「しかし妻は私に愛情をまったく持っておりません。私の相続財産だけが目当てなのです」
「愛情は二人だけの問題で、法律は立ち入れませんからね、あなたは愛していないと言い張っても、奥さんが愛しているんだと言えば、それを信ずる以外にありませんよ。だいたい日本の民法は、離婚に消極的で、いったん結婚した男女は、なかなか別れさせないようにしておりますのでね」
けっきょく、志保子のほうから離婚を合意か請求しないかぎり、彼女が不貞でも働かなければ、大原の側からは離婚できないということがわかった。弁護士は最後に医者に診てもらうようにとすすめた。
三億円の財産をかかえた男の妻として、志保子が離婚に同意するはずがない。
残る唯一の頼みは、彼女の浮気の現場をつかむことである。配偶者の現在の不貞は、裁判上の離婚の原因になる。彼女は、大原の不能によって、性的にはかなり餓えているはずだった。
しかし、志保子は、三億円を前にして、そんなボロを出すような女ではなかった。いちじ興信所を使って行動調査をさせたが、怪しい点は少しもなかった。
大原は乗り物に乗ることに強い恐怖を覚えるようになった。
駅へ来る。乗るべき電車がホームにはいって来る。突然彼はその電車が、脱線したり衝突するのではないかという強い恐怖感を覚えるのである。
大原は、目をつむるようにして、とにかく電車へ乗りこんだ。乗ったときすでに百パーセント近かった乗車効率は、都心のターミナルへ近づくにつれて、定員の三倍以上もつめこまれて、「立錐《りつすい》の余地もない」といった状態になる。
しかしべつに珍しくもない、いつもながらの通勤電車内の現象であった。それだけの混雑の中にありながら、車内は静かだった。いずれも身動きできない満員すし詰めの走る密室の中で、じっとこの�苦役�に耐えている。
耐えているというよりは、あきらめきっていると言ったほうが正確かもしれない。どんなに文句を言っても、あがいても、電車が終点に着かないことにはどうにもならない。
乗客は、そういうあきらめの姿勢が、今日一日の労働のためのエネルギーを最も失わないということを知っているようであった。
彼らに周囲をぎっしりと囲まれて電車の動揺に身を任せていると、急に、いいしれぬ恐怖が大原に衝《つ》き上げてきた。
——こいつら、人間ではない!——
能面をつけたロボットが、まわりから彼の一挙手一投足をじっとにらんでいた。
「たすけてくれ!」
大原はいきなり叫んだ。
「どうしたのよ」
そばにいた志保子が愕《おどろ》いて聞いた。頬《ほお》が少し紅潮しているのは、自分の連れが、急に気ちがいじみた叫び声をあげたので、恥ずかしかったのである。
「みんながおれをにらんでいる。こいつら気ちがいだ。おれを殺そうとしている」
大原は叫びつづけた。「立錐の余地もなかった」はずの車内が、大原を中心にして半径一メートルほどの空間をあけた。
「なんだ、どうしたんだ?」
「気がおかしくなったらしい」
静かだった乗客のあいだにざわめきがおきた。「あなた、おねがい! みっともないから静かにしてよ」
大原と一緒に円の中心に残された志保子は、彼の身を案ずるよりも、恥ずかしさに身を竦《すく》めて、彼に訴えた。
「おい、降ろしてくれ、おれをこの電車から出してくれ! さもないとおれはこいつらに殺されてしまう」
大原はわめきつづけた。
4
医師から、軽い不安神経症と診断された大原は、一週間の静養を言いわたされた。
電車に乗りさえしなければ、彼の症状は出なかったのだから、�会社ノイローゼ�の一種にはちがいない。
大原のようなタイプの症状が、サラリーマンのあいだに激増しているために、医者は、大原の分裂病の症状を軽く見過ごしてしまったのである。
ほぼ時を同じくして、大原の憔悴《しようすい》が激しくなった。まず食欲がなくなり、何をするにも気だるい全身の倦怠《けんたい》感を覚えるようになった。
最初のあいだは、大原も「不安神経症」によるものと考えていた。ところがそのうちに胃のあたりに激痛を覚えるようになった。食後一、二時間すると、錐《きり》をもみこまれるような鋭い痛みが起きる。
その他強いむねやけや、酸っぱいおくびがしきりにあった。ときたま食欲のおきることもあったが、食後の痛みを考えると、つい食事の量をひかえてしまうので、痛みはますます激しくなった。
もはや妻とのセックスは、精神的だけでなく、肉体的にも不能になりつつあった。
「あなたって、いつもどこかが具合が悪いのね」
志保子は鼻の頭にしわを寄せて嘲笑《あざわら》った。例の事件があって以来、彼女は大原とぜったいに一緒に外出しなくなった。
「もしかしたら、ガンかもしれない」
「まさか!」
志保子は、頭から取り合わない態度を示したが、もしそうであったらありがたいといった表情がチラリと走ったのを、大原は見のがさなかった。
すでに相続は開始している。いま大原が死ねば、彼が相続した三億円の資産は、そっくり志保子のものになる。彼女が言った「まさか」には、否定ではなく、確率のうすい可能性に向けた願望がこめられていたのだ。
「いや、この痛みは、まさにガンの痛みだ」
大原は、志保子の表情をうかがいながら、言った。
「あなた、ガンの痛み知ってるの?」
「いや、人から聞いたんだ」
「だったらそんなこと、わかるわけないじゃない」
「うちの家系にガンは多いんだ。現に親父も兄貴もガンで死んでいる」
「ガンは遺伝しないっていうわ」
「ガンそのものは遺伝しなくとも、ガン体質は遺伝するそうだよ」
「それなら、素人《しろうと》考えで、ひとり心配しているより、ちゃんとした医者に診てもらえばいいじゃないの」
志保子は急に真剣な顔つきになった。彼女にとってもこの診断は、非常に重大な結果をもたらすことに気がついたのである。
そう言われてみれば、ここのところの大原の憔悴ぶりは、異常である。単に気のせいではかたづけられないほどに肉が落ちてきた。
大原が本当にガンになってくれたら、どんなに嬉《うれ》しいことか。三億円を手にして、天下晴れて、好きな男をより取り見取りできる。
大原の不能によって、志保子の性的欲求不満は堆積《たいせき》されている。しかしこの大切な時期に浮気をして、離婚原因をつくれば、せっかく目前にした三億円が、ふい[#「ふい」に傍点]になる。
だから歯を食いしばるようにして、かたく身を律してきた。
彼さえ死んでくれたら、この尼僧のような生活ともおさらばだ。
「とにかく、ひとりでくよくよ心配していてもはじまらないわ。一日も早く医者に診てもらわなければだめよ。私、いい医者を知ってるわ」
「うん、そのうちに行ってみよう」
大原はなま返事をした。彼は実は医者へ行くのが恐《こわ》いのである。ガンを宣告されたときの自分を想像するだけで、体が竦《すく》んだ。
だがそのうちに苦痛が、恐怖に先行するようになった。胃部に感じる痛みは、医者へ行くのが恐いなどと言っていられないほど、増大してきたのである。
「志保子、おまえ、いい医者を知っていると言ったな」
大原は、ついに苦痛に耐えかねて、志保子に言った。
「ええ、女学校時代のお友だちのご主人で、消化器病の専門医よ」
「その人を紹介してくれないか」
「やっと診てもらう気になったのね」
志保子はうすく笑った。夫の苦痛を愉しんでいるような笑いであった。
できることなら志保子の紹介する医者などにはかかりたくない。だがとりあえず知り合いの医者はいない。友人にたずねるのも億劫《おつくう》なほど、痛みは急迫している。
医者がフリーの患者よりも、しっかりした紹介のある患者のほうをよく診てくれるのは常識になっている。
大原が志保子に紹介を頼んだのは、それだけ彼の症状が、切羽つまったことを示していた。
志保子が紹介してくれた野田《のだ》胃腸病院は、彼らが住む同じ神奈川県K市の郊外にあった。多摩《たま》川をへだてて東京に隣接するこの区域は、すべてが東京に傾斜していて、住人の大半も東京に職を持つサラリーマンである。
地元に対する愛着などは、ひとかけらもない。住所は寝るだけの場所にすぎず、生活の拠点は東京にある。したがって買物や用事がある場合は、すべて東京で用を足す。
そういう環境の中で野田胃腸病院は、住人を吸収するだけでなく、逆に都内から患者を引きつけていた。
腕と評判にそれだけのものがあったのである。小田急線M遊園駅で降りて、西部劇の書割りのようなチャチな駅前通りを抜け、高台のほうへ向かう。
東京方面の展望の開けた多摩丘陵の中腹に、野田胃腸病院の建物はあった。四階建てのかなり大きなビルで、まさに大病院の風格がある。
小さな個人病院を想像してきた大原は、病院の入口で足を少しためらわせた。立派さに気押《けお》されたのではなく、大病院にありがちな煩雑な手つづきを惧《おそ》れたのである。
大原は、ガンを恐れながらも、まさか自分がガンだとは思っていなかった。だからあまり大げさなことは、してもらいたくない。
とにかく中へはいると、今度は待っている患者の数に驚いた。かなり広い待合室にはいりきれず、椅子《いす》にアブレた患者は、立って自分の順番を待っている。
「これは待たされるぞ」
彼はそれだけで憂鬱《ゆううつ》が増した。しかし受付に名前を通すと、ほとんど待つ間もなく診察室へ通された。やはり志保子の紹介がきいたらしい。
「院長が直接診察いたします」
診察室の手前の小部屋で、まず看護婦が大原の訴えを要領よく聞く。カルテと一緒に送られた診察室の中で野田院長は待っていた。
やせて彫りの深いなかなかのハンサムである。院長というからもっと年輩の人間を予想していた大原は、相手の若さに驚いた。
大原とほぼ同年輩か、あるいは、もっと若いかもしれない。もっとも志保子の友人の亭主《ていしゆ》だというから、大原と同じ年格好でも不思議はない。
「大原昇さんですね」
野田はカルテから目を上げた。目と眉《まゆ》の間のせまった、いかにも鋭そうなマスクである。
野田はカルテにもとづいてさらに詳しい問診をしたのち、大原に上半身裸になるように命じて慎重に触診した。
「先生、いかがでしょう?」
ひととおり診おわった野田に、大原はおずおずとたずねた。
「そうですな」
野田は言葉を選んでいるようである。その気配だけで、大原の心配は爆発しそうになった。なんでもなければ、言葉を選ぶ必要はないはずである。
「胃のあたりに何かあるようですが、外から触《さわ》っただけですから、はっきりわかりません」
「な、何かあるというと、シコリのようなものでしょうか?」
大原は絶望のあまり視野が暗くなった。
「はっきりわからないと申し上げたでしょう。まあこれからカメラを入れたり、組織の検査をしてみないことには、結論は出せませんね。明日エックス線や尿の検査をいたしますから、これから看護婦の説明する注意を守るように」
野田は次の患者を呼び入れるように看護婦に命じた。大原は打ちのめされたまま、診察室を出なければならなかった。
これ以上いくら野田に食いさがっても、明言はしてくれないだろう。精密検査をしないかぎり、彼自身にも明言できないことかもしれない。しかし、彼が言った胃のあたりにある「何か」とは何か?
その正体がはっきりされるまで、患者の置かれる宙ぶらりんの苦しみは、まさに地獄そのものである。
「もしかしたら、おれはもう手遅れじゃないだろうか?」
ガンが外から見えたり、手で触れられるようになったら、すでに手遅れだという話を聞いたことがあったのを思い出した。
「野田が触れた何かは、ガンのしこりにちがいない。とするとおれは……」
病院からの帰途、大原はどこをどう歩いて駅まで来たか、まったく覚えがなかった。行く先もたしかめずに、来た電車に乗りこんだ。
中途半端な時間だったので、車内は空《す》いていた。
「野田が触ったところは、どのあたりだろうか? このへんか? いやもっとこっちだったようだ」
電車の中で大原は人目もかまわずシャツとズボンの合わせ目から手をさし入れて、腹のあたりをさぐった。
とくにしこりのようなものは、感じられない。しかし専門医の指には、異状の触感が伝わるのであろう。
目を宙にすえて、何かぶつぶつつぶやきながら下腹をなでさすっている大原に、近くにすわっていた乗客は気味悪くなったらしく、そっと席を移した。
「どうだったの?」
死人のような顔をして帰宅した大原に、彼の答えを予測したような表情で志保子がたずねた。
「何か腹のあたりにあるそうだ」
「あら大変!」
と言ってから、志保子はあわてて心配そうな顔つきをして、
「でもまだ、決まったわけじゃないんでしょう?」
「決まる? 何が」
「そのう、診断のことよ」
「それはこれからレントゲンだのなんだのと精密検査をしたうえでないと、はっきり診断はおりない」
「だったら、そんなに心配することはないわよ、きっと軽い胃潰瘍《いかいよう》よ。あなたは神経質すぎるのよ」
「これが心配せずにいられるか。おまえはおれが死んだらさぞせいせいするだろうがね」
「馬鹿なこと言わないで! 怒るわよ」
志保子は本当に顔色を変えた。大原はそれを本心を見通されたためだと解釈した。
数日間、精密検査に野田胃腸病院へ通ったのち、診断がくだった。
その日彼は一人で行く勇気がなかった。志保子に一緒に行ってくれと頼むと、
「まるで子供みたいね」
と笑ったが、それでもついてきてくれた。まったく信頼も愛情もない妻だが、このような場合、とりあえず頼れる身近な存在は、妻以外にはない。
病院へ向かう途中、大原はすでにガンを宣告された人間のような顔をしていた。
病院へ着くと、すぐに診察室へ通された。
「やっと結果が出ましたよ」
野田はにこにこして大原を迎えた。
「軽い胃潰瘍をおこしかけてますね。切る必要はないでしょう。内科的治療でじゅうぶんに癒《なお》ります」
「胃潰瘍ですって」
大原は暗黒の視野に日の光が射しこんできたように感じた。
「組織検査をしてもガン細胞は発見されません。しかしこれに安心して暴飲暴食はいけませんよ。潰瘍をおこしかけていることは、まちがいないのですから。おどかすわけじゃありませんが、慢性潰瘍からガンに変性するケースは多いのです。精神の緊張をなるべく避けて、感情のもつれなどは、努めて無いようにすることです」
「先生、本当に有難うございました。これにこりて、今後は諸事節制するつもりです」
大原は、喜びのあまり診察室から出るとき、足が地につかない。死刑を言い渡された囚人が、突然無罪放免になったような気分であろう。
「お薬をお渡ししますから、お連れの方をよこしてください」
看護婦がつけ加えた言葉すら、大原はよく聞いていなかった。
5
きっかけというのは、おもしろいもので、ガンの恐怖から解放された大原は、胃の苦痛もなくなり、長いあいだの不能からも、立ちなおった。
その夜、彼は寝室の中で突然可能な状態になった。自分自身もその�変異�を信じられない気持ちで、志保子に挑《いど》んだ。
「まあ、あなたったら、いったいどうしたの?」
志保子も驚きながらも、絶えて久しぶりのことに、おっかなびっくりに体を開いた。今までもどうかしたはずみに、多少可能へ近い状態を呈することはあった。しかし導入の構えをとっているあいだに萎《な》えてしまった。
このような場合、男にとって焦りと、前と同じようにまただめになるのではないかという不安が、最大の敵となる。
だが、今夜の大原には、ガンの恐怖から解放された喜びがあった。その喜びが、精神的な不能の原因を取り除いた。
「まあ、あなたったら、まあ」
少しも硬直の度合いをゆるめずに侵入して来た夫の体に、志保子は喜悦の声をあげた。
侵《はい》り終わってから大原は、自分が不能から完全に脱していることを悟った。今までの不能による断絶を取り戻すような勢いで、彼は久しぶりの妻の体を責め苛《さいな》んだ。
「志保子、わかったか!」
「わかったわ」
大原の蹂躙《じゆうりん》に任せながら、今夜の志保子も、長かった餓《う》えを存分に充《み》たしていた。
その夜から、彼らのあいだに夫婦関係が復活した。肉体的なつながりが精神のつながりをもよみがえらせるのか、志保子の大原に対する態度が優しくなった。
今まで常に大原を見下していたようなところがなくなって、何かにつけて彼を立てるようになった。
そのためにかえって彼のほうが、めんくらうことがある。
たとえば、テレビ欄を見ていて、大原の好みそうな番組があると、
「あら今夜九時から×チャンネルで�世界のオーケストラ�をやってるわ。今夜はフランスの××オーケストラよ」
と自分からすすめる。
「ちょうどその時間は、きみのすきな○○チャンネルの歌謡番組がはじまるんじやないのか」
「あら私なんかいいのよ。歌謡番組はいつでも聴けるけど、フランスのオーケストラは、このチャンスを逃がしたらなかなか聴けないもの」
「すまんなあ」
「何いってんのよ、あなたは私の大切な旦那《だんな》さまですもの。旦那さまの好みは妻の好みでもあるのよ」
また食事の献立てなども、極力、大原の好みに合わせて用意する。
「今夜はあなたの好きな水たきにするわ」
「しかしきみは、トリはきらいだったんだろう」
「このごろ好きになったのよ」
と、こういう調子である。
「あいつも、おれがガンになったかもしれないとおどかされて、急に亭主の価値を見なおしたのかもしれない」
大原は一人で悦にいった。
「志保子、おれ会社をやめようと思うんだが」
�ガン騒動�以来、会社は出たり、欠《やす》んだりである。三億の資産を持っているのだから、勤めをつづける必要はない。T市の生家からも、会社をやめて家へ帰るようにうるさく言ってきている。
ガン騒動の前には、持病の分裂病的ノイローゼで、かなりルーズな勤め方をしている。寛大な会社ではあるが、ようやく居辛《いづら》くなってきていた。
今までも何度かやめようとしたのだが、そのつど、志保子の猛烈な反対にあっていつも途中で沙汰《さた》やみになってしまった。
「今になって、田舎《いなか》へ行くなんて、ぜったいにいやよ。私、田舎のべたべたした人間関係は大きらい。一家|眷族《けんぞく》とのややこしいつき合いを考えるだけで、寒気がするわ」
と取りつくしまもなかった。
だが最近とみに態度を軟らかくしてきた志保子に、大原は沙汰|止《や》みにしていた話を恐る恐るむしかえした。
「それもいいわねえ」
志保子は拍子抜けするほどあっさりとうなずいた。会社をやめるということは、大原の生家に帰るということを意味しているのだ。
「きみ、本当にいいのか?」
大原はすぐには信じられなかった。
「いいも悪いもないわ。あなたがそうしたいなら、私はとめないわよ。考えてみれば繰り返しのきかない[#「繰り返しのきかない」に傍点]人生を、ままならない宮仕えで縛られることはないわね。私、賛成よ」
志保子は繰り返しがきかないという言葉を、なぜか強調して言った。
大原の胸にどすぐろい疑惑がわいたのは、そのときからである。
「このごろきみは、ちっともぼくの言うことに反対しないね」
「あら、そうかしら? 私、前そんなに反対した?」
「うん、いやそういうわけじゃないが、なんでもぼくの言うことを聞いてくれるので……」
「気味が悪いのね。じゃあ白状しちゃおうか」
「白状?」
「私、反省したのよ」
「反省、何を?」
「正直いって、私、今まであまりいい奥さんじゃなかったわ。あなたに病気の心配がおきて、初めてあなたの大切なことに気がついたのよ。あなたのいない私なんて考えられない。以前の私は、あまりにも自分のことばかり考えていたわ。だから私、あなたの病気がなんでもないとわかったとき決心したの。これからはあなたを中心にして生きようと。前の私はまちがっていたわ。今の私が本当なのよ」
「本当か」
「本当よ、信じて」
「よし信じる。だからきみもおれに本当のことを言ってくれ」
「これ以上の何を言えばいいの?」
「おれの病気は、本当に胃潰瘍だったのか? 実はガンじゃなかったのか?」
「まあ、あなたったら!」
「どうもおまえのこのごろの様子は、まるで客に接しているようだ」
「あなた!」
「ちょっとのあいだ滞在してすぐ帰って行ってしまう客をもてなすように、おれをチヤホヤしている。どうせ限られた寿命なのだから、好きなことをさせるようにと医者から言われたんじゃないのか」
「ひどい思い過ごしよ」
「そういえば、医者が診断を下したとき、あとでおまえだけが、薬が出るからという理由で診察室へ呼び戻されたな。そのときおれが、ガンだと告げられたんだろう」
「あなたって、いつの間にそんなに想像力がたくましくなったの? サラリーマンになるより、小説家になったほうがよかったみたい」
「話をちゃかさないでくれ。志保子、おねがいだ。本当のことを教えてくれ」
大原は妻の手をおさえて、上半身を揺すった。
「本当にも何も、あなたは胃潰瘍よ。それ以外のなんでもないわ」
「おれは本当のことを打ち明けられても、けっしてうろたえたりなどしない。だから教えてくれ。いつまでの命なんだ?」
「そんなに私の言うことが信じられないんだったら、ほかの医者に診てもらったら」
「どの医者に診せたって、患者に本当のことは教えないよ。だが真実を知りたいんだ」
「あなたは胃潰瘍よ。それも少し治療すれば癒る程度のもの」
「おまえにも医者にも、患者に真実を告げないということが、どんなに残酷なことかわかっていない。ガンならガンと言ってもらったほうがすっきりする。ガンかもしれないという恐怖に打ち震えながら、死期がいつ来るかいつ来るかと毎日を過ごしている患者の身にもなってくれ」
「そんなにガンになりたければ、ガンということにしたらどうなの。胃潰瘍も前ガン状態の一種にはちがいないそうだから」
それ以上大原がいくら問い詰めても、志保子から新しい情報を引きだすことはできなかった。
その夜から彼は、また不能に陥ってしまった。そればかりでなく胃部に痛みを覚えるようになった。それはガン細胞が全身に転移増殖するように、すみやかに広範な部分にひろがっていくようであった。
同時にしばらく鳴りをひそめていた感じの分裂病的症状が、また顕《あら》われてきた。夜よく眠れなくなり、体の部分に感電したような感覚を覚えることがある。
食事のときなど、必ず志保子に先に食べさせた。
「あなた、いったいどういうつもりなのよ!?」
ここのところ素直だった志保子が、腹にすえかねたように言うと、
「念のためさ」
「念のためって、どういうこと?」
「念のためは、念のためだ」
「私が毒でも入れたと思ってんのね」
「そう思いたければ思ってもいい」
そうかと思うと、二時間でも三時間でも鏡を見ているので、どうしたのかと聞くと、
「おれの鼻、おかしくはないか?」
「べつにどうもしてないわよ」
「少しずつ大きくなってくるような気がするんだ」
「まさか」
志保子が笑って相手にしないでいると、剃刀《かみそり》を持ち出してきて鼻の頭に押しあてようとした。
「危ないわ! いったいなんのつもりなの?」
「鼻が大きくなりすぎて、目のじゃまになるから、そぎ落とすんだ」
「あなた正気なの?」
志保子は、化け物でも見るような目をした。これはすでに単なるノイローゼ状態を越えていることを、ようやく悟ったのである。
だが、いつもこんな状態ばかりではなかった。
あい変わらずガンにおびえて、本当のことを打ち明けろと、志保子に迫る目の色は、真剣だった。
6
大原の体の症状は、ますます悪くなった。一時よくなったように見えた症状がぶりかえして、痛みや、時には便に血が混じることがあった。
食欲は完全に失われ、胃のあたりを押えると、何か全体にかたい感じがする。
彼は本屋から胃ガンに関する本を買ってきて、こっそりと読んだ。そこに記述されている胃ガンの症状には、あてはまるところもあり、あてはまらないものもあった。
が、とにかく胃ガンの症状に似たところがあるということは、大原に致命的なショックを与えた。
「おれはもうだめだ」
彼は簡単に結論を下した。もう会社どころではない。退職届は出していなかったが、もうやめたのも、同じことであった。
志保子も近いうちに退職する予定になっていたが、引き継ぎ事務があるとかでまだ出社している。
妻が出勤して留守のあいだ、大原はふと思いついたことがあった。彼は時計を眺《なが》めて、彼女が帰宅するまでまだ数時間あることを確かめた。
大原は、志保子の私物を入れてある箪笥《たんす》に近づいた。彼は、妻の私物の徹底的な検査をはじめたのである。
彼が探すものは、簡単に見つかった。上から二段めの小|抽斗《ひきだし》の中にネックレスやイアリングなどの装身具と一緒に、それはいとも無造作に入れてあった。
見つかるまでは、彼女が結婚と同時に持ってきた箪笥や戸棚《とだな》や小物入れのすべてをひっくりかえしてみるつもりだった大原は、求めるものがすぐ見つかったので、ちょっと拍子抜けがした。
それは日記帳であった。志保子には日記をつける習慣がある。日記は人に読まれることを意識してつけない。日記ならば彼女の本当の気持ちを偽りなく書きしるしてあるにちがいない。——と大原は思いついたのである。
当然そこには夫の病気に関する彼女の感情や、悲嘆あるいは喜び? などが書かれてあるはずであった。
黒いレザー表紙の、ポケット版の日記帳を手にした大原は、すぐにはそのページを開けることができなかった。
そこに自分の運命を宣告する言葉が、書きとめられてあるかもしれないのである。
思いきって当てずっぽうにページを開いた。
——×月×日、このごろ大原の憔悴《しようすい》が目だつ。どこか体のぐあいが悪いのか? そういえば食欲もめっきり減退してきた。一度医者にみせたほうが、いいのではないか——
問題の個所より少し前のページを繰ってしまったようである。さらに少し後方を開く。
——×月×日、大原はガンではないかなどと言いだした。ノイローゼもきわまった感がある。しかし現実に胃のあたりに痛みを覚えるらしいので、近いうちに野田先生のところへ診察に行かせよう。これ以上悪いところができては、困るから——
いよいよ問題のページに近づいてきたようである。彼は今度は目を閉じて、さらに後方のページを開いた。手探りだが、まずこのあたりに医者の(志保子に言った真実の)言葉が、書かれてあるはずである。
大原はなかなか目を開くことができなかった。しかし開かないことには、事態は一歩も進展しない。
彼は思いきって目を開いた。
——×月××日。私は今日ペンを取るのが辛《つら》い——
その文字が、まず凶器のように大原の目を突き刺した。なぜペンを持つのが辛いのか? その理由を大原が読みすすむのは、志保子がペンを取ったときの苦痛よりももっと辛かった。
だが彼は真実を知るためにはその先を読まなければならなかった。
——野田先生に精密検査の結果を聞いた大原は、晴ればれとした顔つきで診察室から出て来た。やはりなんでもなかったのだ。私も緊張から解放されて表情が弛《ゆる》むのを覚えた。
だがその直後に私だけ診察室へ呼ばれたとき、いやな予感がした。
野田先生は、そこに厳しい表情をして待っていた。
「奥さん、気をしっかり持ってくださいよ」
と言われたとき、「ああやっぱり」と、私は目の前がまっ暗になるのを感じた。大原は、悪性のガン細胞がすでに肺に転移していて手遅れだということである。
「せいぜい保《も》って七、八ヵ月」という野田先生の言葉だけが、いつまでもガァーンと私の耳の底に反響している。
「奥さん、しっかりしてください。ご主人には何も言ってない。あなたがそんな顔つきをしていたら、すぐに気取《けど》られてしまう。辛いことでしょうが、いつもと変わらない態度で接するのです。どうせあといくらもない寿命ですから、好きなことをさせてあげなさい」
呆然《ぼうぜん》自失している私を、野田先生は励ましてくれた。私はこれから、夫の残されたわずかな人生のために、必死の演技をつづけなければならないのだ——
まだ文章は纏綿《てんめん》とつづいていたが、大原はそれから先へ読みすすむ気力を失ってしまった。立っていられなくなって、その場にうずくまった。絶望のあまり視野が暗黒になったが、それもガンによる貧血が助長したような気がした。
「おれはやはりガンなんだ」
大原は目を虚《うつ》ろにみひらいてつぶやいた。彼の耳は、自身のつぶやきすら聞こえなかったのである。
7
「あまり馬鹿なことを考えるもんじゃない」
木村民男は笑った。笑いながらも、久しぶりに会った友人の、異常なばかりの憔悴ぶりに、一瞬ギョッとなったものである。
大学時代、同じ下宿に隣り合わせに住み、大原の分裂的性格にはずいぶん悩まされたものだが、いま会う彼は、その異常性格のせいだけではない、明らかな肉体的トラブルによるもののような憔悴が目だった。
「おれはガンなんだ」
といきなり言いだされても、木村がすぐに打ち消してやれなかったのは、そのためである。
「気休めは言わないでくれ。とにかくおれはあと何ヵ月も生きられない。女房は、表面は殊勝に振舞っているが、内心はおれの死ぬのを待っているんだ」
「まさか」
「ほんとだ。あいつおれの財産を狙《ねら》ってるんだよ。おれがもし死ななければ、毒を盛りかねない」
「おいおい、被害|妄想《もうそう》も度が過ぎるぜ」
木村は、旧友の分裂がかったところも、肉体の憔悴と比例して進行していることを認めないわけにはいかなくなった。
痩《や》せて頬骨《ほおぼね》の突き出た、骸骨《がいこつ》のような顔の中央でぎらぎら光っている大原の目は、どう見ても平常ではないような気がしてくる。
「いや妄想じゃない、あいつならやりかねない。いや必ずやる。おれには、夫婦として一緒に暮らしただけに、あいつの心の中が見えるんだ」
「そんな話だったら、おれはもう行くぞ」
木村は立ち上がるジェスチャーをした。ここは、地検の近くの喫茶店である。
木村は卒業と時を同じくして司法試験を通り、各地の地検を動いたのち、このK市の地検に来ていた。
どこでどう知ったのか、卒業以来会っていなかった大原が、突然訪ねて来て、彼もこの市に住んでいると言う。
木村は奇遇を喜んだが、考えてみれば、東京のベッドタウンとしてのK市に同学の友人が二人や三人いても、不思議はない。木村も、東京入りのレールとしてこの地検へ来たのである。
「ま、待ってくれ」
大原は慌てて引きとめた。
「今日ここへ来たのは、ちょっときみに相談したいことがあったんだ」
「法律問題か」
「まあそんなところだよ」
「言ってみたまえ」
同学の友も、長い断絶の時間をおいてから現われるのは、たいてい久闊《きゆうかつ》を叙すのが目的ではない。木村の場合、その職業がら、法律相談が多かった。
「もし、今ぼくが……」
大原は、そこで言いよどんだ。ここまで来ながら言っていいものかどうか、ためらっている様子である。そんなところも法律相談に現われる友人に共通している態度である。
「いったいなんだね?」
木村は大原に悟られないように、ティーテーブルの下で腕時計を覗《のぞ》いた。まだ多少の時間のゆとりはある。
「もしぼくが、女房をいま殺したら、正当防衛にならないだろうか?」
「な、なんだって!?」
木村は、底のほうに少し残っている冷えたコーヒーをすすろうとして、取り上げたカップを危うく落としそうになった。
「女房がぼくを殺したがっていることは明らかなんだ。だから殺《や》られる前に殺《や》っつける。これは正当防衛にならないかね?」
どうやら大原は大まじめで言っているようである。
「きみ、あまり馬鹿なことを言っちゃいかんよ。正当防衛というのは、そんなものじゃない。そんなことをすれば、殺人になる」
「殺人? しかし女房はぼくを殺そうとしてるんだぜ」
「そのはっきりした証拠でもあるのか?」
「証拠はあるよ。それはぼくさ。夫婦としてぼくには、あいつの殺意がよくわかるんだ」
「そんなもの、証拠にはならんよ。正当防衛というのは、急迫の、つまり現在のさしせまった違法の侵害に対してのみ成立するものだ。過去や将来予測できる侵害に対する正当防衛はあり得ない。しかもきみの言う奥さんの殺意というのは、きみの被害妄想なんじゃないのか」