「ゴッ、ゴムも持ってないくせにっ」
悲鳴に近い声があがる。
「中には絶対に出さない。だから…お願い。お願い。入れさせて。お前のこと欲しい」
三笠が下半身が剥き出しの係長を抱きしめた。
「お願いだから『いい』って言って。俺、お前のこと強姦したくない」
意地でも三笠はやる気らしかった。その気合が垣間見えて、一瞬係長が気の毒になった。長い沈黙のあと『このクソッタレ』と毒づきながら、草むらの上に両足を投げ出して座った三笠の上に、下半身に何もつけていない係長がゆっくりと跨った。
「俺の、勃ってるの見える? ゆっくり腰を下ろして…」
ゆっくりとかがみ込む途中で、係長の体が怯えるようにピクリと震える。そこからはさらにゆっくり腰が落ちて…ようやく隙間がないほど重なった。
「全部入った? 動くよ」
「ちょ…ちょっと待って」
係長の言葉を待たずに上に乗った体が大きく揺さぶられた。 『ヒッ』と掠れた悲鳴のあとに係長は三笠の首筋にしがみついた。
「もっとゆっくり…しろっ」
「嫌だね。まったく…俺がいるのにバスの中で堂々と女の子といちゃつきやがって…」
イタッと三笠が叫ぶ。係長が相手の頭を殴るのが見えた。
「お前こそ、女の子と一緒にビーチバレーをしてたじゃないか。これ見よがしに引き連れて、一緒にバーベキュー焼いたり…」
「あれはいいの」
「いいもんかっ。お前には前科があるじゃないか」
二人の体の動きがぴたりと止まった。三笠が係長の顔を覗き込む。
「俺、誓って言うけどお前と付き合いはじめてから浮気してないぞ」
うかがうような三笠の声だった。
「おっ、女と結婚しようしたじゃないか」
「あれは付き合いはじめる前じゃないか。ああいうのは前科って言わないんだよ」
「けど…また女を好きになるかもしれない」
あの嫌み連発の係長が、まるで子供のように拗ねていた。
「俺にはお前だけだから。性格きついし、意地悪いけどすごく好きだ」
三笠があやすように係長の頭を撫でた。
「俺に一生懸命だから可愛い」
口付けを交わしたあと、上に乗った体が大きく揺れ出した。
「なあ、気持ちいい?」
問いかける声に、返事はなかった。
「すごく感じる?」
係長は三笠の首筋にしがみついたままだった…。そしてぽつりと『もっともっと動いて…』と囁いた。そこから先はまるで獣の喘ぎだった。互いが互いに夢中になっているうちに、とっくに白旗を上げた磯崎は、四つん這いのままその場から逃亡を試みた。ずいぶん離れたところまで来て、もう大丈夫だろうと立ち上がろうとしてパキリと足許で音がした。慌てて振り返ると三笠がばっちりこちらを見ていた。磯崎はその場で固まった。三笠も固まっていたが、すぐさま口許に人差し指を一本、押し当てた。
なんとか雑木林を抜けて歩道に出た時には、磯崎は疲労困憊していた。ヨロヨロとよろけながら歩いていると。寺尾と和田の二人が連れ立ってコテージのほうからやってくるのが見えた。
「ねえ、磯崎。係長がどこにいるか知らない? コテージのほうにもいないみたいなの」
そこの雑木林で、座位になって腰を振っているとはとても…言えなかった。
「ねえ、知らない?」
寺尾がもう一度聞いてくる。『さあ…』としらばっくれたあとで、一つ付け加えた。
「あそこの雑木林って夜に痴漢が出るらしいよ。行かないほうがいいんじゃないかな」
痴漢が効いたのか、二人はさっさと引き返していった。磯崎は部屋に戻り、一人で退屈していたらしい池谷と少し話をして、ベッドに入った。起きている間にあの二人に会うことはなかった。
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いつの間に戻ってきたのか、翌朝、磯崎が目を覚ました時には係長は着替えをすませ、身支度を整えていた。目許は赤いながらも上機嫌で、信じられないことに向こうのほうから、
『おはよう』と挨拶をしてきた。 が、磯崎はまともに顔を直視できず、ボソボソと
『おはようございマス』と返事をするに留まった。あの顔で男のを舐めているのかとか、色っぽい声で喘いでたのかと思うと、どうにも恥ずかしくなった。意地クソ悪いだけだった整った顔も、やたらと淫靡に見える。
そんな磯崎の思いを知らず、係長はふだん通り部下をコキ使った。今日も昨日と同じ炎天下を予感させる日差しの中、レンタルしたテーブルや椅子をバスの貨物置場に詰め込んでいると、背後から名前を呼ばれた。振り返るとそこには右手を上げ、はにかんだような三笠がいた。
「手伝おうか」
「あ…ありがとうございます」
二人で黙々と荷物をバスに積む。単純作業を繰り返すうちに、三笠がぽつりと話しかけてきた。
「昨日の見たんだよな」
今さら、取り繕うこともできなかった。
「はい…あの、すみません」
「あ、いいよ、悪いのは俺だからさ。それで…えっと…お願いなんだけど、あのことはみんなに黙っててもらえないかな? 頼むよ」
両手を合わせて、頭を下げられた。磯崎は慌てて『そんな、やめてくださいよ』と駆け寄った。
「俺、もとから誰にも話すつもりなかったから…」
三笠は『あーよかった』とホッとした顔で胸を撫で下ろした。
「俺は別にいいんだけど、聡は神経質だから見られたってわかったら気にすると思うんだよ」
はあ…と返すしかなかった。最後のテーブルを積み込んだあとで、二人同時に息をついた。三笠は『喉、乾かない?』と言い、近くにあった自動販売機でコーラを二つ買った。一つを『オゴリだからさ』と渡してくれる。木陰でコーラを飲みながら、磯崎は思わず聞いてしまった。
「あの…どうして係長だったんですか」
三笠は振り返って、首を傾げた。
「あの、悪いってわけじゃなくて、性格も違うからなんか不思議で…」
優しい顔が破顔一笑した。
「あいつ可愛いんだよ。俺なんて大した男じゃないのに、それでも好きで好きでたまんなくって一生懸命なところがさ」
コテージのある通りを、噂の係長が歩いているのが見えた。暑いのか、何度も額の汗を拭うような素振りをする。そして木陰の二人に気づいた。大きな声が届く。
「そろそろ朝食になるぞ、早く来いっ。そのあとですぐ出発だからな」
三笠が笑って手を振る。
「すぐ行くーっ」
恋人の姿が見えなくなってから三笠は肩を竦めた。
「まあ、俺もあいつに惚れちゃったから、仕方ないんだけどね…」
…帰りのバスの中、係長の隣を陣取ったのは、恋愛バトルの火花を散らしていた寺尾や和田、はたまた他の係長ファンの女の子ではなく三笠その人だった。バスに乗る直前になって『ちょっと具合悪い。景気当たりしたかも…』と言いはじめ、
『他の人に迷惑かけちゃうといけないからさ。智は知り合いだから…』と係長を最前列の二人がけの席に連れ込み、畏れおおくもその膝を枕にして横になった。具合の悪い人間が相手では女の子たちも勝ち目はなく、指をくわえつつも素直に諦める。二人の左隣、一人で座ることになった磯崎は、病人にもかかわらず枕にした腰や太ももをそろそろ撫でては係長に手をはたき落とされている三笠を横目に、これはこれでいいコンビなのかもそれないと心密かに思った。
キャンプから帰ったあと、磯崎は達観した。以前は係長に怒鳴られようものならすぐさま凹んでいたけれど、あの人も人並みに悩むことがあるんだと思ったら、大きな心でものごとを受け入れられるようになった。どんなにガミガミ叱られても、この人もアレが下手って言われて拗ねるような可愛いところがあるんだと思うと、怒りも自然に引いていく。最近、上手く自分をあしらうようになった後輩に係長は渋い顔をしているが、何も言わない。
「おはようございますっ」
八月初め、すし詰め状態で蒸し暑い満員電車もなんのその、元気よく職場に飛び込んできた磯崎への係長の第一声は『ここは小学校じゃないんだ、むやみやたらと大きな声を出すな』だった。『すみませーん』と形ばかり謝りながら、肩を竦めて自分のデスクに行くと、隣の女の子が声をかけてきた。
「ねえ磯崎君、キャンプの写真で来たよ。見る?」
「あ、見せて」
簡易アルバムに三冊は写真があった。中には彼女と係長が二人で写った写真もある。
「あら?」
彼女が自分と係長の写真をじっと覗き込む。
「ねえ、係長の首のところって変に赤くない?」
どれどれ、と覗き込む。係長のさわやかなチェックのシャツの首筋には、赤いアザがバッチリと写っていた。他人事ながら『うわっ、やばい』と思う。写真に記された日付を見ると案の定、キャンプ翌日のものだった。
「虫刺されじゃないの。俺と係長の泊まってたコテージってわりと虫多かったし」
「そうなの?」
「そうそう。俺もでっかいのに足を噛まれてさあ」
情事の跡であるキスマークを必死でフォローする。女の子は磯崎の『虫』説を全面的に信じてくれたようで、ホッと胸を撫で下ろした。やれやれ…と思いながら背後を振り返ると、何も知らない係長はデスクで肩肘をつき、難しい顔で経済新聞を読んでいた。
ちゃんとフォローしたんですから、感謝してくださいよ…そんな無言の訴えはもちろん、何も知らない係長に伝わるはずはなかった…。
花の宴
高橋雅人はゲタをひっかけると、裏口の木戸に手をかけた。最初は少し重たいけれど、そこを過ぎるとギイギイと軋みながらも手応えは軽くなる。自分が通れるだけの隙間を作り、猫の子のような柔軟さで外へ出た。大きく突き出した庇の向こうには、うっそうと草花が繁る庭がある。広い庭は雲もない夜空の、満月に近い月の光で青白く浮き上がって見えた。お化けや、溶解の類がそこの木の陰から飛び出してきたとしてもなんの違和感もないような気味の悪さがある。
雅人が住んでいるこの家は、古く由緒ある旧家だった。平屋の純日本建築で大きく、広い。昔は何十人とお手伝いを雇っていたこともあったと、ここに来た当初、継母が話をしてくれた。けれど戦時中に家の半分が焼け落ちてしまい、今住んでいるのはその残りの半分。使用人も家事のほとんどを一人でこなす和花さんという気さくなおばさんと、週に二、三日の割合で庭の手入れに来ている健吉という爺さんの二人だけだった。
いくら半分になったとはいえもとが大きいので、残ったものだけでも家には相当の広さがあった。それは四人家族が住むには十分すぎるほどで、家族の全員に部屋を与えても、物置同然の遣ってない部屋が二桁は残った。
庭もずいぶんと大きかった。坪数というものが雅人にはよくわからないが、口にすると大人は驚く。何しろ家の敷地の三倍近くあり、一周しようと思えば軽く十分はかかった。庭師が手入れをしているだけあり、庭はいつも整然としていた。テーマごとにいくつにも区切られ、それぞれに凝った名前がつけられていたが、不自然に捻じ曲がった松や、ボールをいくつも重ね合わせたような木を見ても、変だなと思うだけで日本のわびさびはわからなかった。ただこの家に最初に来たのは秋で、その時に庭のあちらこちらに咲いてきた紫色の花はきれいだった。あとになって健吉爺さんに、袋がはじけたように咲く小さな花の名前が桔梗だと教えてもらった。
古い造りになっているこの家は風呂場と厠は母屋と独立して建てられていた。だから夜中でも用を足したいと思えば、一度母屋から外に出ていかなくてはいけなかった。冷たい夜気がパジャマだけの体に忍び込み、雅人はブルッと身震いした。四月になったのに、夜はまだ寒い。両腕を抱きかかえたまま、厠に続く踏み石の上を飛ぶように歩いた。黒光りする石がカツン、カツンと音をたてる。ししおどしが石を打つ音によく似たそれは、静寂の庭の中に吸い込まれるように消えていった。
母屋と厠を結ぶ踏み石の間には、誰の気まぐれか一本だけ桜の木が植えられている。北向きの日当たりの悪い場所にあるのに幹は太く、枝も大きかった。唸るような強い風に前髪がなぶられ、桜の枝が大きくしなるのが見えた。両枝に溢れるほど抱えていた小さな薄紅の花びらが、あたりに一斉にまき散らされる。
月明かりの中、薄紅の花びらは雪のように見えた。溶けない雪は鼻先を掠め、ハラハラと足許に降り積もる。花びらが落ちる様をぼんやりと見つめていると、自分だけが夢の世界に迷い込んだような錯覚を起こした。それも束の間、背中を走り抜ける寒さに現実に引き戻され、慌てて歩き始める。
用を足して母屋に戻る際、草の上、土の上、踏み石の上とまるで小さな蟻がいくつも横たわるように花びらが重なっていた。それだけ…特別な理由もないのになぜか悲しくなった。
暗い板張りの廊下を足音をたてないように静かに歩く。雅人の部屋は家の奥まった場所にあり、そこへ戻るにはどうしても南の廊下を通らなくてはいけなかった。廊下から襖一つ隔てた場所には父と継母の寝室がある。父はともかく、継母は神経質な性質でほんの少しの物音でも目を覚ます。以前、同じように夜中にトイレに行った翌朝、食事の席で継母に『昨日、夜中に廊下を通っていたのは雅人さんかしら』と聞かれた。素直に『はい』と答えると『あんなに大きな音を立てて歩かないでちょうだい。夜中なのに非常識でしょう。昨日は目が覚めてからなかなか寝つけなかったのよ』と大げさなため息をつかれた。父や義兄のいる前で、まるで見せしめのように面と向かって言われて腹が立つ。返事もせずにフイッと横を向くと、継母は痩せすぎて血管が青く浮き出た手の甲を口許にあて『返事もないわ』と聞こえる声で呟いた。
「私の言うことは聞けないってことなのかしら。晃はそんな風に私に反抗したりしないのに…所詮は他人よね」
長方形の座卓を挟んで向かい合う食事。父は自分を庇うどころか、まるで話など聞こえていないかのような表情で優雅に箸を動かし、義兄の晃もうつむいたまま。継母と雅人だけが睨み合っていた。
『他人』だと区別をしているのは自分じゃない。お前のほうだ。何かあるごとに晃を引き合いに出して、俺のことを悪く言う。いつもいつも…。ご飯は途中だったけれど、皮まず席を立った。今を出ていこうとする背中に、追い討ちがかかる。
「食事が終わったのなら、『ごちそうさま』ぐらい言いなさい。まったく…あなたの母親は子供にどんな躾をしたのかしら」
自分はまだしも母親の悪口を言われて、我慢できずに
『クソババア』と怒鳴った。継母は真っ赤になって、怒りのあまり言葉も出てこないのか右手を握り締めたまま
『このっ…このっ』と繰り返した。その日、学校から帰ってきた雅人は、継母が気分が悪いと朝から寝込んでしまっていると父親から聞かされた。
「あの日とは神経が細い人だから、あまり心配をかけちゃいけないよ」
諭されても、浮世離れした雰囲気のある父親の喋りはどこか的がはずれていた。ことあるごとに継母と衝突する雅人がこの家に来て学んだことは、争いの種と極力関わらないようにすることだった。だから今もよけいな小競り合いを避けるために足音を忍ばせている。寝室の前を通り過ぎ、フウッとため息をつく。足音と同時に息まで殺していた。振り返り、沈黙の障子に
『クソッタレ』と小声で呟く。
南の廊下を抜けて角を曲がり、三つ目が自分の部屋。足の裏まですっかり冷たくなり、早く温かい布団にもぐり込もうと襖に手をかけたところで、
『ガタン』と物音がした。ピクリと体が奮え、手の動きが止まる。ゆっくりと音のした廊下の奥へと目を凝らす。音はもう聞こえてこない。雅人の部屋より北側には、空き部屋が二つと突き当たりに物置同然の板の間が一つあるだけだった。
誰もいないはずなのに…そう思うと同時に背中がゾクゾクした。幽霊という言葉が頭を過る。古い家だ。そういうモノがいても、不思議ではないような気がした。ガタガタッとかすかな物音がして、雅人は声にならない悲鳴をあげてしゃがみ込んだ。何か、いる。突き当たりのあたりに、何がいる。幽霊は今まで一度も見たことがないけれど、見たとか、怖かったという話は何度も聞いた。早く布団の中にもぐり込んでしまおうと襖を開きかけ、はたと手が止まった。
もし幽霊じゃなかったら…なんだろう。ひょっとして泥棒…とか。以前、継母が泥棒に入られたことがあると話をしていたのを思い出す。その時は継母の父親が生きていて。格闘の末に捕まえたと言っていた。あの物音が本当に泥棒で、何か盗まれてしまったらどうしよう。
『夜中にそれらしい物音を聞いていたのに、どうして知らせなかったの』と継母に責められるだろうか。だけど今、誰かを起こして確かめたところで何もなかったら迷惑がられる。この家は古いから、鼠がいても当然だし、猫が騒いでいたのかもしれない。
「お前、怖いのか」
自分で自分に聞いた。幽霊も泥棒も怖い。だけど、何もしなかったことで継母に怒られるのはそれ以上に嫌だった。それにこのまま布団の中に逃げ込んでも、物音が気になってきっと眠れない。『怖くない、怖くない…』心の中で呪文をかける。『怖くない、怖くない。あれはきっと猫か鼠が騒いでいるだけだ』暗示をかけながら立ち上がり、おそるおそる廊下の奥へと足を踏み出した。ちょっと確かめて、何もなかったらそれでいい。ミシリ、ミシリと自分の体重で床が軋むわずかな音にビクビクしながら、手前の部屋から確かめた。襖の前で耳を澄ましても、二つの空き部屋からはなんの音もしなかった…。最後、突き当たりにある物置になった板の間まで来た時、雅人は真冬の海に投げ込まれたようにゾッとした。
襖越し、はっきりと泣き声が聞こえた。空耳なんかじゃなかった。誰か、いる。襖の奥に誰かいる。けれどそれが生きている人か、それとも死んでしまった人かどうかの区別は雅人にはつけられなかった。襖の前でガタガタと震えるその耳に、悲しげな泣き声はまとわりついて途切れることはなかった。
「もうっ…いや…」
怖さに縛り上げられて硬直していた雅人も、ずっと
『声』を聞いているうちに、その中に耳慣れたアクセントを見つけた。聞いたことのある声。誰の声だったか…考えているうちに思い出した。晃だ。
「嫌だって…嫌…ああっ」
晃だとわかった途端、まるで魔法が解けるように体の力が抜けた。それと同時に、なぜこんな夜中に晃が物置にいるのだろうと不思議に思う。最初は泣き声だと思っていた声も、よくよく聞けばどこか違う気がする。確かに泣き声には変わりはないのだけど…。
「ああっ…」
声とともにガタガタと物音がした。寝ぼけて物置に入り込んで、そのまま悪い夢でも見ているんだろうか。正体がわかればもう怖いものはなかった。襖を引くと、それは音もなく敷居の上を滑った。十畳ほどの板の間には、明かりがついていない。その代わり、高い場所にある大きな明かり取りの窓ガラスから、青白い月の光が差し込んでいた。
十畳ほどの広さの部屋の中には、古い箪笥や机、本が灰色の影になって雑然と並んでいる。そんなガラクタの狭間に人の足が見えた。月の光を受けた青白い足は上を向き、そしてゆっくりと床に落ちた。あんなところに寝転んで何やってるんだ? そう思いつつ声をかけようとして息を呑んだ。晃一人じゃない。晃の上に誰かの足が絡まっている。
「あっ…ん、あっ…あっ…」
泣いているのとは違う、変な声。絡まったままうごめく爪先。ゴクリと唾液を飲み込む。もしかしてこれは、その…エッチな場面なんじゃないだろうか。よくわからないけど。見てはいけないものを見てしまった気まずさから、雅人は慌てて襖を閉めた。皆でいやらしい話をすることはあっても所詮中学一年生、経験のあるヤツでもせいぜいキス止まりで、その先は未知の世界だった。女の子の体が実際にどうなっているのか、保険の授業で習ったことはあるけど、本物を見たことがないからよくわからない。自分のことはどうでもいいとして、晃の奴、家の中でエッチしてた。いつの間に女の子を連れてきたんだろう。しかもあんなところで、裸になって…想像しただけで顔がカーッと赤くなった。
「こっ、高校生ってやっぱ違うのかな…」
小声で呟く。襖のおくから、また聞こえた。『あっ…あんっ…』鼻にかかった晃の声に、男でもあんな声を出してエッチするんだと初めて知った。下半身が急にムズムズしてきて、落ち着かなくなる。ここに立って盗み聞きをしている自分がとてもいやらしい奴に思えて、恥ずかしくて部屋に戻ろうとするけれど、それ以上の好奇心ががっちりと両足を押さえつけてる。晃の恋人、相手の女の子の顔が見てみたい。
「晃、つらいのか」
聞こえてきたもう一つの声に、自分の耳を疑った。
「でもね、お前のペニスは大きく膨らんで硬くなって、とても喜んでいるよ。可愛い晃」
父さんの声だった。どうしてここで父さんの声が聞こえるのか、変ないやらしいことを言っているのか…わからなかった。
「そんなこと、言わないでっ」
「可愛い晃。大好きだよ」
「あっ、あっ、僕もっ…善幸さん……ひっ」
頭が真っ白になり、体中の熱が一気に足許へ引いていった。襖の奥にある、二組の絡んでいた足が晃と父さんのものだなんて信じられなかった。だけどもう一度襖を開いて本当のことを確かめる勇気もない。
「ひっ、あっ…」
耳をふさぎ、よろけるようにして自分の部屋に戻った。すっかり冷たくなった布団の中に入ってからも、ずっと考えた。あそこで絡んでた裸の足の意味を。父さんも晃も男だ。それなのにエッチするなんておかしい。血は繋がってなくても親子なのに、そんなことをしちゃいけないのに。おかしい、おかしい、おかしい…気持ち悪い…。
青白い月光に絡む足。喘ぎ声。その夜、雅人は一睡もできなかった。
雅人が十歳の時、本当の両親は離婚した。それまで喧嘩の一つもしたことがなく、とても仲のいい二人だったのに、家族四人で遊園地に行った帰りに立ち寄ったファミリーレストランで
『お父さんとお母さんは別々に暮らすことにした』と父親に告げられた。別々に暮らすというのが離婚には繋がらなくて
『単身赴任をするの?』と問い返した。同級生でも父親が単身赴任で家にいないという子が何人かいたからだ。意味が通じていないと悟ったのか、今度は具体的に
『離婚するんだよ』と二人の子供に告げた。淡々と話をする父親の横で、母親は遠くにある観覧車をじっと見ていた。
「嘘だっ」
雅人の訴えに、父親はゆっくりと首を左右に振る。真剣な眼差しだった。本当に離婚するんだと確信した途端、双子の妹の和美が泣き出した。連鎖反応のように雅人も泣きたくなったけれど、お腹に力を込めてぐっと我慢した。和美の手をしっかりと握り締める。妹のためにもどうにかしなくてはいけない、使命感のようなものが胸の中で大きく膨らんだ。
「僕は嫌だ、絶対に嫌だ」
最後の最後まで雅人は嫌がったけれど結局、両親は離婚した。そして理由も話してはもらえなかった。そうして妹の和美は母親に、雅人は父親に引き取られた。子供になす術はなかった。正直に言うと、雅人は父親よりも母親と一緒に行きたかった。父親は仕事人間で滅多に家にいなかったし、たまに子供をかまってくれたとしてもそれは雅人ではなく妹の和美だったからだ。和美が母さんのほうがいいと言ったからそちらに引き取られることになったけど、本当は父さんも和美を引き取りたかったんだろうなと思うと、少し切なかった。自分は父親にあまり好かれていない。そういう固定概念があったから、二人で暮らすようになってからも簡単には甘えられず、今まで親子だったのが不思議なほど自分たちはギクシャクとしていた。けれど二人だけのよそよそしい生活は一年も続かなかった。父親が再婚したからだ。
相手は旧家の後家で、三十一歳の父親よりも七歳年上だった。二人が入籍すると同時に父親と雅人は継母の家へと引っ越した。それまでマッチ箱のような小さなマンションで暮らしていたことを思えば新しい家は比較にならないほど大きかったが、旧家の重厚で埃臭い佇まいは雅人に薄気味悪さとしか感じさせなかった。加えて継母はプライドが異常に高く、神経質な女だった。最初のうちは夫の連れ子に対しても愛想はよかったが、そのうち雅人のはっきりした性格とそりが合わなくなり、ことあるごとに衝突するようになった。父親は新しい妻と息子が上手くいってないということを知っていても、よっぽどのことがない限りはあえて口を挟んでこなかった。そんなことどうでもいいという顔をしていた。
無関心でよそよそしい父親と、ヒステリックな継母。それでもここでの生活に耐えていけたのは晃がいたからだ。継母の連れ子だった晃は雅人よりも四歳年上で、あの女から生まれたというのが信じられないほど穏やかで、優しかった。背が高く、頭がよくて色白の綺麗な顔をした義兄は雅人の自慢だった。父親が再婚して唯一、よかったと思える部分だった。晃にだったらなんでも話せたし、甘えられた。雅人と母親の折り合いが悪いのを知って、それとなく慰めてくれたこともあった。優しい態度や言葉を素直に喜んでいたのもあの夜、桜が綺麗に舞い散ったあの夜まで。次の日、雅人は自室を東の離れに移した。離れは母屋とは別個の建物なので、食事の時以外は誰とも会わずにすんだ。
勝手に部屋を離れに移してしまったことに関して、継母は何も言わなかった。自分が気に入らないことだったら色々と文句を言うに決まっているので、そりが合わない夫の連れ子が少しでも視界に入らない場所に行ったのをこれ幸いに思っているのかもしれなかった。
開け放たれた窓から、新緑の匂いのする風が教室に吹き込んできた。前髪が揺れる感触を心地よいと思いながら、窓の外にある菩提樹をぼんやりと眺める。その葉がいつもよりもキラキラと光って見えるのは、朝方まで降っていた雨のせいに違いなかった。宮沢賢治の詩を朗読する教師の声が壊れかけたスピーカーのように遠く近く、まるで子守歌のように聞こえて瞼がだんだん重くなる。眠りの誘惑に抗いきれず、目を閉じた。
『パサッ』
何かが落ちる音で目が覚めた。周囲の視線が音のした方向へ集まる。もちろん国語教師、兼担任の井上の視線も。無言の視線を浴びながら、隣の席の笠原政宗は机の下に落ちた雑誌を慌てて拾い上げると、机の前に乱暴に押し込んだ。井上は教壇から降りると、ゆっくりとした足取りで政宗の前まで歩いてきた。政宗は担任に上目遣いに見上げると、お愛想のようにニイッと笑ってみせた。井上も笑った。笑いながら『ほら出せ、没収だ』と右手を差し出した。
政宗は井上の右手と机の上を何度も視線を行き来させるものの、いつまでたっても見つかった雑誌を出そうとしない。見逃してくれと言わんばかりの目で井上を見上げていた。
『…一人で見てるからだよ、馬鹿』
『どうせ没収されんのなら、俺に見せてからにしろっての』
周囲の男子のボヤキから、政宗がそれを出せない理由がなんとなくわかった。チラッと見た感じでははっきりしなかったけど、きっとそうだ。確かにエロ本読んでて見つかったなんてかっこ悪い。女子からもブーイングだ。ザワザワと教室がざわめきはじめ、いつまでも雑誌を出さない政宗に焦れた井上は、強引に雑誌を机の中から引き出した。ささやかな抵抗虚しくあらわになったその本を、井上はその場でペラペラと捲った。目を大きく見開き、驚いたように改めて没収した生徒を見た。
「これはお前の趣味なのか?」
政宗は慌てて首を横に振っていた。雅人の前の席の赤木という眼鏡の男子生徒が『あれってホモ雑誌だぜ、政宗も何考えてるんだよ』と隣の席の女の子に囁いているのが聞こえた。女の子は『嫌だ、気持ち悪い』と眉間に皺を寄せながら肩を竦めた。
「とっ、隣のクラスから回ってきたんだよ。すごく面白いからいっぺん見てみろって言われて借りたんだけど、袋に入ってたからどんなのかわかんなくてさ。ちょっと覗いてみたら、びっくりして…」
必死に言い訳をする政宗を井上は上からチラリと見下ろした。
「そうか。ちょっと本を覗いてみたくなるほど、俺の授業は面白くなかったか」
「えーっと…その、いや、そういうわけでも…」
いつになく政宗の歯切れも悪い。井上は腰に手をあて、ため息をついた。
「笠原、とりあえず廊下に立ってろ。それから次の休み時間、職員室に来い」
政宗はしぶしぶ立ち上がる。雅人と目が合うと、悪びれた風もなくペロリと小さく舌を出した。クラスメイトの嘲笑の中、気まずそうに頭を掻きながら教室を出ていった政宗を見上げてから、井上はパンパンと手を叩いて私語が飛び交う教室を黙らせた。
「いいか、お前ら中三で今年受験なんだぞ。くどくど言うのは俺の趣味じゃないが、今日やってるのは受験でも出題頻度の高い宮沢賢治だ。作者と作品名ぐらいはキッチリ覚えておけ。それから…笠原みたいに、息抜きするのはいいが絶対に周りにばれないようにしろ」
言ったあとで、井上はあーっと頭を掻きむしった。
「俺も中学の時には散々悪いことをしてきたから。お前らを叱るような資格はないんだが…それでもケジメは必要だからな。ケジメは」
授業が再開する。中学三年生…という言葉が、胸の中に引っかかる。あと半年もしたら、多分高校生になる。二年前の晃と同じ、高校生になる。あと半年の間に、自分は何か変わるだろうか。一年生の時から何も、自分の中では変わったような気がしないのに、変わるのだろうか。…今のゴタゴタで思い出してしまった。あの夜の出来事。いつまでたっても忘れない、忘れることができない光景に、雅人は小さく舌打ちした。
昼休み、政宗は弁当を片手に雅人の前の椅子を横座りした。
「よう、ホモ大王」
そう言ってやると、怒った顔で雅人の頬を引っ張った。 『痛っ』と叫ぶと、満足したようにフンッと鼻を鳴らす。
「ああ、もう。ムカツクったらねえよ」