モイラが満十六歳になった現在、その白い貂の塊が転がったり、半分尻を出したり、している場所は、天上《あまがみ》守安《マリウス》がモイラのために誂えて待ち受けていた、筐形《はこがた》の寝台《ベツド》の上に変った。
天上は林作が、モイラの十四歳の誕生日に贈った、胡桃材の寝台《ベツド》を見ていて、モイラがそれをひどく歓んだことも知っていた。それでモイラの気持を惹こうとして、誂えたのである。寝台《ベツド》は天上の家の二階の、階下の食堂の真上になっている、モイラの居間に当てられた部屋の、扉を入った左寄りに置かれている。十五世紀頃のデザインのものを、外国の雑誌にあった絵を見本にして、出入りの家具商に造らせたその寝台は、背の板の幅が厚くて、普通判の書物位は載るようになっている。林作が誂えたものと同じな胡桃材で、ワックスも引かない素地の儘のところへ、シイザアのガウンの縁《へり》にあるのと同じの、四角い渦巻を繋いだような縁《へり》取り模様の彫刻がある。寝台《ベツド》の横腹も、裾の方も、寝台全体が部厚い板で箱舟のように、中の人間を囲むようになっている。モイラはその寝台《ベツド》を見るなり、気に入った。モイラは白木綿の厚い蒲団を深々と敷きこんだ厚い枠の中に、嵌まりこむようになって睡ることを歓び、昼の間でもその中に入りこんでいた。筐のようなものの中に嵌まりこんでいること、それはモイラの生来好きなことであった。「そういうのは胎内記憶が強く残っている人間なのだ」と、林作が面白そうに委しく説明してくれたことがある。それをモイラは覚えていた。頑丈な木の枠の中に嵌まりこんだようになって転がっている時ふと、その林作の言葉を想い出すと、その歓びは一層強くなった。モイラは狭い子宮の中の、生温かな水の中に浸っていた小さな自分を想像することも、あった。
その中世の童話の中にあるような、大きな寝台《ベツド》の木の筐はモイラを抱き込み、モイラを自由にさせていてくれる。寝台《ベツド》の木の筐は、モイラがその中で、どんなに怠け放題にしていようと、どんなことを考えようと、そうさせておいてくれる、一人の人間のようなものである。白い柔かな蒲団を敷き詰めた、がっしりと厚い木の筐は、モイラの放恣な、どこかで気が遠くなっているような時間を、受けとめていた。モイラを空想の中に、思うがままに泳がせておいてくれる厚い木の筐の中で、モイラはいつも自由な、甘い時間の中にいた。甘い、みずみずしい果実《くだもの》のような時間である。モイラは甘い時間の果実《くだもの》を、むさぼった。天上守安の贈った胡桃材の寝台《ベツド》は、モイラをその中にぬったりとのたうたせる厚い、安楽な、木の筐になった。
安楽な木の筐は、モイラがマッフから指環をとり出して、掌の中に握ったり、その掌を開いて指環を掌の上で転がしたり、指の間に挟んで、陽の差す方にかざして、眺め入ったりする場所でもあったが、又|暈《ぼんや》りとした状態の中で、いろいろな稚い、だがしぶとい想いをめぐらせる、場所でもあった。木の筐は又、その想いをしたたかなものに膨らませ、なにかの残酷な計画を孕《はら》ませたり、時には守安《マリウス》を、懊悩の中に追い遣る、よくない思いつきを、黒い魔のようにわだかまらせる場所にもなった。木の筐はモイラの中にいる怠惰の獣に餌を与えて肥らせ、モイラをいろいろな妄想の中におく、一つの場所に、なった。モイラが知らず知らずの間に醸し出すものを温めて、強い香いをたてさせる温床、厚い木の囲いの中の温かな、悪い場所に、なった。モイラの皮膚の内側から燻り出して、そこらの空気を押しひろげるようにして、辺りに立て罩《こ》める香いのように、モイラの体からか、精神からか、どこからか出てくるモイラの想念は、この木の筐の中ではいよいよ濃く、滑らかになる。指環に見入る時も、何かの想念に捉《とら》えられている間も、モイラは木の筐の中に、怠惰な蛇のようにのたくっていた。短い袖口の辺りから、胸の辺りからも、香い立ってくる、寝台の中で蒸され、温められた、懶《ものう》い香いがモイラ自身を誘惑する。それは意識の糸が弛《ゆる》んで行く香いである。モイラの香気、モイラの想念、どこから来るのかわからないものが、温かな木の床の中で発生するのだ。木の筐の中で、自分の体から燻り立つ香気と、妄念との中で、凝《じつ》と眼を開《あ》いているモイラの時間が、出現したのである。
モイラは浅嘉町の林作の家に行った時、林作の膝に昔のように寄りかかって、厚い木の寝台《ベツド》の話をした。林作はモイラが、寝台《ベツド》の形や、その中に嵌まり込んでいる安心感を、又歓びを、子供が勢いこんで話すようにして、しきりに委しく説明するのを聴き、その表情を見ていて、学校というもののなくなった、現在のモイラの怠惰な日常を眼に見るように思うと同時に、モイラと木の寝台《ベツド》との関係を適確に、推察した。寝台《ベツド》の中の歓びを話すモイラの、曇りのある眼の中に、微妙なものを読むのだ。一種の魔を。そんな時モイラの脣《くち》の端は、微笑《わら》いまでは行かぬが微かにひき吊れる。林作は、木の筐のような寝台を、自分の家でではないが、誰かの家の書物の中で見たことがあったことを想い出した。そうして寝台では天上《あまがみ》に負けたなあと、心の中に微かに微笑った。林作は木の筐の中にいるモイラの、自由な、甘い時間を想い、そんな時のモイラの、何処まで行くか知れない想念に不安を伴った面白みを、覚えた。
林作は、モイラがいないようになった自分の現在の毎日の中で、我にもあらず、常識を横へ除《の》けてものを考えることがある。何かの出来事を機に、モイラがもう一度、自分との世界に還《かえ》ってくることを希《ねが》うのだ。自分とモイラとの、限られた時間、林作の年齢から言って当然短い筈の期間の中にある、甘い蜜の世界に。閉ざされた、自分とモイラとの甘い蜜の部屋に。モイラといさえすればそこに生じるもののある、世界に。モイラといる場所が忽ち、不思議な影を帯びる、世界に。……モイラはこの頃、モイラ自身も知らぬ間に、もう一歩、魔の世界に踏みこんだ。魔の世界に踏みこんだのか、或は何処からか、魔の精気のようなものを受けとったのではないかと、思われるような何かを、感じ取らせるようになったのだ。そのモイラの、暗い光を出して来ている眼を、傍にいて見ることが出来ない境遇に、現在《いま》自分はなったのだ。という、当然極まる考えに、林作は日に何度か、打《ぶ》つかる。その度に林作は、早く嫁に遣《や》ったことを悔いるのである。モイラの結婚の時期、嫁ぎ先について慮《おもんぱか》り過ぎた、という考えに、捉えられる。モイラという娘が、ああいう家に、そうして、天上のような老成を持った青年に、時期を外さずに嫁入らせるより他に、手段のない、仕ようのない娘なのだという、動かし得ない想念の障害物に打《ぶ》つかることで、その愚かな想念は熄《や》んだ。
そんな時林作は、寝台の木の筐の中にいて、白貂のマッフの中から指環を出したり、入れたり、何かのよくない想念に身を委せたりしているモイラを想い浮べ、あたかもそのモイラが傍にいるかのように、眼を細めた。
* *
天上《あまがみ》守安《マリウス》は、満十五歳になったモイラが、乗馬の稽古に通っていた代々木の教練場に、年齢の離れた従姉の磯子の晩《おそ》い娘に当るマリイを、やはり乗馬を習わせに来ていて、そこでモイラを見たのである。マリイの方は二、三週間先に来ているらしかったが、マリイは気弱な娘である上に、馬を身近に見たことがない。それで恐怖が強くて、モイラとの間にハンディは殆どない。乗り手に絶対に危害を加えないといっていい、温《おと》なしい馬は一頭しかないので、二人の娘は一つの馬に交代で、乗った。
林作は日曜以外の日には馬丁のドゥミトゥリイ(常吉)を附けて寄越していたが、偶然林作と同じに、会社を持っている天上の方も、他の日には、後に園丁と判った小柄な男がマリイに附き添って来ていた。ドゥミトゥリイが、陽に灼けた顔をしていて、馬と暮しているためばかりではなくて、黒馬を想わせるような胸を、ごわごわした水灰色の木綿の襯衣《シヤツ》に包んでいるのとは対照的に、介田伊作《かいだいさく》という名の園丁の方は小廻りの利く痩せ形の体に、消炭色《チヤコオル・グレエ》の碁盤格子《チエツク》の襯衣《シヤツ》を着、身幅の狭い古びた黒の背広を着《つ》けていて、そのためにますます痩せて見える。伊作は、薄くなった額に一束《ひとたば》の髪を斜めに梳《と》かしつけているが、スペインか、アメリカの南部の男のように角く長い揉上《もみあ》げと、横から後《うしろ》の長めに撫でつけた髪は黒く、濃い。下へ撫でつけたような癖のある、下《さが》りめの眉と一緒に眼を伏せる顔には固い孤独がある。欧羅巴《ヨオロツパ》のホテルのパァジュか、レストランのソメリエなどによくある顔である。事実彼は、よほど心を許した相手にでなくてはものを言わぬ男である。常に、胡桃に歯をあてて噛み割る時のような微笑いを浮べている顔は白人との混血児にしては鈍い、沈んだ色をしていて、モイラによる、永遠に果たし得ぬ恋の苦悩が、額に暗い色を塗ってはいるが、ドゥミトゥリイの方は明るく、豪快な男である。一目《ひとめ》見てストイックな性格だと判る矜持《きんじ》のあるところ、清潔で、なかなか本ものの洒落気を持っている処、容易《たやす》く人に親しまぬ処、それらはこの二人に共通している。林作とドゥミトゥリイとの間、天上と伊作との間の親しみ、それが主人の方からも敬愛を持っている点もぴったり同じである。共通点を多く持っているのにしてはこの二人は、顔を合わせるや否や、互いに反撥するものを、感じ取った。反撥は伊作の方から出て、ドゥミトゥリイの心に忽ち燃え移ったものだ。伊作の、白眼の多い、怜悧な眼の中にあって放射してくる反撥が、どうやら、天上のモイラを見る熱い眼にあるということは、林作の眼にも見えていたが、それが、天上に婚約者があって、モイラがその令嬢を押し退《の》けて、その後へ嵌まり込むのではあるまいかという不安を感じた、伊作の不快から出たものだ、という事情にはドゥミトゥリイも、林作も、気附く筈はなかった。その令嬢は心にも体にも聖《きよ》らかなものを持っていて、その令嬢が家に入れば、天上と伊作と、五人の雇人とから成る、至福ともいえる生活が、その儘の形で天上の死まで続くだろうと、伊作は信じていた。その伊作の深い安堵を乱す存在がモイラだと、思い込んだ伊作の不快が、彼の態度の原因である。単にモイラを見る天上の眼にふと点《とも》る、内燃的な性格から来る暗い光が、いささか常軌を逸していることへの、気に入りの雇人としての不安な気持にしては根強い伊作の異常な様子を、林作は天上の情人に関するものだろうと、推察したが、意に介する様子を見せなかった。伊作の白い眼の光が、主としてドゥミトゥリイに向けられて、敵対意識を呼び出しているのは、二人の位置が、同じところにあって、互いの主人への忠誠が手に取るように響き合うからに、ちがいなかった。
日曜日には林作と顔の合う天上が、いつか挨拶をするようになり、林作と一言、二言、言葉を交わすようになる内に、成城に土地のあること、伴れて来ている子供が、唯一の肉親である、年の離れた従姉の磯子の晩く生れた娘であること、なぞを、問わず語りに話すようになった。それがモイラに求婚をする資格者に自分を擬していることの、それとない打ち明かしであることを、林作は当然悟っていた。
天上守安が、一目で知れる秀れた気質を持っていることと、三十に近い年齢になっているらしいにせよ、その年齢以上に老成したところのある男であることを、モイラの配偶者として林作は大きい資格に数えていた。容貌も英吉利《イギリス》人のような美貌を持っている。日曜日以外の日にも、都合をつけて来るらしく、モイラの教練を熱心に見ている。愛を潜めた、暗い眼である。口数は少ないというよりむしろ、殆ど口を利かないが、モイラには一寸した注意をする。ことに、教練士に持ち上げられて馬に乗る瞬間など、出来ることなら傍《そば》へ寄って自分が手を貸したげにしている。そんな彼の様子なぞを林作は、ドゥミトゥリイから聴き取っていた。モイラが半分は意識していてする、押しの太い甘えと惑《まど》わしが、徐々に影を落して行って、天上のモイラを見る柔《やさ》しげな顔に暗い翳《かげ》りが、急激に加わって行くのを、林作も、ドゥミトゥリイも、視ていた。天上の顔の暗い翳りはそれから後《あと》、天上の顔から決して離れぬものに、なったのだ。
天上はモイラを最初に見た日から、モイラの持つ不逞な、といってもいいような、ふてぶてしい可哀らしさを受けとっていて、それが不思議に自分の意志を弱め、自分を搦《から》めとるのを強く意識した。或日モイラが馬から下ろして貰って、その日は遅れて、丁度そこへ来た林作に駆け寄ろうとして自分の傍を擦り抜けた時、天上はそれまでに人間の体からは香いだことのなかった、植物性の、だが強い香いが掠《かす》めるのを感じた。その瞬間、モイラを自分のものにしなくてはならぬ、という決意が湧き、その決意はその日から幾日も経たぬ内に固まったのである。
(何かの植物から香いだことのある香いだが……)
と、その香いの記憶を辿ろうとしていながら、彼はモイラが林作の脇にくっつくようにして立ち、胸に頬を押しつけるのを見た。
「パァパ」
「もう可怕《こわ》くはないだろう? もっと背中を真直ぐにしていなくてはいけない」
そう言う林作の掌《て》が、寄り添うモイラの背中を軽く撫で下ろしている。不意に出現したその緻密な愛情風景が、天上の胸を息苦しくし、金縛《かなしば》りにし、何か言いかけなくてはならぬように思ったのと、突然林作に対《むか》って次の言葉を言いかけたのとが殆ど同時で、あった。
「お嬢さんのお名前はどういう……?」
林作はモイラの方に俯向けていた微笑の顔をその儘天上に向けて、言った。
「モイラという名はこの娘の感じに偶然嵌まったのです。英国の踊り子の名を取ったのですが、家内の父親などは大反対でした。悪い子のような名だというのです。このごろは大分悪くなったようだが……」
そう言って林作は、モイラの背中の窪みにあてた掌をその儘、微笑ってモイラの顔を覗きこんだ。林作の胸に凭《もた》れているモイラの顔は見えないが、そこには馴れ合った、意味ありげなものが窺えた。
「ほんとうにそんなお嬢さんですね。牟礼《むれ》さんという苗字とも映りがいいと思います」
モイラは林作の胸から頭を起こして、天上を凝《じつ》と見たが、又もとのように父親の胸に頭を凭れさせた。相手の反応を知っていてするのである。モイラの様子に天上の動揺は倍加した。動悸が少間《しばらく》の間、鎮まらずにいた。モイラは地面に立っている時でも、確《しつか》りと立っているというところがなく、なにかに寄りかかりたい体をもて扱っているように見えるのだが、父親に寄りかかっているモイラは、体が俄かに柔かくなったようになって凭れかかるのだ。
(伊作が作っていたあの百合だ。茎が折れる時に独特な香いがあった。紅《あか》みがかった、斑点のある……)
花の香いを持っている女があるということは書物で読んだことはあるが、天上はそれまでの経験の中では、そんな女は無かった。それは重みのある香いである。その誘惑的な香いはその重みで、周囲《まわり》の空気を押し拡げるように思われる。紅い百合の茎を圧搾し、何かの方法でその中の揮発性の香いを摘出したものが、容れ物に入れられて、下から温められて香いを立てた、というような香いである。その二分にも満たぬ時間に天上が見た光景は、天上が、そのあまり永くはない命を終る時まで胸の底に鮮やかに残していた光景である。天上のモイラへの想いには最初から、烈しく誘惑せられるようなものがあったが、そこに何かの凶《わる》いもの、凶《わる》い予感のようなものが、同時に入りこんでいたようだ。
(この娘には何か、圧《お》しつけてくるようなものがある。不思議な娘だ。それでいて本当に、愚かな程稚い。愚かではないが……稚い。まるで子供だ)
今しがた自分の心を奪った香気が、まだ自分の魂を深く捉えているのを覚えながら、天上は心の中に言った。
(ほんの一寸の間、俺を見ていただけで、確実に俺の心を捉えてしまった。重い瞼を凝と見開いたような眼の中に、殆ど無意識な自信が据わっている。相手を搦め捕《と》ることが雑作のないことだという、自信、というより内部から圧し出されているような、したたかなものが据わっている。それだけではない。自分の持っているもの、自分の体の持っているものの魅惑を知り尽している女のしぶとい見せつけのようなものがある。何も知らない、こんな小娘の中に……)
そういう、モイラの眼から放射するものは、ピータアとの事があった後《あと》でとくに、重みを増したようだ。モイラは、自分がなんの意識もなしに見ただけで、相手が自分の虜《とりこ》になるのだ、ということを、幼い時から漠としてではあるが意識していた。それに、そのことが、その相手を自分のものにすることが、自分にとって何の感動も齎《もたら》すものではない、ということが、一層強い力で相手を惹きこむのだということも、疾《と》うから茫漠の内に、捉えている。瞼が重《おも》ったようになって、脣は無表情に膨らんでくる、そのモイラの顔はモイラの捕獲網である。白い部分も、鳶色の瞳が滲みひろがったように昏《くら》くなる。重い眼だ。モイラの重い眼は確実に、天上を捉えた。そうして林作は天上が、モイラの網にかかるのを視ていて、モイラに適した嫁入り先の出来たことに安堵を覚えると同時に、十六歳になったモイラの魔力のいよいよ奇妙な、と言ってもいい程になったのを面白く思い、自分の女の成長を視る男のような心持を、覚えた。
天上が林作の招きに応じて浅嘉町の林作の家を訪れたのは、彼がモイラの虜になった運命の日から数えて十日目である。その十日の日々を天上は、平常《へいぜい》とは異った過し方をした。天上の生活は八時の朝食前に、どこに載せるという考えもない随筆のようなものを二三枚書く。前の晩につけずに寝た日記を書き込むこともある。横浜の商社に行くために、八時には家を出る。帰りには銀座に廻って、日比谷通りの横丁にある梅屋に寄って珈琲を喫《の》む。会社の連中を伴れて銀座裏で飲んだり、近くのホテルの地下にある酒場《バア》なぞで、銀座に出たついでに寄ることのある羽鳥《はとり》と酒を飲むこともある。中学が同級で海軍出の羽鳥の酒はあまり陽気な酒ではなく、天上の唯一の飲み相手である。そんなにして家に帰ると夏の他は食事を先にして風呂に入る。風呂場からすぐに二階の書斎に上ってウィスキイを飲む。葉巻をやる。そんな天上の日々がそれまでは、忠実な伊作と、五人の雇人たちの奉仕によって遺漏一つなく支えられていた。それが、代々木の教練場でモイラを見てからは、街で酒を飲むことも止《や》めているのは、モイラの種々《いろいろ》な様子、仕科《しぐさ》を反芻《はんすう》するように想い浮べ、モイラの言った言葉を、再び耳に聴くように耳を澄ましていたりすることが、街で飲むことなぞより深い歓びになったからだ。モイラが何か言うことはごく稀で、教練場で見るようになってからほんの数える程しかないのだが、その数少ない言葉、それも言葉というよりも言葉の切れ端のようなもので、父親や馬丁にしかよくはわからぬようなものであるが、その小さな言葉の切れ端のようなものを、何か不機嫌なようすで、腫《むく》んだような眼になって言うのがひどく可哀らしい。言葉の少ないこと、むっつりと何かを言うようす、それはモイラの一つの特長であった。声は水の中でしているような、くぐもった、聴きとり難《にく》い声である。そんな天上であったから、その十日の間は、モイラからうけた印象、香い、厳密には媚態とは言えぬが、通常女がする媚態をはるかに乗り越えた媚態、なぞからうけた衝撃の生々しい記憶でびっしりと、充填されていた。人といる間を除いて、モイラの姿や声で、天上の生活は隙間なく埋《うず》められていたようなものだ。凝《じつ》としていると、今そこにいるような、生々しいモイラの記憶が纏《まつ》わってくる。百合の茎を割《さ》いたような香気を忘れない天上は、モイラの、眼にしただけで触感のわかるように想われる皮膚を想い浮べ、そうして天上はモイラの肩を捉まえ、ねじ伏せ、胸の下に抑えつけたいという、狂気のような妄想を、抱いた。ストイックで、不思議に老成したところのある天上にとってそれは、既《も》う過ぎて行っていた青春が、再び非常な絢爛をもって巻き返して来たようなものである。
そんな時間の中で、天上の眼がふと、窓の外に向くことがある。天上の眼が柘植《つげ》の灌木の茂みの中に見える伊作の日除帽の上に止まる。すると天上は少なからぬ苦痛を覚えた。必要以上に、深く俯向けられているように見える日除帽の下にある伊作の表情が、天上には見ないでも手に取るように、解っている。天上には伊作の胸の底にあるものがわかっていて、それはつい半月程前までは、天上の胸の中のものでもあったからだ。見合いをして、婚約までしていた片山|基次郎《もとじろう》という国文学者の遺児で一人娘の園子を、天上は愛していたし、園子との結婚によって、伊作と、雇人たちに囲まれた静かな幸福が永遠に保証されることに歓びを感じていた。そのことに伊作と天上との心は同じ窪みに流れ寄る水のような、合流するものを、持っていた筈であった。だが天上は今ではその静かな晩年への道を、モイラによって壊され、滅茶滅茶にされることを希《のぞ》んでいる。その、たしかにふしだらなものを含んだ慾望の前に天上は完全に、敗北していた。馬から降ろされて父親の傍に駆け寄ろうとしたモイラの体から、揮発性の、それでいて重く、甘い、液体のような香気を感じた瞬間から天上は、どこかで、自分が失われたような戸惑いを感じている。天上は早くから、自分自身を厳しく律して来た男だったが、細君には適さぬことが最初に見た瞬間から解っていたモイラを、娶《めと》ろうという慾望を抑えて、片山園子との婚約を持続する方へ、自分を持って行くことが、どう遣《や》っても出来なかった。天上の精神力を奪ったものはモイラの、赤い斑《まだら》の百合の香気である。それは香気そのものというよりモイラという人間の中から滲《にじ》み出る、相手を搦めとる意志である。モイラが、何もしないでいて、相手の内部に絡みついて行くあるもの、ただ相手を見るだけで、粘りのあるなにかが、相手を捉まえるモイラの眼、それが、〈モイラの蜜〉である。天上はモイラの蜜に、敗北した。天上は、片山園子との婚約を破棄して、モイラを家に入れるということが、唯一人の肉親である磯子を、どれほど哀しませるかということを知っていて、それが又、磯子と同じに自分の幸福を希っている伊作の気持を、どれほど踏み躪《にじ》るか、ということも知っていて、その上でそれを押し切り、モイラを娶る決心をした。
林作の誘いで、或日牟礼家を訪れた天上は、牟礼の家を辞する挨拶をする際《きわ》になって、突然に、だが静かに結婚の申し入れをした。林作は郷田重臣《ごうだしげおみ》にも会い、ドゥミトゥリイに、やよも加わらせて懇談をした上で、天上の申し入れを受諾した。天上の家が、モイラの嫁ぎ先として、これ以上の条件が揃ったところはないというのが皆の一致した意見であったことは言うまでもない。モイラに話をすると、林作の予知したようにモイラには意見はない。天上は自分に、気ちがいのように溺れている。それが興味である。それだけである。石沼《いわぬま》の海岸でピータアに従《つ》いて行ったのと全く、同じである。天上が金持であることがそれに附随している。又、モイラ自身雇人のいる、金のある家で、結婚をする相手の男が大人で、我儘の言える男でなくては自分には駄目だ、ということは心得ていた。
* *
電話で林作の承諾を知った日、天上は従姉の磯子を訪ねて、かねて話しておいたモイラとの縁談の成立を伝え、家に帰ると伊作を居間に呼んで、同じ話をしたが、この方は報らせるというよりは因果を含めるという形になったことは確かで、話をする天上も、聴く伊作も、それぞれ苦痛を伴うのを避け得ない。この日のあることは、前から二人の間でわかっていたことである。
「お話が定《き》まりまして、おめでとうございます」
そう言って、ポトンと蓋をしたように眼を伏せた介田を、天上は一瞬見ていた。
灰色の襯衣《シヤツ》に、よく洗ってはあるが古い、捩じれた黒のネクタイの結び目を癇性に固く締め、消炭色の仕事着を着た伊作は、守安《マリウス》の前に慇懃に、控えていたが、右腿を、大きく開いた親指と人差指で強《きつ》く掴むようにし、顔を上げた。固い顔の中に二つの眼が、貝のような光を出して哀しげに守安を見上げている。懐しみが、頬の皺にも刻まれた顔である。
「牟礼のお嬢さんはまだほんの子供なのだ。……こっちへ来て、少間《しばらく》すればいい奥さんになれると思うが、どうも天衣無縫というより野放しにしてあったようだから」
「はい。それはもう」
モイラというものを既に識っているといっていい二人の会話は、的を外れた遊び道具の球のように、モイラを中心に無駄に廻っている。二人は黙った。
面白くない沈黙を除《よ》けようとするように、天上は伊作がこの頃始めた岩桔梗に話を転じた。岩桔梗は岩の際《きわ》に咲くというので、十日程前に暇を取って郷里に行き、頃合いの石を持って来ていた。花の話になると伊作の眼から憂いが除《と》れ、慧《さと》い二つの眼が輝いた。そういう時の伊作の、奥深い賢さをひそめた顔を、天上は好いていた。
「あれはもと、家で造ったことがございますので、立派に咲くと存じます。土もずいぶんよくしてありますので」
伊作はふと壊れたように脣元《くちもと》を綻ばせ、自信ありげに微笑った。
以前《まえ》に居た庭男の万吉が胸を悪くして辞めた代りを、天上が新聞広告で募集した時、十五人程来た中で介田伊作はその身仕舞いのよさと、見るから慧《さと》い様子が気に入られて雇い入れられた。雇い入れられて間もなく、伊作は天上に花を造る許可を得、直ぐに近くの店で花の種、葭《よし》の竿、麻紐、差し当って使う店売りの肥料などを買った。伊作は花を造ることには確かな腕を持っていて、それまでにも自分の家で狭い裏庭に高山植物なぞの珍しい花を咲かせていたのである。物干し台にも西洋花、観賞用として彼が好いているアスパラガスなぞを作った麦酒《ビール》の空箱が並んでいた。丸い、ざらざらした石の合間《あいま》に咲いた白い岩桔梗は、訪ねてくる人の眼をおどろかせた。その得意の岩桔梗を、この頃始めていたのである。その石も、植物の本にあった写真で、細かい穴のある石だと見て、そんな石を探して来る。天上は伊作を、素人《しろうと》園芸の天才だとしていた。
モイラが天上の家に来て、先ず出会ったのは園丁の介田伊作との打《ぶ》つかりであった。最初の訪問の時のことだ。モイラが天上の胸に寄りかかり、肩においた天上の掌を幾らかうるさそうにしながら門を入り、玄関までの間の敷石をぴっしり埋めている花壇に眼をやりながら歩み進んだ時、モイラは右側の花畑の奥に、ドゥミトゥリイの部屋のような小屋を認め、そこに日除帽を脱いで手に持ち、将校を迎える兵士のように立っている介田を見た。介田はとくに天上の指示を受けたのではないが、庭男の自分なのだからそこで迎えた方がいいと考えたのだ。他の召使いたちは皆玄関に集まっていた。顔を上げて天上を見た伊作の眼がモイラに移ったが、その眼に忽ち嫌っているものを見るような色がよぎった。天上を見た時にあった寂しさが鱗のように落ちて、鋭さだけになったのを、モイラは見た。
伊作はその日、明瞭《はつきり》、正式な婚約者として眼の前に現れたモイラを眼に入れた瞬間、それが何故だか彼にもわからない強い不快をうけとった。
(この女がこの家に入ってくる。この女がこの家に入ってくることは大切な旦那様にとって決していいことではない)
と、伊作は思った。それは不思議な確信のようなものである。彼はモイラの中に不倖の鳥を見、胸に肉体的な痛みを覚えた。大体伊作という男は、花と鳥、動物、それと貞淑な優しい女、それ以外のものは愛することの出来ぬ男である。モイラの持っている、男を惹きこむ或もの、それは伊作の最も嫌厭するものである。それだけではない。それがたとえ優しい、貞淑な女であったとしても、自分の伴侶としようとは思わぬ。彼は女というものを、自分が人間から動物に堕《お》ちる時、それを元の人間に戻してくれるものだと、考えている。衣《きもの》の上からでもはっきりと、恭《つつま》しやかなものが感ぜられる、ヴィナスの丘の辺りにさえ、女の体の代りに母性が座っているように見える、珍しい体を持っていて、誰をでも心から愛する、優しい心が、見て取れる片山園子に比べて、男の精神の一部を、ひと眼で壊しかねぬ体つきを持ち、真裸で男の魂の中へ、ずかずかと入ってくる肉体的な精神力、といったようなものを、しかも無意識に持っているモイラを、伊作は教練場で最初に見た時から烈しく、嫌った。モイラは、教練場の頃から既に、伊作が自分を嫌っていることを知っていたが、少しも動じない、漠然とした眼で伊作を見た。モイラと伊作との間の瞬間の稲妻を、天上はむろん見ていた。その時モイラの脣は不機嫌そうに、膨らんだように、なっていた。天上は、モイラが頭を肩に寄せかけるようにして自分を凝と見上げ、
(どうしてまだ止まっているの?)
というように促すのを見て、気を取り直したように歩き出したが、その後姿に眼をあてた伊作は、これまでの、朝、食堂の卓子《テエブル》の花壺と、書斎の一輪挿しとに新しい花を挿して、一日、一日の幸福を祝った静かな日々はこれで終った、と思い、頭を垂れて小屋に入った。モイラが伊作を見た眼は稚く漠然としていたが、伊作の心に絡みつく、ぬめりのある軟《やわら》かな生き物のようなものを、持っていたからだ。そのぬめりの中には漠然とした嫌厭が、あった。
天上とモイラとが玄関に入るとそこに出迎えたのは女中頭の本間いし、と上女中の石田ウメ、コックの李芳順《リイホウジユン》、運転手の木村|利夫《としお》、台所女中の山口ともえの五人だった。天上に輔《たす》けられるようにして入って来て、長い間かかって不器用に靴を脱いで上がったモイラを見て雇人達は一様に、一種の変った印象を受けとった。殆ど幼児といってもいい稚さ。それでいて妙にふてぶてしい。どういう訳でそう見えるのか、王というものを見たことも、想い浮べたこともない彼らにも王者のような大きさを感じさせる。自分達雇人を意識して見|下《くだ》しているようには見えないにも拘らずひどく、横柄である。何に対《むか》っても無関心で、周囲《まわり》にあるすべてのものを無視しているように見える。女中頭の本間いしは、
(これは容易なこっちゃないよ)
と、思わず心に呟いた。
(どこまで世話がやけるか。まるで子供か痴呆《ばか》のようだが、だがそれだけじゃない。旦那を丸ごと搦め捕《と》っているところなんざ、痴呆《ばか》には出来ない芸当だ。何が起るか知れたものじゃあない。旦那の鼻の下の延び加減も相当なものさ。前から薄々察しはついちゃいたが。マリイ様を伴れて教練場へ行った日、あの日帰って来た時からもう様子が変だった。介田の変人は何一つ喋らないから判らなかったが、あれからだんだん……)
と、彼女は続けた。石田ウメの見るところも本間いしと全く同じだったので、モイラが靴を脱いで上がって来た時、二人の眼には共感者の眼交ぜが走った。どうしてそうなのか判らぬが、満十六歳の女とは思われない圧迫感と、一種の重みをもってモイラは限りなく天上を惹きこんでいる。そのモイラを覗きこむようにする天上の様子を見ると、そこには何かが起るのではないか、という何かわからぬ、蒸された空気のようなものが生じている。その、二人の間にあるものは、本間いしと石田ウメだけではなく、其処《そこ》にいたすべての雇人たちの胸に、漠然とではあるが感じ取られた。
山口ともえは首を縮めるようにして本間いしと石田ウメとの顔をチラと窺い、コックの李は静かな眼でモイラを見ていたが、直ぐにさり気なく眼を伏せた。運転手の木村だけが、無関心でいた。実直そのもの、それだけの男である。
「これが牟礼《むれ》藻羅《モイラ》、僕の奥さんになる人だ」
と天上は言い、モイラに、
「この二人は本間いしと石田ウメ、上女中だ。そっちがコックの李芳順、向うが台所をしている山口ともえというんだ」
と紹介したがモイラは、黙って彼らを見ていて、一寸顎を合点させただけである。そうして天上の肩に寄りかかったが、本間いし達にはそれが、モイラの体が突然骨が無くなったように柔くなって、天上に凭《もた》れかかったように見えた。そうして眼で、
(もう向うへ行かないの?)
と言っているモイラの眼を吸い取るように掬い入れ、睫毛をしばたたいた天上の、哀しいまでの愛に溺れた姿に、軽侮の眼をあてた。
天上は一瞬|躊躇《ためら》ったが、モイラの肩を抱くようにして、手持無沙汰に立ち尽している雇人たちの前を、通り過ぎた。
天上の掌は、まだ裸では触れたことのないモイラの肩のまだ固い肉づきを、白いモスリンの夏服の上から窃《ひそ》かに探りあてているように見え、それはあたかも、手に入れた高価な玉《ぎよく》を掌の中に転がして、その手触りを愉しむ、古代の支那の皇帝を想わせる。そういう時の天上の青白む顔色と、その顔色とは不調和に紅みを帯びる脣の色は、ストイックな、宗教的《ルリジユウズ》にさえ見える彼の顔容を裏切っている。自分の体を見て男が抱く強い願望を、既にピータアによって知っているモイラは、天上の包み隠している慾望が、ピータアとは異《ちが》ったものだということを、何処かで感じ取っていて、そこに五月蠅《うるさ》さと嘲りとを、抱いていた。
五月の初めの蒸暑い初夜に、窗も、扉も、閉め切られた二階の居間で、木の筐の寝台の中に閉じ籠められた時、モイラは鋭い、爬虫類の舌のように撓《しな》うものによって、逃れようとしても逃れられない執拗な接吻の罠に陥ちた。熱苦しさと恐怖との中で長い時間が経ち、やがて太い、強靭な蛇のような腕に巻きこまれた中で、再び過ぎた夏の夜の疼痛が、永い恐怖の時間に止めを刺すのを覚えた。逃れようとする動きの果ての疲労の中で、モイラは顎を空《そら》に動くことの出来ぬようになった体を天上の眼の下に横たえた。天上はその夜以来|夜毎《よるごと》に執拗を現して、モイラを重い疲れの中に、横たえた。
幾らかはあった興味も失せて、索然とした、夜である。退屈と倦怠との中に自分をおく天上に対《むか》ってモイラは、次第次第に反抗を抱くようになって、行った。哀しみさえ湛《たた》えた愛の眼で、執拗に自分の動きを追い、傍に来さえすれば肩を抱き、頬を近づけ擦り寄せる天上を、モイラは雇人たちのいる前でも、五月蠅がる様子を隠そうとしなかった。
天上への反抗と平行して伊作を憎悪し、何かで困らせて遣ろうという心も、モイラの中に蓄積して行ったが、モイラの嫌厭の標的は他にももう一つ、あった。モイラが天上に伴れられて、初めて伊作の部屋に行った時、伊作の部屋の卓《つくえ》の上に見出した白い、太った鳩である。かねて天上から話をきいていた鳩だということは直ぐにわかったが、天上がその鳩をひどく愛していることを、モイラはその時に、知った。鳩がエンミイという名を附けられていることも。そうして伊作が天上からエンミイを預かっていて、手の内の玉のようにして世話をしていることをも、知ったのである。
モイラの伊作への嫌厭は、モイラがまだ天上に対してなんの意識も持たないでいた頃から、伊作の不愉快なそぶりによって触発せられたものだが、エンミイへの敵意はその日から伊作への嫌厭と一つのものになって、固まった。モイラは天上がエンミイを愛することに嫉妬したのではない。モイラは結婚以来天上によってこの家の中に閉じ籠められ、今までいたところとは異《ちが》った雰囲気の中に置かれたことに抵抗を感じている。天上が自分を、結婚することによって自由に出来る生きもののようにこの家の中に閉じ籠め、莫迦気た退屈の中に置いていることに、怒りを感じているところにもう一つ、エンミイへの反感が加わった。モイラはもともと鳥類を嫌っていた。それはモイラが或日林作の友だちの家で、飼っていた鶏を見ていて、何かわからぬ不快を覚えて、凝と視た時、モイラは鶏の黒ずんで黄色い二本の脚に蛇と全く同じな紋様を見た。表側には蛇の鱗《うろこ》の紋様がはっきりと刻まれていて、裏側には蛇の腹とそっくり同じの横条《よこすじ》が彫られている。その甲羅に似た固さも蛇と同じである。モイラはぞっとし、黄色い鶏の脚を見守った。その日からモイラは鳥というものをすべて、嫌うようになったのである。それを林作に話した時、モイラは、彼も同じ理由で、鳥類を嫌っていることを知った。しかも林作の別な友人に、河西鵞堂《かわにしがどう》という鳥類学者を識っているのがいて河西にその話をふと洩らした時、鳥類が太古は蛇であったこと、水に棲んでいたことが判ったのである。天上がエンミイを大切にしていることを言わずにいたことにモイラは、取るに足りないものを隠された不愉快を感じた。又伊作が預かって手塩にかけているようすを目撃したことが何よりも、モイラを刺戟したのである。