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作者:日-森茉莉 当前章节:15357 字 更新时间:2026-6-22 20:37

 ノエミは智能の点でモイラに劣っていることはないのだが大人の言った話を一度で覚えて、それを自分の智識のようにして喋るというような、捷《はし》こさを持たない。ノエミは朱塗りに銀で月が描かれ、墨絵で梅の枝が、これも銀の花をつけて描かれているモイラの筆入れに、驚異の眼をむき、モイラがランドセルの縁《へり》に引懸《ひつか》かった筆入れを無理に引き出そうとすると、「壊れるわ」と言い、その度に浅黒い手で、その筆入れを撫でるのだ。「よごれるよ。銀のところが黒くなるじゃないか」。モイラは、言うのだ。ノエミは祖母の律が「お前はおいて行かれた子なのだから、我儘は言えないんだよ」という言葉を、何かをねだる度に繰り返すのをきいて、その念を押すような不快な口調と、それを言う時の律の不愛想な、冷たい表情とに、わけのわからぬ憎しみを抱いていた。父親の朔也には、どこか遠いところにいて、そこから自分を見ているようなところが感じられるが、見ていない時が多いのだ。ノエミの父親は、二階の部屋でしていることと、酒を飲むこととの二つに、頭を奪《と》られているように、見えた。モイラと林作とは異《ちが》うのだ。ノエミは父親、学用品、着るもの、すべてについて、モイラに劣等感を抱いていて、モイラに対してはなんでも負けているようになり、そのことはモイラの優越感をいよいよ強めているのだ。

 ノエミはモイラの家に遊びに来るようになったが、林作の書斎にある、手を繋いで踊っている乙女たちが支えている、外国製の置時計や、柄《え》が動物の角《つの》で出来た大ナイフ、瑞西《スイス》のユングフラウにいる牝牛が首につけていた鈴を五つ六つまとめた、扉口《とぐち》につける鐘、――その鐘はモイラが椅子に乗って動かすといい音がして鳴り響くのだ――モイラと林作を数人の外国人と、コックが取り巻いている写真、郵船の模型、美しい少女や、騎士《ナイト》、魔法使い、小人《こびと》なぞの絵のある滑らかに光る絵本。それから、スチームの通った温い自動車《くるま》に、黒毛と赤毛の二匹の馬。それらのものをすべてモイラの説明で見尽し、感歎し尽してしまうまでは、愕《おどろ》きと憧れとの連続で、あった。

 ノエミはモイラを好いているが、モイラに対して、負けたくないという抵抗する心持があり、モイラもノエミを好いているが、勝っている人間のような、優越感が、ある。その二人の間にある不快《いや》なものを取り除こうとしているのが、林作である。林作は或日、モイラが燐寸《マツチ》を擦《す》り、首を低めて差し出す彼のウェストミンスタアに火を点けると、炎をふき消すのを待って膝に抱き上げ、今度はモイラの、咲きかけた薔薇の蕾のような脣《くち》に紙巻を喞《くわ》えさせる。するとモイラは吸いこむと酷《ひど》く苦しいのだと教えられているので一寸喞えてから紙巻をとって、父親の脣に喞えさせて遣る、という、いつもの二人の楽しい時間が来た時、モイラとの間にこんな会話を交した。

「モイラは野原野枝実のパパを見たか?」

「うん、見た。跫音《あしおと》がしないで通るよ。廊下がギュッと鳴って又こっちへくる」

「あの人は詩というものを造る人で、偉い人だ」

    *    *

 ノエミがモイラを呼びにくるのは、律のいない時が多かったが、どうかして律がいる時、モイラは律の眼を嫌った。

「本当にこわいね」

「うん」

 ノエミはモイラの眼に凝《じつ》と眼を据えて、言うのだ。律の穏かな微笑《わら》いの中に、微笑っていない顔があって、モイラを視ている。いやな女教師のような、意地の悪い眼が微笑いの中で、モイラを視た。それに律の眼には、モイラが林作に伴れて行かれてそこで会う人や、モイラの家に訪ねてくる人たちの全部が持っている、モイラへの親しみと尊敬が無い。

「牟礼さんはお近くですから、ちょいちょいいらっしゃって下さいね」

 律がそう言って、砂糖のついたビスケットと牛乳なぞを載《の》せた盆をそこへ置いて又モイラを一寸見てから出て行くと、モイラは、

「家《うち》へ行こうよ」

 と、言うのだ。目を大きくして二人を視ていたノエミは黙って頷き、奥へ何か言いに行くと、怯えたような顔で帰ってくる。そうして二人は手を繋いで、外へ出た。

    *    *

 長い暑中休暇が来て、モイラは、学校という四角い、どこもざらざらした木の建物の中に含まれている縛られた時間や、一切の強制的なものから、解放された。だが御包《みくるみ》や、それに見習う柴田の、いつものしかかってくるような不快からは逃れることは出来なかった。

 或朝、モイラは二階の寝室の寝台《ベツド》で一人で眼を醒ました。日曜は林作だが、他の日は毎日柴田が起しに来る。モイラは柴田が扉《ドア》から顔を出すと、不機嫌に、なるのだ。

 前庭と家の側面の花壇の塀際、家の後の馬小屋と塀の間にも、家を取り巻いている樫の木立ちから、湧き起るように蝉の声が鳴っている。

 モイラは腹匍いになって、耳を澄ました。

 枕の上に肱を張って、組むようにした掌《て》の上に顎をのせて耳を澄ますと、耳がじいんとするような蝉の声の中から明瞭《はつきり》と、廐舎の板壁を蹴る馬の蹄の音がする。モイラの寝室は林作の書斎と廊下を隔てていて家の一番奥に、ある。家の後には馬が二頭並んで繋がれている廐舎があり、馬具や飼料《かいば》の藁なぞを刻む板、なぞの置いてある物置を間に挟んで、馬丁《べつとう》の部屋が、あった。

(御包の日課が済んだら早く馬を見に行こう)

 続いてモイラは馬丁の常吉《つねきち》の顔を、想い浮べた。白人の血が入っているのだが、浅黒く、どこかに鈍い色が沈んでいる曇ったような皮膚の色だ。情感のある、深い眼の色をしているが、いつも胸を張って、真直ぐに立ってモイラを見て微笑《わら》う。モイラを見て微笑うと、善意と愛情が、細くなった眼と、深く窪んだ頬の襞とに、滲《にじ》み出た。モイラは常吉の眼が、好きだった。

 林作の与えたお仕きせの、濃い紫紺の法被《はつぴ》の、広い袖口から突き出た、灰色の木綿の襯衣《シヤツ》の掌《て》を、脚の両脇に下げ、林作の命令を聴いている時の常吉は、剛気な気質と従順なところが現れていて、穏《おとな》しい、だが強い犬のように見える。立っている常吉は、岩のようだった。押しても動かないように見えた。モイラは或日、林作の自動車《くるま》が出て行った後《あと》、立って見送っている常吉の脚に両手を突き、掌と全身に力を籠めて、押したことがある。常吉の体は汗と清潔な木綿の香《にお》いがし、思った通り岩のように動かなかったが、常吉はモイラの押すのにつれて幾らかたじたじとして見せ、「これは強いなあ」と言い、少しよろけて見せた。そうして常吉は大きな掌で、のめりそうになっているモイラを支えた。モイラにも常吉が故意《わざ》とよろけたのは判ったが、常吉の様子には少しも、子供を軽蔑する大人の態度が見えないので、モイラの気持は少しも傷つかない。モイラは一寸羞ずかしそうに常吉を見てから、常吉の、筋が深く入っていて、親指の根元の丘がひどく固い掌に掴まり、一緒に廐舎の方へ歩いて行ったのだ。

「常吉には露西亜《ロシア》の血が入っている」と、林作が客の男に話しているのを傍にいて聴いていたモイラは、何か恐しいものが入っている異様な人間を感じたが、林作の常吉に対《むか》う様子は、その恐怖を充分に拭い去るのだ。林作が常吉に何か言っている時の様子は、御包や柴田に対う時とは違っている。林作は常吉に胸の中を開いて話している。それがモイラにもわかるのだ。常吉が、家庭教師の御包や柴田を、嫌っているらしく思われることも、モイラには気に入っていた。モイラは或日常吉に、「御包、モイラ嫌い、柴田も」と、林作に窃《ひそ》かに告げる時のようにして、言ったことがある。すると常吉はモイラの顔を見て白い歯を見せて笑い、「あんな奴ら、駄目ですよ」と、言ったのだ。その時からモイラは常吉を一層、好くように、なったのだ。

 扉が開《あ》いて、柴田が入って来た。

 何故か、苛々するのを抑えつけているような柴田は、畳ざわりも荒々しく寝台《ベツド》に近づき、抱えて来た水色の服を、モイラが踏み脱いだ掛布の上に投げて、モイラを見下ろした。

「パパ様はもう、お出ましのお支度ですよ。今日はお帰りの遅い日ですからね。おとなしくなさって、あんまり柴田を困らせないで下さいましね」

 何を憤《おこ》っているのか、きんきんした声で言いながら、柴田がタオル地の白い寝衣《ねまき》を脱がせると、蜜を塗ったような肌目《きめ》の上に汗が滲んでいるモイラの裸が現れる。柴田はオオ・ドゥ・コロオニュを入れた水に浸したタオルで、その、緻密な皮膚に蔽われた頸から円みのある固い腕へ、それから胸と、全身を、何度も絞り代えて拭くのである。オオ・ドゥ・コロオニュを含んだ水に、豊饒《たつぷり》と浸された、冷たいタオルが、その、肌目《きめ》の中へ視る者の眼を吸いこんでゆくような皮膚の上を擦ると、清新な、透き徹った、鼻孔を刺すような香料の香いが瞬間、温められ、それに混って、モイラの皮膚から発つどこか鈍く重い香気が懶く、微かに、立ち昇って、柴田の感覚に訴える。それは春の肇《はじま》りの、稚い草花の芽の香いのようであり、花のようにも、思われる。だが柴田には綺麗な感覚は無い。彼女は唯、遣《や》り切れない重い誘惑の、その輪郭さえも掴み得ぬ大きな、茫漠とした塊りを体に、受けとめ、ふと頭が空洞《から》になるように、感ずるのだ。ようよう拭き終って、寝衣《ねまき》を寝台《ベツド》の足元の枠に掛け、襟を四角く開けた薄水色の洋服を小脇に、脇の下に手をかけて、モイラを起《た》たせた。

 もっと手荒くやりたいのを、無理に自分を圧《お》し鎮《しず》めているような、異常さがモイラにも、判った。

「柴田のばか」

「どうせばかでございますよ……旦那様だってどうせそう思っていらっしゃるんでしょう」

 柴田は褪《あ》せた橙色に乾いた、縦皺の太い脣を幾らか顫《ふる》わせるようにして言ったが、ふと、はっとしたように口をつぐみ、

「さ、早くお召替えいたしましょう」

 と、虫を抑えた、撫でるような声で言った。

 今しがた柴田は台所口に、母屋から借りた薬缶《やかん》を返しに来た常吉を見て、その朝は妙に生々しく白く見えた常吉の顔色を見ている内に、冷やかしてやりたい気持がむくむくと起って来た。常吉の酷《ひど》く真面目な顔の表情も、柴田たちの嘲笑の的なのだ。御包や柴田をよく知っている林作は、そんな場面の起り得るのを見越していて、常吉を雇い入れた最初に、常吉に自炊を言い附け、廐舎に並んだ馬丁部屋に簡単な流しと瓦斯《ガス》台をつけ、瓦斯を引いて、洗濯も自分でするように、計らって遣《や》ったのである。その日は常吉が、薬缶が漏るのに朝になって気づいて、母屋に借りに来たのである。

 柴田は言った。

「常さんはいつまで独りでいるの? 今幾つ?」

 常吉は深い眼の色を沈めて、黙っている。

(モイラ様みたいな奴)

 柴田はなおもかさにかかり、

「どこかにきれいなお嫁さんになる人でもいるんでしょう」

 と言った時、常吉の眼が白眼も黒眼も一緒に大きくなって、柴田を射るように、光ったが、次の瞬間鼻から口元へかけて、実に冷たい、嘲りの影が広がった。

「いるとすれば柴田さんのような女《ひと》じゃないね」

 低い声が、言った。

 その時柴田ははっきり、常吉と自分の位置が入れ替ったのを、電流のように感じとった。思いもかけない敗北である。柴田は自分の魅力のない顔かたちをよく、知っていた。身分の低い混血児《あいのこ》は特に冷たい眼で見られる時だったが、常吉の顔立ちはよく、感情の清潔《きれい》な、美しい眼を持っているのだ。

 自分の地位の下にいる、眼下の男にあしらわれた、という意識に、露西亜《ロシア》の混血児《あいのこ》に侮辱されたという意識が加わって、柴田の怒りは大きくなった。

 爆発するものと知らずに、爆発物に手を触れてしまった悔いが、頭の後《うしろ》を襲った。柴田は薬缶を持ったまま台所を、上半身をのけ反《ぞ》るようにして、

「ちょっと、どうお?……」

 と言いかけたが、つい今まで台所にいた御包の姿も、台所女中のやよの姿も、無かった。

 振り向くと常吉はもう背中を見せて、歩き出していた。

 柴田はその時から、遣り場のない憤懣に厚い胸を爛れさせて、いたのである。考えて見ればやよにも、御包には尚更、言えた話ではない。一体自分はあの時何を言おうとしたのだろう? みすみす混血児《あいのこ》の男に恥を掻かされたのだ。

 柴田は今モイラを見ると、凝と黙って自分を見ているところが常吉の眼と同じであるのが、一層苛々した胸を揺《ゆさ》ぶるのだ。

 柴田の鼻の先にモイラのお河童《かつぱ》の髪が、あった。

 林作はモイラの髪を夏の間は一日置き、冬は五日目には必ず洗うことを柴田に命令していた。麩《ふ》のりとメリケン粉を煮て漉《こ》したもので洗い、更に溶いた卵で洗うのである。柴田は見たこともない、死んだ繁世が、その実家の母親から継承した昔式の洗い方だと、いうのである。シャンプウの類を使うことは厳禁している。林作のそういう命令は厳命の感じを持っており、モイラの身の廻りのすべてに亘っていて、入浴をする時の石鹸は橄欖《オリイヴ》入りの外国製のものに限られ、その石鹸を切らさぬようにしなくてはならず、それらの使い走りは稀には常吉も行くが、柴田の役である。その石鹸と、橄欖《オリイヴ》油に、エリザベス・アーデンの、香いのないクリイム、オオ・ドゥ・コロオニュ、それ以外の化粧品の類は一切使わせない。夏の間は朝と、午後との二回の入浴が定められていて、その間にも暑がったり、汗をかけばオオ・ドゥ・コロオニュを半量入れた水で体を拭かせる。暇な時には自分でも拭いて遣り、早く帰った日には入浴もさせた。この朝は林作が特に早く会社に出るので朝の入浴を柴田に命じて略したのである。

「上等な石鹸で始終体を洗っている、清潔な皮膚――林作は肌という言葉を嫌厭していた――の香いが一番いい。香水の香いなどはない方がいい」

 というのは、林作の常に言う言葉である。

 林作は又、

「モイラの皮膚は特別な皮膚だ。大切にしなくてはいけない。悪い香いをつけてはならない」

 と言っていた。林作のそういう厳しい、執念のような遣り方は、林作を(ご立派な旦那様)として敬い、それでなくても主人の命令には従うものと心得ているやよは別にして、柴田にとっては、時には遣り切れない負担を感じさせ、役目を放棄したくさせるものだった。だが林作が彼女に与える高給がその度に彼女を盲従せざるを得ない心持にさせた。

 その日の午後はモイラの髪洗いの日に当っていた。モイラの黒褐色のお河童が厚く、ふさふさと、柴田の眼の下に艶をおびている。

(まだ洗わなくったっていい艶だわ。旦那と来たら、一寸変だね)

 柴田は心の中に、呟いた。

 モイラは柴田の不機嫌に興味を持ったが、忽ちそれは忘れて、林作との朝食、御包との日課が済んでからの、常吉と一緒に馬を撫でたり、人参を遣《や》ったりする歓びへの期待で胸がわくわくしている。

 取り替えたばかりの新しいパンティだけのモイラは、なんとなく嬉しくなって体をくねらせ、両腕で髪をかきまわすようにしてから、腕を頸の後で組み、そんなことをして柴田を焦《じ》らしていながら、

「早く着せてよ」

 と、催促した。

    *    *

 モイラは、自分の分の半熟卵を、匙の先でコツコツと叩いて上手に蓋を開けてくれている林作を向い側から凝《じつ》と、視ている。

 暈《ぼんや》りとした光のくぐもった眼である。それなのにどこか貪婪《どんらん》なものが、潜んでいる。可哀らしい頬や素直な、あまり高くない、なだらかな鼻筋。黒褐色の髪が眉毛の上まで額を蔽っている、長めの厚いお河童に囲まれた稚い顔の中で、髪と同じ色の瞳を上瞼《うわまぶた》にひきつけたモイラの眼は、酷《ひど》く可哀らしいが、底に肉食獣を想わせるものが隠れている。自分に注がれる愛情への貪婪である。愛情を喰いたがっている、肉食獣である。モイラは自分に注がれている愛情の果実を、飽くまでむさぼり尽そうとする。まして林作の愛情は、黄金《きん》の果実の汁のように美味《うま》く、いい香《にお》いがするのだ。殆ど無意識の中でモイラは、母親の乳房に舌を巻きつけ、乳首を強く吸い、噛み傷をさえつけながら無限に出てくる温かな、甘いものを、吸いつくそうとして小さな脣《くち》と咽喉《のど》とを鳴らしている赤子のようにして、林作の愛情を雫《しずく》まで吸いつくそうと、している。その強い意力は、モイラの硝子によって鈍まることで、より強力なものになり、それが林作のすることを見ている可哀らしい眼の中に凝と潜んでいて、林作の心を限りなく、惹くのである。

 モイラは自分ではわからずに、林作の側からだけ、愛情を要求している。モイラの要求は、モイラ自身にもよくはわからぬ、曖昧模糊としたもので、そのために一層強力で、あった。モイラは林作が好きでならない。だがそれは、自分を愛する林作を、好いているのだ。だがモイラ自身はそれを、知らずにいる。

 外へ出るので背広をきちんと着けている林作の胸は、何故か平常《ふだん》の林作の胸より一層モイラを惹きつける。モイラを平気でおいて、何処かへ行こうとする胸だからだ。林作の胸の中に、モイラを愛する心が隙間なく詰まっているのを、モイラは感ずる。愛情の宝庫は無限であった。額をおしつけても、頬を擦りよせても、どうやって甘えても、甘え足りるということのない、無限の宝庫が、そこに、あった。

 きれいに蓋を開けた半熟卵を、匙で皿に抄《すく》い出し、それに食塩をふってモイラの方へ押して遣り、林作は匙でそれを抄おうとしている、小さな〈愛の盗人〉を、視た。愛情に耐えない眼差しである。

(こういう愛の盗人には、相手の愛の涸渇は無いのだな)

 林作はモイラの無意識な愛の強要を、感ずる。

「今度は燻製豚《ハム》だ」

 そう言って林作は腕を延ばしてモイラの前にある燻製豚《ハム》の皿を引きよせ、ナイフで小さな片《きれ》に、切って遣るのである。林作はモイラと一緒に宴会に招かれて行って、スピーチを所望されると、「今子供に肉を截《き》って遣《や》っているので」と言って、断った。それは嫌いなスピーチを断る口実に言うのではなくて、モイラの世話をはじめると、他のことは二の次になる。たとえばアンネット・カウフマンとの会合《ランデ・ヴウ》に出かける時間が迫っている場合にも、何かモイラのためにして遣ることが出来ると、三十分でも、一時間でも時間を延ばしていて、アンネットには他の口実を見つけるのである。モイラの皿にはもうなくなった料理や菓子を、自分の皿から分ける時には、箸や匙で口へ運んで遣る習慣を自分からつけていた。

 或日、繁世のいた頃に長くいて、繁世の死の直ぐ後《あと》で、嫁に行くので暇を取った茂世《もよ》という女が、モイラより一つ年下の子供を伴《つ》れて機嫌伺いに来た時、林作とモイラは丁度食事中だった。

 モイラが大きな口を開けて、林作の箸から刺身を頬ばるのを見て、愕《おどろ》くと同時に茂世《もよ》の頭には甚しい軽侮が生じたらしい。名前が同じような字を書くという親しみもあって、特に繁世が目をかけていたので、繁世の死後も年に一度は顔を出すこの女は、モイラが走るのがのろいことも知っていた。

「うちの子供はもう何でも一人でいたしますし、それによく走りますです」

 茂世《もよ》がモイラが赤ん坊臭い口つきで、刺身の切れを噛み、飲み下すようすを視ながらこう言った時、モイラは、硝子を一枚距てていてものを見るような、独特の眼で、茂世と子供の方を見ると、言った。

「それじゃあ、読本《とくほん》の馬のようね」

 林作は思わず笑い、五つの年になっていて、ものを口へ入れて貰うのを見て、莫迦な子供としか、見得ぬ茂世の、不意打ちを喰《くら》ったような、縮れ毛の束髪《そくはつ》を上にのせた赭《あか》ら顔と、暈《ぼんや》りした顔をしていながら間髪を入れず遣り返したモイラの、もう知らん顔で俯《うつむ》き、匙で自分の肉汁《スウプ》茶碗から飯を口へ入れている様子とを、見比べたのである。茂世は、自分の兄の子供が読本を持っては毎日読み上げている読本の文句を、既にモイラが知っていることに、驚いたのである。

 林作はモイラに何かを口へ入れてやる時、モイラが薔薇色の脣を開けて、赤子が何かにしゃぶりつくようにするのが、可哀くてならない。それでこの悪い習慣を止めなかった。林作はふと、われにもあらず、想うことがある。

(モイラはさぞ可哀らしい接吻をするだろう)

 モイラはあまり食慾が無いようすで、半熟卵の黄身だけと、燻製豚《ハム》の片《きれ》を少し摂《と》っただけで、好きな馬鈴薯《じやがいも》入りの野菜サラダをいつまでもフォオクの先で突《つ》ついている。尖端《さき》の支《わか》れた静脈が一本うす青く出ている、透き徹ったような淡黄色の掌《て》で、氷を入れた水の洋杯《コツプ》を重そうに持ち上げては、水を飲んだ。

「パァパ。氷だけ。もっと」

 そう言って林作の顔に凝と、決していけないとは言わせない、というような眼をあて、まだ水の入った洋杯《コツプ》をまるで無意識のように林作の方へ差し出した途端に洋杯《コツプ》が傾いて、水が滾《こぼ》れた。

 林作はモイラの掌ごと洋杯《コツプ》を抑え片方の手で隠しから手巾《ハンカチ》を掴み出してそれを拭うと、洋杯《コツプ》を奪《と》って置き直した。

「モイラは熱があるんだな」

 林作が卓子《テエブル》を廻って来てモイラの頭を抑えて額に手を当てた時、取り次ぎなしに入って来る習慣の鴨田《かもた》が、入って来た。

 半分白くなり、分け目や生え際がまばらに薄くなりかけた頭髪の下の額には、太い皺がある。冬でも服を着けた首や胸の辺りに暑苦しそうな、籠《こも》ったようなものがあって、細君があるのに精力の刷《は》け口がない男のようなところのある男だ。

「お早うございます。大分蒸しますな。成城のご用は今日《こんにち》は?……」

「ああ、お早う、柴田君にまとめて預けてある。今日は僕は急ぐのでね」

「どうも、遅くなりまして……モイラ様はどうかなさいましたか?」

 モイラは、四五日前に林作の居ない所で自分のことを「モイラちゃん」と呼んだ鴨田を、白くした眼で視た。

(もうパァパに言いつけたよ)

 モイラはその呼び方にいやなものを、受けとった。下品な、という形容を知らないモイラだったが、丁度その下品なという言葉で現すものを、感じとったのだ。鴨田の眼が、自分の裸の胸に止まって、それからパンティの方に移った時の感覚と、それは全く、同じものである。

「いや、一寸額が熱いようだ」

 林作はサイドボオドの抽出しから検温器を出して、モイラを抱き上げ、膝に載せると、モイラの肩を抑え、背中のホックを外して片方の袖を脱がせて検温器を挟ませ、その上から抑えながら、

「電車が混んだろう。役所の用が済んだら遠いが両国の鳥源へ寄って呉れ給え。十二日に十五人ほど夕飯《ゆうめし》を食いに行くから」

「かしこまりました」

「昼飯《ひるめし》は家《うち》でやって行き給え」

「はい、どうも」

 モイラが割り込んだ。

「お料理屋?」

「うむ。モイラも今度伴れて行くぞ」

 柴田が珈琲《コオヒイ》の盆の下に袱紗《ふくさ》包みを持ち添えて、現れた。

 鴨田は元来珈琲というものを飲みつけないので好きではなく、薬を飲むような気がする方なのだが、珈琲を飲むことを洒落たことと心得ていて、どこへ行っても珈琲を飲むことにしている。だが、林作の家の珈琲は、死んだ繁世が、林作の為に、上野精養軒のコックに伝授をうけた遣り方を林作が覚えていて、繁世の死後は自分で遣り、その遣り方を、台所の者が見よう見真似で造ったもので、一応本式なものであって、酷《ひど》く濃いので、鴨田は内心閉口しているのである。

 朝の昴奮が治まったらしい柴田は、地味な浴衣に繁世の遺品を林作が与えた薄茶の八端《はつたん》の帯を、きっちりと締めた姿で、鴨田に珈琲を勧めた後《あと》、袱紗包みを仔細らしく、渡した。

 林作は検温器を振って、

「六度六分あるから夕方はまだ少し上るかも知れない。柴田君、湯は今日は止《や》めて、酒精《アルコオル》でよく拭いて遣《や》って呉れ給え」

「はい、かしこまりました」

 その時門の方で、自動車《くるま》が引き出される砂利の音が聴え、黒毛の方らしい高い嘶《いなな》きが、それに混って、聴えた。

「じゃあ今日は外へ出ないで、家の中で遊んでおいで」

 林作がそう言うとモイラは体を捻《ひね》って林作の首に手をかけ、俯いて斜めに顔を寄せる林作の頬に、自分の頬をよせたが、脣は固く閉じていて、いつもの花の香いを嗅ぐような、可哀らしい接吻は、しなかった。林作はモイラを下ろして遣《や》りながら、微かに熱い額に接吻を与え、卓子《テエブル》の上においた紙入れを内隠しに入れて、玄関へ出た。林作はモイラが接吻をしなかった理由が、鴨田がいるからだと知っていたが、酷《ひど》く物足りない想いで、自動車《くるま》に乗り込んだ。

 御包、柴田、やよが玄関の右側に一列に並んでスリッパの爪先を揃え、鴨田が左側に立って頭を下げているのをモイラは、いつもの光景として眼に入れたが、ふと玄関先の砂利の処に、常吉より一歩|退《さ》がって立っている男を見て、眼を凝《こ》らした。

 伸び放題にしているような黒く濃い髪が逆立っている。陽に灼《や》けて、若いのに皺の寄ったような顔は横を向いていても顎の張った四角い顔なのがわかるのだ。常吉の友達らしいが、常吉のように、強くて、それなのにやさしい、懐しい人格はないのが判るのだ。モイラは兇暴という言葉をまだ知らない。だがその形容が現すようなものを、この男に、感じとった。林作の自動車《くるま》が門を出るのを見送っていた鴨田が、眼を柴田の方へ戻し、その男を顎でしゃくった。

「あれかい? 馬丁《べつとう》小屋の」

「居候よ。旦那様は変なのばかりお置きになるんだから」

「置くって?」

「いいえそりゃ、何処か他所《よそ》へ行くらしいんですけどね」

 御包は素知らぬ顔でモイラをさし招いた。

「お二階へ参りましょう」

 モイラは早く馬を撫でたり、人参を遣《や》ったりしに行きたい。それに先刻《さつき》の不思議な男が気になっている。行って見てみたいのだ。常吉の部屋へ行っていけないのなら、鴨田と柴田の話を聴いていた方が面白いのだ。常吉の友だちのあの男は、やっぱり常吉と同じに何かの血が入っているのだろうか? 常吉をみなは混血児《あいのこ》と言っている。あの男も混血児《あいのこ》なのだろうか?

 御包が日課を授ける部屋になっている、林作の書斎の隣の日本間に入って、大きな紫檀《したん》の卓子《テエブル》を挟んで御包と向い合ったモイラの眼は、窗《まど》に向っている。

 俄《にわ》かに曇って来た半透明な瑠璃《るり》色の空を大きく切り抜いている榛木《はんのき》の、二つに分れた幹が雨気を含んで、水に濡れた青い蛇のような肌をしている。榛木は今モイラにはない自由を、呼吸している。大きな葉は瑠璃色の空の中に透き徹っている。榛木の太い幹の肌は生命を持っていて、大気を吸い、そうして又吐き出している。モイラは知らずに、榛木の謳《うた》っている生命の自由に、共感している。

 モイラはまだオオ・ドゥ・コロオニュの香《にお》いの残っている脚を揃えて横へ投げ出し、故意《わざ》とのように行儀悪く卓《つくえ》に片肱で凭れかかっている。

 御包は読本と帳面とを開いて、蓋を開けて重ねた筆入れと一緒にモイラの前に押しやり、自分の読本を開けてその上に手を置いて、モイラを見た。「モイラ様」御包の言葉より速く、気配を充分に知っていたらしいモイラが、上目遣いに御包を視ると、卓《つくえ》の方に向き直った。

 自分がモイラに向って言う、ヒステリックな言葉も、底意のある注意もすべて林作の耳に筒抜けである。御包は専ら雰囲気でモイラを抑えつけるが、その雰囲気の方も極度に制限の必要がある。林作の気持がモイラの告げ口と関係なく、馬丁の常吉の方により厚いのを、御包は察知している。林作の、モイラに注ぐ溺愛に偏見を持っていない、そうして窃かにモイラの味方につき、常吉に共感を持っているやよの本心も、御包は知っていた。

(厭な仕事だわ。あたり構わずヒスを発散させている柴田さんなんか気楽なもんだ。こんな綺麗な肌をした子供に湯をつかわせて遣《や》ったり、着物を脱がせたり、着せたり、それは焼餅もやけるだろうけど一方ちょっといいに違いないからね。私《わたし》はあの旦那に五十円で飼い殺し。年でも若くて綺麗でもあればアンネットとかいう女の位置だって取り上げてやれないものでもないけれど。アンネットってのはもう二十九だそうじゃないか。旦那が囲《かこ》った時はそれは二十二だったかも知れないが)

「鉛筆をお出しになって」

 一昨日からモイラは巡査の巡の字を繰り返して書かせられている。国語は覚えが速いが、|※[#「しんにゅう」、unicode8fb6]《しんにゆう》の上にはみ出さぬようにくを三つ収めるという作業は、モイラの頭脳のうまく働かない部分の仕事であった。

 今日のモイラは平常《いつも》より特に気の散り方がひどくて、遣らせてみると、この字を教え始めた、中一日おいて前の成績である。モイラの頭の中はあの雲つくような大男の印象で一杯に、詰まっていた。その、横を向いていてももじゃもじゃとして、額からはみ出していた濃い眉毛の、四角な顔の男の立像はモイラを圧倒していた。モイラはあの大男が見たくてならない。モイラがこの大きな男に対して抱いた印象を、大人の言葉で表現すると、モイラはその男に自然な人間を見出したのである。常吉よりももっと自由な中に、生きているように見える。つまり人間と馬との距離の間で、人間よりも馬の方に近づいているような、一人の自然児を、モイラは感じ取ったのだ。

 その男は倉太《そうた》と言って、常吉が神戸の造船所にいた頃、常吉の下で材木運びをしていた男である。母親は行方《ゆくえ》が知れず、父親は監獄にいるのだということを常吉は、聴いていた。そういう境遇を背負《しよ》っていて粗暴な倉太は、誰からも嫌われていた。常吉の庇護を離れてからは口を利《き》く者もなくなり、全くの孤独に陥った。倉太は常吉が、もう少し辛抱していて、自分が呼ぶまで待てと言って遣《や》ったのにも拘らず、今では愛想を尽かしている馬方時代の親方に、手切れのような形で貰った旅費で突然、牟礼《むれ》家の馬丁部屋に、現れたのだ。常吉は倉太と一緒に住んで遣りたいほどの心持を持っていたが、自分の牟礼家における位置が、林作の力で揺ぎのないものになってはいるものの、雇人たちとの間がうまく行っているとは言えない。苦労のない時間といえば、週に一度日曜日に、林作の遠乗りのお供をする、午後の何時間かと、林作が折にふれて言葉をかけて呉れたり、時には馬小屋に姿を見せて、少間《しばらく》話して行ったり、使いに行った時なぞに故意《わざ》と書斎まで持って来させて、話し込んで呉れたりするのと、モイラと遊ぶ僅かの時間だけである。常吉が林作から呼ばれて、牟礼家に来たのはたった二年前のことだ。常吉の父親のイワノフはロマノフという露西亜将校附きの馬丁であった。日露戦争当時、林作の父親の大作は軍医で満洲にいて、戦争の終った時捕虜になったロマノフを、知った。大作はロマノフと意気投じ合うものがあり、ロマノフに頼まれてラアジンという黒毛の、気性の烈しい馬と、ジャンという穏《おとな》しい犬とを日本に連れ帰った。ジャンは少年時代の林作の無二の親友であった。家が戦火で死に絶え、ロマノフも捕虜のまま死んで、一人になったイワノフは、大作を慕って日本に来た。そうしてラアジンの死んだ後《あと》、大作は新しく馬を飼うことはしなかったので、大作の友だちの世話で神戸に住みついて結婚した。そういう林作の先代と、常吉の父親との繋りで、常吉は牟礼家では一種特別な位置を持っている身の上だとはいっても、弁《わきま》えのある常吉は、直ぐに他家《よそ》へおさめるにしても、自分の附属物のような人間を、たとえ一日でも二日でも、連れ込むようなことはしてはならないと、思っていた。常吉は自分の父親のイワノフが一人の馬丁に過ぎなかったが、立派な男だったということを林作からも言われ、自分もそのことに誇りを持ってもいた。大作と林作との恩義を重く、胸においている常吉は、ロマノフが大作に託したのはラアジンとジャンであって、父親ではない。後《あと》の悲惨な境遇を知れば、馬丁も託したかも知れないが、それは仮定である。そういう遠慮も固く、持っていた。それでじゃじゃ馬のように聞きわけのない倉太の出現に、酷《ひど》く気を遣《つか》っているのだ。

 モイラは巡の字の練習に飽き飽きしていた。

(常《つね》の部屋に行ってみたい。こんな勉強より柴田とだってお湯に入る方がずっといい。やよとだと、尚いいんだ。遊ばせてくれる。石鹸《シヤボン》玉も慥《こしら》えてくれる。柴田も御包も、病気になればいい。そうして死んでしまえばいい)

 モイラは鉛筆を持ち直すと、鉛筆が折れるほど力を入れて、帳面の欄外に縦の線を何本も引き、鳶色の瞳を上瞼《うわまぶた》にひきつけ、白い眼で御包を視た。(ばか)とでも言っているような、その眼の中にはだがさすがに幾らかの怖れもある。御包の凝視に会ってモイラは二つ三つ、瞬《まばた》きをした。その怖れの色は御包に一応の満足を与えると同時に、或種の嗜虐的な快感を齎《もたら》すのが、いつものことだ。

「そういうことをなさってよろしいんですか? パパ様だっていつまでもいいとは仰言《おつしや》っていませんよ。これはほんとうのことですよ」

(嘘つき)

 モイラは脣を固く結んで、無言の抵抗をみせる。

 どういう積りか、この頃洋服になった御包は、ブリキのように尖った白い開襟《かいきん》襯衣《シヤツ》の襟に威厳をみせ、黒い山のような、黒地|羅紗《ウウル》のスカアトの膝を揃えて、モイラを見下ろした。でっぷりとした浅黒い、道徳のいやな芳香を充分に放つ女の顔は、仔細らしく結んだ脣の周囲に醜い皺を刻んでいるが、眼の底には蔽いようのない倒錯した色情の片鱗のようなものが、見えている。

「お判りになったんですね。今日は国語はそれで勘弁《かんべん》して上げましょう」

 幾らか溜飲を下げた顔で、御包は言い、次に二|桁《けた》の引き算を三つ程やらせた上で、モイラをも、自分をも、日課の倦怠から、解放した。

    *    *

「常《つね》」

 モイラは平常《ふだん》より小さな声で、呼びながら、常吉の部屋の扉を敲《たた》いた。

「モイラ様ですか。今常が開けますから手を離しておいでなさい」

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