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作者:日-木原音瀬 当前章节:15405 字 更新时间:2026-6-22 21:16

「やることはやってから遊んでるんだろうなっ」

 顔色はもとに戻ったものの、どこか覇気に欠ける係長が背後霊のようにノソリと立っていた。

「もちろんですっ」

 条件反射のように背筋がピンと伸びる。

「六時ちょうどから始められるように、一〇三のコテージの前で準備をしておけよ」

 腕時計を見ると、五時半になろうとしていた。結局、海でも泳げないままだったなとガクリと肩を落とす。

『はい…』という力ない返事に答えはなく、係長を見ると少し離れた場所で、跳ね回っている三笠を見ていた。

「あいつはいったい何をしているんだ…」

「ビーチバレーです。三笠さんって運動神経いいですよね」

 三笠が相手コートにアタックをし、見事に決まる。それが決勝点になったようで、高い笛の音が響く。勝ったチームはドッと沸いた。三笠が両手を上げて飛び上がり、水着の女の子が声を上げて抱きつく。そういうシーンもいやらしく思えない健康さが夏の海にはあった。

「本当に子供みたいな人ですよね」

 喋りながら横を向いて、息を飲んだ。係長がまるで親の敵を見るような怨念のこもった目で、はしゃぎ回る三笠を睨んでいたからだ。

「あいつに、今すぐ準備を手伝うように言ってこい」

「もう少しあとでもいいじゃないですか。楽しそうだし…」

「いいから行ってくるんだっ」

 驚くほど大きな声で怒鳴られて、後ずさる。退散する犬の勢いで磯崎は勝利の余韻に沸くチームへと駆け寄った。楽しいところに水を差すのは嫌だったけれど、仕方なく三笠をチームから引き抜く。案の定、女の子からひどいブーイングが起こり『磯崎、サイテー』と言われ、まるでいなくなるのが自分のせいと言わんばかりの雰囲気が漂った。冷たい視線を背中に浴びながら、自分にこんな嫌な役を押しつけた係長を恨んだ。だから俺は『もう少しあとでもいいじゃないですか』と言ったんだ。こうなるのがわかっていたから…。

「ビーチバレーなんて久しぶりで面白かったよ」

 満足した顔で隣を歩く男に、磯崎は貧乏くじばかり引いている自分の不幸を考えずにはいられなかった。三笠は全然悪くないのに、少しだけ恨めしく思う。言葉好く何ビーチからコテージへ戻る途中、木立を通った時に、磯崎は『あるもの』を見つけてしまった。ちょっと用を思い出したから、と言って三笠を先に戻らせ、磯崎は苦労してそれを捕まえた。潰してしまわないように大事に大事にキャップの中にしまい、そして一人ニィと陰鬱な笑みを浮かべた。

 係長はひどく機嫌が悪かった。そしてその機嫌の悪さを隠そうともしなかった。三笠はレンタルしてきた簡易テーブルや椅子を黙々と組み立てている。磯崎に与えられた仕事は、バーベキュー用のコンクリートのかまどに火を起こすことだった。かまどはコテージの前に小さな広場にいくつか作られていて、後片付けさえすれば宿泊客が自由に使えた。係長はかまどの前に腕組みをしたまま仁王立ちし、磯崎のすることをじっと見ていた。炭や木切れ、新聞紙をかまどの前に運びながらビクビクする。見られていると思うとたかが火を起こすだけなのにひどく緊張する。どこか別のところに行くか、自分も何かすればいいのにと思いつつ、そんなことは恐れ多くて言えなかった。

 磯崎のキャンプ経験は、実を言えば小学生の時の『親子サマーキャンプ』が最後だった。いきなり火を起こせと言われても、やり方がよくわからない。とりあえず炭を並べて、その上に新聞紙と木切れを置いていると、最初の一括が飛んだ。

「お前は何をしていうんだ、馬鹿か。それで火がつくわけないだろっ。常識でものを考えろ。最初が紙、その次が木切れでその上が炭だろうが。新聞紙や木を一番上に置いてもそこだけ焼けて下の炭に火はつかないぞ」

 言われてみれば確かにそうだ。けれどもっと優しい言い方ができないものかと辟易する。これは会社の仕事ではないし、自分的には『好意』で手伝ってやってるのだ。これまでの扱いといい、砂浜での三笠の呼び出しといい、いい加減腹が立っていた磯崎は無言で紙、木切れ、炭の順番にかまどの上に積み直した。さあ、これで文句はないだろうと思い

『フンッ』と鼻息も荒く係長を見ると、なぜか白けきった顔をしていた。

「火が燃えるのに必要なものは?」

 腕組みしたままいきなり聞かれた。

「へっ」

「そこにお前が用意したもの以外で、火が燃えるのに必要なものは何かと聞いてるんだよ。小学生の問題だ」

 どうしてこんなところでそんな質問をされなければならないのだろうと思いつつ、考える。

「マッチかライターですか?」

 係長は余った新聞紙を手に取ると、くるくる丸めて磯崎の頭をスッパーンとはたいた。

「酸素だろうが酸素っ。お前みたいに新聞紙や木を隙間なく詰めるんじゃ、酸素が通らなくてすぐに火が消えるぞ。ある程度の隙間を間に作るんだよ」

 新聞紙を握り締める手はブルブルと震えている。慌てて磯崎は積み重なる新聞紙や木切れを引っこ抜いた。けれど今度は逆に隙間を作りすぎたせいで全体のバランスが崩れ、上に積み上げた炭がガラガラと足許に転がってきた…。

「小学生から出直してこいっ。このクソ馬鹿っ」

 罵声に泣く泣く磯崎はかまどを作り直した。このまま永遠に怒鳴り続けられるんじゃないかと思っていたけれど、バーベキューの会場となる広場に人が集まりはじめた途端、係長の態度はガラリと変わった。愛想よくニコニコ笑いながらみんなを迎え、皿とコップを手渡す。なんと係長は自腹でワインなるものまで持ち込んで、みんなに振る舞っていた。磯崎は漂ってくるワインの甘い芳香に鼻先だけピクピク震わせながら、ただひたすら火を起こしていた。

 ようやく炭に火が移り、焼き網の上に昼間、苦心して用意したバーベキューがドンドン並べられる。肉の焼けるいい匂いがあたりに充満し、広間からの労働で胃袋が刺激されてキューキュー鳴っていたが、バーベキューは焼けたそばから持ち去られ、磯崎は燃え盛る火の前で汗だくになりながら空腹のまま延々と串を焼き続けた。

「そこ、大変だなあ」

 大皿に半分ほどの串を焼き終えたところで、声をかけてきたのは三笠だった。

「俺が交代するからさ、何か食べてこいよ。美味しいものがなくなっちゃうぞ」

 火の傍にいたせいで火照った頬を押さえながら、磯崎は嬉しさのあまりズルズルと鼻をすすり上げた。三笠の好意に甘え、磯崎は焼きたての串を三本とワインの残りを手に空いた椅子に腰掛けた。肉の美味しさに舌鼓を打ちながら、すでに残り物の雰囲気を漂わせるサラダやフルーツを手当たり次第口の中に放り込む。ようやく胃袋が満足したところで、時計を見ると午後六時四十分だった。太陽は海の向こうに沈んだけれど、あたりは薄暗い程度でどこに誰がいるのかはっきり見分けることができる。吹く風は相変わらず生温かかったが、きつい日差しがないだけまだ過ごしやすかった。

 自分に『肉焼き』という苦行を強いた男は、明かりの下で建築デザイナーである池谷と話をしていた。池谷は我がサンライズコーポレーションの専属デザイナーで、外国で賞をもらい、鳴り物入りで入社してきた。個性的で、特にセンスを必要とする美術館やショップのデザインなどを得意とする若手の一番株だった。まだ若く、三十そこそこのはずだった。

 池谷はデザイナーと名のつく職業だけあって、普段着でもそこはかとなくオシャレだった。その前に立つ係長はシャツにジーンズとラフな服装だが、長身名上に腰の位置が高いから立ち姿はかっこよく、かつ池谷と並んでも見劣りしない品のよさがあった。そのうち一人、二人と女の子が池谷と係長のそばに近寄ってきて、七、八人ほどの集団になった、たくさんの女の子に取り囲まれて、二人ともまんざらではなさそうだった。そういう自分のそばには誰もいない。磯崎はすっかり冷めた最後の串にかじりつくと、やけくそ気味にモグモグと咀嚼した。

 食べ終えたあと、磯崎はこっそりコテージに戻るとキャップの中から例のものを取り出して右手に軽く握り込んだ。モゾモゾと動くのが気持ち悪かったが、歯を食いしばって我慢した。海を見たり、椅子に座ったりとさりげなさを装いながら係長とその集団に近づく。そうしてようやく係長の背後までたどり着き、シャツの肩先にこっそりそれを置いた。けれど池谷との話に夢中になっているのか、置いただけでは気づかれなかった。

「係長」

 振り返った係長の顔は不機嫌全開だった。話の最中に声をかけたからだった。

「なんだい、磯崎君」

 それでも周囲に人がいる手前か、問い返す声は柔らかかった。

「あの、さっきから肩のところに何かいますけど…」

「肩?」

 首を動かして肩先を見た係長は、一瞬で蒼白になった。食事が始まってから、まるでイソギンチャクのように係長のそばに張りついていた寺尾が『キャーッ』とショートカットの頭を振り乱して悲鳴をあげ、後ずさる。すぐさま係長を中心に、半径二メートルほどの距離を置いて人の輪ができた。

「いやっ、蜘蛛よくもっ」

 寺尾と同じく、係長にくっついていた和田が叫ぶ。来る時と違い、体のラインが強調されるようなベアトップとミニスカートは、悩殺を通り越してちょっぴり下品だった。周囲の人間の興奮に反して、係長は声の一つもあげなかった、顔こそ蒼白なものの、ひどく落ち着いている。背中に青黒い線のある、腹が白と黄色の巨大女郎蜘蛛は周囲の声に驚いたのか、カサカサと音をたてて係長の耳から頭へと上りつめた。再び悲鳴があがる。けれど当の係長は不動のまま、蜘蛛を取る動作も見せなかった。

「あの…係長?」

 声をかけると、目だけが磯崎のほうへ機械のように動いた。その目尻にはキラリと光るものが滲んでいた。

「くっ、蜘蛛取って…くれ」

 蚊の鳴くような細い声。磯崎は慌てて手を伸ばすと蜘蛛はよりにもよって係長の顔の前を横断して滑り降りていった。その瞬間、係長は白目をむいてその場に倒れ込んだ。

 気を失ったのはほんの数秒、係長は磯崎の逞しい上腕二頭筋の中ですぐに意識を取り戻した。そして我に返ると『うわあああっ』と声をあげて頭を抱え込んだ。

「もう大丈夫ですよ、蜘蛛はいませんから…」

 さっきまで甘いものに群がる蟻のように係長の周囲に集まっていた女の子が、たかが蜘蛛ごときに卒倒した男にクールな視線を送っている。そんな視線にも気づかず、係長は警戒する猫のようにあたりを注意深くうかがうと、脱兎のごとく駆け出した。まっすぐ流し場へ向かい、ジャブジャブと顔を洗いはじめる…。

「ねえ…」

 係長が去ったあとで、寺尾の囁きが聞こえた。

「ちょっと今の係長って…格好悪くなかったですか?」

「そうよね。女の子ならわかるけど、男で倒れちゃうなんてなんだか頼りない感じ…」

 和田も同意する。磯崎は二人に背を向けたまま、密かにガッツポーズを取った。三笠の言っていた通り、係長は大の昆虫嫌いだった。姑息なやり方とはいえ、的に一矢報えたことで気持ちがスッとする。この調子でもっと嫌がらせしてやろう。そして係長の人気を地の底に失墜させてやる…磯崎は心の中でほくそ笑んだ。

 うつむいてニヤニヤ笑っている間に流し場から係長の姿は消えていた。どこへ行ったのかとあたりを探していると、三笠がバーベキューを焼いているかまどへ向かって左右にふらつきながら近づいていっているのが見えた。この調子だと、嘘でも『蜘蛛がっ』と言えば驚いて飛び上がりそうだった。さらなる復讐のために、磯崎も三笠のもとへと走った。タオルを額に巻いてまるでテキ屋のような姿でバーベキューを焼く三笠の両脇には、ビーチバレーで一緒だった高村ともう一人の女の子が陣取っていた。どうやら焼くのを手伝っているようだった。自分が焼いている時は誰も手伝ってくれなかったことを思うと、なんだか人生が不公平な気がした。係長は三笠の前、かまど越しにどんよりとした表情で立ち尽くした。

「どうしたんだよ、そんな暗い顔をして?」

 離れた場所であった騒ぎを知らないらしい三笠は、いつもと違う友人に違和感を感じたのか首を傾げた。

「肉、食うか。まだたくさん残ってるんだ。ほら…」

 『いらんっ』と怒鳴り、差し出された肉には目もくれず、係長は威嚇する猫のように肩を怒らせた。

「お前はこんなところでいったい何をしているんだっ」

 ドスの効いた声に、三笠の両脇の女の子が怯えたように小さくなる。

「そんなに怖い声を出すなよ。磯崎君と交代してバーベキューを焼いてたんだ」

「食事の時に池谷を紹介すると、前もって言ってあっただろっ」

 磯崎にはなんの話かさっぱりわからなかったが、三笠には合点がいったらしく『ああ』と呟き、ポンと手を叩いた。

「忘れてた。でもまだ時間はあるし…」

「何が時間はあるだ。こういうのはタイミングの問題なんだよっ」

 険悪な雰囲気に、磯崎も『蜘蛛が…』などと口に出せなくなる。沈黙の中に肉と野菜の焼けるジュウジュウという音だけが大きく響いた。

「すいませーん、まだ肉って余ってますか」

 係長の背後から、男性社員が網の上を覗き込む。のんびりとした声が、気まずい雰囲気を少しだけ打ち消す。三笠は『あっ、あるよ』と返事をすると、慌てて焼きかけの串を反対側に返した。数秒あぶったあとで、男性社員に手渡す。

「サンキュー」

 受け取った男性社員は、かまどの横をすり抜けようとした。けれど地面に置いていた新聞紙に気づかず、踏みつけると同時に前のめりになった。

『うわっ』と叫んで慌てて体勢を立て直す。けれどその際にかまどの壁面を思いきり蹴飛ばした。かまどの上、バーベキューを乗せたままの網が大きく揺れて、火の真ん前で肉を焼いていた三笠の膝許に丸ごと落ちそうになる。

「キャーッ…」

 女の子から悲鳴があがる。『落ちるっ』磯崎がそう思った瞬間、係長が動いた。かまどの向かいから素手でバーベキューの網を鷲掴みにする。

「おい、大丈夫かっ」

 蒼白な顔で係長が問いかける。後ろ向きに腰を抜かした三笠は、慌てて立ち上がると網を手にしたままの右手を掴み上げた。

「何してんだよ、お前はっ」

 咄嗟に手を出した係長は、自分が掴んだのが焼けた網だということに気づかなかったらしく、手を掴まれてから 『痛い』と叫んでいた。

右手を拉致されたまま係長は三笠にズルズルと引きずられ、簡易テーブルのそばにあった飲み物を冷やすためのクーラーボックスの中に火傷した指先を突っ込まれていた。三笠の両脇を固めていた女の子はただただ呆気に取られていたが、係長が自分たちを助けてくれたのだと自覚するや否や、慌てて駆け寄った。

「痛くないですか」

 心配そうにクーラーボックスの中を覗き込む。係長がいくら『冷たいっ、離せ』と怒っても三笠は無表情のまま、氷の中に突っ込んだ手を離そうとはしなかった。しばらくして、氷の中から引き上げられた係長の右手は、手のひらと指先の部分が数か所、赤くなっていた。

「薬、もらってきましょうか」

 涙目で聞いてくる女の子の声に、係長は苦笑いした。

「これぐらいなら大丈夫だよ。心配かけてすまなかったね」

 冷やしすぎたせいですっかり血の気の引いた右手を軽く振って、係長は立ち上がった。そして急にそわそわとあたりを見回し始めた。

「あ、あそこに池谷がいる。お前も一緒についてこい。紹介するから」

 三笠は眉間に皺を寄せ、つらそうな顔をした。

「そんなことより、お前の手が…」

「いいからっ」

 係長に押し切られ、三笠は連れていかれていた。何やら深刻そうな雰囲気に、バーベキューを手伝っていた高村ともう一人の女の子もあとについてはいけなかった。二人がいるあたりを名残惜しげに目で追いかけ、諦めたようにテーブルのほうへ行ってしまった。

 誰もいなくなったかまどの前で一人、再びバーベキューを焼きはじめた磯崎は考えた。蔑ろにしている素振りを見せても、係長は友人を大切にしている。大切に思っていなければ、あんな咄嗟の場面で身を呈してまで友人をかばえないだろう。自分は友達が怪我をしそうになった時、迷わず助けることができるだろうか。それを考えていると、係長がいい人のように思えてきた。ふだんは自分を苛めて苛めまくっていても、どうにもならない局面に遭遇したら…助けてくれる人のような気がした。

[sell=0,money]

 バーベキューが終わったあとの磯崎に残されていたのは、後片付けだった…。レンタルで借りた簡易式のテーブルや椅子を折り畳み、生ゴミを集める。これはみんなが手伝ってくれたので比較的早くに終わった。すべてが終わる頃にはあたりはもう真っ暗で、そのまま浜辺に移動しての大花火大会になった。磯崎は自分が苦しい思いをして運んだ花火たちが夜の中で数秒の彩りになって消えていく様をぼんやりと眺めていた。喧騒から離れた場所に座り、もの思いにふけっていた磯崎にも、花火を持ってきてくれた女の子がいた。みんなが華やかな光を放つ花火で遊んでいる中、磯崎はチラチラ光る線香花火の炎をじーっと見つめた。

 花火が始まった頃から、三笠と係長の姿が消えた。あたりが暗くて見つけられないのかと思ったけれど、そうでもなさそうだった。離れて座っているにもかかわらず、磯崎はいろんな女の子に『係長を知らない?』

『三笠さんを知らない?』と聞かれたからだ。実は磯崎も密かに係長の姿を探していた。虫で子供っぽいいたずらをしてしまったことを謝ろうと、心に決めていたからだ。言ったら言ったでガンガンに叱られそうだったが、やっぱり人の弱点を狙うというのは卑怯だったと反省した。コテージは一緒だから寝る前には顔を合わせると思うのだが、三笠や池谷のいる前で怒鳴られるのは避けたかった。

 花火もだんだんと終焉に近づく。そうして最後に打ち上げ花火を連続して十発ほど打ち上げてお開きになった。終わると同時にみんなゾロゾロと海岸から引き上げてゆき、瞬く間に海岸には波の音だけが打ち寄せる静寂が戻ってきた。月は半分欠けていたけれど、砂浜は月明かりでほんのりと明るい。磯崎はサクサクと砂を踏みしめながら、人けのない砂浜を一人散歩した。やっぱりコテージに戻るしか謝る機会はないんだろうかと考えながら歩いているうちに、昼間、木切れを拾いに来た雑木林のそばまで来ていた。明るい砂浜と違い、夜の雑木林はうっそうとしていて、不気味だった。踵を返したところで、人の声が聞こえた。最初はギョッとした。まさかこんな気味の悪い夜の雑木林の中に人がいるとは思わなかったからだ。

「どうしてお前はわからないんだっ」

 係長の声だった。引き返そうとしていた磯崎は、慌てて振り返った。誰かと言い争うような声は大きくなり、小さくなりして何を話しているのかよく聞こえない。磯崎は声のする方向へとソロソロと足を進めた。雑木林を入ってすぐ、ちょうど昼間、磯崎と三笠が猥談をしていたあたりで係長が両腕を組んだまま木にもたれかかっているのが見えた。その向かいに三笠が立っている。雑木林の中は暗かったが、二人が立っている場所は月の光が差し込んで、闇夜に慣れた磯崎の目には二人の表情がはっきりと見えた。六、七メートルの距離までは近づいていたと思うが、二人は磯崎に気づかなかった。無言のまま睨み合う緊迫した二人の表情に、磯崎はどうしても声がかけられなかった。やっぱりあとで謝ろう…諦めかけたその時『くそっ』という係長の呟きが聞こえた。苛々したビーチサンダルの足が砂を蹴り、三笠の足許を砂に埋めていく。

「俺がなんのためにこのキャンプを企画したと思ってるんだ。デザイナーの池谷をお前に紹介したかったからじゃないか」

 係長は両手をやたらと振り回した。表情だけではなくかなり怒っている。怒っていた。

「池谷はアウトドアが大好きだから、誘えば絶対に乗ってくると思った。だから俺はやりたくもないレクリエーションの幹事を引き受けたんじゃないか。それなのにお前はなんだ。紹介してやってもろくに話もしないで、ブスッと俺の隣に突っ立ってただけだ。頭は悪くても愛想だけはいいのがお前の取り柄だろうがっ」

 三笠はうなだれるようにうつむいた。

「でも、その分智が話してくれただろ」

「こういうのは自己アピールがモノを言うんだぞ。実際交渉するのはお前で、俺は単なる橋渡しでしかないんだからなっ」

 係長がウロウロと周囲を歩き回り、そのたびに足許でガサガサと草を踏みつける音がした。不意に立ち止まり、真正面から三笠を指差す。

「だいたいお前のところの建設会社は仕事を選びすぎなんだ。設計書を見て断るなんてことを繰り返してたら、そのうち干上がるぞ」

 三笠が肩を竦めた。

「だって仕方ないだろ。いい加減な家を作りたくないっていうのは親方のポリシーなんだから」

「ポリシーも何も、仕事がなくなったらそこで終わりだろうがっ」

 係長が額に手のひらをあて、ため息をついた。

「池谷は近いうちに独立するんだ。うちはマンション建設のほうが主流になって、個人住宅やショップデザインが得意な池谷のセンスが生かせなくなってきてるからな。あいつは知名度があるから、独立しても上手くいく。独立した池谷が一番に欲しいと思うのが、仕事が丁寧で誠実な建設会社だ。もともとお前の会社は個人住宅とか小規模のものが得意だから、あいつのニーズと合うんだよ。ここでつながりを作っておいたら、上手くいけば仕事が回ってくる」

「うん…」

「うん、じゃない。俺の言ってることがわかってるのか。うちはマンション建設が主になって、お前のところのような小さな建設会社にはもう仕事を回せなくなるんだよ」

 磯崎にもようやく話の筋が見えた。

「池谷はセンスがいい。才能がある。池谷のデザインした家が注目されれば、家を作った建設会社の評価も上がる。評価が上がれば…それだけ仕事が来るだろう」

 話を聞きながら、磯崎は感動していた。友人のために体を張り、骨折ることを惜しまない男を…あんなに嫌いだったのに、いい人かもしれないと思うことを止められない。

「ありがとう」

 ぽつりと三笠は呟いた。

「感謝の言葉が欲しいんじゃないっ。俺はお前に自分で仕事を取れと言ってるんだっ」

 礼を言われても、まだ係長は怒っていた。三笠は一歩前に踏み出すと、そんなかんしゃく玉みたいな係長を抱きしめた。

「離せ、クソバカッ。俺の苦労を無にしやがって」

 腕の中で身悶える係長を抱えて、三笠は背後にあった木の幹に暴れる体を押しつけた。体の密着度といい、その体勢といい、そこはかとなく怪しい雰囲気が漂う。係長は三笠を睨んでいたが、不意に視線を逸らしうつむいた。そんな係長の顎を指先で上に引き上げ、三笠は唇を寄せた。慌てて係長は右に顔を逸らしたが、あとを追いかけた三笠の唇に掴まった…口付けられていた。

 磯崎は目と口をあんぐりと開けたまま、男二人のキスシーンをぼんやりと眺めた。係長が悶え、嫌がるように顔を逸らすけれど三笠はどこまでも追いかけてくる。体格のいい三笠に覆いかぶさられるようにして口付けされる係長は、肉食獣に食われる草食動物のようだった。

「んっ、んんっ」

 係長は抵抗している。磯崎はひょっとしてこれは助けなくてはいけない場面だろうかと悩んだ。けど相手は友達だし…けどキスをしていて…係長は嫌がっていて…友達で…。考えているうちに口付けが終わる。係長は三笠を突き飛ばし、口許を手で拭った。その目許がキラリと光ったような気がした…。

「だから嫌なんだよっ。お前は都合の悪いことがあると、いつもそうやって俺を丸め込もうとするじゃないかっ。俺がどんない考えてやっても、面倒臭いの一言で無視するんだ。仕事がなくなったら会社は潰れて、お前は高卒のプータローになるんだぞ」

 係長は手の甲で目許を擦った。

「今の会社が好きだって言ってたじゃないかっ。みんなが仲良くて、親方もいい人で、ずっと働きたいと言ってたじゃないかっ。だから俺は…」

 次に三笠が抱きしめてきた時、係長は抗わなかった。まるで慰めるように背中をポンポンと叩く、男の肩口に、じっと顔を埋めた。

「お前が俺のことを勘上げてくれてるっていうその気持ちが、嬉しい」

 係長を抱きしめる三笠の顔は、優しい微笑みに満ちていた。

「俺のこと滅茶苦茶好きだってことも、すごくよくわかったし」

 それを聞いた途端、おとなしくしていた係長が暴れ出した。三笠を突き飛ばし、歩き出す。まっすぐこちらに向かってくる気配に、磯崎は慌てて木陰に身を隠した。見てはいけないものを見てしまっているような気は、もうずいぶん前からしていた。

「待てよ、待てったら」

 ごく近くで、もつれ合う足音が聞こえた。三メートルも離れてはいないようだった。

「本当のことだからって、そんな照れなくてもいいだろ」

「うるさいっ」

「お前、可愛い」

 足音が聞こえなくなり、代わりに鼻にかかったような喘ぎ声が鼓膜に忍び込んできた。ひえええっ…と思いつつ、怖いもの見たさも手伝ってそろそろと振り返った磯崎は、そこで再び抱き合って、口付けを交わす二人を見た。前回と違うのは、係長は決して嫌がってはおらず、それどころか三笠の首に両腕を回し、積極的に相手の唇を貪っているという点だった。クチュリ…と漏れた音が聞こえる…。なんの音かは、考えないことにした。

『ホモだ…』

 磯崎は頭を抱えた。係長がホモ…ホモ…。そうじゃないかという予感は現実になる。事実を受け入れるので精一杯で、磯崎は強烈なビジュアルはもういいから、早くこの場から退散したいと思った。だけど見つかったら見つかったで、係長に半殺しにされそうな気がして動くこともできない。

「やっやめろっ」

 不意に係長の大きな声がして、反射的に磯崎は振り返った。三笠の大きな右手が、係長の細い尻をジーンズごと大きくも見上げているのが見えた。叩かれた右手はしぶしぶと腰から離れ、その代わりに前に回って、二人の股間のあたりでモゾモゾと動いた。途端、係長が軽く前屈みになる。

「このっ…」

 歯を食いしばったまま、係長が三笠を睨む。

「俺はこんな砂だらけのところでやるのは嫌だぞっ。それに万が一誰かに見つかったらどう言い訳するつもりなんだ」

「もう十一時を過ぎてるのに、こんなところに誰も来るもんか。それにコテージに戻ったらもうキスもできない」

「明日、家に帰るまで我慢しろ」

「嫌だっ」

 したい、嫌だと生々しい攻防は続いた。磯崎はトホホと途方に暮れながら、どうぞこのままコテージに帰ってくれ…と願った。

「じゃあ最後まではしないから、舐めさせて」

 一歩だけ譲歩して、三笠が提案する。

「舐めるだけで我慢するから、お願いします」

 返事はなかった。やっと帰る気になったかと期待して再度戦況をうかがった磯崎は、月明かりの中で立ち尽くした係長の前に、三笠がひざまずくのを見た。ファスナーが下りる、ジリジリという音が卑猥に聞こえる。三笠は係長のジーンズを下着ごと膝丈まで一気にずり下ろした。磯崎の目からも剥きだしになった係長の性器が見える。まるで頬ずりするように股間に顔を押しつけたあと、三笠は目の前の性器を吸い込んだ。

「はっ…あっ…ん」

 甘い声が漏れ、係長は慌てて前屈みになり口許を抑えた。チャプチャプと舐め回す音はひどくなり、手のひらに押さえ込まれた密かな喘ぎが鼓膜に響く。磯崎はじっと丸まったまま目を閉じた。喘ぎ声と音だけ聞いていたら、ふだん自分が見ているAVと大差はなかった。だけど…『男のちんちんを舐めて何が楽しいんだっ、三笠さんっ』と心の中で問いかけずにはいられなかった。そして思い出した。昼間、話していた三笠の恋人の話。フェラチオが下手で、色白で、頭がよくって、綺麗な恋人。ひょっとしてあれは…。

「嫌っ、あっ…ひっ」

 ひときわ高い悲鳴が響いた。反射的に振り返る。そこには腰を引いた不自然な体位で前屈みになった係長の姿があった。

「うっ。後ろに指を入れるなっ。今日は舐めるだけって言っただろっ」

「うん。でもちょっとだけ…」

 チャプ、ジュルという唾液の音に、クチュクチュと粘膜の音が混ざる。

「はあっ…いやっ、いやっ…あっあっ…」

 係長の激しい喘ぎ声は、磯崎がひいきにしているAV女優も顔負けの色っぽさだった。そんな声を延々と聞かされているうちに、磯崎は自分の体にある変化が起こっていることに気づいた。股間がだんだん熱を持ちはじめたのだ。

『いやだーっ』と思いながら、磯崎は鉄壁の自制心で息子を鎮めようとした。係長の喘ぎ声で抜いたなど…一生悪い記憶として残りそうだった。

「あっあーっあっ…………」

 長く掠れた声が続いたあと、卑猥な音が不意にやんだ。どうやら係長がイッてくれたようで、ハアハアと荒い息遣いだけが聞こえた。磯崎も自分との戦いになんとか勝利し、ホッと息をつく。けれど心の休息もなしに、三笠がとんでもないことを言い出した…。

「智、俺やっぱりお前に入れたい」

 それは露骨で卑猥な要求だった。

「舐めるだけって約束したじゃないかっ!」

 係長はもう泣き声だった。

「もう我慢できない。欲しくって欲しくって気が狂いそうなんだよ。お前のあそこもすごく柔らかくって、ちゃんと俺が来る準備ができてた」

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