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精神分析殺人事件
他四篇
森村誠一
目 次
精神分析殺人事件
催眠術殺人事件
精神分裂殺人事件
麻薬分析殺人事件
児童心理殺人事件
[#改ページ]
精神分析殺人事件
1
その少年は常に孤独だった。家にいても学校へ行っても、いつも親や友だちから離れてポツンとしていた。
しかし彼は別にそれを寂しいとも思っていないようだった。おとなたちは少年が、群れ遊ぶ友だちから離れてひとりでいる時、彼がいつも一つの�儀式�に熱中しているのを知っていた。
それは手当たりしだいにバッタやカマキリやキリギリスなどのミドリ色の昆虫《こんちゆう》を捕えてきては、モグラの穴に石板と小石でつくった小さな食肉処理場で、まず羽を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ、次にとがった石で頭をちょん切り、最後にバラバラになった哀れな�犠牲者�の死体を穴の中に埋めてしまう、という遊びであった。
少年はその遊びをまるで儀式のように、同じ順序で飽きもせずにいつまでもつづけた。
少年の家は田舎《いなか》にあって、遊びの素材の昆虫にこと欠かなかったので、彼は虫の出る季節になると、友だちから離れて執拗《しつよう》にこの奇妙な儀式をつづけていた。
子供が虫を殺したり、カエルやトカゲを解剖したりするサド的な遊びに興味を持つことはある。しかしこの遊び以外の子供らしい遊びに、まったく興味を示さないとなると、異常であった。
しかも少年の対象は、青やミドリ色の昆虫だけにかぎられていて、セミ、トンボ、コオロギ、あるいはトカゲや蛇《へび》などの小|爬虫《はちゆう》類は、まったく見向きもしなかった。
おとなたちが少年の残虐な遊びを嫌《きら》って強く叱《しか》ると、少年の姿は、いつもの屠殺場から消えた。しかし間《ま》もなく、また別につくった新たな屠殺場で、儀式のように例の遊びをつづけている姿を見つけるのである。
美しい夕焼けのひろがる夏の夕方、草原を駆けめぐって遊ぶ他の子供たちに比べて、草原の一角にひっそりとうずくまって虫を殺しつづけている少年の姿は、周囲に、おおらかで健康な子供たちが群れ遊んでいるだけに、陰惨で不健全に見えた。
2
「きみは宿題をまたやってこなかったのね。夏休みの前にあれほど言っておいたのに、どうしてやってこなかったの!?」
三年四組の教室で、若い女教師|中原《なかはら》の声が鋭くひびいた。腕白盛りの少年少女を五十人あまり集めた教室は、水を打ったようにしいんと静まりかえった。
彼らはこれから何が起きるか知っているのである。
「さあ、言ってごらんなさい。なぜ、宿題をやらなかったの!?」
中原は、最前列にいる頬《ほお》のうすい、目ばかりぎょろぎょろ光らせた生徒の前に立った。なんとなく消化不良のような顔色の悪い生徒であったが、服装などは特に粗末というほどではない。
だいたいこの地方は、県北部の穀倉地帯として裕福な農家が多かった。
「また、だんまりをきめこむつもりなのね。先生を馬鹿にしているわ。いいわ、わけを言うまでは立っていなさい」
中原は声を険しくした。大学を出たばかりでこの学校に赴任して来て、まだ数年にしかならない中原は、小学校の教師とはとうてい思えないような肉感的なプロポーションと、花やかな面立ちをもっている。外見だけでなく、することもなかなか意欲的で、カラーダイナミックスだとか言って、従来の壁の色を変えたり、生徒の家庭をひんぱんに訪問したり、熱意のあるところを見せた。
同僚の若い男性教師はもちろん、付近の若い男たちが、もう一度小学校へ戻りたいと騒ぐほどの美人教師が、いま本気で怒っていた。
中原の前にいる生徒は、どうしたわけか、彼女がクラスの担任になったときから反抗的で、宿題を一度もやってきたことがなかった。
テストの成績は特に悪いというほどではなかったが、宿題はぜったいにやってこない。宿題だけでなく、教室で中原が「なになにをしてはいけない」と生徒一同に訓示すると、故意にそれをした。
いままではしなかったのに、中原が注意したので、かえって犯すような、まるで反逆のために反逆しているようなところがあった。
中原も、その生徒のそういう性格をよくのみこんでいたから、夏休みの前に職員室へ呼んで、二人だけで話し合い、必ず宿題をやってくるという約束を交したのである。
それがまた何もやってこなかった。わけを聞いても、口をへの字にひきしめたまま、底光りのする目で中原を見上げるだけで、何も答えない。
中原が怒るのも、無理はなかった。他の生徒はよくなついてくれたのに、この生徒だけが、執拗《しつよう》に反抗している。前の担任の先生から引き継ぐときも、その生徒に関して特に注意を受けていない。
ということは、自分だけに示している反感なのか。彼女はその生徒ひとりに引きずりまわされているように感じた。カッとなったあまり、おもわず生徒の頬を叩《たた》いたこともある。
すべすべした少年の頬に吸いこまれた掌は、自分でもびっくりするほど大きな音をたてた。
だがその生徒は少しもたじろがずに、むしろ燃えるような挑戦《ちようせん》的な目で、中原を見すえていた。
むしろ教師の彼女のほうがたじたじとなるような強い視線だった。彼女は少年の射すくめるような視線をはねかえすために、つづけて頬を打った。
「これでもか、これでもか」と唇《くちびる》をかみしめながら打ちつづけているうちに、自分の心の奥に潜在している暗い残忍な欲望が、しだいに醒《さ》めてくるように感じた。
ハッとして気がついたときは、クラス全体が、気を呑《の》まれたように彼女の折檻《せつかん》を見守っていた。
少年がさらに反抗的になったのは、それ以来である。中原のほうも容赦なく折檻を加えた。折檻に反抗が比例して、一種の悪循環のようになっていた。
「中原先生は、少しあの生徒に神経質になりすぎているんじゃないか」
最近では同僚の教師にささやかれるほどに、彼女とその生徒との�険悪な関係�は評判になっていた。
さいわいにまだ父兄には知られていないらしいが、もし彼らが知ったら、たとえ非は生徒のほうにあっても、�教師の暴行�として問題にされるかもしれない。
PTAからも圧力をかけられるおそれがある。
中原は、生徒のことで問題を起こしたくなかった。そのための保身の意味もあって、夏休み前に生徒とよく話し合い、必ず宿題をやってくる、という約束を取りつけたのである。
ところが、それをものの見事にすっぽかした。
生徒の全然反省の色を見せないふてぶてしい態度が、彼女の怒りを煽《あお》った。
「大沢《おおさわ》君」
生徒を立たせた中原は、学級委員の名前を呼んだ。彼女に最も忠実な生徒だった。
「お掃除のバケツに、水をいっぱい汲《く》んできてちょうだい」
中原は命じた。学級委員がけげんそうな顔をしながら水を汲んでくると、立たせた生徒に向かって、
「宿題を忘れたわけが言えるまで、このバケツを下げて立っていなさい。言えるまでどんなに疲れても、床へ置いてはいけません」
水を八分目ほど入れたバケツは、6キロほどの重さがある。これを下げて立っているのは、おとなでもかなり苦しい仕事だった。生徒はこのシゴキにすぐまいるだろうと、中原は思った。
ところが生徒は、唇をかみしめて、バケツをもちつづけたのである。疲れると、手を換える。
こうなると中原も意地だった。生徒の�苦役�を無視して授業を進めた。時間が経《た》つほどに、生徒の手を換える間隔が忙《せわ》しくなってきた。
生徒はついに授業の終わりのベルが鳴るまで、音《ね》をあげなかった。
「もういいわ、あなたの強情には驚いたわ。でも許したわけじゃないのよ」
中原は、屈服せざるを得なかった。理由はどうあれ、年はもいかない少年に、いつまでも残酷なシゴキを課しておくわけにはいかなかった。
少年の底光りのする目で見上げられたとき、中原は突然、敗北感とともに殺意のような衝動をおぼえたのである。
3
埼玉県北部のK市の南の郊外に、八反田《はつたんだ》という村がある。K市は江戸時代に、中仙道《なかせんどう》の重要な宿場町として栄え、また古くから製糸と織物の町として知られており、現在県北の中心都市である。戦後は、同市を通る高崎《たかさき》線の電化によって東京方面への通勤者が非常に増加して、�東京化�の傾向がいちじるしい。
ゆるやかな段丘と桑畑のひろがる、牧歌的な八反田にも、都会化の波はひたひたと押し寄せ、最近ではあちらの松林のかげ、こちらの田圃《たんぼ》のまん中に、アラビアンナイトに登場するようなモーテルが建てられてきた。
しかし、裸の土を見つけることが至難になってきている都会に比べれば、まだまだ武蔵野のおもかげをじゅうぶんに伝える野のひろがりがあり、土の香りが残っている。
八反田小学校の教諭、中原みどりが、学校の近くの桑畑のはずれで下腹部を鋭利な刃物のようなもので刺されて死んでいるのを発見されたのは、夏休みが終わったばかりの九月の始めの朝のことだった。
発見したのは近所の農夫で、急報によって駆けつけた村の駐在所の巡査は、一目で他殺の疑い濃厚と見て、現場保存をはかると同時にK署に連絡した。
やがて到着したK署の捜査一係の刑事と検死官は、駐在巡査から発見時の概要をひととおり聴き終わると、死体と現場の観察をはじめた。
現場は小学校から県道のほうへ向かう桑畑の中の細道であり、村の中心部から学校への近道になっているために、学童たちが登下校によく利用していた。しかし最近、K市から流れてきたらしい変質がかった若者が、桑の葉に隠されて見通しがきかないのをいいことに、通学の女生徒にいたずらをしかけた事件があいついだので、学校側では生徒たちにその道の通行を禁止したばかりだった。
死体は、桑畑の中に頭を突っこむようにして、あおむけに倒れていた。傷は腹部に二ヵ所、いずれも鋭利な切出しナイフのようなもので形成《つく》られた刺創である。傷口からかなりの量の血液が流れたようであるが、乾いた地面に吸収されてそれほど目立たない。
苦悶《くもん》するひまもないうちに死んでしまったのか、表情にゆがみはない。殺された人間の顔としては不思議なくらいに穏やかであった。笑っているようにすら見えぬこともなかった。このあたりでは「おや」と思うほどの花やかな面立ちで、肢体《したい》もなかなか肉感的である。
当然、痴漢の仕業を思わせたが、花もようのワンピースの裾《すそ》は乱れておらず、外表観察におけるかぎり、乱暴された痕《あと》は認められない。持ちものは教科書と参考書を数冊入れた手さげかばんとハンドバッグだが、ハンドバッグの中に入れてあった八千円弱入りの財布がそのままになっているところをみると、ものとりの犯行でもなさそうである。
ここ数日、好天がつづいたために、道は乾ききっており、足跡はまったく採取できない。
捜査員全員が手分けして、現場および周辺を綿密に検索したが、凶器および犯人のものらしい遺留品は発見されなかった。
「顔みしりの者の犯行か?」
K署の捜査一係、魚住《うおずみ》刑事は首をかしげた。腹部の傷は、向かい合って話しているところを、すきをねらっていきなり凶器を振《ふる》ったらしく、抵抗したあとはまったくない。掌や手指の内側にも、いわゆる防御損傷と呼ばれる傷は全然認められない。
身体の他の部位に創傷はないので、腹部の傷が致命傷となったのであろう。これだけの傷をまったく抵抗を受けずに与えたことが、魚住刑事に犯人は「カン」のある者という推論を導かせた。それも被害者に「濃鑑」がある者と考えてよいのではないか。ナガシのすれちがいざまの犯行ということも一応考えられないではないが、人通りのない畑の中の一本道で、若い女が腹部にすんなりと致命傷になるような深傷を二撃も送りこまれるほど無防備に歩くものであろうか?
見知らぬ人間と寂しい野道ですれちがうときは、若い女はそれ相応の身がまえをするはずである。そしてその場合は、犯人の害意を感じて、逃げ出すか、抵抗するかしたであろうから、傷口の部位は一定しなくなる。受傷情況から、被害者および犯人の姿勢が容易に判断されるが、本件の場合、犯人に敷鑑、つまり被害者との間に何らかのつながりがあったのではないかという強い疑いを生じさせるのである。
ひととおり検証がすむと、死体は署のうら庭に運ばれて、その日のうちに警察嘱託医の執刀で解剖された。
その結果、致命傷は腹部刺創による上腸間膜動脈損傷による腹腔《ふくこう》内出血、凶器は刃渡り十二、三センチ程度の尖鋭《せんえい》な切出しナイフのようなものを、被害者の正面に立って突き刺したもの。死亡推定時間は前日、すなわち九月四日の午後八時から一時間とされた。
なお死体に暴行の痕《あと》はなかった。K署に捜査本部が開設された。
現場を中心に八反田の村一帯に、精力的な聞き込みがはじめられた。平野の中の、人の動きの少ない部落におきた殺人事件であるから、犯人の敷鑑の有無にかかわらず、挙動不審のものがいれば、必ずや目撃者がいるにちがいないと捜査陣は楽観していた。
しかし当初の本部の楽観は、しだいに崩れていった。いくら村人に執拗に聞き込みをかけても、怪しい者は浮かび上がらなかったのである。
当初の意気ごみが激しかっただけに、本部の焦燥と疲労も大きかった。
被害者の足どりは次のようなものである。九月四日、生徒が提出した夏休みの宿題の採点で遅くなった中原みどりは、八時ごろ用務員に挨拶《あいさつ》して下校したが、そのまま本村の下宿に帰らなかったことだけがわかった。下宿のほうでも学校へ宿直することがよくあるので、たいして心配しなかったそうである。
本村への近道をとったのがあだとなって、その帰途、何者かに襲われたらしい。
いっこうにはかばかしく進展しない捜査に、本部はしだいに焦ってきた。最初の意気ごみが大きかっただけに、焦りと挫折《ざせつ》感も早く現われる。
現場周辺の聞き込みと並行して、被害者の身辺調査が進められていった。
中原みどりは、埼玉県の出身であるが、東京の女子短大を卒業すると同時に八反田小学校に赴任して来たのである。
子供にやや依怙《えこ》ひいきするきらいはあったが、まず熱心な教師で、同僚や子供たちの評判もよかった。
これは教師としての評判とは異質のものであるが、被害者の美貌《びぼう》は村の青年たちの胸をときめかせ、「もう一度小学校へ行きたい」と真剣に言う者までいたそうである。
とにかく、男たちの目を惹《ひ》く美貌の持ち主であったから、まず動機が痴情に絞られたのは当然である。しかし衣服(裾《すそ》)の具合や、被害者の体内から精液が検出されなかったことなどから、犯人は女という可能性もあった。
恋人を被害者に奪われての犯行ということも、じゅうぶん考えられるからである。
しかし動機捜査を担当した魚住刑事らの努力にもかかわらず、そのすじからも怪しい人物は浮かび上がらなかった。
みどりは、村の農家の離れを借りて住んでいたが、子供たちが時折り遊びに来るほか、異性の訪問はないということだった。
「教師という職業がら、かまえて自重していたのか、それともよほどうまくやっていたんだな」
みどりの下宿をあたった魚住刑事は、その帰り、山下刑事に言った。
「わたしはうまくやっていたんだと思いますね。あのグラマー先生に、男が全然いなかったとは信じられません」
最近、外勤巡査から刑事になったばかりの、若い山下は、猟犬のように目を光らせた。老巧の魚住に配するに気鋭の山下のコンビは、なかなかに呼吸《いき》の合ったチームワークを展開する。
「うん」
魚住は山下の言葉にうなずいたが、自分の意思の表明は抑えた。
たしかに山下の言うとおり、中原みどりは教師には似合わしからぬ性的なムードを周辺にいっぱい漂わせている。それだけにそこに具体的な男の姿がとらえられないということがかえって不自然なのである。
「とにかく、もっと慎重に探ってみよう」
魚住はそう言う以外になかった。
4
被害者の職場と住宅関係を一応洗い終わった捜査員は、彼女の旧《ふる》い同僚や知己に、捜査の手をのばして行った。
翌日の日曜日、二人の刑事は井川英一《いがわえいいち》という短大講師を八反田村の自宅に訪ねた。井川はもと八反田小学校の教諭を勤めていたのだが、自分が担当するクラスの児童心理を一年間観察した結果をまとめて発表したところ、それが非常な反響を呼び、大手出版社がついて、本にしてくれたものが、またまた大ベストセラーとなって、一躍�有名人�になった人物である。
現在では都内の短大にスカウトされて、心理学を講義しながら、流行作家なみの執筆をつづけている。マスコミの力は恐ろしいもので、たいした学者でもなかった彼が、催眠術入門とか、心理学入門という一般うけする形で出した本のおかげで、今ではその方面の大権威のようになっていた。
井川を訪ねたのは、みどりの旧い同僚として、現在の職場からは得られない情報が取れるかもしれないと思ったからである。井川以外にも、所在がわかっているかぎりの、みどりの旧い知己には会っている。
しかし今までには大した収穫はなかった。だから今日の訪問にも最初から大して期待をしていなかった。乗りかかった船式の、一種の義務感からである。
八反田村に住んでいる井川が比較的あとまわしになったのは、彼が日曜日以外は、家にいることがなく、なかなかつかまえられないからであった。
井川の家は村では今まで貧しいほうだったが、出版のおかげで急に羽ぶりがよくなり、印税で改築したというよりは新築した、採光と機能性をじゅうぶんに考慮したスマートな家に住んでいた。鉄骨プレハブ造りの家は、クリーム色の壁に、草色の屋根を乗せて、見る目にもいかにも�文化人�の家のような印象をあたえた。
井川はその家に両親と一緒に住んでいた。先祖伝来の猫《ねこ》の額《ひたい》ほどの土地を守ってきた、いわゆる�一反《いつたん》百姓�の両親は、息子が農業を嫌《きら》って大学へ苦学して進み、生まれた土地へ小学校の教師として戻って来てくれたのは嬉《うれ》しかったが、そのうちになんだか得体《えたい》のしれない本を書いて、一躍有名人となってしまったのについていけないようであった。
井川が、やめてくれと頼んでいるにもかかわらず、いまだに一反ばかりの畑へ出て、せっせと野良仕事に励んでいる。
井川はまだ独身であった。そう言われてみればまだ三十前だった。名前だけが先行してしまった感じである。現在、東京のある大学教授の娘と縁談が進行中だという話を、小学校の聞き込みに行って以前の同僚教師から聞いていた。
「大学時代はなかなかの発展家だったそうです」とその情報を教えてくれた同僚は、いくぶんうらやましそうにつけ加えたが、もとの仲間の異例の出世に、たぶんの妬《ねた》ましさを覚えているのかもしれない。
しかし、みどりと井川の間には、特に怪しい点はなかった。
要するに、ごく普通の同僚としてつき合っていたようである。
井川英一は、いかにも時流に巧みに乗ったタレントらしい如才ない男だった。しかし如才がないだけで、かんじんの聞き込みに関しては、なんの収穫も得られなかった。
井川は、中原みどりについては以前同じ学校にいたというだけで、ほとんど何も知らなかったのである。
「すみませんね、何もお役に立たないで」
井川は刑事らの無駄《むだ》足に、すまなさそうな顔をした。
「とんでもありません。お忙しいところをおじゃまして」
無駄足には馴《な》れている。井川の恐縮に、かえって刑事たちが恐縮した形になって、二人はいとまを告げた。
「そこまでお送りいたしましょう」
井川は魚住らと一緒に玄関へ出て来た。
「いや、私も散歩したいと思っていたところなのです。田舎に住んでいながら、週のほとんどは、東京の短大をあっちこっちかけもちしてますので、田園の風景に餓えてるのですよ。仕事は都内のホテルに閉じこもってやりますから、日曜日はゆっくり静養することにしております」
井川は気軽にサンダルをつっかけ、刑事たちと肩を並べて歩き出した。
井川の家は村の中央から少し離れた段丘の麓《ふもと》にある。前面にはもう都会ではぜったいに見られないゆったりした草原がひろがり、子供たちが野球をしたり、虫を追っかけたりしている。
「田舎の子供はうらやましいですな」
K市の官舎に住んでいる魚住は、学校の校庭以外に遊び場を持たない自分の子供と比べて心から思った。
「この空地も、すでに買い占められているのですよ。モーテルでも建てられたら目もあてられない。この調子でいったら、いまに日本に田舎がなくなってしまうんじゃないかと、時折りそら恐ろしくなることがあります」
井川は、外人がよくやるように肩をすくめた。そんなしぐさが、割合サマになっているのは、彼自身、その都会化の波に、どっぷりと浸りきっているせいかもしれない。
草原を走りまわっていた子供たちの何人かが、井川の姿を認めておじぎをした。
「僕の以前の教え子なんですよ」
井川は鷹揚《おうよう》にうなずきかえしながら、満足そうに笑った。バス停のある県道へ通ずる道は草原の中央を走っている。刑事らの今日のこれからの予定は、ひとまず駐在所へ寄ったあとで、もう一ヵ所聞き込みにまわることになっていた。
「あの子供は何をしてるんですか?」
魚住がふと草原の一角を指して言った。見ると十歳前後の一人の少年が、三人が歩いて行く道のかたわらの草原のはしにすわりこんで、何か熱心にいじっているようである。
草原いっぱいに散って、野原せましとばかりに駆けまわっている子供たちの中で、一ヵ所にじっとうずくまったまま、何かもちゃもちゃいじくっている少年の姿は異様に映った。
「ああ、またたかし[#「たかし」に傍点]だな、困ったもんだな」
井川は困惑したように眉《まゆ》をしかめた。
「あの子がどうかしたんですか?」
魚住が好奇心をむきだしにして聞いた。
「ま、そばへ行けばわかりますがね」
井川は、いわくありそうな顔で言葉をにごした。
どうやら事情があると見た刑事らの足は早くなった。
井川がたかしと呼んだ少年のそばへ立った刑事たちは、さすがに彼の�奇妙な儀式�に、しばらくの間|呆気《あつけ》にとられていた。
草原でつかまえてきたバッタやキリギリスを、モグラの穴らしい上に、石の板を渡してつくった小さな屠殺場《とさつじよう》で、まず羽を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ、次にとがった石で頭を切り、胴を取り、ばらばらに分解した虫の死骸《しがい》を穴の中に埋めていく。少年はその順序を儀式のように忠実に守りながら、ふしぎな忍耐強さであきもせずにつづけていた。
穴の外に散らばった哀れな犠牲者の羽や脚などの残骸の多さから、かなり前からその�儀式�をつづけていたようであったが、井川家を訪ねた時は、別の道からやって来たために、刑事たちの目にいま初めて触れたわけである。
「きみ、それ、なんの遊びなの?」
魚住が話しかけても、少年はまるで耳がないかのように虫の羽を※[#「てへん+宛」、unicode6365]ぎつづけている。
「だめですよ。いま、何を話しかけても聞こえないのです。遊びの中に完全に吸収されております」
「遊び? これが遊びですか? いったい、なんの意味があるのです」
魚住がたずねた。
「この子供は宮本高《みやもとたかし》といいまして、前の私の教え子の一人なんです。いまは殺された中原先生のクラスなんですが、去年の夏ごろから、この奇妙な遊びをするようになったのです。人間の行動には一見無意味に見えるようなものの中にも、何かしら精神的原因があるものなんですが、この少年の場合は精神の深部になんらかの葛藤《かつとう》があって、それを解消するための代償として、ああいう遊びに表出されたのではないかと思うのです。私の研究課題でもありますので、いずれこの子の精神分析をして、心の中にあるしこり[#「しこり」に傍点]の正体を見きわめてやりたいと思っています。なぜ、虫の頭や羽をちょん切るのか、どうしてバッタやキリギリスなどのミドリ色の虫だけを対象にするのか、これを突きつめることは、深層心理学的にも非常に興味があるのですよ」
井川は痛々しそうに少年を見ながら、むしろひとりごとのようにつぶやいた。小学三、四年か、顔色は悪いが、稚《おさな》さの残るおもだちである。
それが無心に虫をひきちぎっているだけに、見る者の目に静かな残酷感を訴えてきた。
けっきょく、その日の聞き込みで得たものは何もなかった。刑事らは疲れた足を引きずって、K市行のバスに乗った。通勤の流れとは逆方向なので、バスはがらがらだった。
長い夏の日もようやく昏《く》れかけて、残照に花やかに彩られた空の下を、気の早い赤とんぼが翔《と》んでいる。
——間もなくこのあたりでも、トンボの姿をまったく見られなくなるだろう——
なにげない視線を、夕焼けの空に送っていた魚住の耳に、たったいま会ってきた井川の言葉がよみがえった。
「一見無意味に見える人間の行動の中にも、何かしら精神的原因がある。それを解消するための代償として、ああいう遊びに表出されたのではないか」
〈どうしてバッタやキリギリスなどのミドリ色の虫ばかりを対象にするのか?〉
「ミドリ色の虫」
魚住は愕然《がくぜん》として思わず座席から腰を浮かしかけた。
「どうかしましたか?」
山下が驚いた表情で彼を見上げた。
「山下君、ガイシャの名前は、中原みどりだったな」
「そうですが、それがどうかしましたか?」
「あの、なんとかたかしという少年は、ガイシャが受持ちのクラスだったそうだな」
「井川氏はそう言ってましたが」
「少年の心にあったしこりというのは、中原みどり[#「みどり」に傍点]に関係ないだろうか」
「虫のミドリ[#「ミドリ」に傍点]と中原みどり[#「みどり」に傍点]というわけですか?」
「少し強引なようだが、人間の連想なんて元来そういうもんじゃないか」
「とすると少年は、中原みどりに憎しみを持っていたことになりますね」
心のしこりの解消を、虫を解体することによってはかっていた少年は、しこりの原因によほど強い憎悪を抱いていたことになる。
「少年は中原先生を憎んでいた……」
その連想が行き当たった一つの想像に、二人の刑事はハッと顔を見合わせた。
あのあどけない少年が、まさかと打ち消すそばから、恐ろしい想像は凄《すさま》じい速さで発達をつづけた。
先日の聞き込みで得た「中原は熱心な教師だったが、依怙《えこ》ひいきするきらいがある」という情報が同時に思い出された。
「山下君、もう一度引き返そう。おれたちの想像を井川氏に鑑定してもらうんだ。彼は精神分析の大家だから、彼がそういうこともあると学問的なうらづけをしてくれたら、一つの情況証拠になる。そして少年とガイシャの関係を徹底的に洗ってみるんだ。少年でもナイフを握らせれば立派に殺人ができる。ましてガイシャは女なんだから、生徒だと思って油断しているところを狙《ねら》ってやられれば、ひとたまりもないだろう」
周囲の乗客を意識して、魚住は声を抑えたが、しゃべっている間にだんだん興奮してくるのがわかった。
二人は次の停留所で降りた。乗車してからまだいくらも走っていないから、歩いて行ったところで大したことはないと思った。
5
ちょうど夕食を取っていた井川は、ふたたび舞い戻って来た刑事の姿に、少し驚いたようであったが、それでも迷惑そうな表情も見せずに迎え入れてくれた。
よかったら一緒に食事をしないかと言ってくれたが、これは刑事のほうで固くことわった。
やがて食事を終えて出て来た井川に、魚住は、自分らの連想が無理でないかどうかたずねた。魚住の話を聴いていた井川は、しだいに反応を表情に表わしてきた。
「いや、無理どころか、大いにあり得ることですよ。ミドリ色の虫と、中原みどりか……私もそこまでは気がつきませんでした。そう言われてみれば、フルールノアという学者の精神分析の実例に同じようなケースがありました。失礼ながら、その方面には素人《しろうと》の刑事さんにすっかり教えられてしまいましたね」
「すると、あの少年のしこりになっているものに、中原先生が関係する可能性はありますね?」
「大いにあります。中原先生に関する何かが、少年の無意識の中に、発散されない内部の傾向または緊張になって、それがああいう遊びにゆがめられて表出されているのです」
「その内部の傾向とか緊張を、憎悪と考えてよろしいでしょうか?」
「残念ながらそう考える以外にないですな。虫をばらばらにひきちぎって埋めるくらいですから、相当に激しい憎しみですね。殺意の代償と言ってもよいくらいです」
と言いかけて井川はハッと口をつぐんだ。学問的な解説を加えていたつもりが、そのまま宮本少年を追いつめることになるのに気がついたようである。
「しかし、ミドリの虫が必ずしも中原先生のみどりにつながるとはかぎりません。何か他のものから連想されているのかもしれませんから」
彼はあわてて言いなおした。
「わかりました。なにぶん相手は未成年者ですから、その点はじゅうぶん慎重に行動いたします。いずれ正式に少年の精神分析を依頼することになると思います。その時はよろしく。今日は二回もおじゃましまして」
「どういたしまして。私にできることなら、なんなりとお役に立ちたいと思います。私も非常に勉強になることですので、個人的にも分析してみたいと思います」
井川家を辞した刑事には確信のようなものがわいていた。今日は日曜日で学校には用務員以外はだれもいないだろうし、それに時間も遅いので、明日から、被害者と宮本少年の関係を洗うのだ。
まさか犯人が九歳の少年とは思わなかったところに、捜査の盲点があった。執拗《しつよう》にかけた聞き込みにも、目撃者が出なかったのはそのためだった。
グラマーな美人教師と少年を結びつけて考える者はいない。今日、本部に帰ったら早速、宮本少年の家の捜査令状を取ろうと魚住は思った。
その時、猛烈な空腹感が彼を襲った。井川家で夕食を誘われた時、なぜことわったのかと意地汚なく悔やまれるほどの飢餓感である。魚住にしてそうだから、若い山下刑事は、きっと馬でも食えそうに腹をへらしているにちがいない。
宮本少年との関係に焦点を絞って再度聞き込みをかけた結果、被害者はどういうわけか、宮本少年をマークして強く叱責《しつせき》することが多かったことがわかった。
他の少年ならば笑って許すいたずらや、宿題の怠慢なども激しく叱《しか》り、時には叩《たた》いたことすらあった。特に中原の殺された日、少年が宿題をやってこなかったので水をたたえたバケツを持たせて立たせたことがわかった。全クラスの友だちが見ている前でバケツを持たされたことは、宮本少年の心を、深い屈辱でえぐったにちがいない。
もともと中原先生は教育熱心だが、依怙ひいきが強い。お気に入りの生徒は自分の下宿に招いたり、一緒にハイキングに行ったりするほど可愛がったが、気に食わない生徒は徹底的につまはじきしたそうである。
「それにしても、中原先生は宮本君を強く意識しすぎていたようですね。両親がおとなしかったからよかったものの、普通だったら抗議を受けかねないほどに、叱っていました。われわれもはらはらしたもんですよ」
何人かの同僚の先生が証言するにおよんで、宮本少年への容疑は固まっていった。さらに決定的な物証があがった。
令状にもとづいて少年の家を捜索した結果、少年の部屋の縁の下から、古い血がこびりついた工作用の小刀が出てきたのである。その血は被害者の血液型と一致し、刀身は傷口や創管の長さと符合した。
本人も少年の両親も、小刀は少年のものではないと言い張ったが、その抗弁は通らなかった。ただちに家庭裁判所に通告がなされると同時に、少年はK署に引致されて取り調べられた。しかし少年は頑強《がんきよう》に犯行を否定した。両親も犯行時間には少年は家にいたとアリバイを主張した。
少年は事件否認のまま、地検を経由してK家裁に送致された。
農夫である父親は、息子のために、内向的な性格であるが、人を殺すような恐ろしい子供ではないと必死に訴えた。カエルやトカゲの腹を裂いたり、虫を殺したりすることは、子供のころだれでもやることであって、それだけで子供が人殺しをするような残酷な性格だと決めつけるのは、それこそ残酷であり、あまりにも早計な判断であるというようなことを、単調な野良仕事の明け暮れで重くなった口を、懸命に動かして弁護した。
彼の親としての気持ちはわかるが、別に虫を殺したことだけで少年を犯人と見ているわけではなかった。それは捜査のほんの端緒になったにすぎない。アリバイも両親以外の第三者によって証明することができなかった。
情況といい、凶器があがったことといい、すべては少年のクロを指していた。
「なぜミドリ色の虫を殺したのか」という疑問だけが、解決されないままに残った。
事件の送致を受けた家裁は、調査官に命じて調査をはじめさせた。これと並行して捜査本部ではうらづけ捜査を行なった。しかし本部では、情況と物証から、少年の犯行にまちがいないものと見ていた。
「しかし、わずか九歳そこそこの少年が、先生に叱られたのをうらんで、ブスリと刺し殺してしまうとは、恐ろしい世の中になったもんだな」
本部解散の近いK署の中で、捜査員らは寒気《そうけ》だった表情をした。
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うらづけ捜査において、被害者の中原みどりの周辺の捜査を担当した魚住刑事は、どうも気に入らないことが一つ、心にひっかかってきた。