「まだ大丈夫だよ。奥にはもっといるよ」
べつの子供が言った。
「でもここへ来ちゃいけないって言われてるだろ」
「なんだ、恐《こわ》いのか、それじゃおまえだけ先に帰れよ」
リーダー株の勇敢なのが口をとがらし、肩をそびやかした。
「恐くなんかないさ」
「それじゃあ行こうぜ」
けっきょく、強気なのに引きずられて、さらに林の奥へ向かいかけた。すると突然、彼らより数メートル先の、ひときわ繁茂した木の根本からばさばさと音がして、黒い塊が飛び立った。
「わっ」と悲鳴をあげかけた子供たちは、その黒い塊が数羽のカラスであることを悟って悲鳴の末尾のほうを喉《のど》の奥に抑えた。
「こんなところにカラスの巣があるのかな?」
勇敢なのが、旺盛《おうせい》な好奇心を顔に表わした。
「ねえ、だれかカラスの巣って、見たことある?」
リーダー株の子供が、あとに尾《つ》いて来た子分たちの顔を見渡した。だれもが首を振った。
「カラスの卵があるかもしれない」
リーダーが言うと、子供たちはすでに抑えようのない好奇心の虜《とりこ》にされてしまった。
「まだ留守番がいるかもしれないよ。そーっといこう」
子供たちは足音を殺して、カラスの飛び立ったあたりの繁《しげ》みに近づいた。
「このへんだったぞ」
「気をつけろ」
「なんだか臭いなあ」
何かが腐ったようなにおいには少し前から気がついていたが、なによりも強い好奇心に圧倒されていた。
彼らは捕虫網を逆に構えて武器にしながら、繁みのほうへ恐る恐る近づいた。リーダーが、捕虫網の柄で繁みを分ける。子供たちの顔がそこを覗き込む。繁みの中に閉じ込められていた形の猛烈な腐臭が、彼らの面を直撃したのは、そのときである。
そして彼らはそこに信じられないようなものを見た。彼らは今度こそ悲鳴を抑えることなく、まるで蟻塚《ありづか》をこわされた蟻のように、てんでに逃げ出した。いちばん勇敢だったリーダーは、先頭に立っていた位置が、逃げるときにハンディとなって、最後尾になってしまった。
来るときの勇敢さとは打って変わって、彼は泣きながら逃げていた。幸いにも仲間たちは、それぞれ自分が逃げるのに精いっぱいで、彼が泣いていることに気がつかなかった。
東京都北多摩地区M市の外れの山林で、女の変死体発見の報は、近くの団地内にある派出所から所轄署を経由して、本庁へもたらされた。
発見者は、昆虫採集に来た団地の子供たちである。
最初に現場へ到着した所轄署員は、死体の外景を観察して、他殺の疑いが濃厚と本庁へ連絡してきた。
被害者は二十歳前後の若い女で、露出度の大きいサッシュブラウスと、膝上《ひざうえ》二十センチぐらいの赤いミニスカートを着けていた。喉《のど》に死因になったらしい紐《ひも》で絞めた痕《あと》が残っているが、使用された紐のようなものは、発見されなかった。
土中に埋められていたものが、埋め方が浅いところに雨水に洗われて、体の一部が地上に露《あら》われたのである。腐敗が進行しているうえに、犬や烏《からす》に突っつかれたために、損傷がひどい。現場および周辺に、身元を推定または特定させるようなものは何も残されていなかったが、地元署の刑事の中にその女を知っている者がいた。
被害者は三、四ヵ月前、新宿方面から流れて来たフーテンで、私鉄のM駅前の喫茶店にたむろしていた女であった。仲間からは『ボンコ』と呼ばれていた。早速、係官の一人がM駅前に飛んで数人のフーテンを連れてきて確認させたところ、ボンコにまちがいないことがわかった。名前は荒井汎子《あらいひろこ》といい、凡という字に似ているところからボンコと呼ばれていた。
出身地は関西のほうらしいのだが、詳しいことはだれも知らない。新宿に、吹きだまりに集まるゴミのようになんとなく寄り集まり、最近にわかに厳しくなったフーテン取締まりや、脱都会現象に追われて、居心地のよい場所を求めながら、荻窪、吉祥寺と転々として、四ヵ月ほど前にM駅前へ移って来たらしい。
いつもは駅前の喫茶店にたむろしているが、金に詰まると、家政婦やホテルのメードの臨時働きに出たり、あるいは売春婦まがいのことをやっていた様子である。
死体は司法解剖に付された。その結果、死後経過時間は二十日ないし一ヵ月、死因は絞頸《こうけい》による窒息と鑑定された。情交の痕跡《こんせき》は認められたが、腹部が地上に露出していて腐敗がひどく、血液型の判定ができなかった。あるいは犯人が非分泌型で型物質を出さないという場合も考えられた。
フーテン殺人事件の捜査本部が、M市署内に設けられた。
だが捜査陣の精力的な捜査にもかかわらず、網にひっかかってくるものは何もなかった。とにかく被害者が男関係のルーズなフーテンで、売春婦まがいのことをやっていたので、捜査は困難をきわめた。
犯人は、いちおう被害者の身元を隠すような工作を施しているので、計画的な犯行と見られた。犯人の逮捕を、最初時間の問題とみていた捜査本部は、被害者の周囲に次々と浮かぶ男の数の多さに驚き、洗っていくうちにそれらが一人一人消えていくのに、焦燥の色を濃くしてきた。
痴情|怨恨《えんこん》が殺人に発展する場合の異性関係は、たいてい数がかぎられるものである。異性関係のかなり花やかな人間でも、事件が発生した時点のいわゆる�現役�の関係者は、限定される。
ところが、荒井汎子の場合は、まったくきりがないのである。M駅前に居ついたフーテングループのほとんどすべての男と関係があり、その他行き当たりばったりに声をかけたり、かけられたりした男たちとその場かぎりの交渉をもっていた。
最初はセックスプレーのつもりで遊んでいたらしいのだが、男たちのだれかから金をもらったのに味をしめて、最近では売春もやっていた様子である。刑事たちの内偵《ないてい》では、団地の住人の中にも、どうも彼女と交渉をもった男が何人かいるらしいことがわかった。
団地の住人の大部分は、都心に勤めを持つサラリーマンである。したがって最寄りのM駅を利用している。
汎子は、この駅前に網を張って、客を拾っていたのだ。この情報を漏れ聞いた団地の奥さま族は、恐慌状態を呈した。
もしかすると、自分の夫が、汎子の顧客だったかもしれない。しかしそれ以上に恐慌をきたしたのは、脛《すね》に傷持つ亭主《ていしゆ》族である。彼らの中には、相手が汎子かどうか知らず、行きずりの情事を愉《たの》しんだ者もいる。妻に隠れて秘《ひそ》かに浮気をしている者もある。それが思わぬ事件によって、急に妻の監視が厳しくなった。彼らにしてみれば、とんだとばっちりであった。
4
中原桂司を取り巻く噂《うわさ》が、途方もない形に発展したのは、警察が被害者の男関係を丹念《たんねん》に追及しているころである。
——殺された女は、あの日、中原さんの部屋から忍び出て行った女だ——
だれかがまことしやかに言うと、噂はたちまち枯草の野に点じられた火のように広がった。炎はさらに最悪の形に発達した。
「中原さんがあの女を殺したのかもしれない」
「そうだわ、きっとそうよ。そうでなければ、シンちゃんがあんなに驚くはずないもの」
「可哀想にシンちゃんは、人殺しの現場を見せられたから、あんなにいつまでも怯《おび》えてるのね」
「私、恐いわ」
「人殺しの犯人と同じ棟《むね》に住んでるなんて、いやだわ」
「そう言えば、中原さんて、ちょっと変なところがあるわよ」
「奥さんを田舎へ帰して、一人で何をやってたのかしら?」
「きっと大久保清みたいな人なのよ」
噂はまったくとめどがなかった。中原は最初、女の変死体が発見されたという話を聞いたとき、いやな予感がした。噂がこんなふうに歪曲《わいきよく》されなければよいがと、内心おおいに心配していた。
それがまさに懸念《けねん》のとおりになったのである。しかし今度は災難だと諦めてはいられない。前の噂とは質がちがう。解剖による死亡推定期間も、ちょうど子供がベランダから落ちたころに符合する。下手をすると、人殺しの犯人にされてしまう。
当然のことながら、噂は帰宅して来た妻の久子の耳にはいった。
さすがの彼女も顔色を変えた。
「あなた、いったいこれはどういうことなの?」
久子は当然、彼を詰問した。
「馬鹿! おまえまでが疑ってるのか。これはまったく災難なんだよ。子供が落ちたのはおれのせいじゃない。下の砂岡の部屋を覗《のぞ》いたからなんだ」
中原は無実を証明するために、自分が追った推理を話した。それを聞いているうちに、久子もようやく納得してきた。彼女も最終的には夫を信じていたのである。しかし噂があまりにも途方もないことだったので、夫に確かめずにはいられなかったのだ。
「砂岡さんの部屋を覗いたというのね。きっとそうかもしれない。でも、砂岡さんのところに女がいたという確かな証拠があるの?」
久子は中原の言葉を聞いているうちに冷静になった。同時に自分の夫が直面した局面の重大さがよくわかってきた。
「証拠なんかないよ。しかしそれ以外に考えられないだろう」
「そうだけど、それはあなただけが主張することよ。砂岡さんにそんなこと知らないと突っぱねられれば、それまでだわ」
「どうしたらいいだろう」
中原は途方に暮れた表情で、妻の顔を見た。いまは久子だけが唯一の味方である。
「よく考えるのよ。砂岡さんの名前もうっかり出せないわよ。とにかく殺人事件なんですもの、当てずっぽうでものは言えないわ」
「ぼくの推理がまちがっているというのか?」
「そうじゃないわよ。推理だけでは、いくら理屈に合っていてもだめってことなのよ。何か証拠がなくちゃあ」
「証拠か……」
夫婦は暗然とした表情を見合わせた。もともと噂そのものがどこから発したのかよくわからないのである。噂とは、本来そういう性質を持っているものだが、中原のベランダから子供が落ちた(これも正確には中原のベランダの基底部と、砂岡のベランダの手摺《てすり》の間から)という事実があり、それを「純真な子供たち」が証言しているので、中原に不利であった。
このさい、中原を救うものは、あの日、砂岡の家から確かに女が——荒井汎子が出て行ったという証明である。
しかし「噂の女」が、汎子であったかどうかも不明であるうえに、本当にそんな女が存在したのかまったく曖昧《あいまい》なのであるから、証明のしようがなかった。
中原と汎子の間には全然関係はない。あの日、いかなる女も彼の部屋を出入りしていない。だから、たとえ警察が噂を聞きつけて疑いをかけたとしても、いずれそれは晴れるであろう。
しかし彼のような教職にある身には、そんな嫌疑《けんぎ》をかけられるだけでも致命的であった。いかに鷹揚《おうよう》な校長でも、殺人の疑いをかけられた教師をそのままにしてはおくまい。この団地にも住んではいられなくなるだろう。
彼らは職と、せっかく見つけた住居をいっぺんに失おうとしていた。二人はいまさらながら、はまりこんだ落とし穴の深さを思い知った。
「そうだわ」
窮地に追いつめられて、久子は一つの小さな突破口を見つけた。
「何かいい考えでも思いついたのか?」
夫がわらにもすがりつくような目を向ける。
「どうして、いままで思いつかなかったのかしら? シンちゃんに訊いてみるのよ」
「シンちゃんに?」
「あの子は何かに驚いて、ベランダから落ちた。あなたの推理によれば、砂岡さんの家の中の何かを見て驚いたということね。それ以来、シンちゃんは様子がおかしくなったんだわ。そのときのショックが子供の心に緊張をあたえて、それがあの子の表に顕《あら》われた行動を異常にしているのよ。だからその緊張を解きほぐしてやればいいんだわ。そうすればきっと心の中に閉じ込められたものが浮かび上がってくるわよ」
久子は、以前の職業的知識と経験から、子供の心の中に何かのしこりがあることを悟った。そのしこりを解くことが先決であると思った。
「でもどうやってやる? 近所の目が光っているよ」
「光ってたってかまわないわ。何もしないで人殺しの疑いをかけられるのよりも、ましよ。私、シンちゃんの両親にかけ合ってみる」
久子はいまや必死であった。それ以外に夫を守る方法はないのである。彼を守ることは子供を守り、家庭を守り、自分自身を守ることにつながる。
中原は、結婚してそろそろ十年になる妻の、いままで知らなかった強靭《きようじん》な一面を、はじめて発見したような気がした。それは女としての強さであったかもしれない。
5
久子が山田家に交渉して、ようやく慎一に直接質問する機会をあたえられた。山田夫婦は最初、とんでもないことだと、にべもなく突っぱねたが、久子の熱心な粘りに負けて、短い時間ならという条件で許してくれた。
場所は山田家で、時間は夕食前の、慎一の好きな子供向けテレビ番組の終わったときが選ばれた。
好きなテレビを見て、機嫌《きげん》のいいときのほうが、素直に質問に答えるだろうという山田夫婦の配慮である。
最初は渋っていた両親も、久子の熱意に負けて、積極的に協力してくれるようになった。もっとも、だいぶ好奇心も手伝ったことは確かである。
子供を怯《おび》えさせないように質問は、子供を扱い馴《な》れた久子がすることになった。山田夫婦がその場に立ち会った。中原は襖《ふすま》一枚へだてた隣室に身を潜めて、その場のやりとりを傍聴した。
「ねえシンちゃん、テレビおもしろかった?」
久子はおもむろに切り出した。
「シンちゃんはどのテレビが好きなの?」
「ウルトラマン、それから仮面ライダーだ」
「そう、よかったわね。シンちゃんもウルトラマンみたいに空を飛べたらいいと思う?」
「うん」
子供はうなずいて目を輝かした。
「ウルトラマンが助けに来てくれたら、シンちゃんもいつかのようにベランダから落ちなかったのにね」
久子は子供の表情に注意しながら、そろそろと本題にはいっていった。襖の向こうでは、夫が固唾《かたず》をのんでいる。久子の誘導が巧みだったのか、子供の機嫌がよかったからか、その面《おもて》にとくに怯えは見られない。
子供に怯えられて、親からストップをかけられるのがいちばん恐い。久子はさらに一歩進んだ。
「シンちゃん、どうしてベランダなんかに登ったの?」
「蝉《せみ》がいたんだ」
「ベランダのどのへんにいたの?」
「二階だよ。二階のどこかだよ」
「見えた?」
「啼《な》く声がよく聞こえたよ」
「啼き声で二階にいるとわかったのね」
「うん」
「シンちゃんどのへんまで登ったの?」
「二階だよ」
「でも二階までいったら、蝉が見えたんじゃない?」
「二階のベランダのすぐ下のところだよ」
「蝉はずーっと啼いていた? それとも、途中からシンちゃんに気がついて逃げちゃった?」
「ずーっと啼いていたよ。ぼく気がつかれないように登ったもん」
子供は得意そうに胸を反《そ》らした。
「そう、えらいわねえ、シンちゃん木登りもうまいんでしょ」
「うん」
子供はますます得意そうな顔になった。
「でもシンちゃんどうして手を離しちゃったの? 危ないじゃない」
久子はせっかく高揚した子供の自尊心を傷つけないように、やんわりと訊いた。ようやく質問の核心にはいったのである。さりげなく訊いているが、久子は緊張で喉がカラカラになっていた。
「二階のおじさんがコラッて怒ったからだよ」
子供は抗議するように言った。自分が落ちたのは、自分の�腕�が悪かったからではなく、おとなの邪魔がはいったからだと訴えているわけである。
「でも蝉はずーっと啼いていたんでしょう。おじさんがコラッて言えば、そのとき逃げちゃうんじゃない?」
子供は困ったようにちょっと下を向いた。ちょうど啼き終わったときにどなられたと言い抜ける知恵は、まだその年齢の子供にはない。
久子はすかさず追い打ちをかけた。
「ねえシンちゃん、おばさんはねえ、シンちゃんが、おじさんからどなられたぐらいで驚くような子じゃないと思ってんのよ。何かほかのことにびっくりしたんじゃない?」
山田夫婦がすこし身じろぎをしたが、何も言わなかった。
「そのときシンちゃんは二階のベランダの下にぶら下がっていたんでしょ」
子供がうなずく。
「すると二階の下の一階のお家の中が見えなかった?」
「うん、見えたみたい」
はじめて子供に、中原夫婦の望む反応が現われた。
「何が見えたの?」
「カーテンが閉まってた。でも、まん中が少し開《あ》いてた」
「うん、その間から何が見えた?」
「ぼく恐い!」
子供の顔が恐怖に引き攣《つ》った。子供はついに「本当に見たこと」を思い出したのである。山田夫婦もことの意外な成り行きに身を乗り出した。
「さあ慎一、恐いことなんかないぞ。パパもママもついている。おまえは強い子なんだ。カーテンの間から何が見えたか言ってごらん」
父親がそばから言葉を添えた。それは子供にとっても、久子にとっても、何よりの�援護射撃�になった。
子供は父親の励ましに勇気づけられたらしく、面を上げた。必死に何か言おうとするのだが、どうしても思い出せない様子である。受けたショックが大きいために、記憶を意識の深層に閉じこめているのである。
久子はふと思いついたことがあった。
「ねえ、シンちゃん、お部屋の中にいたのは……いいこと、シンちゃん強いんだから恐くなんかないわよねえ、おばさん思いきって言ってみるわ。おばさんも恐くないわよ、だからシンちゃんも恐くないわね」
「ぼく、恐くなんかない」
久子の巧みな誘導に乗せられて、子供は胸を張った。
「お部屋の中にいたのは、カマキリじゃなかったの?」
ハッと子供の顔に怯えが走った。そういう反応があったということは、久子の誘導が正しい方向へ進んでいる証拠である。
「カマキリなんか、恐くないわよねえ、カマキリ、何をしてたの?」
「大きなカマキリが、食べっこをしていたんだよ。お家の中で」
「どんなカマキリだったの?」
「黒いカマキリが、白いカマキリのお腹《なか》を食べていたの」
子供の心理に抑圧されていたものが、ついに解き放された。
おとなのセックスのからみ合いが、子供の目にカマキリの共食いに映ったのであろう。
「慎一、それは一階のお部屋だったのか?」
「一階だったよ」
子供は、はっきりとうなずいた。いったんしこりが解かれると、記憶はますます正確に引き出される。だが階層の確認はとくに必要ではない。中原の家がカーテンを閉めていなかったことは、大勢の人間に目撃されていたからである。
ここに子供の墜落の原因は中原ではなく、一階の砂岡の家の中にあったことがわかった。しかもそれは驚くべき原因である。
「中原さん、これはえらいことになりました」
山田夫婦は驚きながらも、いままで中原に、いわれもない責任を追及してきたことを詫《わ》びた。
「いやいやとんでもない。私も無実であったことがわかってもらえて嬉《うれ》しいです。ご協力を感謝します」
中原もやっと長い間頭上を被《おお》っていた暗雲が晴れたような気がした。
「このことは早速、警察に届けたほうがいいと思いますね。とにかく人が殺されてるんだから。われわれも証人になりますよ」
山田は好意的に言ってくれた。警察がどの程度、小学校一年生の子供の言葉を受け入れてくれるかわからなかったが、中原は自衛のために、警察に届けることにした。
警察は非常な興味をもって、中原の話を聞いてくれた。彼らはとうに団地に流れる噂を聞き込んでいた。しかしまだ中原のところに事情を聴きに来なかったのは、はたしてその女が中原の家から出たのか、そして彼女が荒井汎子であったのかどうかの確認が取れなかったからである。
警察は、中原の職業を考慮していた。たとえ任意の事情聴取であっても、聴かれる側の職業や身分によっては大きな迷惑をかけることがある。
子供の転落と�幻の女�を安易に結びつけるわけにはいかなかった。それに内偵を進めても、中原桂司と荒井汎子の間がつながらなかったのである。
ここに、中原や山田夫婦の届け出を聞いた捜査本部では、砂岡を呼んでいちおう事情を聴くことにした。
砂岡の容疑のほうが、最初中原にかけられたものよりも、やや濃いと言えた。とにかく子供は、砂岡の家の中に、男と女のからみ合う姿を見て、落ちたのだ。
はじめに子供が仲間たちの証言に釣《つ》られて主張したことの中でも、コラッという声を「聞いた」ことになっていたが、何を「見た」とも言っていない。
聞くよりも見るほうが強いというわけである。
ところが捜査本部に呼ばれた砂岡は、カンカンに怒った。それは作為の怒りではなく、本当の怒りであった。
「おれがカーテンを閉めて何をしていようと、おれの勝手だよ。あのときはちょっと体の具合が悪くて、会社を欠《やす》んでいたんだ。そしたら行きつけのバーの女の子が果物を持って見舞いに来てくれたんだ。婚約者があるのにホステスが入り込んでいるのを近所に見られたら具合が悪いんで、カーテンを閉めて話をしてたんだよ。すると表のほうが急にうるさくなったんで、何が起きたのかと気配をうかがうと、おれのところのすぐ上のベランダから子供が落ちたという。人が大勢集まって来る前に、女の子には帰ってもらった。変な疑いをかけないでもらいたいね。うちの会社は社員の私生活にあまりうるさくないとはいうものの、結婚をひかえて大切な時期なんだ。なんだったら、そのホステスに証明させてもいいぞ」
と凄《すさ》まじい見幕で捜査官にかみついた。捜査官はそれをなだめて、ホステスの名前と勤めている店を訊き出した。そして彼女を当たったところ、砂岡の言葉は裏づけられたのである。
「刑事さんたらエッチねえ、わかってるくせにそんなことを訊いて。男と女が真っ昼間からカーテンを引いてしていることっていえば、決まってるじゃないの」
二流のバーのホステスはしな[#「しな」に傍点]をつくって笑った。ホステスが砂岡のために偽証している様子はなかった。それに彼らの関係は、軽い浮気程度で、そんな重大なことをする義理合いはない。
子供はカーテンの隙間《すきま》から、砂岡とホステスの情事を覗いて、びっくりして落ちたのである。砂岡たちはこの事件に無関係だということがわかった。
同時に中原のぬれ衣《ぎぬ》も晴れた。げんきんなもので、あれほど轟々《ごうごう》たる非難を俗びせていた住人たちが、一転して、
「私、最初から中原さんはそんな人じゃないと思っていたのよ」
「でもさすがに学校の先生だけあってえらいわね。噂を冷静に分析して、疑いを晴らしたんだから」
「なんでも普通の先生とちがって、本を書いているえらい先生なんですって」
「うちの子にも数学を教えてもらおうかしら」
という調子の賛辞に変わり、教育ママたちが続々と子供を連れて、課外の勉強の面倒をみてくれと頼み込んで来た。そのため中原は今度はそれを断わるのに苦労をすることになった。
疑いは晴れたものの、中原はどうもすっきりしなかった。子供は本当に砂岡の情事を覗いてびっくりしたのであろうか? どこかがちがうような気がした。だがどこがちがうのかわからない。
釈然としないまま、夏休みは終わりに近づいた。変な災難に巻き込まれたために、仕事のほうはいっこうにはかどっていない。
ある日の夕方、彼は都心へ参考資料を買いに出て、夜八時ごろ帰って来た。八月の末近くともなると、日もだいぶ短くなって、団地の窓に灯がきれいである。
規格的な窓だが、各戸ともカーテンにいろいろと工夫をこらしている。明るく和やかな光が漏れて来る中で、一戸だけ暗渠《あんきよ》のように暗く、閉ざされている窓があった。
砂岡の家である。黒地の厚ぼったいカーテンがピタリと窓を塞《ふさ》いで、中が暗い。その家の主はまだ帰宅していないらしい。彼はいつも帰りが遅いのである。
——嫁さんが来れば、あの窓も明るく暖かい光に満たされるだろう。それも、もうすぐに——
なにげなく思ったとき、中原は暗い窓に視線を固定させたまま、その場に硬直した。彼の視野を厚地の光や空気を通しにくそうなカーテンが塞いでいる。
そのカーテンは、一枚の布地でつくられた一枚引きのものであった。両開きのドアのように窓の両側から引かれて中央で合わせる引分けではなく、窓の片側からもう一方の窓枠《まどわく》へ天井に取りつけた一本のカーテンレールに吊《つ》られて、一枚の連続した布地を引いてしまう、一本引きのドアのような一枚引きのものである。
だが子供は「カーテンの真ん中に隙間があった」と言ったのである。
一枚引きのカーテンが、真ん中に隙間を生じるはずがない。
カーテンが完全に引かれておらず、窓枠とカーテンの端の間から、室内を覗いたということも考えられるが、中原は、子供が落ちる前にベランダにぶら下がっていた位置を覚えていた。
子供はちょうど窓ガラスの中央にあたる位置にいたのである。一枚引きのカーテンの隙間から室内を覗いたとすれば、カーテンは半分ぐらいしか閉まっていなかったことになる。
表沙汰《おもてざた》にしたくない女と情事に耽《ふけ》っていた砂岡が、そんな不完全なカーテンの引き方をするであろうか?
——いやあのとき、砂岡家のカーテンは完全に閉まっていた——
中原は当時の様子を思い出した。子供が落ちて、慌てふためいて、その現場へ飛び出していった中原の目の前に、砂岡家の窓は、厚いカーテンによって拒絶的に閉ざされていたのだ。
カーテンに隙間なんかなかった。それにもかかわらず子供は、その隙間から、男が女を苛《いじ》めている図を覗いたのである。
——子供の錯覚だろうか?——
〈ちがう——、錯覚であんなにいつまでも怯《おび》えているはずがない〉
中原はどこかに自分の見落としているものがあると思った。
6
その事件が起きたのは、八月の末の残暑の盛んな日であった。M市の外れにある総合レジャーランドのプールは、夏休みの最後を、心残りのないように楽しんでおこうとする河童《かつぱ》連で大賑《おおにぎ》わいであった。
とくにレジャーランドの呼び物であるマンモスプールには、さまざまなコースがあって、家族連れにもアベックにも、また子供だけで来ても泳げるようになっているので人気がある。プールサイドには夕方になるとバンドがはいって、ハワイアンの生演奏を聞かせたりして、雰囲気《ふんいき》を煽《あお》る。
週日の昼間には子供用の割引きがあるので、団地の子供たちも、グループでよく泳ぎに来る。そんなグループの一つが騒ぎだした。
「シンちゃんがいないよ」
「どこへ行ったんだろう」
「おーい、シンちゃん。そろそろ帰ろうよ」
子供たちが、プールサイドをしきりに探しまわっている。マンモスプールではあるが、子供たちのコースはかぎられている。誘い合わせて泳ぎに来た子供たちの一人が、帰る時間になっていなくなってしまったのである。
「深いほうへ行っちゃったのかな?」
「まさか。シンちゃんはそんなに泳げないよ」
子供たちが、不安な面を見合わせたとき、上級者向けのコースのほうで、
「おい、だれかプールの底に沈んでいるぞ」
とどなった者がある。立ち泳ぎをしていて足に触ったらしい。
水深二メートル足らずの、背の高いおとなならば背が届くところだが、子供たちは近づかない。
早速、底から抱き上げてみると、小学校一、二年の子供である。皮膚の色が青白く、すでに呼吸が停止している。大騒ぎになった。
早速、プールサイドに寝かせて人工呼吸が試みられた。同時に心臓のマッサージが行なわれる。発見が早かったことと、人工呼吸が適切であったので、少しすると、子供は小さなため息をつき、蘇生《そせい》のきざしが見られた。
これに元気づけられて、なおも必死の蘇生術をつづけると、やや深く長い呼吸に戻った。青白かった皮膚にも赤味がさしてきた。
子供は間一髪のところで、救われたのである。
「よかった、よかった」
周囲に集まった人々がホッと安堵《あんど》の息をもらすと、溺《おぼ》れかけた子と一緒に来ていた子供たちが泣きだした。緊張が弛《ゆる》んだせいであろう。
「きみたち、友だちかい?」
人工呼吸を施したプールの管理人が、子供たちに訊いた。子供たちは泣きじゃくりながらうなずいた。いずれも小学校三年どまりの子供ばかりである。
「きみたち、どこから来たの?」
管理人は、こんな小さな子供だけでプールへ来させる親にも注意しなければならないと思った。もっとも、地元の子供たちは、夏になると毎日のようにやって来るので、親も馴れてしまっていちいち付き添って来ない。
管理人に叱《しか》られたと思った子供たちは、ベソをかきながら、周囲の人垣《ひとがき》に救いを求めるような目を投げた。
「あ、おじさん!」
彼らの一人が人垣の中に知った顔を見つけたらしい。その顔は人垣の背後に、いままさに隠れようとしていた。子供は立ち去ろうとする人に向かって、すがりつくように必死に呼びかけた。
「おじさん、シンちゃんちのお隣りのおじさん」
「もしもし、どなたかこの子を知ってる人がいるのですか?」
管理人に呼びかけられて、人垣の後ろから三十前後の男が間の悪そうな顔をして出て来た。
「この子をご存じですか?」
「ええ、同じ団地に住んでいる人のお子さんですよ」
「知ってる方がいてくれてよかった。親ごさんの住所と名前を、教えてください。本当に危ないところだったんですよ」
騒ぎを聞きつけて、レジャーランドの管理事務所のほうからも人がやって来た。
溺れかけた子供は、山田隆の子の慎一であった。久子の心理分析によって心のしこりを取り除かれたのか、最近後遺症がおさまり、近所の友だちとプールへ遊びに行っての事故である。
地元でもあるし、以前にも何度も行ったことがあるので、親は安心していた。人工呼吸が、一歩遅れれば、取り返しのつかないことになるところであった。親は慄然《りつぜん》とし、近所の人々は「シンちゃん、ツイていないわね」とささやき合った。
「どうして、おとなのほうのプールへ行ったの?」
と山田夫婦は慎一が常態に復したときに訊いた。以前の慎一ならばとにかく、例の転落事件以来、諸事ひかえ目になって、そんな冒険はしろと言われてもしないようになっていたからである。
それが突如として、上級者用のコースへはまり込んで死にかけた。親としては、なんとしても解《げ》せない思いがあった。
最初は怯えて、ただ「知らない、わからない」と答えていた子供も、親の根気をかけた追及に、ついにポツリポツリとそのときの事情を話しはじめた。
だがそれは親を仰天させる内容を持っていた。つまり慎一はだれかに足をつかまれて、深みへ引きずり込まれたのである。
「まさか!?」
山田夫婦はすぐには信じられなかった。いたずらにしては悪質である。
「本当だよ。ぼくがいやがるのに足を引っ張って、ぐんぐん深いほうへ引っ張っていったんだ。浮かび上がろうともがいたんだけど、凄《すご》い力で沈められちゃったんだよ」
「だれがそんなことをしたのか、覚えている?」
「ううん、夢中だったもの。でもおとなだったみたい」
「おとな」
夫婦は顔を見合わせた。もし本当におとながそれをしたのであれば、単純ないたずらではない。故意にやったのだ。これは確かにおとなの仕業であるかもしれない。小学校一年の子供とはいえ、死にもの狂いにもがきまわるのを抑えて、人目の多いプールで、深みに引きずり込むのは、相当の膂力《りよりよく》を要するであろう。
しかしもしおとながやったとすれば、だれがなぜそんなことをしたのか? いたずらでなければ、殺意を含んでいたことになる。どうしてこんないたいけな子供を殺そうとしたのか? 思案にあまった山田夫婦は、警察へ届け出ることにした。
この話が、中原の耳にはいった。最初は彼も、近所の人々同様に、子供が「ツイていない」と思った。だが子供が溺れかけたとき、山田家と同じ棟に住む、しかも同じ棟の一戸おいて隣りの細川正敏《ほそかわまさとし》が、その現場に居合わせたことに、ひっかかった。
細川は自動車のセールスマンをやっているとかで、中原も団地の中で二、三度すれちがったことがある。どことなく崩れたところのある男であった。
入居当時は、細君がいたらしいのだが、最近はずっと一人暮らしをしている。近所の人間の噂《うわさ》では、どうやら細君に逃げられたということである。
出勤も常ならず、何日も帰らない日がつづくかと思うと、ずーっと家にごろごろしていることがある。
その細川が、慎一が溺れかけたとき、現場に居合わせたという。プールは地元にあるから、彼が行っていても不思議はないのだが、彼は子供たちとはべつに泳ぎに行って、たまたまそこで事件に遭遇したというのだ。
どうも釈然としないものが心の底に澱《おり》のように残るので、中原は一緒に行った子供たちに、それとなくそのときの様子をたずねた。
「坊やのほうが、細川のおじさんを見つけたの? それともその反対かい?」
「ぼくがおじさんを見つけたんだよ」
子供の一人が得意そうに答えた。