幸子は、東京のかなり名の通った電機会社へ勤めていた。今日はA市にある会社の取引先に用事があって久しぶりにやって来たそうである。
「ここから通勤しているんじゃないの?」
幸子の生家は、A市の外れにあったはずである。
「ううん、東京の寮にはいっているのよ。用事が早く終わったので、これから家のほうへ行ってくるつもりなの」
通りでの立ち話はつづいた。
「それよりのぶ子は、いまどんなお仕事をしてるの?」
今度は幸子がのぶ子の仕事を訊く番になった。相手が一流会社のOLであるのに比べて、のぶ子はお手伝いをしているということを話すのが、なんとなく気恥ずかしかった。そのかすかなためらいが、彼女にはじめ[#「はじめ」に傍点]の姿がいつの間にか消えていることに気づかせた。
「あら大変!」
「どうしたのよ?」
急にきょろきょろしはじめたのぶ子の姿に、幸子は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「どこかへ行っちゃったのよ、はじめ[#「はじめ」に傍点]ちゃんが。どうしよう?」
「はじめ[#「はじめ」に傍点]ちゃんって、だれなの?」
説明しているひまはなかった。ガードレールの向こうは、車の往来しきりな車道である。三歳の子供ならば、ガードレールの下を容易にくぐり抜けられる。
「はじめ[#「はじめ」に傍点]ちゃあん!」
のぶ子は恥ずかしさも忘れて、大きな声をあげて呼んだ。通りすがりの人が何人か振り向く。歩道にははじめ[#「はじめ」に傍点]の姿は見えない。
〈まさか車道へ飛びだしたのでは!〉
のぶ子の心に不吉な連想が発達した。
「はじめ[#「はじめ」に傍点]ちゃあん!」
彼女はもう一度呼んだ。そのとき彼女の視野のはしに見馴れた可愛い姿がはいった。はじめ[#「はじめ」に傍点]は、彼女が旧友とめぐりあって立ち話をしているあいだに、ひとりで歩道橋を渡って、通りの反対側へ行っていたのである。
「おねえたん」
はじめ[#「はじめ」に傍点]はゴムまりのような体をはずませて、駆けだした。
「あっ、だめよ、そこで待っていなさい!」
のぶ子は愕然《がくぜん》として蒼白《そうはく》になった。のぶ子に呼ばれたと勘ちがいした幼児は、小さな体をガードレールの下へくぐらせた。
「だめったら! そこに止まっていなさい。だめ! 出てはだめ!!」
彼女の悲鳴のような声は、幼児にかえって逆の効果を与えた。はじめ[#「はじめ」に傍点]は車道へ飛びだした。
その直前に黒い凶器のような高速の物体が、なんの緩衝もおかずに襲いかかった。
「ああ」
のぶ子が思わず絶望の目を閉じた中へ、彼女の内臓をかきむしるようなブレーキの軋《きし》りと、鋼鉄と柔らかい肉体のぶつかり合ういやな音が届いた。
「大変だ!」
「子供がハネられた」
人の叫び声と、わらわらと駆け寄る気配がした。
幼児のまだ骨の固まりきらない柔らかい体は、折りから直進して来た車のボンネットの上にすくい上げられ、アスファルトの上に叩《たた》きつけられていた。
ただちに病院へ運ばれたが、頭の骨を折っていてたすからなかった。両親が駆けつける前にすでに死んでいた。ハネたのは、同じ市内で手広く家具商を営んでいる佐久間宗一である。
佐久間は制限速度を守っており、歩道橋のそばでもあったので、死亡事故までおこしながら、その責任は軽いものとされた。
被害者は、立川力松が結婚十数年めに、ほとんどあきらめかけていたときに生まれた、文字どおりの一粒種である。その目に入れても痛くないばかりの可愛がりようは、はたの者がむしろ閉口するほどであった。
それだけに立川夫妻の悲嘆は、見るに耐えないほど痛ましいものがあった。
佐久間が焼香に来たとき、「殺してやる」と叫んで、跳びかかろうとしたところを、周囲に居合わせた人間に辛うじて抱き止められた。佐久間より、むしろ子供から目を離したお手伝いの責任のほうが重いところだが、子供を殺された親にしてみれば、轢《ひ》いた当の相手に憎悪が集まるのである。
立川家に不幸はつづいた。子供の四十九日がすんで間もなく、立川が往診から帰宅すると、妻の姿が見えない。木村のぶ子もいたたまれなくなって、ひまを取ってしまった。
ガランとした家の中を、「買い物にでも出かけたのかな」と思いながら、居間へはいると、食卓に食事の用意がしてあった。
これは妻が比較的長い時間留守をするときの習慣である。今日は彼女から時間のかかる外出をするということは聞いていない。
食卓から被《おお》いを取ると、彼の好物ばかりが並べられてあった。胸の芯《しん》をズンと断ち割るような不安が湧いた。
彼は、狼狽《ろうばい》して二階へ駆けのぼった。そして夫婦の寝室の中にすでに冷たくなっている妻の体を発見したのである。どんな手当てを施しても、すでに無駄《むだ》であることが、彼が医者であるがゆえに、無惨なまでにはっきりとわかった。
9
この事件から二年のち、佐久間の妻が病死した。半年ほどして新しい妻が来た。輪郭のくっきりした美しい女だった。取引先の問屋の娘であるが、初婚の相手が精神病質であることがわかって、結婚一ヵ月で離婚して実家に戻っていた不運な女性である。
佐久間は前妻とのあいだに子供がなかった。彼はこの若い妻が気に入り、耽溺《たんでき》した。商売も順調で、支店も三ヵ所ほど増えた。仕事と家庭に恵まれた彼の胸の中には二年半前の、痛ましい交通事故のことなど、かけらも残っていなかった。もともと彼にはあまり責任のないことである。
「どうなさいました?」
立川力松は、その患者に向かって習慣的に訊いた。二十四、五歳の女の�新患�である。
「このごろ頭が痛くてなりませんの。いつも夕方ごろから痛みはじめて、夜遅くまでつづくのです。そのため、夜もよく眠れなくて」
患者の訴えを聞きながら、カルテに目を落とす。
——佐久間晴美——
立川の目は、その患者の名前の上に固定した。住所も市内になっている。
「佐久間さんとおっしゃると、あの佐久間家具センターの……?」
「はい」
患者は素直にうなずく。
目鼻だちのはっきりした顔で、特に目が美しい。二重まぶた——おそらく天然の——の下に黒目との調和がよくとれていて、情熱の豊かさを示すようにうるおっている。白目が少し充血しているのは、頭痛による不眠のためであろうか。
ひきしまった輪郭でありながら、口元が甘く優しい。
「佐久間宗一さんの……」
「家内でございます」
患者は軽い笑みを含んで頭を下げた。
——そうか、この女が、佐久間の後妻だったのか。その後、若い後妻をもらったと聞いていたが、こんな若い美しい女と再婚して、�幸福な家庭�を営んでいたのか——
あの事故以来、いっときも忘れたことのない佐久間に向ける憎しみが、改めて燃えさかってきた。
晴美の美しさが、立川の胸の中に固定化した憎悪を攪拌《かくはん》し、沸騰させたのである。
〈おれがただひとりの子供を奪われ、妻に自殺されてなんの喜びもない毎日を送っているのに、佐久間は、こんな美しい後妻を迎えて人生を愉しんでいるのだ〉
そのとき立川は、佐久間に向けた感情が、まぎれもなく殺意というものであることを悟った。
佐久間晴美の症状は、大したことはなかった。女性の慢性の頭痛は、だいたい生理的不調を原因とすることが多いので、立川は、彼女の体を精密に検《しら》べた。
しかし特に生理的な原因は発見されなかった。立川は心理的な症状と診断した。放っておいても癒《なお》るたぐいのものである。
しかし立川は適当な口実をつけて当分通わせることにした。
彼は晴美を媒体にして、佐久間になんらかの復讐《ふくしゆう》ができないものかと考えたのである。
晴美にはもとよりなんの怨《うら》みもない。彼女は例の交通事故のあとに佐久間と結婚したのである。だから彼女の夫が、立川の子供を轢《ひ》いたことを知らないはずである。
もし知っていたら、わざわざ立川のところへ診察を求めに来なかったであろう。
「奥さん、あなたの症状は神経性のものです。何か感情のもつれか精神的な負担があるために、症状がおこっているのです。長期戦になりますよ。まあ気長にやりましょう。こういう症例には焦《あせ》るのがいちばんよくないのです」
立川がいったとき、佐久間晴美は、一瞬ギョッとなったような顔をした。立川は彼女の頭に症状を顕《あら》わしている精神の緊張《しこり》に興味を持った。恵まれた中流の美しい人妻の心に、どんなしこりがあるというのか?
立川は、自分の専門分野のほかに、催眠法を適用した精神治療に大きな関心を持っていた。自分でもこつこつと研究をすすめ、彼の患者を対象にして、一般臨床的にもかなりの成果を上げている。
いままでの臨床例をもとにして、近く学会に報告してみようかと思っている。
立川は、最初なにげなく、晴美に他の一般患者と同様に催眠療法を試みた。
催眠は、被験者がバカであったり、最初から拒否的であると、かかりにくい。しかし患者というものは、医師に本質的な信頼をおいている。
自分の病気を早く癒してもらいたいから、医師の言葉を素直に聞き容れる。その意味で初めから最も催眠にかかりやすい状態になっている。
催眠は、初めての人間にはかけがたい。しかし晴美の場合は、立川の優秀な誘導と、医者と患者という関係から、最初から軽い夢中遊行《トランス》状態に導くことができた。
一度かかると、催眠者(暗示者)と被催眠者(被暗示者)のあいだに「ラポール」と呼ばれる親密な一種の心の橋ができて、次からかかりやすくなる。立川は何度か催眠療法を試みているあいだに、佐久間晴美が、高度の感受性をもつ被暗示者であることに気がついた。
そのうちに、立川の一言の暗示や、ちょっとしたジェスチャーで、きわめて深い夢中遊行《トランス》状態に簡単に導けるようになった。
立川はその間に、晴美の症状の原因である心のしこりを探りだしていた。
立川が、晴美を催眠術にかけて探りだしたところによると、彼女は結婚後、その男に会い、激しく愛し合うようになった。
どんなに激しく愛し合っても、それは世の中に受け容れられない、不倫の関係である。男との仲がのっぴきならないものになるにつれて、彼女の結婚生活がゆがみはじめた。さらに佐久間に、マゾの傾向のあることがわかり、それが、彼女の夫からの離反にいっそう拍車をかけていた。もはや彼女は男と別れることはけっしてできない。しかし、現在の安定した主婦の座も失いたくない。そこで葛藤《かつとう》がおきて、症状を顕《あら》わしたのである。
だが、晴美は、相手の男の名前を明かさなかった。立川が問いつめると、そこで催眠から醒めてしまうのである。男の名前を、公《おおやけ》にすることは、彼女の生活が根本から破壊されることを意味する。
そこに彼女の自衛本能が働いて、醒めてしまうらしい。立川はこの美しい人妻を盗んでいる男に、男共通の嫉妬《しつと》と関心を持ったが、強《し》いてこだわらなかった。
晴美が、夫と、男との板ばさみになって悩んでいることを知っただけでも大きな収穫である。佐久間の妻の美しい体を盗んだ男は、佐久間を殺したいほど憎んでいる立川にとって、不愉快な存在ではなかった。
——待てよ——
立川はそのときふと思ったことがある。自分が佐久間を殺したいと思っているのと同様に、晴美も夫がいなくなればと願っているのではなかろうか?
夫さえいなくなれば、彼の莫大《ばくだい》な財産を配偶者として相続し、しかるべき期間をおいたうえで好きな男と一緒になれる。そうすればもはやこんな相剋《そうこく》に苦しめられることもない。
安定した生活も維持できるし、好きな男と別れる必要もない。
要するに佐久間さえいなくなってくれれば、彼女にとってすべてがうまくいくのだ。自分が彼を憎む動機とは種類が異なっても、佐久間を消したいとする傾きは同じである。
もし佐久間が死ねば——それも他から強制された形で——晴美の不倫の関係は当然|公《おおやけ》にされ、彼女は厳しく処分されるだろう。
そして彼女が佐久間の死に原因を与えたものだとわかれば、その責任はぜったいに免れられない。彼女には動機があるのだ!
立川は自分の導きだした考えに、しだいに興奮してきた。
彼は、晴美を使って、佐久間に復讐することを考えたのである。彼女に催眠術をかけて、佐久間を殺すように暗示を与える。立川の催眠術にかけられ、トランス状態に陥った晴美は、自分の殺意を具体化するものと信じて佐久間を殺す。
彼女の背後に立川がいることは、だれにも気がつかれない。晴美には佐久間を殺す動機があり、自分自身の意志で犯行したことをかたく信じている。
犯行後、立川に暗示をかけられたことを、忘れるような暗示をかけておけば、もはやたぐりようがあるまい。
「彼女が犯行する時間に、自分は現場から遠く離れた場所でアリバイをつくっておけばよいのだ。文字どおり完全犯罪ではないか」
立川は、自分の考えに酔った。
「どうしていままでこんな素晴らしい方法に気がつかなかったのだろう?」
だがすぐ次の瞬間、そこに大きな障害があることに気がついたのである。
催眠トランス状態に陥っていても、暗示者から、人間として、してはならないようなことを命じられると、心の中に抗争がおきて醒めてしまうのである。
もし被暗示者がいとも簡単にそのような反社会的な暗示に従ったとすれば、それは彼あるいは彼女が生来的に犯罪者の性格を持っているか、精神病者の場合である。
晴美がそのような性格や病質でないことは、今までの催眠誘導の結果からわかっている。
彼女は、不倫の相手の名を聞くだけで、醒めてしまった。殺人という最も凶悪な犯罪を命じても、従わないことはわかっていた。
しかしまったく方法がないわけでもない。
辛抱強く何度も何度も、暗示と感情への訴えをくりかえして、徐々に犯罪暗示を受け容れる素地《したじ》をつくっていくのである。
いきなり、ナイフやピストルを握らせて、だれそれを殺せと命じても、従わないが、少しずつ憎しみの感情を植えつけておけば、心の中の道徳規範やタブーに対する抵抗力がかなり弱まってくる。
とくに晴美の場合、夫に不倫を隠していることによって、心の中に封じこめた抑圧が大きい。何かのきっかけでこの抑圧が破れたときに、容易に衝動的行動に走るのである。これは一種の犯罪者としての素地である。
晴美のような人間には、根気のよい催眠暗示によって、意識の障壁を取り除き、抑圧された欲望を噴火させることができる。
これの典型的な実例に「ハイデルベルヒ事件」といわれる催眠術を犯罪に利用したケースがある。
ドイツのフランツ・ワルターという男が、E夫人をハイデルベルヒのある家で深々度催眠に導いて、夫を殺すように暗示した。最初、夫人は抵抗したが、夫が他に女をつくったという嘘《うそ》の暗示を与えて、夫人が彼を憎むように仕向けていった。そして何度もくりかえしたあげく、夫人の意識の抑制を取りはずして、ついに彼女に夫の殺人行為を実行させた——というものである。
さらにこの犯行は、夫人に一定の合言葉を与えておいて、彼女がこの文字を読むと、すべての記憶を忘れてしまうという後催眠暗示を与えておいたことがわかった。
犯人は、催眠術を徹底的に利用して、被暗示者を、自己の意のままに動く完全な道具に仕立て上げてしまったのである。
しかし、それには時間がかかる。佐久間晴美をそういつまでも通わせることはできない。
晴美の背後に立川がいるということは極力伏せなければならないことなので、彼女に接触する回数もできるだけ制限しなければならない。
佐久間は妻が立川のところへ通院していると知っただけで、それを止《や》めさせるだろう。
急がなければならなかった。
10
立川は文献を漁《あさ》って、一つのトリックを考えだした。そのトリックは、腕の立つ催眠暗示者ならば、さしてむずかしいことではない。
今までは病気の治療のために催眠を利用していた立川にとっては、人を殺すための催眠は初めての経験であるが、自信があった。立川は、その目的のために、一般の診療が終わった土曜日の午後に、晴美を呼び寄せた。
「だいぶよくなりましたね」
立川は、内心の危険な意図を、患者を迎える医師の愛情に満ちた微笑で隠した。
「おかげさまで」
「まだこれからもときどき痛むことがあるかもしれませんが、あまり心配することはありませんよ。頭が痛くなったら、すぐご自分に言い聞かせるのです。『私の頭はすぐに軽くなる。余分な血は頭から出て行く。頭に血が上りすぎるのが頭痛の原因なのだから、余分な血が体のほうへ戻れば痛みも消える』と何回も言い聞かせるのです。わかりますね」
立川の言葉に、晴美は小学生のように素直にうなずく。すでに彼の催眠誘導ははじまっていた。
「それでは奥さん、目を閉じてください。私の言うことに心を集めてください。あなたはだんだんいい気持ちになります。あなたは何も考えない。何も聞こえない。私の話す言葉のほかは何も聞こえない。とても体が楽になりましたね。まるで雲に乗っているようです。もっともっと楽に、気持ちがよくなる。もう私以外の言葉は、まったく何も聞こえない、体中の力が抜けていきます」
これだけの誘導で晴美は早くも軽いトランス状態にはいってしまった。
すでに今まで何回も重ねた催眠誘導で立川と晴美のあいだにはラポールが完成されている。つまり催眠のためのレールが敷かれているから、きわめてスムーズに深いトランス状態へ導かれて行く。
「さあ雲の上で呼吸をしましょう。深く吸って吐いて、もう一度。眠くなってきました。ゆったりと気持ちのよい眠りです。眠りはどんどん深くなります。一から十まで数えますよ。それとともにあなたの眠りはますます深くなります。あなたはもう目を開けることができなくなりました。あなたの目蓋《まぶた》はしっかりと合わさっている。どんなに開けようとしても、私がいいと言うまでは開くことができません。これから私があなたの目を開くように言います。しかし、あなたの目は開かない。私の許可するまでぜったいに開きません。さあ言いますよ。目を開けなさい!」
立川に命じられても、晴美は顔のすじ一つ動かさなかった。これはすでに暗示者の言葉を全幅に信じ、彼の意見にコントロールされることを歓迎している証拠である。この場合、暗示者の意志に逆らって、目を開こうと努めることが、彼女にとっては苦痛なのである。
このような被暗示者は、暗示者にとって、容易に深い催眠へ導くことができるタイプである。
間もなく晴美は、深いトランス状態に落ちた。
「あなたの頭の痛みは、あなたの、日常ご主人に抱いている憤懣《ふんまん》や憎しみが、心の奥深く閉じこめられていることを原因にしているようですね」
「はい、そう思います」
「どうしてご主人を憎んでいるのですか?」
「主人は、私に人格を認めません」
「しかしご主人は、あなたを愛しておられる」
「人形のように可愛がっているだけです」
「たとえば?」
「なるべく家の中に閉じこめておいて、私を外へ出したがりません。夜の生活もいつも一方的で、私に動物のような姿勢を求めます」
「それはあなたを愛しているからじゃありませんか?」
「ちがいます。もし主人が愛しているとすれば、私の体だけですわ。私は主人との性生活で一度も満足を受けたことがありません」
「その不満が、外へ向けられたのですか?」
「あのひとにめぐり逢《あ》って、私にべつの人生が開けました。でも主人がいるかぎり、あのひとと一緒になることはできません」
ここであのひと[#「あのひと」に傍点]の名前を聞くと、催眠が醒《さ》めてしまうのだ。立川はべつの質問をした。
「どうしてご主人と別れないのですか?」
「主人はぜったいに離婚に応じないことがわかっております」
「ご主人がいなくなったら、というようなことを考えたことがありますか?」
「ああ、何度考えたことか。でもそんなことぜったいにあるはずがありません。主人はまだ男盛りで、健康そのものですもの」
「しかしこんな世の中だから、交通事故に遭《あ》うということもあるだろうし、不慮の災厄《さいやく》に巻きこまれることだって考えられるでしょう」
「そんなこと宝くじのような確率ですわ。もともと主人はとても用心深いたちですから」
「その宝くじの確率に、ご主人があたったら、あなたはとても嬉《うれ》しいですか?」
「それはとっても……」
「その確率を、もっと確実なものにしたいと思いませんか?」
「それ、どういうことですの?」
「つまり、ご主人の死ぬ確率を多くするのですよ」
「そんな方法がありますの?」
ここで殺人を暗示すると、催眠から醒めるおそれがある。
立川は、晴美の意識下の理性を迂回《うかい》した。
「ご主人は、あなたに動物的な体位を要求するということですが、具体的にどんな体位なのですか?」
「それは……」
なめらかに答えていた晴美が、ふっとためらった。トランス状態の中でも、羞恥《しゆうち》心がかすかに働いたのである。
「恥ずかしがってはいけません。もう一度、目を閉じましょう。私が一から十まで数えます。十を数え終わったら、目を開けてください。目を開けると目の前に大きな鏡がかかっています。そこにあなたとご主人の寝室での姿が映っております。そこにどんな姿が映っているか、正確に詳しく話してください。鏡はあなただけにしか見えません。あなたが忘れたいと願っているどんないやな場面も正確に話してください。どんなにいやなことでも話してしまえば、あなたの心はすっきりして、べつの人間のように楽な気分になれます。もう思い出しても、不愉快になることはありません。それでは数えます。一、二、三……さあ目を開けてください。鏡が見えますね、何が映っていますか?」
「裸の主人と裸の私がいます。主人は私に犬のような姿勢を取らせています。私はとてもいやなのですが、主人が無理じいをしています。主人はときどき、私に主人の体を噛《か》むように要求します。私が遠慮して噛むと、もっと強く噛むように言います。歯形がつくほどに、痣《あざ》が残るほどに、血が出るほどに、噛めば噛むほど、主人は動物のようなうめき声を出して悦《よろこ》びます」
ここで晴美は、ふたたび言いよどんだ。
「さあ、つづけて。鏡に何が見えますか? 話すと、楽になりますよ」
「主人は、私に笞《むち》を渡してそれで叩《たた》くように命じています。私がためらっていると、今度は綱で、縛るようにと言います。私が動かないと、熱い蒸しタオルを私に持たせて、体を押しつけてくるのです。火傷《やけど》ができるほど、熱ければ熱いほど悦びます」
佐久間にはマゾヒズムの傾向があることはわかっていた。それが晴美に催眠をかけるつど、エスカレートしている様子がわかった。立川は、佐久間の異常性愛を利用しようと考えたのである。
「主人は、私の……ああ言えないわ」
「さあ、ためらわないで。話せばすっきりしますよ」
「主人は私の××××を飲みたがるのです。主人は私の×××を体に塗りたがっています。そんな汚ならしい、そんな恥ずかしいこと、私にはとてもできません。主人は狂っています。変態性欲者なのです。私は主人とのセックスを考えると、肌が粟《あわ》だちます」
「ご主人は、あなたに苛《いじ》められるのを、悦んでいるのです。マゾヒズムと言って、異常性愛の一種なのですよ。普通の性的刺激には不感症となっていて、異性の意志に無条件に従い、その支配を受け、圧迫され、暴行を加えられることによって性的満足を得る色情倒錯なのです。だからご主人は、あなたがひどいことをすればするほど幸福を感じるのです」
「私はいやです」
「ご主人を悦ばせてあげなさい。それがあなたの幸せにつながるのです。ご主人はあなたからひどくされればされるほど悦びます。それはご主人の意志でもあります。今度ご主人と営みを持つとき、このナイフを秘《ひそ》かに持っていくのです。ご主人が撲《なぐ》れと言ったら撲りなさい。笞で打てと言ったら打ちなさい。最後に紐《ひも》で縛り上げて、動けないようにしておいてから、このナイフで、ご主人のこのあたりを突き刺してあげるのです」
立川は自分の心臓の上あたりを指し示した。
「ご主人は、そうされることを望んでおります。これは少しも悪いことではありません。夫婦の当然の営みなのです。そうすることによってご主人は最高のエクスタシーを味わい、あなたは、恋人と一緒になることができます」
「私にはできません」
晴美は激しく首を振った。このまま誘導をつづけると、醒めてしまうおそれがある。
「さあ、落ち着いて、ナイフをしまいましょう。もう一度、目を閉じましょう。静かに眠るのです。今度目を醒ましたときは、あなたはいま話したことを、全部忘れております」
立川は、晴美の額から目蓋《まぶた》にかけて静かに何回か撫《な》でおろした。彼は、あとわずかな誘導によって、晴美の意識下の障壁を取り除けられる自信を持った。
11
「ご主人は、あなたに傷つけられることを強く望んでおります」
立川は二日後の月曜日、一般診療を早目に終えてから、晴美の催眠誘導にとりかかった。間隔を短くして誘導するほど、ラポールは強くなる。立川にはすでに晴美の肉体を支配できる自信があった。
しかしこれほどのラポールができてもなお、情をかわした男の名前を言わない彼女に、その気持ちの傾きがなみなみならないものを感じた。
だがそれも、時間の問題と言ってよい。催眠者と被催眠者が、性が異なる場合は、その間のラポールは、容易に恋愛感情に転化するのである。それも被催眠者から催眠者への一方的な傾きとしてである。
トランス状態に導かれた人間は、うっとりとした気分になって、催眠者の言うがままになる。言うがままになることに快感を覚えるのである。これは恋愛感情そのものと言ってもよいくらいだ。
彼女が男の名前を明かさないのは、立川とのあいだのラポールよりも、その男との恋愛が強いことを示すものである。これに人妻としての自衛本能が加算されている。立川が思いきって彼女を犯さないのは(色情的な欲望によるよりも、いったん女は犯してしまえば、ラポールがいちだんと強化されて、催眠をかけやすくなる)、正体不明の男に晴美が逢ったとき、男との強い恋愛感情(これもラポールの一種)が、立川と彼女とのラポールに打ち勝つことを怖れたからである。
犯したあと、後催眠暗示によってその記憶を消しておいても、男とのラポールが思い出させないともかぎらない。
恋愛は、一種の強力な催眠現象である。自分の催眠力と、謎《なぞ》の男が晴美にかけた恋愛という催眠力のどちらが強いか、いまのところ立川にもわからなかった。
しかし、もう少し晴美に催眠誘導を反復して、ラポールを強化すれば、自分の催眠力のほうが強くなる自信があった。
「だから、ご主人を傷つけなさい。深く傷つければ傷つけるほどよいのです。よろしいですか。今度寝室にはいるときは、このナイフを持っていくのです。しかし、使用するときまでは、ご主人に見つけられてはなりません」
マゾヒズムが極端にエスカレートすると、自己保存に反することになるので、サディズムにおいて見られるような凶殺行為や、いちじるしい損傷は、例が少ない。
マゾヒストは、異性に傷つけられることによって性的快感を得るが、同時に、それが極端に高進した場合の不安と恐怖も持っている。
晴美がナイフを持ちこんだということを、佐久間が知れば、やはり警戒するにちがいない。だからその異常なプレーの最初の段階において、それを発見されてはまずかった。
「あなたはけっして悪いことをしているのではありません。ご主人に性のエクスタシーを与え、あなた自身を解放するために、ナイフをご主人に突き立てるのです。さあ、思いきってやってみましょう。できますね」
「わかりません」
「できる。あなたは必ずできる。自分で自分に言い聞かせてごらんなさい。『できる、できる。必ずできる』と」
「できる、できる」
「そうその調子、必ずできる」
「必ずできる」
「そのとおりです。もうあなたにはなんの障害もありません。いったん心を決めてしまったら、非常にすっきりしたでしょう。それはあなたが、妻としてごくあたりまえのことをしようとしているからです。さあ、このナイフを握ってごらんなさい。右手にしっかりと。握れますね」
「握れます」
「よく光っているでしょう。きれいな刃ですね、ご主人がこの色をとても好きなのですよ」
「はい」
「あなたはこのナイフを秘《ひそ》かに隠し持って寝室へはいります。ご主人を最初に固く縛り上げます。ぜったいに自分で解けないようにしっかりと縛ります。ご主人はあなたに、できるだけひどいことをするように命じるでしょう。そうしたらこのナイフを出して刺してあげなさい。ためらってはいけませんよ。刃を胸のここに向けてまっすぐに突きだすのです。さあ、やってごらんなさい。そう、まっすぐに勢いよく」
「主人は死なないでしょうか?」
「そんなことは問題ではありません。それはあなたの責任ではないのです。あなたはどの夫婦でも、寝室でやっていることを行なうのにすぎません。ご主人を刺すと、あなた自身も幸福になれます。私の言うことを信じるのです。信じられますね」
「信じます」
「よろしい。ご主人を刺したあと、私の家にすぐ電話をかけるのです。番号は覚えておりますね。21の4887です。シアワセと覚えなさい。あなたはこの番号をダイヤルすると同時にすべてを忘れてしまいます。私に会ったことも、私から教えられたことも、私の顔も。そしてあなたは幸せになれます。町で出会っても、もう私たちは見知らぬ他人です。あなたは私のたすけを必要としなくなっているのです。あなたはご主人とのセックスをいやがっておられた。しかしそれもおしまいです。あなたは、あなたの愛するひとと、素晴らしいセックスをすることができる。あのひとは今ここにいます。あのひとは私です。私があのひとなのです。あのひとはあなたに逢ったとき、いちばん最初に何をしましたか?」
「髪を優しく撫《な》でて、それから接吻《せつぷん》をしました」
「深い接吻ですか? 浅い接吻ですか」
「最初は浅く、次に深く……」
「そう、そのとおりです。私はいま彼です。彼はあなたの髪を優しく撫でます。唇に軽く接吻します。次に深く……」
晴美は、唇の中に立川の舌をねじこまれかけたとき、ちょっと体を硬くしたが、彼に背中を優しく撫でられると、ぐったりと力を抜いた。
「あなたは、あのひととセックスするとき、いつもリラックスする。なんの緊張もない。素晴らしい、なんて素晴らしいのだ。あのひとの手が、あなたの体に触れただけで、あなたは悦《よろこ》びに打ち震える」
立川は、晴美の唇を盗んだあと、ソフトに囁《ささや》きつづけながら、彼女を診療室の隅《すみ》のベッドへ誘導した。
「周囲にはだれもいない。あなたとあのひとの二人だけ。これから二人で心ゆくまでセックスを愉しむのです。静かにベッドに横たわり、おたがいに剥《は》ぎ合う。ああ久しぶりだ。愛し合う同士の抱擁はなんと素晴らしいのだ」
立川は、ゆっくりと晴美を剥いでいった。衣服の上から想像した以上に、彼女のプロポーションは見事であった。およそ弛緩《しかん》というものが見あたらない緻密《ちみつ》な肌《はだ》に、うすい脂がいきわたって、ぬめりを帯びた光沢を放っている。子供を産んでいない女の、張り切った肢体に、人妻としての豊潤と、不倫による緊張が巧みに配合されて、美しい錯覚のような造型を創りだしていた。
妻を失ってから、女の肌から遠ざかっていた立川に、男の餓えが、噴きださんばかりによみがえった。
彼が「素晴らしい」を連発し、「久しぶりだ」と言ったのは、彼自身の実感が多分にこめられていたのである。
「あなたはもうじゅうぶんに溢《あふ》れている。いつでもあのひとを迎え入れる準備ができている。あなたはもうほとんど待ちきれない。あのひとに『早く』とせがむ」
「早く、早くう」
ベッドの上に、ほとんど全裸に近い形に剥がれた晴美は、立川の方へ両手をさしだして、あえいだ。
「彼があなたに近づく。彼の指があなたを静かに愛撫《あいぶ》しつづける。あなたはもう少しもがまんできない。あなたは彼に、『入れて』と言う」
「入れて」
晴美は早くも眉間《みけん》にたてじわを寄せ、鼻の頭に汗を浮かべていた。立川は思いきって直截《ちよくせつ》的な言葉を彼女に言わせた。それはすでに彼女のトランスを深めるためではない。ふだんは慎みの矜持《きようじ》にキリッと身を鎧《よろ》っているこの美しい人妻に、あられもない、そしてどんな女でも、導入のときには言うであろう言葉を言わせることに、サディスティックな悦びを覚えていたのである。
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四年前の五月、佐久間宗一が立川力松の三歳になったばかりのひとり息子を轢過《れきか》した事実が浮かび上がった。付き添いの若いお手伝いが目を離した隙《すき》に車道に飛び出して、そこへ直進して来た佐久間の車に轢《ひ》かれたものである。
運転者側にあまり責任のない事故だったが、ひとり息子を殺された立川夫婦の悲嘆は、救いがたいものがあった。立川の妻は、この事件を苦にして、それから間もなく服毒自殺をしてしまった。立川は子供と妻を一度に奪われて、その家庭を破壊されたのである。
さらに佐久間晴美が最近、立川力松の診察を受けていた事実もわかった。立川が「精神治療」とか称して、催眠術を治療にとり入れていたことも明らかにされた。