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作者:日-森茉莉 当前章节:15553 字 更新时间:2026-6-22 20:37

 窗が開《あ》いているのに風がなくて、部屋の中は暑かった。モイラは薄紅《あか》くなった頬を一寸仰向けて、厚いお河童を振り、椅子の上で体を微かに、捩じった。

「もう一度」

「そう。掌《て》の甲を平らにして、その儘。……ドォ、レ、ミ。指をかえて。ファ、ソル、ラ、シ、ドォ」

 自分の怠けたがっているのが判ったのか、アレキサンドゥルの声が前より一層厳しくなったように、モイラには思われた。

 アレキサンドゥルは、モイラの心が窗の方へ行っているのを看《み》てとっていて、言った。

「マドゥモァゼル。繰り返さないと、上手になりません。イルフォ、レペテ」

 ようようのことで一日の日課が終って、ピアノの前から解放されると、モイラは走って、窗際に行った。そうして直ぐに振り返って、アレキサンドゥルの顔を計るようにチラと、視るのだ。その時、壁を背に、起《た》っていたアレキサンドゥルは、眼が鋭く光り、脣は一寸白い歯を覗かせているが、笑っているのではない。どこか、恐しい顔だ。

「マドゥモァゼル、モイィラは先刻《さつき》から、窗に行きたかったのですね。いけません」

 モイラは見抜かれた顔で窗に向き、背中の辺りに照れたような気配を見せ、体を捻《ひね》って窗掛《カアテン》に絡みつくような様子をするのだ。意識しないでいてやる、だがどこかで、モイラの知らないところで、意識しているようにも思われる、モイラの媚態である。

 練習が終ると、マドゥレエヌ夫人が茶の盆を運んで来るのが、定《き》まりである。模様のある、クリイム色の、面白い形をした盆の上に、日本陶器の茶碗が三つ、砂糖壺、牛乳《ミルク》入れ、銀の匙と、砂糖挟み。それに乾いた洋菓子。

「ラ、シェエズ、プゥル、マドゥモァゼル、モンシェリ」

 夫人が椅子を揃え、お茶が始まる。

 そんな時、モイラが父親の林作に、フランス語を教えられていることが、話題になった。モイラが尋ねられたことに、おぼつかないフランス語で答えると、アレキサンドゥルも、マドゥレエヌも感歎詞を発して、可哀らしいフランス語だ、なぞと言って、顔を見合って微笑《わら》う。マドゥレエヌ夫人は巴里の自分たちの家の話をする。アレキサンドゥルの妹の、ジャンヌの話、自分の老母の話、姪の話、などをする。或日は、老母の傍にいる猫のノネットの話をした。ノネットのことを話す時、マドゥレエヌの眼には涙が浮んでいるのを、モイラは見た。

「ママンも、ノネットも、もう長く生きません」

 とマドゥレエヌは、言った。褐色の髪に灰色が混り始めているマドゥレエヌ夫人は、既に皺が深く、巴里女の化粧をしていて、黒い普段着のロオブに、灰色がかった薄紫《モオヴ》の、編み直しらしいカアデガンを上に着ている。一重《ひとえ》の真珠の首飾りが、既に筋立った夫人の頸を、どんな時にも離れることがない、というように、とり巻いている。夫人はその首飾りは、婚約をした時の夫《マリ》の贈物《キヤド》だと、話した。だが、アレキサンドゥルと夫人とが何かで声を合せて笑うような時、モイラは、アレキサンドゥルの二つの眼だけが笑っていないのを見ることがある。その眼は何か、恐しいものを隠している、眼である。マドゥレエヌ夫人の眼はそれを知っている。そんな時、夫人の眼は、絶望に馴れた母親のような、優しさを湛えて、暗く瞬いているのだ。アレキサンドゥルの笑っていない二つの眼はモイラにあてられているが、それはモイラの、モイラにもわからぬ内側にあるものに、あてられていた。

(不思議な娘だ。感覚的で、それにごく自然だ。この国には珍しいことだ)

 アレキサンドゥルはモイラが、自分の愛情を感じとっていて、それには無関心に、幾らかうるさく思っているのを、知っていて、そんな、まだ乳のにおいのする子供のようなのが、思いもかけない力で、自分を惹くのを、感ずる。自分を嫌っていないらしいのも、酷《ひど》く可哀く思われる、だが、嫌ってはいないらしいが、自分の厳しい練習を嫌っていて、一刻も早く、ピアノの前から離れたがっているのを看てとると、可哀らしさと同時に、次第に憎しみのようなものをも、感ずるように、なって行った。

 アレキサンドゥルはモイラに練習をさせていながら、想うのだ。この娘は、一刻も早く日課を終って、あの父親の傍に帰りたいと、思っている。そうして帰って行ったら、どんなにするのだ。アレキサンドゥルは、綿毛に包《くる》まれた青い果実のような、モイラの頬に眼をあてて、想いつづける。この娘は帰って行ってあの父親に、どんなにして抱きついて行くのだ。どんな可哀らしい接吻をするのだ。あの気嵩《アルダン》な、暗い色の皮膚と、サンシィブルな容貌とを持った父親に対して、この母親のない娘は、乳の香いを慕うようにして、なついている。この娘はあの父親の、ウェストミンスタアの香いに纏《まつ》わりついているのだな。ウェストミンスタアの香いの中で、平常《へいぜい》この娘は、母親の乳房にまといつき、脣《くち》をあてて吸いつくような様子で、あの父親に、甘えているのだ。

 アレキサンドゥルは一度眼の前に見た、林作親子の緊密な、濃密といってもいい様子をもとに妄想を起している。する内に、暗い色の、美しい着物を着、ごわごわと鳴る、儀礼的《セレモニツク》な袴を着けた林作の、浅黒くひき締まった体躯《からだ》と、三銃士《トロワ・ムスクテエル》のダルタニアンに似た、美しい微笑《わら》いを持った風貌が眼の前に浮び上がってくる。そうしてアレキサンドゥルは、林作とモイラとの二人を包む、ウェストミンスタアの薫香が、今そこに、漂うかのように想い、それを現《うつつ》に香《か》ぐようにも、想うのだ。

    *    *

 アレキサンドゥルにとって、一つの苦患のような、誘惑に満ちた、ピアノの日課は毎週確実に巡って来て、やがて一年が経ち、モイラは九歳になった。

 アレキサンドゥルは、厳しい音階の練習の繰り返しと、モイラの掌《て》を掴まえて、丁寧に形を直す遣《や》り方とを、執拗に、止《や》めない。専門にピアノを遣る弟子に対《むか》ってする練習《ルツソン》に、殆ど変らない、遣り方である。

 彼はモイラを、後《うしろ》から抱え込むようにして、肩越しに手を持ち添え、丁寧に、形を直す。そうして言う。

「掌をその儘。掌の甲を動かさずに。ドォ」

 搏《う》ち下ろすような言い方である。

 アレキサンドゥルの発する「ドォ」の音《おん》、「レ」の音《おん》には、身のひき締まるような厳しい、鞭の響きが、籠っている。それは彼の、二十五年の間、ピアノの教授に打ち込んで来た精神の中で出来上がったものである。

 だがアレキサンドゥルの、モイラに練習を与える時の鞭の中には、それとは別なものが、入っていた。モイラはアレキサンドゥルを嫌ってはいないが、好《す》いてはいない。モイラはいつになってもアレキサンドゥルに親しもうとしなかった。それは、アレキサンドゥルが、モイラへの執着を内に埋蔵し、それを無理に抑えていて、それが執拗な、蔽いかぶさるようなものになって、モイラに感じられるためなのだが、自分に親しもうとしないモイラを、次第に憎く思うアレキサンドゥルの、彼自身にも異様に思うほどの心持は、どうかすると火のようになる。アレキサンドゥルは、彼の手に長年打ち振られた鞭を、更に烈しく、唸りをもって打ち下ろしたい、うずくような技癢《ぎよう》を感ずることも、度々である。

 九歳になったモイラは、脣から頬の辺りが薄い膜をかぶせたほど膨らんで来て、果実が熟したような、甘みのようなものが、微かな影のようにではあるが、漂いはじめている。極く暑い日にはその頬が、雨に濡れた花片《はなびら》のように汗ばんで来る。そうしてそれは、触れたら掌がそのまま、吸いついてしまうのではないかと思われる、アレキサンドゥルがまだ触れたことのない、日本の女の皮膚なのだ。しかもモイラのそれは、新しい花のように、新鮮である。

 嫉みと、憎しみとが、可哀くてならない心持の中に入り混った、アレキサンドゥルの執拗な、熱情のようなものは、抑えようとしても抑えることが出来ないで、外へ滲《にじ》み出る。その滲み出たものは烈しい練習《ルツソン》と、鞭のような声音《こわね》になって現れた。そうして、少しでも長く、モイラを、自分の傍へ置きたいと思うアレキサンドゥルの慾望は、執拗な練習《ルツソン》の繰り返しとなって、モイラを苦しめ、五月蠅《うるさ》がらせた。

 ともすれば、家にいる時のように、ぐにゃりとして来るモイラの体が、その鞭のような響きを持った声で、仕様《しよう》ことなしのように、緊張する。だが少間《しばらく》すると又、モイラは退屈そうに、身じろぎをした。

 そういう時モイラは、頸の辺りにアレキサンドゥルの厳しい、幾らか恐しい眼を、感ずる。そこにはモイラにはわかり得ないが、何かの恐しいものがあって、その恐しさの戦《そよ》ぎのようなものが、モイラの頸筋《くびすじ》や、頬の辺りを熱い風のように、襲うのだ。

 モイラの掌《て》の甲がかしぐと、アレキサンドゥルはピアノの上の小筐《こばこ》から、滑らかな白い紙を貼った厚紙に、藍色で横文字を刷った札を出して、掌の甲の上に載せた。

「これは何ですか? わかりますか?」

 アレキサンドゥルは、モイラの顔を覗き込むようにして、言った。

「私の妻の小学校の時の、大切な筐にありました。Bon point' いいお点です。よく勉強した日には、これを上げましょう」

 そう遣《や》って機嫌をとりながら、アレキサンドゥルは、再び、鞭打つような練習を、続けさせた。

 或日アレキサンドゥルは少し遅れて、部屋に入って来た。廻転椅子に掛けているモイラの、濃紺に白い筋の入ったセエラアを着た、黒木綿のタイツの脚を、横から見たアレキサンドゥルは、前の日までの、膝小僧の上までしかない、白フランネルの裾の短い服を着ていたモイラが、俄《にわ》かに成長して、嫩《わか》い一人の少女になったように、感じた。髪には林作が指図をして、柴田に結ばせた、白タフタのリボンが蝶のように、止まっている。

 モイラを軽く抱えこんで、掌の形を直している時、リボンがアレキサンドゥルの頬に触れ、そうして微かに、オオ・ドゥ・コロオニュの香いがした。その日はモイラの起きたのが遅くて、朝の支度がおくれたためである。

 その日アレキサンドゥルは、平常《へいぜい》より厳しい鞭をもってモイラに臨み、練習を四五回多く、繰り返させたのだ。

 練習が終って、モイラが起ち上がった時、

「今日は大変によく出来ました。メ、コンプリマン、マドゥモァゼル……」

 そう言うと、アレキサンドゥルはモイラの肩を軽く掴まえるようにして、額を蔽う髪に、接吻を与えた。モイラの肩は、まだ稚い固さの中に、たしかな皮膚の滑らかさと、円みとを、薄い布越しに、アレキサンドゥルの掌に、感じさせた。

 モイラは五月蠅げに首を竦《すく》め、逃げるように、離れた。

    *    *

 牟礼家の花壇の、馬丁部屋の向い側にある梅の木が、六月の雨と陽とに温められ、青い実は忽ちぎっしりと実って、葉の蔭に二つ、三つと固まったのなぞは、円く実が入って、護謨《ゴム》風船が二つ擦れ合う時の、軋るような音がしそうに見え、雨曇りの空の中に、雫をつけたように、綿毛に煙って、輝いていた。

 その梅の木が窗から見える浴室は、天井が高く、檜を張った板壁の底に、沈んだように据えられた、これも檜の浴槽が湯を湛えている。モイラが少しずつ体を沈めると、浴槽を溢れる湯が、油のように大小の形の、滑らかな光を浮べて揺れ、モイラの、淡黄色をした円い肩や、胸に、戯れる。柴田が、滾《こぼ》し入れた香《にお》いの希薄なバス・ザルツが湯気に混って柔かな香いをたてる中で、モイラは湯を叩いて、白い飛沫《しぶき》の上がるのを歓んでいる。

「凝《じつ》としていらっしゃいまし」

 黒っぽい単衣物の裾を端折《はしよ》って、肉の弛《たる》んだ太い脚を出し、袂を背中で結えた柴田は、頑丈な腕でモイラを抑えつけた。

 赤い鉄錆《てつさび》色をした護謨の海綿に、石鹸を豊饒《たつぷ》り含ませたのを持って柴田は、故意《わざ》と湯を跳ねかして出て来たモイラを掴まえ、頸から先に摩擦《こす》りはじめる。

 肉附きのいい、だが不活溌だった子供の形が、どこか撓《たお》やかに、鞭のようなものを潜《くぐ》めて来たモイラの裸は、雫をつけ、柴田の眼の前を、重いような艶を湛えて、くねり、抑える手をのろい動作で潜りぬけようとする。

 柴田が邸に来た頃には、青い幼児斑のあったモイラの腰は、その痕跡《あと》を微かに残して固く、円みをおび、稚い媚めかしさが、香いのように、柴田の感覚に来る。

(梅みたいだよ、ほんとうに。憎たらしいくらい)

「足の裏を洗っちゃあ駄目」

「凝としていらっしゃいまし」

 モイラは柴田の首に腕を絡め、声を上げて体を捩じった。

 湯から上がると次の間に、濃い紅の木綿に、更紗模様の、モイラの最も好きな普段着が出ている。

 柴田が背中のホックを嵌め終ると、モイラは鏡に向って自分を写して眺め、満足した様子で、柴田をふり返った。

「ノエミ来た?」

「まだでしょうと存じます、モイラ様」

 モイラが食堂に入って行くと、ノエミが、明け放ったヴェランダから上がって来るところだった。

「ノエミ。新しいのよ、これ。独逸人から布《きれ》買ったの」

 野枝実《ノエミ》の着ている、去年と同じのチェックの木綿の服は今朝律が裾を出して火熨斗《ひのし》をあてたばかりで、まだやまの跡《あと》が残っている。モイラは、野枝実の服を去年のだと思った瞬間、反射的にそう言ったのに過ぎないが、野枝実は、モイラに裾のやまの跡を気づかれまいとして慌てて言った。

「梅の実、昨日《きのう》持って来なかったね。ある?」

「あるよ。行こう」

 二人は縺れるようにして、食堂の横から上がる暗い裏階段を、登って行った。

 梅の実が熟すると、梅酒をやよに造らせて夏中飲むのを楽しみにしている御包と柴田が、執念深い眼を光らせている隙を狙《ねら》って、常吉が竿で二つ三つ落してそっと呉れるのが、毎年のことである。モイラがそれを隠しておき、その中の一顆《ひとつ》を学校に持って行って野枝実に与えるのも毎年のことだ。

「こないだ柴田に、喧《やかま》し婆さんて言ってやった。パァパがそう言ってるから」

「ふん。いい気味ね」

「ノエミのとこの可怕《こわ》い人は何してる?」

「梅酒をつけて、梅が高い、高いって怒ってるの。モイラの家《うち》は梅があってもみんなあの人たちのものね」

「うん。でもパァパはあんなもの飲まないの。パァパはフランスのリキュウル」

 野枝実は〈リキュウル〉という言葉に何か解らぬ素晴しいものを感じとり、モイラの濃く真紅《あか》い更紗の夏服と、鳶色の厚いお河童とを、じろりと、見やった。

 二人はモイラの寝室の、平常《ふだん》は使わない空《から》のけんどん[#「けんどん」に傍点]の奥から梅の実を出し、顔を見合うと寝台《ベツド》に登り、スカアトで磨《こす》って軽く、歯をあてた。顔が曲る程酸いのだが、なんとなく清新な果実の香いがあって、少間《しばらく》すると爽やかな香いが感じられる。二人は梅の実の味よりも、秘密の歓びに酔っている。モイラは林作から、野枝実は朔也から、梅を齧《かじ》ることを固く禁じられている。その禁制を犯すことが楽しいのだ。

 やがて二人は窗の下に椅子を運び、梅の実のような腰を並べて窗に肱をつき、下の花壇を見下ろした。

 御包が門の方から来る処へ、裏の梅の木のある方から常吉が来たので、二人は眼を見合い、息を殺した。

(又梅を取ったのだろうか?)

 常吉は二人の思った通り梅を二つ程落したのを隠しに入れ、玄関を掃いているのを見ておいたやよに手渡そうとして、遣《や》って来たのだ。

 御包も常吉も頭より見えないが、御包がじろりと見た様子で、何か言った。常吉が全く相手にしない人間に対するような態度で、一言答えると、擦れちがって玄関の方へ大股に行くのを見定めたモイラと野枝実とは椅子から下りて寝台《ベツド》に転がり、薄暗い中で顔を見合って笑った。御包を問題にしなかった常吉のようすが、二人の魔女を満足させたのだ。

「ノエミの眼、可怕い眼」

「モイラの眼だって」

「あたしの眼は綺麗なのよ」

 モイラは眼を白くして野枝実を睨むと、急に起ち上がって、寝台《ベツド》を下りた。

「あたし薬の時間。又来るから待ってる?」

「…………」

 野枝実は黙って寝台《ベツド》を下りて、部屋を出ようとした。

「じゃあいいよ。もう来なくっても」

 モイラは廊下を林作の書斎の方へ走った。扉の前でふり向くと、野枝実が膨れた横顔で、壁の向うに姿を消すのが見えた。

 ノックをすると、中から林作の声が、言った。

「モイラか。お入り」

 入ると、皮の長椅子に掛けた林作が、ふり返った。林作の後《うしろ》の厚い窗硝子が、夕焼けを映して洋燈《ランプ》のように赤らんでいる。

 林作の膝の処にある、低い卓子《テエブル》は、暗い部屋の中で鈍く光り、そこには清潔な洋杯《コツプ》に湯|冷《ざ》ましを半分程入れたものと、白い罫紙に細かな横文字がぎっしり書き込まれたラベルを貼った、口の広い薬壜が、用意してある。

 林作が家にいる日には、四時が来るとモイラは林作の書斎に上がって行く。忘れていると、林作の鳴らす呼鈴《よびりん》の音が、響いて来るのだ。それはこの錠剤を飲む時間である。茶褐色の厭な味のする薬を飲むための時間である。肉附きがよくて、丈夫に見えるが、モイラはしんが弱い。腺病質だと、医者に言われている。茶褐色の丸薬は、厚みのある平たい円形で、表面がざらざらしていて、形容の出来ぬ、厭な味を持っていた。牛の血を精製して固めたもので、林作が独逸人の友だちから、特別に手に入れてくる造血剤である。モイラは、錠剤を飲み込むことが下手で、どうかすると噛んでしまうのだ。それでこの時間はモイラにとって一日に一度、林作から課せられている、厭な時間なのだ。林作はこの薬を飲ませることだけは他の者には任せておけぬと、思っている。モイラが厭がって、強く拒むかも知れない。雇人ではそれに負けてしまうだろう。それともう一つ、何度でも、何時《いつ》でも会うことの出来る、娘のモイラだが、日曜日を入れてたった三日だが、自分が家に居る日に、一日の内に一定の時間を定《き》めて、必ずモイラを、自分の傍へ来させることに、林作は深い歓びを、覚えていた。

「早く飲んでしまった方がいいぞ。さあ、今日はマカロンがある」

 見ると窗際の書物卓《かきものづくえ》の上に紙包みが載《の》っている。モイラはその時一種の表情をした。脣を、両端が頬に窪みをつける程、固く結んだのだ。モイラが秘密をもっている時の表情である。

 薬を飲んで、林作から紙包みを受け取ると、モイラはそれを直ぐには食べずに、卓子《テエブル》の端に置いた。

「どうした。気分が悪いのか?」

「…………」

「ふむ。何か階下《した》で喰ったな」

「…………」

「犯人はやよだろう」

 モイラの大きく開《あ》いた眼は正直に、林作が図星を指したことを語っている。

 林作はモイラの顎に指を当てて顔を自分の方に向けさせた。

「モイラ。パァパは叱るのじゃあない。だがこの辺の店で売っている菓子は、喰ってはいけない。いいか……」

 モイラはその掌を外し、長椅子に転がり、林作の膝を抱えるようにして、片頬を膝に擦りつけたりしている。

「やよはいい奴だ。パァパも好きだ。だがやよは田舎の女で体が丈夫だから、何を喰ったって腹も壊さないが、モイラの体はちがうのだ……もうこれからはしてはいけない……いいね」

「しない」

 モイラは林作の膝を枕にして、背中を向けて横になり、林作はモイラの髪を静かに、撫でている。

 少間《しばらく》時間《とき》が経った。

 夕闇の暗さが又少し、濃くなった。

 モイラはこの頃、ふとした時、アレキサンドゥルを想い浮べることがあるように、なっている。肩越しに、後から抱えこむようにして、掌の形を直している時、後《うしろ》に被さっている胸の辺りでする、羅紗《ウウル》の香い、それから髪やリボンに、故意《わざ》とのように触れてくるような横顔、乾いた、冷たい指、なんとなく廻りをとり巻いてくるような、一種の気配。

 林作の膝には、アレキサンドゥルの羅紗《ウウル》の香いに似て、それとは異《ちが》う、煙草の香いと混り合った、無限に懐かしい香いがある。(パァパの香い)。それはウェストミンスタアの薫香である。

 林作の膝に頬を擦りつけたりしているモイラの頭に、突然にアレキサンドゥルの、肩越しの香いが、浮んだ。

「パァパ」

「うむ?」

 モイラが仰向いて林作を見た。

「アレキサンドゥル先生が、おでこに接吻《アンブラツセ》したの」

「ふむ。……」

 林作は、言った。

「外国人はね。パァパでなくて先生でも、頬っぺたにだって接吻《アンブラツセ》するのだ。どこか遠いところへ行くのでお別れの時なぞはパァパがモイラにするように抱いて接吻することだってある。先生はモイラを可哀らしい子供だと、思っていらっしゃるのだ。だがモイラは日本の子供だろう? だから額になさったのだ」

 モイラはよく聴いているようでもない。再び寝転び、横へ向いて、膝に頬を擦りつけたりしている。

 林作はアレキサンドゥルに会って見て、信用出来る人物だと、見ていた。三十分話をして、この男を信頼しないとしたら、信頼する男はないと、そんなことさえ心の内に、思った。だが林作はアレキサンドゥルの、禁慾的な、一種の、見る人に蔽い被さってくるような雰囲気が、どんな生活を経て来たためかということも、大よそは推察した。煙草もやらないらしい生活の様子も、大体は、判った。又帰りがけに、外出先から帰って来て、止むを得ぬ外出で失礼をしたと、丁寧に詫びを言ったマドゥレエヌを見た林作は、マドゥレエヌが典型的に優雅なフランス女ではあるが、行儀の好過ぎる、母性的なものより他に持ち合わさぬらしい女なのを見て、アレキサンドゥルと細君との恋愛の性質も、二人だけの生活がどんなものか、ということも、察しがついていた。そういうアレキサンドゥルが、モイラを見て、強く惹かれたことも、最初にモイラを伴《つ》れて行った時に、林作は看ていた。

(こんなことはこの後も度々起きるだろう。だがモイラを、無理に箱に入れるようにして、日本の子供流に育てた方がよかった、なぞとは俺は思わない。これから先へ行って、間違いのようなものが起きたところで、それはそれでいいのだ)

 考えながら林作の掌は、無意識のように、モイラの肩を静かに、撫でている。

(だがモイラが、情人《こいびと》を持つようになったら、どうだろう。その時期はそれ程先ではないかも知れない。その時には俺は、このモイラを、裏切りをした憎い奴だと、思いかねないのだ。だが、そんなモイラは……さぞ可哀らしいことだろう)

 肩を撫でる林作の掌が、背中に滑り、「影」のような、深い微笑いが林作の頬を、掠めた。

    *    *

 花園町のアレキサンドゥルの家は、その日霧雨に、包まれていた。

 梅の実の季節があれから二度巡って来て、モイラは十一歳と七ヶ月に、なっている。

 常吉を自動車《くるま》の中に待たせて、モイラは階段を上って行った。明治の中期に建ったらしい、ペンキ塗りの西洋館の内部は、壁も階段も、時代がついていて、木の階段はささくれ立っている。手摺りに掴まるとニスが掌《て》につきそうに、湿っている。

 角く開いた襟と袖口、帯に白い縁取りをした、薄いブルウの膝までのセエラアに、黒い木綿のタイツを穿《は》き、前髪の後の髪を揉みあげの上で、白い幅広のリボンで結んでいる。

 固い靴の音がして、後《うしろ》からアレキサンドゥルが、ゆっくり上がって来て、足を留めたモイラに、追いついた。

「今日は早いですね」

 アレキサンドゥルは少し嗄《かす》れた声で言い、モイラを見下ろした。前髪の下から、モイラの頬が覗いている。温かな雨が降って、一晩の内に膨らみ、端だけが薄紅《あか》く染まった、七月の、あの薄青く、まだ固い桃の実のように、モイラの頬が、先週に見た時とは違って、処女《おとめ》の頬を想わせるようなものをどこかに、潜めているのを、アレキサンドゥルは、見た。

「パパはお元気ですか?」

 アレキサンドゥルの声は、どこか平常《いつも》と、違っている。

 モイラは顔を上げて、アレキサンドゥルを見上げ、黙って、頷いた。踊り場の窗《まど》から明りが落ちているためだろう。下瞼の膨らみの下に出来た浅い影が、その日のモイラの、処女《おとめ》のような頬に一瞬、媚《なまめ》いた色をつけていて、アレキサンドゥルの胸を、不安にした。その頬の辺りの、艶めいて見えるのとは不似合いに、子供らしく頷いた様子も、アレキサンドゥルを強く、惹いた。

(余程、甘えさせているのだな。小さな子供のような稚いようすが、まだ除《と》れずにいる。父親にはどんな風にして、甘えるのだ……)

 モイラは、アレキサンドゥルのピアノの練習には飽きている。だが林作が横浜で、二千円のピアノを購《か》って呉れていて、なにかの曲の一部を覚えると、それを林作に弾いて聴かせるのが、今では楽しみになっている。自分の指が、アレキサンドゥルの言うようによく動くことを、誇らしくも、思っている。それでモイラは林作の、「ピアノには休まずに行って、上手になるように、よく練習をして貰え」という言葉に厭々、従っていた。

 部屋に入ると、薄い薔薇色の西洋|紫陽花《あじさい》がもくもくと、湿り気のある花片《はなびら》の肌目《きめ》を見せて、大きな花壜一杯に、挿されている。霧雨に濡れた外の大気が、そのまま花と一緒に部屋の中に入って来たように、見える。

 モイラは愕いたように、立ち止まった。モイラは薔薇色の紫陽花のあることを、知らなかったのだ。

「お好きですか?」

 アレキサンドゥルは青年のように、嬉しげに、言った。

「庭のを截《き》って来ました。玄関からは見えません。雨で色が薄くなりましたが、それで却って一層綺麗です」

 その日はマドゥレエヌが出ていて、夕方遅くまで帰らぬ筈である。アレキサンドゥルはモイラに見せようとして、雨の中に出て、紫陽花を截って来たのだ。

 モイラの来る時間が近づいた時、アレキサンドゥルはなんとなく落ちつきを失くして、短い散歩に出た。そうして今帰って来た時、彼は階段の上に黒いタイツを穿いた、モイラの形のいい脚を、見たのだ。

 嫩《わか》い仔馬のような、黒いタイツの脚が、さも厭そうに怠け怠け、登って行くのを下から見た時、アレキサンドゥルは不意に頭が火になって、(今日こそは逃して遣りはしない)と、そんな、全く条理のない想いが頭に登るのを、覚えたのだ。

 その日アレキサンドゥルは、急な帰国が定《き》まっていたのである。

 モイラは直ぐに花の傍に寄って行って、顔を花に圧しつけるようにした。花の肌目《きめ》と全く同じな頬だ。

 そうして立っているアレキサンドゥルを振り向いて見て、

「香いは少しだけしかしないわ」

 と、独《ひと》り言《ごと》のように、言った。

(|まるで花だ《セ・チユヌ・フルウル》!!)

「でも花ですから、よい香いがしますでしょう」

 ピアノの椅子に掛けたモイラは、アレキサンドゥルが、ピアノの上から下ろして掲げる Sonata の譜本を眺め、既に退屈しはじめて、いた。そうしてなんとなく、身じろぎをした。

(常と照山は何の話をしているのだろう)

「マドゥモァゼル、モイィラ。練習《ルツソン》の時には他のことを考えてはいけません」

 アレキサンドゥルは、練習を始めぬ前から、もう椅子から下りたがっているのが判る、モイラの、落ちつきのない腰つきに、横から鋭い眼をあてた。

 今まで、三年もの長い間、少しも自分に親しまなかったモイラである。やって来て、この椅子に掛けるなり、逃げることより考えなかったモイラ、この褐色《ちやいろ》の、翼の厚い、肉附きのいい小鳥のようなモイラを、今日は唯では帰して遣らない。

 アレキサンドゥルは脣《くち》を少し開き、白い歯を見せた顔になって、モイラに鋭い眼をあて、むしろ無感情な声で、言った。異様な嗜慾を見せた顔である。

「アロン、レ、ギャム(さあ、音階)」

 アレキサンドゥルは、この頃になっていつもそうなように、モイラが椅子に掛けるやいなや、自分を襲う、一種の昴奮、痺れるもののある、厳しい練習の繰り返しで、モイラを窃かに責めつけて遣りたい嗜慾への緊張を、今も覚えている。

 アレキサンドゥルは無気味な、低い脈の音のような昴ぶりを潜めて、獲物を見るようにして、モイラを見た。

 アレキサンドゥルは、自分がモイラに対して、こんなになった原因が、自分の過去の生活にあるのを、知っていた。彼は長い間、ストイックな生き方の枠の中に、自分を閉じ籠めて来た。父親のアントワンによって、特別に厳しく育てられて来たアレキサンドゥルは、それを当然のことに思い、そうしなくてはならぬものと、信じて来た。女の問題は一度も、起したことがない。柔《やさ》しい、処女《おとめ》の頃から既に、嫩い母親のようなところのあったマドゥレエヌと、内気な恋愛をして婚約した。そうして質素な式を挙げ、何の過失もなく、今まで来た。マドゥレエヌは不思議な娘で、まだ子を産まぬ前から、赤子を胸に抱きかかえている妻のようなところがあって、アレキサンドゥルは、聖母《マリア》に恋するような歓びをもって、マドゥレエヌを好いたのである。壮年の頃、二三の少女に嗜慾を覚えたが、清教徒的な気持から来る内気から、プラトニックの域を出ないでいた。何度か、胸を焦がす相手に出会ったが、アレキサンドゥルの情熱はいつも発散せられずに、内部に閉じ罩《こ》められた。アレキサンドゥルのそういう、長い生活の中で、慾望は内部に閉じ罩められて、発散するということが、なかった。生徒を震え上らせて来た、厳しい練習《ルツソン》と、穏かな、夫婦というよりもむしろ、ごく仲のいいきょうだいのような、マドゥレエヌとの生活。この二つが、アレキサンドゥルの人生の全部である。

 その長い間、内部に鬱積していて、吐《は》け口のなかった、本能的な慾望、遣り場のない燻《くすぶ》った肉慾は、彼が愛した少女たちを怯えさせ、逃げ出させて、内部の鬱積はいよいよ緻密になり、固くなって、行った。彼の鬱積の緊密さと、彼の不器用な表現とは、どんな時にも彼の内部のものを巧く吐き出させることが出来ないで、慾望は永遠に封じこめられた儘である。

 幼い時からの清教徒的な生活は彼の性癖になっていて、彼の、夏などには暑苦しく見える程強く襟元を正した背広の着方にも、それは現れ、見る人に牧師のような印象を、与えるのだ。アレキサンドゥルの一生は、一人の清教徒の一生である。そこへモイラを伴れた林作が、現れたのである。

 アレキサンドゥルは又林作を見て、実業家ではあっても、徒者《ただもの》ではない、立派な男なのを感じとると同時に、モイラの可哀らしさと、肉の魅力に、搏たれた。そうして、林作に、恋人のようになついていて、母親がないことは前もって聴いていたが、母親のない子供の父親との親密、という限度を越えて見える、彼等二人の濃密な繋がりをも、看て取り、見ている内になんとも言いようのない妙な、穏かでない心持を覚えはじめた。一種の嫉妬の悶えを、覚えたのだ。

 林作は林作で、アレキサンドゥルの出現によって、モイラというものを所有している歓びが、深部に深められるのを覚え、奇異な想いをした。林作はその日、勝利者の、柔かな、新しい、香草《においぐさ》の寝床に転がる、甘い歓びを抱いたのだ。自分とモイラとの、清らかな、甘い蜜を、秘《ひそ》めた、「甘い蜜の部屋」の鍵を握っていることの、勝利感で、ある。

 林作はアレキサンドゥルとの初対面で、彼の秀れた人物を認めると同時に、そのまだ、どこかに残っている美青年の面影をも認めたが、それは林作の胸の内部の窃かな所有者の快感を、倍加した。林作は平常《ふだん》、アレキサンドゥルと離れて暮している。厚い空気の層を距てて、離れた町に、住んでいる。その空気の層が含んでいる家々、樹々、空地、店、はためく広告の幟、旗、ざわざわいう群集、石塊《いしくれ》、犬、を距てた場所で、アレキサンドゥルが、モイラを見て、心臓の動悸を抑えているのを、林作は感じとっている。自分とモイラとの間にある、甘い、閉ざされた部屋の秘密を、窺い知っていて、そこへ行くことの許されぬ悶えを抑えているのを、感じとっている。そうして或歓びを、覚える。

 林作は稀に、アレキサンドゥルを訪ねて、十五分程話をして帰る。アレキサンドゥルが牟礼家を訪うこともある。二人の男は相手の人間を認め合っていて、惚れ惚れするようなものを互に感じ合っている。どうかした拍子に、アレキサンドゥルの眼に或暗い火が宿る。その暗い火は、林作の眼が、というより勘が、捉えるより速く、消える。そうして後《あと》には爽やかな、鋭い光が残った。その暗い火のようなものはアレキサンドゥルの霊が抑えている、彼の嵐である。林作には、アレキサンドゥルの眼の中に垣間見た暗い火が、彼がモイラを想い浮べた瞬間に宿ったものだということが、解っている。モイラは、二人の間に置かれた無垢の兎である。翅《はね》のある娘。女性の天使である。霊感のようなものを持った、天使である。愚かな子供でないかぎり、予感《プレサンチマン》は、持っている。純粋の無垢でいて、それで可哀らしいのは、二つ三つまでである。

 そんな瞬間、林作の想いは、モイラを湯に入れて遣る場合に繋がった。裸の天使といる、時間である。青い、円い、固い果実を、掌《て》にのせて眺める時間である。青い果実は、一度、一度と湯に入れて、洗って遣る度に、眼には見えぬほどずつ、熟して行く。林作は、自分の娘に抱いている、自分のそういう想念を、誇るべきものだとも思わないが、恥ずべきものだとも考えていない。

 林作は世の中の父親の多くが、自分と同じ想念を持っているのだろうと、考えている。ただ多くの父親はその想念を、頭の中で、言葉にして組みたてることをしないだけのことである。それに明瞭《はつきり》、気附いた父親は、〈詩〉を、〈穢れ〉と、思い違えている。父親の、綺麗な娘に対して抱く、愛着。それは自然なものだと、林作は考えている。そういう想念を持つ時間のあるのは自然で、ただその男の、そういう感覚が、ストイックなもので抑えられていて、そうしてその男の生活全体が、立派なもので律せられていればいいのだと、考えている。言葉にも、文章にも、道徳しか吐き出さない、〈道徳を吐く蜘蛛〉のような男の内部にむしろ、獣《けもの》がいる。あやしげな道徳の煙を顔に纏わせ、空虚な威厳を誇示している男を、林作は烈しく、嫌っていた。そうして、小さなモイラが、自分の抱いているそういう種類の嫌悪感を、自分と全く同じように持って生れているらしく思われることが、彼のモイラを可哀くてならない想いの中の一要素ともなっているのだ。

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