夫との年齢差といい、佐久間が変態がかっていたことといい、晴美の背後には、いかにも男がいそうな感じである。それに晴美には、人妻としての怠惰な落ち着きよりも、不倫の緊張による美しさのようなものが感じられるのである。
美しい人妻というものは、こういう場合損であった。そのため、晴美の周囲から、怪しそうな男が浮かび上がってこないにもかかわらず、警察は、�影の男�の存在の疑いを容易に捨てなかった。
�影の男�の存在の有無にかかわらず、晴美が夫を殺した?(故意の範囲の認定ができないので、それすらも定かではない)動機がわからないことは、捜査陣を悩ませた。彼女が佐久間を殺してどんな利益があるか? 佐久間はA市内に本店を持ち県下に十数店の支店を持っている。その他不動産もかなり持っている。その資産と信用は県内でも屈指とされている。
佐久間と前妻とのあいだに子供がないので、彼が死ねば、その財産はすべて妻の晴美が相続することになる。
相続人が財産目的に被相続人を殺すことはよくあるケースである。しかしその場合、犯人は自分の犯行をぜったいに隠しとおさなければならない。自分が犯人だとわかっては、相続権を失って、被相続人を殺した意味がなくなる。
だが晴美は、その点、まったく犯行の隠蔽《いんぺい》工作を行なっていない。現行犯であっさり捕まっているのだから、相続財産目的ではなさそうである。
となると、夫婦双方に特定の異性関係が浮かんでいないので、まったく動機の見当がつかない。そこへもってきて、晴美が完全な記憶喪失の状態になっている。まんざらとぼけている様子もないし、とぼけることによって得る利益は何もないのである。
腰原は、お手上げといった感じであった。
「晴美は犯行後どこへ電話をかけようとしたのか?」
「いやそれよりも、どうして電話なんかかけようとしたのだろうか?」
この疑問が腰原の頭に執拗《しつよう》にこびりついていた。
この場合、最も考えられるのは、救急車である。しかしそれでないことはわかっている。次に医者だ。が、それもかかりつけの医師や市内の医院にあたって、当夜晴美からそんな電話を受けていないことを確かめてある。
腰原には、彼女が、�影の男�を呼んだような気がしてならなかった。
血を見て動転し、救いを求めてか、あるいは犯行の完了を報告するためか、いずれにしてもこのような場合、女が最も先にダイヤルする相手は、情《じよう》を通じた男のような気がする。
生まれて初めての殺人(と晴美は信じていたかもしれない)を犯して、動転していた女が最も切実に求めるものは、愛する男の力強い庇護《ひご》の胸であり、優しい励ましにちがいない。
「しかしその番号を忘れるということは、どういうわけだ?」
腰原は頭をかかえてしまった。
「そうだ。もう一度、なんとか野枝とかいった�女中�に訊《き》いてみよう」
腰原は思いたった。事件の第一発見者であるお手伝いは、佐久間晴美が血だらけになって電話のそばにいたのを見ている。とすれば、彼女は、晴美と電話の相手とのやりとりを聞いた可能性がある。
腰原は早速石倉野枝を署に呼んだ。警察署というところへ初めて呼ばれたらしい野枝は、おどおどしていた。
腰原は努めて相手の気分をリラックスさせてから、
「あなたが奥さんの姿を見つけたとき、電話をかけていたそうだが、相手の名前か何かを言わなかったかね?」
普通、電話に相手が出たとき「もしもし、誰《だれ》それさんですか?」というふうな確認をする。
「いいえ、私が廊下へ出て行ったとき奥さんは電話番号を回していました。でも、回し終わると同時に電話を切ってしまったんです」
「何も言わないうちにかね?」
「ええ」
野枝はうなずいた。
「きみに見られたからじゃないのかね」
「そうじゃありません、奥さんはそのとき私が廊下にいるのを知らないようでしたから」
番号をダイヤルして、何も言わないうちに切るのは、「お話し中」の場合である。だがそのときは多少の時間、耳に受話器を押し当てて、話し中のブザーを確かめる。野枝は、ダイヤルし終わると同時に切ったと言っているのである。
「それじゃけっきょく、電話では何も話さなかったのかね?」
「それが、おかしいんです」
「おかしい? 何が」
腰原の目が光った。野枝はおびえたような顔をした。腰原はあわてて表情を弛《ゆる》めた。つい緊張したり、興奮すると警察官の顔になってしまう。
「どんなことがあったのかね?」
腰原は語調を和らげた。
「奥さんは、番号を回しながら『幸福』だと言ったんです」
「幸福?」
腰原には殺人と幸福がどう結びつくのかわからなかった。野枝にも二つの組合わせが奇異に思われたのであろう。
「本当に幸福だと言ったのかね?」
「はい、たしかにそう言ってました」
「それはダイヤルしながらだったんだね」
「そうです」
「すると、ひとり言だったのかな」
「そうでもないようなのです」
「それじゃあ、きみに向かって言ったのか」
「ちがいます。奥さんは私のほうを見ていませんでした」
「するとおかしなことになるじゃないか、ダイヤルを回している最中には、まだ相手は電話に出ていない。相手にもなにもダイヤルしただけで、すぐ切ってしまったんだ。きみに向かって言ったのでもない。ひとり言でもない。それじゃあ、いったい、だれに向かって言ったんだね?」
「でも本当にそうだったんです。奥さんはだれかに話しかけるように言ったんです」
野枝は、どういう言葉で言ったら、わかってもらえるか、途方に暮れたような顔をした。
もともと、話をしたり、ものを書いたりするのは、大の苦手なのだ。
最近A市にもたくさんの工場ができて、そちらで働いたほうが高い給料をもらえるのだが、大勢の人間の中で働くのが煩わしくて、お手伝いをつづけている。
お手伝いならば、人と口をきくこともあまりない。野枝は、自分に与えられた仕事を、黙って、ひとりでしているのが好きだった。
野枝を帰したあと、腰原はふたたび晴美を取り調べた。
「あんたは、電話をかけたとき幸福だと言ったそうだが、本当かね?」
「さあ」
晴美の態度はあい変わらず要領を得ない。
「そんなことを言ったのかね?」
「言ったかもしれないし、言わなかったかもしれません」
腰原は、ふと思いついたことがあった。
「ところで、あんたはいま幸福かね?」
ずいぶん意地の悪い質問である。自分の夫を殺して、警察へ留置されている身では、幸福のはずがない。もしそれが幸福だというのであれば、精神異常である。
しかし殺す意志で犯行し、けっきょくその意志を実現したのであれば、幸福とはいえないまでも、それなりの満足感は得たのではあるまいか。満足したのであれば、晴美は殺意を持っていたことになる。
「そうですね、幸福かと言われれば、そんな気もしますわ」
彼女はそう言って、陶然としたような目つきになった。
〈まるで夢でも見ているような目つきをしてやがる〉
腰原は内心につぶやいた。つぶやき捨てたものが、潜在意識の中にわだかまっていた澱《おり》にぶつかって、意識の表面に思わぬ波紋をつくった。
——もしかしたら、晴美は催眠術にかけられているんじゃないだろうか?——
波紋は広がって、想像を誘導した。
〈催眠術を利用して殺人が果たして可能なものかどうかは知らない。だが優れた催眠者の手にかかると、その意のままに操られるそうだ。動作はもちろんのこと、意志までも完全に支配されるという。もしかしたら……?〉
腰原は、自分の想像に、しだいに興奮してきた。もし晴美が催眠術をかけられ、催眠中に夫を襲ったのであれば、彼女の背後に真犯人がいるはずである。
そのすじでは「鬼腰」といわれるほどの、ベテランこわもての彼だったが、今まで扱った事件で、催眠術を利用したものはない。
いかにも突飛な想像だが、晴美の背後に催眠者の存在を考えると、説明がつきそうなのだ。
犯行の記憶は完全に喪失しておりながら、否認はしないという矛盾も、催眠者にとって都合のよい設定である。彼はその道の専門家のたすけを借りることにした。
5
捜査本部から依頼を受けたのは、神奈川医大の精神医学の権威、宮川清之《みやがわきよゆき》教授である。
宮川教授は、佐久間晴美に面接して、
「これは催眠中に、自分の行なったことのすべてを忘れるという強い暗示をかけられたものにちがいない」
と判断した。
「記憶を呼び戻すには、どうしたらよいのですか?」
腰原は、自分の想像が当たったことを喜んでよいものかどうか迷いながらたずねた。
「犯人はよほど催眠技術に長《た》けている人間にちがいありません。そうでなければ、これだけ完全に記憶の抑圧は行なえません。まあ何回も催眠面接を重ねて、少しずつ記憶を取り戻していく以外にありませんね」
「しかし、先生、催眠術で殺人までさせることができるのですか?」
腰原は、恐ろしいことだと思った。催眠術にはごく普通の人間がかかるという。むしろ馬鹿や気ちがいのほうが、かかりにくいのだそうだ。しかもかけられた当人に暗示をかけて、催眠中の記憶を忘れさせてしまえば、本人は催眠にかけられたことすら気がつかない。
そういうことが事実、可能であれば、催眠者は、忠実な道具である被催眠者の背後に隠れて、どんな悪事でもすることができる。責任はすべて被催眠者が背負ってくれる。しかも被催眠者は、自分の意志でやったと思いこんでいるのだ。
こういう使い方をされると、催眠術はまさに現代の妖術《ようじゆつ》である。
「普通、催眠は、かけられた人物が本人の道徳規範やタブーに反することを命ぜられると、醒《さ》めてしまいます。しかし優秀な催眠者になると、それを乗り越えることができます。この被験者の場合、その場で殺してはいないのですから、なにかそのへんにトリックが使われているかもしれませんね」
宮川教授による佐久間晴美の催眠面接がはじまった。教授は彼女の背後に必ず催眠者がいるとにらんだ。そしてその人物はたぶん男だろうと推測した。
催眠は同性どうしでもかけられるが、これだけ強い記憶の抑圧が行なわれるためには、術者と被験者のあいだに相当強い「ラポール」と呼ばれる親密な心のつながりができていなければならない。
それは同性どうしよりも異性のほうに形成されやすいからである。
最初のあいだは、晴美は男の名前も場所も顔形も思い出さず、教授は手こずった。根気よく催眠面接をつづけるうちに、「円い部屋」という言葉を思い出した。
一つの単語が浮かぶと、それがきっかけになって、次々に単語が浮かんできた。
この方法は、忘れてしまった知人の名前などを思い出そうとするとき行なう連想にもとづいている。電話帳を繰ったり、五十音を最初からつぶやいたりして、最初の頭文字を手がかりにして、全体の記憶を引き出す方法である。精神分析の分野では�自由連想�と呼ばれるものである。
宮川教授が行なったのは、�催眠分析�と呼ばれるもので、やり方は自由連想と同じであるが、相手を催眠状態に導く点が異なっている。記憶の抑圧が強い場合は、この方法に頼らないと、抑圧をはずして記憶を呼び戻すことはできない。
晴美は、教授の催眠分析によって、
㈰車
㈪アラビアンナイト
㈫回転
㈬鏡
という言葉を思い出した。ここで教授が相手の《たぶん》男の名前を訊くと、彼女は苦しそうな顔をしかめて、催眠状態から醒《さ》めてしまうのである。
これだけの手がかりを与えられた腰原は、ハイウエーや国道沿いのモーテルをあたった。すでにA市周辺の連れ込み旅館やモーテルは探査ずみであったのを、対象をさらに拡大したのである。
腰原は「円い部屋」を晴美が男と逢《あ》った場所だと考えた。そんな部屋を持っているところは、珍奇な趣向で客を呼ぶモーテルかアベック旅館以外にない。
彼の推測を、「車」と「アラビアンナイト」が確定させた。ハイウエー沿いのアラビアンナイトふうのモーテルが晴美と男の忍び逢いの場所だったのである。その部屋は円く、回転式ベッドと鏡があったのであろう。
ハイウエー沿いに散った刑事らは、御殿場付近の、通称モーテル銀座内のモーテル『ロイヤルパレス』で、晴美が一ヵ月二回ぐらいの割合で、男と忍び逢っていた事実を突きとめた。
男は三十歳前後のスポーツマンタイプというだけで、はっきりした特徴はわからなかったが、モーテルの従業員が、男の車の登録番号標を覚えていた。
男は車、女はタクシーと、いつも別々にやって来る彼らに、従業員が好奇心を持ったのだ。
刑事たちは勇躍した。ついに晴美の背後に隠れていた男の正体を捉《とら》えたのである。
ナンバーから、男はA市の隣りのS市に住むN車系の自動車セールスマン、小堀達男《こぼりたつお》とわかった。晴美が思い浮かべた「車」という言葉は、モーテルに関連してではなく、男の職業からの連想であったのかもしれない。
セールスマンという職業も、催眠術との関係を容易に推測させた。広告や販売技術に催眠術を応用すると効果がきわめて高いそうである。
全然興味を持っていないのに、興味を湧かせて、欲しいという気持ちにさせてしまうセールスの技術は、まさに催眠術にあい通ずるものがある。
時をおかず、小堀に重要参考人として出頭が求められた。
参考人ではあるが、まるで被疑者を連行するようなものものしい様子で刑事がエスコートして来た。
催眠術の名人と聞いて、術をかけられて逃げられてしまうかもしれないと思ったようである。催眠術には妖術のような無気味さと現代的な科学性が同居している。それだけに取調べ側にも、普通の参考人に対するのとは異なった構えがあった。
6
A市署の取調室で腰原が小堀に対《むか》った。小堀は年齢二十九歳、筋骨型のひきしまった肢体《したい》の持ち主で、眉《まゆ》と唇《くちびる》の豊かな、意志の強そうなしっかりした印象の顔をしている。
〈なるほど、晴美がまいったのも無理はないな〉
しかし、腰原は、もっと神経質なタイプを予想していたのである。女に催眠をかけて殺人を犯させた男として、目と唇のうすい、瞳《ひとみ》にいつも計算された冷徹な光を浮かべた人間をえがいていた。
目の前に現われた小堀には、そのような陰険なデリカシーと深刻さは感じられない。
だが顔の印象だけで、相手の性格は決められない。
小堀は、意外にあっさりと、佐久間晴美との関係を認めた。
「最初は、車のセールスのために訪問しました。ご主人が留守だったので、奥さんと会って話をしました。脈がありそうだったので、何度か通って勧誘しているあいだに、おたがいに好意を持つようになったのです。
はじめのうちは軽い気持ちだったのですが、いつの間にか、二人とも真剣になってしまいました。私たちは結婚を考えました。しかし、晴美さんのご主人がとうてい離婚に応じてくれそうにないので、忍び逢いをつづけていたのです。
二人の仲がご主人に知られれば、その日から私たちは逢えなくなります。いま無理やりに仲を引き裂かれれば、私たち二人とも気が狂ってしまうと思いました。
先行きの見込みはなくとも、いま逢えるという刹那《せつな》の喜びを維持するために、私たちは関係を隠していたのです。しがない車のセールスマンにすぎない私には、豊かな環境に生まれ育った晴美さんに、物質的に満たされた生活を保証できませんでした。そのために現状維持のずるずるの関係を、やむを得ずつづけていたのです」
「その現状を破るために、晴美をそそのかして、亭主《ていしゆ》を殺させたというわけか」
腰原が、狙《ねら》いすました一撃を送りこむように言った。
「私が、晴美さんをそそのかしたんですって!?」
小堀は、言われた言葉の意味を咀嚼《そしやく》するようにくりかえした。
「ば、馬鹿な!」
次に顔に血の色をのぼらせて、舌をもつれさせた。
「晴美が、犯行時に催眠術をかけられていたことが鑑定されたのだ。かけたのはおまえだろう」
「ぼくが……晴美に……?」
小堀は口をあんぐりと開いた。あまり驚いたので、いままでつけていた敬称も忘れたといった様子である。
そこに演技はないかと、腰原は冷酷に視線をこらす。
「ぼくが催眠術? 何か勘ちがいしているんじゃありませんか」
小堀は、むしろ途方に暮れた表情をしていた。その表情に関するかぎり、演技か、あるいは素顔の真情なのか区別はつかない。最近はテレビの影響で、素人《しろうと》でも芝居が上手になっている。泣いたり、笑ったり、澄ましたりが、俳優はだしで板につき、演じている自分自身が、本当なのか演技なのかわからなくなってしまう。
警察官にとっては、テレビがまさかこんな形で、犯行の隠蔽《いんぺい》を助けようとは、思ってもいないことだった。
腰原ほどのベテランも、小堀の表情の真偽の見分けがつかない。だが腰原はそのとき、ここぞと思って打ちこんだ釘《くぎ》が、全然効かなかったときのようなもどかしさと、自信の崩壊を感じた。
「催眠術で、人が殺せるんですか?」
小堀はまた言った。自分が被疑者扱いを受けているにもかかわらず、そんな方法があるのなら、ぜひ教えてもらいたいというような好奇心が覗《のぞ》きはじめている。その表情は素直だった。
——この男、シロだな——。
腰原は、そのとき、そんなカンがした。彼はそれを自分で「負《ふ》のカン」と呼んでいる。
これが犯人にちがいないとにらんで、まさしくそれがあたったときは、「勝のカン」が働いたことになるが、刑事としての年功を積み重ねると、負のカンも強くなる。
刑事にとってあまり有難くないカンであるが、いまその負のカンがしきりに腰原に訴えかけていた。しかし、もしかしたら、それも相手の催眠術によるものかもしれない。
「あんた、催眠術の達人じゃないのかね?」
「催眠術なんて、まったく縁がありませんね。テレビで一度実演しているのを見たことがありますが、インチキくさかったですね。かけられた人間も、サクラですよ。あんなことで人が殺せるなんて、警察は本気で信じているんですか?」
小堀は、軽蔑《けいべつ》したような顔をした。腰原はさらに取調べをつづけたが、決め手はつかめなかった。
逮捕状は出ないので、その日はひとまず帰した。腰原の負のカンだけに頼ることはできない。小堀の勤め先や取引先関係をひきつづいて洗った。職業がら、小堀が事実催眠術の心得があるなら、商売に必ず利用しているはずだとにらんだのである。
だが、彼にそんな心得があるという情報は、どのすじからも得られなかった。要するに小堀達男と催眠術は、まったく無縁なのである。
ここにおいて、せっかく浮かび上がった唯一の怪しい人物も、見込みちがいの様相をしだいに濃くしてきた。
7
宮川教授による佐久間晴美の催眠面接がつづいていた。
——円い部屋、車、アラビアンナイト——などの一連の記憶が指し示した小堀達男が、しだいにシロくなってきた現在、晴美に催眠をかけた、さらにべつの人間の存在が推測された。しかし彼女から新しい記憶を引き出すことはできなかった。
教授は、ほとほと手を焼いたといった様子で、
「小堀に関する記憶だけがよみがえったのは、小堀と晴美のラポールよりも、別にいる催眠者と晴美のあいだのラポールのほうが強いからです。晴美が小堀の名前を言わなかったのは、催眠によって記憶が抑圧されたものではなく、秘密の情事を隠し通さなければならないという自衛本能が働いたものだと思います。とにかく晴美を操っている催眠者は、相当高級な技術の持ち主です。おそらく催眠中にすべての出来事を忘れてしまうような後催眠暗示をかけておいたものにちがいありません」
「後催眠暗示とは、どういうことですか?」
新しい専門用語の意味を腰原が問うと、
「催眠中に与えておいた暗示が、本人が醒《さ》めたあとになって実現することを後催眠現象と呼んでいますが、そのための暗示が後催眠暗示です。たとえばある人間を催眠状態に導いて、『あなたは目が醒めてから、私が鼻の頭に指を当てると同時に、テレビの×チャンネルをつけるでしょう。私があなたに言った言葉は、忘れてしまいますが、あなたは必ず私が言ったとおりに行動します』と暗示をかけておくと、覚醒《かくせい》後、私が鼻に指を当てると、暗示のとおりにします。そんなとき、なぜ×チャンネルに入れたのかと質問すると、野球が見たいからとか、ニュースを知りたいからとか、きわめて自然に答えます。本人は暗示をかけられたことを少しも気づかずに、自分の意志で行動したと信じこんでいるのですね」
「恐ろしいものですね。もし犯罪を後催眠暗示によってそそのかしたらどういうことになりますか? その場合、外観はまったく正気と変わりないから、警察は本人が暗示を与えられたということすらわからない」
腰原は、実際に背すじに寒気を覚えていた。催眠術がこのような形に悪用されたら、警察はお手上げだと思った。
催眠者の意志(暗示)によって行動しながら、本人は自分の意志で行なっていると信じ、外観も完全に正気であるとしたら。
犯罪を構成する主観的要素である故意(殺意)の認定も、他人の意志を自由に玩《もてあそ》ぶ催眠術によって、まったく不可能になってしまう。となれば刑法そのものが無価値になってしまうのではないか?
腰原は、そのとき刑法全体が危機に晒《さら》されているような恐怖感を覚えた。
「いや、その心配はないと考えてよいでしょう。後催眠暗示は、催眠中の暗示感受性と異なって、覚醒後に実現するものですから、暗示が常識に反する場合は、拒否されるか、あるいは形を変えて実現されます」
「なるほど。すると先生、犯人は晴美に、覚醒後、すべてを忘れるような後催眠暗示を与えたというわけですか」
「そうとしか考えられませんね」
「それは具体的にどんな暗示ですか」
「ごく簡単な合言葉や鍵数字《キーナンバー》だと思います。それさえわかれば、あとは芋づる式に、たぐりだせると思うのですが」
「合言葉? その合言葉を言うと、すべての記憶を忘れてしまうのですか?」
腰原は、やや早口に教授に訊《き》きなおした。
「あらかじめ、そのように仕向けておくのですね。たとえば、『この合言葉がおまえの記憶の限界だ。おまえがこれを無理に越えて過去を思い出そうとすると、おまえは必ず死んでしまうぞ』というふうに。この種の暗示が与えられると、被暗示者の意識下に強い恐怖心を植えつけて、記憶を完全に封じこめてしまうのですよ」
「しかし先生、そのためには、相手が醒《さ》めたときに、必ずその合言葉が、相手の目か耳にはいるように仕向けなければなりませんね」
「そうです。ですから、被暗示者が毎日つけている日記に書いておくとか、愛読書の中の座右銘にするとか、とにかく必ず相手に認識されるようにしておくわけです」
「すると、日記帳とか、愛読書類を調べれば……」
「その種のものは、全部調べました。しかし合言葉らしきものは、発見できませんでした」
さすがの宮川教授も、お手上げといった表情である。
「合言葉か……」
腰原はもう一度なにげなくつぶやいた。その瞬間、何かが目の前にひらめいたような気がした。彼は、その瞬間の閃光《せんこう》をみつめた。
——晴美の記憶は、何をさかいに喪《うしな》われたか?——
〈そうだ! 犯行後電話をかけたときだ。彼女はダイヤルしながら『幸福』だと言った。電話というものは、ダイヤルを回し終わってから、相手方に信号音が届いて、相手が送受器をフックから取り上げてはじめて通じるものだ。だから晴美がダイヤルしながらつぶやいたこの言葉は、電話の相手に話しかけたものではない。事件の発見者のお手伝いに向けたものでもない。ひとり言でもなかったそうだ。それでは、いったい何か? とにかく晴美は、この言葉をさかいに、記憶を喪失している〉
——もしかしたら!——
〈これが合言葉か?〉
——しかし、もしそうだとすれば、犯人はいったいどのようにして、彼女に犯行後必ずこの言葉をつぶやかせるようにしたのだろうか?——
〈晴美はダイヤルしながら『幸福』と言った。ひょっとすると、この言葉は電話番号に関係あるものかもしれないぞ〉
——犯人は犯行後、晴美に電話をかけるように暗示する。その番号が、記憶を消すための鍵数字《キーナンバー》となっているとする。『幸福』は、その数字を連想させる言葉かもしれない——
「先生、その合言葉とか、キーナンバーとやらは、ごく簡単なものなのですね?」
自問自答から覚めた腰原は訊いた。
「そうです。あまり複雑なものですと、合言葉の役目を果たしません。目や耳にはいると同時に反応をおこさせるためには、簡単なほどよいのです」
教授の答えに腰原は、「幸福」が合言葉そのものか、あるいは鍵数字を連想させるほかの役目をつとめているにちがいないと思った。
「幸福」を合言葉そのものとすると、電話をかけた意味がわからなくなる。それに犯行後、必ずこの言葉を晴美に言わせるように仕向けた方法は?
やはり「幸福」は、合言葉そのものではなく、鍵数字を連想させる何かだ。
「幸福と電話、幸福とキーナンバー、幸福とダイヤルナンバー……」
ここまで口の中でぶつぶつつぶやいていた腰原は、ハッと目を宙に据《す》えた。披はふと思いついたことがあったのである。
腰原は、最寄りの電話にとびついた。ダイヤルしてやがて応《こた》えた相手に、
「石倉野枝さんを願います。ああ、あなたですか。よかった。捜査本部の腰原です。先日はご苦労さま。ところでまた一つ教えてもらいたいんだが、あなたが晴美、いや奥さんを見つけたとき、『幸福』だと言ってたそうだね。そこで思い出してもらいたいんだが、もしかしたら『シアワセ』だと言ったんじゃなかったかね」
電話の向こうでやや考えこむ気配があって、やがて緊張した腰原の顔が弛《ゆる》んだ。予想したとおりの答えを得たらしい。
彼は早速部下を呼んだ。
「市内の4887番の電話の所有者名を大至急調べてくれ。市内局番は21と22とあるから、二人いるはずだ」
腰原の声は弾んでいた。
腰原は、幸福に別の言い方があることに気がついたのである。女は幸福という言葉が好きだ。その場合、「シアワセ」と発音されたほうが、女らしい。
それを動転していた石倉野枝は、「幸福」と聞きちがえたのである。
いや正確には聞きちがえたのではなく、聞いた言葉を一時的に忘れて、同じような意味を持つ別の言葉として思い出したのだ。
いったんそう思いこむと、記憶は誤ったまま固定する。野枝は、晴美の言葉を、音標としてではなく、表意文字として記憶していたのである。
「シアワセ」は「シハハセ」とも書ける。そんな書き方をしなくとも、発音だけで、4887を連想させる。セは文字形から七を、発音も英語のセブンから容易に7を思いおこさせる。
晴美が、ダイヤルしながら「幸福《しあわせ》」と言った理由がこれでわかった。彼女はこの言葉によって電話番号を覚えこまされた。そしてそれがそのまま、すべての記憶を消す鍵数字となっていたのだ。
局番は、同じ市内に住む者として、すでに覚えている。したがって局番を覚えこます必要はなかったのだ。
犯人は、晴美に、犯行後電話をせよと暗示する。電話番号に鍵数字をしかける。それを連想させるものとして「幸福《しあわせ》」という言葉を与える。これは晴美に鍵数字を強く印象づける効果と同時に、第三者に鍵数字であることを糊塗《こと》する効果を持っている。
そこに石倉野枝の記憶ちがいが重なって、その効果をさらに高めてしまった。
電話番号に鍵数字をしかけたメリットは、もう一つある。犯人は、あらかじめ暗示しておいた犯行時間に電話機のそばで待っている。
暗示どおり、その時間に電話のベルが鳴る。犯人が送受器を耳に押し当てると同時に、相手からの|呼び出し《コール》は切れる。
これによって犯人は、晴美が暗示どおり犯行を終え、後催眠暗示がかかって、すべての記憶を抑圧されたことを知る。もし記憶の抑圧が不十分な場合は、電話を通して改めて暗示を与えればよい。
実に万全の構えが施されていたのだ。
間もなく部下が電話の所有者を突き止めてきた。それは——
21—4887の所有者は、市内栄町の開業医、立川力松《たちかわりきまつ》、22—4887は、市内富士見町の金物商、石田安次郎の二人である。佐久間家の局番は21だから、当面立川のほうが怪しい。
「この石田と立川の二人と、佐久間宗一の関係を徹底的に洗ってみてくれ。どんな小さなつながりでもかまわない。もちろん晴美との関係もな」
〈もしかしたらこの二人のどちらかが、佐久間殺しの本ボシかもしれない〉
腰原の部下に命ずる声は、久しぶりに張りきっていた。あとのほうの言葉を喉《のど》の奥にのみこんだのは、彼らと、佐久間とのあいだにつながりが発見されても、さらに鍵数字を手がかりにして晴美の記憶を掘りおこさなければならない難作業がひかえていたからである。
事前に部下たちに変な先入観は与えたくなかった。
8
物語は四年前の五月にさかのぼる。木村のぶ子は、夕食の買物に出た。
「おねえたんと、おちゃんぽにいくの」
彼女が出かける姿を目敏《めざと》く見つけて、早速はじめ[#「はじめ」に傍点]があとを尾《つ》いて来た。のぶ子にすっかりなついてしまって、どこへ行くにもあとを慕うのである。
のぶ子のほうも、ようやく舌がまわりかけたはじめ[#「はじめ」に傍点]を、まるで自分の子供のように可愛がっている。
「おちゃんぽじゃないのよ、買物へ行くの」
「ぼくもいく」
はじめ[#「はじめ」に傍点]は頑張《がんば》った。途中で疲れると遠慮会釈もなく道のまん中へすわりこんで「アッコ(抱《だ》っこ)」とせがまれるのはわかりきっている。
両手が買物でいっぱいのときは、困ってしまうのだが、可愛いものだから、断固として拒絶できない。
「いいこと、途中で疲れてもひとりでアンヨするんですよ。アッコはしてあげませんからね」
「うん」
幼い者との約束が、あてにならないことを承知しながら、のぶ子はついうなずいてしまった。
木村のぶ子は、半年ほど前に市内栄町に内科小児科を開業している立川力松の家へお手伝いとして来た、十九歳の近郊の農家の娘である。
最初は「お手伝い」というイメージの悪さに抵抗を覚えたものだが、立川家の待遇もいいし、仕事も楽なので気にならなくなった。勤め先は探せばいくらでもあったが、他所《よそ》へ行く気はまったくなくなってしまった。
その最大の誘因は、待遇や仕事よりも、実は別にあった。それがはじめ[#「はじめ」に傍点]である。
立川夫婦が結婚して十数年めにようやく得たこの一粒種は、両親よりも、むしろのぶ子になついてしまって、彼女がそばにいないとご機嫌《きげん》が悪い。よくまわらぬ舌で「おねえたん、おねえたん」といつもあとを尾《つ》いてくるゴムまりのように健康で、目のくりくりした幼児に、のぶ子はすっかりまいってしまった。
「まるで私よりも、あなたのほうが母親みたいね」
と母親が苦笑したが、その中にはかなりの実感と多少の嫉妬《しつと》がこめられていた。
二人が出て行ったあと、はじめ[#「はじめ」に傍点]の父親、立川力松はちょっと患者の列が途切れたので、奥の居間へ憩《やす》みに来た。妻が入れてくれた茶をすすりながら、
「はじめ[#「はじめ」に傍点]は?」
と習慣のように聞く。
「のぶ子ちゃんに尾《つ》いて出て行きましたわ」
妻はこともなげに言った。
「尾いて? 散歩か」
「いいえ、買物よ、お夕食の」
「買物? 大丈夫かな」
立川の語尾に不安があった。
「大丈夫って、どういう意味ですの?」
「買物をするのなら、当然はじめ[#「はじめ」に傍点]だけに注意をしていられないだろう」
「まあ」妻は驚いたように言ってから、おほほと笑って、
「のぶ子ちゃんは、私たちよりもはじめ[#「はじめ」に傍点]の扱いには馴《な》れてますわ。あなたも苦労性ねえ」
妻に笑われても、立川はすっきりしない顔だった。結婚後十数年、すっかりあきらめていたところに恵まれた文字どおりの一粒種は、彼にとって目にいれても痛くない存在であり、生き甲斐《がい》そのものなのである。
いくらなついているとはいっても、お手伝いはやはり他人である。妻のように安心してまかせる気にはとてもなれない。
〈女は、男よりも図太《ずぶと》いな〉
と思ったとき、表の待合室にあたって患者のはいってくる気配がした。
「あらっ、おのぶじゃない」
いったんすれちがった相手にいきなり呼び止められたのぶ子は、そこに中学時代の仲好《なかよ》しの同級生だった中岡幸子《なかおかさちこ》の姿を見つけた。背も少し伸びていたし、服装や化粧もすっかり都会的になっていたので、わからなかったのである。
「まあ、サッチンじゃない」
学生時代の愛称でおたがいを呼び合った二人は、思わず通りのまん中で手を取り合った。歩道橋の畔《たもと》で人通りはわりあい多い。
「いまどこへお勤め?」
「その後お元気?」
二人はおたがいの近況をたずね合った。卒業以来数年ぶりの再会である。