それは夕方、晃が近づいてきた時にかいだ匂いと同じだった。父親は今晩、晃とセックスをしたのかもしれない。込み上げてきた吐き気と苛立ちを胸の中で押さえつけて、雅人はうっそうとした木立の中に逃げ込んだ。
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結局、一晩中眠れなかった。学校には行ったけど、誰とも話をしたくなかった。ピリピリした雰囲気を感じ取ったのか、政宗はずっと隣にいたけど話かけてこなかった。
「お前、昨日は大丈夫だったか」
昼休み、トイレに行って吐きまくった経緯を知った青木が心配して声をかけてきても雅人は無視した。いつもの雅人なら笑って『気にしてねえよ』ぐらいは言えたけど、今日ばかりは虫の居所が悪かった。青木は不機嫌な顔で離れてゆき、そんな態度にも神経を苛立たされた。そんな自分のそばにいられるのは、政宗ぐらいのものだった。一緒にご飯を食べたし、そばにいるけど何も言わない。何も聞かない。政宗には、自分の欲しいものがわかってる。ひょっとしたら、世界で一番自分のことを知っているのは、家族ではなくこの男かもしれないと思った。
六時間目はホームルームで、担任が進路希望調査表を全員に配った。現実になる受験の気配に、教室はザワザワと騒がしくなった。明日までに家族と相談して希望校を第一から第三希望まで書いて提出しろと言われた。大半の生徒がプリントを机や鞄の中にしまう中、雅人はプリントを睨みつけたまま、シャープペンシルの先で頭を掻いた。第一希望に白泉高校と書いて、消しゴムで消した。三回ぐらい同じことを繰り返す。トントンと机を指先で叩かれて顔を上げる。いつの間にか前の席に政宗が座っていて、進路希望調査票を覗き込んでいた。
「第二が白泉高で第三が中央東か。で、第一希望はどこなんだよ」
う…ん、と歯切れの悪い返事をする。
「前、英潮高校って知ってる?」
政宗は眉間に皺を寄せ、首を傾げた。
「知ってるけど、あれって県外だろ。私立でもかなりレベルが高いぞ」
一年生の時からテストは常に学年で五番以内を保っている政宗をもってして
『レベルが高い』と言わしめるような高校だと知って、雅人は一気にしり込みした。自分はなんとか五十番以内に入れる程度の実力しかない。
「そっか…」
県外に行く気はない。たまたま昨日、晃に言われたから気になっているだけだ。自分自身、どうして迷っているのかわからなかった。
「白泉高ってわりといいよ。俺の兄貴が白泉で、一回学園祭に行ったんだけど、すげえ面白かった。校則もきつくなくてバイトも自由だし」
雅人は 『うん…』と聞くともなしに相槌を打った。
「なあ、一緒のとこ行こうぜ」
政宗は真面目な顔をしていたが、雅人は軽く肩を竦めた。
「冗談だろ、お前に合わせてたら俺の頭がもたねえよ」
「俺、そんなにレベル高いところ行き気がないからさ」
その言い草にカチンとくる。まるで自分のためにわざわざレベルを落としてやる、と言っているように聞こえたからだ。
「悪かったな、頭悪くて」
顔を背けた雅人の頭を、政宗はポンポンと軽く叩いた。
「お前さあ、なんか勘違いしてねえ? 俺はお前のためにレベル下げるようなんて爪の先ほども思ってないぜ。無理していい高校行ってさ、あくせく頑張るより、そこそこのとこへ行って適当にやって
『頭いいね』なんてチヤホヤされるのが俺の性に合ってんだよ」
政宗なら…本気でそういうことをしそうな気がした。
「俺様の野望に付き合えよ。そんでもって高校でもめいっぱい遊ぼうぜ」
政宗の申し出は魅力的だったし、友達の少ない雅人としては政宗がそばにいてくれればこれほど心強いことはなかったが…やっぱり英潮高校が気になって仕方なかった。考えて、考えた末に、まるで自分への言い訳のように
『所詮、希望は希望だから…』と言ってから、第一希望の欄に英潮高校と書き込んだ。政宗は何も言わなかった。
翌日、政宗が提出した進路希望調査票は第一から第三希望まで雅人と同じだった。一晩で親を説得し、親友が希望する高校とすべてそろいにしてしまったことなど、雅人が知るよしもなかった。
六月もなかばを過ぎた日曜日、その日は朝からずっと小雨が降り続いていた。出掛けるにしても濡れるのが嫌で、雅人は一日中部屋に籠って、ゲームをしたり、それに飽きたら本を読んだりとゴロゴロして過ごした。夕方になって、もうそろそろ和花さんが夕飯を持ってきてくれるだろうかと待っていると、離れの玄関を叩く音がした。三回、四回と続け様に叩かれる。和花さんはあんなノックの仕方はしない。慌てて玄関に行きドアを開けると、そこに立っていたのは父親だった、五月、晃が帰省してきた夜に庭で話して以降、顔を合わせたことはなかった。
「大事な話があるから、今夜の食事は母屋に来なさい」
父親自ら自分を呼びに来るなんて、いったいどんな話なんだろうと思いながら、頷いた。顔を上げてふと、父親が白い水仙を数本、手にしていることに気がついた。南の庭の大きな池、あそこの水辺に咲いていた水仙だろうか。雅人の視線に気がついたのか、父親は水仙を雅人の前に突き出した。
「綺麗だろう」
「あ、うん」
綺麗な花を見ても、雅人は手折ってしまいたいと思わなかった。花を傷つけてしまうようで怖かったからだ。
「晃に似ていると思わないか」
呟き、不意にその花弁を毟りはじめた父親に雅人はギョッとした。当惑する息子をよそに、残酷ないやらしい手つきで父親はすべての花びらを毟り、右手をゆっくりと開いた。指先から零れた、クシャクシャになった花びらは、玄関のタイルの上にハラハラと重なった。無惨な花に薄く微笑みを落として、父親は離れを出ていった。毟られてボロボロになった水仙に視線を奪われたまま…生まれて初めて雅人は父親を恐ろしいと思った。
母屋での夕食は静かだった。食器に触れる箸の音とものを噛み砕く音しか聞こえない。三人も人がいるのに、その中にはコミュニケーションという言葉が欠落していた。小食の父が先に箸を置いた。食事を終えても席を立たない父親は、何もすることがないのか向かいに正座する雅人に不躾な視線を浴びせかけた。あまりにじろじろと見られると、気詰まりだし緊張する。そのうち食べることも苦痛になり、雅人は早々に食事を終えた。座卓の上はすぐに片付けられ、和花さんが香りのいいお茶をいれてくれた。
「雅人」
父親がゆっくりと息子の名前を呼んだ。
「晃が病気で入院した」
突然のことに、言葉もなかった。雅人の驚きをよそに、父親は淡々と続けた。
「肺の癌だそうだ。発券が遅くてもう手術もできない。あと三か月ももたないだろうと医者に言われた。このことは本人も知っている」
継母が両手で顔を覆ってワッと泣き出した。
「まだ十八歳なのに…」
父親は継母の肩をそっと抱いた。真っ白になった頭の中に、晃が死ぬという言葉だけがぐるぐると回る。いきなり
『死』と言われても現実感がなく、どういうことなのか具体的に想像することができなかった。
「お前にとても会いたがっていたよ。見舞いに行っておやり」
父親は優しい声でそう言った。放心状態のまま離れに戻った雅人は、晃のことを考えた。記憶の中の晃はいつも優しかった。会いたい、会いたい、会いたいと強く思った。優しい義兄と話がしたいと心の底から願った。五月の連休に帰ってきた時、冷たい態度を取ったことを謝りたかった。ずっと気になっていた…。
地元の病院よりも専門的な施設ということで、晃は通っている大学の近くにある総合病院へ入院していた。県外で遠く、雅人は土日でないと見舞いには行けなかった。父親に話を聞いたのが火曜日で、雅人は土曜日が来るのを心待ちにしていた。けれどもうすぐ死んでしまう晃に会うのは、怖かった。泣いてしまいそうな気がした…。
結局、雅人は晃の見舞いには行かなかった。病院には行ったのだが、晃に会えたのは霊安室の冷たい部屋の中だった。真っ白な顔、色のない唇で目を閉じたまま横たわるもの言わぬ義兄を前に、雅人は呆然としていた。なんの言葉も出てこなかった。語ったとしても、返事はなかった。悲鳴のような継母の鳴き声が…いつまでも耳の奥で響いていた。
晃の葬式は小雨がパラパラ降る中で執り行われた。泣けなかった雅人を慰めるように、雨は休みなく降り続けた。正座をしているのに疲れて人が少なくなった頃を見計らって母屋を抜け出した。親戚の人間に見つからないように、人を避けて離れまで歩く。お決まりの同情の言葉など欲しくなかった。仮に相手が自分に声をかけてきても、雅人にはそれがどういう親戚かわからないことが多い。葬式に来る人間はほとんどが母方の知り合いばかりだったからだ。
泣かなかったからといって、悲しくないわけではなかった。悲しみを感じる前に、衝撃にそれらすべての感情を抜き取られた。座ったまま何もできなくなる。食べることも、動くことも、考えることも。何もできないまま二日過ぎて、三日目にお腹が空いた。お腹が空いてしまうことが切なかった。犬のようにお菓子を食べ散らかしながら。死んだものは帰ってこないんだと唐突に気づいた。
「私はあの子が嫌いなのよ。そばにいるだけでイライラするの」
継母の声が聞こえた。足が止まる。桂の木の下、折り重なる葉の隙間から、継母とその姉の姿が見えた。喪服姿の継母は、ハンカチを顔に押しつけて嗚咽を漏らした。
「生意気で、反抗的で…私の言うことなんかちっとも聞かないの。今日だって見た、姉さん。あの子、血は繋がってなくても、仮にも兄が死んだというのに涙の一つも見せやしないのよ。薄情で冷たい子なのよ。晃が病気だと聞いた時、私は思ったわ。どうして病気になったのが晃だったんだろうって。なぜあの子じゃなかったんだろうって…」
伯母は継母の言葉を肯定も否定もせず、泣き崩れる妹をただ抱きしめていた。雅人は足早にその場を離れた。雅人は継母が嫌いだった。継母も雅人を嫌っていた。だからどう思われようと平気だった。だけど『死ねばよかった』と言われて平然としていられるほど、割り切ることはできなかった。
離れに飛び込み、ドアを閉めると同時に大声で叫んだ。
「死んだのが俺でなくて悪かったなっ」
悔しくて目尻に涙が浮かぶ。本棚に駆け寄り、片っ端から本を抜き出しては投げた。机の上、ベッドの上、壁に窓。ワアワア喚きながら撒き散らした。そのうち八つ当たりすることにも疲れて、座り込んだ。ゼイゼイと上がる息の狭間で、この世に自分を望んでいる人なんて誰もいないのに…どうして自分は生きているんだろうと思った。
「バタン」
ノックもなしにドアが開いた。自分の感情の中にだけ取り囲まれていた雅人は、不意の侵入者に驚いた。玄関には父親が立っていた。黒い喪服は雨でしっとりと濡れ、乱れて額に垂れ下がった前髪はまるで別人のような印象を与えた。
「なん…の用」
雅人の言葉には答えず父親はぼんやりとその場に立ち尽くしていた。視点は定まらないのに、雅人に近づいてくる足取りはしっかりとしていた。あたりを彷徨っていた視線が自分に定まる。じっと見つめる。そして…父親は今まで見たことのないほど穏やかな顔で微笑んだ。
「晃が呼んでいるんだ」
父親の言い方があまりに自然で、背筋がぞっとした。
「晃は死んだじゃないか」
父親は驚いた顔で、喪服のネクタイを緩めた。まるで小さな子供をたしなめるような怖い顔で雅人に話しかける。
「冗談でもそんなことは言ってはいけない。晃はまだじゃんと生きているよ。昨日だったかな、私に言っていたんだ。一人じゃ怖いから、一緒に死んでほしいと」
晃が死んだのは一昨日だ。昨日、話ができるわけがなかった。おかしい。何か、おかしい。父さんがおかしい。父親は息子の狼狽に気づく風もなく、続けた。
「綺麗で優しくて可哀相な晃。私と晃が一緒に死んでしまったら、お前は一人になるね。なんなら一緒に死のうか。お前にも私と同じ血が流れている。生きていても仕方のない人間なんだよ」
ゆっくりと近づいてくる。男にしては細くて長い指が、何かを掴もうとするように前へと差し出された。優しい笑みを浮かべて近づいてくる男を、雅人は両手で突き飛ばした。
「俺に触るなっ」
開け放したままの玄関から外に飛び出した。裸足のままで、木蓮の木の横を走り抜けた。雨に濡れ、黒々と光る小枝が頬を叩く。低く生い茂った低木の間を抜けると少し開けた場所に出た。杜若の池のそばでは喪服の男の人が二人、話をしていた。
「…首吊りだったんだろう」
耳を掠める。濡れた芝生に脚を取られて、転んだ。男の人が振り返る。その瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
「助けて、助けて、助けて…」
庭の騒ぎを聞きつけて、人が集まってくる。雨の中でしゃがみ込んだ雅人を抱き起こしたのは、継母の弟である宏明叔父だった。気が動転していた雅人は呂律が回らず、自分の頬を暑い涙が流れていることさえ気がつかなかった。
途切れ途切れの雅人の訴えを聞き、離れを覗きに行った宏明叔父は、空を見上げたままいつまでも笑い続ける父親の横顔に心底ゾッとしたと言っていた。継母は泣いて嫌がったけれど、宏明叔父は精神科の病院に父親を受診させた…。
結局、父親の精神的な診断名はつかなかった。義理とはいえ子供の病気に自殺と心労が重なり、一時的に不安定になっているだけだろうと言われた。継母の強い勧めもあり、父親は会社を辞めた。父親が働かなくても十分食べているだけの資産を継母は持っていた。
何もすることがなくなった父親は、暇を持て余した。仕事をしていた時から無趣味で、時間があればぼんやりとしていることが多かった。晃の四十九日が終わったあとから、継母は日がな壱日ぼんやりとしている父親を『気分転換』と称して映画やお芝居、旅行に頻繁に連れ出すようになった。継母は年下の夫の面倒を見ることで、息子を失った悲しみを紛らわそうとしているようだった。
そのうち父親は興味がある、というよりも時間を潰すためだけに庭の草花をいじるようになった。庭師の健吉爺さんの手が届かない、広い庭の細部に至るまで、まるで晃への弔いの行為であるかのように水仙ばかり植え続けた。
花を植える、自分に気づかない背中を見ているうちに、雅人は父親を可哀相だと思うようになった。父親は晃を愛していた。死んでしまったらおかしくなるほど…それだけ本気で好きだった。自分にはそんな、頭がおかしくなるほど誰かを愛するという感覚はわからなかった。優しくされたいと思ったことはあっても、愛したことはなかった。
継母を裏切ったこと、男同士だということ、義理であっても仮にも親子だったということ…許せないことはあったとしても、晃が死んでしまった今、二人の間の気持ちはとても綺麗なものとして父親の中で密かに行き続けるような気がした。
今年の夏は太陽が地球に近づいたんじゃないかと思うほど暑かった。連日三十度を超える猛暑が続き、人も動物も、そして庭の草木も夏バテ気味だった。朝にどんなにたっぷり水をあげても、昼を過ぎると元気がなくなるんだと庭師の健吉爺さんはブツブツと文句を言っていた。
この家の中で一番涼しいと言われている裏庭の縁側にTシャツと短パン姿で腰掛け、和花さんに切ってもらったスイカを食べる。黒い種を焼けた芝生の上に吹き飛ばす。風は通るし、涼しいには涼しいのだが、座っているだけで全身がじわりと汗ばんできた。扇風機の風などほんのお慰みに過ぎない。この家には
『冷房の風は体によくない』という継母の古臭い固定概念から、クーラーがなかった。今年、ようやく一つだけ購入されたものの、それが置かれたのは父親の部屋。どうやら病人は特別扱いらしかった。
強風にした扇風機の前、じっと耐えていたものの堪えきれなくなり、立ち上がった。ビーチサンダルを履いて、自転車に飛び乗り走ること十五分。雅人は庭つき一戸建ての家の呼び鈴を押した。
家の住人は、玄関のドアを開けると同時に
『またか』という顔をした。『よく来たな』の一言もない。雅人は住人とドアの隙間から家の中へ飛び込み『おじゃまします』と一応声をかけてから廊下に上がった。まっすぐ二階へ駆け上り、奴の部屋へ飛び込む。クーラーで冷やされた室内は、まさにこの世のオアシスだった。
「お前さあ…ここが誰の家か知ってる?」
呆れたような口調は、決して疎ましがっているものじゃない。だから毎日のようにここへ遊びに来られるのだ。
「政宗ん家」
雅人は政宗のベッドに思い切り飛び乗った。政宗の家の布団は、いつ寝転がっても太陽の匂いがした。優しい、気持ちいい…心地よさで一気に瞼が重くなる。最近、夜中でも全然涼しくならず、寝苦しくて何度も目が覚める。眠りが浅いのか、夏休みにかまけてダラダラ寝ているわりに、熟睡感はなかった。
政宗はいったん部屋を出ていき、五分もしないうちにコーラとスナック菓子を手に戻ってきた。
「毎日毎日、日課みたいに俺の家に来る厚かましい奴だけど、一応気はつかってやるよ」
「あ、サンキュー」
眠りが背筋を這い上がる心地よい感触。猫のようにベッドの上で丸くなり、目を閉じて大きなあくびをした。
「まったく…お前って奴はなあっ」
ギシリとベッドが軋んだ。薄めを開けると、端っこに腰掛けた政宗が背を丸めるようにして自分の顔を覗き込んでいるのが見えた。
「起きてろよ。お前が寝ちゃうと俺がつまんないだろ」
「…ちょーっとだけ…一分…」
「まったく」
呆れたようなため息が言葉。雅人は眠りの海へとずぶずぶと沈んでいった。何度も自分の顔を覗き込んだ親友が、
『起きるなよ』と小声で呟いてからうつぶせに眠る雅人の髪の毛にそっとキスしたことにはもちろん、気づかなかった。
考えているうちに、頭の中のメモ用紙が鉛筆で塗り潰されるように真っ黒になった。そのうち参考書を手にしているのも嫌になって、ポンと放り投げると絨毯の上にゴロンと寝転がった。ギイッと椅子が軋む音がして、政宗の足がしたから動き出したのが見えた。足許から
『ズン』と衝撃がやってくる。テーブルの下にあった足の裏を、思いきり蹴飛ばされたからだ。
「勉強しろ、ナマケモノ。 英潮なんて高望みしときながら、そのやる気のなさはなんなんだよっ」
蹴られた足をダンゴ虫のように引っ込めて、恨めしげに政宗を見上げる。眉間に皺の寄った怖い顔のまま、睨み返された。雅人はノロノロと起き出すと、ため息をついて肩を落とした。四つん這いのままゴソゴソと床を這い、政宗のベッドの中に潜り込む。
「この野郎、俺のベッドに逃げ込むなっ」
布団の完全防備で政宗は手が出せない。それが悔しかったのか、上からバンバン…布団叩きのようなもので叩かれたが、そのうち政宗も諦めたのか一人で勉強を始めた。夏休みに入ってから『一緒に勉強する』のを口実に、たまに政宗の家に泊まる。一緒にするといっても個人のペースがあるから、結局は一人でやっている。政宗は集中したら一時間でも二時間でも机に向かっていられるが、集中力が散漫な雅人が机に向かっていられるのは三十分が限度。あとは本を読んだり、寝転がったりとなかなか勉強ははなどらなかった。
布団の中から顔だけ出して、政宗の部屋を眺める。ゴチャゴチャとしているけれど、男にしては割合と片づいているほうじゃないだろうか。ベッドのすぐ横の本棚に、雅人が政宗から借りている小説の最新刊があった。面倒臭いから、ベッドの上から手だけ伸ばして取ろうとした時、たまたま下にあった屑籠の中に水色の封筒を見つけた。ふだんなら屑籠の中に封筒が入っていようがいまいが気にも止めない。けれど捨てられていた封筒には
『山本香』と差出人の名前が書かれていた。 チラリと政宗を見て、 自分に背を向けているのを確かめてから屑籠の中から拾い上げた。
表には『笠原政宗様』裏には『山本香』。ラブレターのようだったが、その手紙は封を切られていなかった。
「何してんだよっ」
怒鳴り声とともに手紙をひったくられた。政宗は水色の手紙を雅人の目の前で二つに引き裂くと屑籠の中に突っ込んだ。クールな政宗らしからぬ激しい行為に、雅人は本気で怒らせたと思い怖くなった。
「勝手に見て悪かったよ」
素直に謝ると、政宗も感情的になった自分に戸惑うように 『別に…』とそっけなく答えた。
「けど、どうして読んでねえの?」
「そんなん俺の勝手だろっ」
怒鳴ったあとで、政宗は苛々したように額に手を当て、目を閉じた。
「俺、好きな奴がいるから…そんな手紙とか、うざったいだけなんだよ」
なぜかじっと見つめられた。
「好きな子がいるって、俺は聞いたことないぞ」
「話したことなかった」
上着を引っ張ると、政宗は素直にベッドの横に腰掛けてきた。頭を抱え、虚ろな目で
『ハハッ』と笑う。うつむいた顔は心なしかひどく頼りなく見えた。
「協力してやろうか」
人当たりはいいけど、変に臆病で天の邪鬼と厄介極まりない性格で、簡単に好きとは言えないことぐらい想像できた。
「いい、見込みないから」
力ない声で、聞いているだけで自分まで切なくなった。
「言ってみないとわかんないだろ」
「本当にいいんだ」
ここまで政宗が
『いい』と言うものを、無理強いすることはできないと思った。慰めるような言葉も浮かばず、背中を叩く。『元気になれ』と願いながら。不意に目の前が暗くなり、雅人は汗の匂いのする腕の中に抱きしめられていた。
「苦しい」
耳許に囁いたあと、政宗は突き飛ばすような勢いで雅人を放した。笑おうとしたようだが、失敗してまるで泣き顔寸前になる。そんな自分に気づいたのか、政宗はうつむいたまま部屋を飛び出していった。十分ほどして部屋に戻ってきた政宗は、いつもの政宗に戻っていた。悲しそうでやるせない表情はどこかに置いてきたようだった。
「さあ、勉強するぞ」
明るく振る舞う政宗に雅人も調子を合わせる。それからいろんな話をしたが、お互いさっきのことに関しては一切触れなかった。
その晩は政宗の家に泊まった。布団は二組敷いてあったけど、話をするのに声が遠くて、雅人は政宗のシングルベッドに潜り込んだ。今まで家の事情は、親友の政宗にも話したことはなかったけれど、少しだけ喋ってしまった。義兄が死んでから父親がちょっとおかしくなって会社を辞めたこと。そして家で花ばかり植えていること。政宗は意見も感想も言わなかった。黙って相槌を打ち、最後にそうかと呟いた。話をしたことで少しだけ楽になって、雅人はうとうとと眠り始めた。この日、生まれて初めての口付けを親友に奪われてしまったことを、熟睡していた雅人は気づきもしなかった。
二学期が始める九月の初めは、気温といい湿度といいまだ夏があちらこちらで幅を利かせていた。夏休み気分の抜けないまま、担任教師に追い立てられるように受験勉強の波に乗り、文化祭、体育祭と息抜きをしながらナントカ自分のペースを取り戻しはじめる頃には、風はすっかり涼しくなっていた。陽が落ちるのが早くなり、暮れかけた太陽がひときわ鮮やかに夕方の空を彩るようになる。
担任と話をしていたせいで帰りが遅くなり、六時前に家に着くとあたりはすっかり薄暗くなっていた。裏口の木戸を開け、中に入る。杜若の池のほとりを歩いている時に、石灯籠のそばに腰掛けている父親を見つけた。すぐそばを通っても気づかれない時もあるのに、今日に限って目が合った。気がつかなければそのまま行き過ぎてしまおうと思っていたけれど、見つかってしまっては無視することもできない。ゆっくりと歩み寄る。父親は表情のない目で息子の顔を眺めた。
「ただいま、父さん」
「おかえり」
機械仕掛けの人形のように父親は答えた。
「ここで何してるの」
父親は黙したままだった。そのかわり、右手をすっと前に突き出す。指の示す方向には背丈の低い秋桜が灰色のシルエットになっていた。色がわからなくなるまで花を見ていたのはと納得し『ああ、そう』と返事をすると、父親は何がおかしいのかフッと笑った。
「そろそろ家の中に入りなよ、寒くなるし」
その場を立ち去ろうと父親に背を向けると、囁くような声が聞こえた。
「生きている気がしないんだ」
振り返る。父親は雅人を見上げ、弱々しく笑った。まだ三十代なのに、とうに六十を過ぎた老人のように疲れ果てて見えた。
「晃も死んでしまったし、会社も辞めた。最近よく自分の生きている意味を考えるんだが、考えれば考えるだけなんの価値もないように思えてきて仕方ないんだよ。あの血筋に生まれてきて、三十までしかまともに生きられないと知った時には自分の運命を呪ったが…これじゃ長生きをするのも考えものだと思ったよ」
父親は立ち上がり、花を植える優しい手つきとは対照的な無造作な仕草で秋桜をブチリと摘んだ。
「和美に欲情すると言った時、お前の母親は私を変態だと罵った。だけど仕方がないじゃないか…私はもともとそういう血筋の生まれなんだから。離婚した時、これでもう娘に欲情せずにすむ、お前と二人で新しい人生を生きられると思ったのに…」
『近親相姦』と禁じられた言葉が頭の隅を過る。父親はよくあることのように『娘に欲情』と口にしたけれど、それは絶対にあってはあらないことだ。十歳で分かれて双子の妹が、あの時の幼いまま父親の手にかかる場面を想像し、胸が悪くなった。同時に想像してしまった自分に激しく嫌悪する…。父親は暗くなった空を見上げた。
「和美も愛らしかったが、晃も可愛かったな…」
もう父親の話を聞きたくなかった。
「俺、行くから…」
そう言って歩き出そうとした時、近くで継母の声がした。父親を呼ぶ声。まだ何か言いたげな父親の口許に
『まずい』と思った。このままでは、晃との関係も喋り出してしまいそうな勢いがあった。おそらく継母は父親と晃の関係を知らない。知って傷つくのは継母一人だけだとしても、終わってしまったことを今さら蒸し返さなくてもいいように思えた。雅人は父親の肩を掴むと、乱暴に揺さぶった。
「俺は父さんが晃を好きだったって知ってる。でも継母さんは知らないんだろ。それなら黙っててやれよ。今さら面倒起こすなよ、なっ」
「私は晃が好きだった。でもそれだけだ」
それだけ…どこか冷たい言葉を雅人が反芻すると同時に葉が生い茂った木々の間から継母が姿を現した。
「あら、雅人さんも一緒だったの」
母親は両目を細め、露骨に嫌そうな顔をした。手にしていた灰色のカーディガンを父親の背に優しく着せかけたあとで、雅人を睨みつけた。
「義幸さんは病気なのよ。こんな遅くまで薄着で外にいたら風邪をひいてしまうでしょう。…注意してくれなきゃ困るわ」
まるで、外にいたのは雅人のせいだと言わんばかりの口調だった。継母は父親の背中を押して家の中に入るように促した。遠くなる継母の背中に、雅人は思いっきり舌を出した。
父親と石灯籠のそばで話をした日の夜遅く、離れのドアをノックする音が聞こえた。夕食の全も下げられていたし、和花さんのノックの仕方とも違う。誰だろうと思いつつ玄関の鍵を開けると、そこには不機嫌な顔をした継母が立っていた。
「あなたと少しはなしがしたいのだけど」
どうぞと返事をするまでに、ずかずかと部屋に上がり込む。眉間に皺を寄せたままもの珍しげにあたりを見回したあと、部屋の中央に正座して座った。相手が正座をしたから、雅人は勉強机の椅子に腰掛けた。絶対に合わせてやるものか、そう思った。そんな雅人に継母はじっと睨んでいたが、正座をしろとは言わなかった。
「私もあなたの顔を長く見ていたくないから、手短に話します。高校へ進学したらこの家を出ていって、二度と戻ってこないでちょうだい。そのかわり私の言うことを聞いたら、学費と生活費は大学を卒業するまで面倒を見てあげるわ」
自分のことを嫌っているのは知っていたが、ここまで面と向かって爪弾きにされると悲しいを通り越して滑稽になった。
「あなたにとってもいい話でしょう。一人で、なんの気兼ねもなしに生活できるんだから」
この家の中にいても一人なのだから、外に出ても大差はなかった。けれどここで『はい』と素直に返事をして、継母の思い通りになるのも癪だった。
「俺はこの家にいてはいけないんですか」
継母は顎を軽くしゃくった。
「いていい、悪いの問題じゃないの。はっきり言わせてもらえば、あなたはこの家に
『必要のない』人間なのよ。これを教えちゃ可哀相だと思って今まで言わなかったけど、義幸さんの病気はね、晃が死んだことがきっかけにはなったけど、大本の問題はあなたにあるんじゃないかと思うの。雅人さん、あなた義幸さんとずっと折り合いが悪かったでしょう。彼はそのことをすごく気にしていて、いつも
『どうして雅人は私が嫌いなんだろう』って言ってたわ。彼はあの通り神経の細い人だから、あなたとわかり合えないということがストレスになって、それで晃の死で一気に表面化したんじゃないかと思うの」
自分勝手なこじつけもいいところだった。どこをどうやったらここまで自分を悪者にできるのか、いっそ不思議だった。
「あなたさえこの家に出ていけば、みんな幸せになれるの。そのことをゆっくりと考えてみてちょうだい」
自分の言いたいことだけ言って、母親は立ち上がった。その顔は来た時とは違う晴れ晴れとしたものだった。玄関先で靴を履いた継母は、出て行く前に