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作者:日-森茉莉 当前章节:15448 字 更新时间:2026-6-22 20:37

 ふと、深い睡りから醒《さ》めたモイラは、朝の薄明りの中に立って、自分を見下ろしている天上を見た。天上の顔は一夜の内に憔悴した。目蓋から頬が、青く浮腫《むく》んでいる。

 天上は薄明りの中で眼に滲《し》みるように紅い、白い水玉《ドツト》の浮いた服に林作を強く感じ取った。モイラの裏切りを輔佐している男、モイラの、あるゆる意味での後見人、モイラの蔭の恋人!!! 昨夜の林作の、事もなげな、軽い、電話の話しぶりが嘲りの鈴《れい》のように耳の底に蘇ってくる……一夜かかって抑えつけた狂気が再び騒ぎたつのを覚え、天上は両の掌を固く拳《こぶし》に握り締め、軽く瞼を閉じた。ようよう気持をなだめた時、モイラが眼を開《あ》いたのだ。

 天上は掠《かす》れた、低い声で、言った。

「よく睡れたようだね。……傷は痛まないか?……」

 天上はモイラの、汗の滲んでいる頸の辺り、紅い服の襟から覗いている胸の一部に眼をあてた。

「今朝は暑い。やよに体を拭いて貰うよりも湯殿に行って、シャワアにかかっておいで。僕は今日は会社に行く前に寄るところがあるのでもう出るが、夕飯《ゆうめし》には帰る……」

 静かな声でそう言うと天上は、幾らか乾いたモイラの脣に眼をあて、苦しいものを追い払おうとしているように見えたが、ふと、耐え得ぬようにモイラの上に身を屈《かが》めた。汗に湿った顎に掌をかけて持ち上げ、血の色の薄いその脣に深い接吻を埋《うず》めた。淵の中へのめりこんで行くような接吻である。天上にとって、それは危険な接吻で、あった。これ以上モイラの深みに嵌ることが、自分にとって危険であることを天上は自覚している。しかもそこに嵌りこまずにいることは出来得ぬと、天上は知っている。モイラの接吻の表情は常と変らぬ。ただ男のする儘に委せている、なげやりな、懶い脣の表情は、常時《いつも》変らぬモイラのものである。そういう表情であることが、相手の気を惹きこむ一つの技なのだということを、モイラは最初から、最初の接吻をせぬ内から、どこかで、さとっていたようにみえる。モイラがどこから、どこの空間から、そんなものを、そのような機微のようなものを取って来たのか、それは誰にもわからぬ。神か、悪魔か、一つの超人間的な存在が、いつか、どこかで、モイラに手渡したのか、モイラ自身が掴みとったのか。おそらく、その超人間的なあるものからモイラの魂の中に移り、なにかの悪い細胞のように繁殖して固まった一つの練りものなのだろう。モイラと交渉を持った男はまだ二人だけであるが、そのピータアも、天上も、女が相手の接吻なり、愛撫なりに応える脣の技巧、体のテクニックなどというものが、その巧緻であるべきものとされている技が、モイラの稚《おさな》いともいえる反応の仕方に及ばぬものだということを、モイラを愛撫していて、知ったようだ。少なくともピータアという青年と天上に限っては、自然に、そんな観念を持ったといっていい。

 モイラは目ざめたばかりの眼を凝《じつ》と見開いていたが、天上の息づかいさえ静かな、拵えたもののように見える静かさを持った言葉が終った時、その曇りのある表情には何の変化も、現われなかった。昨夜の帰途の車の中で、むらむらとモイラを包んだ不満が固まり、それが練りもののようになって、そこからモイラの中のふてぶてしさが滲み出て来たのである。その梃《てこ》でも動かぬ、魔のようなものが今、完全なものとなってモイラから発している。もうそこには、鳩のエンミイを逃がした後《あと》のモイラは居ない。ようようのことで自身を抑えている、自身の中の呻《うめ》きをなだめている天上は、そのモイラの様子を見て、その金縛《かなしば》りになった胸の中で、絞られるような呻きを発した。

 天上はモイラから離れると、やよを呼ぶための呼鈴を押して、部屋を出た。隣の、自分の寝室に一旦入り、そこを抜けて奥の書斎に入った。肱掛椅子にかけてある上着を取って着け、紙入れ、印鑑の袋、ハンカチイフ、万年筆なぞをそれぞれの場所に納める間も天上は、胸の辺りに纏《まつ》わりついていて離れようとせぬ、今離れて来たばかりのモイラの香気に、手もなく酔いしれている己《おのれ》に哀れみを催し、今日から明日へ、それから又いつの日までか、続くであろう苦しみの時間を想うのだ。髪に櫛を入れようとして覗いた柱鏡に映った天上の顔には、見るに耐えぬ苦渋がある。

(これが俺の顔だろうか? 今から二年前の……いや、少なくとも一年前の、まだ俺が、モイラとの日々に希《のぞ》みを抱いていた頃の、あの俺の顔だろうか? あの頃はまだ俺は、希みを抱いていた。楽しくもあった。楽しくしていたことが、何故、このようにして、罰せられなくてはならぬのだろうか? 何故? それは何故だ。俺が何かの宗教を持っていたらこう言って神に問うただろう。稀有《けう》な花のようなモイラの、花粉の中に溺れ果てて、酔いしれたような俺だった。花々に埋《うず》もれたようなこの館《やかた》の中で……伊作の咲かせる花々の中で、朝夕エンミイを見ることに安らかな、よろこびを見つけていた俺は、その庭の花々よりも、どこの世界の花よりも香気のある、モイラという肉で造られた花を得た。そうして俺は、思ってもみぬ歓びを得た。はかない歓びであったかもしれぬ。偽《いつわり》の歓びであったかもしれぬ。だが毎朝の鏡の中にみる俺の顔には生気があった。眼にも力があった。……大体俺はもとから、嫩者らしさを持っているとは言えぬ男だ。磯子もよく言って微笑っていたように、ごく若い頃から若年寄りのようなところがあった。たしかに俺には嫩者の溌溂としたところがなかった。だが、モイラを得た俺の眼には生々《いきいき》とした光があった。皮膚にも張りがあった。……それがこの鏡の中の顔はどうだ。皮膚の色は青ざめている。頬の皮膚は垂《たる》んでいる。眼には力が無い。……)

 天上は指先で浮腫《むく》んだ高頬の辺りを押した。そうして、厭なものを払いのけようとするように、頭を左右に振った。

 天上が階下に下りると、その日も常のように、玄関には雇人達が居並んでいる。雇人達の様子の中には当然、既になにかを知っている気配が、あった。天上は彼らの前を通らないでは外には出られぬ。天上が彼らの前を通った時|河岸《かわぎし》の葦の葉をよぎる風のように、その気配が渡った。眼を上げて、自分を見ることもせぬ女どもの俯向けた庇髪《ひさしがみ》の辺りに、掌を揃えた膝の辺りに、それがある。侮《あなど》りわらいの気配である。女たちの侮りの、声のない笑いは今日の天上にとって薄い両刃《もろは》の刃物であった。うすうす感じとってはいるらしいが、奥のことに関心を持たぬのはコックの李と、運転手の木村利夫である。特に木村利夫が、何ごとにも関心を持たぬ男であることは天上にとってこの朝、吻《ほつ》と吐息を吐《つ》く程の救いであった。花園の間の小径《こみち》に出て見送っている伊作にも、天上は少なからず抵抗を覚えるのだ。

 車に乗り込んだ天上の眼が伊作に行く。

(旦那様。……お元気でお帰り下さいますように)

 伊作の眼が言った。

 天上の眼がそれに応《こた》える。

(そんな眼をして呉れるな、伊作……俺は大丈夫だ……)

 そうして苦しげに伊作の眼から逃れ、天上はシイトの背に寄りかかった。

(大丈夫でなどあるものか。意気地のないこの俺が……意気地のない、痴《し》れ者の、この俺が……)

 木村利夫の肩越しに、フロント硝子を照り返す朝の陽に、充血した眼を瞬き、天上はふと突き上げてくるものを、覚えた。

(車で迎えに来て、運転をしたのはあの、ドゥミトゥリイだ。あの屈強な、容貌もいいドゥミトゥリイ……モイラへの恋心を、胸の奥に隠しているドゥミトゥリイだ。どこへ寄り道をしようと、モイラの意志の儘だ。そうしてその後《うしろ》にはあの父親がいる。あの父親が黒幕だ。俺がこれまで見たことのない種類の、さほど美男というのではないが様子のいい、林作という父親。あの男は、どのようにも取れる微笑いを浮べることがある。ふと眼を伏せて、翳《かげ》るような微笑いをすることがある。モイラが、俺の前もかまわずに甘えようとする瞬間に見せる微笑いが、それだ。微笑いと一緒に上半身を折るようにして、それを俺に見せぬようにする。……俺や磯子には解らぬ、深いところに、考えをおいているところがある。深い……深いところに、なにかをおいて、それがどんなことであろうと、恬《てん》としているところがある。その俺にはわからぬ考えから、どのようなことをモイラの自由に委せるかも知れぬ……嗚呼《ああ》!!!……どのようなことを!!!)

 天上は整った顔を醜く歪めた。

(それでいて常識を備えている。もののわかったところがある。その考えにも誰にも批難をさせぬ清潔《きれい》なところがある。それがどうも、深いところで、召使い達なぞを服させているふしがある。あのドゥミトゥリイとやよとはあの男を、神のように崇《あが》めている。慕っている。やよなどは、あの男への奉仕のために、苦しい思いを耐《こら》えている。まるでサン・セバスチアンだ。そればかりか、モイラを嫌っているこっちの召使いたちまでが、あの父親にいい感情を抱いている。服している。モイラという香いのいい花を、この家に迎えてからというもの、俺は孤立無援だ。双方の召使い達から軽侮をうけている、侮《あなど》りの礫《つぶて》を、浴びている。それが又昨夜から酷《ひど》くなった……段がついてひどくなった……ドゥミトゥリイの、やよの、哀れみも、俺には耐えられぬ。伊作の献身さえもが、俺にはわずらわしいばかりだ。すまぬと思う。だが不愉快だ。唯一人の味方の伊作の顔からさえ、俺は逃げている。唯一人の味方顔をする……そんな不快を、覚えるのだ。……磯子が遠いところで、俺を案じている。見まもっている。それさえ、耐えられぬ。俺は、……誰もいない、誰からも見られぬ場所で、この苦患を耐えていたい)

 天上は青白い掌で、重い額を支えた。汗ばんだ額に少し熱があるのを、天上は感じた。

(何という俺は、腑甲斐《ふがい》のない男だろう。哀れな男。意気地のない、いや、愚かなのだ。愚か者だ……あの林作氏に比べて俺は、多分|稚《おさな》いのかも知れぬ。そうなのだろう。あの父親の中に悪魔を見るこの俺は多分、稚い男なのだ。どうされようと、どうすることも出来ぬ。この俺には……何処かにいる、モイラの蔭の男の手から、モイラを奪い返すことも、まして父親の手からモイラを奪い取ることも、出来ぬ。あの、肉で創られた、香気の高い花を自分のものにして、永く傍に置こうとした俺の慾望は、許されぬことであったのか……惑わしと、香気に満ちたあの花の、花粉に塗《まみ》れて溺れ死ぬ夜を……幾夜かおくった俺は、唯神に感謝を抱いていた。それが罰せられなくてはならぬのか? 何故だ。俺は自分を醜いとは思わぬ。美しい部類だと、思っていた、だが……あの父親の、ウェストミンスタアの烟の中で微笑う様子のよさには及ばぬ。洒落男とはああいうものか。林作という男が唯者でないことは、あの教練場で最初に顔を合せた時に俺にはわかっていた。モイラとの関係が、特異なものでないまでも、通常の父と娘との続柄《リエエゾン》でないことも、わかっていた。あの時から、あの最初の日に二人を見た時から、俺は罠に落ちたのだ……)

 天上は、額を支えた掌を放して顔を上げた。車は綱島街道に出ていて、綱島温泉辺りをゆっくりと走っている。性悪《しようわる》な女狐《めぎづね》の罠を見抜いた男のような、覚めた眼をした天上は、明るい窗外に少時《しばらく》眼を遣《や》っていたが、再び眼を膝に落した。

(なるほど。……あのモイラを嫁入らせるとなれば牟礼の家と同等か、それより上の金のある家でなくてはならなかったろう。召使いも、やよを附けて寄越《よこ》すとしても他にも数人はいなくてはなるまい。婿になる男も或水準の智識階級の男でなくてはなるまい。そこに林作氏の眼鏡《めがね》にかなうものがあったのだ……家《うち》は係累も少ない。式の日に見たモイラの母方の祖父という郷田重臣氏の賛成も、それで得たのだろう。多分、あのドゥミトゥリイも、やよも、相談に加えられて、俺の申入れは受諾されたのだ。……大審院判事だったという、いかにもその職柄らしい厳しさと一緒に、温かさも充分なあの重臣という祖父は、父親にも負けぬ程、モイラを溺愛しているらしい様子が見えた。肺炎の後《あと》で、快癒祝いをした直後だという話だったが、そこへモイラの慶事のよろこびが重なって、見ていても静かな歓びが漂ってみえた。今も眼に残っている。モイラの配偶者として俺を適任と見て、俺の申入れを受けたのはいい。結婚というものはそういうものだ。だがあの父親の場合は他になにかがあった筈だ。モイラとの間に、父と娘というより以上のなにものかを持っているあの父親にとって稚い、人の好い俺という男は、恰好の婿だったのに違いない。一目でモイラに惚れた俺は、喜んでモイラを嫁に申し受けた、それだけであの男にとっては充分だった筈だ。あの父親も最初は、それ以上のことを考えてはいなかったろうが……あの男はその俺の稚さにつけこんで、モイラの、何かの要求を入れた。……何ということだ! モイラを貰った、というそのことだけで、俺は立派に或意味で cocu だ)

 天上の左眉の上の血管が怒張した。

(そうだ。……俺は cocu にされたのだ。もうそれだけで俺は充分に苦しんでいる。あの男にはこの俺の苦しみがわかっている筈だ。だがこの俺の苦しみが、あの父親にとってはむしろ笑うべきことなのだろう。今まで見ていて、それが俺にはわかる。あの種の男にとって、男と女との間のことで稚いということは、取るに足りぬ程その人間の価値をひき下げる条件なのだ。男女のことに疎いということはそれだけで、嘲笑われていいことなのだろう。あの男にとって、俺を欺くことは赤子の掌を捻じるようなものだ。だが、やよがいた。やよの様子が俺になにかを報らせたのだ。やよの素朴な、可憐な苦しみが、俺の眼の前に曝露せられて、あの男の巧妙に隠蔽《かく》した筈の秘密の匂いを、俺の前にさらけ出したのだ。……だがそれも、これもいい。すべて俺は耐えよう……だがすべてを俺が耐えるとしても、今朝のモイラの、あのようすは!!!……あの、びくともしない、不逞なようすは!!! モイラは……もう居直っている。ほんの僅かの愛情さえ持ってはいなかったのだと、今朝のあの、モイラの眼は、俺に向かって言い放ったのだ)

 天上は瞼の窪んだ眼を軽く閉じ、シイトに頭を凭《もた》せた。

 稍《やや》あって、天上は身を起こしたが、天上の眼は何も見ていないようにみえる。望みを失った男の、洞《うつろ》な眼が、窗の外に向かって開かれていた。

    *    *

 モイラは掛布をうるさげに、胸の下まで押しやると、天上の去った後《あと》の扉の上に、呪いに近い不機嫌の眼をあてたが、その眼を睨みつけるように宙に据え、長いこと凝《じつ》としていた。やよがノックをしたが「もっと後で」と言って、去らせた。ピータアの部屋の、曇った窗硝子を透《とお》して鈍い、黄色い光が満ちていた暑苦しい寝台《ベツド》の上で、自分を襲った恐怖の愛撫も、眼の下に傷を造った衝撃も、モイラの中で、怖ればかりだったのではない。逃れようとしたのは真剣だった。だがその中に、ピータアを惹いてやろうとする気が無かったのではない。繃帯を巻かれて、部屋を出た時には、モイラは衝撃の後《あと》の疲れの中で自分をとり戻していた。そうして、ピータアの残虐を、自分の持っているものへの自信を測量《はか》る目盛として、モイラは測っていたのである。

(ピータアの方がいい。守安は薄のろいんだ。何をしても、何を言っても、薄のろいんだ。……神様のような顔をして……パァパが一番いい)

 モイラは、睡っている間に幾度か寝返りを打ったのだろう。乳房の形をその儘現わして皺になり、体に密着している紅い普段着の姿で起き上がり、やよが来ないかと扉を睨んだ時、遠慮勝ちなやよのノックが、聴えた。

    *    *

 モイラの厭な予感。苛々する、不快な予期は、向うから外された。天上が、自分が怪我をして帰ったことについて何か問い質《ただ》すだろう、という、モイラの不快でならぬ予期は、天上の側から外されたのである。次の朝も、天上は何も言わぬ。又次の日も。天上はモイラの傷について深く問うことをせずにいる。

 一日、一日と、日が経った。静かな、表面何事もない日々が、続いていた。睡り足りた、不逞なものを露わにしているモイラが、階上から下りて来る。浴室に入って行く。やよが、肥えた肩をすぼめるようにして、急ぎ足に後について入って行く。白い卓子《テエブル》掛けの地紋が光る朝の食卓で、常のように天上が、モイラの分の半熟卵の殻を匙の柄で軽く叩いて口を開け、別な乾いた匙で食塩を受け皿に少量|滾《こぼ》して、モイラの方に押して遣る。モイラが、食塩の分量が多いのか、少ないというのか、一目見た半熟卵が固過ぎて見えたのか、緩《ゆる》く見えたというのか、むっと黙って、別の皿に匙をつける。そんな朝食がある。李と、やよとが特に気を配り、味にも、盛りつけにも心を籠めて造った料理が並ぶ昼食、そうして夕食が、繰り返される。食卓には花は無い。伊作が花を飾ることを、断念したのだ。だが伊作は、天上一人のために飾る花だけは止めずにいた。朝早く、粒選りの一輪を剪《き》り、天上の書物卓《かきものづくえ》の花壜に挿《さ》しに行くのである。花壜の水かえの行き来にも、天上の睡りを妨げぬように注意しているのだが、夜睡らずにいて、その儘起きていることの多い天上は、伊作が通る跫音を知っていた。跫音を盗んで通る伊作の気配が、天上には切《せつ》ない。むしろわずらわしい。伊作は主人が、ともすれば自分を避けようとするようすのあるのを解っていて、今では天上と顔の合う時には努めて、眼を伏せるようにしているが、心の寂しさは蔽い難い。天上と、モイラとの間の、容易ならないこじれをみて、内心、踊り上らんばかりの興味を示していて、寄るとさわると囁き合っている本間いしと、石田ウメとを除いて、後《あと》の召使いたちはいずれも、主人の気分に圧《お》されていて、何かの重いものが頭に載っているような風で、黙々と立ち働いている。天上の家は、家全体が暗く、うち沈んでいた。生き生きとしているのはモイラ一人である。機嫌はよくない。だが天上の様子に何の痛癢《つうよう》も感ぜぬ様子で、平常《ふだん》と変らず振舞っている。幼い時から膝に抱き、背中に背負って睡らせたりして来たやよさえもが、愛《いと》しいと思う心は変らぬが、(あんまりだ……)と見る瞬間も、あったのだ。

 モイラという名の、肉で創られた花は、周囲の状態がどうであろうと、何が起きようと、すべてを自分の養分にして生育を遂げようとするらしく、その暗鬱な家の中で、いよいよ艶と香気を帯びて、花開いて行くように見える。この年の終りに、ようよう満十八歳になるモイラである。モイラの体は、まだ遠い完全な成熟に向って少しずつ近づいているのだ。入浴の手伝いをするやよは、微温湯《ぬるまゆ》で流す石鹸の泡の下から露《あら》われる、モイラのいい香《にお》いのする体のなめらかさに、眩しげな眼を、あてるのだ。

 天上は、体の何処かに、悪い腫瘍を持っている男のように、見える。まだ疼痛《いた》みの自覚はないが、内臓に質の悪い肉塊を持っている、というような、そんな風に見える。どことなく疲れた様子をしていて、日頃から好んでいる果物の他にはあまり食慾を示さぬ。

 九月も五日を数えた暑い日の朝、稲本軍医が来て、前の晩に繃帯の除《と》れたモイラの傷痕の手当てをした。この一週間程の間モイラは、既《も》う除《と》れそうになっていて、まだ小さな一部分が眼の下の皮膚に膠着《こうちやく》しているために、繃帯を除《の》けることが出来ないのに自烈《じれ》切っていた。繃帯を直す度にやよは、腫れものに触るようにして、気を遣《つか》っていたのだが、ようよう繃帯が離れたので、稲本軍医に往診を願ったのである。眼に着かぬほどの極く細かな、卵の殻の破片のような瘡《かさぶた》が残っているだけの傷痕を見て、天上も、暗い眼色《めいろ》の中にも安堵の気色を見せた。「こうなっていればこの儘にしておくのがいいでしょう」稲本軍医は言って、白いクリイム状のものを薄く延ばし、薬を入れた平たい容れ物をやよに渡して、直ぐに帰って行った。何もないが、茶の用意をしてありますので、と言って、天上が引き留めたが、重い患者を置いて来ましたので、と言って、稲本軍医は丁寧に茶を辞退して、席を立った。稲本軍医は自宅の裏に、簀《す》の子《こ》で渡るようになっている、四畳半と六畳の、患者を預かる部屋を持っていた。軍人の家でなど、腕の確かな軍医に診て貰いたいという家が多少はあるので、簡単な病室を建て増しをしたのである。そこにいる患者がその朝悪くなったのは事実だったが、天上の茶を辞退したのはその理由ではなかったのは、言うまでもない。稲本軍医は林作から、モイラの怪我をした日から後の、天上の家の様子を聴いている。彼は天上の顔色を見て愕き、心痛を深めた。そうして、モイラの側に立っている者として天上から茶の接待《もてなし》を受けることをひどく辛く思ったのである。やよはよく冷えた水蜜桃を二つ、天上が好む皿に載せ、階下の客間で何か読んでいる天上のところに持って行った。

 天上は書物から顔を上げると、言った。

「ああ、有難う。……明日《あした》の昼飯にドゥミトゥリイ君が来る。手紙で招いたのだ。ドゥミトゥリイ君のとくに好きなものがあるだろう。それを加えて、献立を造っておくれ。うちの会社の、ドゥミトゥリイ君と話の合いそうな青年が一緒だ。四人前頼む」

 瞬間、やよには、何かが響くようにして、天上の苦衷が、伝わった。やよは鼻の上に細かな汗を浮かべ、二つの小さな眼をちらと天上にあてたが、気の毒げにその眼を伏せた。

(はい)

 やよは通い盆を持って、廊下を退りながら、思った。

(お気の毒に……)

 やよは林作とモイラへの忠誠の誓いを胸に持ちながらも、今の天上の様子を見て、その真実の情の幾分かを分かち与えざるを得ぬ。だが、それかと言ってやよは、天上の前に出るのが恐ろしくてならぬ。やよの立場の苦しさはいよいよ煮詰って来ている。この頃のやよにはどうかすると、此処を逃れて、浅嘉町の家に帰りたい、と思う瞬間がある。林作が、モイラに何かを届けるドゥミトゥリイに、別に自分のための、袷《あわせ》にするための反物をことづけて寄越した時などに、ふっと、魔がさすように、そうなるのだ。やよはモイラが、浅嘉町に帰ろうとしているのではないかと、思ってみることがある。そうして、それを隠しているのではないかと、思うのだ。そうしてやよは直ぐにそれを打ち消す。そうではない。モイラ様はもう今では、何も隠したりはなさらないのだ……。お強くて……それとも……と、もう一つの考えに行く時やよは、恐ろしさに身を縮めるのだ。やよは、今度あったようなことがもう一度繰り返されることを何よりも恐れている。やよは、悩んでいてもさしては窶《やつ》れのこぬ、厚く肥えた、可憐な胸の中で思い廻らすのだ。

(あのようなことがもう一度起きたら、旦那様は今度は、黙ってはいられないだろう……いいえ、やっぱり何も仰言らないのだ。旦那様は。旦那様は黙っていて、ドミトリさんをここにお招びになった。旦那様はなんでも黙っておいでになる。……ああほんとうに、恐ろしい……)やよは呼吸《いき》が止まったように、思った。(……そうだ。お献立を定《き》めなくては……ドミトリさんはシチューが好きだと言っていたことがあったけれど、旦那様と違ってはいけまいし、やっぱりコオルド・ビイフとコンソメにでも、……李さんをわずらわすけれど。おいしさんが又、何か言いはしないだろうか。李さんがいい人だからいいけれど……)

 やよはとつおいつ思いながら、李を探して台所に入った。

 その日の午後から空が曇り、翌日はひどい吹き降りに、なった。他の者が出てはならぬと、やよは大分前から耳を澄ましていて、呼鈴の音を聴くと直ぐに玄関に出て行った。

 ガバガバと音をさせて入って来たドゥミトゥリイは、林作が買い与えたらしいトレンチ・コオトを着ていた。服装《なり》のことはわからぬやよも、見違えるようだと、思った。が、次の瞬間、ドゥミトゥリイの額の深い立て皺を見た。その蒼みがかった暗い色を見た。そうして、自分と同じものを、胸に潜めているのを、見た。ドゥミトゥリイは、事件の日以後のモイラを見ていない。事件以後モイラが、その不逞な本心を露骨に現わして何も恐れず、ふてぶてしい様子で家の中をのし歩いていることを知らない。自分の顔色から天上に、何かを悟られてはならぬと、思っている。だが林作の指示を貰って来てはいるが、それでなくても今日の訪問が、格別に警戒しなくてはならぬものだと考えているわけではない。相客《あいきやく》も招いてあることだ。だが、まずいことのないことをひたすら希っている。モイラの機嫌を取るために、モイラと気心の合った自分を招いた天上ではあるが、顔色、動作には気を附けなくてはならぬと、思っている。ドゥミトゥリイはコオトを脱いでやよに預け、ハンカチを出して袖口などを拭いながらやよに、相客はまだかと、訊いた。その時階段の奥の扉が、細めに開いていて、人のいる気配があるのを見た。この家に御包や柴田によく似たばあさんがいるのを知っているので、おどろきはしなかったが、その時彼はやよの様子に、気附いた。可憐な胸が、精一杯耐えている。胸の中の怯えが、全身に滲み出ている。困った事態を読みとったドゥミトゥリイはやがて、後から来た相客の青年と二人、階下の客間に天上と向い合っていた。

(旦那様はあれを読んでいられたのだろう。だが自分をあまり固くならせぬためにそれは言われなかったのだ。おやよさんがあれでは、ここの旦那様に疑惑を抱かせようとしているようなものだ)

 平常《ふだん》着ている灰色の、厚地木綿の襯衣《シヤツ》に、白い洋袴《ズボン》、林作の革バンドのドゥミトゥリイは、努めて不安を抑え、生来の情の厚い、静かな顔を上げていたが、ふと顔を伏せる時などに、そこはかとない気落ちをしたようすが窺われた。ドゥミトゥリイは林作を、殆ど犬がその主人を慕うように、慕っている。最も忠実だと言われる、或種の日本犬のように、林作を慕っている。ドゥミトゥリイは、頭の中に林作を思い浮べることで、むつかしいこの訪問の場を持ちこたえようとしていた。

 天上の顔色は、ドゥミトゥリイがこれまでに見たことのない程、蒼かったが、彼は微笑いを浮べて言った。

「ドゥミトゥリイ君のお父さんはたしか、神戸で亡くなったのだったね」

「はい」

「ご主人のロマノフという将校に従《つ》いて日露戦争に従軍したのだったね。君のお父さんは縁がなくて、林作さんの下では働かなかったが、ロマノフという人の、忠実な馬丁で、その人とは友だちのようにしていたそうだ。ドゥミトゥリイ君もお父さんにそっくりだと、林作さんにきいたことがある」

「いいえ……私どもは荒武者でございます。教育も御座いません」

「いや、そんなことはない。……」

 天上は、

(羨ましい。林作さんはいい召使いを持たれた)

 と続けようとして、その言葉を呑みこんだ。そうしてユウセフの方に顔を向けた。

「ユウセフ君。どう見るね? ドゥミトゥリイ君を。彼は父子《おやこ》揃って忠誠な男だ。コオカサスの生れだ」

「はい。僕はコオカサスの人のことは話に聴いたり、物語を読んだだけですが、あっちの人にはそういう気風があるようですね」

 ユウセフという若者はドゥミトゥリイと違って、小柄で痩せているが、母親に似たのだろう、スラヴ民族特有の深い眼の色をしていて、その眼は何ごとかを、感じ取っているように見える。

 天上の、この一緒に招かれた逞しい若者を見遣る目顔の中に、どこかに、底意のようなものを、彼は見た。

(美しい女だと聴いている、モイラ夫人の浮気の相手だと見てもおかしくない男だが、そうではないようだ。社長の紹介の言葉に、夫人の家に長くいて、今でもよく使いなぞをして呉れる、というのがあったが……)

 と、この嫩者は考えた。

(いずれにせよ、俺の感覚に来た憶測に過ぎない。人に言えることじゃあない)

 ユウセフが言った。

「ドゥミトゥリイ君はモスクワをご存じですか?」

「いいえ。親父はたった一度、音楽を聴きに行ったことがあるそうです。母からきいています。友達が案内してくれたのだそうです。オペラで、ああ、『ペトゥリュウシュカ』です」

 ドゥミトゥリイはこの初対面の嫩者の、詮索的な眼を愉快に思わなかったが、さり気なく、応えた。

「あれは素晴しいものですね」

「わたしも見てはいないが、レコオドで聴いている。音楽が伸びやかで全体にいいが、最初の出だしがとくにいい。人形芝居の呼び込みに集まった群集の場面だそうだが」

「僕もあそこの音楽が好きでした。僕もレコオドで聴いたのですが」

 ユウセフが、言った。

「君たちの国は素晴しいものを持っている……」

 そう言った天上の頭にこの時、常に天上の胸の奥底にある何者とも知れぬ嫩者の影が、浮び上がった。石沼の、夜の砂丘で出会った、たしかに異様な出来事以来、天上の胸の奥に在《あ》って、去らずにいる不快を伴う影だ。一人の嫩い人間の映像だ。その影のようなものは、モイラが傷を拵《こしら》えて帰った日を境に実体化して来ている。もともとその影は、影というより、実体が何処かに、たしかにあって、その実体が明瞭《はつきり》せぬままに影のように、朧《おぼろ》げなものになっていたのに過ぎない。俄《にわ》かに実体化した男の幻は、数日前、ユウセフの都合を確かめておいて、林作に宛てて招待の手紙を遣《や》ってからというもの、俄かに一つの実体となり、人間の匂いをさえ、つけて来ている。石沼の夜の砂丘で、後を通った何者かを、林作も、モイラも、知っていた。知っていて、声をかけずにやり過ごした。それが天上の疑惑の種子となった。その種子から、天上の疑惑は少しずつひ弱ながらに育っていた。それが今、天上の頭の奥底に、人間の匂いを纏って、一人の逞しい異国の青年の、何《なに》とも知れぬ香気をさえつけて、現れ、天上を強迫する……、天上の前にはその不快な影の男と同国の、二人の嫩者がいた。同じ文化を背負い、コザック兵の物語を聴いて育った、そうしてヴォルガの水の匂いをつけた、二人の、恐らく影の男と略《ほぼ》同年齢の嫩者。……ユウセフと、ドゥミトゥリイとがいるのだ。

 天上は頭を軽く、椅子の背に凭せると、言った。

「失礼、僕はこのところ一寸疲れ気味なので……」

 そう言って少間《しばらく》天上は、そうしていたが、頭を起こすとさり気なく紙巻を一本手に取った。ドゥミトゥリイが直ぐに燐寸《マツチ》を摺って差し出す。煙草を吸いつけるために伏せた天上の、疲れ果てた人のような瞼の辺りに眼を遣り、ユウセフは、理由は明瞭《はつきり》しないながらに気の毒な気持は気持として抱きはしたものの、彼はまだ入社して間もない嫩者である。その天上の様子に、(わかりますよ)と、いったような一種の嗤《わら》いを、腹の中では禁じ得ない。モイラの魅力については一度天上家の玄関まで行った嫩い社員の話で、社内で知らぬ者はない。その社員が玄関で、天上の返事を待っていた時、モイラが階段の後から姿を現わし、その男をじろりと見て直ぐに又階段の向うへ入ったのだ。あまり大仰《おおぎよう》に言うので、蕗田《ふきた》という社員が、「ひと目惚れか? いくらひと目惚れしたって社長の奥方じゃあ、どうしようもないだろう」と言い、そこにいた者は皆笑った。その時、常に皮肉な笑いを浮べている男で、嫩い者の話の中に嘴を挟んでくる中老の社員が、言った。「社長のところのは奥方じゃあない。寵姫《おもいもの》だよ」と。ユウセフは寵姫の意味がわからなかったが、後でその意味を知ったのだ。モイラを家に迎えて以来、周囲の嘲笑というものに馴れている天上は、ユウセフの笑いを見ないでも敏感に嗅ぎあてている。天上は、ドゥミトゥリイの燐寸を摺る手もとに、われにもなく感動した。誠実の籠った掌だ。そうして、林作への忠誠の、幾分の一かの分け前に、感動している自らの惨《みじ》めさを、思わずにはいられぬ。しかも、モイラの裏切りに手を貸しているかも知れぬドゥミトゥリイの、そうしてこの男自らもモイラの情人と言って言われぬことはない、ドゥミトゥリイからの分け前に……。天上は心の内に苦しい吐息を吐《つ》いた。

「ああ」

 天上はドゥミトゥリイに礼の気持をこめて言い、顔を上げると一服深く吸いこんだ。

 隣室で皿や肉刀《ナイフ》の触れ合う音がしていたが、この時境の扉が開いた。

「お仕度が出来ましてございます。旦那様」

 細かい紅葉が陰とひなたで出ている浴衣を、肥えた体につつましく着、膝に手をおいてかしこまっているやよの様子には、包み切れぬ不安がある。豆を叩いて横に長くしたような形の、上り気味の二つの眼が落つきなく天上を見たが、続けて言った。

「モイラ様はお気分がお悪くて、失礼をいたしましたけれど、唯今お出でになると、……仰言いました」

「そうか。それはよかった。もう気分はいいのだろう……」

 天上は咄嗟《とつさ》に、自分も知っていたように取り繕い、立ち上がった。

「では、何もないが、食事の用意が出来たようだから……」

 と言い、二人の先に立った。

 やよは心もとない天上の足許に手を添えたげに出した手で、懐の手巾《ハンカチ》をとり出し、鼻の上の汗を拭いながら、三人の後《あと》に従《つ》いて食堂に入った。

 コオルド・ビイフに、同じく鶏《チキン》、それと燻製ハムの盛り合わせに、ポテト・サラドゥを添えた皿、秋茄子に小芋、莢隠元《さやいんげん》の炊き合せ、なぞの並んだ卓子《テエブル》に二人を招じ、席についた天上は、ユウセフに、

「このやよというのはこれも、モイラの実家《さと》から来ているのですが、モイラの父親が料理にやかましいので、中々いい味につくるのですよ。そのうま煮ですが、君たちには味が淡《うす》いかも知れんが」

 といい、二人の客に目顔で野菜の煮ものを指し示すと、

「さあ、自由にやってくれ給え」

 と言い、自分も箸をとったが、食慾は全く、無かった。

 やよが運んで来た南瓜のポタァジュをひと口味わうと味がよかったので、幾らか食指が動いた。煮もの、漬物なぞを相手に飯を一膳ゆっくりと摂《と》り、天上は二人の前を繕っている。

(なんということだ。この二人の召使いが傍にいることで、俺は心が和んでいる。いわば敵方の召使いに仕えられていることが、俺の心を柔《やさ》しくしている……)

 ドゥミトゥリイがどこか心得た、礼儀のある男だということは、教練場で見た時からわかっていたが、箸を伸ばす手つきといい、挙措がすべて自然で、いやしさがみじんもない。林作の躾もあるだろうが、生来|気稟《きひん》のある男なのだろう。天上はそう思って、ドゥミトゥリイを見た。天上は林作への恨みに耐えぬ想いとは別に、林作の人柄に改めて尊敬の念を抱くのと一緒に、羨望を感ずるのだ。

(やよのいじらしさも、俺の胸を痛くする程だ。林作氏はこのような召使いにかしずかれている。そうしてあの、憎いほどな、説明の出来得ぬあるものを持っている、体全体が香ぐわしい果実のようなモイラを、彼女の胸の中の愛情ぐるみ、自分のものにしていて、その日々に香いを増してゆくのを、傍にいて飽かず眺めていたのだ……ひょっとすると……あの男は、再びその贅沢な生活を、自分のものにする運命を握っているのかも知れぬ……)

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