㈪2痕跡なし。
㈫3物の移動転倒等の状況、特に認められず。
㈬4物色情況 なし。
㈭5電灯、家電器具等の点滅状態
居間の40Wの室内蛍光灯および水槽用の空気ポンプ以外はすべて「切《オフ》」になっていた。
六 死体の処置
被害者の死体が発見された場所が、平素寝室として使用されていない(押入れの情況から判断した)模様の「手前六畳の間」であることや索溝《さつこう》の情況などから、死因に疑わしい点があるため、死体は死因および死後経過時間その他を明瞭《めいりよう》にするため、昭和四十五年一月二十日、東京地方裁判所裁判官池永和男の発した鑑定処分許可状により、東京T医大法医学教室医師|木村良介《きむらりようすけ》に解剖鑑定方を依頼し、同医師の鑑定処分に付した。
なお本検証の結果を明確にするために見取図二葉を添付した。
翌二十一日午後、解剖の結果が出た。それによると、
一 死因
索条《さくじよう》を首にかけての頸部《けいぶ》圧迫による窒息死、いわゆる絞死である。甲状軟骨に骨折。なお胃内容より極量以上致死量に満たない大量のへキソバルビタール系の催眠剤が検出された。
二 自他殺の別
他殺。胃内容物に証明された催眠剤から逆算推定して、検体は死亡当時熟睡中であり、自為による頸部圧平が不可能な状態にあった。頸部の索溝は組織学的検査の結果、生前に形成されたものである。
三 死亡推定時間
昭和四十五年一月十九日午後十一時三十分から一時間のあいだ——であった。なお捜査員が512号室の近くの、メゾンの居住者に聞き込みをかけたが、大都会の人間の徹底した無関心のために、まったく収穫がなかった。
中には刑事の訪問を受けてから初めて赤羽の死を知った者もいるくらいである。それも同じ建物内のすぐ近くに住んでいながらである。
2
「こういう建物には、一応社会のエリートが住んでいるんだろうが、何とも寒々としているなあ」
本庁捜査一課から捜査本部に投入された老練の部長刑事、永野《ながの》はやりきれないといったような溜《た》め息を吐《つ》いた。停年間近であるが、若手刑事も顔負けの闘志の持ち主である。
「この間、江東《こうとう》で間借りのタクシー運転手が、火事に遭《あ》って焼死したまま六日間も気がつかれなかったという事件がありましたが、身寄りのない人間がこのマンションで死んだら、それこそ一年たっても気がつかないんじゃないでしょうかな」
所轄署から来て永野と組んだ富永《とみなが》刑事が、これもまた憮然《ぶぜん》とした表情で答えた。こちらはどうみても強力班の刑事とは思えない優男《やさおとこ》で、口のきき方もおだやかである。
他人のことに干渉せず、プライバシーの尊重という美名の下に、大都会の住人は、他人への関心を極端に失いつつある。自分さえよければよいとする利己主義は、人々をして人間的情緒よりは合理性、ムードよりは機能本位の生活態度に傾ける。
庭や草木に囲まれた一戸建ての情緒的な家を立体換地して、限られた空間に最高の効率と機能を求めた現代の高層住宅に、合理主義の権化《ごんげ》のような人間が集まって来るのは当然であろう。
彼らは生活の手段と、成功の機会を求めてこの都会に集まった。住居は生活の本拠ではなく、眠るための場所にすぎない。ベッドが距離的に接近しているということは、ある特定の男女関係以外は、おたがいの生活に何の影響ももたらさない。それは寝台車のベッドに隣り合わせて眠るのと同じであり、都会のマンションは、現代人が移動の過程で、「見知らぬ旅人」として隣り合わせたにすぎない。
そこがよしんば、生活の本拠であったとしても同じであろう。近くに住んでいるということは、他人に関心をもつことの理由にならないのである。「袖《そで》すり合うも他生《たしよう》の縁」などという情緒的《あまつたれ》なことを言っていては、現代の複雑な人間関係の間を生きられないのであろうか。
とにかくこのような形式の住居の聞き込み捜査は困難をきわめた。
まず第一に留守が多い。日曜日や朝を狙《ねら》って行っても、一体どこで何をやっているのか不思議なほどに留守が多かった。相手をやっとつかまえても、めったに中へ入れてもらえない。マジックミラーを通してモルモットのように観察されながら、訪問者用の戸口電話《ドアホン》で話すのである。
「隣りは何をする人ぞも、きわまったというところだな」
永野刑事は、メゾンを出ると寒気《そうけ》立ったような顔をして傲然《ごうぜん》とそそり立つ建物を見上げた。巨大な壁面に無類の規格性をもってはめこまれた窓々の中に、何か得体《えたい》の知れないモンスターが棲《す》みついているように思われてきた。これからさらに緑川のマンションへ回るのが、仕事とはいえ、うっとうしくなった。
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醜い栄光
1
永野班は手を空《むな》しくして帰ったが、被害者の仕事関係を洗った捜査班に思いがけない収穫があった。
赤羽三郎は最初映画のアクション・スターとしてデビューしたものであるが、俳優としての勘が鈍く、マスクも甘くてファンを捉《とら》える個性に欠けたために、一、二回主演しただけで消えてしまった。
それが半年ほど前、緑川明美の目にとまり、星プロに所属してから、テレビドラマのワキのいいところに顔を出すようになった。最近ではある主要局の、金をかけるので有名な連続大型ドラマの主演の話が出ていた。
識者の間では、力不足という声もあったが、緑川明美が強力に押していたのである。赤羽の仕事関係を当たった石井《いしい》と四《よ》つ本《もと》という二人の刑事は、何故《なぜ》緑川が赤羽の売り込みにそんなに熱を入れるのか疑問を持った。
彼らもテレビで時折り赤羽の顔は見たことがあるが、芸もマスクも大したことはなく、さして魅力のあるタレントとは思えなかったのである。せりふもよくとちり、頭も悪そうだった。
よりによって赤羽ごときを無理に売り込まなくとも、星プロにはもっともっと力のあるタレントがいくらでもいた。
二人の刑事は緑川と赤羽の関係に焦点を絞って捜査を進めた。そしてこの狙《ねら》いが見事に当たって大きな収穫をもたらしたのである。
つまり芸能界にひそかに流れる、二人の間に肉体関係があるらしいという噂《うわさ》を耳にしたのである。もちろんそれは暗い底流の部分をひそかに流れている噂であって、事実と確定したわけではない。
だが刑事は、この噂にがっぷりとかみついた。噂の流れを執拗《しつよう》に溯行《そこう》していった石井と四つ本刑事の二人は、その過程に行きあった、一人の芸能週刊誌の婦人記者から、意味ありげな暗示を与えられた。
「おおっぴらには言えませんが、あの二人がデキてるってことはわれわれの間では周知の事実ですよ。なぜ、記事にしないのか? ですって。いいんですか、記事にしても。いや実はわれわれも取り上げたくってしようがないんですがね、何しろ相手が芸能界じゃ泣く子も黙る緑川明美となると、あとの崇《たた》りが怖《こわ》いですからね」
その記者は緑川にあまりいい感情を持っていないらしかった。男のように乱暴な、そしていささか品の悪い口のききようも、記者言葉ではなく、その反感を示すものらしい。
「二人の関係の確証はあるんですか?」
石井刑事が追及した。四つ本と共に本庁から投入された彼は、刑事部きっての男前といわれていて、女性相手に発揮する聞き込みの腕は抜群である。いまも記者の口がほぐれたのは、その腕によるものである。
「これはちょっと私の口からは言えないなあ。高輪にFという小さなホテルがあるのですが、そこのフロントに聞いてごらんなさいな。私から聞いてきたと言えば、きっと面白い情報を教えてくれるわよ」
記者は急に女らしい口のきき方になって意味ありげに笑った。刑事らはその足で高輪のFホテルへ向かった。Fホテルは清正公前近くの、大通りからちょっとはいった、いかにも有名人の隠れ遊びにもってこいのような、閑静な一角の小ぢんまりしたホテルだった。売春の内偵にホテル側は神経質なので、刑事はホテル側を刺激しないように言葉を選びながら質問した。クラークは、
「確かにお二人共、私たちのお得意さまですけれど、お客さまの秘密は申し上げられないのですが」
と困ったような顔をしたが、内心話したくてしかたがない様子がありありとうかがえた。
四つ本刑事が記者の名前を出した。四つ本はまた石井刑事とは対照的な悪相で、額《ひたい》が突き出し、目と頬《ほお》がくぼんだジャック・パランスばりの顔に凄味《すごみ》をきかせて一喝《いつかつ》すると、たいていの被疑者は竦《すく》み上がってしまう。
いつだったか、追いつめた容疑者と格闘になったとき、通行人がてっきり彼のほうを悪者と思いこみ、容疑者に加勢したために逃げられてしまったという逸話の持ち主である。
「あの人が、喋《しやべ》っちゃったんですか、しょうがないなあ」
とクラークは大形《おおぎよう》に舌打ちをしてから、
「これは、捜査への協力という形でお話しいたしますので、くれぐれも僕の口から出たということは伏せておいてくださいね」
くどくどと念を押した。しかし彼にとっては、警察よりも記者の名前のほうが効いたのである。
「お二人が見えはじめたのは、昨年の十月末ごろからでした。それからは週に一度ぐらいの割でお見えになりました。いつも別々にチェック・イン、つまりご到着になり、別々のシングルを取られるので、まったく関係のない方たちだと思っておりました。ところが一か月ぐらいしてうちのルームメードが、早朝緑川さまが赤羽さまの部屋からひそかに出て来られるところを見てしまったのです。そんなに朝早くから、普通のご訪問とはお見うけできません。それからそれとなく注意しておりますと、お二人はいつも別到着なさいまして、二つの部屋を取り、どちらかのお部屋に合流しているのです。シングルに二人は泊まれないことになっているのですが、もともと二部屋を取られておりますので、黙認しておりました」
こうして緑川明美と赤羽三郎はつながった。石井と四つ本はこの�大魚�を土産《みやげ》に意気揚々と捜査本部へ帰って来た。
2
紀尾井スカイメゾン殺人事件に関連してその所在を明らかにした形の星村俊弥は、麹町署側の事情聴取がすむと同時に、高輪署の捜査本部へ重要参考人として出頭を求められた。
「昨年十月十四日十六時五十五分から二十一時〇五分までどこにいたか」
取調べの焦点はもっぱらそのアリバイに絞られた。これはいうまでもなく、こだま166号の運転時間である。
星村が当日、冬本の替え玉を務めたのであれば、東京まで乗り通したとは考えられない(新横浜から乗りこんで来る冬本とかち合う)ので、特に重要なのは、同列車の新大阪−名古屋間の運転時間、十六時五十五分から十八時十六分にわたる時間帯のアリバイだった。
重要参考人となると、事実上の扱いは、容疑者と同じである。捜査本部の取調べは峻烈《しゆんれつ》をきわめた。
だが星村はそのアリバイを証明することができなかった。彼が映画を観ていたことを、証言してくれる第三者はついに現われなかった。
「あなたの当日の居場所を証明してくれる人は、本当にいないのですか?」
取調べに当たった大川刑事は、言葉こそ、参考人に対するものとしての礼儀を守っていたが、しどろもどろに受け応《こた》える星村に、彼が替え玉になったにちがいないという確信をもった。
「どんなに言われても、そんな前のことなどよく覚えておりませんよ」
星村は馬鹿の一つ覚えのように、同じせりふばかりを繰り返した。
「よろしいですか、あなたはまだ自分の置かれている立場がよくわかっていないらしい。あなたは去年の十月十四日に何が起きたかよく知っているはずだ。ひかり66号の車内で星プロの山口友彦氏が殺され、あなたのスポンサーである冬本信一氏が疑われている。逮捕状こそまだ出ませんが、われわれが冬本氏を疑っているということを、あなたはよく知っているはずだ。冬本氏と特別の関係がなくとも、キクプロの一員としてもね。そのために冬本氏はマネジャーの椅子《いす》からおろされたんでしょう?
冬本氏にはいまのところアリバイがある。だがわれわれはそれが偽《にせ》アリバイであることを見破った。誰《だれ》かが冬本に頼まれて、こだま166号に乗って京都と米原《まいばら》の間から東京二六一−四八六一へ電話した。われわれはその誰かを、星村さん、あなただとみている。いいですか、星村さん、これは殺人事件の捜査なんだ。あなたは最初から事情を知って冬本に協力したのか? おそらくそうじゃないだろう。ただ新幹線の中から電話一本かけてくれと頼まれて気軽に引き受けただけだろう。あとになってから殺人《ころし》の片棒をかつがされたと知って愕然《がくぜん》となった。だが、いまさらそんなことを誰にも言えない。冬本は�口留《くちどめ》料�としてあなたの売り込みに力を入れてくれる。ますます言えなくなってしまう。だが、そのうちに事情が変わった。キクプロが冬本をおろしてしまった。われわれが彼を疑ってることを知って外聞をはばかったんだろう。冷《つめ》てえもんだと思ったよ。しかしおかげであんたはとんでもない�ただ働き�をさせられたことになった。しかし事情を知らなかったんなら、共犯ではなく、道具として利用されただけだ。あとになって事情を知って黙っていたということになると重大だよ。いまのうちならまだ遅くはない。知っていることは全部話してくれ。もうあんたには、冬本を庇《かば》い立てする義理は何もないはずだ。下手《へた》に庇い立てするとかえって損だよ。犯人|蔵匿《ぞうとく》、いや殺人の共犯にもなる。そんなことになったら、タレントとしては致命的じゃないのかね」
しだいに伝法《でんぽう》な刑事言葉になってくる大川の口調《くちよう》は、そのまま彼の自信のほどを示すものであり、星村の必死の抵抗を容赦なく押しつぶした。
キクプロの冷たさは大川刑事に言われるまでもなく、星村が身に沁《し》みて知っている。力を失ったスポンサーを庇《かば》い立てするつもりなど、さらさらなかった。自分を売り出してくれる人間でさえあれば、誰《だれ》であっても、自分の魂まで捧《ささ》げられる用意がある。いままで黙っていたのは、殺人の共犯に仕立て上げられるのではないかという恐怖からであった。そんなことになったら、タレントとしての生命はもう終わりである。
あの美しい虹《にじ》の中に立つ資格を失うことを思うと、ああ、思っただけで、もう生きてゆく気力がなくなってしまう。たとえそれが虚妄《きよもう》の美しさであろうと、束《つか》の間の華麗な虚像であろうと、あそこには確実に自己の存在の主張がある。星村俊弥がここにいるんだと、星村俊弥が生きているのだと、世間に訴えかけることができ、世間もそれを認めてくれる。
——おれにとって、名もなく貧しく美しく生きるなどということは、有名人になれない貧民の戯言《たわごと》にすぎない。名もないということは生きていることではなく、貧しいということは醜いことだ。——
このようにかたくなに信じこんでいる星村にとって、大川刑事が最後にかませた「殺人の共犯になったら致命的だろう」という言葉が、文字どおり彼の最後の抵抗というよりは迷いを崩す致命打となった。
星村はついに陥《お》ちた。捜査本部の睨《にら》んだとおり、冬本の替え玉を務めたのは彼だった。
彼の供述によると、——
「十月十二日の午後、キクプロの事務所でいきなり部長に呼ばれて、明日中に大阪へ行き、その夜は大阪へ一泊し、明後日十四日のこだま166号に乗って十七時二十二分に東京二六一−四八六一へ電話するように命じられたのです。こだま166号なら新大阪を午後の遅い時間の発車だから、十四日の朝の新幹線か飛行機で行って折り返して来ても充分間に合うと言うと部長は、途中何かの事故があってこだま166号に乗れなくなると困るので、安全のために一日前にぜひとも大阪に行っておいてほしいのだと言って、すでに用意しておいたらしい下り新幹線の切符と、大阪の旅館のクーポンと当座の費用として五万円渡してくれました。その際、こだま166号の席は自由席のなるべくすいているところにすわること、口をきかず、周囲の乗客や乗務員の印象に残らないようにすること、十七時二十二分きっかり[#「きっかり」に傍点]に電話をかけることなどをくどいほどに注意されました。電話には千代田荘という旅館が出るから、帳場につないでもらい、井上一郎という名前でその日一泊予約してくれというのです。そしてその日の申込みだから、どうせ予約は取れないだろうが、取れなければ取れないでも、かまわないと言いました。閑《ひま》な体だし、冬本部長の頼みでもあるので、へんな用事だとは思いましたが、引き受けました。私が承知しますと、部長はとても喜び、これからは特別に面倒みてやると言いました。そして、いつも自分が着ているレインコートと背広上下、ネクタイ、それから、ときどきかけるサングラスを出して、明日大阪の旅館を出てこだまに乗りこむとき、この服装をしてほしいと言うのです。腕時計、指輪、タイピンなどの身回り装飾品は一切つけないようにとも言われました。そのとき、私もははんと思いました。部長は私に部長の変装をしてもらいたいのだということがわかったのです。部長もそのとき初めて、『実はある事情があって、十四日どうしても僕がこだま166号に乗っていたということにしないとまずいんだ。だから君が身代わりになってくれ』と言いました。その『ある事情』をはっきり教えてくれないところに、何となく妙な底意を感じたのですが、まさか殺人のアリバイ工作に利用されようとは夢にも思いませんでした。電話をかけ終わったら名古屋で下車して、トイレかどこかで、私本来の服装に戻ったあとは、自由にしてよいと言われました。レインコートなどはあとで返すようにということでした。特に、電話をかけるときには、絶対に係の者の印象に残らないように、できるだけ無色に振る舞うようにと繰り返し繰り返し注意されました。
そして当日私は言われたとおりにこだま166号に乗りこみ、指定された時間に指定されたナンバーをこれまた指定された五号車のビュッフェから申し込んだのです。電話を受けつけたビュッフェのウェイトレスは、ちょうど食事どきで忙しく、まったく事務的でしたから、部長の注文どおり、私の印象は何ものこらなかったでしょう。また彼女がそれほど忙しくなくとも、私もタレントのはしくれですから、そんな�素人《しろうと》�の目を瞞《だま》すのは容易なことです。私としては部長の役を完璧《かんぺき》に演じたつもりでした。名古屋で下り、有料トイレで服装を元へ戻してから、湯《ゆ》の山《やま》温泉で一晩遊んだあと、東京へ帰って来ました。山口さんが前の日にひかりの中で殺されたニュースを知ったのは、帰りの列車の中でした。そのときは事件を部長と結びつけて考えませんでした。私がふと疑惑を持ったのは、捜査本部の人が部長のアリバイについてキクプロ事務所に聞き込みに来たときです。私ははっと思い当たることがあって列車の時刻表を見ました。こだま166号に乗ったことにすれば、山口さんが殺されたひかりに絶対に乗れないという状況になっていることを知ったときの愕《おどろ》き、私の疑惑に気がついたのか、部長は私にいい新曲をもらってくれました。その他にもいろいろと目をかけてくれます。それまで私などその存在さえ知らなかったような部長が、いつも私を意識しているようでした。私の疑惑は確信に変わりました。山口さんを殺したのは部長にちがいないと。——部長にはそれだけの理由がありました。万博の企画を山口さんに骨抜きにされた上に、美村社長まで奪《と》られそうになったのですから。部長の社長に対する執心というか、執念は病的でした。社長はそれをいいように利用していたらしいのですが、さすがに重苦しくなったのでしょう。とにかく山口さんが亡くなる直前のころは、万博企画の奪回の意味もあって、社長が山口さんにすごく傾いていたことは事実です。
私は部長のアリバイ工作に利用されたと思いました。しかし思っただけで、何の証拠もないのです。私が、こだま166号から電話した事実だけでは、部長が犯人ということにはなりません。まさか、部長に向かって、あなたがやったんでしょうなんて訊《き》けません。そんなこと、口が裂けたって訊けやしません。冬本部長に睨《にら》まれたら、もうタレントとしてやってゆけないのです。当時、キクプロにおける部長の権力は絶対だったのです。
刑事さん、わかってください! 単なる自分の思惑だけで人を訴えられますか? ましてその人は自分の生活の鍵《かぎ》を握ってるんです」
冬本にすがりついて必死にスターの座に登ろうと力を振り絞っていた男が、いまは冬本との関《かかわ》り合いを断ち切ろうと懸命にあがいている。
それはあさましい眺《なが》めだった。過去、近ければ近いほどスターの座を約束した距離が、いまは開けば開くほどに彼の安全につながる。確かに犯行当時は、道具として利用されたのかもしれない。だが事件後、冬本の身代わりとして利用された事実を認識しながら、捜査官の取調べに当たって、それを故意に隠した行為は許せない。ただ結果の発生についての認識がないから殺人|幇助《ほうじよ》にはならないだろうが。——
テープレコーダーと並行して、要点のメモを取っていた木山刑事は思った。
参考人を取り調べる目的は、その者が事件に対して置かれている立場を明瞭《めいりよう》にし、これに関する供述を調書にして残すことである。これが公訴公判における重要な資料となるわけだが、参考人には、犯人の復讐に対する恐怖心や、関《かかわ》りあいになるのをきらう気持ちから、捜査機関への協力を好まない傾向がある。
したがって参考人から事件に関する知識を正確に、細大もらさず吐《は》き出させるためには、この心理をよくつかみ、彼らの供述を阻《はば》む障害を取り除いて、できるだけ話しやすい環境をつくってやらなければならない。
だがときには頑《かたくな》な参考人の口を割るために、恫喝《どうかつ》やはったり、あるいは暗示をかけることもある。これは事実と異なった供述を誘う危険を伴うが、これまでの捜査過程において、事件と参考人との関係がかなり明確に把握され、しかも彼の位置が被疑者と紙一重の差に置かれているときは、この種のテクニックが効果的である。少なくとも参考人は、事件との多少の関係が事前に判明しているからこそ参考人なのであって、事件への関係の有無によらずかける聞き込みの相手とはちがうのである。
大川刑事が星村の供述を引き出したのは、まさにこの参考人取調べのテクニックを十二分に駆使してのことだった。
まず、冬本がすでに何の権力も持っていない事実を確認してやり、冬本からの抑止をはずしてやったうえに、「殺人|幇助《ほうじよ》」という恫喝《どうかつ》で、タレントの泣き所を強打してノックアウトさせたのである。
供述の真実性を検討した上で、冬本信一に対する逮捕状が請求された。同日午後、東京地方裁判所より同人に対する逮捕状が発付された。その日は一月二十三日、事件が発生してから四か月目にはいっていた。
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ふた股《また》の参考人
1
麹町署に設けられた「紀尾井スカイメゾン殺人事件」の捜査本部は、石井班が持ち帰った�大|土産《みやげ》�に興奮した。
「緑川と赤羽の間に肉体関係があったということになると、ますます痴情|怨恨《えんこん》の匂いが強くなるな」
この事件の現場指揮者となった中島《なかじま》警部が言った。もともと情事やスキャンダルの温床のような芸能界の人間が殺されたのであるから、まず痴情の筋が考えられた。だがここにその雇い主である緑川明美との関係が浮かび上がってみると、もともと本筋として睨《にら》んでいた痴情のもつれが、事件の動機としていっそうに強烈な光を帯びてくるのである。
「被害者の周辺には他にめぼしい女関係は浮かび上がりませんでした」
住居の周辺から、女関係に捜査の足を伸ばした永野刑事が言った。もともと派手な芸能人で、独身だったから、赤羽と関係のあった女は何人か浮かんだ。しかしいずれも、バーやキャバレーのホステスで、出来心の浮気にすぎなかった。一定の期間つづいた仲の女は緑川明美だけであった。
「大根の赤羽を緑川が強く推していたというのもおかしいのです」
四つ本刑事が言った。そのことへの疑惑が今日の土産を得るきっかけになったのである。石井と四つ本の二人は、緑川の異常なまでの赤羽の売り込み方を報告した。
「他にいくらでも芸達者がいるのに、何故《なぜ》赤羽を選んだのか? 私らは最初それを肉体関係によるものと考えました。しかし赤羽は殺されたのです。体の関係を清算するためにだけ殺すということもありますが、緑川ほどの社会的地位をもつ者が、そんな単純な動機から殺人《ころし》を犯すとは考えられない。現場の模様や、被害者が生前睡眠薬を服《の》んでいた、いや服まされていた事実などから判断して、この殺人が発作や衝動に駆られたものでないことは明らかです。睡眠薬は被害者自らが服んだという考えも可能ですが、それにしては量が多すぎます。あれは犯人が犯行をやりやすくするために服ませたものです。くすりのききめでぐっすり眠っている男なら、女でも絞《し》められますし、また女が男を、それも赤羽のように腕力の強そうな筋骨型の男を殺そうと決意したとき、必ずそうするでしょう。被害者が大量のくすりを服まされていたという事実も、犯人が女であることを示す有力な情況であると思います。
また現場がいかに無関心な都会のマンションであったとしても、第三者にまったく姿を見られずに出入したというのも計画性を感じさせます。
このような計画の匂《にお》いの強い犯罪が、単純に体の関係を清算するためにだけ行なわれたのか?
本来なら社長とその社の専属タレントとして、緑川の立場のほうが圧倒的に強いはずです。一時の火遊びの相手としてならば、殺す必要はないし、簡単に別れるというよりは、捨てられたはずでした。赤羽の体の魅力にうつつを抜かし、惚《ほ》れた男のために仕事の上でも引き立てたというなら殺すはずがないし、またそうでなければ、特に赤羽の売り込みに熱を入れるはずはない。肉体関係、仕事上の便宜、そして殺人《ころし》という発展を考えるとき、緑川明美が容疑者であるためには、どうしてももう一つステップが不足してくるのです。つまり殺人に高まるための踏切板ともなるべきステップがです。私はそれを赤羽が緑川を脅迫していたのではないかと考えます。それも緑川の社会的地位を根本から覆《くつがえ》すような強いネタでです。それが何であるか残念ながらまだ掴《つか》んでいませんが、このように考えるとき、一介の大根役者が、自分の社長である上に芸能界に抜きがたい勢力をもつ緑川に肉体関係と、仕事上の特別の利益供与を強要したことも理解できるのです」
「すると、二人の関係と、緑川の赤羽売り込みは、赤羽に脅迫されていたというわけか」
中島警部が石井刑事の長広舌を遮《さえぎ》った。
「そうです。そうであって初めて、殺人《ころし》への発展がうなずけると思うのですが」
「なるほど、体に惚れたんなら殺すはずがない、そうでなければ特に赤羽だけを引き立てる理由がない。第一、社長とタレントが肉体関係をもつというのも不自然だ。また、よしんば一時の出来心でそうなり、厭《あ》きたのなら簡単に捨てられるというわけか。いずれにせよ殺す必要はないことになる」
警部はいちいちうなずきながら、石井の推理を反芻《はんすう》した。最初はうんざりしたような顔で石井の言葉を聞いていた他の捜査員も、しだいに目を光らせてきていた。
「ですから、これら三つの発展の原動力となった強い力が、脅迫ではないかと思うのです」
「その脅迫のネタを見つけるのがこれからの仕事ということになりますね」
永野刑事が猟犬のような目をした。石井刑事は重大な容疑者を本部にもたらしただけではなく、いまだ推測の域を出ていないが、本件が単なる痴情|怨恨《えんこん》によるものではないことを理論的に導き出した。
「しかし、一つだけおかしな点があります」
富永刑事がおずおずと口を開いた。相も変わらず、気の弱いサラリーマンが、だいぶ前に貸した昼飯の代金の返済を催促しているような口調《くちよう》である。
みなの視線が集まると、彼はますます身を縮めるようにした。だが彼の刑事としての才能はすばらしく、ベテラン刑事の見落としている捜査の盲点を発見して、事件を解決に導いたことが何度もある。
外見いかにも気が弱そうであるが、芯《しん》は強い。最近、本庁捜査一課への異動の話も出ている折りでもあり、彼は彼なりに大いにハッスルしていた。
「石井刑事の推理では、犯人が被害者にくすりを服《の》ませたあとで絞殺《しめ》たということでしたが、そんな手間をかける前に、どうして致死量のくすりを服ませなかったのでしょうか?」
石井はじめ一座の者は、ちょっと虚を衝《つ》かれた表情になった。
「それも確かに、一理あるが、クスリというやつは、服む人間の体力や肉体的条件、その置かれている環境などによって致死量が一定しないものだ。だから、適当な量を服《の》ませたあとで、�とどめ�のつもりで絞めたんじゃないだろうか? それに何に混《ま》ぜて服ませたのかはっきりわからないが、致死量となると、被害者に、くすりを入れたことを気がつかれるおそれがあったからじゃないかな?」
石井刑事の説明で富永は一応納得した。胸の奥に何となくふっ切れないものが残ったが、さらに反駁《はんばく》しなおすだけのとりあえずの論拠が見つけられなかったのである。
致死量では相手に気がつかれるとなると、それは、どの程度の量までならば気がつかれないのか? という問題になると、誰も確答は出せない。それが石井の説明の弱さであると同時に、富永の疑問の弱さでもあった。
「とにかく緑川明美が事件に関係をもっていることは否定できない。彼女のアリバイは初動《しよどう》捜査の段階で一応当たり、高円寺の星プロ事務所に泊まっていたということだが、これを洗い直してみるんだ。石井刑事と四つ本刑事がこれに当たってくれ。他の者はこれと並行して被害者の生前の身辺と、関《かか》わりをもった女を洗いつづけるように」
中島警部が結論を出した。いままでに蒐《あつ》めた資料からみるかぎり、緑川明美が最も怪しかったが、とにかく相手《ガイシヤ》が虚妄《きよもう》の世界を泳ぐ芸能人であるから、どこでどんな怨《うら》みをかっているかわからない。行きずりの情事でも、殺人の立派な動機になり得るのである。
いまのところ、緑川の黒い情況は、その根拠となるべき脅迫の材料が何もわかっていないので緑川一本の線に絞るのは危険であった。
2
石井刑事と四つ本刑事は翌日午前十時ごろ、高円寺にある星プロの東京事務所へ緑川明美を訪ねて行った。彼女がいることを確かめての上である。大阪へ帰ってしまってからでは、何かとやりにくくなると案じたが、事務所にたずねると、まだ二、三日は滞在するという返事であった。
社会的地位のある相手でもあり、それにまだ被疑者と決まったわけではないので、刑事は特にその扱いには慎重を期した。
行ってみて驚いたことに、星プロの東京事務所は、十五階建ての堂々たるマンションであったことだ。環七通りと青梅《おうめ》街道の交差点の近くの一角に、ひときわ高くその巨体をそそり立たせている。全戸南向きの瀟洒《しようしや》な設計である。
外観は都心に林立するマンモスホテルそっくりである。その周囲にも、郊外の閑静だった敷地を機能性と合理性のために立体換地した高層住宅がいくつか見うけられた。大都会の高層化の波がひたひたと、その周辺を蚕食《さんしよく》している気配《けはい》が身に迫るように感じられた。
その中でも緑川明美のマンションがひときわ立派だった。空に突き刺《さ》さるような耐震耐火|完璧《かんぺき》な純鉄骨造りの鋭角的な巨体、冬の午前の硬い光を受けて金色に輝くその上部、入口に掲げられている大理石の表示板には、英語で〈KOENJI CONDOMINIUM〉と彫《ほ》りこまれてある。
「高円寺コンドーム? 変な名前だな」
四つ本刑事が居住者が聞いたら怒りそうな誤読をした。緑川明美の部屋は一階の棟末に近い115号室だった。コールボタンを押すと、ややあって扉《とびら》の内側から覗《のぞ》き窓を通して人の覗く気配《けはい》があり、ドアホーンを通して、若い女の機械的な声が、
「どなた?」
と聞いてきた。こちらの身分を名乗るとドアが開かれ、髪を赤く染めた、派手な顔立ちの女が顔を出した。
話が通じてあったので、二人はすぐに中へ通された。内部は3LDK程度の広さである。
緑川明美はすでに起きていて、南側のテラスに面した八畳くらいの洋間で待っていた。センターテーブルを囲んで型どおりの応接セット、部屋の隅には食器|棚《だな》兼用らしい装飾棚《サイドボード》があり、世界文学全集や百科辞典、それに高価そうな洋酒瓶や、奇妙な形のこけし? などがならべられてある。すぐ隣りは四畳半くらいのダイニングで、続き部屋となっている。間仕切りはカーテンである。
よく磨かれた床の木目が清潔な感じを与えた。
「お待ちしておりましたわ」
明美はにこやかに二人を迎え入れた。他の刑事が初動《しよどう》捜査のとき、被害者の雇い主として彼女に何度か当たっていたが、石井と四つ本が会うのはこれが初めてだった。二人が見たかぎり、成熟した女の、みっしりした量感にあふれた性的魅力豊かな女性であったが、夜の開発を職業とする人間特有の�荒れ�は見られなかった。もっともお手のものの演技で、刑事の手前だけ装っているのかもしれない。年齢も公表されているものよりも五、六歳若く見える。
「ルミちゃん、コーヒーいれて」
先刻、中へ案内してくれた若い女に言いつけた。どうかすると彼女と同年配ぐらいに見えないこともない。刑事がふと見とれていると、その気配《けはい》を敏感に察したのか、
「それとも紅茶になさいますか? あ、本場もののウイスキーもございますけれど」
と艶《なまめ》かしく笑いかけた。刑事はあわててコーヒーでいいと言った。
香りのいいコーヒーが運ばれて来た。もちろんインスタントではなかった。形ばかりに口をつけるつもりだった刑事が底の見えるまでに飲んでしまったのは、それほどに美味《うま》かったからである。
「ところで」
石井刑事は、むしろコーヒーへの未練を断ち切るような口調《くちよう》で本題へはいった。