足をつかまれて、布団の上に引き戻される。逃がすまいとするように背中にのしかかってくる肉の質感。足の間にある熱く屹立するものの感触。太い指に勃ちかけた中心を握られて、膝の力が抜けた。布団と三笠に挟まれて、吉本はもう身動きが取れなくなっていた。不器用な指が尻を撫で深い部分にそっと触れた。吉本は動けなかった。動かなかった。それが合図のように、痛みを伴う熱が吉本の内部を犯しはじめた。
『俺は酔ってるんだから』そう何度も言い聞かせた。酔ったことが理由ではなく、酔うことが言い訳だったことも忘れて。
背後から挿入され、続けて二度も射精された。自分でそっと後ろを弄ったことはあっても、そんなに使われたのも大きなものを入れられたのも初めてで、行為は快感よりも痛みのほうがはるかに大きかった。性器が引き抜かれた時にはこれでようやく終わりだと思っていたのに、ぼんやりとした吉本を仰向けにして三笠はなおも食いついてきた。
痛みを思い出して抵抗したのに、三笠はあっさりと吉本の中に入ってきた。あれだけしてもまだ熱くて固い中心に、吉本は背筋が寒くなった。そのうち抵抗するのもだるくなり、吉本は三笠の首筋に腕を回し、揺さぶられるまま目を閉じた。三笠は腰を揺らしながら吉本の胸の粒を熱心に吸い上げた。三笠の腰の動きが激しくなり、背中を抱きしめる指の力が強くなる気配に、終わりが近いことを予感する。揺さぶられながら、痛みは体中を駆け巡るのに、やけくそ気味に恍惚と揺れを受け止めている自分がいる。三笠が小さな呻き、内部に吐き出す気配がした。その感触に三笠の腹に擦られて固くなっていた吉本も背筋を震わせて三笠の腹を汚した。
目を開けると、すぐそこに三笠の顔があった。薄く開いた唇からは、せわしない吐息と赤い舌が見える。それに誘われるように吉本は三笠の頬を引き寄せ、舌先を絡めて三笠を貪った。それが引き金になったのか、まだ中にいた三笠が固くなってくる。腰がゆっくりと揺れて、吉本は長い両足を三笠の腰に巻きつけた。どこで意識が途切れたのかもう覚えていない。ただ何も考えられなくなるほど、夢中でセックスした。
緩く目を覚ました。最初に目に入ったのは覚えのない電灯の形だった。布団を引き上げる。布団からはふわりと三笠の匂いがする。匂いが下半身を直撃し、恥じらいもなく硬度を増してくる。昨日の情事を思い出した。きついセックス。顔が火照る。それを隠すように布団の中にもぐり込み、気がついた。吉本はパジャマを着ていた。袖も裾も大きすぎる、体に合わないそれは三笠のものに違いなかった。
パジャマの合わせから指を指し込み素肌に触れる。あれだけ触れ合ったのに体には汗やxxの痕跡はなかった。そういえばシーツもドロドロに汚してしまったはずなのに、吉本が寝ているのはそんな気配を微塵も感じさせない清潔なものだった。吉本は軽く頭を振った。している途中で意識がなくなった。きっと終わったあとに三笠が体を拭い、服を着せ、シーツを取り替えたに違いなかった。こうしていると、昨日のことがまるで嘘みたいに思える。三笠の家に来て、ただ眠っただけ、そんな気すらしてくる。でも現実を裏切らない腰の痛みがある。三笠を受け入れた部分は、少しでも体をよじると鈍痛が走った。
布団から少しだけ顔を出して、部屋の中をうかがった。三笠の姿は見えない。だけど襖を隔てた台所から人の気配がする。すっと襖が開き、スラックスにシャツを着た三笠が部屋の中に入ってきた。社会人らしい三笠の姿など初めてで、吉本は驚きを隠せなかった。短い髪をそれなりに整えて、邪魔だったのかネクタイは肩にかけて背中に回している。
三笠は吉本が目を覚ましていることに気づくと驚いたように二歩後ずさって。そうしてややうつむき加減に床に視線を落とした。吉本はわくわくしながら三笠が一番最初に何を言うか、それを待っていた。
〔昨日はごめん、俺が悪かった〕
当たり前だ。
〔もう我慢できなかった〕
俺が相手じゃ、仕方ないよな。
〔こうなったことを後悔してない〕
後悔されたら困るんだよ。
〔お前が好きだ〕
仕方ないな。お前がそんなに俺のことが好きなら考えてやらないこともないよ。
だけど待てども待てども、いつまでたっても三笠は黙ったまま、期待した言葉は何も聞けない。予定していた言葉も言えない。無言の意味を吉本は考えた。
あっけらかんとした男だから、酔った友人に手を出したことを気にすることはないだろうと思っていたけれど、それなりの罪悪感はあるらしい。そんな気持ちがわからないでもなくて、百歩譲って吉本は自分から喋り出すきっかけを与えてやった。
「俺の服は」
「んっ、ああ…そこに」
三笠の声は上擦っていた。壁ぎわにきちんと畳まれてある服。痛む腰を我慢して服を自分に引き寄せた。三笠に取らせおうかとも思ったが、手を伸ばせば届く距離だった。けれど自分で動いたことをすぐさま後悔する。腰の痛みがひどくなったからだ。着替えようとパジャマのボタンに手をかけたところで、三笠はすっと背中を向けた。吉本は手早く服を着替えた。肌にぽつぽつと残る鬱血の跡。鎖骨の近くに二つ。太腿の近くにも一つ。服を着替えてからも、三笠は背中を向けたまま。三笠がぎこちないから、吉本までなんとなく気まずくなる。
「腹、減ったな」
何げなく、そう言った。
「パンあるけど、食う」
三笠は慌てて台所に消える。吉本は座ったまま犬が食事を持ってくるのを待った。三笠はピザパンとクリームパンの袋を吉本の目の前に置いた、それとパックの牛乳も。
吉本の分だけパンを置くと、三笠は吉本に背を向けるようにして座った。通勤用の鞄にあけて、ごそごそと中をかき回している。吉本は腹が空いたと言った手前、仕方なくパンを手にしたがパリパリというビニール袋の音が不愉快で放り出した。女じゃないんだから、最初はホテルがいいとか朝はルームサービスでないといけないとか言うつもりはなかったが、こういうのも想像してなかった。状況だけでお腹が張り、最初の空腹も忘れて吉本は牛乳だけ飲み干した。
飲み終わってからも三笠は無言だった。無言の背中は吉本を苛々させた。何か言ってみろ。お前は俺に言うべきことがあるだろ。焦れて、痺れを切らして吉本はため息をついた。
「昨日は悪かったな」
自分からは謝りたくなかった。だけどきっかけを作ってやらないと、いつまでもこのままのような気がした。
「えっ…」
背中を向けたまま、三笠は小さく呟いた。
「夜中に不意に押しかけてさ」
「べっ…別にいいよ。そんなん」
逃げられないように昨日の夜に話を振る。それでも三笠は肩を丸め、背中も向けたままだった。
「こっち向けよ」
ビクリと広い背中が揺れて、三笠はノロノロと吉本に振り返った。顔はうつむけたまま、吉本を弄り倒した無骨な指を口許にあてていた。
「…昨日のこと覚えてるんだろ」
三笠の声は、掠れて小さかった。
「昨日の…」
何度も絡み合った、交わり合った情事が鮮やかに蘇る。肌をなぞる指の動き、荒い息遣い。自分から口づけて、足を絡めた。思い出すだけで顔が赤くなる。変に照れた顔を見られたのではないかと思ったけれど、三笠はうつむいたままだった。
昨日、自分は酔っていた…そう思うと、あのことは覚えていなくてもいいような気がした。あんなセックスを正気でしたと思われたくない。言いたくない。あれは酔った上での出来事。三笠さえ覚えてれば、それでいい。気まずい思いは三笠一人がすればいい。
「覚えてないな。なんかお前に迷惑をかけたか」
嘘をついた。
吉本の答えに、向かいに座る三笠は勢いよく頭を上げた。驚いた顔をしていた。
「本当に覚えてないのか」
汗が出るほど部屋の中が暖かいとは思わないのに、三笠は額に浮かぶ汗を拳で拭った。
「覚えてないって言ってるだろ。くどいヤツだな」
三笠は再びうつむき、今度は首筋を何度もさすった。
「昨日は、お前は家に来て…水を飲んだあとすぐに眠ったんだよ」
体に似合わない、小さな小さな声。吉本は驚いて目を見張った。
「寝言で、あんまり気持ち悪いって言うから、その…寝巻に着替えさせた」
嘘をつくな! 頭にカッと血が昇る。握った拳がブルブル震えた。あんな風に人を好きにしておいて、キスして、触れて…それで『すぐに寝た』はない。嫌というおどがっついてきたじゃないか。着替えさせたのは、セックスしてシーツも体も汚れてたからじゃないか。
「…次からはあまり飲みすぎるなよ」
嘘をつくために動く唇。自分を見ようとしない目。三笠の胸ぐらをつかんで、どうして嘘をつくんだと叫びそうになる。俺が覚えてないと言ったら、どうしてお前は『嘘』にしたんだ。
怒りはすっと、まるで炎が消えるみたいになくなった。三笠は自分と『寝た』のをなかったことにしたいのだ。それがわかってしまった。どうしてなかったことにしたいのか…。心が乱れる。台風みたいに自分を中心に大きな風に引きずられてゆく。
吉本は深呼吸した。動揺した顔がもとに戻るまで何度も繰り返した。
「俺、もう帰るわ」
三笠がぱっと顔を上げた。
「そうか、そうだな。俺も土曜出勤でもう出ないといけなかったんだ」
三笠の『嬉しそう』な『安心』した口調が、吉本の不安を決定的なものにした。
「邪魔したな」
歩けば痛む腰を、痛がっているようには見えないよう我慢する。そうして無理に背筋を伸ばした。さっさと靴を履き、表に出て扉を閉める。当然、見送りはなかった。夜のうちに積もった雪の白さが、明るい日差しに反射して目に痛い。目の痛みを、吉本は雪のせいにしてギリと強く瞼を閉じた。
それでも、家に着くまでは泣かなかった。家に着いて部屋の中に入ってから吉本は泣いた。大声をあげて子供みたいに泣いた。涙は止まらない。腰の痛みがそれをよけいに惨めなものにした。三笠は自分を抱いた。けれどそれは『吉本』だったからじゃない。自分が男だったからだ。吉本である必要はどこにもなかった。男の体だったから、誘われたから三笠は抱いたのだ。男なら誰でもよかったのだ。
抱かせてやれば自分になびくと信じて疑わなかった。この俺がこれだけあいつに譲歩してやってるんだから、それに三笠が飛びつかないわけがないと思っていた。
三笠が、いくら吉本が誘ったからとはいえ自分のしたことを少しでも謝る気配を見せたならまだ救われた。でも三笠は吉本が覚えていないふりをするとこれ幸いと自分を知らないふりをした。知らぬ存ぜぬ。誠意のカケラもない。
不誠実に扱われる。誠意を尽くすだけの価値を三笠は自分に見いださなかった。結局、自分は単なるはけ口にされてしまったのだ。あんなに恥ずかしい思いをしたのに、三笠だからセックスさせてやったのに、誘ってやったのに、好きにさせたのに、許してやったのに。全部が三笠にとっては『嘘』だった。好きなのに。俺はこんなに好きなのに。それなのに。
三笠は男だったら誰でもよかったのに、そんなことも知らずに入れさせて喜んでいた自分。その気になってキスした。勘違いもいいところで、吐き気が込み上げてくる。あんな恥ずかしいところを舐めさせて、吸わせて…。トイレに駆け込み吐いた。吐き気はいつまでたっても止まらなかった。
自分を細かく切り刻んでこのままトイレに流してしまえたら、どんなに楽だろうか、自己嫌悪の嵐の中で吉本はぼんやりとそう思った。
この前、三笠のところに泊まったんだって。門脇に聞かれたのは、あの最悪の『情事』からちょうど五日目だった。学食の窓際の席で、ばんやりと外を眺めていたらいつの間にか向かいに門脇が来ていた。門脇の顔を見るのは五日ぶりだった。三笠とセックスしたあとで、吉本は四日、大学に休んだ。泣いていたのは三笠の家から帰ってきたその日だけ。腰の痛みは二日もすればましになったが、ずるずると四日も休んでしまったのは、誰も顔も見たくなかったからだ。
「久しぶりだな。ずっと休んでただろ」
聞かれて、吉本は曖昧に笑った。
「ちょっとカゼひいちゃってさ」
学校に出てくる気になったのは、別のことをしていたほうがアノコトを考えずにすむと気づいたからだ。アパートの部屋の中にいても、憂鬱になるだけだとわかった。
「ずっとお前のこと探してたんだよ。ちょっと聞きたいことがあったからな」
いつになく門脇の声色が固いことに、なんだろうと吉本は顔を上げた。
「この前、三笠のところに泊まったんだろう」
吉本はゴクリと喉を鳴らした、どうして門脇はそんなことを聞いてくるのだろう。まるで確認するみたいに。まっすぐに自分に見つめてくる男から視線を逸らして、吉本は窓の外に顔を向けた。まるで知り合いが通ったように見せかけるために、わざと目を凝らす。
「泊まったよ。あの時は散々だったな。酔っぱらって家の鍵は落とすし…」
なんでもない、なんでもない。自分に言い聞かせる。もしもあの時自分が酔っていなかったとしたら、粗相をしでかした三笠を叱りつけていたはずだった。怒鳴りつけて、殴りつける。それがいつもの自分の反応だ。三笠に抱かれてよがっていた自分がいてはいけない。
「そうか」
確認しただけ。門脇はそれ以上、何も聞いてこなかった。話が終わった気配にホッとしつつ、吉本は門脇の質問の意味を考えた。込み上げてくる不安。門脇が知っているということは、三笠が話したのだろう。三笠はどんな風に、どこまで門脇に話をしたのだろう。もしかしてセックスしたことまで話したのだろうか。それを聞いて門脇はどう思ったのだろう。恥ずかしさと怒りに、指先が震え出す。向かいにいる門脇に気づかれないように吉本は指を顎に沿わせた。
もしここに三笠がいたら今すぐにでも殺したい。セックスなんてプライベートなことを、臆面もなく話す恥知らずの男を抹殺したい。だけど門脇がそこまで知っていると確定したわけじゃない。三笠にも一応の恥じらいは残っていて、単に『吉本がうちに泊まった』と世間話のついでに話しただけかもしれない。だけど単なる世間話なら、門脇はわざわざ泊まったのかと聞いてくるだろうか。
三笠とセックスしたこと、今となってはその事実は後悔以外の何ものでもなかった。自分の中に残ったのは、死にたいほどの羞恥、失望、それだけだ。
「ちっとも雪がやまないな」
ぽつりと門脇が呟く。ああ、とおざなりに吉本は返事をした。
「お前…風邪はちゃんと治ってるのか? どこか具合でも悪いんじゃないか」
首を傾げて門脇はそう聞いてきた。
「別に…」
「顔が青いぞ。それと明日、三笠が飲もうって言ってるんだ。前に話してた彼女の件だけど、来られるか? やっぱ、やめとくか」
自分が自分自身を完全に支配するのは難しい。三笠の名前に動揺する心を押さえつけるために、握り込んだ手のひらに爪を立てた。
「大丈夫だよ、行ける」
「八時にいつもの店で待ってるってさ」
「わかった」
そう答えたけれど、吉本は三笠に会うのも、その彼女を紹介されるのも真っ平御免だった。死んでも行くか、と思った。
翌日、門脇に行けなくなったと連絡を入れようと思ったのに、どうしても捕まえられなかった。電話は留守番にもなっておらず、メッセージも残せない。連絡が取れないことに吉本は焦った。こんな時に限って、珍しく大学も自主休校している。門脇の家に行き、直接行けないと言うこともできるが、そうなるとどうしてだと理由を聞かれるだろう。気分が悪いと言っても多分、信じてもらえない。門脇が駄目なら三笠のほうに連絡を入れればいいのだが、三笠とは口もききたくなかった。
いっそのこと何も言わずにすっぽかそうかと思った。でもそうすると門脇に変に思われる。自分が三笠のことを気にしていると勘づかれるかもしれない。悩んだ末に、吉本は重たい足を引きずりながらいつもの店に出向いていた。
吉本は少し遅れて店に着いた。ふだん、待ち合わせの類に遅れたことはない。いつも送れてくるのは三笠だ。三笠は送れてきても『ごめん』と笑いながら曖昧に誤魔化すことが多い。そういうルーズさが、いちいち勘に触っていた。
店にはみんながそろっていた。店の入り口を開けて、そこから見えるいつもの席の頭数ですぐにわかった。僻みそうになる両足を堪えながら歩く。
「遅れて悪かったな。道で混んでた」
門脇が振り返り、答えるように片手を上げた。
「お前が遅いのなんて珍しいからどうしたのかって話をしてたんだよ。まあ、上がれよ」
門脇の隣にある座布団に座る。四人の席の、自分の向かいには女が座っていた。女は吉本と視線が合うと小さく会釈した。遊園地で見かけた時と同じ、おとなしい雰囲気の女だった。よく見ると細面の可愛い顔をしていた。色も白くて、華奢で、白いタートルネックのセーターがよく似合っていた。
「じゃあ、全員そろったところでさっそく乾杯しようか」
門脇が従業員を呼びとめほどなく人数分のビールが運ばれてきて、乾杯の声と共にグラスを合わせる。その時に三笠と視線が重なった。三笠の顔を見るのは、寝た日以来、六日ぶりだった。視線が合うと、三笠はそれとなく顔を逸らした。気まずさもあるだろう。女と結婚すると宣言したあとで、見境なく酔った男にがっついたのだから。そうしてがっついた男は目の前にいるのだから。
三笠が最初に視線を逸らしたから、吉本は絶対に自分からは目線を逸らせないでいようと思った。不自然な態度も見せない。いつも通りに過ごす。いつもみたいに三笠を馬鹿にしてやる。何ごともなかったように過ごすのが、せめてものプライドだった。
彼女の顔見せは、滞りなく進んでいく。三笠の彼女はしっかりして可愛らしく、出しゃばりすぎず、これといって文句もなかった。どうして三笠なんかがいいのか首を傾げるような、普通の女だった。
女が何度かこちらに視線を投げかけているような気がした。それに苛々してわざと視線を合わせてやると、逸らせるならまだしもニコリと微笑みかけてきて、隣の三笠に何かコソリと耳打ちした。三笠は吉本を見て、視線が合うと慌てて逸らした。そうして女に何が囁く。自分について交わされているであろう会話、二人の間だけで交わされる話。何を話しているんだろう、と気になるけど、理由は聞けない。二人を見ていると無性に苛々する。また、女と視線が合う。
「さっきから俺の顔を見てるけど、何かついてる?」
怒りの気配を抑えつけて柔らかい表情で聞くと、女は慌ててうつむいた。
「ごめんなさい。 三笠君から話に聞いてたけど、すごくかっこいい人だったからびっくりしたの」
三笠みたいに馬鹿正直な女。普通本人の目の前でそんなことを言うだろうか。案の定、女は自分の言葉に赤面していた。女は手許のビールを手に取る。残りはほとんどなくて、それに気づいた三笠がお代わりを注文した。女のことにはよく気がつく三笠。だけど吉本のビールが最初の乾杯の時から少しも減っていないことは知らないようだった。
何もないふりをする。ビールの減りが少なかろうが、それを気にかけてもらえなかろうがそんなことどうでもいいことだ。吉本が最初の、温くなったイーるを飲み干すと、隣の門脇が注いでくれた。
「日本酒にしてやろうか」
門脇がそう言い、酒を追加してくれた。一人で杯を重ねてようやく口の回りがよくなりそうになった頃、吉本は、昔付き合っていた女に綺麗だと言われた顔で向かいの女ににっこりと笑いかけた。
「俺さ、君のこと前に見たことがあるんだよ。二、三か月ぐらい前だったかなあ、縁浦の遊園地で三笠とデートしてただろ」
三笠が驚いたように振り向いた。今日初めてまともに視線が合った。吉本はにっこりと、他人行儀に笑いかけてから女と話を続けた。
「俺も彼女と来ててさ、声はかけなかったけど、三笠がやけに可愛い子連れてるなって思ったんだよ」
「そうだったんですか」
女の声など聞きたくないのに、変に自虐的な気持ちがじわじわと自分を支配していった。嫌いな顔も、悲しそうな顔も絶対にしない。面白そうに、楽しそうに、普通に話してやる。
女が会話を三笠に振って、三笠が答えて、みんなで笑う。おどおどこちらの様子をうかがっていた三笠の視線が、楽しいふりの自分の態度を見てだんだんと柔らかくなってくる。きっと安心しているのだろう。俺が何も言わないから。何もないふりにしてやったから。
滑らかに舌は動くのに、喋るごとに胸が痛くなる。平気なのは上っ面だけ。女と話をしている三笠を見ているだけで、息が詰まりそうになる。許されるなら『もう嫌だっ』と叫んで、逃げ出したい。門脇がいなかったら、本気でそうしていたかもしれなかった。
そのうち…機嫌よく話すことに疲れて、吉本は煙草に手を出した。顔だけは笑いながらいたずらに煙草の本数を増やす。よけいなことを考える。深く考えなきゃいいのに、考える。どうして三笠の女と向かい合っていなくてはならないのだろう。どうして三笠の『本気』と一緒にいなくてはいけないのだろう。胸を刺すような痛みがじわじわと広がってゆく。惨めだった。女の顔も形も胸の膨らみも細いウエストもその穏やかな性格も、存在自体が吉本を傷つける。
自分が羨望の眼差しで女を見ていることは認めたくない。子供の時、どうしても欲しかった玩具を目の前で見せびらかされたことがある。自分はその子よりも欲しい気持ちはきっと大きかった。それなのにどうしても自分の手には入らなかった。今はその時の気持ちに似ていた。
疲れて、黙りがちな吉本の前で会話は弾む。彼女の飼っている猫が迷子になったとか、くだらない話。門脇に合わせてたまに相槌を打ちながら、吉本は話を聞き流していた。
来た時から、三笠は吉本に一言も話しかけてこなかった。いつも自分に遠慮しているような三笠が、あまり話を振ってこないのはいつものことだが、一切声もかけてこないのは不自然だった。
三笠は吉本を意識しているし、吉本だって三笠を意識している。和やかな場に流れる奇妙な緊張感。
そういえば、欲しくてたまらなかった玩具。どうしてあれは手に入らなかったんだろう。母親が買ってくれなかったからだ。子供には高価すぎると言って…。
じゃあ今度は? どうして自分は三笠に好かれなかったのだろう。男の好きなくせに、どうして顔も体も標準以上の自分を好きにならなかったんだろう。それ以上の何が必要だったと言うんだろう。長い間、三笠の友人をしてきた。三笠は男が好きなんだから自分や門脇がその対象になってもいいはずなのに、三笠はそんな素振りを見せなかった。友人と恋人の間には、三笠の中ではどういう境界線が引かれているのだろう。
三笠は体だけ持っていった。抱くだけ抱いて、何もかもゼロにしたがったのは、それだけしかいらなかったということだろう。好きならもっと欲しがっただろう。そして謝りもしないこの状態。友人に彼女を紹介するという名目で自分はここにいるけれど、もしかしたら、友人だとすら思われていないのかもしれない。
三笠は嫌いだった。図体ばかりでかくて、無神経で、頭が悪い。一番嫌いなタイプの男だった。門脇がいなければ話すらしたくないと思った時もある。それがどうしてこんなことになったんだろう。もしかしたら三笠はひどいことばかり言っていた自分のことが嫌いだったのだろうか。それなら好かれようと思うのは無理な話だ。そういえば今まで三笠から自分に連絡が来ることはない。何もかも門脇を通して、だ。
自分には価値がない。そう思い一瞬、目の前が真っ暗になった。好きな奴に好かれなかったぐらいで、自分の価値を決めつけなくてもいい。自分は三笠よりも頭も顔も上をいっている。そんな自分より下の奴に好かれなかったぐらいで落ち込まなくてもいい。このままの自分でも、好きだと言い寄ってくる人間はきっと大勢いる。
酔いすぎたのか、女が頬を染めて吸い寄せられるように三笠の肩先に頭を寄せた。それに着づいて三笠は女の肩先をそっと抱いた。見せつけるようなその仲睦まじさに、ようやく立ち直った心が、一気に砕けた。理由なんてそれだけで十分だった。
「どうした」
不意に立ち上がった吉本に、門脇が振り返る。
「ちょっとね、手洗い」
靴を履き、意識的にゆっくり歩く。狭い通路で従業員とすれ違う。角を曲がってみんなから自分の姿が見えなくなったとたんに両足が急ぎ出す。個室に飛び込むなり、吐いた、ふだんなら酔えなくてぼやくことはあっても、悪酔いするような酒の量じゃない。食べたものをすべて吐き出す。胃酸で喉が焼ける。何が悲しいのかもわからないまま…溢れるように涙が出た。止まらない。次から次へと足許に落ちてゆく。嗚咽が漏れ、口許を押さえた。もうあの二人を見たくない。自分を無視する三笠を見たくない。これ以上惨めになんかなりたくない。どんなに理由をつけたところで、気まぐれにセックスして振られたことに変わりはない。
三笠なんか好きにならなきゃよかった。あんな馬鹿で間抜けな男なんか好きにならなきゃよかった。誘わなきゃよかった。抱かれなきゃよかった。コンコンとトイレのドアがノックされる。慌てて顔を上げた。鏡に映る自分の顔は無様だった。濡れた目許も、赤い鼻もひどい代物で…どうやって誤魔化そうと焦る。泣いたなど死んでも知られたくない。顔だけは拭いて個室を出た。そうして気持ちがおさまるまで、席に戻らず通路の隅に立っていた。
鼻と目許の赤味もましになり、心を奮い立たせて席へ戻ると三笠と女の姿はなかった。
「彼女が酔ったんで、三笠が送ってった。家も近いしそのまま帰るって。お前によろしくって言ってたよ」
張りつめていた気がふっと抜けた。
「なんか気分悪そうだったけど、大丈夫か」
心配そうな門脇に、笑って返す。
「大したことない。大丈夫だよ」
門脇はいつの間にか日本酒に切り換えたのか、猪口の酒をクッと飲み干した。
「よかったら、もう少し話していかないか」
「…そうだな」
門脇が銚子を傾ける。吉本は三笠が座っていた席、門脇の向かいに腰を下ろして、小さなため息をついた。
三笠の女は…客観的に見ても可愛いし、優しそうだし、礼儀も知ってる。文句はないという結論に至った。
「可もなく不可もない、つまんない女だな」
吉本の言葉に門脇が険しい目をして、その目に脅されるように吉本は何も言えなくなった。話していかないかと誘ったのは門脇のほうなのに、何も言わずにただ酒を注いでくるだけ。でも吉本も酔いたかったから、いたずらに杯を重ねた。少しずつでは少しも酔えなくて、吉本は通りがかった従業員に冷酒を頼んだ。
「今日の三笠、変だったと思わないか」
名前を聞くだけで、胸が痛む。揺れた指先がテーブルの上の猪口を弾いて、だけど中身のなかったそれはテーブルの上で回っただけだった。
「別に、ふだん通りだったんじゃないか」
「三笠はお前のこと、見ようともしなかった。気づいてただろ」
「いつものことじゃないか。あいつは俺が色々言うから嫌がってるんだよ」
運ばれてきたグラス二つと酒。注ごうと手を伸ばした時に、瓶は門脇に取り上げられていた。ひったくるように奪われて、驚いて顔を上げると門脇はまっすぐに、睨むように吉本を見ていた。
「俺に、嘘をつくな」
門脇の目は、今まで見たことがないほど険しかった。
「お前には嘘はつかない」
羽のように軽い体と、鉛のように重い胸の狭間で吉本は小さく呟いた。
「じゃ聞く。この前に三笠のところに泊まった時のこと、お前は覚えてるよな」
核心に触れる。霞のかかった酔いの一瞬で拭い去られ、怯える自分の目が門脇の真剣な目とぶつかる。何も言えない。それは肯定と同じだった。
「お前はどんなに飲んだって記憶がなくなるなんてことはない。三笠のところに行った時だけきれいさっぱり忘れた、そんな都合のいい話を俺は信じない」
指先が震えた。
「酔ってて全然抵抗しなかったって三笠は言ってた。けど、お前はする気がなかったんだろ。自分から誘ったんじゃ…当然だよな」
いても立ってもいられなくなる。自分の、一番奥にある恥ずかしい感情を無理やり引きずり出されて、眼前にさらされたも同然だった。
「帰る…」
言い捨て、逃げるように靴を履いた。つかまれた腕を振り払い店を飛び出した。いくら急いでも、酔いが絡まってうまく走れない。それでも懸命に逃げた。だけど店を出て少しのところで門脇に捕まった。そのまま細い路地に連れ込まれる。
「どうして三笠を誘ったりしたんだよ」
「知らない」
小さな声で吉本は呟いた。その瞬間、強く肩を揺さぶられた。
「嘘つくなって言っただろ。三笠のことが好きなんだろ。だけど今まで散々三笠のことをけなしてきたから、好きになったけど素直にそうだって言えなかったんだろ。けど三笠が急に結婚するって言い出して、焦って…だから酔ったふりして三笠を誘って、抱かせて、忘れたふりして、あいつ一人に全部責任を負わせるつもりだったんだ」
違う、とは言えなかった。否定できない吉本を、門脇はつらそうに見た。
「どうしてそんなことしたんだよ。好きなら好きだって素直に言えばよかったじゃないか。三笠は人の気持ちを蔑ろにする奴じゃない。お前だって納得できたはずなんだよ。なんでよりにもよってこんな最悪なやり方をしたんだよ」
吉本は壁を背にずるずると座り込んだ。立っていられるほど、門脇に対抗できるほど力は残っていなかった。
「お前が三笠のところに泊まった次の日、俺は三笠に呼び出されたんだ。三笠は酔った吉本を抱いた。だけど覚えてなかったから、怒られるのが怖くて嘘をついたと言ったんだ。だけどそのことをすごく後悔して、どうしようって俺に相談してきた」