こう語った田原和之の面《おもて》には�お家�のためには、何ものも犠牲にして悔いない封建的な人間の、愚かで滑稽《こつけい》な全体主義が、臆面《おくめん》もなく顕《あら》われていた。
刑事は呆《あき》れた。呆れながらも、この男は犯人になれないと思った。やはり彼は、家名のために弓子の自殺の原因を伏せたのである。
「今でもその遺書は保存してありますか?」
「いいえ、やってしまいました」
「やった? だれに」
遺書をもらいたがるような酔狂な人間がいようとは思えなかった。
「弓子の婚約者ですがね、自殺をしなければ、二ヵ月後には結婚することになっていたのです。ひどく悲しみましてね、娘の形見にくれというのでやりました。もともとその婚約者にあてたような遺書でしたがね」
「婚約者……」
そうだ、婚約者がいたのを忘れていた。弓子の死をひどく悲しんだということは、それだけ、彼の傾斜が深かったことを示す。
結婚寸前に、愛していた婚約者を殺されたその男の心は、犯人に対する憎悪でふくれあがったにちがいない。ここにもう一人、野本ミチ子に動機を持ち得る人間が存在した。
「だれですか、その婚約者だった人は?」
刑事は意気ごんだ。
「君原一郎ですよ。ご存じでしょう、ノーベル賞候補にあげられるかもしれないと言われている……」
「ああ君原さん」
刑事は、K市が産んだ最大の逸材として、その名前を知っていた。
あの君原が、田原弓子の婚約者だったのか。しかしどんなに逸材であろうと、殺人の動機を持っているということになれば、調べなければならない。
こうして捜査本部の厳しい視線は、君原一郎に注がれていったのである。
8
君原は、最近、市内の富有な商家の娘と結婚して、東京の練馬区のほうに移り住んでいた。その家も、妻の実家でたててやったものらしい。
田原和之の取調べにひきつづいて、君原の取調べも、地元署の内藤《ないとう》刑事が担当することになった。若い相棒の柳《やなぎ》刑事が同行した。
相手に備えを立てさせないために、二人は予告をせずに訪ねて行った。T大の研究室へ行ったところ、一足ちがいで帰宅したところだったので、練馬の自宅のほうへ後を追った。
池袋から私線で数駅、奥へはいり、十分ほど歩く。びっしりと埋まっていた家並みが粗くなって、ところどころに武蔵野の裸の土が散見するようになったあたりに、君原の新居はあった。
小ぢんまりとした、若夫婦向きのいかにも住み心地のよさそうな家である。玄関に立ってブザーを押すと、主婦というより、まだ娘々した女が出て来た。君原の新妻であろう。
こんな初々《ういうい》しい妻を娶《めと》り、安定した家庭を営んでいる男が、復讐のための殺人をしたとは、どうも思えなくなってきた。しかし要するにそれは相手がまとう�付属物�にすぎない。直接本人にあたるまでは、弱気になるべきではなかった。
弱気になりかかる心を励まして刑事は、君原に面会を求めた。
「あの、どちらさまでしょうか?」
どうやら君原は在宅らしい。
「K市の内藤だとお伝えください」
内藤は故意に自分たちの身分を隠した。君原の反応を見たかったからである。細君は素直に奥へ取次ぎに引っこんだ。
「おい、あの細君、どこかで見たような気がするんだが」
内藤は待つあいだ、柳刑事に小声で言った。
「いやぼくもさっきから、そう思っていたんですよ」
「もしかすると町のどこかで会ったことがあるのかもしれんな」
最近、東京からの人口逆流で、にわかにふくれあがってきたが、もともと田園の中の田舎《いなか》町である。同じ町の人間ならば、名前を知らなくとも、顔をなんとなく覚えているということもある。
柳がうなずいて、何か言おうとしたとき、君原が出て来た。額《ひたい》が広く、頬《ほお》がうすく目の鋭い、いかにも俊敏な感じである。
「はじめまして。こういうものですが」
内藤と柳は相手の表情に注意しながら、名刺を差し出した。名刺を覗《のぞ》きこんだ君原は、あっと叫んで、その場に棒立ちになった。顔色が変わり、名刺を持った手が震えている。
むしろ刑事たちが驚いたほどの、あまりにもいちじるしい反応だった。内藤たちは、実はもっと海千山千の相手を予期していたのである。
この若さでノーベル賞|云々《うんぬん》をささやかれるほどの人物である。容易なことではシッポを出すまい。持久戦の構えでやって来たのだが、無防備に近い相手の狼狽《ろうばい》ぶりに、かえって驚いてしまった。
「実は、野本さんのことでちょっとおうかがいしたいことがありまして」
内藤は残酷なとどめを刺すように言った。
「の、野本ミチ子が……どうかしたのですか?」
かすれたとぎれ声でくりかえした君原は、重大な失言をした。内藤は「ミチ子」という名前は告げなかった。野本姓の人間はいくらでもいる。それにもかかわらず、君原はただちにミチ子を連想した。
内藤は、君原が�正常な殺人者�であることを直感した。殺人とは、異常な人間が犯すものである。しかしときには正常な人間も犯すことがある。
やむを得ず殺人を犯した場合、法律も、その事情を認めて、罰しないようにしている。その典型例が正当防衛である。だが法律が責任を負わせないようにしている場合はあまりにも少ない。罰せられない殺人がたくさんあっては困りものだが、同時に、罰するにはあまりにも気の毒な、法的に有責な殺人も多い。
子や親を殺された者の復讐殺人なども、その一例だ。このような犯人は、犯人としての悪性も、悪知恵も持ち合わせていない。したがって司直に追及された場合、最も脆《もろ》い。
——君原は、その種の犯人だ——
二人の刑事は確信した。
「よくミチ子さんであることがわかりましたね」
柳が追い打ちをかけると、君原の手の震えが全身に伝わって、その場に立っていられないほどになった。
「せっかくお帰りになったばかりのところを、申しわけありませんが、ちょっと最寄りの署までご同行いただけませんか」
内藤がつけ加えたとき、君原はすでに意志を失った人形のようになっていた。その様子を、彼の初々しい細君が、いまにも泣きだしそうな顔をしてみつめていた。
9
君原の自供によると、
——田原弓子の遺書を読んだとき、野本ミチ子に対して激しい憎悪を覚えた。野本は以前から私にモーションをかけていた。自分が取り合わなかったので、自分と婚約した弓子に嫉妬《しつと》して、あんな卑劣なことをしたのだろう。
私は、どうしても野本ミチ子に会って、その卑劣さを詰《なじ》ってやらなければ気がすまなくなった。殺すつもりは全然なかった。
五月二十一日の夕方、ミチ子が巣にしている駅前の喫茶店S付近に網を張っていて、彼女をつかまえた。ドライヴに誘うと、喜んで尾《つ》いて来た。
弓子を犯させた町はずれの畑(遺書に書いてあった)に連れて来て、激しく詰ると、ミチ子はせせら笑って、
「死んだ女をいつまでも追いかけていないで、生きている女を抱いたらどう? カーセックスも悪くないわよ」と私にむしゃぶりついてきた。
激しくもみ合っているうちに、急にミチ子がぐったりしてしまった。夢中になってもみ合っているあいだに、いつの間にか彼女の喉《のど》を絞めてしまったのだ。
愕然《がくぜん》として人工呼吸などを試みたが、ミチ子は蘇生《そせい》しなかった。いま逮《つか》まれば、だれもこれを過失だとは見てくれないだろう。婚約者の弓子をミチ子によって間接的に殺された私には復讐の動機がある。現場は人影のない町はずれの寂しい畑の中だ。過失だと言い張っても通らない。私にはし残した研究がある。殺人犯の不名誉よりも、研究のできなくなるのが、こわかった。研究はどうしても完成させなければならない。
私は動転の中で、自己防衛を考えた。
とにかく死体は、いったんその近くの畑の中に埋めた。あとで人里離れたところを探して埋めなおすつもりだった。
そのうちに三谷事件がおきて、犠牲者の死体が次々に発見された。そのときふと、それらの現場の一つに、ミチ子の死体を移して、埋めなおせば、三谷が殺《や》ったことに仕立てあげられるかもしれないと思いついた。三谷は精薄者のようだし、ミチ子の死因は、三谷の犠牲者同様絞殺だ。
自分にはまだしなければならない研究がある。自分がなしとげなければ、他にだれもする者はいない。この研究が完成すれば、世界の医学界と無数の病める人に確実な福音《ふくいん》をもたらす。
三谷はどうせ死刑だ。四人殺すも五人殺すも、刑は同じである。自分は世界に必要とされている人間だ。四人殺した凶悪な精薄者が、もう一人の殺人の罪を引き受けてくれてもよいだろう。うまくいけば三谷は責任無能力者として罰せられないかもしれない。まして自分が殺した人間は、生きていても世の中に害悪以外の何ものももたらさないフーテン女なのだ。
ミチ子の死体は、最初に埋めた土地に腐敗を妨げる何かの要素があったのか、たいして傷んでいなかったので、移動はわりあい簡単にできた。間島信子さんの遺体発見現場まで、車で三十分ほどの距離だった。途中で検問のないような小道を通っても、たいして所要時間は伸びない。間島さんのところを選んだのは、距離が近いことと、いちばん最初に発見された場所なので、人の目が少なかったからだ。
死体を移動した直後にいまの家内と結婚した。過去をすっかり忘れて、新しい生活をはじめようと思った。でもいつか刑事が訪ねて来ないかと、毎日、薄氷を踏むような生活だった。——
10
君原が自供したころとほぼ時を同じくして、佐伯教授は、三谷順平の精神鑑定の意見を出した。
それによると——
三谷は、多少精神病質的なところを認めるも、じゅうぶんに責任能力を有する。彼のガンゼル状態は、精神病的な欠陥とは明らかに異なる責任回避のポーズである。——
君原一郎は殺人(殺意はなかったという主張は通らなかった)と死体遺棄で起訴された。
ほぼ同じ時刻、東京練馬の君原の留守宅で妻の静江が自殺をはかった。たまたま御用聞きに来た出入りの食料品屋が、ガス臭を嗅《か》ぎつけて、救い出すのが早く、危ういところで生命を取りとめた。
君原の妻は、田原弓子の元親友の坂村静江である。病院のベッドで譫言《うわごと》のように、
「ミチの恐喝を警察に密告したのは私よ、そして弓子が密告したとミチに告げ口したのも、私。私は君原が欲しかった。でも君原の心は私にはないの」
つぶやきつづける言葉の意味のわかった者はいない。だれも彼女の言葉に耳を傾けようとした者もいない。一酸化炭素中毒の後遺症で頭がおかしくなったと思ったのである。
三谷順平は数ヵ月後、無罪を言い渡された。その理由は、
——裁判所が審理した結果によると、被告人が各公訴事実記載のとおりの犯行をなしたことは、いちおうこれを認めることができる。
とはいえ、被告人が精神分裂病に罹患《りかん》し、犯行当時、病勢増悪の時期にあったことは明らかである。佐伯教授による鑑定意見は、傾聴するに値すれども、学問的にまだ定立されておらず、経験則に照らしても妥当とは言えない。
よって被告人を無罪とする。——
事件がいちおうの落着をみたとき、内藤刑事は、憮然《ぶぜん》として柳刑事に言った。
「婚約者の復讐のために、性悪《しようわる》女を殺した日本の偉大な頭脳が訴追され、罪もない処女を四人も殺した凶悪犯が無罪とはな、これが法律というものかね」
「情状酌量はあるでしょうが、君原の有罪は動きません。法律の番人のようなわれわれでも、今度ばかりは、法律というものの鉄のような非情性がいやになりました」
柳もやりきれないといった表情で答えた。
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この作品の執筆にあたり、主たる資料として塩入円祐氏『ガンゼル状態を呈した殺人犯の精神鑑定例』を参考にしました。銘記して謝します。
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児童心理殺人事件
「殺意の虚像」改題
1
災難というものは、いつ起きるかわからないものである。この事件は相手の子供にとっても災難であったが、中原桂司《なかはらけいじ》にとっても災難としか言いようのないものであった。
中原は私立女子高校の数学の教師をしている。公立校の教師とちがって身分的保証はなにもないが、給料がいいので、その学校へ来てからもう三年になる。
経営者の校長に「きみ辞めたまえ」と言われればそれまでの、まことに不安定な職場だったが、校風が明るく、生徒も裕福な家庭の子女が多いので、万事|鷹揚《おうよう》であることも、彼の気に入っていた。
その事件が起きたときは、夏休みの初めであった。中原は妻子を田舎《いなか》へ帰して、自分だけ団地の中の自室に閉じこもり、副業に最近はじめた受験用参考書の執筆に専念していた。
この参考書ができあがれば、多少まとまった金がはいる。彼はその金で、かねて計画を立てているヨーロッパ旅行に出かけるつもりである。
中原の住んでいるところは、都心から国電と私鉄を乗り継いで、一時間半ほどの距離にある、M市郊外の新興の団地である。約一千世帯四千人、3DKを中心にした、団地としては規模の小さいほうである。
中原一家も、いままで住んでいた民営アパートから、ようやくくじにあたって、最近移り住んで来たばかりであった。
勤め先から少し遠くなったが、周囲には緑が多く、親子三人の家族には3DKはじゅうぶんの広さであり、文句は言えなかった。新興団地だから、住人同士も四方八方から寄り集まって来たばかりで、まだおたがいに馴染《なじ》みがない。
だが集中的に仕事をするためには、むしろそのほうが都合がよかった。妻子を郷里へ帰したのも、仕事に没頭するためである。
その日は朝から蒸し暑い日であった。風はまったくない。うすい雲に被《おお》われた白ちゃけた空から、濁ったような日光が、ただ不快指数を上げるためだけに、うすく射してきた。
蝉《せみ》の啼《な》き声がその暑さを強調している。
中原はパンツ一枚という凄《すさ》まじいスタイルで、朝から机に向かっていた。仕事はようやく調子が出て、筆の滑りがよくなってきたところである。
——この分なら、予定より早く仕上がるかもしれないな——
中原が暑さにもめげず、机に向かっていられたのは、調子が出てきたからである。妻がいないので、食事も腹がすいたときに店屋《てんや》物を取って間に合わせる。面倒臭いので抜いてしまうこともある。
今日も朝から机に向かいっぱなしで、朝食も昼食もまだ取っていない。午後二時ごろになると、さすがに空腹と疲労で、机にしがみついているのが、苦痛になった。
そのとき部屋の下のほうから、子供たちのにぎやかな声が聞こえてきた。彼の部屋は二階にある。子供たちは、ベランダの下の芝生の共用地に集まって、しきりにわいわいがやがや騒いでいる。中原はペンを止めて、聞くともなく、彼らのさえずりに耳をすませた。
「あ、あんなところに止まったぞ」
「ちょっと登ればつかまえられるよ」
「でも危ないよ」
「なんだ弱虫! よし、ぼくがつかまえてやる」
「よしなよ」
「大丈夫だったら」
子供たちは彼の家のベランダを見上げて、しきりに騒いでいるらしい。そのうちベランダの方角にあたって、油蝉《あぶらぜみ》がかしましく啼きだした。子供たちが追って来た蝉が、中原家のベランダに止まったのである。
それを勇敢な子供が、二階まで登って来て取ろうとしており、止めようとしている子供と言い争っているのだ。そのうち、子供たちの騒ぎがピタリとおさまった。蝉の声がその不意の静けさを強調している。
どうやら勇敢な子供が、ベランダへ登りだしたのを、他の子供たちが固唾《かたず》をのんで見守っている気配である。
——危ないな——
中原は思った。ベランダは各戸独立のコーナー式のもので、床と側壁がコンクリート、手摺《てすり》が鉄製である。一階の天井が二階の床と共用になっている。ベランダ伝いに二階へ登るためには、一階の手摺の上に立って、二階の床にしがみつき、懸垂の要領で体重をずり上げる以外にない。
小さな子供の腕力には無理であるし、それにそんな冒険をしている間に、蝉は逃げてしまう。
中原は、ペンを置いて立ち上がった。子供の冒険を諫《と》めようと思ったのだ。彼が仕事部屋にしている部屋は、ベランダに面している。ガラス戸は開いているので、ほんの数歩あるくだけで、ベランダに出られる。
彼は蝉を逃がさないように足音を忍ばせて、ベランダへ出ようとした。ちょうどそのとき蝉は啼き終わった。同時に胴体を少し震わせるようにして、小便をすると、さっと逃げて行ってしまった。
「ああ、あ」
下のほうで子供たちのがっかりした吐息がもれた。蝉が逃げたのは中原の気配を悟ったからではなく、ちょうどその時期になっていたのである。
蝉が逃げてしまったので、彼も忍び足をやめて、ベランダへ出た。一人の子供が、一階から、二階の床に向かって、体をずり上げようとしたときである。
中原が手摺から、ヌッと顔を出したのに驚いたのか、子供は一瞬早く、あっと声をあげて、懸垂の手の力をゆるめた。いったんゆるんだ腕力は、子供の体重を支える力に欠けて、彼はそのままベランダの下の芝生に仰向けになって落ちた。
見守っていた子供たちが、悲鳴をあげた。
「大変だ!」
中原は愕然《がくぜん》として顔色を変えた。子供たちのただならぬ悲鳴に、あちこちの窓から住人が顔を覗《のぞ》かせる。中原はいったん家の中に引っ込み、階段を伝って、子供の落ちた場所へ駆けつけた。中原の下の家では留守なのか、厚い黒地のカーテンが引かれたままである。それがひどく拒絶的に見えた。
不幸中の幸いにも、落ちたところは柔らかい芝生の上である。だが子供は驚いたのか、それとも打ち所が悪かったのか、気を失っている。
頭に外傷はなく、口や鼻から出血している様子はない。幼稚園か小学校一年といった年ごろの男の子である。
「坊やたち、この坊やどこの子だい?」
中原は動転しながら聞いた。
「すぐそこの家のシンちゃんだよ」
一緒にいた子供の一人が教えた。その子の指さすほうを見ると、すぐ真向かいの棟《むね》である。騒ぎを目撃したり、聞きつけたおとなたちが、集まって来た。
「すみません、どなたか救急車を呼んでくれませんか。頭を打って気を失っています」
中原は集まって来た�見知らぬ隣人たち�に頼んだ。何人かが電話へ走った。
「まあ、シンちゃんたら、シンちゃん、いったいどうしたのよう」
だれかが報《し》らせたのか、向かいの棟から三十前後の女が飛び出して来て、気絶している子供の体に半狂乱で取りすがった。
「頭を打った様子ですから、動かさないほうがいい。すぐに救急車が来ます」
中原は子供の体をゆすろうとした母親を制《と》めた。
「どうしてこんなことになったのですか?」
彼女は周囲に集まった人々に詰問するように訊《き》いた。
「あのベランダから落ちたんだよ」
子供の一人が中原の家のベランダを指さした。
「蝉を取りに登ったんだ」
またべつの子が言った。
「そしたら、このおじさんがベランダに出て来てね」
「コラッて怒ったから、シンちゃん驚いて落ちたんだよ」
子供の一人がとんでもないことを言いだした。
「ち、ちがう。そんなことは言いません」
中原は狼狽《ろうばい》して、子供たちと、集まって来たおとなたちの顔を交互に見渡した。
「言ったよ。ぼくおじさんがどなったの、確かに聞いたもん」
子供はあどけない顔をして主張した。その子自身、嘘《うそ》をついている意識は少しもなく、本当にそう思い込んでいる様子である。
「ぼくも聞いたよ」
「ぼくも」
「おじさんすごく怒ったじゃないか」
「だから、シンちゃん驚いて落ちたんだ」
困ったことに同調者が次々に現われた。こうなると、中原が否定すればするほどに不利になる。とにかく相手は�無心で純真な�子供たちなのだ。
おとなたちは非難の視線を、中原に集中した。彼はその視線の中央に引き据《す》えられて、なにも言えなくなってしまった。
「ひどいー、ひどい人だわ、なにも子供がベランダへ登ったくらいで、そんなにどなることないじゃないの!」
子供の母親は、いまにも中原につかみかからんばかりにした。ちょうどそのとき救急車のホイッスルが近づいて来た。
「とにかく事情はあとで詳しく聞くとして、いまはお子さんの手当が先決です」
分別のありそうな住人の一人が中にはいってくれた。
2
ベランダから落ちた子供は、隣りの204号棟の22号室に住む、会社員|山田隆《やまだたかし》の一人息子で、慎一《しんいち》という今年七歳の小学校一年生である。
救急車で病院に運ばれて、精密検査を受けたが、とくに障害は発見されなかった。慎一は病院に着いてから意識を回復した。記憶の障害もない模様である。
しかし一時的にも意識を失ったということは、慎一の頭部に受けたエネルギーが、かなり強力であったことを示すものだ。
頭の怪我《けが》は、いったん意識がはっきりしても、あとになって、症状の悪変することがある。頭蓋《ずがい》内の出血が徐々に血腫《けつしゆ》や浮腫《ふしゆ》をつくり、脳幹を圧迫して、ついには死に至らしめる。
怪我をしてから三週間以上も経《た》って意識障害を起こすこともある。幸いにかつぎ込まれた救急病院に優れた脳外科医がいたので、適切な検査と手当をしてくれた。
慎一は一週間後に退院して来た。いままでの検査によって、受傷後二十日以上も経ってから症状を現わす慢性頭蓋内血腫のおそれは、まずないだろうという診断であった。
慎一の入院中は、中原は毎日病院に通った。もし子供に万一のことでもあれば、彼の責任ということにされてしまう。慎一と一緒にいた子供たちの証言は、彼に決定的に不利であった。
中原に抗弁のしようはないのである。慎一が落ちたとき、中原がベランダに出ていたことは、事実である。その姿を、近所の住人たちにも目撃されている。
中原にしてみれば、子供が勝手に登って来て、勝手に落ちたようなものであるが、まことに奇妙な成り行きから、彼が加害者のような立場になってしまった。
おかげで彼の仕事は頓挫《とんざ》し、慎一が退院して来てからも、前のピッチを取り戻せなくなった。海外旅行どころか、この分では出版社から責任を追及されそうな雲行きになった。
ともかく慎一が無事に退院して来たので、事件はいちおう落着したと見られた。
だが慎一が退院するころから奇妙な噂《うわさ》が団地に流れはじめた。だれが言いだしたのか、彼がベランダから落ちたとき、中原の家から若い女がこっそりと忍び出て来る姿を見たというのである。
「きっと奥さんが里帰りした留守を狙《ねら》って、若い女を引っ張り込んでいたのよ」
「自分の家へ連れ込むなんていい度胸ねえ」
「中原さんって、学校の先生でしょ」
「なんでも女子高校の先生だそうよ」
「とんだ桃色教師だわねえ」
「もしかしたら……」
「なによ、気をもたせないでおっしゃいよ」
「その女は、自分の生徒じゃないかしら?」
「その可能性はおおいにあるわよ。最近の子は発育がいいから、高校生だったら立派な女だわ」
「きっとその現場をシンちゃんに覗かれたので、怒ったのね」
「ひどい人ねえ」
噂はたちまち尾ひれをつけて、途方もない形に拡大され、団地中にビールスのように蔓延《まんえん》した。中原は憤《おこ》るよりも、むしろ呆《あき》れた。いったいどこからこのような噂が出るのか、理解に苦しむと同時に、噂の原型が人の口から口へ伝播《でんぱ》していくほどに、まったく予測もつかぬ奇怪な形に歪《ゆが》められながら拡大していくことに、言いしれぬ恐怖を覚えた。
こう燃えひろがってしまっては、もはや消すことはできない。自然に消えるのを待つほかはなかった。
だがそれはいっこうに鎮まる気配はない。ますますその火勢を強めて、無関心だった人間までも侵した。こうなると無関心族どころか、団地全体が好奇心のモンスターと化したようであった。
中原は、妻の久子《ひさこ》が帰って来た日のことを考えた。まさか彼女の里まで告げ口に行く人間はいないだろうが、彼女が帰宅すれば、当然噂はその耳にはいるだろう。
中原の妻は、夫につくすのを生き甲斐《がい》にしているような、なかなかよくできた女である。結婚前は幼稚園の保母をしていて、児童心理の勉強をしていた。彼も、自分にはすぎた妻だと思っている。それだけに、変な噂で悩ませたくなかった。
いくら彼が否定したところで、団地全体に燃えひろがった噂の炎に焙《あぶ》られれば、猜疑《さいぎ》の延焼をうけるだろう。この噂が学校に届けば、職を失うかもしれない。
悪いことに退院して来た子供が、ひどく怯《おび》えつづけていた。以前は何事につけ積極的な子で、一日中家に寄りつかないほど元気に外を遊びまわっていたのが、天気のいい日でも、家の中にちぢこまっているようになった。
家にいてもテレビを見るでも、本を読むでもない。部屋の隅《すみ》や押入れの中にはいり込んで、枕を抱いて、カバーを噛《か》み破り、押入れの中をもみがらだらけにしてしまう。眠っているときも何かにうなされることがある。
母親が外で遊べと無理やりに追い出すと、すぐに姿が見えなくなってしまう。心配になって探すと、たいていダストシュートの貯塵箱《ちよじんばこ》の中にごみにまみれて潜んでいた。
一度、追い出された子供は団地の前の草原へ出た。以前、慎一がよく遊んだ場所で、そこならば車もはいりこまず、親は安心していられる。
ところが子供が出て行って間もなく、そちらのほうが騒がしくなった。母親がなにげなく窓から覗くと、近所の主婦が、
「奥さん、大変よ、シンちゃんが気を失っちゃったの」
と叫んだ。
愕然《がくぜん》として駆けつけると、慎一がぐったりとなって近くの男の人の背に負われて帰って来た。救急車を呼ぶまでもなく、すぐに意識を取り戻したが、一緒にいた友だちの話を聞くと、カマキリの共食いを見てびっくりしたという。
カマキリの共食いを見たのは、なにも今がはじめてではない。虫の好きな子で、よくカマキリやバッタや、なんだか正体のわからない無気味な幼虫などを捕えてきては、母親に悲鳴をあげさせたものである。
以前の元気な慎一からは考えられないことであった。あまりにも異常なので、やはり落下時に頭を打った後障害が現われたのかと、医者に診せたが、臨床的な異常は何もないということである。
医者は、落下時に受けた精神的なショックが、少年の心を萎縮《いしゆく》させているのかもしれないから、親や周囲が気長に励ましてやるのがいいと言った。
「これも中原が、自分の情事の現場を見られた腹いせに、子供をどなりつけたりしたからいけないのだ」
けっきょく、母親は子供の異常の責任を、中原へ向けてきた。しかし、どんなに母親に怨《うら》まれ詰《なじ》られても、医者にもどうにもならないことを、中原に解決できるものではない。
中原にとっては、この事件はまったく災難としか言いようがなかった。
——それにしても、妻に隠れての情事を、子供に覗かれたから怒ったとは、想像がたくましい——
中原は、なんとも馬鹿らしい災難の中に引きずり込まれてしまった自分の不運を嘆きながらも、憤懣《ふんまん》やるかたなかった。
〈子供はベランダの床に両手をかけたところで、部屋の中を覗きこめるはずがないではないか〉
子供は一階の手摺の上に立って、二階の中原のベランダにぶら下がった形になっていたのである。そこへ中原が出て行ったものだから、驚いて手を離したのだ。
「待てよ」
自問自答してきた中原は、ふと視線を宙の一点に据《す》えた。絞った焦点の中に何かがチラリと見えたような気がした。
——はたしておれが出て行ったのに驚いて、手を離したのだろうか?——
中原の目がぎらぎらしてきた。あのときのことをよく思いなおしてみると、子供が手を離したのは、中原が顔を出したときより一瞬早かったような気がする。
〈そうだ、確かに少し早かった。子供はおれが顔を出すほんの直前に手を離していた。それをおれも、見ていた子供たちも、同時だと錯覚したのだ〉
——だがもしあの子が、おれが出るよりも前に手を離したとすると……?——
ここで新しい視野が、中原の前に開いた。子供は中原に驚いたのではなかったのである。何かべつのものに驚いて、落ちたのだ。
〈するといったい何に驚いたのか?〉
子供はあのとき、二階のテラスにぶら下がっていたのである。ということは、彼は一階にいた[#「彼は一階にいた」に傍点]。一階にいた子供には、一階しか見えない。
子供は、一階で何かを見たのである。そこで見た何かに驚いて、子供は手を離したのだ。
一階、すなわち、中原家の下にはだれが住んでいるか?
「わかったぞ!」
中原は思わず声をあげた。彼にはようやく、巻き込まれた災難の、真の構造がわかった。
一階の住人、すなわち205号棟12号室は、都心の商事会社に勤める砂岡《すなおか》とかいう若い独身の男が住んでいる。近く結婚するという話を、妻からチラリと聞いたことがある。
——女はその部屋に来たのだ——
中原はついに、いわれもない噂の源を突き止めたと思った。女を自室へ引っ張り込んだのは、その独身の商社マンだったのだ。子供は彼らのもつれ合っている姿をなにげなくベランダの手摺の上から覗いて、びっくりして落ちたのである。
この団地の建物は、一棟に三〜四の階段があり、各階段ごとの縦割構造になっている。砂岡と中原の家は共通の階段を使っている。女は砂岡の家から出て来たのだ。�昼下がりの情事�をだれ憚《はばか》ることなく愉《たの》しんでいたところ、急に外のほうがやかましくなった。
情事を中断して外の気配をうかがうと、どうやら子供が、自分の家のベランダから落ちたらしい。
女を引っ張り込んだところを、近所の人間に見られると、格好の噂のたねにされる。女を説いて、騒ぎに紛れて逃げ出させた。その姿が、住人のだれかの目にとまったのだ。
中原家と砂岡家の階段は共通なので、そこからそっと忍び出て行った女の姿に、目撃者はてっきり、中原の家から出て来たと思い込んでしまった。
——だが、どうやってそれを証明できるか?——
落ちた子供は、中原の姿に驚いたと言っている。仲間たちがそう証言したので、自分でもそのように思い込んでしまったのだ。子供の固定した記憶を覆すのはむずかしい。
砂岡をいまごろになって問い詰めたところで、本当のことを言うはずがない。女を逃がしたのは、一緒にいるところを見られては都合が悪かったからである。あるいは女自身の意志で逃げ出したのかもしれない。
いずれにせよ、そこにいたことを、知られたくない人間が、あっさり白状するはずはない。それを認めれば、子供が落ちた責任までも着せられてしまう。子供はその後、医者にもわからない後遺症をしめしている。
そんなわけのわからないことの責任を追及されたら、うるさいことになるのはわかっている。中原が噂のぬれ衣を着せられているのを知りながら、とぼけているのが、かかり合いたくないことをしめす、何よりの意思表示ではないか。
中原はようやく、子供の墜落と、噂の原因を突き止めながら、どうすることもできなかった。
「やはり災難だったんだ」
と自分につぶやいて、諦《あきら》めざるを得ないようである。そんなとき妻から電話があって、四、五日中に帰ると言ってきた。中原はいよいよ首の座に直るような気がした。
3
団地の裏はやや低地の雑木林になっている。小さな沼もあって、ときどき犬や猫《ねこ》の死体が浮いている。危険でもあり不衛生でもあったので、地元の役所では、近くその埋立てを考えていた。子供たちにも立入り禁止地域になっている。
しかし雑木の中にクヌギの木が混じり、夏季にはそこに、カブトムシやクワガタがとまっていることがあるので、子供たちはときどき、禁を破って、林の中に侵《はい》り込む。
夏休みも終盤にはいったころ、その林の中に、子供たちの一隊がもぐり込んで来た。みな手に捕虫網や胴乱《どうらん》を持っている。
夏休みの最後の昆虫採集に、ラストスパートをかけるべく�禁断の林�に侵《はい》り込んで来た団地の子供たちらしい。
「あっ、いたぞ!」
「クワガタだ」
「ノコギリクワガタだ」
「でもメスだね」
「あ、あすこにカブトがいる」
「凄《すげ》え」
子供たちの歓声が緑陰にこだまする。さすがに�禁猟区�だけあって、獲物《えもの》は多いし、そのスケールが大きい。
カブトやクワガタのほかにも珍しい昆虫《こんちゆう》がたくさんいた。子供たちの胴乱は、たちまち豊かになっていく。
子供たちは獲物に誘われて、林の奥のほうへ侵り込んで行った。大都市の近郊では、すでに珍しいほどの、深い林である。昨日降った夕立ちのために、林の中はじめじめしている。少年たちのズボンも泥だらけである。
「ねえ、もうそろそろ帰ろうよ」
子供の一人が、ようやくタブーを犯していることに気がついたように足を止めた。