それは中原みどりの八反田における生活環境の中に、まったく人間、特に若い女としての�体臭�が感じられないことである。
生きているかぎり、人間には必ず生活の体臭があるはずである。それは若ければ若いほど旺盛《おうせい》なはずだ。それにもかかわらず、それがないということは、本人がよほど淡白な人間か、あるいは故意にそれを隠している場合である。
中原みどりは若くグラマラスな女性である。見るからに悩殺的な肢体は、村の若者たちの憧《あこが》れの的になっていた。
だから彼女の周辺に生活の体臭がなかったということは、教師という職業がら故意にそれを隠していたことが考えられるのである。
しかし�体臭�が旺盛であればあるほど、隠し通せるものではない。どこかで必ず発散させていたはずである。
それは八反田以外のどこかだ。それはどこか?
魚住は、少年の審判が下る前に、みどりが�体臭�を発散させた場所を探ってみたいと思った。
「おれはね、あのグラマーな美人教師が、草深い田舎で尼僧のように行ないすましていたのが、どうも気に入らないんだ。どうもそこに、作為があるような気がしてなあ」
魚住は、自分の心にわだかまるものを、若い同僚に話した。
「しかし、それは教師という職業がら、当たり前なことじゃありませんか」
山下は、魚住の疑問のほうがおかしい、という顔をした。
「いや、それにしても、中原みどりの周辺はあまりにも淡白すぎる。若い女のまわりというものは、あんなものじゃないだろう。淡白すぎるということは、淡白じゃないってことにならないか。中原には男がいたような気がしてならない」
「八反田では行ないすまして、どこかよその巣で忍び逢《あ》っていたんでしょうか」
「そこだよ」
魚住は、我が意を得たりという声を出した。
「八反田が仮の居場所で、彼女の本当の巣がどこかよそにあるのなら、そこを覗《のぞ》いてみたいのだ。少なくとも職場のある場所には、普通の人間ならば、かなりの生活のウエイトをかけているはずだ。それにもかかわらず、八反田で行ないすましていたのはなぜか? 男がいたところで、まじめな恋愛ならひとに知られても大してさしつかえないだろう。それをひた隠しにしたのは、知られてはまずい何かの事情があったからだ。おれはその事情を知りたいのだよ」
「なるほど。しかしその事情と、宮本少年と関係がありますか?」
「関係はないかもしれない。だが、あるかもしれない」
「もしガイシャに�巣�のようなものがあるとすれば、とりあえず考えられるのは、K市ですね」
山下はいくらか興味を惹《ひ》かれた表情になった。
「ひとつ洗ってみますか」
若いだけに行動へ移るのが早い。二人は、八反田の中原の下宿を、調査の起点にして、彼女の�巣�へ遡行《そこう》してみるつもりだった。
刑事の着眼はよかったが、その遡行は徒労に帰した。下宿をあたって一ヵ月に二度くらいの割りでどこかへ出かけて行くという証言に勇み立ったものの、K市内および近郊の旅館を洗っても、みどりらしい女性が投宿、あるいは�休憩�した形跡はまったく発見されなかった。
「もしかしたら、東京でしょうか?」
「東京だとなると、ちょっと探しようがないな」
中原みどりの巣が、�旅館�にあるとは断定できないが、教師のように私生活も常に鎧《よろい》で身を固めていなければならない職業を持った若い女が、恋に自分の全体を解放する場所として、もっとも安直に飛びこむのは、�その種の旅館�だと思った。
情事だけを目的にして建てられたその種の旅館は、およそ情事のためのあらゆる趣向と設備を備え、プライバシーを保証してくれる。
K市およびその近郊の旅館ならば、最近モーテルが増えたとはいえ、捜査が可能である。しかし、東京となると、いちばん新しい調査で三千五百軒もある。
一軒平均の保有部屋数が十室だから、全部で三万五千室、この部屋の回転が、宿泊と休憩を一回と数えて、一日二回転、一回転に二人はいるから、一日四人、これの三万五千室だから、実に一日に十四万人という、地方都市の人口なみの男女が、この種の旅館の密室で、抱き合い、からみ合い、肉の悦《よろこ》びのうめき声をあげているのである。
しかもその回転数は、最近ますます速まる傾向にあるという。この膨大な旅館群から、たった一人の女を探し出すのは、それこそ海に落ちたミクロの虫を探すようなものであろう。
それを探し当てられたところで、事件と直接の関係があるかどうかわからないのである。
二人の刑事は疲労感だけを得て、捜査を打ち切らざるを得なかった。
7
翌日、魚住より一足先に署を退《ひ》けた山下は、帰途、行きつけの本屋で、一冊の本を買った。山下は推理小説のファンで、時折り、本屋をあさっては、目についたものを買っていた。
現職の警察官には、推理小説は嘘っこと[#「嘘っこと」に傍点]ばかりだと言って嫌《きら》う者が多い。たしかに小説だから、嘘《うそ》の多いのは事実である。現実にはとてもこんなにうまくいくはずのないことが、平然と書かれてある。
しかし推理小説にある、論理的な分析手法は、物証オンリーで論理的思考を欠落しがちな警察官が大いに学ぶべきであると、山下は信じている。
それには論理的な謎《なぞ》解きを主幹とする本格推理がよいのだが、最近はむやみやたらと、現実重視の推理小説が多くなってしまって、自分が読みたいと願う、徹底的な論理の積み重ねをする推理が、きわめて少なくなってしまった。
彼はリアリティにはもうあきあきしていた。自分が毎日職業としている現実を、捜査報告書を読まされるように、これでもか、これでもかと書きこまれても、あまり頭脳の刺激にはならない。
現実を忘れ、現実からは得られない知恵が得たいから推理小説を読むのである。だから彼はなるべく刑事の登場しないオールドファッションのものを好んだ。
だが推理作家におよぼされたリアリズムの影響は大きく、最近では、なかなかそのような作品にお目にかかれない。
もっともその日、彼が書店に立ち寄ったのは、推理小説を買うためではなかった。
山下が買い求めたのは、精神分析の入門書である。
今度の事件で、ちょっと興味を持ったのだ。少年が中原みどりへの憎しみを虫に転位した心の屈折に、人間心理の深層に渦巻《うずま》くどすぐろい流れを見せつけられたように感じ、それを自分なりに、この際研究してみようと思ったのである。その本は入門書ながら権威のあるものだった。
久しぶりに早目に帰って来た自分の部屋での、ひとりだけになれた貴重な時間は、好きなフレンチサウンドを聴いて過ごしたいところだったが、魚住刑事が依然として抱きつづけているらしいこの事件に対するふっ切れない思いが、山下にも移ったようである。
何枚かページを繰るうちに、どこかで聞いたような名前を見出した。
「フルールノアによる例……はて?」
山下は首をかしげると、すぐにそれが先日、井川が挙げた学者の名前であったことを思い出した。
たしかにそこには井川が言ったとおり、宮本少年と同様の、虫を殺す少年の例が紹介されてあった。
——少年の九歳の夏休みの経験である。そのとき彼は田舎にいた。彼はおかしな遊びを発明した。モグラの穴に石板と小板で小さな屠殺場をつくり、そこへバッタやカマキリなどのミドリ色の虫をつかまえてきては、とがった石でその頭をちょん切った。それから虫の体をしゃぶり、ときには食べてしまい、残骸《ざんがい》を穴の中に埋めた。少年はこの手順を儀式のようにかたくなに守って、何時間でもひとりで遊んだ——
読み進むうちに、山下はその記述と宮本少年のケースとの類似性に驚いた。場所といい、手順といい、そっくりである。ただちがうところは、宮本少年が虫を食った様子のないことである。もっともそれも一時的に見ただけだから、はっきりしたことは言えない。もっと長い時間にわたって観察すれば、あるいはまったく同じケースが見られたかもしれないのである。
本はさらに説明している。
——バッタやカマキリはミドリ色を連想させた。少年はおとなになってから『トンボやコオロギを殺そうとはぜったいに思わなかった。犠牲にする昆虫《こんちゆう》や動物は、ミドリ色でなければならなかった』と語っている。
どうしてミドリ色に反感を持ったのかというと、ミドリ色は、ただちに学校のある先生を連想させた。少年はその先生が大嫌いだった。『しかしどうしてその先生がミドリ色なのか、ぼくにはわからなかった』と少年は言った——
フルールノアの分析も、ミドリと先生との関係を明らかにしていなかった。しかし彼は次のような解釈をつけ加えている。
——少年は、強い人間を演じたかったのかもしれない。少年は軍人とか、英雄とか、架空のスーパーマンとかの強い人間に憧れ、自分が理想とする人物と自分を�同一視�するために、虫を殺して、自分が強くなったと感じていたのであろう——
しかし、その奇妙な遊びは、なぜ夏休みにだけ現われたのか?
——少年の告白によると、彼は極端な�母親っ子�で、長い期間にわたって学校が休みで、母親と一緒にいられる夏休みが大好きだった。この母親とのあいだに割り込んで来るのが父親だった。しかし父親は仕事に出ていてほとんどの時間、家にいないので、少年は母親と二人だけの時間を楽しむことができた。
ところが、ある夏休みに父親が重病になった。数週間のあいだ、母親は父親のそばにつきっきりで看病した。いままで自分ひとりだけのものだった母親は、父親に完全に奪われて、少年はかえりみられなかった。少年は父親を憎んだ。いままで母親との甘く楽しい時間を奪う者は、学校の先生だった。だが、いまは父親が母を奪った。
先生への憎しみが、父親に転位されて、父親なんか死んでしまえばよいと思った。虫殺しの遊びがはじまったのは、そのころからであった——
本の著者は、さらに解説した。
『母親から自分を遠ざけたのは、ミドリの虫である。それは学期中は先生であり、夏休み中は父親だった。母親を奪った憎いテキを殺して(虫を殺すという形で)抑圧された憎しみの解消をはかり、父親や先生以上に自分が強くなったように感じるところに、この遊びの意味はあった。
父や先生への憎悪が意識されるあいだはまだよい。それが無意識(意識の深層)に閉じこめられ、発散されない感情の緊張となり、奇妙なくせや遊びの動機となる。憎い相手を殺してしまえば緊張は解消してしまうが、先生を殺したい気持ちが抑圧されて、小動物やイヌやネコや虫を殺す。これは欲求の目標を他のものに転じてしまう�代償行為�である。イヌや虫を殺すことも、けっして楽しいことではないが、人間を殺すというひどく不快な行為が、軽い不快なものに置きかえられている。代償ではあっても、緊張が発散して、心のしこりがきれいになる』
ここまでなにげなく読み進んできた山下は、ある一事に思い当たって、ハッと目を上げた。
「もしかすると、とんでもない見当ちがいをしていたかもしれない」
山下はひとりつぶやいた。のどがからからにかわいていた。妻がいれば、熱い茶を淹《い》れてくれるところだろう。
山下は年齢の割りに茶にうるさく、乏しい月給を割《さ》いて、良い茶ばかりを集めていた。茶器にも金《かね》をかけたものを使っている。
しかしいまは、自分でいれるのが面倒だった。流しへ立つと、水道の蛇口《じやぐち》へ直接口をつけて水を流しこんだ。
なんとも原始的な渇の癒《いや》しかたである。小さいながら冷蔵庫の中には冷えたビールかコーラがはいっているはずだったが、いまは栓《せん》を開ける手間も面倒だった。
とりあえずのどを湿した山下は、自分ひとりの思いの中に沈みこんでいった。
〈宮本少年が虫を殺したのは、先生を殺す代わりだった。もし彼が犯人ならば、本来の欲求が満たされたのだから虫を殺す必要はない。ところが少年は虫を殺していた。中原みどりが殺害された後に[#「後に」に傍点]!〉
——これはいったい何を意味するものだろうか? すなわち彼が犯人ではないということではないか。しかし少年の行為を代償だと言ったのは誰《だれ》だったか?——
〈それは井川英一だった。多分にマスコミにまつり上げられた虚名の権威くさかったが、とにかく心理学の権威である。その彼が、素人の自分ですら気がついた幼稚なことに、どうして気がつかなかったのだろう?〉
——そういえば井川がフルールノアの例との類似を言い出したのも、ずいぶん遅かった。専門書の最初のほうに出てくるくらいだから、かなり有名な例なのだろう。それなのに……。井川はとっくに二つの例の類似と、虫のミドリが、被害者の名前を連想させることに気がついたのではないだろうか?——
〈先日、井川を初めて訪れたとき、わざわざ送って来たのもわざとらしい。あれはわれわれを宮本少年のそばへそれとなく誘導するためだったのではないか?〉
——なんのために?……もちろん、宮本少年の遊びから、被害者の名前をわれわれに連想させるためだ。そういえばあのとき、井川はしきりに「ミドリ色の虫」という言葉を口に出した。あれはおれたちに連想のきっかけを与えたのだ。なぜか? いうまでもなく少年を犯人と見せるためだ。ということは少年は犯人ではないということにならないか。もし少年を告発したければ、あんなまわりくどい方法をとらずとも、はっきり名前を挙げればよいのだ。それをしなかったということは、それをしては不都合な何かの事情が井川にあるということだ。彼が、二度めに訪問した時、「殺意の代償[#「代償」に傍点]」と言いかけてハッと口をつぐんだのは、少年のためを思ってのことではなく、代償という言葉から、われわれが、少年の�遊び�の矛盾に気がつかないかということを悟ったためではなかったか。あれは井川にとって失言だったのだ! もし井川と中原みどりとの間に関係があったと仮定すれば、井川は動機を持つことになる。無名時代、ほんの遊び半分に関係した女が、有名人になってから、やいのやいのと結婚を迫ったとしたら。まして今、井川には大学教授の娘との縁談が起きている。中原に結婚してくれなければ今までの関係をバラすと脅迫されて、せっぱつまったあまりに?……——
〈それに必ずしも、ミドリが中原みどりを象徴するとはかぎらない。フルールノアの例でも、少年は父親と先生への憎悪をミドリの虫に転位したのだ。最初の憎しみの対象は、先生だった。夏休みにはいって、父親が病気になって母親を奪《と》られてから、今度は父親がミドリの虫になった。ということは、宮本少年が殺したミドリの虫は、必ずしも中原みどりの代償ということにはならない。宮本少年とミドリの虫の関連を、もっと追及する必要があるぞ〉
思考を追っているあいだに、山下はだんだん興奮してきた。彼はいま眼前に巨大なミドリ色の虫を見ていた。
太い触角を振り立て、硬玉のような三個の単眼が、彼をじっとにらんでいた。どこに焦点を結んでいるのかわからない、動かない視線が、まぎれもなく彼のほうへ向けられ、そしてその突き刺すような先端には明らかな憎悪がこめられていた。
山下の着眼は、その夜のうちに捜査本部へ報告され、翌日、東京T大文学部の異常心理学の権威、宮沢則正教授の意見が聴かれた。そして教授の答えは、まさに山下が気がついたとおりだったのである。
宮本少年の奇異な行為が、被害者の死後もつづけられた事実は、そのまま少年が犯人でないことを示すものであると、権威者からうらづけられたのである。
宮本少年に虫を殺させた内面のしこりは、何か別のものであった。何かのショックによって、虫の�屠殺《とさつ》�前後における少年の記憶がほとんど失われているので、彼の心の傾向を知るためには、精神分析にかける以外になかった。捜査本部からの報告を受けた家裁では、宮沢教授もしくは、教授の推薦するそのすじの権威者に依頼して、近く少年を精神分析にかけることにした。
家裁としては、権威者によって少年のシロが学問的に証明された形になっても、それはやはり一種の情況証拠(潔白の)であって、かんじんの内面のしこりが明らかにされないことには軽々に審判を下せなかった。
しかし少年の精神分析には、かなりの難航が予想された。少年がまったく拒否的で、連想を拒否するからであった。
「自由連想」は今日の精神分析の最も重要な方法になっている。それには被分析者が、緊張をなくして意志的批判や判断をする態度を捨て、なんでも受け容れるような柔軟な状態にならなければならない。これは催眠状態とも異なる。
もし被分析者が最初から拒否的で非協力的だと、どんな権威がやって来ても、正確な分析はむずかしくなるということである。
ともあれ少年の精神分析は家裁のほうへ任せることにして、捜査本部では、ひそかに井川の身辺の捜査をはじめた。
本部では井川と被害者との間に、必ずや関係があったにちがいないとにらんだ。
「今までの捜査で浮かび上がらなかったのは、よほどうまくやっていたからか、それとも、捜査のどこかに盲点があったにちがいない」
捜査会議で係長は断言した。
「しかし、どんなにうまくやったとしても、あんな小さな村で関係をつづけていれば、必ず村人のうわさにのぼったはずです」
山下は反駁《はんばく》した。魚住刑事とともに中原みどりの�巣�を、八反田やK市内で徹底的に探した人間の反駁だけに根拠がある。
「東京で関係を持ったとしたらどうだな?」
捜査係長は、山下の気負いを、軽くいなすように言った。しかし東京という推測はすでに持たれており、捜査範囲があまりにも広範にすぎるために、ひとまず打ち切られていたのである。
「東京の連れこみ旅館をしらみ潰《つぶ》しに当たることは無理だが、井川の線から追ってみたらどうだろう。今まで井川には特に怪しい節はなかったので、やつの東京での足跡は追っていない。井川の足跡だけなら、どんなに東京が広くとも追っていける。何か新しい事実が浮かび上がるかもしれんぞ」
係長の示唆が新しい視野をもたらした。
K市から東京まで汽車で一時間ちょっとだが、国電が乗り入れていないので、かなり距離感はある。
だが井川にしてみれば、東京は仕事場で、八反田は週末に帰る休養の場にすぎない。生活の本拠としてかなりの足跡が東京には残っているはずである。彼が新たな容疑者として浮かび上がってみれば、その足跡に、中原みどりの足跡がからんでいる可能性は大いにある。
「しかし、井川は有名になってから八反田小学校をやめて、東京へ出るようになったのです。無名のころに関係した女が、有名になって、社会的な名聞や、有利な縁談のために邪魔になって殺されたというなら話はわかるのですが、東京で逢ったということになると、有名になってから関係をつけたように考えられませんか」
別の捜査員が疑問を出した。
「無名時代、一度や二度、こっちで関係があったのかもしれない。しかしそれはうまいこと隠しおおせた。そのくらいの回数なら隠せるだろう。そのうち有名になり、女から関係の持続を強要される。やむなく仕事場の東京で逢《あ》った——と見られないかな」
係長の言葉にその捜査員は、いちおう納得した。
しかし、せっかくの着眼にもかかわらず、井川の東京での常宿や、立ちまわり先を洗っても、中原みどりは浮かび上がらなかった。
彼女の足跡は、まったく井川の周辺に現われないのである。中原の線から追うことはまったく不可能であった。月に一、二度上京していた形跡はあるのだが、いったい、東京のどこへ行っていたのか、まったくつかめない。
母校の短大や、同学の友人たちにはすでにあたっていたが、卒業後、まったく接触した様子はなかった。
捜査はここで完全に頓挫《とんざ》したのである。
8
ヒントは一冊の週刊誌によってもたらされた。
そのあまり上品ではない風俗週刊誌は、デスクに無造作にポンと放り出されてあった。署員のだれかが食事をしながら拾い読みをしていたものか、ページにそばの汁のようなしみがついている。
——だらしがない——
退勤前にふと目にとめた潔癖な魚住が、つまみ捨てようとしたとき、開かれたページの、裸の男女が抱き合ったどぎつい写真とともに、見出しの活字が目に飛びこんできた。
——喫茶店の新手《あらて》、SMスナック——
とその見出しは読めた。風紀係ではない魚住は、最近はやりのそのSMという言葉を知らなかった。
刑事は博学というより�雑学�でなければならない。どんな知識の断片でも、それの有無によって捜査の進展に大きく影響することがある。
だから刑事はみな一様に、知識欲や好奇心が旺盛《おうせい》である。魚住が、捨てようとした週刊誌にふと目を止めたのは、煽情《せんじよう》的な写真よりも、彼の知らない新語があったからである。
読み進むうちに、SMが、サドとマゾであるということがわかってきた。
週刊誌の記事によると、最近若い男女のあいだに、マンネリ気味のセックスの定型にあき足らず、異性のからだを残酷に痛めつけたり、あるいは異性から激しい仕打ちを加えられることによって性的快感を得るSM性愛者が、非常な勢いで増えている。
これに目をつけた業者が、早速、東京|原宿《はらじゆく》にオープンしたのが、このSMスナック『飼育人間ヘテロ』という奇妙な店である。
——どんな店かって、まあ聞く前に一度行ってごらんなさい。どうせ行くなら土曜日がいい。週《ウイーク》| 日《デー》には、男女のSM俳優が、フロアで、両手両足を紐《ひも》でくくり、むち打ったり、咬《か》んだり、髪を引っぱったり、踏んだり、のけぞったり、のたうったりしてオーバーな演技をくり広げているが、土曜日には本物のSM客が群れ集まり、俳優の演技に刺激されて飛び入り出演をする。
何十組というSM男女が、だんだんエスカレートしてくると、ズボンのベルトを外してむち打ったり、熱い蒸しタオルを乳房やわき腹に押し当てたりで、けだし壮観である。
だいたい男は女の美しいからだを苛《さいな》み傷つけたいという残酷なオスの獣性を内在しており、女は好きな男から犯され、いじめられたいという本能的欲望を抱いているから、男はSであり、女はMが多い。
しかし中には、これが逆なアベックもいる。つまり二重の性的倒錯である。これら変態《ヘテロ》が、土曜の夜には、ヘテロに群れ集まり、本物のSMショーをくり広げるのである。——
とこんな調子で紹介してあり、パンツ一枚になった男たちが、むちを持った女に踏みにじられている写真が、数枚つづいていた。
そろそろ停年の近い魚住は、その記事と写真を見て、「世の中も末だ」という感じを持った。
だいたい彼には、異性に残忍な行為を加えなければ、性的に興奮しない異常性愛が、まったく理解できなかった。
サドとかマゾという変態人種がいることは知っていたが、それが喫茶店の経営を可能にするだけでなく、繁栄させるほど存在するという事実に、全身|寒気《そうけ》立つような無気味な思いに駆られた。
SMのような異常性愛は、麻薬のように慢性化するはずである。もともと正常なセックスに飽きた連中が、より強い刺激を求めて�発明�した色情倒錯である。
最初は強く感じられた刺激も、回を重ねるほどに麻痺《まひ》してくる。
頬を張ったり、咬んだりするくらいで満足していたのが、だんだん進行して、ついには絞めたり、焼け火箸《ひばし》をあてたり、突き刺したりしなければ感じないようになってくる。それがついには殺人に発展する危険性もじゅうぶんにある。
現に魚住の扱った事件の中にも、そのような�残忍性異常性愛�の結果の犯行があった。その温床が、営業として成り立っている。
そこに彼は脅威を覚えたのである。
「ウオさんも、そんな雑誌を読むんですか。なかなか隅《すみ》におけないなあ」
そのとき若い署員がはいって来て、ひやかした。
「馬鹿いえ!」
苦笑しながら、雑誌を片づけようとした魚住は、ふと目を宙に据《す》えた。
「もしかしたら……」
魚住は口の中でつぶやいた。彼は、殺された中原みどりが、宮本少年をよく折檻《せつかん》したということを思い出したのである。
それは教師が生徒を矯《なお》すための折檻の範囲を越えるものであったという。
——もしかしたら、中原は女のサドではなかったろうか?——
という疑いが、チラリと魚住の胸をかすめたのであった。少年は異性と見るには、あまりにも稚《おさな》かった。しかし性的交渉の相手としては稚すぎても、�虐待する異性�としてはじゅうぶんに役に立ったかもしれない。
〈もし中原がサドであれば、この店に姿を現わしたかもしれない。いや必ず現わしたはずだ。SMのたまり場として公然と看板をかかげたのは、この店が一軒だけだ。SにしてもMにしても、相手がいなければ成り立たない。相手を求めて、ヘテロに姿を現わしているはずだ〉
「魚さん、いったいどうしたんです?」
目を宙に据えたまま、ぶつぶつつぶやきだした魚住に、若い署員はあきれ顔でたずねた。
9
「中原みどりは、残忍性色欲異常症《アルゴラグニー》、すなわち、サドかマゾではなかったか?」
という、ちょっと突拍子もない魚住刑事の�着想�が、捜査に一つの転回を与えた。
たしかに彼女が宮本少年に加えたシゴキは、異常であった。SMかどうかはっきりしないまでも、教師が生徒に加える�愛のむち�の範囲を越えるものであることは、それを目撃したすべての者が証言するところであった。
「もし中原が、変態性愛者であれば、必ず、『ヘテロ』に姿を現わしているはずだ」
というのが魚住の主張である。本部は彼の主張を容《い》れ、次の土曜日に彼と山下の二人を東京へ出張させた。
土曜日には、都内や近郊の�SM愛好者�がヘテロに群れ集まってくるというから、聞き込みには都合がよい。
高崎線で赤羽《あかばね》まで行き、そこから国電赤羽線に乗りかえる。池袋《いけぶくろ》でさらに山手の内まわりに乗り換えて、ヘテロのある原宿へ着いた。すっかり夜になっていた。
こちらへ着くころ、夜になるように、出発時間を調整したのである。
「もう来ているでしょうか?」
「土曜日だからな」
二人は、まるで敵地へおもむくような緊張を覚えながら、話し合った。SMなどという色情倒錯の世界は、およそ二人には理解の外である。いうならば、現代という巨大な機械文明が、人間の心理をはるか後方へ置きざりにしたために生じた�狂人《きちがい》�であろう。
そのきちがいのたまり場へこれから行くのである。東京の衛星都市として近年いちじるしい発達をして凶悪犯罪も増えているK市であるが、このような�化け物�相手に繁盛している店はない。
その意味では、K市はまだまだ田舎であり、かつ正常であった。
二人の刑事は、凶悪犯人の逮捕に向かうよりも緊張していたかもしれなかった。
ホテルのようなデラックスなマンションの地下に、『飼育人間ヘテロ』があった。
入口で千円ずつ要求されたので、身分を明らかにして中へ入れてもらう。受付から、真っ暗でくねくねにうねった細い通路をしばらく辿《たど》る。
途中ところどころ、裸電球が吊《つ》るされて、壁面に貼《は》られた、裸の女を鎖で巻いたり焼け火箸を押し当てたりしている写真が、ほのかに浮かび上がった。漏水によるものか、壁に浮き出ている黒いしみが、女の血のように見えて、陰惨な効果をだしていた。
やがて廊下が尽きて、扉《とびら》を開けると、タバコのけむりとひといきれのたちこめる穴のような部屋に出た。
部屋の中央にしつらえられたステージには、国籍不明の人間の混成バンドが演奏しており、ボリュームの豊かな黒人女性歌手が、ものがなしいフィーリングで歌っている。
その前のフロアでは、何組かのアベックが踊っていたが、みなぴったりと密着しあったままで、かすかに腰のまわりを揺すっているだけで、同じ場所を動かない。
壁のほうにたむろしているのが、お客らしいが、いずれも刑事の目には�チンドン屋�のような風態の連中ばかりだった。背広にネクタイのまともな格好の刑事たちが、ここでは明らかに異質《ヘテロ》だった。
しかし彼らは、別に二人に注目しない。みな一様に他人のことには無関心な目をしている。
「これがSMスナックか」
二人はいささか拍子ぬけしたような気がした。たしかに入口から部屋へ通るまでの通路や、集まっている連中は、まともではなかったが、雰囲気《ふんいき》は、テレビでよく見かけるスナック喫茶と大して変わりはない。
かろうじてSMの匂《にお》いを感じさせるものは、ステージの隣りにさらしものになっている鉄の貞操帯をかけられた裸女のマネキン人形だけである。
魚住は、注文を聞きに来た、パンティがまる見えになるようなミニを穿《は》いたウエートレスに名刺を渡して、経営者を呼んでくれと言った。
「ママはいま、いません」
ウエートレスは、迷惑顔を隠さずに言った。
「ママが経営者なのかね。それじゃ、だれか責任者がいるだろう」
「マスターを呼ぶわ」
ウエートレスは、ルージュを塗りたくった唇《くちびる》をとがらせて言うと、奥へひっこみ、待つ間もなく蝶《ちよう》タイの黒い背広をまとった三十前後の男を連れて来た。
「マスターの青木ですが、何か……」
青木と名乗った男は、鋭い目に警戒の色を浮かべて言った。
このように法すれすれのところでやっている風俗営業の人間は、警察関係者には、本能的な警戒心を持っている。態度は丁寧だが、どんな攻撃にも耐えられるように警戒の鎧《よろい》で一分《いちぶ》の隙《すき》もなく武装してしまうのだ。
土曜の夜というかき入れどきに、突然訪れた二人の刑事に、青木は全身針ねずみのようになってしまった。
「実は、この二人の男女なんですがね、おたくの店のお客の中にいませんでしたか?」
魚住は、相手の警戒を解くように柔らかく言うと、中原みどりと井川英一の写真を差し出した。中原の写真は小学校から、井川のものは出版社から借りだしたものである。
青木は、二葉の写真にじっと目を注いでいたが、やがて顔を振った。
「どうも僕には見覚えがありませんね。実は、僕は最近ここへはいったばかりですから」
「だれか古い従業員はいませんか」
「それが、いまここにいる者は、みな僕より新しい人間ばかりです」
「ママという方はどうですか」
しだいに心の中で容積を大きくしてくる失望感に耐えながら、魚住は必死に食いさがった。
「ママに会ってもむだですよ。彼女も僕より新しいのですから」
「しかし経営者でしょ」
「経営者は別にいます。もっとも店にはめったに来ませんがね。僕もママも雇われなんとかっていうやつですよ」
青木はうすく笑った。笑うと、右の頬にひきつれのようなものができて、もともと無表情の彼の顔をいっそう酷薄なものに仕立て上げる。彼自身の身分を自嘲《じちよう》したらしいのだが、刑事には、自分たちの徒労を嗤《わら》われたように思えた。
歌手が退場し、激しいロックジャズの演奏に変わった。壁側でごそごそうごめいていたのが、待ちかねていたようにフロアへ飛び出して行って、手振り、足振りの�猿《さる》踊り�に加わった。
「そうだ!」
青木が、ロックジャズに醒《さ》まされたように指をパチッとならした。
「だれかいますか」
刑事は救われたような声をだした。
「この店がオープンのころからの、常連なんですがね、彼女なら知っているかもしれない」
「その客はいま、いますか」
山下が気負いこんだ。青木は腕時計を覗《のぞ》いて、
「あと三十分もすると来ますよ。土曜の晩、いつもフロアショーがはじまるころ来るんです。ミチという女ですがね、本当の名前は知りません。でも刑事さん、まさかショーを取り締まるんじゃないでしょうね。土曜日はお客の飛び入りがあって、かなり激しい[#「激しい」に傍点]ものになるんですが、所轄署では大目に見てくれているんです」
青木は急に心配そうな顔つきになった。彼はどうやら二人を風紀係と混同しているようであった。
三十分すると、ステージからバンドが退き、もともと暗い照明がグンと絞られた。これを風紀係が見たら、やはり文句を言うかもしれない。
やがて二組の男女がステージに現われた。女のほうがむちを持っていた。男はブリーフ一枚の裸でストッキングの覆面をしている。女のほうはシースルーのネグリジェを着ている。
男が、ステージに寝そべった。女が男のからだを踏みつけた。踏みつけながら、むちでピシピシと打つ。
男の白い肌にみるみるみみず脹《ば》れができる。演技だということはわかっていたが、初めて見る刑事たちには、かなり迫力があった。
「刑事さん、ミチが来ましたよ」
いつの間にそばに来たのか、青木がそっと耳打ちした。青木の視線の先を追うと、流行の房かざりをつけた真紅《しんく》の上衣にジーパンを穿《は》いた、やせた若い女が、ショーに目をじっと固定させていた。
二人の刑事は、青木にうなずくと、ミチのそばへそっと移動した。
「きみがミチか」
ミッちゃんとも言えないので、魚住は、相手を刺激しないようにつとめて柔らかく声をかけた。ミチはびくっとしたように目を上げた。胸が病的にうすい。
「この写真の人間を知らないかな」
魚住は、相手に不審の念をおこす隙《すき》も与えずにさっと写真をミチの前に差しだした。ミチは気をのまれたように写真を手に取った。
固唾《かたず》をのむようにして見守る二人の前で、ミチはすぐに反応を示した。
「何だ、ドボ[#「ドボ」に傍点]じゃないか。彼女しばらく見えないけど、このごろどうしてるの?」
「ドボ?」
「仲間内でドボで通っていたんだよ。あ、この男は、ドボとよく、一緒に来たギギ[#「ギギ」に傍点]だ。ここへ来るときはいつも、色のはいっためがねをかけていたけど、ギギにちがいないよ。そういえばギギもしばらく来ないなあ」