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作者:日-木原音瀬 当前章节:15403 字 更新时间:2026-6-22 21:16

 政宗は両足でバンバンと壁を蹴った。

「もともとお前が悪いんじゃん」

 自覚があるのか、苛々したように頭をガリガリと掻く。三時間目の休み時間は、職員室で井上にガッチリ絞られたようだった、四時間目始業のチャイムと同時に教室に戻ってきた政宗はひどく機嫌が悪かったからだ。

 政宗は頭がよくて、運動神経もいい。手先と器用だから絵も上手いし、綺麗な字を書く。だけどそれを鼻にかけたり、変に気取ったりすることもないし、授業中にエロ本を見つかって没収されるなんて間抜けな男だからみんなに好かれている。人当たりもいいから友達は多いけど、本当の政宗は辛辣な皮肉屋で天の邪鬼だと知っているのは、自分だけかもしれない。

 幼なじみの腐れ縁、というやつだろうか。雅人は小学生の時に両親の離婚に伴い転校したが、転校するまでは政宗の家の近くに住み、同じ小学校に通っていた。中学は体裁を気にする見栄っ張りの継母のおかげで、晃も通っていたという名門の私立に放り込まれた。そこに偶然、政宗も来ていたのだ。

 あれほど仲のよかった政宗とも転校してからは疎遠になり、音沙汰がなくなっていた。再会したのは入学式。廊下に張り出されたクラスの名簿で雅人の名前を見つけた政宗は、別のクラスだったのにわざわざ会いに来てくれたのだ。前と同じように

『よっ、雅人』と声をかけられた時は、驚くと同時に涙が出るほど嬉しかった。同じ小学校から進学した子がいなくて心細かったから、よけいにそう思った。

「まったく、井上ちゃんもキツイよ。俺があれだけ懐いてやてるのにさあ」

 弁当をがっつきながら呟く政宗のその台詞を、ぜひとも井上に聞かせてやりたいと思った。若い担任に対して、政宗は何げに反抗的だ。いくらエロ本でも、素直に出して謝ったりしなかったところに微妙に表れている。もしこれが嫌いな教師なら、さっさと本を出して頭を下げ、ついでに貸してくれた隣のクラスの生徒の名前もチクったかもしれない。なぜか…それは嫌いな奴には面倒だから関わりたくないのだ。だから『いい子』になってサッサとやり過ごそうとする。だから政宗が変に愛想のいい態度を取る奴は要注意だった。それを知らない奴が仲がいいかと思って一緒に遊びに誘うと、十中八九断られる。もっともらしい理由とともに。親友のこのややこしい性格に、雅人も散々被害をこうむった。政宗におそろしく気に入られた雅人は、その愛情表現とも言える苛めを嫌と言うほど受けたからだ。けれど自分は苛められて黙っている性格じゃなかったから、大喧嘩になった。日課みたいに毎日毎日喧嘩して殴り合ってたから、しまいには互いの親も呆れかえったほどだった。でも、そのうち喧嘩もしなくなって、天の邪鬼なこの男といつも二人でいるようになった。

 苛立ちもそのまま、ガツガツと弁当を食べる政宗を横目に、雅人は味けない購買のパンをかじった。継母は料理をするが、自分のために弁当を作ってくれたことは一度としてなかった。以前、継母の作った得意料理で雅人の口にどうしても合わないものがあり、残してしまったところ、それをずっと根に持たれている。『私なんかの作ったものは口に合わないんでしょう、ごめんなさいね』と今でも時々、嫌みを言われる。

「口開けろよ」

 そう言われて素直に口を開けると、香辛料の効いた唐揚げが一つ放り込まれた。肉が柔らかくて美味しい。政宗のお母さんは料理が上手い…。

「どうだ、うちのババアの自慢作。美味かろう」

「うん」

 政宗はニッと笑う。自分がもの欲しげな視線をしていたのか、それとも気をつかってくれているのか、政宗はよく

『味見』と称して弁当の中身を分けてくれる。その大半は雅人の大好きなものだった。何も言わなくてもわかってくれる。何げないその行為は、妙にくすぐったいような嬉しいような、そして切ない気持ちにさせられる。

「政宗」

 うつむけていた顔をあげると、青木がニヤニヤしながら二人の前に立っていた。青木は

『じゃーん』と音付きで机の上に何かを置く。体にぴったりとした水着のような服を着た男が表紙の、変な雑誌だった。政宗が

『うわっ』と叫び声をあげる。

「お前が没収された雑誌ってコレだろ。井上さ、教壇の机の中に忘れてったんだぜ。これってコモ雑誌だよな。本当にお前の?」

 政宗が大げさに肩を竦め、息をついた。

「んなわけないだろ。隣のクラスの奴に借りたんだよ。もうメチャクチャすごいの、お前にだけ特別に貸してやるって言われてさ、期待して見たらこんなんで、最悪だよ。おまけに井上ちゃんには見つかるしさあ」

 ふうん、と呟いたあとで青木は隣からズルズルと椅子を引きずってきた。

「これ、一緒に見てみようぜ。ひょっとしたら面白いかもしれないぞ。俺、ホモ雑誌って見たことないだよな~」

 青木は乗り気で、フンと鼻息荒く本を両手に掴んだ。

「そういや俺もちゃんとは見てないだよ」

 没収され、ガチガチに怒られたにもかかわらず政宗も乗り気だった。

『あ、ちょっと待てよ』とわざわざストップをかけてから、残りの弁当がガーッとかき込んだ。雅人はクリームパンを手にしたまま、どうしようと思った。はっきり言って見たくない。絶対に見たくない。席を立とうと腰をうかしかけたところで、政宗に右腕を掴まれた。引き止められて立てなくなり、腰が椅子に落ちた。

「お前、どこ行くの? まだ食ってる途中じゃん」

 じっと見つめる視線は、心の中まで見透かされそうで怖くなった。自分が何を考えているのか知られそうで怖い。二年たってもあの出来事を忘れられない自分、そんないやらしい自分が見つかりそうで怖い…。

「おい、見てみろよ。うえーっ、気持ち悪い」

 青木が、本の中に折り込まれていたカラーのグラビアを広げた。それは体格のいい裸の男が抱き合っている写真で、片方の男がもう一人の男の上に覆いかぶさるようにして背中に腕を回し、キスしていた。性器は見えないように股間は密着している。

「すっげえ、男同士でキスして気持ち悪くねえのかな」

「ひょっとして目を閉じてれば女とあんま変わんないのかもしれないぞ」

 政宗が冷静に意見を述べる。

「それでも男だぜ。俺は絶対に嫌だな」

 青木は全面否定したあとで声を潜めた。

「これってさあ、見えないけど本当にケツにはめてると思うか」

 政宗は眉間に皺を寄せて 『ウーン』と唸った。

「わっかんねえなあ。ひょっとしたらハメてるかもな。そういや大学生のアニキが言ってたけど、男とやるのってけっこうイイらしいぞ」

 青木が目を丸くして、グッと身を乗り出してきた。

「お前の兄ちゃん、男とやったことあるのか?」

「いや、やった奴に話を聞いたんだってさ。女と絞まりが全然違うらしいぞ。きつくってメチャクチャ気持ちいいらしい」

 青木はヘラヘラと笑った。

「でもいくら気持ちよくてもさ、尻の中に突っ込むのはちょっとなあ…」

 見たくないのに、目がグラビアから離れない。忘れられない記憶が鮮やかによみがえり、絡み合う二人はいつの間にかあの日の晃と父さんに入れ代わる。舞い散る花びらと、月夜の情事、絡まる足、忙しない喘ぎ声。

「おい、なんか熱心に見てるじゃないか」

 政宗に肩を叩かれた。

「俺、気持ち悪い…」

 黒くどろりとした塊が、喉許から迫り上がってくる。

「何、言ってんだよ。さっきからじっと見てるくせにさ」

 青木に背中をバンバン叩かれ、それで一気にキた。勢いよく椅子から立ち上がった雅人は、教室を飛び出してまっすぐにトイレへと駆け込んだ。個室に駆け込むと同時に吐いた。吐いて吐いて吐きまくり、トイレの個室でうずくまった。

ようやく落ち着いてトイレを出た時には、授業はすでに始まっていた。教室に戻るのも嫌になり、ふらりと屋上に上がった。温かい日差しと柔らかい風が吹く気持ちのいい場所には誰もいない。雅人は壁面に取り付けられた梯子を上ってもう一段高い、時計塔の上まで行った。四メートル四方の狭い場所は、一メートルほどのコンクリートのフェンスで囲われている。そのはじっこにもたれて膝を抱え、雅人は

『青木のくそったれ』と大声で叫んだ。

あんな本を引っ張り出してきて、俺の前で広げて見せたあいつが全部悪い。最悪な気分だった。雅人は指先を組み合わせて自分の目許にあてた。そっと目を閉じる。両手を伸ばして空に向けた。身長はちっとも伸びないのに、指は長くて細い。雅人はそれをおそるおそる自分の股間にあてた。上から強く押す。このまま握って、擦って…と思うのに、そうしなくてはいけないと意識すればするほど、指先は強張り、しまいにはブルブル震え出した。こんなこと、誰だってしてる。自分ぐらいの歳になったら女の子の裸を想像して自慰をするのが普通で、できないほうが異常なんだ。だけど指は動いてくれない…。

ぽたん、涙が落ちる。中三になっても自慰もできない。そのことがどれだけ自分の中でプレッシャーになっているか、誰も知らない。晃と父さんのアレを見てから、セックスを悪いことのように思い込んでる自分がいる。だからそれを連想させるような自慰ができない。

「どうにかしてくれよ…」

 誰かに相談してみようかと何度も考えた。だけどことがことだけに、誰にも言えなかった。原因は薄々わかってる。怖いのは、このまま自分が何も

『できない』ことだ。好きな人ができた時、セックスができなかったらどうしよう。不能だったらどうしよう。結婚できなかったらどうしよう。不安は限りなく胸に溢れ、雅人は小さな呻いたあとでコンクリートの上に丸くなった。

 昼休みにいきなり教室を飛び出したかと思えば、次の授業を堂々とエスケイプした雅人を心配して、政宗は色々と話しかけてきた。だけど気分も悪くて腹も立っていたから、一切返事をせずに片っ端から無視した。ああなった理由はとても話せなかったし、政宗が悪ノリして青木に付き合ったりするから…という恨みもあった。そんな態度を目の当たりにしても政宗は怒るでもなし、不機嫌になるでもなし、ずっと一貫した態度で接してきた。

 そんな大人っぽい態度を見ていると、単に拗ねてるだけの自分がひどくガキ臭く思えてくる。学校から帰る頃になると、自分でそういう状況を作っておきながら、気まずさに息が詰まりそうになった。自分も感じ悪かったよなあと心のどこかで思いつつ、分かれ道まで来ても素直に謝ることができない。もういい、今日はこのまま帰ろうと走りかけた雅人の手首を、政宗が掴んだ。

「じゃあ、また明日」

 なんにも言わない雅人に、政宗はニッと笑いかけた。

「何かあったら電話かけてきていいからさ」

 優しくするな、と思った。優しくされればされるだけ惨めになる。女々しい自分を思い知らされる。引き止めた手が離れてからも、帰れなかった。政宗も行ってしまわずに、目の前に立ち尽くしていた。

「どうしてそんな不機嫌になっちゃったのか俺にはわかんないけどさ…」

 うつむいたままの頬を軽くつねられた。少し痛い。

「お前は頑固だから、一回へそ曲げたらなかなか機嫌が直んないんだよな。そんな厄介な性格をしてるから、友達が少ないんだぞ。まあ、そんなこと俺はどうでもいけどね」

「おっ、大きなお世話だっ」

 政宗はまるで犬でも撫でるみたいに、乱暴に雅人の髪を撫でた。その乱暴な揺れが、鬱陶しいようで、嬉しい。変な感じがする。

「数少ない友達は大切にしろよ。俺みたいにいい奴なんて滅多にいないぞ」

 自画自賛もいいところ。雅人は頭を撫でられながらの情けない体勢で政宗を睨みつけた。

「外面ばっかりよくて、ひねた性格してるくせに。友達少ないのはお前も一緒じゃないか。俺は知ってるんだぞ。小学生の時に、気に入らないからって転校生を苛めまくってただろ。お前の苛めが原因で、そいつまた転校してったもんなっ」

 ああ、と短く呟く。そのことを覚えていたようだった。

「苛めには一応理由があったんだよ、あの頃の俺らって顔つき合わせたら喧嘩してたけど、俺敵にはお前と仲良くしたかったんだよ。けどどうしていいのかわからなくて、悩んでるところにあいつが来たんだ。あいつ、あっさりお前と仲良くなって、いつも気持ち悪いぐらいべったりしてて、あんま見せつけるからムカついたんだよ」

 その言い草に呆れた。

「アレが仲良くしたいって態度か。人の弁当箱の中に死んだカエルを入れたり、ことあるごとに『チビチビ』ってからかいやがって」

 政宗は体を引いて女の子のように小首を傾げた。

「愛情ゆえの苛めだったのよ。雅人ちゃんと仲良くなりたいのに意地っ張りでシャイな俺様はそうとは言えなかった。わかってちょうだい」

 猫撫で声でそう言い、大胆にすり寄ってくる。

「気持ち悪い声を出して寄ってくるな、暑苦しい」

「くすん、友達やめないでね。雅人ちゃん」

「ちゃんづけで呼ぶなっ」

 ツンケンした口調ほど怒っているわけじゃなかった。レクリエーションとも言えるこのやり取りを二人で楽しんでいる。

「雅人、俺さマジで腹減った」

 政宗が腹減った、と言うのはどこかへ食べに行こうという合図だ。そういえば自分のお腹もさっきからひっきりなしにギュルギュル鳴っている。昼間に吐きまくったから、そのせいもあるかもしれなかった。

「何か食って帰るか」

 そう言うと、政宗は胸を張ってポンと叩いた。

「小遣い出たばっかりだからさ、今日はおごってやるよ」

「げっ、お前のおごりっていったら明花屋のたこ焼きやないか」

「何か文句あるか。オゴリだぞ、オゴリ」

 ドスの効いた声で脅されて、小さくなる。

「文句はございません。おとなしくご馳走になります」

「よし」

 政宗に背中をポンと叩かれた。『行くぞ』と言われて

『おう』と答える。来た道を引き返すのが嬉しかった。政宗が友達でよかったと、その影を踏みながら思った。

 薄暗くなった道を一人で歩く。政宗とたこ焼きを食べて、馬鹿話をしてから帰りはじめたら太陽は西に沈んでしまっていた。二人で話をしていた時は忘れていたけれど、一人になるとまた思い出す。本のこと、晃と父親のことを。政宗は自分の機嫌が悪くなったのがあのホモ本にあるらしいとそれとなく察しているようで、その手の話題は一切しなかった。

 『しっかりしろ』と自分に言い聞かせる。今日のことも昔のことも全部忘れてしまえ。今まで何度も自己暗示をかけて、だけど効き目のない呪文を今日も繰り返した。

 高い塀沿いに歩いて、裏口の木戸を開ける。こちらのほうが自分の部屋のある離れには玄関から行くより断然近かった。雅人しか使わない木戸は押し開けるたびにギギッと大きく軋んだ。陽が落ちて灰色の陰影だけになった庭は、ひどく陰気に見えた。五色の玉砂利が敷かれた曲がりくねった道をはずれて、桂の木の下をくぐり抜ける。杜若の池に沿って歩いていると離れが見えてきた。玄関先に黒い人影がある。てっきり和花さんが夕食を持ってきてくれたものだと思い、駆け寄った。近づいてくる自分に向かって、影は右手を上げた。

「ずいぶんと帰りが遅かったね。何してたんだい」

 それが誰だか気がついた時、足が止まった。離れの前にある薄暗い外灯の明かりの下で微笑んでいたのは、今年の春から県外の大学に進学し、家を出て一人暮らしを始めたはずの義兄だった。

「そんな驚いた顔をしなくてもいいだろう」

 ジーンズに白いシャツ、セカンドバッグを手にした晃は、ゆっくりと近づいてくるとスッと屈み込んだ。拾い上げられたそれが、自分の学生鞄だと気づくのに少し時間がかかった。雅人は自分が鞄を落としたことすら気づかないほど、兄の姿に驚いたからだ。

「たった二、三か月で兄貴の顔を忘れたなんて言うなよ」

 軽く塵を払って差し出された学生鞄を毟るように奪い取ると、雅人は晃を睨みつけた。

「なんの用だよっ」

 晃はフッと雅人から顔を逸らすと、杜若の池の暗い水面に視線を移した。寂しそうな横顔を見ているうちに、理由もなく胸が痛くなった。自分の冷たい態度に傷ついたのかもしれないと思ったけれど、謝れなかった。晃が黙り込んでしまったので、雅人もうつむいて足許の雑草を踏みつけた。ケロケロとカエルの鳴いている声が聞こえる。

「どうして平日に家に帰ってきたんだよ」

 晃は雅人を正面から見た。目は悲しげなまま、口許だけで笑う。

「明後日からゴールデンウィークだろう。だから帰ってきたんだよ。久しぶりに母さんの料理も食べてみたかったしね」

「大学生は暇なんだな」

「そうでもないよ…」

 沈黙の呪縛が解けたところで晃の横をすり抜け、離れに向かった。靴を脱ぎ散らかしたまま部屋の灯をつける。晃は雅人の靴と自分の靴を綺麗にそろえて部屋に上がってきた。自然に自分のあとをついてきていたから、来るなと言うタイミングを逃してしまい『しまった』と思った時には、晃はもの珍しそうにあたりを見回していた。

「雅人が離れに部屋を移してから初めて来たけど、綺麗にしてるね」

「じろじろ見るなよっ」

 晃が自分の部屋を見ているという事実よりも、些細なことに腹を立てて怒鳴っている自分自身に苛つく。あの日から、晃が父親とセックスしているのを見てしまってから、自分と義兄の間はずっとぎくしゃくしていた。晃の態度は変わらない。変わったのは自分だけ。自分一人がいつも野良犬みたいに喚いている。それに今日は学校で嫌なことがあった。晃の帰省は、正体の掴めない自己嫌悪に追い打ちをかける。

 何もしていないと晃と向かい合わなくてはいけないような気がして、学生鞄の中身を机の上にばらまいて整頓らしくものを試みた。けれど思うように片付けられず、散らばる教科書やノートを見ているだけでますますムカついた。ゴトリと音がして振り向くと、晃が本棚からハードカバーの本を抜き出して広げたところだった。

「人のものに勝手に触るなっ」

 晃はびくっと体を震わせて、本を床に落とした。拾い上げる指先が細かく震える。

「勝手に触ってごめん、悪気はなかったんだ」

「もう出てけよ」

 背中を向けたまま吐き捨てる。けれど背後の気配はいつまで経っても立ち去る様子はなかった。

「どうしてそんなに怒ってるんだ?」

 ぽつりと聞かれた。

「僕は何か雅人を怒らせるようなことをしたんだろうか」

 よくそんなことが言えたものだと思った。自分の母親を裏切って男と…父さんとセックスしたくせに。そのせいでおかしくなって、自分は自慰もできなくなった。けれど本当のことは言えない。晃にどんなに乱暴な口をきいたとしても、それだけは言えなかった。口にしたが最後、今までなんとかバランスを保っていたものが粉々に砕けてしまいそうな気がした。

「顔を見て話をしてくれないか」

「出てけって言ってるだろっ」

 布製のペンケースを鷲掴みにして、振り向きざまに投げつけた。それは晃の額を直撃し、ぽたりと床に落ちた。赤くなった額に手のひらをあてた晃が、不意に泣いてしまいそうなほど表情を崩した。自分のやってしまったことながら、ドキリとする。後ろめたさは急速に膨らんで、今すぐこの場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。潤んだ瞳をそっと伏せ、晃は自分を傷つけたペンケースを拾い上げると無言のまま雅人に差し出した。それはまるで、自分の罪の形だった。

「ごめんなさい…」

 相手を傷つけて初めて、謝罪の言葉が口から出た。晃は目を細め笑った。

「大丈夫だよ、そんなに痛くなかったから」

 痛くなかったという言葉にホッと胸を撫で下ろす。

「今日、学校で嫌なことがあったんだ。だから苛々して…」

 言い訳を並べる。晃は浅く頷いた。

「誰にだってそんな時はあるよ。一人になりたかっただろうに、勝手に押しかけてきてごめんね。でもどうしても雅人と話しておきたいことがあったから」

 そこで晃は一息ついた。

「高校のことなんだけど、雅人はもうどこへ行くか決めた?」

 自分の通うことになるかもしれない高校が、晃にどういう関係があるのだろうと思いつつ 『白泉高だけど』と答えた。

「白泉はここから近いし、便利でいいところだけど、レベルはそう高くない。大学に進学するつもりなら、高校も慎重に選んだほうがいい。雅人さえよければ私立の男子校で

『英潮高校』ってところがあるんだけど、どうだろう」

 初めて聞く名前の高校だった。雅人が首を傾げると、晃は 『聞いたことない?』と問い返してきた。

「県外の高校で、僕の通っている大学から近いんだ。もし雅人が英潮に行くのなら、僕と一緒に住めばいい」

 晃が何を考えてわざわざ県外の高校を自分に薦めるのか、一緒に住もうと言っているのかわからなかった。レベルの高い高校だったらわざわざ県外に出なくても、近くにだってたくさんある。晃は脇に抱えていたセカンドバッグから二つ折りにした冊子を取り出すと、雅人に差し出した。近づいた晃からは、ふわりと甘い匂いがした。

「これが英潮高校のパンフレット。一度考えてみてくれないかな。僕も雅人と一緒だったら楽しいだろうなって思うし」

 受け取ったものの、あまり考えてみる気にもなれなくて

『俺、男子校なんて嫌だ』と呟くと、晃はキョトンとした顔をして、そして次の瞬間に噴き出していた。

「僕が中学、高校と男子校だったから言うんだけど、男だけってのもけっこう楽しいよ。確かに女の子はいないけど、知り合う機会がまったくないってわけじゃないからね。雅人は義父さんに似てかっこいいから、きっと何もしなくても他校の女の子が声をかけてくるよ」

 笑われたことに腹が立った。誰も女の子がいないから男子校が嫌だと言ってるわけじゃない。

「男子校ってホモがいそうじゃないか。俺、そんなの嫌だ」

 晃の顔から一瞬にして表情が消えた。

「それは…雅人の偏見だよ。気にすることはない」

 気にすることない、と言いながら強張ったような表情は変わらなかった。晃は腕時計をチラリと覗き込むと 『ああ…』と短く呟いた。

「もうこんな時間なんだ。実はまだ母屋に顔を出してないんだ。母さんが怒ってるかもしれないから、もう行くよ。雅人も夕食には母屋のほうに来るだろう」

 首を横に振る。晃が出ていくまでは母屋で食事をしていたけれど、晃がいなくなってからは一人離れで食事をしている。和花さんもそれを承知でいつも雅人の分の食事は別に持ってきてくれる。

「母屋においでよ、待ってるから」

 頷かない、返事もしない雅人を見て、晃は小さく息をついた。

「家族で一緒にいるのがそんなに嫌なのか」

 あの歪な形のものが家族だなんて雅人は思ってなかった。

「それとも他に何か嫌なことがあるの?」

 短い沈黙のあと、さりげなく晃は言葉を続けた。

「それとも…知ってるの」

 曖昧な言葉の意味するところを、雅人は正確に読んだ。知ってるのか、晃はそう聞いてきた。自分と義父の関係を知っているのかと。

「何を」

 雅人はしらばっくれると、晃は目を伏せ 『…なんでもない。なんでもないよ』と小声で呟いた。

 月も出ていない暗い庭を、まるで泳ぐように晃は歩いていった。雅人は庭の闇に駆け込む義兄の後ろ姿を、窓からずっと見ていた。

 結局その日、雅人は母屋に行かなかった。

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 その夜、雅人は夢を見た、指先すら見えないような濃い霧の中で、自分は全裸のまま立っていた。意味もなくいやらしい衝動に駆られて、雅人はそっと自分の下半身に手を伸ばした。いつもなら指先が震えて触れることすらできないのに、今日はしっかりと性器を握ることができた。自慰ができるかもしれない、そんな淡い期待に胸が高鳴った。

 握ったものを擦り上げた、えも知れぬ強い刺激が頭の中を駆け巡り、息が上がる。自分はできる、まともだったんだという喜びに全身が歓喜した。夢中になって擦っているうちにだんだんと刺激が弱まってきて、おかしいと思った。指はずっと動かしているのに、そこは硬く熱く張り詰めているのに全然気持ちがよくない…。

 おかしい、おかしいと思っているうちに、恐ろしい想像に取りつかれた。これは、いま自分が触れているものは本当に自分のものだろうか。でも、確かにさっきまで

『自分』が感じていたのに…。

 周囲の霧が強い風に吹かれ、かき消すように消えていった。そこに

『見えた』光景に、雅人は愕然とした。夢中になって愛撫していたのは、自分のモノではなかった。雅人は仰向けに横たわった晃の太ももの上に跨り、その性器を夢中になって擦り上げていた。今にも泣き出してしまいそうなほど切ない表情をした晃は、軽く指先を曲げた手を口許にあてると

『はあっ、うん…』と浅く喘いだ。

 その声が引き金になり、あたりは一瞬にしてあの埃臭い物置に変わっていた。高い場所にある明かり取りのガラス窓。月光の中で青白く光る晃の体。雅人は無言のまま白い膝頭を左右に押し開き、その間に自分の体を潜り込ませた。けれどそれは雅人であって雅人ではなかった。だって本物の自分は、どこかでその光景を見ているのだから…。

『やっ、雅人、雅人…』

雅人の腕の中、晃は左右に体を捩って悶えた。

『やめろ、やめろって…』

 どこかで見ている本物の制止をきかず、雅人は悶える体に隙間もないほど重なり、喘ぐ唇に口付けていた。

 ……自分の叫び声で目が覚めた。ベッドの上で半身を起こした雅人は、くしゃくしゃの髪の毛を掻きむしったあと、寝汗で湿ったパジャマの胸許を掴んだ。そして気づいた。股間が不自然に湿っていることを。そっとパジャマを押し下げると、そこはじんわりと湿って青臭い臭いがし、触れると指先がネバネバした。ようやく自分が夢精したのだと働きの悪い頭が理解する。

 夢精が悪いことでないのは知っている。だけどどうしてその相手が『晃』だったんだろう。晃と父親のセックスには嫌悪感しかないのに、なぜ自分が同じようにしている夢を見てしまったんだろう。男同士は嫌だ、気持ち悪いと思っているのに、晃と『する』夢を見た。キスして触れた。それは確かに性的な興奮を伴っていて、雅人は自分で自分がわからなくなった。

 どこか惨めな気持ちで雅人はパジャマとパンツを着替えた。夢精した自分の性器は、まるで人のもののような違和感があった。不意に裸の晃を思い出す。体は密かに興奮し、熱を帯び、たまらず雅人は下駄を履いて庭へ出た。暗い池のほとり。夜に跳ねる鯉の水音。うっそうとした木の根元。密かな花の香。振り切るように闇雲に歩き回った。月もない夜に足を取られ、道が見えなくて雅人は何度も転びそうになった。

 目の前で不意に草をかき分けるガサガサという音がして、雅人は『うわっ』と叫び声をあげた。人がいるらしいというのはわかったが、誰かはわからなかった。

「誰だい?」

 雅人の驚きをよそに、相手の声は道ばたで偶然顔を合わせた知り合いに会釈をするようなさりげないものだった。

「…父さん?」

 闇夜よりも濃い陰影が揺れる。

「晃かな?」

 父親はいつ自分の声を忘れたのだろうと、薄い苛立ちが過った。

「俺だよ、雅人」

 突き放すように答える。父親はカサカサと草を踏み分けそばまでやってくると、じっと息子の姿を見つめた。

「こんな時間に何をしているんだ」

 咎めるではなく、不思議そうに呟く。こっちこそ何をしていたんだと聞きたかった。もう夜中の二時を回っている。

「嫌な夢を見たから、気分転換してたんだ」

 父親は声もたてず密やかに笑ったあと、ゆっくりと首を傾げた。

「そういえば、お前は今年で何歳になるんだったかな」

 声はおろか、歳すら覚えられていないということに、改めて傷つけられる。ずいぶん前から、継母と対立する自分を庇ってなかった頃から父親に期待をすることは諦めていたが、これほどこの男の中に自分の居場所はないのだと実感したことはなかった。

「あんた、俺の歳も知らないんだ」

 苛立ちをぶつける。けれど怒りすら父親の胸には響かないのか、息子の言葉を無視して一人で喋った。

「ずいぶん久しぶりにお前と話をした気がするよ。もう遅いから、子供は早く寝なさい」

 父親の話には脈絡がない。けれどそれは今に始まったことではなく、幼い頃からそうだった。口数が少なく、何を考えているのかわからない。だからいつも宇宙人と一緒にいるような気がしていた。

 父親はゆっくりと前に踏み出し、

『おやすみ』と囁くと同時に雅人の首筋から顎にかけてをそろりと撫でた。湿った指先の感触に背筋がゾッとし、舐めるように自分を見下ろす視線を気持ちが悪いと思った。そして甘い香り…。

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