「そのドボとギギはいつごろ来たのだ?」
「いつも一緒に来たのか?」
二人は急《せ》きこんでたずねた。
「そんなにいっぺんに聞かれたって答えられないよ」
「いやあ、すまないすまない。この二人のことを詳しく話してくれないか」
「あんたたちポリかい?」
ミチがキラッと目を光らせた。
「まあ、そんなもんだよ」
魚住はやむをえず言った。警察と聞くと、牡蠣《かき》のように口を緘《とざ》してしまう者があるが、うすうすこちらの正体を悟った相手に、下手な隠しだてをしないほうがよいと考えたのである。
「ドボとギギが何かやったの?」
しかしミチは単純な好奇心から聞いたらしい。
「いや、大したことじゃないんだが、この店に二人が来ていたかどうかということが、ある事件のちょっとした参考になるんだ」
「ふうん、まあいいや。ポリは好きでも嫌《きら》いでもないから」
ミチは鼻の頭に皺《しわ》を寄せて、はすっぱに笑うと、ドボとギギが一年ぐらい前までは、土曜の夜必ず連れだってヘテロに現われたと話した。
「二人ともかなり進んだSMでねえ、ショーがはじまると飛び入りして、俳優顔負けに、叩いたり、つねったり、オシッコを飲み合ったり、凄《すご》かったよ。このごろは、みんなお上品ぶっちゃって、ああいう本物のSMは来ないよ。たまにいても、たいていは、流行を追っかけて、まねをしているだけさ。あとは見物に来るだけだよ。ドボとギギが来なくなってから、この店の顔ぶれは変わったよ」
ミチが言ったとき、周囲からワッと喚声《かんせい》が湧《わ》いた。男女の客が、ショーに刺激されて、着衣を脱ぎはじめたのである。
「ふん、あれもインチキさ。みんなの目を集めたいだけなんだ」
ミチは唇をゆがめて笑った。
ミチの�証言�から、井川英一と中原みどりの二人は、SM仲間でも有名な、強度のSMであったことがわかった。しかもみどりのほうは、単なるマゾではなく、サドにも感じる二重の倒錯者であったことも判明した。
10
井川と中原はつながった。それも単なる男女関係ではなく、残忍性異常色欲によって結ばれた、ゆがんだ関係であった。
社会的な知名度が上がり、大学教授令嬢との縁談が発生した井川が、自分の忌むべき異常性愛の相手が邪魔になって、その抹殺《まつさつ》をはかった情況は濃くなったが、決め手がつかめていないために、重要参考人として出頭を求めて取り調べることになった。
井川の在宅をたしかめたうえで、魚住と山下が出頭要求(事実は連行に近い)に八反田におもむいたのは、十月の末の日曜日の早朝であった。本部からジープを出してくれた。
ジープを降りて県道から井川家へ向かう小道へはいった。草原の中央を横切る道である。そこは刑事らに見おぼえのある道だった。
「このへんだったな」
途中で魚住が言った。山下がうなずく。そこは宮本少年が虫をちぎっていたあたりだった。あれからすでに二ヵ月、あのころ青々と草いきれの盛んだった草原には、麦わら色に枯れたススキが朝の風にそよいでいる。
井川家が見えてきた。背後に背負った段丘の雑木も黄葉している。紅葉のような花やかさはないが、朝の光を吸っていかにも暖かそうであった。
井川家の草色の屋根が、黄色の段丘の前の鮮やかな点景となって浮き上がって見える。それはいかにも日曜日の朝らしい穏やかな眺《なが》めだった。
「おい!」
魚住は突然、棒立ちになって山下の腕をつかんだ。
「どうかしましたか?」
「あの屋根を見ろよ」
魚住は井川家の屋根を指した。
「あの屋根がどうかしましたか?」
「草色じゃないか。モダンな言い方をすればライトグリーンというやつじゃないか」
魚住はもどかしそうに言った。
「あ!」
ようやく山下も魚住の言う意味がわかったらしい。
「宮本少年がバッタやキリギリスを殺したのは、中原みどりへ向けた憎悪の代償ではなく、井川の家の屋根を象徴していたのではないだろうか」
「すると宮本少年は井川を憎んでいた」
「そうだ。今まで野原や山の緑に吸収されて、屋根の草色が目立たなかったが、今こうやって秋の景色の中で見ると、あの色は冷たそうにきわ立って見えるじゃないか」
そう言われてみれば、暖色の黄葉の中で、屋根のライトグリーンは、いかにも冷たそうに沈んで見える。
「なぜ井川を憎んでいたのでしょう」
「それはこれからわかる」
重要参考人としてK署へ呼ばれた井川は、峻烈《しゆんれつ》な取調べの前に、ついに犯行を自供した。
最初は根も葉もないことばかりだと頑強《がんきよう》に突っぱねていた井川も、ヘテロのミチの証言の具体性と、山下が発見して宮沢教授にうらづけられた宮本少年の精神分析的解釈の矛盾を指摘されて、ついに屈服したのである。
井川の自供によると、中原みどりとは三年ほど前の初夏、まだ彼が八反田小学校に奉職中、残務で遅くなったとき、どちらからともなく関係を持ってしまった。
関係を持ってから、おたがいにSMの気があることを発見した。
「最初はだらだらした関係にアクセントをつけるつもりで、みどりの乳房に咬《か》みついたところ異常な反応を示したので、それから徐々にエスカレートしていった」
ということだった。
閉鎖的な村では、村人の目がうるさく、おたがいに異常性愛は高まるばかりなので、そのころから、ぼつぼつ本が売れ出してきた井川は、東京の出版社へ時折り出かける用事に結びつけて、東京のホテルで中原と関係をつづけた。
ここまではどちらも納得ずくの情事だったが、やがて井川の本が記録的なベストセラーとなり、一躍有名人となった彼に、大学教授令嬢との縁談が生まれると、急に中原みどりが結婚を迫りだしたのである。
もともとみどりとの関係は、その場かぎりの出来心であって、結婚の意思など露ほどもない井川は、言を左右にしてずるずるに引きのばしていた。
そのうちにみどりは妊娠したと言い、井川がこれ以上誠意ある態度を示さないかぎり、教授の家に乗りこんで、いっさいを公表してやると脅《おど》かしたのである。
「そんなことをされたら、せっかく微笑《ほほえ》みかけたチャンスをめちゃめちゃに踏みにじられてしまいます。
考えてもください。結婚前に女関係のあったことがバレるだけでなく、異性の虐待によって暗い興奮を覚える変態性欲者であるということがわかったら、縁談がこわれるだけではありません。せっかく築き上げた名声にもヒビがはいるでしょう。ヘテロへ行ったのは、まだ私があまり売りださないころでしたが、いま考えても、どうしてあんな場所に足を踏み入れたのか、悔やまれてなりません。
さいわいにあのころのSM仲間は、私が書くような本は読まないことと、現在私が多少髪型などを変えているので、気がつかないらしいのですが、つくづく軽率なことをしたと後悔しております。
本が売れるようになってから、私は、ヘテロからきっぱりと遠ざかりました。ヘテロから遠ざかるということは、中原みどりと別れる下準備でもありました。しかしみどりには先天的にSMの素地《したじ》があったのか、最初は面白半分にはじめたSMに、骨の髄までどっぷりと浸《つか》っておりました。いつの間にか正常なセックスでは感じないようになっていたのです。サドでもマゾでもよい、とにかく残忍性の伴わないセックスに、まったく悦《よろこ》びを覚えない障害者になっていたのです。
そんなみどりにとって、私はぜったいに手放せない性の伴侶《はんりよ》でした。
みどりにとっては生憎《あいにく》なことに、私にはまだ正常な性が残されてあり、野心もじゅうぶんにありました。ようやく芽が出かけた矢先に、平凡な田舎女教師の、変態性欲の相手を、いつまでもつとめるつもりは毛頭ありません。
しかしみどりは、私の縁談を知ると、半狂乱になりました。私を失えば、彼女には相手がいなくなるのです。ヘテロの常連もすべてパートナーは決まっていました。こうしてみどりと私とのあいだは、決定的な破局に向かって傾いていくしかなかったのです。
あの日暗くなってから、最後の話し合いをしようと言って、あらかじめ下見をして場所を決めておいた桑畑に誘い出し、隙《すき》を見て用意していった工作用切出しで、下腹部を突き刺しました。
その瞬間、彼女はなんと、恍惚《こうこつ》としていたのです。腹から背へ突き抜けるほどに深く突き刺されながら、みどりは、私たちが何度となく行なったSMプレーのとき見せた恍惚たる表情をしながら、「抱いて、抱いて!」とせがんだのです。恐くなった私は、さらにもう一刺ししました。
異性から殺されるのは、SMの極致なのでしょうか。みどりが倒れたとき、とんでもないことをしでかしたことに気がつきました。しかし、気がつくのが遅すぎたのです。
私は、もはやあと戻りできませんでした。もう逃げる以外にありません。
宮本少年の特異な遊びを知っていた私は、最初から少年に罪を着せるつもりで、少年の身長から無理のない部位を刺していました。
犯行後、足跡を残さないように注意しながら、夜陰にまぎれて現場から逃げた私は、宮本家の縁の下に切出しを投げこんで何食わぬ顔をしていました。
いずれは刑事さんが、聞き込みに来るとは思いましたが、その前に刑事さんが宮本少年の奇妙な遊びに気がついて、中原みどりと結びつけて考えてくれれば、私が誘導する必要はなくなって助かると思いました。しかし気がつかれる前に聞き込みに見えましたので、散歩を装って見送りがてら、宮本少年の遊びの場所へ刑事さんたちを誘導したのです。
私は犯行前、少年のミドリの虫へ向けた憎悪は、中原みどりへの憎しみが転位したものとばかり思っていました。それが代償行為であれば、少年は犯人になれないという矛盾に気がついたのは、刑事さんが私のかけた暗示にかかって二度めにお見えになられたときです。
私は�殺意の代償�という言葉を使って少年の行為を説明しようとしたとき、自分自身が陥《お》ちこんだおとし穴の深さに気がつきました。
私は自分の専門領域のことでありながら、中原みどりを抹殺《まつさつ》することに夢中になったあまり、人間心理のこんな初歩的なことを見過ごしてしまったのです。
私は絶望しました。せっかくつかみかけた成功も根本からくつがえされる。あれから毎日、私は一瞬たりとも生きた心地はしませんでした。いつまた刑事さんが、今度は手錠を持ってやってくるかと、毎日その思いだけに脅《おびや》かされて暮らしました。何度も自殺しようかとも思いました。
それをしなかったのは、捜査陣が特殊な専門分野にかかる矛盾に気がつかないのではないかという期待があったからです。少年の精神分析の鑑定依頼が自分に下される望みもありました。もしそうとなれば自分のチャンスは大きくなります。そのときこそ権威の名にかけて、シロをクロと言いくるめ、私のミスを糊塗《こと》することができます。
しかし鑑定は宮沢教授に依頼されました。今日まで頑張《がんば》ったのは、宮本少年がなぜ虫を殺したのかわからなかったからです。少年が私を憎んでいたとは、刑事さんから教えられるまで知りませんでした。私の家の屋根の色から、私への憎悪をミドリの虫へ転位したのですね。
でもどうして宮本少年は私を憎んだのでしょうか? 私は特に少年に憎まれるようなことをしたおぼえはないのです」
井川はがっくりとうなだれながらも、訝《いぶか》しそうな表情を残した。
井川に対して、その日のうちに殺人容疑による逮捕状が執行された。
井川が容疑者として浮かび上がってから、少年は、宮沢教授によって行なわれた精神分析に協力的となった。
宮沢教授は、少年を静かな部屋の中のベッドに寝かせて、目を閉じさせ、心を落ち着かせて、頭に浮かぶことを次々に言わせていく�自由連想法�による精神分析を試みた。
人間はぼんやりしているときに→山→海→空→ジェット機→外国というふうに連想していくが、このような自由連想を追っていくと、心のしこりとなっているコンプレックスに到達するというものである。
この方法については、学説が岐《わか》れ、ブロンデルは自由連想法によって心のしこりを発見することに否定的である。彼の説によれば、それは散歩と同様で、一定の方向をもたず、右の道が悪ければ左を取り、左に柄の悪そうな道路工夫がいれば右へ行くというように、気まぐれで信頼できないと主張する。
これに対して分析学派は、散歩においても足はひとりでに美しい景色の方向へ向かうように、連想も一定の方向へおもむく傾向があり、連想が進むほどに、しこりとなっている一定傾向が現われると唱えていた。
ともあれ、宮沢教授は少年に、この自由連想法を試みたのである。
まず教授は少年に、『虫』という言葉に注意を集中させた。
少年がすぐに連想したものは『原っぱ』である。
次に連想したものが、『井川先生』だった。教授は、『原っぱ』と『井川』がどう結びつくのか、不思議に思った。
第三連想は、いきなり『ミドリの虫』になった。
「ミドリ色の大きな虫が、中原先生を食べている」
宮本少年は目をつむったまま答えた。ここで連想に飛躍があった。教授にはどうして『井川先生』から『ミドリの虫』につづいたのかわからなかったので、もう一度『井川先生』から再出発させることにした。
次に導きだされた連想は『檻《おり》』だった。
「井川先生は僕たちをオリに入れた」
と少年は言った。
「どんなオリだったの?」
教授は優しく訊《き》いた。
「ミドリのオリだ。そうだ、教室だ!」
ここで少年の記憶がいっぺんによみがえった。
「教室の壁はミドリだった。井川先生は、僕をその教室に入れて、毎日、虫のように僕を見ては、ノートブックに何か書きつけていた。僕は虫のように見られるのが、すごくいやだった」
「二年生になって、中原先生が担任になった。中原先生は壁の色を変えた。中原先生は僕を虫のように見なかった。中原先生に代わってから学校へ行くのが楽しくなった。先生は僕を叱《しか》ったけれど、けっして虫のように見なかった。僕は叱られれば叱られるほど先生が好きになった。先生に叱られたくて、わざと宿題を忘れたり、いたずらをしたりした。あの日——」
そこでまた連想がとぎれた。
「あの日、どうしたの?」
「あの日、野原で中原先生を見た」
「————」
「中原先生がミドリの虫に食べられていた。中原先生は苦しがって、泣いたり、うなったりしていた。そのうちに中原先生もミドリの虫になって、相手の虫と共食いをはじめた」
「共食いをしたのかい?」
「うん、まるで大きなキリギリスがおたがいに食べっこをしているみたいだった。恐かった」
そこで少年は目を大きく見開いた。
「相手のミドリの虫は井川先生だった!」
11
宮本少年は両親につき添われて村へ帰って行った。刑事たちが、バス停まで見送っていたが、少年の顔は能面のように硬かった。それは生きいきとした少年の表情ではなかった。両親のほうが嬉《うれ》しそうな顔をしていた。
バスが濃い排気煙を出してよたよた走り去って行った方角にあたって、秋の美しい夕焼けがひろがっていた。夏のような花やかさはないが、澄んだ水のようにすき透《とお》った大気にはんらんする茜《あかね》色は、美しい金色《こんじき》の粒子のように硬く密《こまか》い。
「あの少年が、少年らしい心を取り戻すまで、だいぶ時間がかかるでしょうね」
山下刑事がポツンと言った。
「うん、宮本少年にとって中原みどりは、偶像だったんだな。それが井川に苛められている[#「苛められている」に傍点]現場をたまたま目撃してひどいショックを受けた。もともと少年は、井川の研究材料にされて彼を憎んでいたから、その事件によって井川への憎悪は助長された。ミドリは井川の家の屋根からの連想ではなく、井川そのものの象徴だったんだよ。草原の中で中原とからみ合っていたそのときの井川は、少年の目にミドリ色に見えたんだ。少年の遊びを、中原みどりに結びつけて考えたのが、井川のミスだった。名前には色はないんだ。精神分析の大家が、人間の最も基本的な心理の屈折に気がつかなかったんだから皮肉なものさ。けっきょく、井川は精神分析で世に出て、精神分析で破滅した」
魚住は少年の去った方角の空を見た。そこは夕焼けが最も濃く花やかなあたりだった。彼はそのなみなみとした反映に染まりながら、井川が中原先生を苛《いじ》めていた意味を少年が知ったときのショックができるだけ少ないように祈った。
人影のない草原の中で、巨大なミドリの虫に蝕《むしば》まれながら、中原先生があげた泣き声やうめき声の真の意味を知ったときに、少年の別の人生がはじまる。天使が天使でなかったと知ったときの衝撃に耐えられたときこそ、社会人の仲間入りができるのである。
——と刑事は思いながら、あの美しい夕焼けの色が、少年の傷ついた心に浸透して、けっして小さくはない傷の裂け口を、一日も早くふさいでくれればよいと願った。
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催眠術殺人事件
1
「また逢《あ》ってくださる?」
「そんな言い方をしないで欲しい。ぼくたち、逢うことだけが生きがいじゃないか。きみに逢えなくなったら、ぼくは気が狂ってしまうにちがいない」
「私もよ。あなたに逢えない生活なんて考えられないわ」
かぎられた時間の中で、慌《あわただ》しい出逢いをした二人が、性急に抱き合い、とりあえず肌の渇きを癒《いや》したあとは、すでに別れなければならない時間が迫っていた。
男は、勤務時間を盗んでの、女は、夫の外出時を狙《ねら》って家を抜けだしたあいだの、ほんの短いデートである。世間的には不倫であっても、二人の恋愛は真剣だった。
だから、動物的な餓《う》えを充《み》たすだけのかぎられた時間のデートに悲壮感が伴った。別れるときに、肉の渇きを癒したあとの爽快《そうかい》感がない。
「いま別れたら、もう二度と逢えないのではないか?」
という不確定な未来に向けた不安があった。それが二人の出逢いを、いつも余裕のないものとした。
約束の場所におもむくときも、逢う喜びに打ち震える前に、別れるときの辛《つら》さを考えてしまう。出逢うことが苦しみそのものであるような恋愛、それでも逢わずにはいられない。そんな関係に二人はいた。
男は、女を助手台に乗せてモーテルを出た。途中で女だけ降ろして、タクシーへ乗り換えさせなければならない。
どんなに愛し合っていても、そのままの形で彼らの住む町へはいって行けないところに、社会の制約と、彼らの当面の保身がある。
東名高速を東京から約一時間飛ばすと、山峡の道が急に開けて、�別天地�が展開する。まるで降って湧《わ》いたような幻想の世界、アラビアンナイトふうの建物が、その奇抜な構造の意匠を競《きそ》い、夜ともなれば、ネオンの渦《うず》となる。
これが通称�モーテル銀座�と言われる御殿場《ごてんば》インターチェンジ付近の新しい風景である。
だいたいモーテルは、その発祥の地アメリカでは、自動車旅行者の利便のために生まれた。
モーテルがアメリカのホテル産業のなかに占める地位は、その数と売上げにおいて約四十パーセントである。
アメリカでホテルを論ずる場合、モーテルを抜きにすることはできない。もちろんこの場合の「ホテル」は、情事を目的にしない、まともなホテルである。
日本でも自動車とハイウエーの普及発達に伴って、モーテルの増加は当然予想された。
ところが最初の予想と異なり、日本ではモーテルは予想をしなかった形の発展を遂げた。本来モーテルとは、自動車と表裏一体のもののはずであるが、自動車から遊離して、セックスと結びついてしまったのである。
自動車旅行者が休泊するための施設は、ドライブの若者たちのたまり場となり、これが拡大して、情事専用の連れ込みホテルに転化して行った。
車を持たない者も、タクシーで乗りつける。バスや自転車で来る者もあれば、歩いて来る者もいるそうである。いまや単独のオーナードライバーは、完全にモーテルから閉め出されている。
かつてのセックス産業の王座を占めた、温泉旅館は、その位置をモーテルに譲り渡してしまった。
そういう形の発展は、世界でも珍しいそうである。もちろんアメリカでも情事に利用されるが、日本のようにモーテルが情事専用の施設になっているのは例がない。
モーテルはさらに地方の性風俗を根本的に変えた。地方都市や田舎《いなか》は閉鎖社会である。男女の交際が、大都会のように自由に行なえない。まして人妻や妻子ある男との情事など、もってのほかのことである。
狭い地域社会《コミユニテイ》のなかであるから、すぐにひとの噂《うわさ》にのぼり、好奇心と非難の的とされる。大都会のように�密会�の場所もない。彼らのセックスは、常にひとの目を怖《おそ》れ、抑圧されていた。
それがモーテルの出現によって一気に解放された。モーテルはだいたいハイウエーに沿ってできる。それは例外なしに都会から離れたところである。都心や都会の近くでは、ホテルや旅館がいくらでもあり、わざわざモーテルを建てる意味がない。
もともと、車の機動性に密着してつくられた施設だから、地の利はいい。車のまま出入りできるから人目につかない。ホテルのように予約の必要もない。空室か、満室か、表示ランプによって一目でわかるようになっている。
赤外線装置によって、モーテル側に客の出入りがわかるようになっているから、従業員と顔を合わせることもない。まことに忍び逢いのための理想的な環境になっていた。
ここに地方の封建性と閉鎖性に抑圧された男女が目をつけた。ちょっと買物や外出をするふりをして、彼らも手軽に、しかも安全に情事を愉《たの》しめるようになった。
つまり、モーテルが地方の性《セツクス》を解放したのである。
全国に新しいハイウエー風物としてむらがり現われたモーテルの中でも、御殿場のモーテルは、�銀座�と言われるだけあって、その規模や設備において群を抜いている。
標示ランプによって、適当な空部屋の中にはいれば、押ボタン式の電動シャッターによって完全密室になる。料金はシューターで、事務所へ自動的に送られるようになっている。
ベッドルームの設備は至れり尽くせりで、回転震動ベッドからはじまって、鏡の間や、女体観賞用の浴室、ブルーフィルム、ピンクテープ、お客自身が主役になれるビデオ撮り装置まで備えているといった具合に、およそセックスを刺激するための、ありとあらゆる設備がそろっている。
ここの利用者は、昼の間は、近郊諸都市の人間が圧倒的に多い。
いま出て来た二人の男女も、神奈川県下のA市からやって来た。東名高速で三十分ほどの距離である。
2
九月二十一日午後十一時ごろ、神奈川県A市内で殺人(または傷害致死)事件が発生した。
A市は神奈川県中央部の都市で、私鉄で新宿《しんじゆく》から一時間ほどの距離にある。県央《けんおう》の農林産物の集散地であったところが、最近、団地の造成や、工業都市計画が進められるようになってから、首都圏を形成する重要な衛星都市になった。
被害者は市内の家具商で、自宅で就寝中を妻に刺されたものである。
石倉野枝《いしくらのえ》は、奥の主人夫婦の居間のほうにあたって「ギャッ」という悲鳴を聞いたような気がした。
蒲団《ふとん》にはいって、うとうとしかけたときなので、わざわざ起きて行くのも億劫《おつくう》だった。
「飼い猫《ねこ》がけんかでもしたのだろう」
とふたたび枕《まくら》に頭をつけたとき、奥のほうで何か物が倒れるような気配がして、人の走り出る足音がした。
なんとなく慌《あわただ》しい、いつもとちがう気配である。奥には主人夫婦しかいないはずである。それにしても、こんな時間に騒々しい。何かあったのかしら? 野枝は時計をチラと覗《のぞ》いた。十一時を少しまわっている。
野枝は気がかりになって、せっかく体が居心地よく、なじみかけた蒲団を脱け出た。まだ冷えるという季節ではないが、人の少ない家の中は、冷えびえとしたものを感じさせる。
野枝は、寝衣の襟《えり》をかき合わせながら廊下へ出た。
廊下の奥に主人夫婦の寝室がある。その途中に電話機がある。そこに佇《たたず》んでいる人影があった。
一瞬ドキリとして立ち止まった野枝の耳に、何かつぶやいている女の声と、ダイヤルをする音が届いた。
「まあ、奥さま」
電話をかけている女を、この家の主人の妻|佐久間晴美《さくまはるみ》と知って、野枝は安心した。
野枝が声をかけると同時に、晴美は最後の数字をダイヤルした。
「あらっ」
驚いたような声をあげたのは、晴美のほうである。声とともに電話を切った。カラリと何かが廊下へ落ちた音がした。晴美の手から落ちたのだ。
「まあ!」
次に愕然《がくぜん》とした声をだしたのは、野枝だった。落ちた物体が、なんであるか知ったからである。そのときはじめて、晴美の異様な風体に気がついた。うすいピンクの花模様の寝衣の前が、無惨にはだけている。模様の一部分かと思っていた、寝衣の上に点々と飛散した赤い花びらは、血のしぶいたものらしい。廊下の乏しい光量の下で、いままで気がつかなかった晴美のただごとでない様子は、彼女が手から落とした血まみれのナイフと結びついて、寝室で何が起こったかを容易に想像させた。
「キャッ」
野枝は正真正銘の悲鳴をあげた。そして表のほうへ向かって、凄《すさま》じい勢いで逃げだした。
「たすけて! だれか。奥さんが大変です」
野枝の悲鳴を他人事《ひとごと》のように聞きながら、
「私、いったい何をしたのかしら?」
晴美は呆然《ぼうぜん》とその場に立ちつくしていた。
3
急報によって駆けつけた所轄のA市署の係官は、被害者が胸部をナイフで刺されて虫の息になっているのを発見した。
ただちに救急車で最寄りの病院へ運んだが、出血多量のため、輸血も効なく一時間ほどのちに死んだ。
現場は、市内|旭《あさひ》町の佐久間家具センターの奥の、家人の居住区で、経営者夫妻が寝室にしている八畳の日本間である。刺されたのは、同店経営者の佐久間|宗一《そういち》、刺したのはその妻晴美である。
二十一日夜十一時ごろ、同家のお手伝い石倉野枝が、夫婦の寝室のほうに悲鳴のようなものを聞いて見に行ったところ、晴美が廊下の電話機のそばに血まみれのナイフを握って立っているのを発見した。
びっくりした同女が表へ飛び出して、近所の人間に知らせて、警察を呼んでもらったというものである。
被害者の傷口とナイフは一致した。刃に付着していた血液と、佐久間晴美の寝衣に飛んでいた血しぶきは、被害者のものであると鑑定された。
被害者は、ほとんど全裸で、麻ひもで足と手を後背部でいっしょに�海老縛《えびしば》り�に縛られていた。この異様な状態が、外部から侵入した者の犯行を推測させたが、屋内の戸じまりは完全になっていて、押し破られた形跡はどこにもない。賊が動転している晴美に凶器を握らせて逃走したと考えるには無理があった。
当夜同家には、佐久間夫婦と、石倉野枝の三人しかいなかった。
野枝が物音を聞いて駆けつけたときに、逃げだした者をだれも見ていないのだ。
それに晴美の寝衣に飛んだ血しぶきは、まさに加害者が浴びた血としての形状を示していた。佐久間晴美はその場で、傷害(のちに傷害致死)の現行犯として逮捕された。
この場合問題となるのは、晴美に殺意があったかということである。夫を殺そうとして彼の胸にナイフを突き立てた。そのときは力足らずして絶命させることはできなかったが、病院に運ばれてから、その傷が原因で死んだということになれば、実行行為と被害者の死とのあいだに刑法でいうところの�因果関係�が存在するから、殺人罪を構成する。
しかしもし晴美が、夫を傷つけるつもりでナイフを振《ふる》っての傷が因《もと》であれば、傷害致死となる。
殺人と傷害致死では、量刑に大きな差が出てくる。
警察では最初、被害者をだれが縛ったかということを問題とした。せいぜい固く縛ってあったが、結び目がいかにも素人《しろうと》くさい、稚拙な縛り方であったところから、晴美が縛ったのであろうと推測した。
「推測」というのは、彼女が何も語らないからである。被害者が易々《いい》として縛らせているところから見て、これは夫婦の寝室での�お遊び�であろうということになった。
「異常性愛の夫婦が、痛めつけたり、痛めつけられたりして愉《たの》しんでいるあいだに、つい度がすぎて、傷害致死事件に発展してしまった」というのが、警察の一致した見方であった。
佐久間晴美は後妻である。宗一と結婚したのは、一年半ほど前である。当時妻を亡くして鰥《やもめ》暮らしをしていた彼のもとへ嫁《とつ》いで来た。
宗一は現在四十二歳、晴美は二十四歳、齢《とし》の開きが少し気になった。それに晴美は、目鼻立ちの整ったなかなかの美人である。
事件の背後に、若妻をめぐる三角関係を疑いたいところであった。それはこれからの捜査でおいおい明らかになることであろう。いちおう殺人の疑いがあるので、A署内に捜査本部が開設された。
晴美の取調べにあたった捜査本部の腰原《こしはら》警部は、べつの疑問を持った。
晴美の態度が、わりあい取調べに協力的なのにもかかわらず、事件について何も語らないのだ。
それも黙秘するのではない。本人は一所懸命に話そうとするのだが、事件に関する記憶が何一つない様子なのである。彼女は夫を刺したことすら覚えていないのだ。
腰原は、最初、晴美がとぼけていると思った。
しかしそうでもないらしかった。凶行に関しては否認をしないのである。
「驚いたね、するとあんたは、ご主人を刺したことをまったく覚えていないのかね」
「はい」
腰原が面喰《めんくら》うほどに悪びれずにうなずく。
「すると、だれがご主人を刺したと言うのかね?」
「私だと思います。私がナイフを持ってそばにいたのですから」
「だれがご主人を縛ったのだ?」
「それも私だと思います。でも覚えておりません」
「あんたとご主人のあいだでは、前からこんな遊びをする習慣があったのかね? 縛ったり、縛られたり、今様《いまよう》の言葉で言えばSMごっこというような」
「さあ、よく覚えておりません」
「なんにも覚えていないんだな」
腰原はサジを投げたような顔をした。実行行為の記憶がまったくないのだから、その故意の範囲を訊《き》いても、わかるはずがない。腰原はそのとき、ふと思い出したことがあった。
発見者の石倉野枝の言葉によると、晴美は夫を刺したあと、電話のダイヤルを回していたということだった。
夫を刺したあと、いったいだれに電話をしたというのか? セックスプレーに興が乗ったあまり、夫を傷つけて、救急車を呼んだのでもないことはわかっていた。当夜、救急車にそんな出動要請はなかったからである。
彼は早速その疑問を問い糺《ただ》した。
「電話のそばにいたことは、覚えておりますが、だれにかけようとしたのか記憶はありません」
「番号を覚えていないのか?」
晴美は額《ひたい》に手を当てて、一心に考えこむジェスチャーをした。だがやはり首を振った。
「だめですわ、どうしても思い出せません」
腰原は、がっかりしながら、一つの不思議な事実に気がついた。
「あなたは電話機のそばにいたことは、覚えているんだね。そのことは覚えていて、そのすぐ前のご主人を刺したことは覚えていない。時間的には、いくらも差がないだろう。おかしいじゃないか」
「そう言われてみれば、そうですわね」
晴美自身、不思議そうな顔をした。
「自分で不思議がっていては困るね、とにかくあんたは電話をかける以前のことは、すべて忘れている。これはどういうわけなんだ?」
「わかりません」
晴美は弱々しく首を振った。彼女自身その理由がわからなくて、困惑しきっているといった様子である。腰原は、こんなに手応《てごた》えのない取調べは初めてだと思った。
自供するにしても、否認するにしても、あるいは嘘《うそ》をつくにしても、取調べを受ける人間には、自衛のための姿勢があるものである。
それがこの被取調人にはまったく自衛の姿勢がない。犯行については否認をせず、その具体的な内容には、まったく記憶がないという。罪をのがれるためにそらとぼけるのであれば、否認をしないのがおかしい。
「私がやったのかもしれない。どうにでもしてくれ」と言われても、犯行の詳細がまったくわからないことには、調書のつくりようもなかった。
腰原は、長い警察官生活の中で初めて出会った「へんな犯人」に、当惑してしまった。
4
まず佐久間宗一の女関係が調べられた。夫に新しい女ができたための妻の犯行は、三角関係の典型である。
A市はもともと芸者の多い土地柄である。市内の大店《おおだな》の主《あるじ》ということもあって、佐久間には、交渉のあった玄人《くろうと》すじの女性が何人かいた。
しかしいずれも、その場かぎりの関係であって、妻と悶着《もんちやく》をおこすほど、特定の女と持続していない。
佐久間の女関係と並行して晴美の男関係の捜査がすすめられた。ただこちらのほうは、直接の動機を形成しにくいところがある。
晴美が密通した場合、被害者となるのは、夫の佐久間のほうである。むしろ佐久間が晴美に何かをしかけるべきところであった。
それが逆になっている。男にそそのかされたということも考えられる。それにしては、あまりにもオープンに犯行をしているが、ともあれ、彼女の男関係は、無視できない線であった。