「係長って、その…真面目で完璧主義なんですよ。学生の頃から優等生だったのかなと思って」
我ながら上手い理由づけだと思った。三笠は『うーん』と唸ったあとで、頭を掻いた。
「頭はよかったし真面目でみんなに信頼されてたけど、優等生って感じでもなかったな。よく遊んでたし。けどあいつ、俺だけにはアタリがきつくってさ。頭よくなかったから色々と勉強を教えてもらってたんだけど、飲み込みが悪いってよく怒鳴られたよ」
苦笑いした男の顔に、磯崎は瞬時にして自分と同じ匂いを感じ取った。
「あの…」
口許に手をあて、グッと声を潜める。
「こう言っちゃなんですけど…係長ってお友達相手にもアレなんですか?」
アレの意味が掴めないのか、三笠がしきりに首を傾げる。
「お友達にアレって?」
言おうかどうしようか迷う。仮にも友達なのだから、下手に口走って係長の耳に入ってしまっても困る。けれど、とにかく今は自分の不幸な境遇を誰かに話したいという気持ちのほうが勝った。それにこの人なら、温厚そうなこの人ならむやみやたらと自分のことを悪く言ったりしないような気がした。
「実は俺…吉本係長に苛められてるんです」
うなだれて訴える声は、我ながら悲壮なものだった。
「苛められてるって?」
三笠が身を乗り出してくる。
「俺、あんまり仕事のできるほうじゃなくて、係長に目をつけられてるんですよ。何かあるごとに嫌みを言われてて…。今回のキャンプも自由参加だったのに『もちろん手伝ってくれるよね』の一言で断れなくて来ることになったんです。確かに手伝うとは言ったけど、買い出しとかキャンプ用品のレンタルとか集金とか全部やらされて、こき使われて、それでいて係長は全然手伝ってくれないんですよ」
不意に両手をガッシリと握られた。驚いて顔を上げると、そこにはあふれんばかりの同情に満ちた目があった。三笠は握り締めた磯崎の両手をブンブンと上下に振った。
「俺、わかるよ。君の気持ち」
胸の中、ポッと希望の花が咲いた気がした。
「俺も智に言われるんだよ。頭が悪いとか、足が短いとか…あいつ容赦ないだろ」
「そうそう、そうなんですよっ」
身体ごと大きく頷いて、同意する。
「俺は本当に馬鹿で仕方がないって部分もあるけど、あいつには人を思いやるって心がないんだよ。馬鹿は傷つかないって本気で思ってるみたいでさ。思いやりがないならないでみんなに同じ態度ならいいけど、俺以外の人間には優しいんだよ。外面だけは完璧で、ムカつくんだよな」
思いがけない同士の出現を得て、磯崎は嬉しくなった。男二人でじっと見つめ合う姿は周囲から異様に映ったはずだが、バスの最前列に座っていたのでとりあえず好奇の視線にはさらされずにすんだ。
「確かに智はかっこいいよ。顔は綺麗だし、背は高いし、足も長い。服も上手に着こなしてセンスもいい、虫歯が一本たりともないのが自慢なんだけど、自分の『いいところ』を自慢しすぎて、ちょっとナルシストなところがあるんだよ」
三笠は肩を落とし、フウッと息をついた。『ナルシスト』と係長を表現する上で磯崎が初めて耳にする言葉だった。
「いつも鏡の前で全身チェックしてさ、腹に肉がついたとか尻が垂れたとかブツブツ言ってんだよ。 男のくせにちょっと神経質だよな。
そんなに気を遣ったって誰に見せるわけでもないのにさ」
職場では自分を『かっこいい』とか『綺麗』というような俺様的な発言は耳にしたことはないが、確かに態度だけは人一倍堂々としていた。
「綺麗好きで潔癖に近いしさ。ちょっとぐらい部屋が汚れてても気にしなきゃいいのに、目くじら立てて掃除するんだよ。風呂の時間も異様に長くて一時間ぐらい平気で入ってるしさ」
三笠も係長について相当『不満』が溜まっていたのか、次から次へと出てくる。
「まあ自信過剰のナルシストも、潔癖ももう諦めてるからさ…あと少しだけ俺に優しくなったらなあって思うけど…」
この人もあの係長を相手に相当苦労したんだと思うと、同情を禁じえなかった。磯崎は目の前の備え付けの冷蔵庫からビールを取り出すと三笠の前に差し出した。
「これ、飲んでください」
「おっ、ありがとう。悪いね」
嬉しそうにニッと微笑むと、三笠はさっそくプルリングに手をかけた。美味しそうにゴクゴクと喉を鳴らす。その横顔を見ているうちに、この人もいい顔をしているなと磯崎は思った。短い髪と男らしい輪郭、眉毛。優しい目許。黙ってたら…きっと二枚目になる。
「あの係長にはこの世に怖いものなんてないんでしょうね」
ビールをあっという間に飲み干し、プハッと息をついた男が手の甲で口許を拭った。
「あいつはさ、幽霊とか怖い話が駄目なんだよ。テレビで心霊特集とかやってたら必ずチャンネルを変えるし。あとは爬虫類と虫だな。蛇とかカエルとかゴキブリとか蜘蛛とか、形のグロテスクなものには絶対に触れないんだよ」
磯崎は心の中のメモ帳にしっかりと『幽霊・虫』と書きつけた。背後から『ドッ』と笑い声が起こる。振り返ると係長が両脇に女の子に囲まれたまま楽しそうに笑ってた。
「磯崎くーん、係長がビール欲しいって」
まるで店のボーイを呼ぶように和田が手を上げる。やけくそ気味に『はーい、ただいま』と愛想よく返事をしてから、冷蔵庫の扉を開けた。仰せつかったビールを手に最後尾まで歩く。係長に差し出すとそれは横から獲物をかっ攫うカラスの敏捷さで寺尾の手に奪われた。磯崎の手からひったくったビールを寺尾は『はいっ、どうぞ』と笑顔で係長に差し出す。和田の濃い化粧の上にビシッと細やかなヒビが走った。
「それ、私が係長に頼んであげたのよ」
「でもここまで持ってきたのは磯崎ですから」
寺尾はツンとすまして答える。和田は悔しそうに赤い唇をギリッと噛み締めた。けれどすぐに開き直って『係長、何か他に欲しいものはないですかあ』と甘くしなだれかかった。それを見ていた寺尾が今度は険悪な目をする。
「この暑いのに、そんなにくっついちゃ係長が迷惑じゃないでしょうか」
「係長は暑いなんてひとっことも言ってないもの…」
人目もはばからず恋愛バトルの火花を散らす二人は、傍目から見ても怖かった。けれど当の係長は平然としたもので、その間に腰を下ろしたまま上手そうに冷えたビールを飲んでいる。片方に決めるか、両方振ってやるなりしてやればいいのに…といらぬお節介を考えているうちに、視線が合った。
「三笠さんはどうしてる?」
係長がそう聞いてきた途端、寺尾が反応した。
「あのう、三笠さんって誰なんですかあ?」
係長はニッコリと笑った。その顔は磯崎分析によると、外交用の愛想笑いその①だ。
「岩田建設のうちの担当だよ。何度かうちにも来たことあるだろう。今回は親睦会も兼ねてってことで下請け会社の人にも声をかけたんだ」
「あ、わかった。こっと男っぽい感じの人でしょう。髪が短くって…」
和田が相槌を打つ。係長も『そんな感じかな』と答えた。
「どうしてるって別に…ビール飲んだり不通にしてますけど」
磯崎の返事に対するコメントはなかった。様子を聞いてくる、ということはそれなりに少しは気にかけているということなのかもしれない。
「けど三笠さんて感じのいい人ですよね」
係長が驚いたように目を大きく見開き、ニコリと笑った。
「そうかな」
そうかな、と言いつつひどく嬉しそうな顔をする。友達を褒められると嬉しがるなんて、やっぱりそこそこ仲がいいのかと思う。
「ねえねえ、係長。夜にはみんなで花火をするんでしょ?」
寺尾が話の間に割り込んでくる。
「その予定でたくさん買ってきたから、楽しみにしてるといいよ」
寺尾と和田はユニゾンのように『楽しみ』と浮かれた声をあげた。係長はあっさり『買ってきた』なんて口にしたけれど、大量の花火を実際に買い付けてきたのは磯崎だ。玩具屋のレジを打っていた中年の男に『ひょっとして爆弾でも作る気なんじゃないですか』と言われるほど買わされ、今日も氷の入ったクソ重たいクーラーボックスとともにゼイゼイ息を切らしながら担いできたという涙ぐましい努力を、ユニゾンの二人はおろか、ここにいる誰も知らない。自分だけがつらい思いをして、それがちっとも報われないと思うと、磯崎の胸に虚しい風が吹いた。どうにかして目の前の元凶に一矢報いてやりたい。
「余興が花火だけっていうのもなんだし、どうせなら夜に肝試しでもしませんか」
さりげなーく磯崎は切り出した。それまで笑顔の仮面をかぶっていた係長の表情が、途端、水のように強張った。
「えーっ、美和怖いっ」
寺尾がわざとらしい声をあげて係長にしがみつく。普段なら『大丈夫だよ』と声をかけてやりそうなものなのに、全身を硬直させた男は無反応だった。
「ちょっと、少しは自制しなさいよ。係長が困ってるじゃないの」
和田が寺尾のほうを小突く。
「そんなマニキュアの剥げた恥ずかしい指で、触らないでくれませんか」
女同士のバトルの気配に係長はハッと我に返り、そして磯崎を睨みつけた。
「肝試しは駄目だ。準備もしてない」
反対されても、磯崎は構わず胸を張った。
「準備は俺がしますよ。そんなに大した仕掛けは作らないし、任せてください。じゃっ」
踵を返す。背中にかかった『おいっ』という声も無視して自分の席に戻る。シートに腰掛けるなり、磯崎は『やった』と両手でガッツポーズを作った。隣の席でうとうと眠っている、自分に貴重な情報を与えてくれた三笠に心の底から感謝した。寺尾か和田をそそのかして、係長と一緒に肝試しを回らせる。驚かせて腰を抜かし、恐怖におののく上司の顔を想像しただけでわくわくしてきた。そんな楽しい気分もほんの数分。背後からスパンと頭を叩かれ、誰かと思って振り返ると、すぐ隣の通路から眉間に皺を寄せ鬼のような形相をした係長が自分を見下ろしていた。あまりの怖さに思わず姿勢を正す。
「肝試しなんてやってみろ。殺すぞ」
言っていることはすごいが、周囲のことを気遣ってか声は小さかった。
「いっ、いや、でも…その…たかが余興で…」
社内で叱られてる時と同じように、だんだんと声が小さくなる。
「あんな非現実的で不健康なものが俺は大嫌いなんだよっ」
ウウン…と隣の男が小さく唸り、目を覚ました。三笠はふわっと大きく欠伸をして目を擦ると、係長の顔を見て『あれ、智?』と首を傾げた。するといきなり係長は身を乗り出すようにして
素手で三笠の頭をバシンと叩いた。
「昼間っからトドみたいにグウグウ寝てるんじゃないっ」
寝ていただけで殴られるなど、傍目から見ていても気の毒だった。可哀相な三笠は殴られた頭を自ら擦りながら、上目遣いに係長を見上げた。
「だって、他にすることないからさ…」
拗ねたように唇を尖らせる。そこには単なる取引先の相手というだけではなく、もっと近い親密さがあった。三笠は腰を浮かして体をねじり、バスの背後を覗き込むとポツリと告げた。
「なあ、俺お前の隣に行きたい」
係長の頬がピクピクと引き攣るのが見て取れた。
「色々話したいこともあるしさ」
限りなく強張った顔で、それでも笑っている係長の顔が怖かった。
「お前の軽いオツムの中身がきちんと自分の立場をわきまえられたなら、隣に座らせてやらないでもなかったけどなっ」
好き勝手言われる三笠は、まるで会社での自分の姿を見るようだった。
「そんなこと言わずにさあ」
「うるさい、黙れ。隣に来たら聞かれるがままペラペラ喋るに決まってるんだ。俺の会社での立場も考えろ」
吐き捨て、係長はもとの席に戻った。三笠はつまらなさそうに『ちぇっ』と舌打ちすると、靴を脱いで踵を椅子の端に引っ掛けた。
「来いって誘ってきたのはあいつなのに、ホント感じ悪いよなあ」
「いくらなんでもあの言い方はないですよね」
「そうだろ、そう思うよなっ」
三笠が勢いよく振り返る。二人は無言のまま見つめ合い、同時にフーッとため息をついた。
三時間のバスの旅を経て午後一時過ぎ、隣県の海岸に着いた。可愛いコテージが海辺にできたことと、周辺の道路やスポーツ施設が整えられたことからここ一、二年で注目されはじめた場所だった。車窓からキラキラ光る海が見えた時には少し感動したが、バスが止まり炎天下のアスファルトに降り立った時は、そのむせ返るような熱気に一抹の不安を覚えた。総勢三十名ほどの一行は、四、五人に分かれてそれぞれ割り振られた宿泊先のコテージへと引き上げていった。そんな仲、磯崎は一人でレンタルしたアウトドア用の簡易テーブルや椅子をバスから下ろし、係長に言いつけられた場所へと黙々と運んだ。ギラギラ光る太陽、目がくらむほどの強い日差しに一往復もしないうちにTシャツの背中や額に大量の汗が滲む。『暑い、暑い、暑い…』頭の中で蒸し暑さが回る。
早々に水着に着替えた女の子とすれ違う。『頑張れ、磯崎君』と声はかけてくれるものの、手伝ってくれようとはしない。大学時代、カヌー部で培った重量感のある体と屈強な体力、発達した上腕二頭筋が恨めしかった。もし自分が係長のように細身だったら、きっと誰かは手伝ってくれたんじゃないかと思うからだ。昔は『すごーい、がっしりしてる』と賞賛を浴びた自分の体も、今は『でかくて暑苦しい図体でむやみやたらにウロウロするなっ』と迷惑がられている。
六往復して、ようやく荷物のすべてを運び終えた。大して疲れたわけではないが、気持ち的にげんなりとしたまま自分の割り当てられたコテージへと向かった。磯崎は係長と三笠、そして建築デザイナーである池谷とともに泊まることになっている。心安らかな睡眠の時でさえ、自分はあの係長から逃れられないのかと思うと切なかった。そうしてコテージに着き、自分の荷物を床の上に置くや否や、荷物の運搬に対する労いの言葉もなく係長に次の用を言いつけられた。他の人がコテージでゆっくりと休み、近くにある森林公園で散歩をし、はたまた海へ行くなどそれぞれのキャンプを楽しんでいる間、磯崎は三笠とともにこまねずみのごとく働いた。
当の係長といえば、ビーチバレーの審判をしてくると言って外へ出て行った。審判は幹事の仕事なのか、そんな楽な仕事があるなら俺がします…と言えないまま背中を見送った。磯崎はコテージの窓から水着姿の女の子を横目に、涙を流しながら玉葱を切った。そのうち玉葱が係長の顔に見えてきて、それを切り刻んでいると思うだけで気が紛れた。
「あのさ…」
隣に並んでピーマンを刻んでいた三笠がぽつりと呟いた。
「磯崎君だっけ、君さ外で遊んできていいよ」
振り返ると、三笠はニッコリ笑った。
「野菜を切るぐらいなら俺一人でも準備できるしさ。せっかく来たんだから、遊ばないともったいないだろう」
「でも三笠さんは?」
「俺はいいよ。どうせ最初からオマケなんだし」
なんて優しい人なんだろう。磯崎は窓越しのキラキラした光に目をやった。さっきは憎かった真夏の日差しが『おいで』と自分を誘っている。行きたかった。行きたかったけれど、自分がいなくなれば三笠はここで一人、黙々と野菜や肉を切り続けることになるのだろう。それを思うと自分だけ楽しむ気持ちにはなれなかった。
「俺もいいです。もう今日は仕事と思って割り切ってますから」
「遠慮しなくていいよ」
「ほんとに大丈夫ですから」
二人で顔を見合わせ、少し笑った。バスの中でも感じのいい人だと思ったが、やっぱり三笠はいい人だ。冷たい同僚に囲まれた中で、思いがけずオアシスに出会った気がする…。
「でもさ、智にも君みたいな素直な後輩がいてよかったよ」
しみじみ言われて恐縮した。
「でも俺なんか、下っ端で全然役に立たなくて…」
三笠は『そんなことないよ』と反論した。『信頼してない人に手伝いを頼んだりしないだろう』とも。それまでただただ下っ端だからこき使われているという意識しかなかったが磯崎は、そういう考え方をしてくれる人もいるんだと目からウロコが落ちた。
「智は完璧主義なところがあるから、君みたいなのんびりしhた後輩がいるほうがいいんだよ」
人は奥が深い。きっとこの人だからこそ、高校生の頃からあの係長の友人をしてこれたんだろうなとしみじみ思う。この懐の深さと優しさ…男として惚れ込んでしまいそうだった。
「よし、決めた。この仕事をさっさと仕上て遊びに行こう」
子供のような三笠の提案に、磯崎は勢いよく『はいっ』と答えてた。
…二人は海水パンツのまま、近くの雑木林で黙々と枯れ木を集めていた。バーベキュー用の野菜と肉はすべて切り分け、串に刺して下準備を完璧に終わらせた段階で部屋に備え付けの冷蔵庫の中、出番を待っている。ご飯は炊飯器のタイマーをセットしたし、デザートのスイカももちろんちゃんと冷やした。準備のすべてを終えたのは午後四時半過ぎで、太陽はずいぶんと西向き加減になっていたが、まだまだ遊べそうだった。そう思って磯崎と三笠は海水パンツに履き替えた。意気揚々と外へ出ていこうとした時、コテージのドアがバンッと大きく開いた。そこには日焼けしたのか少し赤い顔をした係長がうつむき加減に立っていた。海水パンツにパーカー、ビーチサンダル姿の二人を見て、その眉間に細かい皺を寄せる。
「夕食の準備は終わったのか」
「終わったよ」
三笠がニッコリと微笑む。
「そうか。ところで磯崎、お前バーベキューの火を起こせるような木切れは準備してるのか。どこにも見当たらないんだが…」
「木切れ? なんですか、それ」
係長は目を閉じ、額に手をあてため息をついた。
「新聞紙からそのまま炭に火がつくとでも思ってるのか。木切れを間に挟んで火を持続させないと無理だろうが。まさか準備してないなんて言うんじゃないだろうな」
ギロリと睨まれて、血がザーッと足許に引いていった。
「まったく…レンタルショップでも木切れは売ってただろう。本当に言われたことしかできない奴だな。もっと気を利かせたらどうなんだ。お前のせいでみんなが食を食いっぱぐれることになったら、どうするつもりだったんだ」
「すっ、すいません…今から買ってきます」
慌てて財布を取りに鞄へ走った磯崎の背中に、鋭い声が飛んだ。
「ここの地理も知らないくせに、闇雲に探すつもりか。海岸のはずれに雑木林があったから、そこで適当に見繕え。夕食の始まる六時までになっ」
絶望的な気持ちで時計を見上げる。これから木切れを集めていると遊ぶ時間はなくなる。磯崎の胸に虚しい風が吹いた。確かに木切れが必要なことに気づかなかった自分が悪かった。悪かったけれど…本当に全部自分のせいなんだろうか? 係長はフンと大きく鼻を鳴らすと、音をたてて部屋を横切り、ベッドの一つにゴロリと横になった。自分は散々外で遊んで、疲れたら昼寝か。いっそのこと火なんか使えずに、バーベキューなんて台無しにしてやろうかっ。恨みがましい目でベッドの上の背中をジッと睨んでいると、隣にいた三笠が係長に近づいていった。自分のために何か一言ヤツに言ってくれるのかと思いきや、ベッドのかたわらにかがみ込む。
「熱さにやられたんじゃないか。顔が赤いぞ」
額に置かれた手を、係長が音がするほど乱暴に払いのけた。
「うるさい、あっちに行け」
「何か冷たいモノでも飲むか。それともフロントで氷枕をもらってきてやろうか」
「いい」
「遠慮しなくていいからさ」
「いいって言ってるだろっ」
三笠は立ち上がり、磯崎に向かって肩を竦めた。ベッドを離れると、ドアの前にいた磯崎にボソボソと呟いた。
「何か冷たいもの…お茶か何か枕許に持ってきてやってくれないかな。そばに置いとけば飲むはずだから。俺はちょっとフロントに行ってくる」
言われた通り、枕許に『どうぞ』とおそるおそるお茶を置く。しばらくお茶はそのままになっていたけれど、唐突に伸ばされた手に握り込まれた。その姿に、以前、独身の叔母が飼っていたロシアンブルーの猫を思い出した。叔母にベタベタに甘やかされた猫は自分を人間だと思い込み、わがままで気位が高かった。そして叔母以外の手からは何も食べようとはしなかった。
「ボケッと突っ立ってないで、さっさと準備しろっ」
礼を言われるでもなく、怒鳴られる。でも…と思いつつ入り口でグズグズしていると三笠が戻ってきた。氷枕をタオルに包んで、嫌がる係長の頭の下に強引に突っ込むなど甲斐甲斐しく世話を焼く。
「お前は自分が思うほど体力がないんだから無理するなよ。風邪はひきやすいし、特に今頃の時期は食欲がなくなっていつも夏痩せしてるだろ」
「ごちゃごちゃうるさいな、外へ行けよっ」
三笠は肩を竦め、そして磯崎に目配せするとコテージの外へ出た。歩道から海岸に入り、楽しげな水着姿の女の子を横目に、雑木林へ向かう。言葉もないまま白い砂の道をザクザクと並んで歩いた。相手の具合の悪さに毒気を抜かれて、文句の言葉も引っ込んでしまった。うつむき加減、神妙な顔をしていた三笠はぽつりと呟いた。
「智はさ、意地っ張りなんだよ。具合が悪いなら悪いって言えばいいのにさ。言ったら俺たちが心配するから、気を遣ってるのかもしれないけど」
言葉の端々に友人を思いやる優しさが滲んでいる。思いやりのある人だからこそ、長年あの係長の友人をやっていけるんだろうなと思う。ようやく目指す雑木林にたどり着き、二人して木切れを拾う。広いながら木々の隙間、ビーチに水着ではしゃぐ女の子の姿が見えた。水着姿がキラキラと眩しい。女の子を見ているうちに、ふと三笠に恋人はいるのだろうかと思った。
「三笠さんて、恋人はいるんですか?」
木切れを抱えたまま、三笠の動きが止まった。日差しのせいだけではなく、顔がボーッと赤くなり『うん、その…』とどもり出す。自分より年上の男なのに可愛い人だと思った、
「なに照れてるんですか。いるんでしょ」
「うん、まあね…」
肘でその肩を小突いた。
「美人ですか?」
三笠がニッと笑った。
「美人の部類だけど、それよりも俺の中では可愛いってほうが大きくってさ」
臆面もなく美人と言ってのけたその口が憎らしかった。
「付き合ってそろそろ七年ぐらいになるんだけど、歳食うごとに好きになってくみたいでなんかヤバイ感じなんだよ」
「何がヤバイんですか。仲良くっていいじゃないですか」
三笠が手にして小枝をパキリと折った。
「最初は向こうが俺のことを好きになったんだよ。そん時、俺は他に付き合っている人がいて眼中になかったんだけど、力技って感じで振り向かされてさ。付き合うことにしたはいいものの、性格も合わないし、長続きするかなって不安だったけど不思議と上手くいったんだ。喧嘩はもう数えきれないぐらいしたけど、ちゃんと仲直りしてきたし。そんなこと繰り返してるうちに俺のほうが夢中になって、一日でも顔を見てないと不安になっちゃってさ。俺のこと好きで夢中なんだってわかってても、美人で可愛いだろ。他で言い寄られてないか心配になってさ・・・」
それからは聞いてもいないのに三笠は自分の彼女の話を延々と磯崎に語った。背は高くて色白で、上品な顔立ち。性格はひどく意地っ張りだけど、そんな部分ももう可愛くてたまらないんだと一人で身悶えていた。話をしているうちに…なぜかそれはとてつもなく下世話な方向へと流れていった。二人は抱えていた喜入を捨て置き、昼間っから木陰で猥談にのめり込んだ…。
「三笠さんの彼女って、アレ…してくれるんですかっ」
両手を握り締めて磯崎は身を乗り出した。
「機嫌のいい時にすごーくすごーくお願いするか、メチャクチャ焦らして『してくれないと入れてやらない』とか脅したら、たまにかな。ふだんの時は『ケッ』って感じだけどさ」
磯崎の大人への第一歩は、大学の先輩に連れていってもらったファッションヘルスだった。そこで初めて口での愛撫を受けた時、この世にはこれほど気持ちのいいものがあるのかと感動した。その後、付き合っていた女の子にそれとなーく頼んでみたところ、頬を引っぱたかれた。『私はそういう種類の女じゃないの』と激怒していた。そこで初めて磯崎は、アレがすべての男に与えられる至福ではないのだと知った。『嫌がりながらもたまにしてくれるなんて、さすが三笠さんの彼女だよな』と素直に感動する。そのさすが…にも突き詰められると根拠はない…。
「俺さ、アレしてもらうの好きなんだよ」
上を見上げたまま、三笠はうっとりと呟いた。
「いいですよね、アレは…」
磯崎は過去の記憶を思い出して、にんまり頬を緩めた。三笠はフウッと熱の籠ったため息をついた。
「単純に気持ちいいっていうのもあるけど、アレをしてもらってると『こいつは本当に俺のことが好きなんだな』って実感するんだよ。普通、好きでもない男のは…口の中入れられないだろ。だからよけいにそう思うんだけどさ」
「やっぱり愛ですかね…」
磯崎はしみじみ呟く。
「けどさ、アレで一回大失敗したことがあって…」
砂を蹴って、三笠が頭を掻いた。
「滅多にやってもらえないからさ、相手も微妙にヘタクソなわけだよ。アレって上手くやんないと歯が当たって痛い時があるだろ。
で、終わったあとに
『次はもうちょっと上手くやってくれよ』って言ったら思いっきり顔をひっぱたかれてさ、それから一か月、口きいてもらえなかったんだ」
肩を竦めて磯崎は『クククッ』と笑った。
「嘘じゃなくて本当の話なんだよ。それを教訓に俺はあいつのテクニックについては一切触れないことにした。でも今はずいぶん上手くなったんだよ。ほら、なんのかんの言ってもあいつも努力家だからさ」
磯崎は腹を抱えてヒイヒイ笑った。
「他にもあいつとのエッチに関してはホント、色々あってさ」
「三笠さん、もうやめてくださいよっ。腹がよじれるっ」
「例えば騎乗位禁止令とか…」
「こんにちは~」
背後からかけられた声に、二人して飛び上がる。慌てて振り返ると、ビキニの女の子が立っていた。可愛らしい顔とグラマラスなボディーが男性社員の中でも評判の事務の高村だ。
「なんのお話、してたんですか。すごく盛り上がってたみたいだけど…」
二人の過剰な反応に戸惑うような顔で聞いてくる。猥談だなんてとても言えず、二人して曖昧に笑った。
「向こうでビーチバレーをしてるんですけど、よかったらお二人も一緒にどうですか」
愛想よくにっこり微笑まれる。ひょっとしてひょっとして、この子は自分に気があるんじゃないかと思ったのも一瞬。高村の視線は隣の三笠に釘付けだった。
「木切れもけっこう集まったし、少し遊ぼうか」
三笠に軽く肩を叩かれる。ひょっとして俺はオマケか…とどこか虚しいものを感じつつ、磯崎は立ち上がり、砂だらけの海パンの腰を手で払った。
ビーチバレーに参戦した三笠は、短時間で女の子の視線を釘付けにした。高校の時はバスケットをしていて、今は体を動かすといえば時たまバッティングセンターに行くぐらいだと言っていたが、胸や腰の筋肉はほどよく引き締まり、がっしりした体はビーチの上で雄の匂いをプンプンと漂わせていた。笑顔も優しいし、何より明るい。磯崎は何度も女の子に近づいてこられては、淡い期待に胸を膨らませたあとで『あの男の人、誰?』と聞かれてげんなりした。バスでは最前列に座り、その後の夕食の準備と表立った場所で遊んでいなかったせいで、三笠の存在はキャンプの一行にほとんど知られていないようだった。
「岩田建設の人だよ」
そう答えて次に聞かれるのが『独身かしら?』
『恋人いるのかしら?』だった。最初は律儀に『美人で頭のいい恋人がいるらしいですよ』と答えていたが、それが四人目を超えるとさすがにうんざりとした。女の子の注目を集めていることも…おそらく自覚なく、三笠はビーチの上で飛んだり跳ねたり忙しい。笑ったり悔しがったりする顔もオーバーで、なんか子供みたいな人だよな…と思いながらぼんやり見つめた。見ているのもだんだんと退屈になってきて、海にでも入ろうかなと立ち上がったところで、背後から『おい』と声をかけられて飛び上がった。