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作者:日-森茉莉 当前章节:15388 字 更新时间:2026-6-22 20:37

 その日めごちのフライに、枝豆の莢ごとの甘煮《うまに》、蜆の三州味噌汁なぞで夕食を摂った後、書斎に上った林作は、もよに白葡萄酒を持って来させ、ついでドゥミトゥリイを呼びに遣《や》った。

 ドゥミトゥリイの胸にも、林作と同じ心痛があったが、入って来た彼の顔には爽やかな微笑いが、あった。ドゥミトゥリイは林作に呼ばれて、話相手をするのがこの上なく、楽しいのだ。

「やっと涼しくなったね。畑が大変だろう、秋茄子も小さくなったが、丸ごと塩漬けしたやつもいい。小さい奴の丸煮も、もよが中々美味く煮るようになった」

「はい。わたくしも戴きますがおやよさんとあまり違わないようになりました……」

 やよの名が口脣《くち》に乗ったとたんにドゥミトゥリイは脣《くち》を噤《つぐ》み、二人の間に沈黙が生れた。

 林作がドゥミトゥリイの洋杯《コツプ》に葡萄酒を注いで遣り、ドゥミトゥリイは洋杯《コツプ》を軽く上げ、一口飲んだがその儘両掌で膝の上に、囲むように持ち、顔を伏せた。

 少間《しばらく》して林作が言った。

「やよも、……あれはいい奴だけに……ずい分苦しいことだろう。むつかしい人間関係のひずみをあれが全部|引被《ひつかぶ》っているのだ。あれを向うへ附けてやる時に、気の毒だとは思ったのだが。……ドゥミトゥリイも見ているように、やよというのは誠実だけでやって行く奴だ。困難な中をくぐり抜けるのには誠実が一番近道、ということも、或はあるかも知れんが……だがこの状態もそう長いことはあるまい。何かの形でかたづくだろう……望んではならないことだがね」

 葡萄酒の洋杯《コツプ》を掌にした儘、脣へは持って行かずに、ふと眼を上げたドゥミトゥリイを見|遣《や》った林作の顔には複雑なものが、あった。

(旦那様の中には神がある。そうしてその又奥に……)

 ドゥミトゥリイは心の内に、言った。

 林作はドゥミトゥリイのその内部の声を、確実に捉えている。

(だが俺の敬愛する旦那様だ。俺の大切な、旦那様なのだ。神の後にいる悪魔も……旦那様の中にあるのだから……)

 ドゥミトゥリイは又心に、呟いた。ドゥミトゥリイは林作というものを解りかけて来ている。まだよくはわからぬ、暈《ぼんや》りとしたものとして、見えているようなのだが。

「ドゥミトゥリイは赤の方が好きだったが、白葡萄酒でもいいだろう?」

「はい。この辛い方なら戴きます」

「ドゥミトゥリイもなかなかになったな」

 ドゥミトゥリイは、そう言った林作の顔を仰いだが、林作の眉が曇っているのを見てハッと、胸先が冷たくなるのを覚えた。だが、林作と万事同じ見方をするようになって来ているドゥミトゥリイである。林作の不安が、(万が一)という譬《たと》えの、万という数字を、もっと膨大な数字に置きかえなくてはならない程度のものなのだということに直ぐに心附き、吻と小さな息をつき、再び掌の洋杯《コツプ》に、眼を落した。林作も、ドゥミトゥリイも、モイラが危害を蒙ることを、大根《おおね》では予想していない。たとえそれが胸に浮んだとしても、直ぐに消え去る体《てい》のもので、あった。モイラの危険。それは一つの、仮想のようなものである。

 気を変えるように、林作が言った。

「ドゥミトゥリイは稀《たま》にだが向うの家に行く機会があるから厭だろう。天上君の状態はひどいようだね」

「はい」

 主従は少間《しばらく》、黙って、葡萄酒を味わっていた。

「当分の間だろうが、俺とドゥミトゥリイとの話はあまり愉快なものにはならんね。……馬もいなくなったし、ドゥミトゥリイは朝顔造りと畑仕事だけになったね。一層《いつそ》花でも造るか、あの家のあれ、伊作君のように」

 ふと顔を上げたドゥミトゥリイと林作との眼が合い、二人の顔に同時に一種の苦笑いが、浮んだ。ドゥミトゥリイの眼は、(あんな男と同じことは)と言い、林作はそれを肯んじたのである。

「そうだ。もう牡蠣《かき》の食える月になった。今度神楽坂の田原屋へでも行って生の奴を食うか。ドゥミトゥリイは生の牡蠣はどうだ?」

「はい。おやよさんの酢の物で味は知っております。大好きなものの一つでございます。有難うございます。お供させて頂きます」

「モイラも伴れて行かれるといいが」

「はい……」

 白葡萄酒のほのかな酔いと一しょに、親しみ深い主従の夜は更けて、行った。

 すべてが通じ合い、解け合っている、林作とドゥミトゥリイとの、幾らかの心痛を抱きながらも楽しい、平和な夜であった。

 もよがおどおどと入って来て、庭へ向いた鎧戸を閉ざし、窗掛をひいた。サイド・テェブルの上に眼を遣り、まだ下げなくていいのだと判断したらしく、又肩をすぼめて、退って行った。

 その夜、部屋に帰ったドゥミトゥリイは、部屋の電燈を捻《ひね》ると、五|燭《しよく》の電球の光に清潔に片附いた部屋が照らし出されたが、その黄色い光が隈なく照らす小さな部屋の中に、どこかに希望の明りのようなものが仄見えているのが、胸に来た。又モイラと同じ邸内《やしきうち》に住む日が来るのではないか、という想いが、ドゥミトゥリイの胸に静かな波のように、拡がったのである。

 一人残ってウェストミンスタアに火を点けた林作の胸にも同じ想いが、あった。

    *    *

 ドゥミトゥリイの部屋が、五燭の電球の明りながらもその清潔な生活が照らし出されていると同時に、どこかに明るさがあるのにひきかえ、伊作の部屋は暗かった。同じ五燭の光も暈《かさ》を被《かむ》ったように曇っていて、伊作の気持の尖った、惨めな暮しの様《さま》を、照らし出していた。伊作のモイラを憎む心がこの部屋の毎日の暮しの中で、鑢《やすり》にかけられる細い鋼《かね》のように一日一日と尖って来たのだ。天上がこの部屋を訪れなくなったのは、天上が、自らの苦痛の中に一人で沈みこんでいたいためではあるが、又彼は今自己の苦痛以外に心を遣ることは出来ない状態でもあるが、この棘々しいものが感ぜられるということも、無意識の内に、原因になっていたのかも知れない。天上はモイラに、嫉妬の針を尖らせてはいるが、又、若し自分にそれが出来るなら、オセロオのように、モイラの細い頸に掌をかけて、縊《くび》り殺して遣りたいと、思うこともあるが、彼はモイラを憎んではいないのである。

 その憎んでいない、天上の、憎むことの出来ぬ性格がいよいよモイラに天上を嫌厭させ、モイラの苛立ちを強める。思うさま逆毛を立てた獰猛な山猫のようなモイラは日、一日と、やよをおびやかすようになって行った。

 再び蒸暑さがぶり返して来た九月の半ばの或日、やよはいつも通り、モイラの部屋で呼鈴が鳴るのを聴いて急ぎ足に居間に上った。マントルピイスの上の仏蘭西陶器の洗面器を小卓に下ろし、水入れの水をたっぷり注《つ》いで、オオ・デ・コロオニュをざぶざぶと注《そそ》ぐと、汗の滲んだ下着を脱がせ、白地のタオルを水に浸して絞り、モイラの頸から先にゆっくりと拭き始めた。白の無地の縁《へり》に紺と紅臙脂との細い線の入っている、ごく普通の、どこにでもあるタオルである。林作は下手に洒落た外国製のものなぞを嫌っていて自身もモイラも、これ以外には使わぬ。気のせいかこの頃になってますます緻密になったように思われる、潤んだような皮膚を拭いながら、やよは恐る恐る言った。

「あの、モイラ様、今日あたりパパ様のところにお遊びにお出でになりましては……」

「いかない」

 モイラはにべもなく言った切り、黙って拭かせている。何か心に思うことが、あるようである。思うことがある、というより、心に定《き》めていることがあるように、見える。やよにもそれが伝わり、やよは何故か心の中に戦《おのの》くものを、覚えた。

 昼の間は何事もなかった。

 天上の食嗜の衰えがここへ来て酷《ひど》いので、やよは李と相談をして、夕食の献立を立てた。麺麭は明治屋から焼きたてのものを取ることにし、ついでにウィルキンソン炭酸水を頼んだ。李が鶏を控えめに使った清汁《コンソメ》を取り、小さめの舌平目をシシリア風の軽いフライにした。胃に重いのか、天上は近頃麺麭を命じるようになっている。附合せは薄切りのポテト・フライを附け、独活《うど》と萵苣《ちさ》と淡紅色のトマトをサラドゥにし、麺麭の時にも漬物を摂る天上のために小茄子と白瓜の塩漬けに紅生姜をあしらうことにした。李もさすがにこの頃では天上の健康をひどく憂えている。李とてモイラの、普通の女とちがう点を見ていない訳ではないのである。やよはモイラの食事にも深く心を使い、舌平目は骨を嫌うので平目の切身を選び、モイラに、刺身にするかフライにするかをきいてから李に、同じようなフライに頼んだ。馬鈴薯、人参、生の玉葱に、缶詰の青豆を入れた野菜サラドゥを作り、他に砂糖と塩を少量使った煎り卵と、刻み焼海苔とを用意した。その献立をモイラに告げるとモイラはやや満足そうに、肯いた。あまりたべたい気のない様子である。襟首《えりくび》に滲んだ細かな汗を、オオ・デ・コロオニュを入れた水で拭いて遣りながら、やよは不安気で、あった。どういう訳か、モイラが平常《いつも》よりひどく綺麗に見える。

 モイラがふと振り返ってやよを凝と見た。

 眼があやしく光っている。モイラがこのように妖しく見えたことはない。やよは奇異の念に打たれ、恐ろしいものを見るようにして、モイラを見た。

(いつも、いつも、お美しいけれど……こんなにお綺麗だったことはなかった。今のこのお顔をもし隣の別荘の人が見たら又どんなに……)

 やよは自分が、ひどく不謹慎なことを考えた、と思い顔が俄かに紅潮した。モイラは顔を紅くしたやよを不審げに見たが、

「もうお行き」

 と、言った。

 やよは弾かれたように頭を下げ、退《すさ》って行った。

 やよは夕食が近づくのにつれて、何故か知れぬ不安が胸を波立たせるのを覚え、夕食の支度をしながらも、心が落ちつかぬ。林作に電話で訴えたいとまで思うが、やよに使うことの出来るのは台所の板壁にとりつけてある電話である。又たとえ自動電話をかけるにしても、そんな訳のわからぬことを林作に、ことさらに告げることが出来よう筈もない。隣に並んで肉汁《スウプ》を取っている李にさえ話して見たいように、やよは思った。モイラの嫌っている女《ひと》であると知っていながら、やよは磯子の来訪をさえ、希った。

(旦那様……)

 やよは胸の中で、言った。ふとやよの胸に、夏に稀《たま》に来たことのあるヱセルの姿が、浮んで、消えた。

(おやさしそうな、そうしてモイラ様をお好きになったらしいお嬢様だった……)

 モイラの好む馬鈴薯を茹でる時の、常にやよには楽しかった香いが、今日はもの哀しく感ぜられる。

「馬鈴薯《じやがいも》、それ位でいいのじゃないか、おやよさん」

 李の声にやよは我にかえって、急いで鍋を下して笊《ざる》に上げ、缶から青豆を出して水を切った。

 その日も天上は食堂のポーチの椅子に、寄っていた。右の掌は癖のように、籐椅子の肘突きの一部を撫でさすっている。昼過ぎ、モイラが、そんな天上を尻目に食堂を横切り、奥の客間に入って、シャアロック・ホオムズを一冊抜き取り、又食堂を通って、居間に上って行った。モイラは天上が、茫然とした様子で、いつ見ても、椅子の肘突きを撫で廻しているのが特に気に障るのだ。モイラには、天上がどういう訳で肘突きをさするのか、わからぬ。天上の身動きで、椅子のギイ、ギイ鳴るのも、何ともいえず不快である。やよを取りに遣りたかったのだが、やよにはどれが、モイラのまだ読んでいない分なのかが、わからぬのだ。ホオムズの仮名はわかるだろうが、題名がわからぬ。委しく説明することも、題名を書いて遣るのも、なんとなく面倒で、苛々するのだ。やよは苦労をするので、この頃ではすべてに気がつくようになったが、小学校を四年で止《や》めているので、難しい漢字が判らぬ。

 モイラは居間に入ると寝台《ベツド》にもぐりこみ、本を読み始めたが、時折脣の両端を窪ませるようにしてひき締め、眼をひと所に凝と、据えるようにした。天上の籐椅子の鳴る音が耳についていて、二階にいても聴えるような気がする。それが不愉快なのである。

 平常《いつも》夕飯を摂る七時近くになると、不機嫌ではあるが健康なモイラは、空腹を覚えた。

 階下《した》に下りて食卓につくと、やよの心尽しの好みの料理が次々に、並んだ。透明な清汁《コンソメ》の中に浮かんだ薄い賽の目切りの人参の色と青豆の青とが、モイラの食慾を刺戟した。

 だが、眼の前に年寄った男のような天上が、陰気な顔で匙を脣へ持ってゆくのを見ると、モイラの楽しい食慾がふと、どこかで閊《つか》えたようになる。それも瞬間に消えたらしく、内側に |Lion《リオン》 と、聖母学園の修道女の書くような字体で彫られている白銀《ぎん》色の匙を取り、盆を持って控えているやよをチラと見ると、青豆と人参の浮かぶ清汁《コンソメ》を脣に入れ、美味《うま》そうに飲み下した。

「美味いか。モイラ」

 天上が匙の手を止めて、モイラを見た。針のような嫉妬の憎しみを抑えている溺愛の目である。モイラは黙って、菜の花のような、鮮やかに黄色い煎り卵と海苔の細切りを飯の上に載せて、脣に入れた。天上にとって、既《も》うずいぶん長いように、思われる月日の中で、毎日見て来た、匙で脣に詰めこむような、稚い食い方だ。モイラは桃なぞを食う時、腹の空いた幼児がやるようにしゃぶりつく。好む菜を載せた飯は匙で脣に詰めこむようにする。飽くことなく、むさぼろうとするモイラの、〈愛の肉食獣〉の特質が、ものを食うモイラの脣つきに現れているのだと、林作も見、天上も見ている。あて気のない、可哀らしいふてぶてしさが充分に意識したものになり、裏に悪気を張りつけた無関心を、自分に見せつけるようにするこの頃のモイラに、一つだけ残っているのが、この肉食獣の特質を無意識に現わしている、ものの食い方だ。モイラはやよが密かに思っているように、この家から、又、天上を含めた天上系の人間たちから、離れたいと思っている。だがモイラの心の中には、昨日《きのう》よりは今日、今日より明日と厭になってくる天上を苦しめて遣りたいという理不尽極まる憎しみがある。平常《へいぜい》体の内側に、もくもくとして持ち上がっているモイラの憎悪がこの日、ことにこの朝、モイラの中に、俄かに燃え上がったようだ。

 モイラが、青豆と人参とが浮んだ清汁《コンソメ》の匙を掌にして、自分をチラと見た時、やよは今朝のモイラの凝視を又、そこに見た。

(朝の、あの時のお眼だ)

 と、やよは思った。今度の眼は何気ないようでいて、ほんの一瞬ではあったが、カッチリと極めつける眼である。やよはドキリと一つ、大きな動悸が鳴るのを覚え、モイラが匙で詰めこむようにして、煎り卵を載せた飯を食うのを、暈《ぼんや》りと眺めた。やよの頭は今、緊張し過ぎているために気が抜けたように、なっている。やよの眼はつい先刻《さつき》の天上の、嫉妬の針を抑えた愛撫の眼をも、捉えているのだ。モイラは李が揚げた、焦げ色の綺麗な平目のフライ、粉をはたいて|※[#「火+蝶のつくり」、unicode7160]《いた》めた薄切りの馬鈴薯、青豆の入ったポテト・サラドゥ、等を次々に、美味《うま》そうに食い、飯も二碗半平らげた。食が進むモイラを見てやよは、平常《ふだん》より飯を多めに盛って勧めながら、一方天上の、味の無いものを食うような箸使いを、窃《ぬす》み見た。

(モイラ様はどうかなさっている。やっぱり、モイラ様はこのお家《うち》を、出ておいでになるのだろうか。……でも、モイラ様はほんとうにお強い。男の方のように、お強い)

 又、やよは天上の様子を窃み見た。

(旦那様はお病気になっておしまいになるのではないのかしらん。もうなにか、お病気が出ていらっしゃるのではないのだろうか……)

 タングステンの、檸檬《レモン》色の明るみの下で、モイラの顔は異様に美しい。

 今朝傷痕に塗った白い薬が殆ど落ちて、乾いているモイラの顔は、傷痕があるために憎いほど可哀らしい。洗った髪が厚く顔を囲み、顎から頸、固い円みを持った肩から腕へ、湿り気のある皮膚の上に、モイラの香気が、眼には見えぬ湯気のように迷い出ている。

 不思議なものを見るように、やよはモイラを見ている。

 最後の一口を匙で脣に詰めこむようにすると、モイラは匙を掌に持った儘、不意に、起ち上った。やよが慌てて引いた椅子が、厭な音を立てた。燈の下に濃い睫毛の影を落とし、脣の中のものを、不味《まず》くて飲みこめぬというように、頬を動かしている天上の顔に凝と、眼をあて、モイラは言い放った。

「ピータアって、知ってる?」

 夢から醒《さ》めたようにモイラを見上げ、洞《うろ》のように開《あ》いた天上の眼は忽ち苦渋の色を一杯に、宙に据わった。

 その天上に追い撃ちをかけるように、モイラが言った。

「きっと、知ってる」

 茫然と、モイラの匙を持った掌の辺りに当てられた天上の顔は、惨めに歪んで、モイラの残酷な心を充分に、満たしたようだ。

 天上の醜い顔に凝と、眼をあてると、モイラは匙を卓の上に投げるように落として、部屋を出た。それまで、息を詰めて見守っていたやよが、この時、二人の食事の世話は自分の役と、きまってはいるものの、この場に他の者が入って来てはと気附いた。急いで、食器を下げる通い盆を取りに扉に向ったのと、モイラが擦れ合うようになった。慌てて体を引いたやよの脇をゆっくりと擦り抜け、モイラは階段を上がった。

 一瞬、やよはその小さな眼を見開くようにして、階段を登ってゆくモイラを、見上げた。モイラの仕打ちを逐一見ていたやよの眼にはその時モイラが、|※[#「口+激のつくり」、unicode566d]《くち》の端に血が一筋、糸をひくように膠着している豹のように見えたのである。だが、可哀らしい肉の柱のような腕で手摺《てす》りに掴まり、足音のない足で登って行くのを見ていると、矢張り可哀らしいのだ。大きく開けた時、笑ったように見える、猛獣特有の|※[#「口+激のつくり」、unicode566d]《くち》で、喰いちぎった縞馬の肉を咥《くわ》えて登って行く仔豹のようなのだ。足音の無いところも似ている。やよは一つ瞬きをして、尚も見送っていたが、我に返って急ぎ足で、台所に行き、通い盆を取って引返した。やよは天上の顔を見るのが辛く、恐ろしい。天上の方を見ぬようにして、食器を片附け始めた。三度目に土壜を載せた盆を下げに行った時、階段を上って行く天上の後姿が見えた。よろめくように、上履《うわば》きを落しはせぬかと思われるような足どりで、上って行くのをやよは足を止めて見上げていたが、何か恐ろしいものを見たように頸がすくむのを覚え、逃げるように食堂に、入った。その夜やよは、食堂の電燈のスイッチを切ることがひどく恐ろしく、ついそれを怠った。

 居間に入ったモイラは、幾らか昴奮しているようである。やよを呼ばずに自分で寝衣に着替え、寝床に入った後も眼を光らせ、脣の両|端《はし》をきゅっと窪ませて、辺りを見ていたが、やがてホオムズの書物を開き、続きを読み始めた。八、九頁も読んだ頃、モイラは扉の外を通る天上の跫音を、聴いた。蹌踉《そうろう》として、亡霊のように歩いているのがわかる、妙に軽い跫音である。

(きょうは来ないだろう)

 モイラの、細かな汗の浮いた鼻の先を嘲りの色が掠めた。長い間の怒りと、満足とが綯《な》い交《ま》ざった、頭が熱いような昴奮の中で、モイラは睡りに入った。

    *    *

 その夜遅く、やよは寝部屋の呼鈴が鳴るのを聴いた。柱時計を見ると、十一時を過ぎている。静かな、ひそかな音である。恐ろしさと、不思議な昴奮に襲われていたやよだけが耳聡く、聴きつけた。やよは体を起こした。

(旦那様のお居間だ……)

 やよは素早く、寝巻の浴衣を着直すようにして枕元の帯を締め、五燭の球に替えてある玄関を抜け、二階の天上の居間に急いだ。やよの寝ていた部屋には山口ともえが睡っている。ともえは睡ったら起きぬが、直ぐ隣の部屋に本間いしと石田ウメとが寝ている。二人の内の一人でも眼を醒まして、先を越されてはならない。天上が目をかけて呉れていて、天上の用事も、モイラの用事はいうまでもなく、奥のことは、この頃ではやよの掛りになっているのだが、本間いしと、石田ウメとが、既《も》う充分に嗅ぎつけている奥の様子を、眼で見て確かめようとしていて、折さえあれば奥の居間や食堂に出て行こうとしているのを知っているやよは、寝部屋の扉《と》の開けたてにも気を遣《つか》っていた。床に就いている時には、今日の夕飯の時の恐怖で昴奮していて、初秋の冷えにも気がつかずにいたが、裸足で踏む革の上履きがひどく、冷たい。

(何のご用だろう)

 呼鈴の音で目を醒ました瞬間から、やよの頭を襲った不安は、階段を上がりかけたころから酷《ひど》く、なった。やよの頭には今だに、モイラのことで何か訊かれはすまいかという不安がある。動悸がするので浴衣の胸を抑えながら階段を登り切り、廊下にかかったが、どうにも足が進まない。階段に足がかかった頃から、(お気分でもお悪くなったのでは……)と、思い始めたが、やよは(お気分がお悪いのだったら……いいけれど)と、思うのだ。そのようなことを仮にも思ってはならない、とわれとわが心を責めながら、やよはそう思わずには居《お》れない。かと言ってやよは、天上がひどく気分が悪くて、どうかなっていたら、と思うとそれも恐ろしくてならぬ。とうとう居間の扉の前に、来てしまった。

 ノックすると、

「お入り」

 と、低い声がした。

 呼吸《いき》も乱れていない、確《しつか》りした、静かな声である。やよは恐る恐る、扉を開けた。

 黒革の肱掛椅子に寄りかかっている天上の後姿が、眼に入った。肌寒いのではおったのか、天上は薄地|羅紗《ウウル》の部屋着を着ていた。肱掛椅子の背中から出ている、駱駝色の部屋着の肩を見たやよは、ひどく気の毒に、思った。

(お呼びになれば寝室のお箪笥からお出ししてお上げしたのに)

 とやよは思った。天上は平常《いつも》着替えなぞに使用人の手をわずらわさない。それは林作もそうなので、平常《つね》にはやよは、そんなことを気にかけたことはない。だが食慾のとみに衰えた、近頃の病人じみた天上であることを思って、やよは辛く、感じたのだ。

 やよは天上の居間に、掃除をする時以外には入ったことがない。天上がこの部屋の中で、何を考えているのかと思うと、恐ろしい心持がするのだ。やよは天上が自分を憎んでいるとは、思っていない。だがモイラを憎んでいることは知れているのだ。そのモイラを、可哀らしいと思っていて、どんな振舞いをしようと、可哀らしいと思って仕えている自分なのだ、と思うと、やよは平常《つね》から、この部屋に入ることが恐ろしかった。

「ご用でございますか、旦那様」

 やよは肱掛椅子に近づいて、膝に掌を仕《つか》えて、言った。

「ああ」

 天上はほんの僅か顔をやよの方に向けるようにして、言った。

「遅く呼び出して、済まなかった。……やよも知っているように、俺はこのところ体の具合が悪くて食慾もない。それがわずか宛《ずつ》だが、ひどくなってくるようだ。……それでやよに頼んでおきたいことがある……」

「はい、旦那様、なんなりとお申しつけ下さいまし」

 やよは心から、言った。

「ありがとう。今のところ、これといって病状といったようなものはない。だが不意に、気分が悪くなるようなことが、ないとも限らぬ。もしそのようなことがあったら、伊作が知っているから、医者に連絡をしておくれ。榊《さかき》という俺の体を昔から診て呉れている、……年は大分違うが友人だ。……」

 そこまで言ってひと息|吐《つ》いて、天上は続けた。

「榊はこの間見えた稲本さんより、或は一つか二つは上かも知れない、高齢の人だ。死んだ父の友達なのだよ。それで……いつ向うの方が倒れぬとも限らぬが、その時はその時で、代りも居《お》るし、なんとかして呉れよう。……会社で悪くなれば会社の者がこっちに報せるようにしてある」

 天上はそこで、言葉を途切らせたが、首を深く垂れ、呟くように、つけ加えた。

「榊の家は大分遠い。車で、早くて一時間と四五十分はかかるだろう……それで、早く計らってもらいたいのだ……伊作は平常《いつも》向うの家に居るから、やよに頼んでおきたい。いいか、頼んだよ」

 天上は所々で、何かを考えるように、言葉を切り、又は感慨に耽《ふけ》るように、首を垂れたりしながら、言い終った。

「はい、旦那様。……かならず、仰言いましたようにいたします」

 そう言うとやよはなにか不安げに、天上の横顔を、仰ぎ見た。そうして眼を伏せたが、直ぐに又小さな眼を上げ、瞬《まばた》きをしながら、言った。

「お茶か、何かお飲み物でも、お持ちいたしましょうか」

「いや、要らない。心配しないでいい。もう退《さが》ってお寝《やす》み」

「はい」

 その時天上はやよの方に首を捻じ向け、何か言おうとしたようだったが、黙って又首を元に戻した。やよは首を下げていたので、それには気附かずに、部屋を出た。

 やよは又、革の上履きを足に冷たく感じながら、モイラの部屋の前を過ぎ、寝部屋に帰ったが、部屋の扉を開けるや、本間いしの声がした。天上の居間からの呼鈴だとわかるように、点滅器の明りが点いた儘なのをうっかり忘れていたのである。

「おやよさん。何の用だったの? 今頃」

 黙って帯を解きながらやよが隣室の方に眼を遣ると、隣の寝部屋との境の襖が細く開いていて、電燈の光が差しこんでいる。襖の際までいざって来たのか、本間いしの顔が細めに開けた襖の間から、やよの方を窺っている。

「旦那の部屋だろう?」

 やよの頭に天上の、薄地羅紗の部屋着の肩が浮んだ。

「……まだ何かお卓《つくえ》にお向いになっていらっしゃって、……私《わたくし》に、薄いガウンを持って来るようにと、仰言ったんです……それでお隣からガウンをお出ししてお持ちしたんです。そうして、お着せかけしました……それで、お寒いらしいので、お茶か、お飲みものでもと申し上げたのですけれど、要らないと仰言って……」

「へえ。それだけ? 随分長かったじゃないの。何か仰言ったんでしょう? モイラ様のことなんかをさ」

 豆電球の明りは暗いが、いしの顔は朧げに、わかるのだ。耳の辺りが張り出て、鼻の大きな、淫靡《いんび》なものがちらつく卑しい眼が、その鼻の両脇に据わったいしの顔を、成るべく見ぬようにしてやよは、帯を解き、あら畳みにして枕元に置いた。

「モイラ様のことは別に、何も仰言いませんでした」

「ふうん……そうかい。大したもんだよ、お前さんは。どっちにもいい顔しようってんだから」

 そう言うと本間いしは荒々しく、襖を立てた。

 いしの顔が引っ込むと、やよは吻《ほつ》として寝床に入った。

 その夜やよは、寝つかれなかった。その夜の天上の姿はやよの眼に、平常《つね》にも増して寂しげに映った。ことに、睫毛が見える程度にこちらに向けた横顔が、眼に焼きついていて離れぬのだ。天上の言った言葉の中に、別の意味を見つけることはやよには出来なかった。だが何故こんなに遅く、突然に自分を呼び出したのか、という疑いが起って来た。(この頃は、お加減がお悪くていらっしゃるのだから、夜遅くになって急に気におなりになったのだろうか)考えている内に少しずつ、暗いところが明るくなってくるような作用が、やよの頭に働いてくる。やよは天上が話の間で何かを考えこむようにしたり、吻と息を吐《つ》くようにしたりすることに、気づいていた。暗い寝部屋に来て考えていると、次第に、理由のわからぬ不安が萌《きざ》してくる。やよはふと、背筋のあたりが寒くなるような気分に、襲われ、思わず浴衣の襟をかき合わせ、母親が送って来た薄綿の掻巻《かいまき》をひき被った。

    *    *

 翌日《あくるひ》はよく晴れて、つきぬけるような青い空が眩しかった。やよは毎日の習慣で、蒲団の中に隠している目覚し時計が、鳴るのを慌てて抑えて止め、こそこそと、起き出した。昨夜やよは、味噌汁の出しを、昆布を使って丁寧に取り、枝豆を茹でなぞして、朝食の下拵えをした後《あと》で床に就いた。そうして寝入りかけたところを起され、又|退《さが》って来て床についてからも少間《しばらく》は睡れなかったので、頭が暈《ぼんや》りとしている。顔を洗い、着替えをして帯をきちんと締め、髪を撫でつけると、七輪を戸外《そと》に持ち出し、台所の土間の隅に片寄せておいた、細く割った薪と、新聞紙とを揃え、飯を仕掛けるばかりにした。食の進まぬ天上のために物置から七輪を出して掃除をし、薪を細く割って、飯を炊く用意をしておいたのである。そうしている間にも昨夜の、理由のわからぬ不安が、やよの胸を脅やかしている。自分が起き出る一寸前に、本間いし達の寝部屋の、向う側の襖の開く音がしたのを聴いたので、手洗いに立ったのかと思っていたが、石田ウメが一人、起きて来ただけである。不審に思ったが、やよはその儘台所に入って、磨いでおいた米を仕かけ、李に、飯を見て貰うことを頼むと、急いで寝部屋に入って、モイラの着替えを出そうと小箪笥に手をかけた時、階段の方で何かが転げ落ちるような音が、した。愕いて走って行くと上から、ひき吊った顔をした本間いしが、転げるように降りて来、二三段踏み外してやよの肩を掴んでようやく、踏み止《とど》まった。

 男のような骨格の本間いしの重みでやよはよろめきそうになりながら、何か言おうとしたが声が出ない。本間いしも物が言えぬらしく口を動かしている。

「どうしたの」

 やよが縺《もつ》れる舌で、言った。

「旦那が……冷たくなってる……眠り薬の壜が……皆全部無くなって」

 咄嗟《とつさ》にやよはいしの体を押し除けた。そうして両掌を固く握り締め、腹に力を入れるようにして、思った。

(確《しつか》りしなくては)

 やよは伊作の部屋に行こうと足を動かしたが、膝に力が入らない。ともすると膝が折れて、座ってしまいそうになる足を踏みしめ、踏みしめ玄関を出、裸足なのにも心附かずに、花畑の小径を急いだ。明るい花畑の、眩しいほどの陽差にくらくらとする頭の中で、やよは本間いしが、今日に限ってわざわざ新聞を取りに行って、天上の居間に入ったことに、怒りと同時に胸の痛む程な後悔を、覚えた。

(もっと、気をつけていなくてはいけなかったのに。おいしさんを、旦那様のお居間に入らせてしまった……最後のお顔を見せたくないと、思っていらっしゃったにちがいないおいしさんを……)

 伊作はもう起きていて、花畑に出る支度をしていたらしく、日除け帽を被って部屋の真中に立っていたが、やよの顔を見ると、眼尻《まなじり》が裂けるほど、大きく眼を開いて、一瞬その儘立っていた。

「旦那様が……お薬を……」

 部屋を出ようとする伊作に追い縋《すが》るようにして、やよが言った。

「あの昨夜《ゆうべ》旦那様が……気分が悪くなったら、伊作さんにきいて、榊さんという方にお電話をと」

 もう伊作は花畑を走っていた。

「今そこにかけるんだ」

 やよは体全体が乾し固まったように小さく固く見える伊作の後《あと》から、縺れる足で走った。台所への入口から一寸離れた、やよたちの寝部屋に通ずる板の間に本間いしと石田ウメとが、固まって立って、何ごとか、囁き合っていたが、伊作を見ると、口を噤《つぐ》んだ。

 台所の、調理台の脇の小椅子に、李が俯向いて掛けている。

 伊作はそこに誰がいるかも眼に入らぬ様子で玄関を抜け、台所の電話機に取り附いた。

(伊作さんを除《ど》ければ、李さんだけなのだ……旦那様を思っているのは……磯子様は別だけれど)

 やよは李の姿に眼をあて、一瞬、立っていたが、のろのろと歩き、階段を上がり始めた。階段を上がるやよの耳に、伊作の沈んだ声が入った。水の中でする音のような、曇った声である。

「はい、先生でございますか、伊作でございます。はい。左様で。まだ参って見ませんが昨夜飲まれたものと思われます、はい。はい。どうぞお願いいたします……」

 伊作の声を聴いてやよは、今更のように天上と伊作との繋りを、思った。そうして二人の不倖《ふしあわせ》を、思った。モイラはよく睡っているらしい。

(モイラ様でも……やっぱり、恐ろしくお思いになるだろう……どうしよう……旦那様を見るのはわたしは恐ろしい……でも……)

 と、思い迷いながらやよが、モイラの寝室の扉の前を忍び足に通り過ぎようとした時、後《うしろ》から伊作が追いついて、早口に言った。

「榊様が見えて指図をして下さるまで何も動かさないで下さい。警察に報せなくてはならないかも知れないからね。面倒なことになるといけない。それよりおやよさんは、モイラ様にお報せしてくれなくてはね」

 やよは警察という言葉に怯え、続いてモイラのことに触れられたことに、それもやよには皮肉にも、意地の悪い言いようにも思われる口調で、触れられたことに怯え上がった。やよは天上の居間に急ぐ伊作の背中に向って、懸命に、言った。

「わたくしはまだお部屋に入りませんのです。おいしさんが今朝わたくしの知りません内にお居間に入って、そうして……」

 伊作はよくも聴いていない。全く感情のない、氷のような背中を見せて、もう扉の把手《ノブ》に掌をかけていた。やよは従いて行くことを諦め、重い足どりで、モイラの寝室に引き返した。

 ノックをして、少間《しばらく》躊躇した後、ふと気附いて把手《ノブ》を廻すと、扉は開《あ》いた。モイラは幾度言いきかせるようにして、注意をしても、鍵をかけることを忘れる。奥に出入りする本間いしと石田ウメ、やよの三人の召使いは、非常な時のために各々合鍵を預っていて、常時懐に持っていたが、モイラの寝室だけはそれが不必要な状態になっている場合が多いのだ。

 やよが寝台《ベツド》に近寄ると、モイラが眼を開《あ》いた。

「モイラ様。……おおどろきなさいませんように、……旦那様が」

 モイラは枕を外していて、顎を胸につけたようになっていたが、曇りのある眼が上目遣いにやよを見上げた。朧げに何かを予知したようにも見える。

 やよは声を落として言った。

「旦那様が……お薬をお飲みになって、お亡くなりに……」

 モイラは眼を大きくしてやよを睨み据えるように見たが、曇《どんよ》りとした眼の底に、怯えが動いた。やよは急いで洗面器に水を取り、タオルを絞ってモイラの顔を拭って遣り、そうして、言った。

「モイラ様。……やよもご一緒にまいります。旦那様のお居間にいらっしゃらなくては……。パパ様にはやよが直ぐにお電話をおかけいたします。ドミトリさんがきっと、来て下さいます……」

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