げだしたくて、加えられた刺激で砕けた腰を引きずりながら這った。想像もしなかった。男と触れ合うだけで自分がこんなにドロドロに感じるなんて思わなかった。生まれて初めて体験する自分の姿が、こんなに恥ずかしいものだとは思わなかった。