いっぽう、もう一人の電話の所有者、石田安次郎は、佐久間夫婦とまったくなんの関係もなかった。
「立川が、妻子の復讐《ふくしゆう》のために、晴美を催眠術で操って、佐久間を殺させたのだろう」
というのが、捜査本部の意見の大勢になった。
「しかし佐久間は故意に轢《ひ》いたのではない。いきなり車道へ飛びだされて、だれが通りかかっても、ほとんど避けられなかった事故だと認定されたものを、怨《うら》むのは、いささかおかどちがいじゃないか」
という、しごくオーソドックスな反論が出されたが、ひとり息子を殺された親の心を考えた場合、じゅうぶん殺人の動機を形成すると一蹴《いつしゆう》された。
いっぽう、「21—4887」を鍵数字《キーナンバー》として、宮川教授による佐久間晴美の催眠分析はつづけられた。
それは人間の意識下に潜むものの帰趨《きすう》をめぐっての凄絶《せいぜつ》な格闘であった。犯人が高級な催眠技術を駆使して封じこめた記憶を、宮川教授は同じ催眠技術に頼って必死に呼び戻そうとしていた。
教授は、
「人間のいったん経験したことは、けっして忘れきれない。その経験は、無意識の中に保存されている」という心理学の法則を信じた。
無意識の中の記憶をたぐりだすために、教授は、晴美を深い催眠状態に導き、事件と関係ありそうな観念を与えては、連想の糸を引いた。
さいわいに鍵数字らしいものが発見され、晴美の背後の催眠者の正体を、ある程度予測できるようになったので、連想のための観念が与えやすい。
晴美はまず教授に与えられた「病気」という観念から「頭痛」を思い出した。つづいて、
㈰白衣—診察室
㈪栄町
㈫医院—眠い—快い
㈬ナイフ—夫—悦び
と次々に記憶をよみがえらせてきた。
——催眠者は白衣を着て、診察室の中にすわっている。その医院は栄町にある。そこへ行くと眠く、快くなる。やがて白衣の人間からナイフを与えられた。それで佐久間を突き刺しても殺人ではなく、相手に悦びを与えることになる。——
催眠者が与えた暗示が、ほぼ忠実に再生されて、催眠者の正体がほとんど正確に浮かび上がった。
催眠者は、まず立川力松にまちがいない。栄町には立川以外に開業医はいないのである。
だが教授は、催眠者の名前を正確に引きだそうとした。
「いまあなたは、21の4887に電話をかけました。そしてあなたはすべてを思い出しました。あなたは、それを越えていろいろ思い出しても、けっして死ぬことはありません。ほら、現になんともないじゃありませんか。あなたはピンピンしている。だからまだまだ思い出せる。その診察室の中の白衣を着たひとは、あなたに何を命じたのですか?」
「主人が悦ぶから、ナイフで胸を突くようにと」
「それから」
「主人を突いたあと、21の4887、シワ[#「ワ」に傍点]ワセへ電話するようにと」
「そのほかにその白衣のひとは、あなたに何かしましたか?」
「それから急に白衣の先生は、小堀さんになりました。小堀さんは、いつものように私に優しい接吻をくりかえしたのち、私の体の中へ静かにはいってきました。あのひととのセックスは、とても恥ずかしいけれど、最高でしたわ」
「あのひととのセックスが終わったあと、小堀さんと白衣のひとはまた別のひとになりましたか?」
「よくわかりません。霧のようにぼやけてしまって」
晴美は頼りなさそうに首を振った。
「さあ、よく思い出して。あなたはいま素晴らしい映画の試写会を一人で観《み》ております。映画の主演スターはあなたです。目の前にはシネマスコープのスクリーンが広がっています。さあいよいよ映画のラストシーンです。あなたは恋人と深い抱擁をかわしたのち、別れを告げようとしている。ところが、あなたが恋人だと思って抱いていたひとは、まったくべつの白衣を着たひとだった。いやこのひとこそ、あなたの本当の恋人でした。あなたはそのひとをあまり深く愛していたために、かえって名前を思い出せなかった。でも今はっきりとスクリーンに彼の顔が映っている。そのスクリーンはあなたにしか見えない。だれですか、そのひとは……?」
「ああ」と晴美はかすかなうめき声をもらしてから、
「立川先生」と言った。
13
ただちに逮捕状が請求された。この場合、逮捕状を発する要件に微妙なものがあった。請求の理由としての「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」としては、動機があり、催眠分析による数々のデータがある。
しかし、意識下の、なんとなくおどろおどろしたものを、これまた催眠術などという妖術《ようじゆつ》めいたもので引っ張りだしてきても、客観的な資料と、条文の四角四面な解釈だけを重んじる裁判官が納得するか、はなはだ怪しかった。
それに逮捕の必要性となるべき、被疑者の逃亡と、罪証|湮滅《いんめつ》のおそれがない場合は、逮捕の理由があると認められても、逮捕状の請求を却下されてしまう。
立川の場合、市内に住居を構えてそこに住んでいる。医師としての地盤も築いている。逃亡のおそれはまずなかった。残るは「犯罪の様態に照らして逮捕の必要がある」と押す以外にない。
ともあれ裁判官は、宮川教授の権威をかけた催眠分析の結果と、捜査本部が主張した逮捕の必要性を認めた。勇躍した捜査官たちは、翌早朝、立川力松の栄町の自宅に、その寝込みを襲ったのである。
午前五時、警察ジープに乗った数名の刑事は、立川医院の玄関と裏口から、いっせいに踏みこんだ。
表通りに面して患者待合室や薬局や診察室、裏手が居住区になっていて、全体にうなぎの寝床のような細長い建物になっている。
表からはいった刑事たちは、いくら扉《とびら》を叩《たた》いても、中から返事がないので、用意した道具で鍵《かぎ》を壊して押し入った。
裏手へまわった一隊は、通用口の鍵が壊れていて、そのまま放置してあったので、難なく中へはいれた。こちらのほうもいくら呼んでも返事がない。
「まだ眠りこけてやがるんだろう。踏みこもう」
はやりたった刑事が戸口に手をかけて、鍵が壊れていることをはじめて発見した。
「呑気《のんき》なやつだな。開けっぱなしで寝てやがる」
「細君に先だたれてからずっと鰥《やもめ》暮らしをつづけていたそうだからな」
刑事はささやきかわしながら中へはいった。台所と居間、寝室は二階らしい。刑事の一人が階段の上を指した。
まさか凶器を構えて待ち伏せているとは思わないが、最高に緊張する一瞬である。
二階へ踏みこんだ刑事たちによって、立川力松はベッドの中に発見された。発見されたというのは、せっかくたずさえた令状をすでに執行できない状態になっていたからである。
立川力松は、自宅のベッドの中で心臓を鋭利な刃物で一突きにされて死んでいた。犯人の遺留品もなく、とくに盗まれたようなものもない。急報によって駆けつけた鑑識係が、犯行時間は午前二時前後と推定した。死体がまだなまなましいので、この推定は解剖してもあまり動かないはずだと、鑑識係は自信を見せた。
14
捜査本部は、とほうもない事件の展開に、誇張ではなく青天の霹靂《へきれき》のような衝撃を受けた。
長い捜査と催眠分析の結果、ようやく浮かび上がらせた唯一の容疑者を、逮捕寸前に何者かに殺されてしまったのである。
最初のショックがおさまると、次に怒りがこみあげてきた。
いったいだれが、立川を殺したというのか?
解剖の結果、犯行時間は、鑑識の第一所見と一致した。犯人を推定させる新しい資料は見つからない。ちょうど眠りの最も深い時間なので、目撃者もなかった。立川に動機を持つような人間も浮かんでこない。
「あの裏口の鍵は、犯人が壊したものだったんだな」
逮捕におもむいた刑事がくやしそうに言った。腰原は、その刑事の言葉に、ふと触発されたことがある。
「立川を殺したやつはナガシではない。動機を持っていそうな人間も見当たらない。とすると立川はなぜ殺されたのか?」
腰原は、そのつぶやきを捜査部員に対する問いかけにした。だれも答えない。何も答えは期待していなかったように言葉をつづける。
「立川は、佐久間殺しと関連して殺されたと考えたらどうか?」
何人かがウッとうめいたような声をあげた。佐久間殺しとの関連といえば、まだあの事件に関係している者がいることになる。
しかしまず犯人として被害者の妻の晴美があがり、次いで催眠分析の結果、彼女の背後に立川の存在が明らかにされた。もしまだ立川の後ろにだれかいるとすれば、これは二重三重構造の犯罪ということになる。
「いまのところ立川の周辺に、動機を持ちそうな人物は浮かんでいない。もし立川が、佐久間殺しに関連して殺されたとすれば、彼に生きていられては都合の悪い人物がいたことになる。なぜ都合が悪いか。いうまでもなくそいつが真犯人だからだ」
「しかしそれは係長、考えすぎじゃないですか? 小説ならばそういうことがあるかもしれないけれど」
部下の一人が反駁《はんばく》した。かりに立川の後ろにだれかがいるとしても、彼(あるいは彼女)はいったい、事件にどんな役をつとめたというのか?
「そうだ、これはたしかに小説的な考え方だ。しかし立川に生きていられては都合が悪いという事情は、必ずしもそいつが佐久間殺しの真犯人である場合とはかぎらない」
「というと?」
「つまりだな、何かの不利益がある場合だな。女がからむとか、金の分け前をめぐってとか」
「女……?」
部下の何人かがハッとした表情をした。
「立川に怨《うら》みを含むやつは佐久間殺しに関連しても考えられるんだよ。おれたちは今まで立川殺しの動機と、佐久間殺しを別々に考えていた。佐久間殺しに関連するといっても、必ずしも立川の背後に、別の犯人がいるってことじゃないんだ」
「するとそいつは!」
「すぐに小堀達男の行方を探してくれ。とっつかまえたら、昨夜のアリバイを洗うんだ」
直ちに小堀の勤め先とアパートに刑事が飛んだ。しかしその時遅く、刑事たちは手を空《むな》しくして帰って来た。
すでに彼の行方は、昨夜から不明になっていたのである。
「もっと早く気がつけば」
腰原は歯ぎしりをしてくやしがった。小堀は最初、晴美の情人であった。それが彼女が立川の患者となってから、催眠の力によって急速に立川のほうへ傾いてしまった。
催眠は、かければかけるほど、かけられればかけられるほど、かけやすくかけられやすくなるものである。
もとより立川は晴美を�復讐の媒体�として利用したにすぎない。しかし媒体であればこそ、両者のあいだに強いラポール(心のつながり)が必要だった。
晴美と小堀のラポールよりも、いつの間にか、立川とのあいだのラポールが強くなってしまった。晴美の小堀に関する記憶が先によみがえったのが、その何よりの証拠である。弱いラポールから先に抑制がはずれたのである。小堀は、人妻ながら、晴美との結婚を真剣に考えていた。それを立川に奪われたのだから殺したいほど憎んだのにちがいない。そしてそれがついに殺人の実行に高められたのだ。
15
小堀はひょっとすると自殺するおそれがあった。しかしそれにしても彼は、いったいどこへ行ったのか? 早速参考人として立ちまわり先や近隣署に手配を依頼したが、まだ網にひっかかった様子はない。
もともと参考人の手配は、大ざっぱなものだから、網をくぐろうと思えば、いくらでもくぐり抜けられる。
刑事の一人が「思い出の場所」へ行ったのではないかと言った言葉が、ヒントになった。女を奪われ、奪った相手を殺した男が、自殺するために最も行きそうなのは、女とデートをした場所ではないだろうかというわけである。
男よりも、むしろ女の心理にありそうなことだったが、男でもそういう気持ちになるかもしれない。
ただちに所轄署に連絡すると同時に、ジープに分乗して、御殿場のモーテルへ急行した。
一行がモーテルへ到着したとき、すでに救急車が来ていた。所轄署員が駆けつけたときは、すでに小堀は睡眠薬を大量に服《の》んで昏睡《こんすい》状態に陥っていた。
発見がわりあい早かったので、最寄りの病院へかつぎこんで手当てを加えた結果、きわどいところで、命を取りとめた。
いったん危機を脱すると、若いだけに回復が早い。二日後にはすでに取調べに応じられるようになった。
小堀は、最初から従順だった。腰原の訊問《じんもん》に対して、犯行の動機と状況を素直に自供した。
——ご心配をおかけして申しわけありませんでした。前にもお話しいたしましたように、私は佐久間晴美と深く愛し合っておりました。しかし、私たちのあいだに結婚の可能性は、ぜったいにありませんでした。彼女の夫が離婚に応じないことがわかっていたからです。晴美はあるとき、冗談とも真面目《まじめ》ともつかない口調で、「佐久間が死んでくれれば、私たちは結婚できるのに」と嘆いたことがあります。彼女はそのとき自分で言っておきながら、自分のなにげない発想にひどく愕《おどろ》いたような顔をしました。あのときから、彼女の夫に対する殺意は、徐々に固まっていったようです。しかし、彼女が夫を殺すことはできません。そんなことをすれば、彼女は殺人犯として捕まり、私たちの結婚の可能性は、ますますなくなってしまいます。
ところがある日、晴美は途方もない考えを抱きました。
「佐久間に、子供を轢《ひ》かれた医者が市内に住んでいる。彼はきっと佐久間を殺したいほど憎んでいるにちがいない」と言うのです。最初は何を言っているのか、意味がわかりませんでした。
ところが話を聞いているうちに、晴美が「その医者は催眠術の名人らしい。彼にいかにも催眠術をかけられたふりをして、佐久間を殺してしまえば、催眠中の行為だから、�心神喪失�として罰せられずにすむだろう」と考えていることがわかりました。「もともと医者には、佐久間を怨む理由があるのだから、自分は疑われずに、医者が罪をかぶってくれる。そうすれば佐久間の財産を無傷で相続できる」とも言いました。
私はそのときなんとなくいやな予感を覚えました。だいたい催眠術などという、なんだか得体のしれないものを利用して、そんなにコトがうまくいくはずがないと思いました。それに晴美自身の手が血で汚されることは同じです。
私はそんな凶悪なことを彼女にさせたくありませんでした。ところが晴美は、「これ以外に自分たちが一緒になれる方法はない」と言いました。私はけっきょくその言葉に押しきられてしまったのです。
晴美は計画どおり、夫を殺しました。しかしそのころから彼女の人格に変化がおこっていました。晴美は、催眠術を利用しようとして、実はそれに逆に利用されてしまったのです。医者に操られる意志のふりをして、医者に罪を着せるために、自分の意志で夫を殺そうとしたところが、完全に医者に意志を支配されてしまったのでした。彼女は催眠術をみくびっていたのです。
最初刑事さんから取調べを受けたとき、立川の存在を黙秘したのは、晴美の殺意を隠すためでした。しかし、そのときは手遅れで、私を愛するあまり、恐ろしい殺人までした佐久間晴美の人格は、完全に崩壊して、催眠術者に心身を支配された人形になっていたのです。いや、人形ならばあきらめもつきます。彼女は何度も立川から催眠をかけられているあいだに、しだいに彼を全身で愛するようになったのです。彼女はもはや私に、物を見るような目すら投げなくなりました。
晴美は、犯行後だれかに電話をかけて「幸福」だと言ったそうですが、それはまさしく立川に呼びかけたものであり、彼女の心は、まさに幸福そのものであったにちがいありません。
晴美の心の中は、立川だけで占められておりました。私のための余地など、まったくありません。彼女の胸から立川を駆逐して、ふたたび私のためのスペースを取り戻すためには立川の催眠から醒《さ》ます以外にありません。そしてそのためには、彼を殺す以外にないと考えたのです。
立川の家の裏口は、鍵がチャチだったので侵入は簡単でした。立川は、まことにあっけなく死んでくれました。彼が死んだあと、晴美と私との仲が永久に終わったことに気がつきました。本当にとんでもないことをしたと後悔しております。——
16
宮川教授の鑑定によって、佐久間晴美は、犯行時、深い夢中遊行《トランス》状態にあったことがわかった。
しかしたとえそうであったにせよ、催眠術を利用して夫を殺そうと決意したときは正気である。彼女は、あくまで自分の意志で立川に近づいていったのだ。
これは罪をのがれるために、犯罪を実行する前に酒を飲んだりして、一時的な心神喪失状態をつくりだすのと同じである。
酒を飲むときは、正気なのだから、けっきょく責任があることになる。刑法ではこれを「原因において自由な行為」として刑罰を科するに適当としている。
佐久間晴美の場合は、これに別の人間の殺意が加わった。それも晴美の意志を微塵《みじん》に打ち砕いて、原形を残さぬまでにしたあとに、催眠という現代の妖術《ようじゆつ》をもって、他人の人格の根底に、どっしりと自己の殺意を据《す》えたのである。
この場合でも、原因において自由な行為として罰せられるであろうか?
酒を飲んで酔っぱらったうえでの殺人でも、それは、あくまでも本人の意志の変形したものである。しかし晴美の場合、本人の意志によってはじめたことではあっても、途中で完全に崩壊して、原体《オリジナル》はまったく残っていないのだ。
裁判所も軽々《けいけい》に判断を下せないであろう。
宮川教授は、鑑定のあと、憮然《ぶぜん》としたおももちでつけ加えた。
「佐久間晴美の法律的な責任の有無およびその程度の判断は、専門家に任せる。しかしこの事件には三つの殺人があったことを忘れてはならない。
一つは佐久間宗一、二つめは立川力松、そして三つめは佐久間晴美の人格に対する殺人である、佐久間晴美はもともと犯罪者的素地を持っていたところに、反復継続的に暗示を与えられて、しだいにその人格を破壊されていったのだ。彼女はもはや佐久間晴美ではない。立川力松の人格が変換したものである」
晴美は法律の判断が下される前に、精神病院へ送られた。ちょうど二十五歳の誕生日を迎えた日である。
病院行きの車に乗せられたとき、彼女はにっこりと嬉《うれ》しそうに笑って、
「幸福《しあわせ》だわ」とつぶやいた。
[#改ページ]
精神分裂殺人事件
1
「あら! 私、瞬間湯沸器の点火栓《スイツチ》を、消してきたかしら?」
バス停のすぐそばまで来て、妻の志保子《しほこ》はふと思い出したようにつぶやいた。
「おい、冗談じゃないぞ」
彼女の前を一、二歩あるいていた大原《おおはら》は、耳敏《みみざと》くそのつぶやきを聞きとがめ、顔色を変えて振り向いた。それを見て「しまった!」というような表情をした志保子は、
「大丈夫よ、たしかに消したわ。私、なにかと勘ちがいしたのよ」
「なんと勘ちがいしたんだ?」
「なんでもないわよ、さ、もうバスが来るわ」
「もう一度見なおしたほうが、いいんじゃないのか」
「なに言ってんのよ。もう時間がないわ」
志保子は腕時計を覗《のぞ》いた。
「きみ、ここで待っていてくれ。ちょいと行って見てくる」
「あなた、遅れるったら!」
妻があわてて呼びとめたときは、大原はいま出て来たばかりの自宅へ向かって駆けだしていた。
大原|昇《のぼる》には、幼いときから、精神分裂病的な強迫症状があった。自分が決めた一定の順序やルールを大人が無意識に破ると、猛烈に怒り狂う。オモチャの置場所がわずか違ってもいけない。登校前の洗面や食事の手順が少しでも狂うと、もう一度寝巻きに着なおして起床からやりなおす。
大学へ通うようになって、下宿すると、下宿を出るときには電気ストーブの点火栓《スイツチ》をつけたり消したりしたあげく、どうしても、完全に消した確信が得られずに、そのそばにすわりこんでしまうことが何度もあった。
それでもけっきょく、下宿から出るが、今度は出先で、たしかに消したはずのストーブを、消さなかったような気がしてきて、下宿に電話をかける。大家《おおや》に知られると、追い出される口実にされるので、隣室に下宿している同じ大学の同年の友人、木村民男《きむらたみお》に見てもらう。
木村が「たしかに消えてる」と答えると、
「おまえは本当に見てくれたのか?」と疑う。
少しするとまた木村を呼びだして、
「だれかほかのやつがいたずらをして、消したスイッチをつけたような気がするから、もう一度見てくれ」と頼む。
そんなことが三回も四回も繰り返されるので、さすがに温厚な木村も、
「いいかげんにしろ」と怒ってしまう。
新聞で、電車の吊《つ》り皮とか、デパートのエスカレーターの手摺《てすり》などは黴菌《ばいきん》の巣窟《そうくつ》だという記事を読んでから、�不潔ノイローゼ�になった。周囲のものことごとくが汚なく見えてしかたがない。手を洗っても洗っても、黴菌が落ちないような気がする。
ともかくいちおう満足して、水道の栓《コツク》を止めると、今度はその栓に黴菌がついているような気がして、また洗う。タオルで手を拭《ふ》く。タオルが汚れているように思えてまた洗いなおす。こうして一時間でも二時間でも手を洗いつづけて、しまいには手の皮が白くふやけてしまうのである。
大原自身が馬鹿らしいことだと気づいていながら、本人にもどうにもならないのだ。
大原の生家が埼玉県T市の旧家で、両親が非常に厳格にしつけたために、分裂病の病前性格ともいうべき、劣等感の強い内閉的な性格が形成された。
大原の父親自身が、現実への柔軟な適応を欠いた、偏狭で杓子定規《しやくしじようぎ》的な、分裂性性格の人間であったのである。
しかし大学を出て、就職すると、大原の症状も急速に軽快した。
病的に几帳面《きちようめん》な性格は、成績には有利に働いて、就職にあたっては一流会社へはいれた。これによって、彼に多少の自信がついて、症状の軽減に役立ったようである.
彼は勤め先で、宗田《むねだ》志保子を知った。目が少し吊り気味で、下顎《したあご》が張って気の強そうな顔だったが、頭は抜群によかった。仕事はばりばりやって、部内では「女史」と呼ばれている。
こういうといかにもごつごつした女を感じさせるが、体の線に甘くふくよかなふくらみがある。また気の強そうな顔も、ヘアスタイルの工夫で、むしろ凜々《りり》しい面立《おもだ》ちになった。
女子高校を出て、すぐに入社した志保子は、大原よりも一歳年下であったが、社歴は三年先輩だった。
二人の仕事が密接していたので、大原は志保子から当面の実務をいろいろと教わることになった。
志保子は、大原を手取り足取るようにして教えてくれた。
「なんだ、女史はこのごろすっかり大原君の世話女房みたいになってしまったじゃないか」
と部内からひやかされるほどに志保子は、大原の面倒をみてくれた。
彼の感謝の念は、すみやかに、女へ向ける男の感情に転化した。もともと大原には、厳格な家庭に育って、母親の愛情に餓《う》えていたようなところがある。また志保子は、大勢の弟妹を持つ長女として生まれた関係から、男を弟のようにリードして世話をするのが好きだった。大原は一つ年長だが、彼女にしてみれば、年下のような気がした。
彼らがすみやかに接近したのは、それだけの性格や環境の素地《したじ》があったわけである。
2
新婚旅行の初夜から、大原は志保子にイニシアチヴを取られっぱなしだった。
童貞だった大原は、およそ見当ちがいの動作を、法律的に自分のものとした女体に加えた。
「ちがうわ、そこじゃないわよ」
志保子は痛そうに眉《まゆ》をしかめて、大原に聞こえないように、「下手《へた》な人」とつぶやいた。
今まで彼女が秘密に交渉をもった何人かの男たちは、けっしてこんな稚拙な動きをしなかった。
まあ、これはこれで、夫となった男の純真さを示すもので、微笑《ほほえ》ましいことだったが、それにしてもなんとまあ!
けっきょく、志保子が、手を添えてやって、ようやく第一回の導入を果たしたのである。
甘えん坊の夫と、男まさりの妻。これはうまくいくように見えたが、事実は逆になった。
志保子は、主婦の座につくと�姉《あね》さん女房ぶり�を発揮して、ことごとに大原を支配しようとした。食事も志保子の好みに統一され、テレビの選局権まで、彼女に奪われた。
大原の趣味は少ないが、わりあいハイブラウである。音楽もクラシックファンだ。ところが志保子は「女史」の体裁に似合わず、歌謡曲や演歌が好きである。
したがって、海外からめったに聴くチャンスのない名演奏家やオーケストラが来て、テレビ出演するときも、お涙ちょうだいの演歌を聴かされることになる。
そのくせときたま、お休み前のナイトショーや、艶笑《えんしよう》落語を愉《たの》しんでいると、
「あなたの趣味って、下劣なのね」
と言われた。
入社早々、職場の先輩として、親切に指導してくれた志保子は、妻となると、内助の功どころか、何かにつけて夫と競争して、彼を打ちひしぎ、男としての夫の面目を失わせるようなことばかりした。
「あなたって、だめねえ」
というのが、いつの間にか、志保子の口ぐせになっていた。彼女にしてみれば、悪気《わるぎ》で言っているわけではない。弱気の夫を発奮させるための�気合�のようなつもりなのだが、これがますます大原のコンプレックスを深めていることに気がつかない。
彼らは結婚と同時に、都心から一時間ほどの神奈川県下の団地に入居した。
「私、結婚と同時に家に閉じこもるなんて、いやよ」
と志保子が主張したので、経済的な必要はなかったが、当分|共稼《ともかせ》ぎをすることになった。会社だけはいちおう別のところに変わった。
内にとどまって家庭を支えるべき妻が外に出ているのだから、当然家庭は荒廃する。それは彼女の給料ではぜったいに償えない欠損である。
また大原が子供を欲しがっても、
「子供に隷属して女の最も実り多い時期を過ごすのは、まっぴらだわ。当分子供は産みたくないの」
と頑《がん》として、大原の要求を拒《は》ねつけた。避妊処置も神経質なほどに何重にも施した。
体温とオギノ式計算によって、�安全期間�を割りだしたうえに、錠剤とゴムで、二重三重の構えをとる。
一度、安全期間に大原が避妊具をつけずに交接したところ、終わったあと猛烈な勢いで大原の体を押しのけて、浴室へとびこみ、シャワーで洗滌《せんじよう》したものである。
彼は、その音を侘《わび》しく聞きながら、自分がいま交渉した女は、妻なのか、娼婦《しようふ》なのかと疑ったほどであった。
このころから、大原に例の強迫症状がよみがえってきた。
今日、久しぶりの休日に、あるデパートでやっているヨーロッパから来た名画展を見に行こうとしたところ、志保子が、なに思ったのか、一緒に行きたいと言いだした。
断わるべき適当な口実もないので、大原はふしょうぶしょうにうなずいたのだが、バス停まで来て、ふと彼女がつぶやいた言葉は、たちまち大原の強迫観念を誘発した。
いま出て来たばかりの我が家へ戻って、湯沸器を見ると、点火栓《スイツチ》は閉まっていた。
だが大原は、それをいったん点火にしてから、改めて閉じたのである。
「ガスは元栓《もとせん》を閉めただろうか?」
玄関を出かかると、次の疑惑が頭をもたげた。こうなると、もういけない。
「勝手口の鍵《かぎ》はかけたか?」
「テレビは消したろうか?」
「風呂《ふろ》場の水道は止めてあるか?」
次々に心配になってきて、もう一度改めて点検しなければ、気がすまなくなった。
おかげで名画展に遅れて、入場するのにえらく骨を折ってしまった。せっかく入場してからも、志保子がうるさくまつわりついて、ゆっくり鑑賞できなかった。
その夜大原は、志保子に挑《いど》まれた。名画展の雑踏にもみしだかれて、彼は疲労|困憊《こんぱい》していた。とてもそんな気になれなかったが、挑まれて応じられないとなると、ますます妻の軽蔑《けいべつ》をかいそうになるので、無理をして自分を奮い立たせた。
その夜彼女は、何に興奮したのか、いつもとは異なった体位を求めた。もともと気の進まなかった大原は、無理な姿勢に耐えられずにみるみる萎《な》えた。
志保子は、いろいろと工夫して、彼をもう一度可能な状態に戻そうとしたが、彼女の工夫が大原のいや気をますます誘って、ついによみがえらずに終わった。
「あなたって、なにをさせても、だめなのねえ」
志保子は欲求不満を剥《む》き出しにして言った。今まで彼女は、閨房《けいぼう》の中では、その言葉を言わなかった。それが男を本当にだめにする禁句であることを知っていたからである。
それが体に点火されたまま、不完全燃焼の状態で放り出された不満から、ついこの禁句を吐いてしまったのである。
以来、大原は性交不能に陥ってしまった。
3
志保子という女は心から意地の悪い女だった。
大原の唯一の趣味である名画見学も、彼の強迫観念を知っていて故意に彼女が誘発して遅らせたのである。
たとえばこんなことがあった。大原はゴキブリが大きらいである。あの長い触角を振り立てた茶羽色の虫体を見ると、嫌悪《けんお》のあまり貧血するくらいだ。
それがある日、彼のベッドのそばに五、六匹かたまってうごめいていた。
彼が殺されかかったような悲鳴をあげて、妻を呼ぶと、
「なによう、男のくせにだらしないわね。新製品のゴキブリトラップを買って来たのよ。よくかかるわね」
と嘲笑《あざわら》うように言って、ゴキブリのはいった虫カゴのようなものを持ち去っていった。彼女は、大原のゴキブリぎらいを知っていながら、ゴキブリ取りを彼の寝床の近くに仕掛けたのである。
意地悪は彼一人に対してだけではない。お菓子を買って来て、近所の子供たちを呼んで分けてやる。そこまではよい。だが最後に一人分だけ、故意に不足するように分けるのだ。
「ごめんね、あなたの分はなくなっちゃったのよ」
とうす笑いしながら、一人だけもらい損ねた子供の顔を覗《のぞ》きこむ。彼女は子供の心を傷つけて愉しんでいるのだった。
もともと潜在していた底意地の悪さが、性的な欲求不満を償うために、表面に押し出されてきたのである。
だが志保子は離婚を申し出なかった。
「おれは、もう男として役立たずになっちゃったんだから、離婚してやりなおしたら。きみはまだじゅうぶん若いんだ」
と大原が言っても、
「なに言ってんのよ。あなたの不能は一時的なものよ。焦らずにゆっくりやれば必ず癒《なお》るわ。気にしない、気にしない」
と受けつけなかった。志保子の魂胆は見え透いている。彼女が大原を愛していて、離婚に応じないのではないことは、明らかであった。
彼女は、大原の財産を狙《ねら》っているのである。彼の生家は、T市の郊外に広大な山林と土地を所有している。従来は大した地価ではなかったが、首都圏のベッドタウンとして市周辺が脚光を浴びてから、数十倍に値上がりした。
生家の保有する不動産評価額は、少なめに見積もっても、十億円近くとされている。
大原は、この家の次男坊だった。生家は長男が継いで資産を管理している。彼には多少の土地が分けてもらえるはずであった。
ところが事情が変わった。長男がガンになって急死したのである。他に兄弟はない。長男に子供もない。彼はこの莫大《ばくだい》な財産を、兄嫁の取り分を除いて三分の一を相続することになったのである。兄嫁に三分の二も取られたのは残念だったが、三分の一でも三億円以上である。
それが、いま離婚すれば、雀《すずめ》の涙の慰謝料でごまかされてしまう。三億円の資産家の妻という地位は、めったなことでは捨てられるものではない。夫の代わりはいくらでもあっても、三億円の代わりはないのである。
大原は、志保子の魂胆が見え透いているだけに、ますます彼女がきらいになった。
「おれが不能になったのは、あいつのせいだ。他の女ならば可能かもしれない」
と思って志保子に内緒で、何度か浮気を試みた。しかしいつも肝心なときになると、妻の「あんたってだめねえ」という言葉が、耳によみがえってきて、本当に不能《だめ》になってしまうのである。
「あいつと離婚しないかぎり、おれの不能は癒《なお》らない」
と大原は思うにいたった。それに、愛情の一片もない、財産目当ての妻に、先祖が残してくれた貴い遺産を分けてはならない。そのためにも離婚しなければならない。
しかし志保子に現在不貞を働いている様子はない。
彼女のほうから離婚を請求していないのだから、当面の口実もない。
大原は思いあまって弁護士に相談した。
「そうですな」
弁護士は、首をかしげて、
「奥さんが、離婚に合意しないかぎり、あなたの場合はむずかしいですな」
「性交不能ということは、結婚生活を継続しがたい重大な理由ということになりませんか?」
「法律でいう性交不能というのは、男性の性的無能力や巨根、女性の膣《ちつ》欠損症などの先天的性器障害、その他一方的な異常性愛の強要、つまり、相手の合意を得ないサド、マゾ行為ですな。まあこういうことが性交不能として、『重大な理由』にあげられるのですが……」
「それでは、私はあてはまるわけですね」
「まあこれは医者の分野にはいることですが、あなたの性交不能というのは、後天的なもので、精神的原因による一時的な症状のようです。治療が可能な場合は、離婚は認められませんね」