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作者:日-森茉莉 当前章节:15364 字 更新时间:2026-6-22 20:37

 常吉の言うのが聴えて、一寸間を置いて扉が中から開いた。

 部屋にはウェストミンスタアの煙が充満している。入って右側の、裏の通りに面した窓は板と板との間に太い隙間のある縦板《たていた》が嵌《は》まっているが、中はむっとする程暑い。常吉は林作が、鴨田にも与えない紙巻を自分に与えるのを知っていて、気を遣《つか》って吸っているが、倉太がたてつづけにふかすので、紙巻を取り上げ、扉を締めたのだ。

 突き当りの壁に寄りかかって蹲《うずくま》り、無骨《ぶこつ》な掌《て》で膝を抱えているのは朝の男だ。眼を当てた途端にモイラは、立ち竦んだ。大きな四角い顔の中の道具が、ひしゃげているわけではないのにひしゃげてみえる鼻へ向って眉も眼もそこへ引張られて、平家蟹の甲羅の凸凹に似た顔は、眉が鍾馗《しようき》のように濃い。その濃い、顰《しか》めた眉の下で、モイラがみたことのない、野獣のような眼がモイラを射たからだ。

「おい、座れ。モイラ様だ。話しただろう?」

 男は片膝はもとのまま、鬱陶《うつとう》しく座り直し、立てた膝の上に肱を突いた手の指を悪魔の爪のように折り曲げて脣の辺りにあて、指を噛むような表情で、依然として、モイラから眼を離さない。

「モイラ様。こちらへお出でなさい」

 そう言うと常吉はモイラを、椅子にかけた自分の膝の脇に抱えよせて立たせ、耳に顔を寄せて、囁いた。

「これはわたしの友だちでね。今困ったことがあって、あんな顔をしているのです。馬のところへ行きますか? 常と」

 常吉はモイラのここへ来た目的を判っていたが、愕いたのを知って、そう言ったのだ。

 モイラは凝と倉太から眼を離さず、常吉の洋袴《ズボン》に指に力を籠めて掴まり、微に頷いたようだ。

 常吉は扉口で倉太を一寸振り向き、モイラを庇《かば》うようにして、部屋を出た。

 外へ出るとモイラは黙って常吉を軽く押しのけるようにした。

 常吉はそれを掴まえるようにして顔を寄せ、

「又遊びましょう。もう昼御飯ですからね。又|五月蠅《うるさ》く呼びに来るからお帰りなさい」

 モイラはまだ怖れの充分に残った眼で常吉の顔を仰ぎ、深く頷くと、走り出した。

 常吉はのろい足どりで走り去るモイラを少間《しばらく》の間見送り、部屋に入った。

 昼飯後、モイラは二階の窗から倉太が門を出て行くのを見た。モイラは柴田に打《ぶ》つからぬように足音をぬすんで、玄関から外へ出た。玄関を出ると、門の脇に常吉が立っていて、近寄って来た。モイラを待っていたらしい。

「常。飼料《かいば》もう遣《や》ったの?」

「モイラ様がお遣りになるのに人参が残してありますよ」

 二人は手を繋いで裏へ廻って行った。モイラは平常《いつも》のように、常吉に抱き上げて貰い、赤毛の、毛並みが湿っているように艶をおびて見えるが、撫でると乾いていて、硬い毛並みの、生温い鼻面《はなづら》を、撫でて遣り、赤毛の顔を抱いて、頬を一寸擦りつけ、常吉の手に持ち添えられて西洋人参を、与えた。

 モイラは赤毛の方だけをかまうことになっている。黒毛の方は林作の乗り馬だが、気性が烈しく、怒り易いので、黒毛の方は触《さわ》ってはいけないと、モイラは林作からも、常吉からも、いい聞かされていた。

「あの人、もう直ぐ帰ってくるね」

 常吉はモイラを下ろし、馬丁部屋の入り口に、腰を下ろした。

「あいつはわたしのように他所《よそ》のお邸へ馬の面倒を見にお勤めするようになりたいと思って、やって来たのですが、わたしのように、お部屋を戴いて。判りますね。あいつはいい奴なんです。だがあんなでね。お辞儀をすることもしない奴だから気に入られなくて又遠い国へ帰って行くことになると思うのです」

「じゃあもう直ぐ又いなくなるね」

「そうです。どっちにしても此処にいるのはあと二日か三日ですからね。帰って行ったら又いつでもお出でなさい。赤毛も、常も、モイラ様を好きで、お待ちしていますからね」

「やよも、だよ」

「そうですね」

 常吉が、微笑《わら》った。林作の微笑いとは質《たち》がちがうが神経の細かな、やさしい微笑いである。

 モイラも一寸微笑いを浮べたが、ふと怯えたように眼を大きくして、常吉を見ると、

「もういく」

 と言い、

「一緒に来て」

 と、常吉の掌を掴まえた。

 常吉は頑丈な体を屈めるようにしてモイラの掌をひき、外へ出ると、モイラを凝と見て、秘密を打ち明かすようにして、言った。

「あいつがモイラ様を恐しい顔をして見たことを、パパ様に言わないで下さい」

「いわないよ」

 そう言うとモイラは眼を大きく見開いて常吉を見、骨張った常吉の掌を稚い手で一寸、締めるようにした。

 涙が溜ってそうなった、とでもいうように、下瞼《したまぶた》が一寸膨らんだモイラの大きな眼は、無意識の媚のようなものを湛えて常吉の胸の中に、いつもの深い愛憐の情を、喚び起した。

(大きくなられたら、どんなに素晴しい美人におなりになることだろう)

 常吉は、モイラが大きな眼で自分を見詰めることがある度に、その後《あと》で想うのだ。

    *    *

 柴田はその日の昼飯後の検温で、林作が気にかけていたモイラの熱が、朝と全く同じなのを知ったが、酒精《アルコオル》で拭く面倒を嫌って、朝より一分上がったことにしておいて、自分の部屋に籠り、昼寝をむさぼっていた。だが柴田のこの横着は偶然、モイラの危機を一層恐しいものにすることを防ぐのに役立った。この日の朝の体温はやはり、モイラの大病の危険信号で、あったのだ。御包も楽寝をきめこんでいたその午後、モイラは台所にいた。花壇にいたモイラは、倉太が出て来たのを見て逃げこんだのだ。やよに迎えられて台所に上がると、倉太の恐しさが頭から除《の》いて、一寸の間聴えなかった、雨のような蝉の声が又|喧《やかま》しく鳴りはじめた。やよは固く肥えた大きな肩を怒らせて、上り口につくばい、汗を浮べた後首を俯向けてモイラの靴を直すと、紙袋に入った甘食《あましよく》を一個、食卓の抽出しから素早く出して、モイラに呉れて、微笑った。

 剃りつけたように三角型になった、薄い眉と、小さな眼鼻、大きな厚い脣、全体に角張って長い顔は殊に顎が角くて長く、色も黒い。詰らない顔だが一応眼鼻立ちは整っている柴田と御包とが、

「おやよさんもどこかの混血児《あいのこ》じゃないの?」

 と言っていたのを、モイラは聴いていた。やよがその顔を羞ずかしそうにして微笑うと、モイラは彼女の、粉やソオスで汚れた、白く大きなエプロンに顔を押しつける。頬や、露き出しの腕に触れるやよの腕は冷たく、滑《す》べ滑《す》べしていて、健康な田舎女の香いはどこか冷たい生の牛肉の香いに、似ていた。そうしてやよの香いの中にはいつもソオスの匂いや、食用酢の匂いが、混っているのだ。だがこの日モイラは、やよの腕や掌を、平常《いつも》より酷《ひど》く冷たいように感じた。少間《しばらく》の間モイラはやよを相手に、赤毛と常吉とがモイラを好いていることや、常吉から聴いた倉太の話などをして聴かせていたが、その内にやよはふと不安なものを、感じはじめた。平常《いつも》のモイラなら、直ぐに自分のエプロンから離れて、手に持ったものを食べ始めるのだ。そうして食べながら話をするのだが、今日は膝に凭れかかったままで話している。それにモイラの話し方は上《うわ》の空で、何かに浮かされたようなところがある。体も幾らか熱いようだ。モイラは、ふと、黙った。胸の中で匂いのない、味もない、空気の塊りを呑みこんだような、厭な気分がしたのだ。少間《しばらく》してモイラが短い、狐の鳴くような咳をした時、やよはてっきりモイラがどこか悪いのだと、信じた。

(モイラ様が大変だ)

 寝ている柴田を起しに行けば不快《いや》な顔をされる不快も忘れ、もう喋らなくなって、ぐったりと寄りかかってしまったモイラを抱き上げ、甘食をもとの場所に急いで蔵うと、やよは柴田の部屋を、ノックした。

    *    *

 その日の夜の二時に、モイラの熱は三十九度七分に昇った。病名は百日咳である。最初の、狐の鳴くような短い咳も、連続して起る咳も、その特徴であった。咳を続けてするようになり、咳と咳との間が縮まって行った。

 林作はアンネットに会う日で、自宅に近いアンネットの家に行ったが、その日は着くと直ぐ横浜にドライヴをして、二人で海浜ホテルに夕食に行っていて、柴田の連絡を知ったのは十時、柴田に電話で様子を聞いて、運転手の照山に危険のない程度の速度を出させて家についたのは十時を大分過ぎていた。自動車《くるま》の中で林作は、横浜から連絡をしなかったことを烈しく、悔いた。柴田はアンネットの家に電話をかけた直ぐ後、稲本軍医を呼び、看護婦も二人頼んで一人が附いており、一人は病室になったモイラの寝室の隣に休ませてあった。柴田は最初の発見を、自分が台所へ行って、やよに凭れているモイラの様子を見て検温した、というようにして報告した。昼食後、六度七分あったことにして入浴を中止したことに、柴田は大きな危難を免れたような安堵を、覚えた。

 林作は、御包と二人だけで玄関へ出迎え、林作の上履《うわば》きを揃えたやよが、平常《ふだん》林作に向って直接に話す習慣がなかったのにも拘らず、正直な愕きと、不安を面《おもて》に表して、モイラの最初の様子を話したのを聴いた時、柴田の嘘を知り、同時に林作が、台所働きの女がモイラを抱いたり、膝に凭れさせたりすることを、口には出さぬが嫌っているのではないか、という臆測をして柴田が故意に言った言葉であることも、知った。それは柴田というものをよく知って使っている林作にとって、愕くことではなかったが、その時林作は、平常《ふだん》から、幾らかは解っていたやよの、モイラへの熱い愛情を知って、自分と常吉と同じくモイラを愛する人間の一人としてのやよというものを、認めたのである。

 やよは、林作に玄関で話したことが、御包の口から後で柴田に知れ、柴田から小酷《こつぴど》く遣られた。やよは一人台所で、その黒い、長い顔を涙で汚《よご》して泣き噎《むせ》んだのだ。

 寝台《ベツド》の上に横向きに、半分|俯伏《うつぶ》せになって、上になった腕を不自然な形に折り曲げているモイラを見た林作は、胸を衝《つ》かれた。黒い、滲んだ影を造っている睫毛を閉じ、脣《くち》を少し開けている顔にも、曲げた腕にも汗が滲んでいる。看護婦が額を拭こうとするとモイラはその手を押しのけ、暑そうに、タオルの掛布を踏み脱いだ。二三日前に、蚊に喰われて掻き壊した痕を巻いて遣《や》った繃帯が、曲げている脚に喰いこんだようになっているのが、哀れである。

 林作が看護婦からタオルをとって額を拭こうとした時、モイラが眼を開《あ》いた。

「お咳は唯今一寸治まっております」

 看護婦の言葉に反抗するようにモイラが、

「暑い」

 と言って掛布を脚で寝台《ベツド》の裾の方へ押し遣ろうとした。咳の発作が起きて、モイラはトマトの混った、薄赤い汁を吐いた。

 林作がタオルで受けて始末をし、別のタオルで額を拭いて遣ると、その手をおし退《の》けるようにし、

「厭」

 と、モイラは哀しげに、差し逼《せま》った声で言った。

 露《あら》わになった淡黄色の、少しおでこの額の下で、充血し、恍惚《うつとり》した眼が睨《ね》め上げるように、した。

 林作が吊らせた白麻の蚊帳の、莫とした靄のような暗さや、窓も扉も締め切った部屋の鬱陶しさ。火のような自分の体の熱さと、たて続けに出る咳の苦しさ、それらのすべてを哀しく、心細く想い、それに必死に抵抗しようとしている、そうしてそれを林作に訴えている、眼である。

「よし、よし、もう直ぐに快《よ》くなる。モイラは上等だ」

 水屋に氷嚢の氷を代えに立った野沢看護婦が、ふと聴きとがめるようにチラと、振り返った。

 モイラが湿ったガアゼや亜麻仁《あまに》油紙で厚くなった胸の辺りを捩《よ》じるようにするのを見て、林作が野沢看護婦に、言った。

「胸の湿布を代えて遣《や》ってくれ給え」

 野沢看護婦は素直に「はい」と応えて、水屋の傍に置いた瓦斯ストオヴの湯を洗面器に注いで、用意を始めたが、「はい」と応える言葉のアクセントの中に(判っています。今取り代えようとしたところです)という反抗が隠されていて、万事|玄人《くろうと》意識を表面に出してくる浅薄なところがある。牟礼家の雇人たちがモイラを、「モイラ様」と呼ぶのを聴いては、変った名と、特殊な呼び方を聴きとがめ、又林作がモイラを甘やかす時の特殊な言葉遣いにも聴き耳をたてる。四時間目の交代時間が来て、千賀谷《ちかや》看護婦が代ると、モイラが明らかに、歓んで迎えるのが判った。

 翌朝林作は、柴田に電話をかけさせ、看護婦会に、野沢看護婦の交代を、申込ませた。代って来たのは愛嬌のない、だが誠実らしい女で、千賀谷看護婦同様注意深く、親切なところが見える。林作はひとまず安堵した。

 その夜の八時に、モイラの熱は四十度になり、咳の発作は頻繁になった。その儘、三十九度六、七分と四十度の間を昇り降りするのが十日余りも、続いた。

 或日の夜モイラは、熱のために幻視を起したらしく、突然天井を見上げて怯え、

「蜘蛛……蜘蛛……」

 と、叫んだ。

 そうしてまるで無数の蜘蛛が天井から落ちてでも来るように、掛布の上を払うような手つきをする。

 それはひどく奇妙な、恐しい幻視である。天井から、薄い灰色の、無数の蜘蛛が、その細い脚を繋いで囲むようにして、大きな球形を造り、フワリ、フワリと、落ちてくるのだ。球は大きなのも、小さなのもある。大きなのは気味の悪い、折り曲げた蜘蛛の脚が一本、一本|明瞭《はつきり》と見える。それらの蜘蛛は掛布に触れると石鹸《シヤボン》玉のように消えるのだが、あとからあとから天井から湧くように、際限なく、落ちて来た。

「蜘蛛……蜘蛛……」

 モイラは叫んだ。

「よし、よし、大丈夫だ、大丈夫だ、パァパが此処にいる」

 林作が掛布の上を払う真似をして遣る。

 それは五分ほど続いた。

「どうだろう、君」

 別室で林作が尋ねた時、稲本軍医は、心臓が確《しつか》りしているから心配はないでしょう。と、答えた。そうして、

「経過を見ないと判りませんが……」

 と附け加えた。

 咳の発作は注射を搏《う》っても五分と止んでいないので、食べたものの殆どは出てしまう。十日余りの間に、モイラはみるみる痩せた。湿布を代えるので裸にすると、肉附きがよくて、天使を描いた絵のようだったモイラが、これがモイラかと思うように痩せて、湿布を除《ど》けると胸は芥子《からし》の刺戟で紅黒くなっている。食物を補う注射と、二種類の注射を搏つので、上膊は両腕とも固くなって、絆創膏の痕で隙間がないようになった。顔だけは反対に腫れて大きくなり、眼は両側から引張ったように細くなった。

 咳の発作が起きると、赤子の時のようにモイラは両脚を縮め、腕を固く胸に抱いて、咳をうけ止めようとしている。咳と咳との間で、呼吸《いき》を内へひきこむが、ひき切らぬ内に次の咳が出る。呼吸《いき》をひきこむ度に、細くなった咽喉の中で、壊れた笛のような音がする。

 モイラの苦しむのを見ていて、何もして遣れない。

 林作は寝台《ベツド》の脇の椅子に、じっと腕を組んでいた。

 二三日前に、稲本軍医に立会った九鬼博士の診断も、稲本軍医のそれと異なるところは、なかった。

 発病の日から半月の日が経った。大分前から、意識が幾分朦朧としているのと、声が嗄れているのとで、何か言っても林作と、千賀谷看護婦の他には何を言うのか判らないようになっていたのが、とうとう声が全く出なくなって、咳の発作の間に何か訴えようとするらしいのだが声が出ずに、ただ頬の辺りの筋肉を、指で引張られたように、かすかに歪めるのである。

 それを、どうして遣ることも出来ない。

 或夜、腕を組んで動かずにいる林作の膝の上に、涙が一滴落ちるのを、氷嚢を代えて退《すさ》ろうとした千賀谷看護婦が、見た。驚いた千賀谷看護婦の眼に、続いて涙は一滴、二滴、滴《したた》った。感動した千賀谷がそれを、食事の為に階下《した》に下りた時に披露したが、彼女と同じように感動したのはやよと、やよを通じて、それを聴いた常吉とである。

 御包と柴田とは、表面では感動を装っていたが、腹の中では不機嫌の眉をひそめた。モイラのように、現在は父親の溺愛を独り占めにしていて、未来は未来で、男の愛情というものを、あり余る食物のように貪《むさぼ》り喰い、男の愛情というもので、自分の心と体との周囲を固めることが可能なように思われる、そんな女の子の生活に平常《ふだん》密着して、日夜それを見ていて、そういう女の子というものと自分の境遇とを比べて見ると、世の中というものが不条理なものに、思われる。その考えはモイラの不幸を眼の前にしても、変らなかった。モイラのような女の子と比べて、生命《いのち》だけは自分たちの方が永いということでもなくては、世の中が不合理だと、彼女たちは心の奥底で、信じている。

 林作が、独逸《ドイツ》人の女のところへ、連絡はしているのかもわからぬが、金曜日が来ても顔を見せる程度のこともしている様子がないのを、彼女らは知っていて、そこに林作のモイラへの溺愛の深さを見てとると、彼女たちは見知らぬ独逸女の肩を持ち、けしかけて遣りたいような、異常な心理になって、いた。

 それに加えて柴田と御包とは、モイラの発病後は、各々自分の持場の用事がなくなり、台所女中のやよの方がむしろ、千賀谷看護婦の気に入っており、林作の信頼をも得て来ていて、何かと働き、功名をあらわしている。そうして牟礼家の中で重要な位置を持ったかの如き観を呈していて、一種点を稼いでいる形になっていることにも大きな不満を、潜めて、いた。

 林作は普段着に着替えるのと、朝会社に出るために背広を着るのと、会社にいる時間と、重要な手紙を書く以外はモイラの傍に附ききりで、吐く時にはタオルを顎の下に具合よく挟んで遣る。吸い飲みの番茶を飲ませる。そうして咳の発作が起ると、胸が裂けるようなのを、耐《こら》えた。睡っている間でも、林作が傍にいないと、モイラが直ぐに知って探すので、部屋の隅に枕と掛けるものを置いて、時折二三時間横になるようにしていた。

 着替えなどをしに、林作が階段を下りて行くと、廊下の角《かど》や、階段の下にやよが立っていて、林作を見ると何か悪いことでもしていたようにして、こそこそと台所へ退《さが》ろうとする。

「疲れるから休んでおいで」

 林作はそう声をかける。

 やよは無言で、感謝に満ちたようすで、頭を下げて林作の通り過ぎるのを、見送った。

 常吉はやよが氷を買いに出たり、果汁にする果実《くだもの》を買いに出たりするとよく、部屋から飛び出して来て、モイラの様子を尋ねた。毎朝と午後、林作の送り迎えの時に、様子をきいてはいたが、午後から後《あと》の様子が不安なのだ。やよに湯を沸かす用でもあると常吉はやよに代って買物に、走った。常吉は、モイラが何か恐しいものを見て、払いのけるような様子をした、という話をやよがした時、酷《ひど》く心を痛めた。「蜘蛛」と叫んだ、ということを後からきいても、常吉の不安は去らなかった。もう何日も見ない、そうして酷《ひど》く痩せたというモイラを、倉太の幻影が苦しめたのではないか、と常吉は、思うのだ。

 倉太はもう、居なかった。就職は無理なので、林作が帰りの旅費の他に、親方の出したという額より余分に金を与えて、神戸に返したのだ。

 或日常吉は、庭のちょうちく草を三輪持って、遠慮勝ちに病室の扉を開けた。やよから、モイラの気分がいくらか好《よ》さそうだと、きいた日である。常吉は花を持って、寝台《ベツド》にいざり寄った。

「モイラ様。お好きな花を持って来ました」

 モイラは細くなった眼をおし開けるようにして、常吉を見、花を見た。

 常吉は水屋で、持って来ていた花壜に花を挿し、枕元の、モイラから見える卓子《テエブル》の上に置き、もう一度モイラを見、名残り惜しそうにして、退《さが》って行った。

 繁世《しげよ》の死後は自然に遠くなっていた繁世の父親の郷田重臣《ごうだしげおみ》の心痛も、ひどかった。彼は家《いえ》の近くの琴平神社に願をかけて、好きな茶と煙草を断ち、三日置き、五日置きにはモイラを見に来ていた。モイラを林作に負けぬほど愛している重臣は、来ると林作の脇に座り、長い間様子を見ていて、暗い顔で、帰って行った。重臣は林作を好いてはいたが、林作がモイラを自分で教育しないで、御包や柴田のような女をつけておくことには不満で、モイラを見にくる時でも、御包と柴田には軽く会釈をするだけである。やよと常吉には言葉をかけて、ねぎらった。盆暮に牟礼家を訪ねる時にも、彼らに内々で渡すようにと、言って、小遣いを林作に託していたのである。

 発病した日から二十日の日が経ったが、モイラの熱は下がらなかった。そうして二十二日目の午後、九鬼博士は、後二十四時間、という宣告をしたのである。(九鬼が死ぬと言った病人は必ず死ぬ)というので有名な九鬼|胤道《たねみち》の診断である。

 だが林作は万に一つの望みを捨てることが出来なかった。モイラがまだ何か食おうという気のあることと、精神が、幻視を起した時以外は確《しつか》りしている、こととが、林作を支えていた。

 或日モイラは、林作の手から蜜柑の袋を受けとったが、両手で袋にある筋を、極く細かいのまで丹念にとり除いた。その手もとが驚くほど確かだったのが、林作をひどく心強くさせたのだ。

 又、或日こんなことがあった。尿に蛋白が出て、腎臓病を併発したことが判り、十五六日目から酸味と、妙な甘みのある、ひどく飲み難《にく》い水薬が与えられていたが、モイラがその水薬を飲むと戻すし、あまり飲み難そうにするので、千賀谷看護婦がそれを止《や》めておこうかと、眼顔で林作に計ったことがあった。その時モイラが、

「飲まないと直らない」

 と、明瞭《はつき》り言った。

 林作は、千賀谷看護婦と眼を見合った。そうして、こんな様子なら、ひょっとしたら、という、無言の会話が、林作と千賀谷看護婦との間に交されたのだ。

 それはどちらも、〈九鬼の宣告〉を受けた直前の出来事で、一日か二日前のことである。

 林作は殆ど睡らず、彼は小さなストオヴの上にかけた薬缶の湯気と、昼夜締め切った部屋の中の、澱んだような空気の中で、朝も、夜もない、境い目というもののない日夜の中に、いた。後《あと》二十四時間ということが絶えず林作の頭にある。時間を忘れていようとしている林作の耳に、秒を刻む時計の音が、モイラの生命《いのち》を刻む音のように響いていた。

 林作は、アンネットの書棚にあった、『タンタジイルの死』という独逸の戯曲を読んだことを、悔いていた。それは「死」の恐怖を描いた二幕物で、母親が子供を抱き締めていて、嫩《わか》い叔母や姉、老僕などが子供を取囲んで護っているのにも拘らず、一寸の隙に子供は死の手に奪われる。二幕目は死を現した扉《とびら》の舞台装置で、母親が指の爪が剥がれて血を流すまで、その扉を連打するのである。それを読んだ時林作は直ぐにモイラを想い浮べて、厭な気がした。その後アンネットが築地小劇場でその芝居を演《や》っているといって誘ったが、行かなかった。そうしてアンネットの無神経に内心ひどく腹を立てていたのだ。林作は重臣と自分と、常吉、やよ、などの固い護りの手の中から、モイラが抜け出して行く恐怖を、感じていた。

 だが一夜が明け、翌る日の午後になって、予言の二十四時間を五分過ぎ、十分過ぎて、とうとう五時間経った時、林作は、モイラの上に奇蹟が起きるのを期待した。

 モイラの様子には、林作が期待するような変化はなかった。だが、又一晩経って、予言の時間を二昼夜過ぎた頃から、林作の気のせいか、容態は同じだが、咳の発作と発作との間が、時間を見ていたのではないが、いくらか遠くなったように、思われた。

 食気《しよくけ》はひどい日にでもあって、咳の発作がない時にはモイラは何かたべると、言い出したが、牛乳と重湯《おもゆ》を厭がって、柔い粥を林作は医者に隠して、与えていた。

 二十四時間を二昼夜過ぎた日の夜、柴田が火鉢にかけてあった粥が煮立ったので、蓋を切った時、モイラは林作を見て、何か言った。

「にゅうと、ねい」

 と言うように聴えたが、林作と千賀谷とには、判った。牛《ぎゆう》と葱《ねぎ》と、言ったのだ。

 千賀谷看護婦が、そんなことはとてもして遣れまい、という困惑した顔を見せて、林作を見た。牛肉と葱とはモイラの最も好む副食物である。林作には、モイラの好きなものを口に入れて遣れる、これが最後になるかも知れないという、気があった。起《た》とうとした時の、千賀谷の厳しく咎《とが》める眼を無視して、林作は階下《した》に下りて、電話室に入った。

 林作は燕楽軒を呼び出し、難しい病人が欲しがるのだからといって、ロオスを挽き肉にして焼き、柔かく煮込んだものに葱を煮て添えた一皿を、注文した。

 料理が来ると、林作の命令で千賀谷が粥を茶碗によそい、挽肉のステエキに葱を添えてたべさせたが、モイラは愕くべき食慾を示して、牛肉、葱、と代る代るに注文して、粥を二碗、平らげた。林作はその様子をみて、自信を持ったが、その林作の思った通りに、それだけのものが治まり、まるでその食ったものが利いたかのように、モイラの病気はその夜を境に、好転した。

 モイラの体の中で、どこがどういう微妙な転換をしたのか、奇蹟が起きたように、皆が思った。

 モイラは懶《だる》そうにみえたが、気分はいいらしく、林作にともなく、千賀谷にともなく、しきりに何か言い始めた。よくきいてみると、「お祖父《じい》さんは今日は来なかった」とか、「常吉がくれた花はどうしたのか、もう一度常吉に、持って、ここへ来させてくれ」というようなことを、言うのだ。

 モイラが牛肉と葱を食った日の翌日、林作からの電話でモイラの様子を知った重臣が、幾らか眉を開いた顔で、遣《や》って来た。そうしてモイラを見ると、林作をかえりみて、

「腫れが大分いいようだな」

 と、言った。まだ難しく顰めている顔の上に安堵の色が濃く、出ていた。少間《しばらく》座っていた後で重臣はモイラの髪を撫で、

「この次に来る時には何か、美味《うま》いものを持って来て上げよう」

 そう言って、帰って行った。

 咳の発作はまだあったが、そうして疲労はまだ深かったが、モイラの体が恢復に向って来たことが傍にいるものにも判り、病室は明るくなり、活気をおびて来た。九鬼博士も、モイラの危険を脱したことを認め、その日の夜は林作は稲本軍医と書斎で、貯蔵してあった葡萄酒を抜いて、乾盃した。気がついて常吉も呼び、洋杯《コツプ》とチイズを運んで来たやよにも、無理に洋杯《コツプ》を持たせ、自分で注いで遣《や》った。

 発病から丁度一ヶ月たった或朝、何十日振りで林作は病室の窗を、開けさせた。窗から明るい朝の陽が差しこみ、モイラは疲労の中に横たわっているように見えたが、腫れがひいて、元の可哀らしさに戻った、大きな眼を開《あ》いて林作を見た。

 大きな白い夜具の中に、落ち込んだ、というように、手足を投げ出しているモイラは、何処か遠い処へ行っていて、又戻って来た子供のような、夢を見ていたというような、様子である。懶《だる》そうに眼を動かして辺りを見、又、林作を見るのを、林作は自分の眼の中に掬《すく》い入れるようにして、見守った。

 モイラの、わずかに紅みをとり戻した脣は林作に、

(苦しかった)

 と、言いたいように思っているのだが、その朝は懶くて、言うのが酷《ひど》く億劫なのだ。それが林作にはよく判っていて、林作は、自分自身も疲れた気分の中で、ただ短く、

「モイラ。よかったなあ」

 と、言った。

 一月余りの重く暗い日々は、ようやく去り、林作とモイラとの明るい日々が、還《かえ》って来た。

    *    *

 百日咳から恢復したモイラは、凝と何かを見る特徴のある、大きな眼が潤んだ光を増し、その年の十二月に八歳の誕生日を迎えた頃には、一度に二つ年を取ったように、どこか急激に成長したようなものを、見る人に感じさせた。

 林作は、モイラが小さな腕を、自分の首に捲いて、凝と頬をつけているようなことが、あるようになった頃から、モイラの繊《ほそ》い、綺麗な指を見て、モイラにピアノを習わせたいと、考えていた。それでモイラが五つになった時から友だちに話して、頼んであったが、適当な教師は仲々なかったので、七つでも六つでも、早いほどいいと知っていて、時期を逃がしていた。

 モイラが八歳になった時、いい教師が見つかった。本国のフランスでも格の高い教師だが、日本ではそれ以上は望めない、立派な教師である。林作の会社の西園寺という男が聞いて来た話である。西園寺に、最近五十を超えて、ピアノを習い始めたという友だちがあって、その友だちに会った時、自分には立派過ぎるが、そういう家にはいいだろうといって、経歴から住所まで委しく聞いてくれたと言うのである。上野の音楽学校の教授を止めて、雅楽の研究を始めているフランス人である。コルトオの先輩に当る、筋のいいピアノの弾き手である。アレキサンドゥル・デュボワ、と言って、五十二歳になる。現在二三人教えているが、もう一軒位ならむしろ向うも望んでいるらしい。牟礼の家の様子も大体聞いて、引受けてもいいと、言っている、というのである。

 林作はひどく歓んで、花園町の教授の家に行って話をし、モイラは新学期から週に一度、水曜日に、花園町に通うことになった。

    *    *

 アレキサンドゥル・デュボワはいつものように、廻転椅子を調節して、モイラを軽く抱き上げてかけさせると、

「アロン、コンマンセェ(さあ、お始め)」

 と、言った。

 黒褐色の厚いお河童に囲まれた、下瞼の膨らんだ大きな眼が、どんな人かを知ろうとするように凝と自分に向けられるのを見た時、アレキサンドゥルは、暈《ぼんや》りとしてみえるが、サンシィブルなモイラの眼に、酷《ひど》く気に入った子供を、見出したが、それと同時に、特に大柄な方ではないが、いい体をしていて肉附きがよく、円みのある肩と脚とを持った、白フランネルの簡単な、膝までの服に、黒のタイツの小さな娘に、烈しく惹きつけられるものを、感じた。それは不意な愕きのようなものである。この娘は何も知らない、穢《けが》れがない。それでいて何か、がある。と、アレキサンドゥルは思った。

 それは最初林作に伴《つ》れられて来た時のことだ。モイラは林作とアレキサンドゥルが話している間、肱掛け椅子の一方の肱突きに両手で掴まって、上半身を後向きに捻《ひね》ったり、アレキサンドゥルの方をチラと見てから、ピアノに近寄り、蓋に細い指を立て、力を入れて圧してみたり、伸び上がるようにして、ピアノの上に掛けてあるレエスに見入ったりする。

 アレキサンドゥルの鋭い眼は話していながら視るともなく、モイラの動きを追っていた。

 モイラは林作の椅子の背の横木に掴まって、椅子の後《うしろ》に廻り、アレキサンドゥルに隠れるようにして、林作の背中に椅子越しに頬を当てるような様子で、椅子に横顔をつけ、長い睫毛の反《そ》り返った眼を開《あ》いて凝としていてから、又顔を出して、チラと、新しい教師を視て、自分の椅子に返る。椅子に返ろうとして、林作の横をすれすれに通った時、林作がモイラの腰の辺りに軽く撫でるように、触れる。そんな時の林作の、無意識のような仕科《しぐさ》に、いかにも(大切な、宝のような娘)と、いったような愛情が、出ているのを、アレキサンドゥルは、見た。その林作の掌《て》には、父親の掌でいながらどこか、恋人の掌に紛らわしいところがある。

 そんな動作を見るともなく見ている間に、アレキサンドゥルはこの、八歳になったばかりの娘に、強く惹かれ、次の週からこの娘に日課を与えるということに不思議な歓びの、胸さわぎを、覚えた。

 アレキサンドゥル・デュボワは、抜け上がった広い額に、短く刈った、細かく波うった髪はまだ黒く、眉骨が高い、眼の鋭い男である。骨っぽく華奢な鼻、意志的な薄い脣、繊細な掌。全体にストイックな感じがある。フランス人にしては固い男で、どこか無理に強い意志で、自分を一つの、清教徒的な人生に嵌めこんで生きて来、現在もそうやって生きていて、それをそのまま未来にも持って行こうとしている、そんなようなところが見える。よく視ると、一点の非のうちどころのない、正常な感覚を持った男とは受けとれないところがある。同性愛の傾向を持っていたことのある男、という感じもある。ストイックな感じは、癇症な程、きっちりとした服の着け方にも見えていて、極端に自分を抑制している男の持つ、見る者に迫って来るようなあるものを、持っている。どこかに牧師のような匂いさえ、持っている、痩せて背の高い、がっしりした男だ。背広の上からはまだ逞しい、筋骨質な体にみえる、真直ぐに伸ばした体。衰えてはいるが二十年前の精悍な美丈夫の面影が、残っている。

 鍵盤《けんばん》に置いたモイラの、薄青い静脈が、透き徹って見える、淡黄色の掌《て》を、横に椅子を軋ませて擦り寄ったアレキサンドゥルが、肩越しに体を抱えるようにして、丁寧に、形を直す。

「その儘、その儘で。ドォ、レ、ミ。次はこの指をそちらへ遣《や》って、ファ、ソル、ラ、シ、ドォ……ビヤン。もう一度。掌《て》の形をその儘で、ドォ……」

 片側だけを開けた、大きな窗から、四月の温かな大気が感ぜられている。

 モイラは閉じ籠められた厭な気分を、既に感じ始めた。アレキサンドゥルの厳しい、気迫が迫って来るような練習《ルツソン》は、モイラが生れてはじめてのものである。それが鬱陶しくて、五月蠅い。

 窗の窗掛《カアテン》の模様、肱つきのある窗、窗際の小|卓子《テエブル》に、手編みの刺繍のある布を敷いた、外国のらしい花壜と、見馴れない形に挿した花、模様のある壁紙を貼った四方の壁、ピアノと反対側の壁際に置かれた、どっしりとした、長椅子。アレキサンドゥルの、灰色の背広の羅紗《ウウル》の香い、その中に混っている外国人の男の強い香い。それらのものに、林作と訪れたことのある、外国商社の中の個室や、独逸人の家庭にあった、一種の重苦しい雰囲気のようなものがあって、それがどことなく、気になっている。

 窗のところへ行って見たい。窗からはどこが見下ろせるのだろうか? 玄関のところだろうか? ピアノの練習《ルツソン》は空想していたような楽しいものでは、なかった。それどころか学校の日課より厳しく、退屈で、アレキサンドゥルを押しのけて、逃げたいほどだ。

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