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作者: 当前章节:15357 字 更新时间:2026-6-22 20:41

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 女の武器

   1

 紀久子は一年の療養ののち、退院すると、東京S大の英語学科へ進学した。最初の英文科志望を、変えたのである。

�文学�は女の武器にならない。当時のアメリカ万能の世相の中で、むしろ英語こそ、女を国際的な舞台へ押し出す強力な武器となってくれると判断したからである。

 二十前の小娘が、英文学と英語学の差を見ぬいたのは見事であった。だが紀久子は、ついにその大学を卒業しなかった。学内の学生バンドに所属して、アルバイトに米軍のキャンプや喫茶店に出演している間に、そのほうが面白くなって、出席数が不足して、二年の半ばで退学を余儀なくされた。

 そこへ、アメリカから凄《すさま》じいジャズの旋風が襲ってきた。そのときに再会したのが、例の初恋の相手、岡倉である。彼はそのときK大の学生バンドでテナーサックスを吹いていた。彼はジャズメンの間でかなり顔が通っていた。

 紀久子は�怨《うら》み�を忘れて岡倉と組んだ。

 何か大仕事をするためには、若い女のひとり身では相手が信用してくれない。紀久子はジャズブームに便乗《びんじよう》して一|儲《もう》けしようと企《たくら》んだ。そのための傀儡《かいらい》として、岡倉を表面に立てようとはかったのである。それに彼の�顔�も欲しかった。

 とにかくこのとき初めて紀久子は、自分の�女の武器�を使った。岡倉と表面上は夫婦のような同棲《どうせい》生活にはいり、芸能プロダクション、「岡倉プロ」を設立したのである。

 初仕事に、紀久子のキャンプ巡《めぐ》り時代のコネをたぐって、アメリカの中堅ジャズメン、アルフォンス・クーパー・トリオを外タレ第一号として呼び、これが爆発的人気を博した。

 折りしも体制側の文化団体が、財界や経営者集団のバックアップによって、「労音」「うたごえ」などの反体制音楽団体に対抗する勢力をつくりあげるために、民間の芸能プロにアプローチしてきた。

 岡倉プロはまさにタイミングよくその時機をとらえてスタートしたのである。

 つづいてロカビリー旋風が吹き荒れた。エルビス・プレスリーの「ハートブレークホテル」が、文字どおり若者の心を破らんばかりの勢いで、彼らを熱狂させた。そしてテレビ時代が開幕した。歌を聴かせるのではなく見せる時代がきたのである。

 岡倉プロは二重三重の時流に巧みに乗って、芸能界の檜《ひのき》舞台へ躍《おど》り出た。岡倉プロが強大になればなるほど、岡倉は、その無能ぶりを露呈していった。

 もともと岡倉には経営の才はなかった。テナーサックスと、日本人にしてはほりの深いマスクによって、一部ジャズメンとファンに顔が通っていただけで、幻影を夢という形にして大衆に売りつける術数《じゆつすう》もなければ、自社独自の商品を持たない、単に芸人のブローカーにすぎない虚業を運営していくだけの権謀《けんぼう》も持ち合わせていなかった。

 岡倉は名義上、社長におさまっていたが、実権はことごとく紀久子に握られていた。無能ではあっても、面白くない気持ちはわかる。酒と女に走った。そのどちらも手もとにふんだんにある。不摂生が堆積して、岡倉はついに胸をやられた。

 紀久子は岡倉が血を喀《は》いた日に別居を宣言した。

「紀久子、貴様はこの日のためにおれと組んだのか!?」

 岡倉は、血にまみれた唇《くちびる》を拭《ぬぐ》いもせずに紀久子をにらんだ。

「ご想像に任せるわ。ただ私は、あなたが、私と初めて接吻《せつぷん》したあと、私の見ている前でうがいをしたことだけは忘れていないわ。ただそれだけのことよ」

 紀久子に感情のない声で言われたとき、岡倉の、紀久子をにらんでいた目から光が消えた。

 岡倉と別れて(追い出して)から、紀久子は、社名を「キク・プロダクション」と変えた。そして、外タレの呼び屋と並行して、タレントの養成を、�営業範囲�として本格的に始めたのである。

 テレビ文化の開幕と、その急激な普及で、タレントの需要は増大した。

 紀久子は時代の趨勢《すうせい》を見ぬき、プロダクションの全力をタレントの養成と売込みにかけた。

 紀久子にとって幸運だったことは、この時期における、冬本信一《ふゆもとしんいち》との出会いである。

   2

 冬本は過去を語らない男だった。紀久子が彼と知り合ったのは、まだ「キクプロ」設立後間もないころ、自社の新人のデビューで名古屋へついて行ったときである。劇場裏の路地で演歌師たちに袋|叩《だた》きにあっていた流しを救った。それが冬本だった。紀久子とほぼ同じ年|格好《かつこう》だった。

 土地の元締めに断わらずに流していたので、私刑《おとしまえ》をつけられたそうだった。

 寄ってたかって撲《なぐ》られたとみえて、自力では歩けない彼を、車で病院まで運んでやって手当をさせた。

 翌日、包帯で顔をぐるぐる巻きにした冬本は、紀久子のもとへ挨拶《あいさつ》にやって来て、救《たす》けられた礼にと、自分で作詩作曲したという歌謡曲をギターの弾《ひ》き語りで何曲か歌った。

 歌そのものは、声にフィーリングとボリュームがなく、上手《じようず》とはいえなかったが、曲はなかなかよかった。譜面はまだ書けぬらしく、諳《そら》で憶えたものを歌っているらしい。

 それを契機に、冬本はキクプロへはいった。入社後、作曲家としてよりは、渉外的なかけひきに特異な才能を発揮して、たちまちマネジャー格になった。

 冬本はまず有望新人の発掘に圧倒的な情熱と才能を見せた。

 彼は、テレビ局のプロデューサーやディレクターへの所属タレントの売込みが実に巧妙だった。酒席、猥談《わいだん》、ゴルフ、マージャン、ありとあらゆる機会をつかんで彼らに接近し、自社専属のタレントを売りこんだ。

「ビジネスとはいえ、しょせん人間のやるものだ。計算と儲《もう》けの中に必ず感情のはいる余地がある」

 と言う彼自身のほりの深い翳《かげ》の濃いマスクは、感情というものをまったく喪失したように、硬かった。プロデューサーたちに見せた�ご用聞き�スタイルの反動が、社内で、彼の表情を喪失させているようであった。

 事実彼の能率原則に基づいた利益管理の思想は、徹底して非情であり、紀久子からその手腕を認められて人事権を任せられるや、見込みのない人間は片っぱしから整理していった。

 あまりの酷《きび》しさに、さすがの紀久子も見るに見かねて注意すると、

「キクプロは企業ですからな。損失《ロス》は容赦なく摘発しなければなりません」

 とせせら笑った。

「でもタレントも人間なのだから」

 紀久子が柄《がら》にもない抗議をしかけると、

「社長!」

 冬本は凄味《すごみ》をおびた顔になって、

「タレントを人間だと思ってはいけませんよ。彼らはキクプロという企業の商品にすぎません。つい二、三か月前までは、そこにもここにも転がっていた�芋《いも》っ子、どじょっ子�を、今日はスターの栄光にくるませて、美しい虹《にじ》の上に立たせてやるのです。たっぷりと稼いでもらわなければなりません。キクプロは慈善事業ではない。投資に見合うだけの稼《かせ》ぎをしない連中にはどしどしお引取りいただきます。またそれに徹したプロダクションだけが生き残っていけるのですよ」

 こうして冬本はロスを容赦なく摘発する一方、専属タレントのギャラのピンハネを厳《きび》しくしていった。一千万もギャラを取る人気GS《グループサウンズ》に五万円ぐらいしか支払わないという芸当を平気で行なった。

 もちろんこのようなタコ部屋まがいの搾取《さくしゆ》に叛旗《はんき》をひるがえすタレントも出る。

 そのときこそ冬本は生来の酷薄さをあますところなく発揮して、彼らを葬り去った。

「サル芝居のサルが、少しばかりお客の拍手をもらうと、もう自分の�芸�の力のような錯覚をする。奴らがスターになれたのは、キクプロという操《あやつ》り師のおかげなのだ。一匹《いつぴき》 狼《おおかみ》で生きていけるだけの才能も実力もないくせに」

 そんなとき、冬本は唇《くちびる》の片一方のはしを少しつり上げて笑うのだ。こうして消えていったタレントの数は決して少なくない。

 芸能プロダクションは、主としてテレビ局にタレントを斡旋《あつせん》するのが業務である。したがってテレビ局のほうからお座敷をかけてくれないことには商売にならない。

 だが売れるタレントを多くかかえていると、この力関係が逆になってくる。スターを多く擁《よう》していれば、ギャラを払って商品を買う立場のテレビ局を、本来彼らの仕事である企画そのものすら売りつけて支配することもできる。

 冬本の狙《ねら》いは、まさにそこにあった。

「芸能プロがテレビ局の�ご用聞き�であるかぎり、いつまでたっても、遊びのブローカーの域を出ない。現場のプロデューサーやディレクターをプロダクションの私兵にしてしまわなければ、この世界に君臨できない」

 こうして冬本はスターの�量産�に励んだ。�原材料�に不足はなかった。有名病にとりつかれた、単細胞の若者にキンキラの衣装《いしよう》を着せてブラウン管に登場させるだけで、簡単にスターになった。

 彼らは歌や芸がうまい必要はない。要するに、単なる�見せ物�にすぎないのだから。初めて舞台に立って言うせりふも驚くほどに似通っている。

「歌が恋人です」

「一生懸命勉強します。どうぞよろしく」

 そして新製品の|寿 命《ライフサイクル》と同じようにまたたく間に燃えつきる。前の製品を早く消すために次の製品を産み出すのだ。この高速回転の中で、インスタントのスターは、憬《あこが》れの上流社会の空気をほんの匂《にお》いだけ嗅《か》がせられる。それでも彼らは、束《つか》の間の(無意味な)燃焼のために、目をきらきらさせながら青春の無量のエネルギーを実に気前よく蕩尽《とうじん》してくれる。

 この比類ない寛大な蕩尽が、そのままキクプロを肥《ふと》らせる栄養となった。冬本は利潤の一部を割《さ》いて芸能週刊誌を創刊した。表面上は別会社にしてあるが、完全子会社である。これに専属タレントの徹底したチョウチン記事をかかせる。また、叛旗《はんき》をひるがえした者は、スキャンダルを暴露、あるいは捏造《ねつぞう》してたたきのめす。

 こうしてキクプロは着実に芸能界に勢力を伸ばしていった。

 冬本信一は、鋼鉄の機械のようにキクプロをおし進めていった。だがその機械のエネルギー源は何だったか?

 紀久子は女心の敏感さから、それが彼の、自分へ向けた熱い感情によるものであることを悟《さと》っていた。

 それを知りながら、あえて気づかぬふりをして、紀久子は、この忠実な機械を磨滅《まめつ》しつくすまで使おうと思った。その点で、彼女は、冬本以上に冷酷であったといえる。

 ともあれ冬本という最高の軍師であり、偉大な道具を得て、紀久子の版図は大きく伸長した。

 かつては自分のメリットを利用してスターになろうとした紀久子は、今、スターを支配し、そして今度は、スターが大衆にあたえる|遊び《レジヤー》そのものを支配しようとしたのである。

 工業化が行きつく先は、マス・レジャーの世界だ。そこでは遊びを支配する者が、すべてを支配する。

 紀久子は、ついに自分の最後の夢を見出したように思った。だが彼女は気がつかなかった。かつて少女時代、澄んだ虚空《こくう》にかけたきらきらするような夢は、彼女が生きてきた虚業の汚濁にどっぷりと浸《ひた》り、芯《しん》から歪《ゆが》められてしまったことを。

   3

 こうして日本の一流芸能プロとして確固たる地盤を築いた紀久子に、万博の準備いっさいを司《つかさど》る「万博準備委員会」通称「万準《ばんじゆん》」から、ポピュラー部門を担当するプロデューサー候補として企画試案を作製提出するように依頼があった。

 これは実に魅力的な話だった。万博プロデューサーの肩書がつけば、今まで日本の一介のプロダクションにすぎなかったものが、世界的に名が通るようになる。

 メリットはそれだけではない。万博用に呼び寄せた世界のタレントを、そのついでに[#「ついでに」に傍点]日本の主要都市で公演させられる。紀久子はその稼《かせ》ぎを少なくとも三億と見積もった。

 万博ホールに勢揃《せいぞろ》いする世界のタレント、フランク・シナトラやハリー・ベラフォンテ。ジョーン・バエズのフォークの祭典もやろう。ロンドンのポップ・シンガーもごっそり連れて来る。

 紀久子はすでに「人類の進歩と調和」のために集まった世界のタレントの面々を綺羅《きら》星のように瞼《まぶた》にえがいていた。

「何としても万博プロデューサーのポストは手に入れなければ」

 それは紀久子が今まで見つづけてきた夢の中で最大のものだった。

 この話が出たのは、北の暗い海に面した病院を脱《ぬ》け出してから十数年目のことである。女の武器を最高に利用してついにここまで登りつめてきた感慨があった。ここまでくるために何人かの男たちに体を委《ゆだ》ねたこともある。しかしいつでもそれ相応の、いやそれ以上の代償をもらった。一度として安売りをしたことはなかった。

 紀久子は、女の武器は使えば使うほど、その威力、つまり�商品価値�を減ずるものだと信じている。だからそれを愛とか恋とかいう得体《えたい》の知れない感情の燃焼のために、安売りというよりは、無《コンプリ》 料《メンタリ》で提供する女たちの気が知れなかった。

 女が男たちに打ち克《か》つ唯一の武器を、そんなもったいない方法で消費するからこそ、女はいつまでたっても男に従属していなければならない。いつ、いかなる場合でも、女の武器をビジネスの道具としてガメツク利用してこそ、女が男から独立して自分の夢に生きられるようになるのだ。

「それが証拠に私を見て。いまや万博のプロデューサーとして、世界的に名が通ろうとしている。三十二歳の女のひとり身でよ。もし私が、自分の商品価値を安売りしていたら、今ごろどうなっていたか。団地の幸せ奥さまとして二、三人の子どものママとなり、デパートの特売場の掘出物に、最高の生きがいを感じていたことだろう」

 でもそれは、紀久子にとって女であることの特権を自ら放棄するようなものであった。

 女の生きがいと、幸せ奥さまの幸福とは、まったく異質のものである。紀久子は北国の病院で自分の女としての価値を意識してから、女でなければ生きられないような人生を生きようと決心したのである。だがそれを完全に自分のものにするためには、まだ克服しなければならない大きな障害が残されていた。

 現在キクプロに真っ向から対立しているプロダクションに、関西の新星プロがある。通称「星プロ」で通っている。

 規模も歴史もキクプロと大差なく、スターづくりのうまさという点において、つねにキクプロと並び称されていた。

 連ドラに人気専属タレントを出演させると、それと抱き合わせにして次々と新人を送りこむ手法など、まったくキクプロと同じである。

 現在活躍中の人気タレントのほとんどすべては、この二社のいずれかに所属しているといわれるくらいに、キクプロと星プロは、ブラウン管という巨大な視聴者|媒体《ばいたい》を通して競合していた。

 キクプロが�遊び�の提供に徹底しているのに反して、星プロはやや芸術がかっていた。自社の財源として経営している「新星芸術学院」において、インスタント・スターの粗製乱造だけではなく、バレー科や声楽科を設けているのもその現われである。

 紀久子はそれを、子どもをスターにしたくてたまらない虚栄心の強い親たちを惹《ひ》きつけるための�|糖 衣《シユガーコート》�にすぎないと思っていた。

 芸術のイメージは、ハイソサエティの親たちに大きな説得力をもつ。ミーハー族のスターにするのではないというプライドは、多額の投資を惜しませない。

 現在大阪事務所のそばに五階建ての�本社ビル�を建築中で、ビルの竣工《しゆんこう》と同時に、番組の自主製作を中心とした多角経営に乗り出そうとしている。名実共にキクプロに対抗する一大勢力であった。

 しかし少なくとも星プロには、芸術を創《つく》ろうとする意欲の感じられることは確かである。

 この星プロの主宰者が、緑川明美である。年齢は自称二十九歳、紀久子はかなりサバをよんでいるとみていたが、外見は残念ながら紀久子と同じくらいに若く、そして美しいのだ。

 だがその表情や特徴は、およそ紀久子と対照的だった。

 まず顔は、理知的な紀久子と異なり、愛らしさと親しみやすさがあふれている。目は小さく、口元は受け口でややしまりがないが、何とも甘い感じで、性的魅力があった。小さい目を、アイラインとアイシャドウで強めて、つねにほほえみを絶やさぬ優しさの中に、母性愛とお色気をたっぷりとたたえていた。体の線にもみっしりとした量感が感じられる。

 紀久子は聡明《そうめい》さとミステリアスな翳《かげ》においては明美にひけ[#「ひけ」に傍点]をとらない自信があったが、女の優しさと、女|臭《くさ》さにかけては、彼女に少しコンプレックスを覚えぬわけにはいかなかった。

 その明美が、おこがましくも�芸術�を標榜《ひようぼう》している。もちろん彼女の本心は、そんなものをみじんも意識しているはずがない。キクプロと自分に徹頭徹尾対抗するために打ち出した�営業姿勢�にすぎない。

 だが紀久子にとってはもっと面白くないことがあった。それは明美が、紀久子よりも若い年齢を公称し、それが通用している事実であった。

 紀久子はビジネスの上ばかりでなく、女としても、明美に最も手強《てごわ》いライバルを感じていたのである。

 その緑川明美にも、万準《ばんじゆん》から、試案作製の依頼が出ていた。つまり、両者のプランを比較検討したうえで、すぐれているほうをプロデューサーにしようというのである。

 万博の催し物を総括しているのが、万準の「企画第一部」である。この下にお祭り広場と野外劇場を受けもつ催し物第一課、朝日フェスティバル・ホールにおいてクラシック部門を担当する催し物第二課、そして万博ホールのポピュラーをメインにする催し物第三課がある。だが、この三課が有機的に協力して総合的な企画製作を行なうのではなく、�万準�から催し物の�全権�を委託された関西劇場の社長、村上英輔《むらかみえいすけ》がジェネラル・プロデューサーとして、三課をそれぞれに担当するプロデューサーの人選権を握っていた。したがって試案の価値判断は村上社長の胸三寸で決まる。

 すでに一課と二課のプロデューサーは決まり、三課のプロデューサーの決定を残すのみとなっていた。もちろんその椅子《いす》は一つしかない。それにすわるべき候補者として美村紀久子と緑川明美の二人があげられたのだ。

 どちらも譲れなかった。事業的なメリットもあったが、それよりむしろ、女の面子《メンツ》がかけられていた。

「他の人にとられるのであればとにかく、緑川明美だけには渡せないわ」

 紀久子は、キクプロ設立以来、自分の手足となって働いてくれているマネジャーの冬本信一に言った。

「先方でもきっと同じことを言ってるでしょうな」

 冬本は生来の能面のように硬い表情のまま答えた。

   4

「まず、呼び寄せられる外タレの質と数がものをいいますね」

 冬本はひとり言《ごと》のように言った。

「アンディ・ウイーヴァーはこっちが強いが、ジャック・カーモディはむこうが絶対だ。ビンセント・シンガーズがこっちなら、先さまはニューヨーク・ナンバーワン・ダンサーズをかかえている。この戦い、五分と五分ですな」

「ねえ、冬本さん、そんな他人《ひと》ごとみたいに言わないで。私、何としても、万博プロのポストは取りたいの。これが取れないようだったら、芸能プロをやめるわ」

「やめるとは穏《おだ》やかじゃありませんね。もうキクプロは、社長の私意だけで簡単にやめられるような中小企業じゃありませんよ」

「だったら、この競争にぜひとも勝たせて」

「大丈夫です。僕だってむざむざ負けはしませんよ。成算はあります」

 冬本の能面の表情に初めてふてぶてしい笑いが浮かんだ。笑うと右の上《うわ》 唇《くちびる》の端が少しつり上がり、能面のときよりも酷薄な表情になる。

 そのとき冬本は、この競争には紀久子のためだけではなく自分のためにも負けられないと思った。

 彼は星プロのマネジャー、山口友彦の中胚葉《ちゆうはいよう》型の下顎《したあご》の張ったガッチリした顔を思い出した。星プロの凄腕《すごうで》マネジャーとして、つねに冬本のむこうを張っている男である。単にライバル会社の人間というよりは、個人的なライバルでもあった。

 海外一流タレントにも広く顔が売れており、特に外国レコード関係においては、トモ・ヤマグチといえば知らない者はないくらいである。

 これが、星プロから正面切って海外タレント呼びこみ合戦を展開するとなると、相当の苦戦を覚悟しなければならない。

 だがこちらにも強い面があった。冬本は世界的なジャズ評論家、笹江浩一《ささえこういち》の知遇を得ており、そのコネで世界的なジャズメンを一手に集められる自信があった。

 美村紀久子と緑川明美の力関係が五分と五分であるように、冬本と山口もまったく同じ高さで対立していた。山口に敗《やぶ》れることは、呼び屋としてのプロフェッショナルの誇りを踏みにじられることを意味している。

 それにもう一つ、冬本には山口に負けられない理由があった。それは山口がどうやら紀久子に想《おも》いを寄せているらしいことであった。

 女とはおよそナンセンスの集約物で、唯物的な存在だと信じ、今まで、数え切れぬほど接した女たちもすべてそのように遇してきた冬本だったが、紀久子だけは別の目で見ていた。

 名古屋の裏路地で、やくざの流しに袋|叩《だた》きにあったところを救われたからではなく、自分が長い間捜し求めていた女のイメージが、紀久子の中にあった。

 冬本は紀久子に初めて逢《あ》ったとき、「この女だ」と思った。それからの自分の人生を紀久子に賭《か》ける気になったのは、そのためである。

 紀久子の手足となってはたらくようになってからも、行き当たりばったりに、たくさんの女を抱いてきた。だが紀久子だけには手が出せなかった。ほかの女ならば品物なみにあつかえるのに、彼女の前へ出ると心身が金縛《かなしば》りにあったようになって、口もろくにきけなくなってしまう。

 社長としての威圧感によるものではもちろんない。長い放浪のおかげで、どこへ行ってもめしは食える自信はあった。

 青臭《あおくさ》い言い方をすれば、紀久子は冬本にとって「永遠の女性」だったのである。

 男の欲望は、ほかの道具なみの女の体で満たし、精神の飢えを紀久子につくすことによって癒《いや》しているのだった。

 その永遠の女性に、山口は露骨な色目を使っていた。自分が神格化している女に、そのような視線を浴びせられるだけで、冬本は我慢ならなかった。

 山口には�恋敵《こいがたき》�としても絶対に負けられない立場にあったのである。

「成算ってどんな?」

 紀久子は、そんな冬本の胸の内を知ってか知らずか、おたがいの息がかかるほど近くに顔を寄せて、例の魔性《ましよう》の翳《かげ》りを帯びた目で見上げるのである。

「ジェネラル・プロデューサーになった村上社長は、公正な人です。タレントの質と企画の優れているほうを選びます。今も言ったようにタレント動員力は五分と五分です。だから勝負は企画です。キクプロ独自の企画として絶対に他の追随を許さないプランを作れば、星プロを負かせます。その企画を私に任せてください」

 冬本は、ちょっと手を伸ばせばそのまま接吻《せつぷん》の姿勢に移行できる体位を空《むな》しく費やしながら言った。

 この魔性《ましよう》の翳《かげ》りを秘めた目を、万博プロデューサーの肩書を取った喜びに輝かすために、ぜがひでも星プロを圧倒するプランを作らなければならない。と同時に、世界のタレントに、山口に先がけて交渉を始めなければならない。

�美村派�と見られるタレントの安定工作と、緑川派の切りくずし。�中立�には少しでも早くつばをつける必要があった。

 ——忙しくなるぞ——

 冬本は体の芯《しん》から闘志が噴き上がってくるのを感じた。

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 万博戦争

   1

 一課と二課の企画は、大づかみだがほぼできあがっていた。冬本の見るところ、誰《だれ》がやってもまずこれ以上のものはできそうもない優れた内容であった。

 まず一課のお祭り広場の担当は、宝塚歌劇団の渡辺武雄《わたなべたけお》氏が演出する「日本のまつり」が、万博会期中三部に分けてお祭り広場をいろどる。

 北海道から九州まで各地方のまつり約百種を二万人の老若男女の出演によって披露《ひろう》する。さらに「世界のまつり」として、「スカンジナビアのまつり」「カナダのまつり」「アフリカのまつり」「ベルギーのまつり」など。

 これをいっそうあでやかに彩《いろど》るために、「世界の花まつり」や「ミス・インターナショナル世界大会」が用意されている。

「子どものまつり」がある。「若人のまつり」がある。「音と光のファンタジア」が、お祭り広場を無数の色彩の渦《うず》と化し、壮大なページェントを現出させる。タレントもシカゴの消防隊、カナダ騎馬警官、タイの象、デンマークのサーカス、祇園《ぎおん》の舞妓《まいこ》、ヨーロッパのバレリーナなど、ありとあらゆる顔が揃《そろ》う。

 二課のクラシック部門は、まずルドルフ・ゼルナーの演出によるベルリン・ドイツオペラ及びボリショイ・オペラが顔をそろえる。管弦楽団は、パリ、ベルリン、レニングラード・フィルハーモニイ、交響楽団はNHKをはじめ、日本フィルハーモニイ響、ニューヨーク・フィルハーモニック響、モントリオール響、さらにローマ室内歌劇団や幻の名ピアニスト、リヒテル、ソプラノのデラ・カーザやフルートのオーレル・ニコレを揃《そろ》えた「スイスの夕べ」等々。

 三課の企画とは種類がちがうので競合することはないが、これら絢爛《けんらん》豪華な企画に麻痺《まひ》している�万準�やジェネラル・プロデューサーの村上を惹《ひ》きつけるためには、よほど優秀な企画を編《あ》まなければならなかった。

 冬本はえりぬきのスタッフと共に連日討議を重ねた。万博に必要なものは、「夢と驚き」であるといわれている。これをポピュラー部門においていかに創造するか? より多くの夢と驚きを企画に盛りこんだほうが、万博プロデューサーの栄冠をかち取るのだ。

 しかし、どんなにすばらしい企画をつくってみたところで、それが実行不可能なものであっては、何にもならない。実現可能の裏づけがあって初めて万準に提出できるのである。

 冬本は連日連夜討議検討を重ねながら、同時に、企画のメインとなるべき�外タレ�に、次々に出演の交渉を進めていった。

「もし万博プロデューサーが取れなかったらどうするのですか?」

 スタッフの中にはさすがに心配する者もあった。総予算八億円とも十億円ともいわれている万博ポピュラー部門の中で大きなウェイトを占める外人タレントを、到底一プロダクションの力で呼べるものではない。

 それをすでに万博プロデューサーになったような形で交渉を進めては、そのポストを星プロに奪われた場合に、どう収拾するつもりなのか? それは当然の懸念《けねん》であった。

「うちが必ず取る。大体外タレの出演の内諾《ないだく》ほどあてにならないものはない。みんな本契約でかためなければ、山口に引っこぬかれる。いいタレントはむこうでも必ず狙《ねら》うからな」

「しかし、万一ということがあります」

「万一取れなかったときは」

 冬本は一呼吸してから、

「キャンセルできるやつはキャンセルする。できないような大物は、うちで契約どおりに呼ぶんだ」

「うちで呼ぶんですって!?」

 スタッフは目を剥《む》いた。

「万博と張り合って、うち独自の企画で呼ぶ。�エキスポ・ポピュラー�と�キクプロ・ポピュラー�の競演さ。それがいなくては、万博ポピュラー企画が成り立たないような�目玉�をみんな引っこぬいて、万博の向こうを張ってやる。万博からごっそり客を奪ってやるんだよ。そのためにも、今のうちから本式に押えておく必要があるんだ。しかしまあそんなことにはならんから安心しろ。万博プロデューサーは必ずこちらがいただく」

 と言い切った冬本の目には、確信と、何が何でも紀久子に、世界のタレントが手を取り合って歌い、おどる人類交歓の場、万博ホールの演出をさせてみせるという執念があった。

 国際電話をフルに使ってまず主要外タレの内意を問い、腕っこきの社員を現地へ飛ばせる。キクプロの名声と、万博出演の魅力に、かなりの数の有力外タレが確保されていった。

 もはやあとには退《ひ》けなかった。呼び屋が不当にキャンセルしたら国際問題にも発展しかねない。数年前に呼び屋がよくやった、ヨーロッパやアメリカの片《かた》田舎《いなか》から三流タレントを引っ張ってきて、世界的タレントとして無邪気な日本人観客の前に出すのとはわけがちがう。

 いやしくも万博企画に乗せる一流タレントばかりである。万博プロデューサーが取れなかったからといって、そう簡単にキャンセルできる相手ではなかった。

 大体最初から万博プロデューサーのような顔をして話をもちかけているのである。

 スタッフたちにも、自分らの置かれた切羽《せつぱ》つまった情況がひしひしとわかった。

 企画はしだいに煮つまっていった。

 六つのテーマにわけた会期の中で、まず第一テーマの三月には、アメリカ放送界で二十年もベストワン番組になったエド・サリバン・ショーをあてる。

 四月の第二テーマはフォークやカンツォーネでかためる。

 五月にはキクプロの得意の、全国歌謡フェスティバルをもってくる。

 そして第四テーマで万博ポピュラー随一の目玉としてフランク・シナトラを据《す》える。

 後半のテーマを、シャンソンやジャズでしめくくる。——

 冬本はこの企画に絶対の自信をもった。いかに星プロの力が大きくとも、山口友彦がやり手であっても、これだけバラエティーに富んだ企画の編成と、有力外タレの動員力はあるまい。

 現に、冬本が早手回しに社員を出張させた外タレには、まだ星プロはほとんど手をつけていなかった。冬本は勝利を確信した。

 あとは提出期限まで待つだけである。あまり早期に提出すると、新鮮味がうすれるばかりか、ひょっとして万準の中に星プロの息のかかった者がいて、企画がもれるおそれがあった。

 青天《せいてん》の霹靂《へきれき》ともいうべきニュースが伝わったのは、そういう矢先であった。

 つまり、フランク・シナトラが米国最大の犯罪シンジケート「マフィア団」とつながりをもっていることが明るみに出たのである。

 芸能人と組織暴力団のつながりはよくあることだったが、国家的行事の万博に、そのような�暗いタレント�を万準が歓迎するはずがない。

 だがシナトラは、練りに練った企画の要《かなめ》ともいうべき目玉だった。この目玉を抜かなければならないとすると、企画そのものをもう一度根本的に練り直さなければならなくなる。すでに契約した他の外タレの編成にも影響してくる。

 冬本は一瞬途方にくれた。だが、衝撃はさらにつづいた。それはキクプロの�スポンサー�として絶対の信頼をおいていたジャズ評論家の笹江浩一が、星プロに寝返ったのだ。

 信頼が堅かっただけに、冬本も笹江の安定工作をしなかった。そんなことをする必要はないと思っていたのである。

 そこをまんまと山口に狙《ねら》われたわけである。冬本は安定|株《ぎよく》を買い占められたような気がした。

「先生ひどいじゃないですか!」

 冬本は詰《なじ》った。

「いやすまんすまん、君の顔を見るのが辛《つら》かったよ。しかしねえ、君のほうに同じ企画があるとは知らなかったんだ。山口君に泣きつかれて断わりきれなかった」

 笹江はてれくさそうな顔をした。ポピュラーにジャズはつきものである。いずれキクプロから話のくることがわかっておりながら、星プロのために動いたのだから、山口にかなりの金を積まれたのにちがいなかった。

「先生、せめてロック・ホワイトマンと、パッド・マシューだけ何とかしてくれませんか」

 この二つともにアメリカ随一の人気ジャズバンドであり、ジャズの目玉として絶対に欠かせないものだった。呼び屋がジャズを狙うときに、まずこの二つの楽団に目をつける。これを山口はいち早く押えていた。

「あまり無理を言ってくれるなよ。もう契約もすんでるし、僕の力ではどうにもならんよ。山口君との話し合いで、譲ってもらう以外にないな」

 笹江は世界の一流ジャズメンに顔が通っている。彼が出演交渉の口をきけば、現在活躍中の一流ジャズメンの約七割が集まるだろうと言われているくらいである。

 その彼が、そう言うのであるから、ロックとパッドに関してはもはや絶望的な情況がよくわかった。しかし、山口に交渉できるはずがないし、したところで、徒《いたず》らに嘲笑《ちようしよう》を買うだけである。

 ジャズ抜きのポピュラーとは、およそしまらない企画となる。フランク・シナトラを喪《うしな》い、今、ジャズが抜け落ちようとしている。

 あの万博ホールいっぱいに響く本能的なリズミックな変奏、一瞬一瞬の演奏が絶対に再生できない一期一会《いちごいちえ》のコレクティヴ・インプロビゼーション。瞬間に生産され、瞬間に消費されるはかなくも生き生きとしたビート。それが自分の精魂《せいこん》傾けた企画から、手にすくった水のようにもれ落ちようとしている。

「ジャズはなんとしてもつかみ取らなければ」

 宙に据《す》えた冬本の目は暗かった。その中で燃えている炎の色が暗かったからである。

   2

「冬本さん、一体何をやってんのよ? 笹江先生の口ききでパッド・マシューやロック・ホワイトマンを星プロに奪《と》られちゃったじゃないの」

 紀久子の口調《くちよう》は酷《きび》しかった。

「なんとかしますよ」

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