「へーっ、そうだったかな」
※[#丸付き数字「28」]「ジャン・クリストフの著者を知ってるかい?」
「トルストイだろう」
これは全然でたらめである。
※[#丸付き数字「29」]「フランス語で�今日は�ってなんて言うの?」
「グッド・モーニング」
※[#丸付き数字「30」]「あなたは自分のことを病気だと思うか?」
「そうだなあ、腹がよくへるから、虫でもいるんじゃねえかな」
※[#丸付き数字「31」]「いままで大きな病気をしたことがあるかね?」
「五年前に流産したことがあるね」
※[#丸付き数字「32」]「五と五を足すといくつ」
「十三」
※[#丸付き数字「33」]「十から二を引くと?」
「五だな」
※[#丸付き数字「34」]「人を殺すのと、ものを盗むのはどっちが悪いことかね?」
「ものを盗むことだ」
※[#丸付き数字「35」]「人を殺すのと怪我をさせるのは?」
「怪我させるほうさ」
※[#丸付き数字「36」]「強姦するのと、殺すのとでは?」
「どっちも悪いことじゃないさ」
※[#丸付き数字「37」]「それはまたどういうわけで」
「戦争ではみな平気で人を殺したり、女をやっつけたりしている。うんとやっつけたやつのほうが偉いのさ」
佐伯教授はここで第一回の問診を打ち切った。応答の内容は、非常にふざけたでたらめなものであり、痴呆《ちほう》的なものが大部分であった。
とくに道徳観念については、人を殺しても悪くないと本気で思いこんでいるらしい。
これはその人間が原始的な心性にあるもので、とくに作為している様子はない。
佐伯教授は、それぞれの設問に、通しナンバーを振って、その中でまともな回答と考えられるものだけを抽出《ピツクアツプ》してみた。
それらは、
㈯警察、㈲女、㈻女の部分、㈶好みの女、㈳好みの顔、※[#丸付き数字「21」]好みのヘアスタイル、※[#丸付き数字「22」]好みの女の年齢等の設問に対してである。
佐伯教授は、さらに、
※[#丸付き数字「34」]殺人と窃盗の罪質の比較、※[#丸付き数字「35」]殺人と傷害の比較、※[#丸付き数字「36」]殺人と強姦の比較、※※[#丸付き数字「37」]以上前三問の比較判断の理由について注目した。
これらの問診に対する答えは、いずれもまともではない。そのかぎりにおいて、他のガンゼル状態的な回答と同じである。だが教授は、これをガンゼル的に答えられたものとは考えなかった。
三谷は、捜査陣を愚弄《ぐろう》するためにこういう答えをしたのではない。三谷にしてみれば、これはまともに答えているつもりなのである。
つまり彼にとっては、殺人よりも、窃盗や傷害のほうが悪いことなのだ。
とくに※[#丸付き数字「37」]には、三谷の価値判断の基準が明瞭《めいりよう》に表わされていた。
したがって教授は、前群のまともな回答に、いささかニュアンスは違うが、後群の回答を加えた。
3
佐伯教授は、三谷順平個人の素質や性格等にわたってさらに詳細に調べた。
父親の職業は、すでにわかっているとおりU市内の個人商店に勤めているが、家計はとくに豊かではないにしても、子供たちに貧しい思いをさせるほどではなかった。とくに三谷の思春期には、父親は店の支配人格になっていたので、経済的に困るというようなことはない。それは順平に車を買って与えてやれる程度の余裕のあるものであった。
学校時代の成績は、中の下程度。四歳のとき階段から落ちて頭を強打し、病院にかつぎこまれたが、精密検査の結果、後遺症となるような損傷もなくすぐに退院した。これ以外に著患はない。
小学校時代から無口で人みしりが強く、友だちがなかった。とくに体育の時間をきらい、体育がある日は登校を拒否した。成績があまりよくなかったのは、そのようにして欠席が多かったせいもある。
旧制中学一年のとき、「生きているのがいやになった」とノートに走り書きして、硫黄《いおう》の粉末を水に溶かして飲んだが、失敗する。
当時戦争直後の混乱期で、近くにある旧軍需工場へ、悪友に誘われて軍需物資を盗みにはいり、警察に捕まる。そのときは軽い説諭だけで帰されたが、このときの経験が三谷にひどい屈辱を与えたらしい。
高校へはいるころから彼の自閉的傾向はいちじるしくなってきた。自室に閉じこもったまま、家族ともほとんど口をきかず、食事にも出て来ないようになった。
父親や兄が、無理に部屋から引っ張り出そうとすると、怒って荒れ狂い、手当たりしだいにものを投げつけて、手がつけられない。
母親が心配して、食物を部屋へ持っていくと、食器ごと、窓から投げ捨ててしまった。
自室には、「順平以外入室厳禁」と大|貼《は》り紙《がみ》をした。
一度順平が便所に行ったすきに、少し開いていた扉《とびら》の隙間《すきま》から飼い猫が彼の部屋の中へまぎれこんだ。
これを見つけた順平は、猫を捉《とら》えてぐるぐる巻きにして、焚火《たきび》で生きながらバーベキューにしてしまったのである。これら一連の無為、自閉、奇矯《ききよう》な行動は、分裂病の破瓜《はか》型に典型的に見られる例である。
これにはさすがに温厚な父親も怒り、彼に強い折檻《せつかん》を加えた。これにすねた順平は、家出をし、都内の盛り場をうろついているあいだに、警察官に不審訊問を受けて、一晩、保護という形で留置された。
この�留置�は一晩だけで、釈放された。教授はこの一晩の留置に目をつけた。つまり、警察官の目によっても精神異常は発見されなかったのである。
これは彼が正常に見えたからであり、同時に分裂病者であるからこそ、取調べになんの反応もなく異常を感ぜられずにすんだのかもしれない。
ここで分裂病について簡単な説明を加えると——
その多くは、青年期になんらの外因なく発病して、多くは特有の人格欠陥状態に陥るとある。
その症状は知能の低下よりも、情意(人間らしい感情)の障害のほうが主であり、|人 格《パーソナリテイ》の統一を失う。幻聴、幻覚、妄想《もうそう》などがおこってくる。
この病型には三類型があるが、破瓜型というのは、多くは二十歳前後に発病して、しだいに情意が鈍化してくるのが特徴である。幻聴や妄想もおきるが、それらはいちじるしく表には顕《あら》われない。慢性的進行の経過をとり、回復しがたい。
なお分裂病の症状には、一期から三期まで経過によってわかれるが、これはこの物語に直接の関係がないので省略する。
この事件のあと、高校を中退し、都内のT自動車部品会社へ、父親の伝《つて》ではいった。ここでも協調性がなく、いつも仲間たちから孤立していたそうである。
時間の観念と責任感がなく、遅刻は常習、顧客に商品を配達に行ったまま、映画や野球を見物したりする。
途中で何度も解雇されそうになったが、それでも一年もったのは、その会社にちょうどその時期、運転免許を持っている者が少なかったためである。
一年後、とうとう上役と衝突して、馘《くび》になった。いったん自宅に帰り、しばらくぶらぶらしていたが、間もなく職安の世話で市内のある工場に勤めた。これは一週間でやめて、それから、十ヵ所あまりの地元の工場や事業所を転々とした。いずれも、給料が安いとか、環境が悪いとか、それなりの理由をつけていたが、要するに彼の自閉的性格から同僚たちと打ちとけられず、組織の協調を乱す人間として、やめざるを得なくなったのである。
このころから、自閉的性格はますますひどくなって、雨戸を閉めきった部屋の中で、終日万年床に横たわり、ついには便所へ行くのすら億劫《おつくう》がって、窓から小便をするようになった。
心配した父親が、少しでも彼を外へ引き出そうとして、車を買い与えてやった。これによって多少、外へ出るようになったので、家族もホッとしていると、三十二年、最初の婦女暴行事件を惹《ひ》き起こしたのである。
教授が注目したことは、三谷順平の分裂病的症状が、家族の目には怠惰や無気力と映って、彼を責めたり、諫《いさ》めたりすることと前後して、犯行の下準備とも見られる窃盗事件を起こし、その症状の一つの極点において、最初の婦女暴行が行なわれたことであった。
三谷には働きたいという意欲はあった。それは彼の十回以上に上る就職を見てもわかる。しかし生来の内向的な感受性の強い性格が、就職先を失敗するつど、劣等感を深めて、さらに次の就職を破綻《はたん》へ導く。こうして失望と無気力は増悪《ぞうあく》されて、分裂病を進行させる。
これがだれの目にも明らかに異常者とわかるように発現すれば、対処の方法もあるが、自分を理解しない家族や世間に対する復讐《ふくしゆう》の代理として、一連の強姦殺人事件へと発展したと解釈できなくもない。
もし三谷の犯行が、精神分裂病に罹患《りかん》中のものであれば、法的な責任を問われぬことになる。しかしこのような機会《ケース》は分裂病者に特有なものではなく、精神病質者にも、正常者にもあり得る。
さらに三谷は間島信子さん殺しにおいては、金銭までも奪っている。このように金銭の強奪と殺人が同時に行なわれることは、分裂病者では珍しいケースである。分裂病者は、この二つの異質の犯罪を同時に犯し得るほど、一般に犯罪的ではないとされているからだ。
分裂病者の犯罪は、計画的ではなく、衝動的であるのが通例である。
ところが三谷の犯行を検討すると、車にカーステレオを備えつけ、喫茶店やバーを�ハシゴ�して、かなり計画性が感じられる。間島信子さん以外の、一連の行方不明女性については、三谷の犯行によるものかどうか、断定されていないが、被害者の年齢、肢体《したい》、容貌《ようぼう》等の共通性から、まず彼の犯行の疑いが強い。
その中には、行方不明になる以前にすでに何度か、三谷とデートしていた情況があるのである。とすると、分裂病に特有な、衝動的犯罪とはみなしがたい。
佐伯教授は、三谷順平の生い立ちや性格から容易に分裂病者の特徴を抽《ひ》き出し得るのだが、犯行の情況をつぶさに検討すると、責任をのがれるための詐病を意識的に演技しているような印象を拭《ぬぐ》いきれないのであった。
三谷の容疑は、連続強姦殺人なので、その性的態度《イタ・セクスアリス》を調べると、多くの分裂病者同様に、十四歳ごろより手淫《しゆいん》をはじめたが、女友だちや女遊びはなかった。ガールフレンドは欲しい。しかし、商売女を買いに行く度胸も金もない。性欲は大いにあるが、その処理の方法がわからない。
家族はすべて敵視している。ホモの傾向はない。性的にはむしろ未熟なほうであった。
佐伯教授は思案したすえに、捜査官に未決勾留中に家族にあてた手紙のようなものはないかと訊《き》いた。
さいわいに、差し入れの希望について母親に出した簡単な葉書があった。未決勾留者の外部への通信は、すべてコピーしてある。
教授は、三谷に自宅あてに何か書くように命じて、短い文章を書かせた。この二つの文章を比べた教授は、後者のほうに、はなはだしい異常を見た。前の葉書もあまりうまい文章ではないが、まずは書いた人間の意思を疎通できる正常者の文章である。
ところがあとのものは、文字もでたらめで、判読不能、住所とあて名は架空であった。これは自発的な必要に迫られて書いたものではないので、ガンゼル状態が文章に現われたと考えてよかった。
4
「どうでしょう? 三谷は精神異常ですか、それとも詐病ですか?」
第一段階の分析のすんだところで、捜査の直接指揮を担当する栃木県警の原田《はらだ》警部が訊いた。
「それがまだはっきりわからないのですよ」
教授の言葉は歯切れが悪かった。
「そんなにややこしいのですか?」
大学のオーソリティが見れば、仮病などすぐ見破れると簡単に考えていたらしい原田は、声に少し不満を盛った。
「それがね、精神異常のようにも見えるし、仮病らしい節《ふし》もあるのですよ」
教授の口調は慎重である。
「なんとか、仮病だという決め手はつかめませんかね」
第一線の捜査指揮者としては、犯罪史上にも稀有《けう》な凶悪犯罪の被疑者を、精神異常による責任無能力者などにはぜったいにしたくない。
「被疑者に精神分裂的な傾向があることは確かです。分裂病者でないにしても、それとボーダーラインにあることはまちがいありません。しかし分裂病者がガンゼル状態を呈することは非常に稀《まれ》なのです」
教授はここで、ガンゼル状態について簡単な説明をした。
「すると、どういうことになるのですか?」
「もし三谷が分裂病者だとすれば、責任無能力者ということになります。ガンゼル状態は、ガンゼルという学者が�特異なヒステリー朦朧《もうろう》状態�として従来の詐病という考えを排すると主張したのがはじめなのです。しかしこのヒステリー性の状態が分裂病に現われるのは、きわめて稀なのです。
ここに三谷の分裂的傾向と、ガンゼル状態のあいだの無関連が予想されます。さらにこの状態は、とくに未決囚に典型的に見られます。ガンゼル状態についての最大の問題点は、これが今日においてもヒステリーなのか、精神病的発現と見るべきなのか、学説がわかれていることです」
「ヒステリーということになると、責任があることになりますね」
原田も、ヒステリーが身体的なトラブルなどを装っての、現実からの逃避であることは知っている。
「そういうことです」
「するとヒステリーだという決め手をつかめればよいわけですか」
「問題は、それほど簡単にはいきませんね。まず、三谷の精神鑑定をもっと精密に行なう必要があります。だいたい三谷の異常が浮かんできたのは、ガンゼル状態になってからです。つまりガンゼル状態においての精神鑑定で、分裂病の疑いが出てきたのです。私が今までに調べたかぎりでは、思考障害や、妄想への埋没もないようです。三谷のガンゼル状態は、はなはだしく痴呆《ちほう》的小児的状態を呈するかと思えば、正常に戻ることもあります。それは器質的な脳障害を疑わせると同時に、それとは明らかに異なる責任回避のポーズが見られます」
「要するに、精神異常か、仮病か、はっきりしないということなのですな」
原田は面倒くさくなった。学者の説明は、どうしてこんなにややこしく長たらしいのだろう。同時に佐伯教授は、警察官という人種は、どうしてこうも単純な精神構造なのだろうかと思った。
世の中には、AかBかの二者|択一《たくいつ》で決められないものが多いのである。Aでもない、Bでもない、そのあいだの無限のニュアンスを微妙にゆれ動くものの正体を見きわめるのが、学者の仕事なのだ。警察官の言うように簡単に割り切れるものではない。
「ま、そういうことですな」
教授は苦笑した。
「何か決め手をつかむ方法はありませんか?」
「まだいろいろと打つ手はありますよ。知能検査、性格検査、ロールシャッハ・テスト、皮膚電気反射、つまり嘘《うそ》発見器ですね、こういった方法を駆使して分析してみるつもりです。それから、もう一つ……」
教授はふと言い淀《よど》んだ。
「それからなんですか?」
「これはあまりやりたくない方法なのですが、麻薬を注射して調べてみようかとも思っております」
「麻薬を? どんな効果があるのですか?」
「麻薬といっても、睡眠薬ですがね、これを注射して調べると、被検者の心理的抑圧が緩和されて、かなり正直な答えをすることが多いのです」
「ほう、そんな便利な方法があったのですか。その答えをテープにでも録《と》っておけば、うむを言わせぬ証拠となる。先生、それでぜひやってくれませんか」
原田は急に身を乗りだした。
「これは一種の拷問ですからね、なるべくやりたくないのです。相手の意志の抵抗を薬の力で排除して、自供を誘うのですから」
「しかし、本人の生地《きじ》の心は出るのでしょう。それを証拠とするかしないかはべつにして、捜査の参考になります。先生、ぜひお願いします。これはふつうの事件《やま》とはちがいます。まだ発見されない娘さんたちのためにも、ぜひ麻薬を使ってください。責任は、われわれが取ります。私も、この事件《やま》に自分の職を賭《と》しております」
原田警部は、教授の足元に頭をこすりつけんばかりにして頼んだ。佐伯は原田の気魄《きはく》に打たれた。
それに三谷が自供しないかぎり、四人の哀れな犠牲者は、いつまでも土中に埋められたままになるかもしれないのである。多少行き過ぎはあっても、佐伯教授はいずれ、麻薬による三谷の精神分析を行なうつもりであった。
ただその時期が、多少早められることになるだけである。
5
三谷順平に対する麻薬分析はそれから三日のちに行なわれた。身柄はO署から、O市民病院へ移された。
睡眠薬の一種のアミタール(学名、イソアミルエチルバルビタール酸ソーダ)が三谷の静《じよう》 脈《みやく》に注射された。
薬の効果はいちじるしく、拒絶的だった表情や態度が協力的になってきた。口のきき方までが、別人のようにしっかりしてきた。