後悔、という言葉に、わかってはいても惨めな状況に追い打ちをかけられた。
「やっぱり正直に言わなくちゃけないよなって三笠に言われて…俺は何がなんだかわからなかったよ。お前は三笠のことを嫌ってると思ってたから、どうして三笠を誘うような真似をしたのか全然わからなかった」
吉本は顔をうつむけたまま、唇を噛んだ。
「だけどお前が三笠のことを好きになったのなら、それもあり得ない話じゃないって気づいた。そうなんだろうなってわかった時、俺はお前に腹が立ったよ。だから三笠に『吉本とのことは忘れろ』って言ってやった。お前が最初に嘘をついたんだ。それなら三笠だって嘘をついてもいいだろ」
もう立てなかった。体も心ももうぐちゃぐちゃだった。肩先に触れる指。顔を上げると、門脇の顔に吉本の視線と同じ高さにあった。
「結婚も決まりかけた友達に、お前は最悪なことをしたんだぞ」
門脇に責めたてられて、吉本はもう自分を立ち直らせるための言い訳も考えることができなくなっていた。
「それとも、本当に三笠をからかうつもりであんなことをしたのか」
「違うっ」
遊びなら、あんな恥ずかしいことをしない。こんな惨めな思いをすることもない。
「無茶苦茶やるぐらい、好きだったのか」
吉本は首を左右に振った。好きという言葉を否定する態度。だけど声は出なかった。
「だとしたら…今日、三笠の彼女を見てるのはちょっとつらかったな」
優しい言葉に、胸の中が弾けた。涙があふれて止まらなくなる。吉本は声をあげて泣いた。泣いても泣いても、いくらしゃくり上げても涙はあふれてきた。慰めに、まるで子供にするみたいに頭を撫でられることも、ただ切なさを増長させるだけだった。
酒を飲んで生まれて初めて足が立たなくなり、結局、門脇におぶってもらってアパートに帰った。長い道のりでも、門脇は文句一つ言わなかった。門脇の背中で、コートに顔を押しつけて、声を押し殺して吉本はずっと泣いていた。
「…ないと思うけど、もし三笠から飲もうって誘いがあっても、俺には声をかけないでくれ」
アパートの玄関口で、真っ赤な鼻と目許を擦りながらそう言った吉本に、門脇は浅く頷いた。
「今は顔、見たくないからさ。うまいこと言ってかわしてくれ。もう少し時間が経ったら大丈夫だと思うけど…今は、いい」
「ああ」
門脇は小さなため息をついた。
「じゃあな」
行きかけた背中を、吉本は慌てて呼び止めた。門脇は振り返って、浅く首を傾げる。
「俺のこと、軽蔑するか」
門脇は呆れたようにため息をつくと、
「馬鹿」
そう言って笑った。
「友達だろうが。まったく、俺の周りには三笠といい吉本といい厄介なのばっかりで困るよ」
寒くて目が覚めた土曜日の朝だった、体を震わせながら暖房のスイッチを入れる。カーテンから漏れる日差しが明るくて、何げなく窓を開けると、一面の白い雪が視界に飛び込んできた。
吐く息が白くけぶって、冷たい空気が頬を刺す。窓枠に置いた指先が凍える。白い世界には、車も走っていなかった。けれど歩いている人はチラホラ見える。ぼんやりと外を眺めていたけれど、冷たさに耐えかねて窓を閉め、テレビの電源を入れた。どれも同じ、記録的な積雪のニュースで賑わっていた。電車もバスも止まり、どこも除雪作業に忙しい。だけど自分には関係がなかった。大学は休みだし、今日は出掛ける用事もない。
もう一度寝直そうと吉本はまだ自分の温みの残るベッドの中にもぐり込んだ。温かい幸せが全身を包む。猫のように目を細めて羽根枕に顔を埋めた時、絶妙のタイミングでインターフォンが鳴った。吉本は無視してもう一度目を閉じた。だけどインターフォンはしつこくしつこくなり続けた。耳をふさいでも聞こえてくる。黙ってやり過ごす前に我慢ができなくなり、吉本は寝巻のままベッドから降りた。
不機嫌な気配を全身から滲ませ、眉間に皺を寄せてドアを開ける。開けたとたんに冷たい空気が飛び込んできて、吉本の背中を震わせた。
「おはよ…」
うっすらピンク色の鼻の先を、同じようにピンク色の指先を摩りながら、三笠は強ばったような顔で笑っていた。
「もしかして、寝てた。ごめん…」
三笠の見るのは彼女の顔見せ以来、ほぼ一週間ぶりだった。三笠は右手で首の後ろを所在なさげに掻いた。
「外はすごい雪だよ。たまの休みがコレで俺、ついてないよ。靴も濡れるし…」
吉本は腕組みをしたまま、顔をうつむけた。寝起きの、洗ってもいないみっともない顔を見られたくなかった。それ以上に三笠の顔を見たくなかった。三笠の足許はしっとりと濡れて冷たそうだった。けれど部屋に上がって乾かしていけと言いたくなかった。
「なんの用だ」
そっけなく吐き捨てた。
「人のこと叩き起こしておいて、それ相応の理由があるんだろうな」
「用っていうか…」
外から入り込んでくる風が冷たくて、吉本は小さくくしゃみをした。表に立っていた三笠は慌てて玄関に入ると、後ろ手にドアを閉めた。
「用がないなら帰れ」
「ある、あるけど!」
「それならさっさと言え」
「ん…その…」
言い淀む、そのはっきりしない態度が吉本を苛立たせた。
「用があるならさっさと言え。ないなら帰れっ」
三笠は黙り込む。
「こんな雪の日にわざわざ出てくるなんて、大層な理由だろうな」
「電話が繋がらなかったんだ」
三笠がポツンと呟き、吉本はうつむいたまま首を傾げた。
「お前が進学してから引っ越した先の電話番号を知らなくて、門脇に教えてもらったんだ。けどなんか間違ってるみたいで繋がらないし、携帯の番号も変で別のところにかかる。門脇に連絡取ってくれって頼んだけど、吉本も忙しそうだからって取り合ってくれなかった。それなら、場所は知ってるんだし直接行ったほうが早いかなって思ってさ。で休みの日だからと思って行こうとしたらこの雪だろ。電車もバスも止まっててさ、俺、家から歩いてきたんだ。二時間ぐらいかかった」
二時間もの距離を歩いてきたということ、それを平然と言ってのける三笠に吉本は驚いて開いた口がふさがらなかった。思わず顔を上げた。
「お前は馬鹿か。雪が溶けてからにすればよかったじゃないか」
三笠は上目遣いにチラッと吉本の顔を見た。
「どうしても早く言っときたいことがあるんだ。だから…」
嫌な予感がした。たまらなく嫌な予感がする。
三笠は小さく一度深呼吸すると玄関にさざまずき、両手をついて深く頭を下げた。
「ごめんっ。お前に謝らないといけないことがある。俺、ずっとお前に嘘をついてたんだ」
部屋の中は暖房が利いている。少しも寒いとは思えないのに、背筋が氷を入れられたみたいにゾッとした。三笠が一体何を言い出すのか、想像するのも怖かった。蛙のように土下座していた男が、うつむけていた顔を上げた。
「二週間ぐらい前、お前が俺の家に泊まった時なんだけど、怒らないで聞いてほしいんだけど、あの時…俺、お前に…」
眩暈がしそうになる。三笠と寝ただけで自分は十分惨めになった、もう忘れてくれればいいのに、ここでさらに恥の上塗りをされないといけないんだろうか。
「お前とさ、その…」
先を言うまでに、吉本は三笠の胸ぐらをつかみ上げていた。
「それ以上何か言ってみろ。殺してやる」
唇を震わせながら三笠を睨みつけた。三笠は口を半開きにしたまま戸惑ったような顔をした。
「知ってるのか」
しまった、そう思ったけどもう遅い。体中の血が一気に足許に流れてゆく。胸ぐらをつかんでいた手を、今度は逆につかまれる。折れるかと思うほど強い力だった。
「知ってるんだよな。 門脇に聞いたのか。でも門脇は吉本に話したなんて言ってなかったのに…」
「帰れっ」
腕を振り払おうとしたのに、ちっとも離れてくれない。
「俺のアパートに泊まったあとで、体とか変な感じしなかったか。その…腰…とか」
露骨な言い方に、吉本は顔がカッと赤くなった。
「言うなっ。平気なわけないだろ。あんなに何回も…」
三笠の動きが止まる。吉本は言わなくていいことまで喋ってしまった自分に気づいた。
「覚えてるんだ。あの時のことお前、覚えてるんだよな。じゃ、どうして嫌がらなかったんだよ。どうしていつもみたいに俺のこと怒らなかったんだよ」
噛みしめた奥歯がカタカタと鳴る。否定の罵声も、いつもの憎まれ口もすぐには出てこなかった。
じっと見つめられた。真剣な目だった。
「もしかして、俺のこと誘ったの?」
殴るつもりで腕を振り上げた。だけどそれは相手の頬に届く寸前で遮られた。
「俺のこと、好きなの?」
「出てけよ、出てけっ」
もう繕いようもない。外へ放り出そうとするけれど、三笠の力のほうが強くてそれもかなわなかった。短い攻防のあとで、吉本は不意に雪の気配に抱きしめられた。寝巻の布地、顔、髪に溶けた結晶が染み込む。心臓が、どちらのものかわからないほどに激しく鼓動していた。混乱して動揺する吉本の耳許に三笠が呟いた『やりたい』その言葉に意味も、吉本もまともに理解することができなかった。
ベッドの上に放り投げられて、抵抗する前にむしり取られるように服を脱がされた。服を剥ぎ取る乱暴な指先を見ながら、吉本は小さく震えていた。露になる素肌に冷たい接吻が落ちる。そのたびに背筋がわなないた。太い指先で股間を握られるだけで、感じて固く勃ち上がるそこがみっともなかった。
「やめろて、やめ…」
容赦なくいたぶられて、追い詰められて我慢できずに暴発する。股間の湿った感触に恥ずかしくて死にそうになる。両手で顔を覆った。こんな自分の顔など見られたくなかった。仰向けのまま大きく両足を開かされたのはその時、同時に顔を隠してた両手を取り払われる。視線が合うと同時に貫かれた。
「痛っ…痛っ…」
慣らされもせずに挿入されて、痛みが走る。そんな吉本の喘ぎなどおかまいなしに、三笠は腰を使う。激しく揺さぶられて、中に出される。少し時間を置いてまた揺さぶられて…何度も犯された。そんな言い方は適当じゃないかもしれない。吉本も三笠の腹を汚したからだ。手足に力が入らなくて、人形みたいにグラグラ頼りないのに、三笠に突っ込まれたソコだけが勝手に感じていた。
何度目かの射精のあとで、三笠は体を繋げたまま吉本の体をゆっくりと抱き起こした。三笠の体を跨いだままで膝の上に座る格好になる。浅ましい姿に目眩がする。三笠は待ちかまえていたように小さな胸を顔を埋めた。先を軽く噛み、舌先でつつく。両方ゆっくりと時間をかけて弄んでいた。
「俺のこと、好きなんだろ」
三笠の肩口に頭をのせて、熱く感じる体と氷みたいに冷めた心で吉本はぼんやりと壁の模様を見ていた。軽く腰を揺さぶられることでハッと我に返る。三笠は同じことをもう一度、聞いた。それまで何も言わず、ただ体を苛んでいた男がそう聞いてきた。
「抱かれたいって思うぐらい好きなんだろ。俺のどこがいいの」
答えられない。答えられるはずがない。自分もどうして、よりにもよって三笠だったのかわからないのに。黙っていると、両肩を強くつかまれた。視線が一瞬だけ重なって、それが嫌で吉本はうつむいた。
「顔、上げろよ」
それでもうつむいていると、いきなり両腕に手を添えられて、強引に引き上げられた。そこには、今まで見たことのない、真剣な三笠の顔があった。
「こんな言い方したらお前が傷つくかもしれないけどさ、俺はお前のことなんてなんとも思ってなかったよ。意識したこともなかった」
胸が痛い。傷つくかもしれない、どころじゃない。傷ついた。想像したことはあるけれど実際に言葉にして言われるのとは感触が違う。自分だけが格好悪くて、情けなくて、吉本は三笠の髪の毛を思い切り引っ張った。
「痛っ」
三笠は眉をひそめ吉本の手を払いのけた。触れ合っているのも嫌で繋がりを解こうと立ち上がりかけると、それに気がついたのか三笠は吉本の腰を強く自分に引き寄せた。まだ話は終わってないとばかりに。
「悔しい? 俺になんとも思われなかったのが悔しいか」
こんなに意地の悪い男だとは思わなかった。自分をいたぶって楽しんでいる。三笠は薄く笑いながら言葉を続けた。
「口悪いもんな、お前ってさ。冷たくて、意地悪で、よく人のこと鼻先で笑ってるもんな。馬鹿な奴だって、そんな風にさ」
伸ばされた両手は、言葉とはうらはらに優しく吉本の頬をくるんだ。そんな仕種に戸惑っている間にそっとキスされる。
「でもさ、あの寝た日は…お前別人みたいだった。いやらしくて、甘くて、優しくて俺、……夢を見てるみたいだった」
三笠はじっと吉本の目を見つめた。
「忘れられなくなった。今までお前のことなんて意識したこともなかったのにさ」
強く抱きしめられる。
「優しいお前は好きだよ」
鼓膜に響く声。猫を撫でるように背中をそろそろと愛撫される。
「俺が好きなんだろ。セックスしてもいいって思うぐらい好きなんだろ」
たとえそれが図星でも、素直に『そうだ』と答えることができなかった。唇を強く引き結ぶ。
「俺のこと好きだって言えよ。好きだからそばにいてほしいって言えよ。もっと俺に優しくしろよ。そうしたらお前の気持ちに応えてやる…お前だけを好きにあってやるから」
今まで見たことがない強気で不遜な態度。腹が立つ。潤んだ目で睨みつけると、三笠の目は訴えるように震えていた。
「確かなものが欲しい。言葉でも態度でもなんでもいいから…あやふやなものに賭ける気はないんだ」
お互いに黙り込む。自分が答える番なのはわかっていた。だけど三笠に『好きだ』と言いたくない。本気で好きでも好きだと言いたくない。こんな時までプライドのカケラが姿を覗かせる。
何も言わない吉本の耳に、三笠の小さなため息が聞こえた。同時に腰を押され、唐突に体が離れた。打ち込まれたそれが抜けていくゾッとした感触が、背中を震わせる。
「わかったよ」
諦めたような口調だった。
「もういい」
吉本をベッドの上に置き去りにして服を探す広い背中。一度離れてしまうと、もう手を伸ばすのすら躊躇われた。さっきまで抱きしめていた体なのにひどく遠くなった。自分から動けないことの不自由さ。
シャツを着ながら、背中を向けたまま三笠は呟いた。
「結局、お前は何も言わないんだ」
綺麗に服を整えて出ていこうとする後ろ姿。
「ちょっと待てよ、待てったら」
声は出ない。でも何か言わないと三笠が出ていく。本当にいなくなる。それだけはわかった。三笠は玄関で立ち止まった。靴を履くのを、濡れた靴に足を突っ込むのを躊躇していた。吉本は喉許に手をあてた。
「おっ、俺を置いていってみろ。殴り飛ばしてやる」
声は上擦っていた。しかも変な日本語。三笠はチラと振り返った。
「こっちに来い。俺に歩かせるつもりかっ」
三笠は履いたばかりの靴を脱いで吉本のそばに戻ってきた。自分が何か言うのを待っている。言わなくてはいけない。そのために引き止めたのだから。好きでも、愛してるでもなんでもいいから言わないと……。
焦る心に瀕死のプライド。なんだかよくわからないせめぎ合う心の中とふと涙があふれた。ぼろぼろ零れる。呆気にとられた三笠の表情が嫌でうつむいた。呼び戻しはしたものの、吉本は結局、何も言えずに泣いた。
三笠はそんな吉本をしばらく眺めたあと、小さくため息をついてかがみ込むと、涙に濡れた頬にそっと手をあてた。
「俺のこと好きだって言ってみな。俺、お前の口から聞きたい」
子供のようにあやされて、耳許で囁かれてそれでも抵抗できるほどに強くなかった。また触れることを許された首筋に、背中にかきつきながら吉本はうわ言のように繰り返した。
「お前なんか、大嫌いだ」
嫌いだ、と何度も繰り返しながら必死にしがみついてくる吉本をあやしながら、呆れたように三笠は呟いた。
「お前って、言ってることとやってることが正反対」
三笠は来る腕を拒まなかった。抱いて、耳たぶを甘噛みして、そして泣きじゃくる吉本に誘われるように、再び服を脱いだ。
先に目を覚ましたのは吉本だった。あたりは真っ暗で何も見えない。隣で折り重なるようにして眠る男が目を覚まさないようにそっと体を起こし、ベッドサイドのスタンドをつけた。時刻は夜の七時、もっと遅い時間だと思っていただけに拍子抜けした。
腰から下に力が入らないし、ひどくだるい。吉本は汗ばんだ額をそっと押さえた。シャワーでも浴びたかったが、歩くのすら億劫だった。穏やかな寝息が聞こえて、ふと振り返る。吉本が泣いて許しを乞うほど精力的に動いていた男だとは思えないような、子供っぽい寝顔が枕に半分、埋まっていた。うっすらと見える不精髭が寝顔に反して男を主張する。そっと触れると、指先にざらりとした感触が残った。
なんだか愛しい、無性にそんな気持ちが込み上げてきて何度も何度も顎の先を、唇を撫でた。三笠は目を覚まさない。どうせ眠っているんだから、吉本はそっとかがみ込んで唇にキスした。心ごと落ちてしまいそうなキス。
結局、結局のところ、自分は三笠に本気に見せるのが怖かった。本気を見せて、本気で傷つくのが怖かった。言わなければ形にならない。残らないから傷つかない、ずっとそう思っていた。けれど人の気持ちは黙っていても伝わるほど雄弁じゃなかった。
これからどうなるんだろう、と思う。やっぱり三笠はあの女と結婚して、これもお慰みのセックスにされるんだろうか。それとも『好きになってやるから』の言葉通り、自分と一緒にいてくれるんだろうか。あれだけ精力的に愛されても、吉本には三笠のこれからの態度に自信がなかった。
吉本は眠る男のかたわらにそっと体をすり寄せて、熱い胸板に鼻先を押しつけた。三笠の匂いが気持ちよかった。そうしているうちになぜか涙が出た。切なさに、吉本はスンと鼻を鳴らした。
「好き…」
小さな声で囁いたあと、吉本は大きな体を引き寄せて目を閉じた。
三笠の瞼が、告白の言葉にわずかに震えたことに吉本にとうとう気がつかなかった。
恋は盲目
カーブでバスが大きく左に傾いた時、真ん中の通路を歩いていた磯崎亮介は、咄嗟に座席にある持ち手に掴まっていた。右手の缶ビールがゴトリと足許に落ち、ガラガラと後方の座席へ向かい転がっていく。
「もう磯崎っ。何してんのよっ」
一番後ろの席に腰掛けていた寺尾美和が、転がった缶ビールを拾って唇を尖らせる。『ごめん』と謝っても、不機嫌そうな表情は変わらない。バスはカーブの多い道を走っていて、磯崎は左右によろけながらようやく後ろの席までたどり着いた。感謝や労いの言葉もなく引ったくるようにして残りのビールを奪い取った寺尾は、ショートカットの髪を指でかき上げたあとで落とした缶を磯崎の前に突き出した。
「これ、もう一回冷やしといて。今開けると中身が飛び出しちゃうから」
持ってきてやった人間に対する気遣いは一切ない。そもそもどうしてこのクソ意地悪い女のために自分がビールをデリバリーしなくてはいけないのか。言わせてもらうなら、寺尾は自分と同じ二十四歳で同期だ。シェイクされたビールを片手に自分の席に戻ろうとすると、背中に声がかかった。
「あ、おつまみ持ってきて~」
振り返ると、和田千佳が笑顔で右手をひらひらと振っていた。
『欲しいものは一度に言えっ』と言いたいのを右手をグッと握りこむことで我慢する。和田は磯崎よりも二つ年上で、派手な顔立ちの上に化粧が濃い。髪も長くて大きなウエイブがかかり、夜の街を歩く姿はまるで高級クラブのホステスだった。自然体で健康的な女の子が好みの磯崎のタイプではない。バスの最後列、性格の悪い二人の女に両脇を囲まれて足を組んで座っているのは、これまた前者に負けず劣らず嫌な上司、吉本智係長だった。ご自慢の長い足を堂々と組み替える姿は、気障っぽくて背中にムズムズと痒いものが走る。二十八歳で係長、仕事ができて部内でも出世頭の男は長身で細身だが、貧弱ではなかった。身につけているものはいつもさりげなく趣味がいい。顔は小さく整っていて、高い鼻筋が人目を引く。あまり表情に変化はないが、笑った顔は『可愛い』と女子社員に大評判だった。けれどその『可愛い』顔が曲者だということを磯崎はよく知っている。ついでに言わせてもらえば、今回のサマーキャンプの幹事は吉本係長、その人だ。どうして直属の部下というだけで、まるでお世話係のように自分がキリキリと働かなくてはいけないのだろう。
「磯崎君」
涼しげな顔の上に密かな微笑を浮べ、係長はゆっくりと胸の前で指先を組み合わせた。
「みんなのために頑張って働いてくれ。今日は君の力を遺憾なく発揮できるいい機会だから」
周囲の人間が聞く分には、単なる部下への激励と思うだろう。けれど磯崎には言葉の端々に含まれる微妙な嫌味な部分がよく見える。その微妙さゆえに腹が立つ。奴の意図するところを要約するなら 『会社の仕事はろくにできないんだから、こんな時ぐらいは役に立ってくれないとねえ』という感じだろうか。仕事ができないという自覚はあるし否定するつもりもないが、それを理由にこき使われるのは理不尽だ。しかも七月最後の貴重な三連休をっ。バスが山間を抜け、揺れなくなったのをいいことに磯崎は早々に追加のおつまみを運ぶと最前列、バスに備え付けの冷蔵庫の真ん前にある自分の席に腰を落ち着けた。ちなみにバスでの席順を作ったのは係長だ…。
「お世話係も大変だね」
隣に腰掛けた男が労ってくれる。バスへの荷物の積み込みから始まり、出発したらしたで飲み物とおやつの配布、休憩所での点呼と働き回っていた磯崎が今日初めて耳にする優しい言葉。やさぐれた心が思わずホロリとなった。
「いいんです。俺は下っ端だから…」
謙遜して答える。目が合うと男はニコリと微笑んだ。スポーツでもしているのかしっかりとした体格。背も高く、角刈りに近い短い髪は今の流行ではないけれど、朴訥とした雰囲気によく似合っていた。彼が磯崎が働く会社の下請けをしている建設会社の社員で、三笠高志といった。キャンプには社内の人間だけではなく、関連会社からも数人だけ参加している。
「智は人使いが荒いから、君も大変だなあ」
智と言われても最初は誰のことなのかわからなかった。それが顔に出ていたのか、男は右に首を傾げた。
「下の名前じゃピンとこないかな。吉本だよ、吉本智。あいつ、高校の同級生なんだよ」
同級生、と聞いて驚いた。確かに見た目は同じぐらいの歳に見えるが、持っている雰囲気が全然違う。色に例えるなら係長の周囲は外面のよさと内側の腹黒さが混ざったネズミ色で三笠の周囲はオレンジ色だ。
「じゃあ仲がいいんですね」
三笠は数秒黙り込んだあとで『まあね』と返事をした。その微妙な間に、過去、三笠と係長が職場で派手に言い争っているのを目にしたことを思い出した。それはわが社、サンライズコーポレーションの抱える建築デザイナーがプロデュースした個人住宅の建設を、下請けの岩田建設会社に依頼した際のトラブルだった。着工の遅れとともに完成も遅れる見通しとなり、それを知った係長は報告に来た三笠をものすごい勢いで責めたてた。その凄まじさといったら尋常ではなく、いつも係長のファンだと言っていた女の子が『怖い』と隣で小さくなったほどだった。周囲の視線も構わず激しく突っかかる係長を見たのはあとにも先にもこの時だけ。だから磯崎は仕事の遅れだけが理由ではなく、個人的に二人は馬が合わないのではないかと思ったほどだった。同級生だったというのはら、あれは親しさゆえの態度だったのだろうか。けれどあの時、大勢の中で責められる三笠は一人針の筵で、傍目から見ても気の毒だった。それを思うと係長は友人にさえ情
ない人だなと思う。今回の自分の扱いにしてもそうだ。さっきの微妙な嫌みを思い出し、怒りが再燃する。係長にはあからさまに裏表がある。部内のほかの人間には愛想がよく、優しい人で通っているのに、自分にだけ厳しく、容赦がない…。
磯崎は二年前、個人住宅からマンション経営まで幅広く手がけるサンライズコーポレーションに就職した。自分汚出身大学を思えば一流企業に受かったのは奇跡だったが、現実を思い知らされるかのように就職してすぐに地方へ飛ばされた。そして今年の春にようやく本社勤務の辞令が下りて戻ってきた。小さな営業所でのんびり仕事をしていたのがいきなり激戦区で、同期がテキパキと仕事をこなしていく中、会社のシステムから把握できない磯崎にはお茶くみとコピー取り以外の仕事は回ってこなかった。支社でも営業が主だった磯崎は、いきなり建設会社と設計者の間に立ってコスト内に抑えられるよう調整をしろといわれても、何から手をつけていいのかわからなかった。
就職してすぐ地方に飛ばされたのも不幸なら、自分の上についたのが吉本係長というのも運の尽きだった。最初は人当たりがよく、かっこいい人だなと素直に思っていた。けれど係長は磯崎が何も仕事ができないとわかるや否や…優しい人という表の仮面を脱ぎ捨てて鬼になった。係長には愛用のパーカーのボールペンがあるが、それは時に磯崎の頭を直撃する金棒になった。カンカン殴られる痛みもさることながら、何よりも心を傷つけられるのはその『嫌み』だった。
『支社でもお茶くみをして給料をもらっていたのかい? いいご身分だね』
『いくら営業だからって、勉強する時間がなかったわけじゃないだろう。それとも学生の時みたいに試験か宿題がなけりゃ何もできないのかい』
『小学生じゃないんだから、言ったことは一度で覚えてほしいね。それとも君の海馬は年中眠ってばかりいるのかな』
朝から晩まで、何かにつけ嫌みの連続。けれど部下という立場だから反論もできない。中には『磯崎は係長にずいぶん目をかけてもらってるよな』という人もいたが、この苛めまくられている実態を見てほしかった。大学時代、カヌー部で培った根性と忍耐の糸はボロボロで断絶寸前。怒りと悔しさのはけ口である酒は日増しに量が増え、もしこれでアルコール中毒になったら、ストレスが原因だと言って労災に申請できるだろうかと真剣に考えている。
磯崎が自分の周囲に暗雲を立ち込めさせている間に、隣の男は何度も首を捻ってはバスの後部に視線をやった。ようやく落ち着いて座ったかと思うと、肩を落としてため息をつく。
「あの…変なこと聞くかもしれないけどさ、智って職場でもモテてるの?」
バスの後部座席を見た通り、今は和田と寺尾が係長争奪線の最前線を走っている。けれど素直に『モテまくっている』と言うのも癪だった。
「まあ…そこそこじゃないですか」
本当は独身の女子社員のほぼ全員が出世頭で清潔感のある男前の係長に恋心を抱いていたとしても…。ふと、給湯室の外で偶然聞いた、女の子たちの噂話を思い出す。
『吉本係長って、やっぱりかっこいいわよねえ』
うっとりとした表情が目の前に浮かぶような、ため息まじりの声だった。
『スタイルも顔もよくて、おまけに仕事もできるなんてできすぎですよ』
『最近、和田さんと寺尾ってすごいよね。もう押して押してって感じでさ。けど全然相手にされてないのよ。ホント、おっかしい』
ドッと沸き上がる笑い声に、女の残酷な本質の一端を見たような気がした。
『でもさ、係長って恋人がいるんでしょ?』
『大学時代から付き合っている人で、今は海外留学中らしいわよ。帰ってきたら結婚するんだって』
給湯室でダラダラと喋っていた女の子たち四人は、通りがかりを装った磯崎を取り囲むと、氏心丸出しの可愛い顔で『吉本係長の恋人ってどんな人か知らない?』と聞いてきた。そんなもん知るかっ、と思いつつ『俺はそういうの、あんまり興味ないし…』と言っていると、女の子たちは『なあんだ』とつまらなそうに呟いてあっという間に散らばっていった。係長の恋人の存在にはなんの興味もないが、デブで不細工で、オマケに性格の悪い女だったらなあ…と心密かに思う。 それなら素直に『ざまあみろ』と思うことができるからだ。
「やっぱりモテるのか…そうだよな。あの顔だもんな」
呟き、うつむいて深く考え込む男を横目にチラリとうかがう。高校の同級生というからには、係長の人に知られたくない数々の逸話も知っているかもしれない。あのサディストの弱みを握ることができたら…磯崎は両手をグッと握りしめた。
「あの…高校生の頃の係長ってどんな感じだったんですか?」
さりげなさを装って聞いた。三笠は顔を上げ、磯崎を見た。
「智が高校生の頃?」
「ええ…まあ」
弱点というか、弱みが知りたいからとは言えなかった。