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 佐伯教授は、まず第一回の問診のときと同じ質問をした。.4

作者: 当前章节:3772 字 更新时间:2026-6-22 20:37

「坊やは目が早いんだね」

「うん、ぼくが呼ばなかったら、おじさん、行ってしまうところだったよ」

「な、なんだって」

 中原は愕然《がくぜん》として、

「行ってしまうって、おじさん、気がつかなかったのかい?」

「ううん、みんなと一緒に見てたよ。ぼくが呼んだので、仕方なく出て来たみたいだった」

「仕方なくかい」

 中原はこれは容易ならないことだと思った。しかしそこから先へは一歩も行けなかった。

 隣人の子が水死しかけたのにかかり合って、せっかくのレジャーを、台なしにしたくないという意識が働いたのかもしれない。

 都会的な無関心は、道義的に責められることはあっても法的な責任を追及できない。細川が子供の足を引っ張ったという証拠もなければ、そんなことをする理由も見当たらないのである。

 中原は不本意ながら、そこまでで立ち停まらざるを得なかった。

   7

 夏休みは終わり、学校がはじまった。生徒の新鮮な顔に再会した中原は、夏休みの事件を忘れるともなく忘れていった。フーテン殺人事件の捜査は、迷宮入りになる様相が濃いという。

 しかし、中原には関係のないことであった。殺人事件の捜査は、彼の義務ではない。いったんはとんでもないデマのおかげで、ぬれ衣を着せかけられたが、それも晴れてみれば、もともと無関係のことであった。

 生徒はなついているし、仕事には生き甲斐《がい》がある。妻は優しく子供は健康で、家庭は幸福だ。いまの日本のどこにも見うけられるささやかな幸せであったが、中原はそれを慈《いつく》しんだ。

 だが幸福というものには、本質的につきまとっている残酷性がある。その幸せがささやかであるほどに、それを維持することに忙しくて、他人のことに考えが及ばなくなる。

 中原が、心にかけながらも、記憶の意識下に事件を押し込めていったのは、その残酷な性質が多分に作用していた。

 九月下旬の日曜日の朝のことである。その朝ちょっとした事件が中原家に起きた。彼らの一人っ子である今年幼稚園にはいったばかりの勝《まさる》が、誤って母親の三面鏡を割ってしまったのだ。

 今日は親子三人でデパートに買物に行く予定になっていた。いたずらでやったのではないので、子供を叱るわけにはいかない。しかし当面の化粧に困った。

 顔はコンパクトの鏡で間に合うが、妻にしてみると、今日は新しいスーツを着たので、姿を映してみたいところである。

「そうだわ、いい考えがある」

 久子は言って、ベランダに面したガラス戸のカーテンを引いた。家の中がうす暗くなった。

「おいおい、何をする気だい?」

 中原が驚いてたずねると、

「外が明るいから、こうすると、じゅうぶんに姿見の代わりになるのよ」

 妻に言われて、中原もベランダに立ってカーテンの引かれた窓ガラスを見た。外光がカーテンによって遮断《しやだん》されて、ガラスの上に映像をつくっている。立派に姿見の代用になっていた。

 彼はそこに映し出された自分自身の姿にしばらく見いっていたが、突然、大きな声を上げた。

「おい、久子、わかったぞ!」

「ああびっくりした。いったいどうしたのよ」

 久子が驚いて、たずねたのには答えず、

「ちょっと下の砂岡さんのところへ行ってくる。今日は日曜だから、家にいるだろう」

 履物《はきもの》をはくのももどかしげに、外へ出て行った。

   8

 中原の着眼を聞いた捜査本部では、あらためて細川正敏と荒井汎子の関係を徹底的に洗った。その結果、彼らの間にかなり以前から交渉があったことを突き止めたので、いちおう任意の形で本部へ呼んで事情を聴いた。

 同時に本部は捜索許可状を取って、細川の家を捜索した。捜索許可状は、逮捕状と異なって簡単に下りる。その結果、彼の寝具の中に荒井汎子の毛髪および体毛と、彼のズボンの裾《すそ》の折り返しの中に、重大なものを発見したのである。

 これらの証拠品と、中原の着眼を同時に突きつけられた細川は、ついに犯行を自供した。それによると、彼は被害者と新宿のスナックで知り合って交渉を持った。その場かぎりの浮気だったが、女が脱都会化ブームに乗ってM駅付近に移動して来てから、交渉が復活した。

 あの日、細川は会社をサボり、被害者を呼んで、昼間から痴戯《ちぎ》に耽《ふけ》っていたという。最近女はSMプレーを覚えて、彼らはセックスの刺激を強めるために、おもしろがってSMごっこをやっていた。

 殺すつもりはなかった。女の言うなりに首を絞めていたが、いつの間にかぐったりしてしまったので、聞きかじりの人工呼吸などを施したのだが、いっこうに生き返らない。

 見つかれば殺人罪になるかもしれない。思案にあまった彼は死体を捨てることを考えたのである。幸いに、女を部屋に連れ込むところは、だれにも見られていない。こうして夜更けになるのを待って、団地の裏の雑木林の奥へ運び込んで、埋めてしまったというわけである。

 彼のズボンの折り返しの中から、ノコギリクワガタのメスの死骸《しがい》が現われた。これのメスは小ぶりなので、そんなところに潜まれるとちょっとわからない。虫の死骸と同時に、腐葉の切れはしや土壌《どじよう》の微粒が発見された。それらはすべて雑木林へ行かなければ、付着しないものである。

 中原は、細川が自供したと聞いたとき、妻に自分の着眼を説明してやった。

「シンちゃんは砂岡さんのカーテンを引かれた窓ガラスに映った、細川が荒井汎子を殺す場面を見て、驚いたんだよ。ちょうど砂岡さんのところは、細川の家の裏窓の真向かいにある。細川はカーテンを閉めたつもりで、中央が少し開いていたのさ。裏窓ってやつは覗きにはよく利用するが、覗かれるとは思わない。昼間から灯をつけておおっぴらにしていた情事が、砂岡さんの家のカーテンを引いた窓ガラスにくっきりと映し出されていたとは知らなかっただろう。ましてやそこへ蝉取りに登って来た子供に覗かれるなどとはね。おまえ、前は、子供のおかしな遊びや癖は、心の内部にあって発散されない感情の緊張が原因になって表出されたものだと言ったことがあったな。シンちゃんが、ダストシュートの集積所の中へもぐり込んだり、枕を噛《か》み破ったりしたのは、砂岡さんのカーテンに映った細川の家の中の様子が、そのまま子供の心の中に取り込まれたからじゃないだろうか。カーテンに映った向かいの家の中って、ダストシュートの中を覗き込んだときになんとなく似てるじゃないか」

「まあ、ダストシュートなんてひどいわよ」

 久子は言ったが、その発想をおもしろいと思った。まして子供の心は柔軟であるから、どんな連想をするかわからない。子供は怪物のように大きな�カマキリの共食い�を見て、恐怖のあまり手を離して転落した。だがそれが子供心の中に、深い屈辱を抉《えぐ》った。

 それが無意識の中にカマキリがいたと同じような場所へ自分を運んで、カマキリに挑戦《ちようせん》し、不名誉を回復しようとしていたのかもしれない。枕を噛み破ったのは、カマキリを食べたつもりであったのだ。中原は妻に向かって語りつづけた。

「細川は途中から、砂岡さんの家の窓ガラスが、鏡になることに気がついた。シンちゃんが落ちたのと思い合わせて、子供に自分の犯行を覗かれたことを悟ったんだ。最初の殺人はハプニングだったかもしれないが、自衛のために、子供を殺そうとしたのは許せない。だからぼくは警察に届けたんだよ。まだシンちゃんを殺そうとしたことは自供していないそうだが、それも時間の問題だろう。思えば今度の事件で、本当に災難だったのは、シンちゃんだったな。これがあの子の将来に暗い影を残さなければいいが」

「大丈夫よ、子供の心って弾力に富んでいるから」

「まあ、昼間からカーテンを引くようなことをやらないことだ」

「まあ、あなたっていやな人」

 久子は頬をうすく染めて、中原を軽くにらんだ。

本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。

[#地付き](角川書店編集部)

角川文庫『精神分析殺人事件』昭和52年11月10日初版発行

            昭和60年8月30日16版発行

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