「ふむふむ、琴絵さんがどうかしましたか」
「いつかも申し上げたとおり、あの娘はひどい憂鬱症なんですが、それがときどき、ぱっと明るい表情になることがある。そういうときにはいつもきまって、なにやらくどくど独語《ひとりごと》をいっている。つまり幻の相手と語りあっているんですね。いや、こういうことは精神病患者には、別に珍しいことではないんですが、志賀の妹の場合には、そこにちょっと変わった科《しぐさ》が入るんです」
「変わった科というと?」
「それがねえ、私にもいままでよくわからなかった。つまり、話相手の手をとって、それを自分の唇にあてる科なんですよ。いままで私はそれを、接吻のまねだとばかり思っていたんですが、この間の新聞を見て、こんどの事件に盲聾唖の関係していることを知った。それではじめて、琴絵という少女の無意識にやる科の意味がわかったんです。つまりあれは、相手に自分の唇のうごきを読ませているんじゃないかと……」
「な、な、なんですって!」
由利先生は突然、雷にうたれたような大きなショックを感じました。
「それじゃ相手の盲聾唖は、読唇術が出来るというのですか」
「そうです。いや、そうじゃないかと思うのです。むろん私にもハッキリしたことはいえない。いえないからこそ、あなたの判断にまかせたいと思っているのだが……」
「しかし、先生、そういうことが果たして可能でしょうか。眼も見えず、耳もきこえぬ人間が、どうして読唇術を習得することが出来たろう」
「いや、もしその男がうまれながらにして、盲聾唖ならば、それはあるいは不可能かも知れない。しかし、うまれたときには聾唖ではあったが、視力だけはかなり後まであったというような場合には、その少年は読唇術を習得することが出来ますね。読唇術、——御存じでしょう。話相手の唇のうごきを見て、相手の言っていることを読む。そして自分も唇の形や舌の動かしかたで、話をすることを習得するのです。この場合、その少年は聾ではあるが、唖ではない。相手の唇を見ることさえ出来れば、まず尋常に会話をすることが出来る。ところがそういう少年が盲になる。するとその少年はもう相手の唇を読むことが出来ないから、ひとの話は全然わからない。しかし、いったん習得した、『話をする』すべはそう急に忘れるわけはないから、自分で喋ることは出来る。だから、この場合この少年は、盲にして聾ではあるが、唖ではない。だからこの少年がいままで眼で読んでいた相手の唇のうごきを、こんどは指先で読む練習をしようと思えば、それは絶対に不可能というわけではない。そして、その方法を会得しさえすれば、この少年は盲聾唖であって盲聾唖ではない。相手が唇に指先をあてることを許してくれさえすれば、かなり自由に会話をすることが出来るわけです」
由利先生はわきの下からびっしょりと、気味悪い汗のふき出すのを感じていました。
「そして先生、琴絵という少女は、たしかにそういう盲聾唖と、会話をする真似をしていたとおっしゃるんですね」
「そうなんです。そしてあの娘の科《しぐさ》から判断すれば、相手の盲聾唖は、かなり自由自在な話が出来るらしいと思えるんですがね」
話が出来る? あの盲聾唖が。……口が利ける? あの虹之助が。……ああ、それはなんという大きな驚きでありましたろう。
由利先生はなにかしら、ゾッと鳥肌の立つような無気味さをかんじましたが、そのとき、さっと稲妻のように脳裡にひらめいたのは、あの恐ろしい事件のあった夜、虹之助を見張っていた刑事のきいたという言葉です。
あのとき、刑事は虹之助を、女中部屋に投げこんでおいて、台所へ水を飲みにいっていた。すると女中部屋のなかから、
「誰かいる?」
と、いう声がきこえたという。
その話をきいたとき、誰もかれもそれを五郎の声だと思っていた。しかし、いまから考えれば、五郎ならば誰かいる? というようなことをいう筈はない。
あれは虹之助の声だったのだ!——由利先生は口中がからからにかわいて、舌が上顎にくっついてしまうようなショックを受けました。
「いや、先生……有難うございました。……おかげで大変参考になりました。……そ、そうです。……たしかにそうです。虹之助はかなり後まで、視力は達者だったらしいのです。……その証拠は十分あります」
まるで悪酒に酔ったように、由利先生がしどろもどろにそんな事を呟いているとき、卓上電話のベルがはげしく鳴り出しました。
大道寺綾子から、またもや凶事を報らせて来たのでありました。
二
プラットフォームの電気時計は、八時四十分を示している。
八月も二十日を過ぎると、海のあれることが多くて、海水浴にはむかないのですが、東京からちかいこの鎌倉へは、泳げても泳げなくても、夏中相当の客がおしかけて来る。そういう客のうち、日帰りのひとたちは、もうあらかた退きあげたあとだったけれど、それでもまだ、なんとなくざわめいているなかに、綾子はさっきからじりじりする思いで待っていました。
今日の事件。——
綾子はそれを思い出すたびに、気の狂いそうな恐ろしさです。
静馬が崖から顛落するのを目撃すると、綾子と志賀はすぐにその場へ駆けつけました。静馬はむろんこときれていましたが、そのときの、言語に絶した死態を思い出すと、彼女はいまだに悪夢に追っかけられているような気持ちなのです。
それはまるで、泥人形を石に、叩きつけたような光景でした。肉は裂け、骨は砕けて、あたりいちめん唐紅《からくれない》。——
しかも、彼女がほんとうに顫えあがったのは、そういう目もあてられぬ惨状ではなく、そこにはそれ以上の、恐ろしい、不可解な秘密があったのです。
「ごらん、綾さん、甲野の顔を。——この男は崖から落ちて死んだのじゃないぜ。崖から落ちるまえに死んでいたのだ。叔母や鵜藤と同じ薬をのまされて。——」
ああ、その声、その顔、その眼付き、それはまるで綾子を責めてでもいるように見えたことでした。
静馬が崖から顛落したのは、発作を起こしたのでも、気が狂ったのでもなかったのです。かれもまた、母や五郎を殺したと同じ薬を嚥まされて、断末魔の苦しみのうちに、崖から足を踏みすべらしたのでありました。——
綾子はその時の恐ろしさを思いうかべて、ゾッと肩をすくめてましたが、ちょうどそのとき電車が着いて、中からおり立ったのは由利先生と三津木俊助。
「先生!」
綾子はすがりつかんばかりです。
「ああ、奥さん、だいぶ待ちくたびれたと見えますね。こんな場所で話も出来ないから、ひとまずここを出ましょう」
三人はすぐに駅から出ると、
「で、いったいどうしたというのです。さっきの電話では要領を得なかったから、もう一度お伺いしましょうか」
「何もかもめちゃめちゃですわ。警察ではとうとう志賀さんをひっぱってしまいました」
「そうそう、志賀君がひっぱられたのでしたね。いったい、どういうわけでそんなことになったのですか」
綾子はそこで、きょうの夕方のことを話しました。
崖のうえで静馬にあったことから、かれの気味の悪い話、それから間もなく志賀恭三がやって来たこと、更に砂浜から目撃した、あの恐ろしい刹那にいたるまで、いかにも女らしい細かさで、落ちもなく語りおわると、
「そういうわけで、甲野さんに一番最後に接近したのがあの人だというのです。そして、ただそれだけの理由で、志賀さんをひっぱっていきましたの、そんなめちゃな、そんな理不尽な話ってありましょうか」
「つまり志賀君が、あなたのところへおりて来るまえに、なんらかの方法で、静馬君に毒をあたえたというんですね」
「ええ、でもそんなこと——あの人が叔母殺しで、従弟殺しだなんて、これはあんまりあの人を知らな過ぎる疑いですわ。そんなむちゃくちゃな、間違った——」
「まあ、お聴きなさい。私の訊ねたいことはもっとほかにある。いまのあなたのお話で、私はちょっと興味のある事実を発見しましたよ。静馬君はきょう、お母さんが殺されてから、はじめて絵筆を握ったのでしたね」
「ええ、たしかそうおっしゃっていました」
「そして、その絵筆というのは、お母さんが殺された晩、あの四畳半に押しこんであった、あれじゃないのですか」
「さあ、そこまではあたしも存じませんけれど、あるいはそうかも知れません。しかし、それが何か……」
「いや。……ときに、虹之助はお宅にいるんですね」
「ええ、います」
虹之助の名をきくと、なぜともわからぬ動悸《どうき》をおぼえて、綾子は思わず怯えたような眼のいろをしました。
「そう、それじゃお願いがあります。あなたはこれから、家へかえって、虹之助を甲野の別荘まで連れて来て下さい」
「まあ、あの人がこんどの事件に何か……」
「いや、それは後でわかります」
「で、先生は?」
「私はこれから警察へ寄って、出来れば志賀君もいっしょに甲野の家へいきます。ときに由美という娘はどうしていますか」
「由美さん?」
綾子はかすかに身顫いをすると、
「あたし、たった一週間ほどのあいだに、あんなに変わった人を見たことございません。痩《や》せて、窶《やつ》れて、影みたいになって、今日、静馬さんの死骸を見たときも、まるで夢遊病者みたいな眼付きをして。……」
「で、いま一人で家にいるわけですか」
「ええ、志賀さんがひっぱられたら、あの人ひとりですね。お兄さんの死骸といっしょに——」
「でも、女中がいるわけでしょう?」
「ええ、女中さんならいます。でも、その女中さんもすっかり怯えて、早くお暇をもらいたいなどといっていました」
「いや、いずれ暇をとるとしても、今夜だけはいてもらわねばならぬ。あれは重大な証人ですからね」
「ええ?」
綾子も、そしてさっきから黙って二人の話をきいていた三津木俊助も、不思議そうに由利先生の顔を見直しました。しかし、由利先生はそれに対して別に説明をあたえようともしないで、
「それじゃ、奥さん、いって来て下さい。ああ、ちょっと待って」
「まだ、何か御用がございますの」
二、三歩いきかけて立ち止まった綾子の顔を、真正面から見据えた由利先生は、奇妙な微笑をうかべながら、
「そう、虹之助のほかにもうひとり、連れて来てもらいたい人があります。ほら、お宅にいる筈の琴絵という娘。——」
あっ!——という叫びが、綾子と俊助の唇から、ほとんど同時に洩れました。
「それじゃ……先生は……御存じでしたの」
「奥さん、探偵というものを、そう馬鹿にしたものじゃありませんよ。モーター・ボートのあの怪青年には、私もかなり悩まされましたが、ある理由から、結局あれは奥さん以外のものではあり得ないという結論に到達したのです。ははははは、奥さん、あなたもずいぶんひとが悪い。さ早くいって、虹之助と琴絵の二人を連れて来て下さい」
綾子はまるで、悪戯を見付けられた子供のように、真《ま》っ赧《か》になってもじもじしていましたが、やがて物もいわずに駆け出していきました。
後見送った俊助は、茫然とした眼付きで、
「先生、それじゃモーター・ボートの怪青年は、大道寺の奥さんだったんですか」
「そうだよ。しかし、その事についてはいずれ後ほど話すことにする。とにかく警察へいこう」
警察へはあらかじめ東京から電話がかけてあったので、江馬司法主任が待っていました。
「先生、さっきの電話では、今度の事件がすっかり解けたというような話でしたがほんとうですか」
「ほんとうです」
由利先生にこりともせず、
「それでこれから甲野の家へいこうと思っているんですが、それには是非、志賀という男をつれていきたいのです」
「しかしあの男は大切な容疑者ですよ。もしも途中で逃げ出されたりすると。……」
「いや、そんな心配は絶対にありません。とにかく急ぐんですから、早くしてもらいたいですね」
急ぐ——という言葉を、先生は口でいったばかりでなく、全身をもって表現した。なんとなくいらいらとして、落ち着かぬ様子には、俊助さえも眼を丸くしました。
警部は不思議そうに先生の顔を見まもりながら、
「急ぐ——って、いったい何事なんです」
「何事? いや、どんなふうにそれが起こるか私には分からない。あるいは何事も起こらないかもわからない。しかし起こったら取りかえしがつかないから、私はこんなにいらいらしているんだ」
「それじゃ、何かまた起こる懸念があるんですか」
「ある。おおありだ」
「今夜——?」
「そう、今夜、いや、こういううちにも起こるかも知れん、とにかくお願いだ。大急ぎで志賀をここへつれて来てくれたまえ」
警部は呆れたように先生の顔を見ていたが、やがて刑事のほうに向かって、
「おい、留置場から志賀恭三をつれて来い」
「君、大急ぎで頼む」
警部のあとから由利先生も大急ぎで怒鳴りましたが、やがて刑事が恭三をつれて来ると、
「さあ、出発」
由利先生はみずからさきに立って警察をとび出しました。そして、表に待っている自動車に、一同どやどやと乗り込むと、由利先生ははじめていくらか落ち着いたように、かたわらに坐っている恭三のほうを振り返って、
「志賀君、君はなぜ甲野一家とあいつの関係をもっと早く話してくれなかったのだ。いや、何故もっと早くあいつが、口を利けるということを、われわれに教えてくれなかったのです。それさえわかっていたら、静馬君はあんなことにはならなかったのだ」
恭三は悄然《しようぜん》と首うなだれました。
「静馬君や由美さんのような、世間知らずの子供なら、むやみに警察をおそれるのも無理はない。しかし、君のように分別のある、しっかりした考えをもっている人が、なぜああひた隠しにかくそうとしたのか私にはわからない。君たちはまるでみずから目隠しをして、断崖のはしへ進んでいくようなものだ」
「先生、それじゃ叔母や鵜藤君や甲野を殺したのは、みんなあいつのしわざだというんですか」
恭三は放心したような眼をあげて尋ねます。
「そうです。あの男をおいて、ほかにこんな残酷な、恐ろしい、薄気味悪い方法で人を殺すやつがあるもんですか。そして君たちはみんなその事を知っていた筈なのだ」
恭三は急にほとばしる眼の色となり、
「そうだ! 私たちは知っていた。あいつ以外にこんな恐ろしい事をする奴は、ないということをよく知っていた、しかし、あいつがどういう方法でやったのか、いや、それよりも、あいつがどこに毒をかくし持っているのか、それがわれわれにはわからなかった。いや、それよりまえに甲野の一家は、あいつのまえに出るとみんなからだが竦《すく》んでしまうんです。あいつの体から発散する、神秘的な妖気に当てられて、舌も硬張《こわば》ってしまうのです」
恭三はそういいながら、いまさらのように身をふるわせたが、さっきからふたりの話をきいていた司法主任が、その時、驚いたように口をはさんだ。
「さっきからきいていると、あいつというのはどうやら虹之助のことらしいが、あの虹之助がなにかしたんですか」
「江馬さん」
由利先生は一句一句に力をこめると、
「梨枝子夫人からはじまる一連の殺人事件、あれはみんな虹之助の仕業《しわざ》なんですよ」
「な、な、な、なんですって!」
警部はそれこそ、天地がひっくりかえったような驚きに打たれました。
「せ、せ、先生、そ、そ、それはほんとうですか。あの眼も見えなければ耳もきこえず、口を利くことさえ出来ぬ盲聾唖が……」
「そうです、その盲聾唖が三人を殺したのです。そしていま私がそれを説明しようとしているのです」
ちょうどそのとき自動車は、暗い垣根の曲がり角でとまりました。甲野の別荘はそこから半丁ほど奥へ入ったとこにあります。一同はすぐ自動車からとびおりると、暗い夜道をいそぎましたが、やがて別荘のまえまで来たとき、由利先生は突然、凍りついたように立ちすくんでしまいました。
「あ、誰か笛を吹いている!」
「由美ですよ」
なるほど家のなかから嫋々《じようじよう》としてきこえて来るのは一管の洋笛の音。しかも曲は葬送行進曲。
「由美が兄への手向けに吹いているんですね。あの洋笛はきょうまで四畳半に突っ込んであったものだが……」
そのとたん、由利先生ははじかれたように、駆け出しました。
「ああ、いけない!」
先生は狂気のように白髪をふりたて、玄関のなかへ走りこむ。だが、そのとたん、ふうっと掻き消すように洋笛の音はとだえて、
「あれ、お嬢さん、お嬢さん、どうなさいました。あれ、誰か来てえ」
たまぎるような女中の声、それをきくと由利先生は、
「ああ、もう駄目か。……」
と、一瞬、骨を抜かれたように立ち竦《すく》んだが、すぐまた爛々《らんらん》と眼を光らせると、
「畜生! 畜生! 死なしてたまるもんか。誰かすぐ医者へ走って下さい。ストリキニーネの中毒で、たったいまやられたものがある……そういって医者を呼んで来て下さい」
それから由利先生は脱兎の如く玄関のなかへとびこみました。だが、もう遅かったのであろうか。由美は白布におおわれた兄の枕もとで洋笛を口にあてたまま、がっくりとうつ伏せになっていました。まるで死出の化粧のように、美しく、純白の夜会服をつけて。……
三
幸い手当てが早かったので、どうやら由美はいのちを取りとめるらしい。——と、そう医者が自信をもって言いきることが出来るまでには、半時間ほどかかりました。
それには由利先生の用意して来た、吐瀉剤《としやざい》が大いに物をいったのです。先生はなかへとびこむと怯《おび》えきっておろおろしている女中や俊助を叱りとばしながら、食いしばった由美の口へ、むちゃくちゃに吐瀉剤を注ぎこみました。その薬のおかげで、由美が猛烈な嘔吐をしているところへ、医者が駆け着けてくれたのでした。
「先生!」
このぶんならもう大丈夫と、医者が保証してくれたとき、志賀はいきなり由利先生の手を握りました。
「有難うございました。これで、せめてひとりは助かりました」
「そうです。そしてこれがもう、この事件の最後の犠牲者ですよ」
「しかし、先生、どうもわかりませんな」
江馬司法主任は当惑しきったようにがりがり頭をかきながら、
「さっきのお話によると、これらの殺人はみんな虹之助の仕業だとおっしゃるが、いったいどうしてあの少年にこんなことが出来たんです。この間の事件以来、あいつは一度もこの家へ来たことはない筈ですよ」
「そうです。あいつは一度もここへ来なかった。来る必要はなかったのです。あいつはこの間の晩、梨枝子夫人が殺された晩、静馬君の絵筆のさきや、その洋笛の歌口に、ストリキニーネの濃い溶液を塗っておいたのです。いつかそれらのものが、静馬君や由美さんの口にあてられることを知っていたから」
警部はあまりの驚きに、口を利くことすら出来ません。
「そんな……そんな……いえ、先生のお言葉を疑うわけじゃありません。それは静馬の絵筆や、洋笛を調べてみればわかることです。しかし、先生、梨枝子夫人の事件の際、私はこの家のもの、この家にいた連中、そういう人たちを全部厳重に身体検査をしたんですよ。虹之助がそんな恐ろしい薬を持っていたら、見|遁《のが》すはずはないのです」
「いいや、やっぱり君は見遁したんですよ。そのことはいまに虹之助がやって来たら、……」
由利先生はそこで急に気がついたように、腕時計を眺めたが、俄かに不安らしく眉をひそめると、
「どうしたんだろう、あれからもう四十分たっている。何か間違いが……」
「先生、何か?」
「ふむ、大道寺の奥さんに、虹之助をここへつれて来るように頼んでおいたのだが——誰か電話をかけて見て下さい。大道寺の奥さんはもう家を出たかどうか——角の酒屋に電話がある筈です」
言下に刑事のひとりが跳び出しましたが、ものの三分とたたぬうちに、血相かえてかえって来ると、
「大変だ! 大道寺の奥さんが咽喉をしめられて——」
そのとたん、由利先生と三津木俊助、それから志賀恭三の三人が、ひとかたまりになって玄関から跳び出していた。
それにしても、綾子の身にどんな間違いが起こったのか。それをお話するためには、是非とも時間を四十分、あとへ戻さなければなりません。
由利先生に別れた綾子は、すぐその足でじぶんの家へかえって来たが、なんとなく不安な気持ちで、
「叔母さん、虹之助さん、いて?」
と、訊ねる声もふるえていました。
「ああ、いるよ」
茶の間で針仕事をしていた叔母は、綾子のただならぬ顔色を、ジロリと眼鏡越しに見ると、
「どうしたのよ、顔色かえて」
とたしなめるような口吻《こうふん》でした。元来、この叔母は最初から、あのような気味悪い少年を引きとることには、大反対だったのですから、虹之助のことというと、いつもいい顔はしないのです。そこへ持って来て、
「琴絵さんは?」
と、綾子が訊ねましたから、叔母はいよいよ渋面をつくって、
「あの娘も離れにいるだろうよ。だけどねえ、綾子さん、あんたいったいどうしようというのよ。あんな気味の悪い盲で聾で唖の子供なんかつれて来たかと思うと、こんどはまた気狂いの娘をつれこんだりしてさ、ここは化け物屋敷じゃないのよ。私は化け物の番人なんかまっぴらだよ」
「叔母さん、御免なさい。もうすぐかたがつくんだから」
さすがに綾子もきまりが悪いのです。吐きすてるようにそういうと、逃げるように茶の間を出て、虹之助の居間へいきました。
虹之助の居間というのは、一番奥の土蔵のなかで、そこはもと叔母の部屋だったのだが、虹之助が来てからは、彼女はその大好きな部屋を明けわたさねばならなくなりました。そういうところにも叔母の不満はあったわけです。
さて、いましも綾子が、暗いわたり廊下をわたって土蔵のまえまでやって来たとき、なかから妙な声がきこえました。
「誰かそこにいるの?」
怯えたような声なのです。しかも舌の縺《もつ》れた、妙に陰にこもった、一種不思議の声でした。
綾子はハッと立ちすくむと、襖の隙間から覗いてみたが、部屋の中はまっくらで何も見えません。綾子はそうっと襖をひらくと、電気のスイッチをひねりました。
そしてあわてて部屋のなかを見廻しましたが、そこには虹之助のすがたがあるばかり、ほかに誰もいるようには見えません。
綾子は押し入れのなかから、衣桁《いこう》の蔭までくまなく調べてまわりましたが、人の影が見えないばかりか、いままで人のいたような気配すらない。綾子はもう一度虹之助のそばへかえって来ました。虹之助は寝床のうえに起きなおり、小首をかしげて、じっとあたりのようすを窺《うかが》いながら、ひっきりなしにふるえています。
綾子はしばらく目じろぎもしないで、虹之助の顔を視詰めていましたが、突然、天啓のごとくある恐ろしい考えが脳裡にひらめきました。
「虹之助さん、あなたは——あなたは口が利けるの?」
まるで化け物でも見るような眼つきでした。唇まで真っ白になって、心臓が氷のように冷たくなってしまいました。膝頭ががくがくとおののきました。
綾子はしばらくそうして、世にも恐ろしいものを見るように、表情のない虹之助の顔を視詰めていましたが、やがて何かうなずくと、電気をけし、ピッシャリと襖をしめると、抜き足差し足、そっと衣桁の蔭にかくれました。
心臓が早鐘を打つように躍って、ハッハッとはげしい息使いが洩れます。でも、構うものか、相手はどうせ耳が聴こえないのだもの。——
襖がしまったことは、虹之助にもすぐわかった様子でした。首をもたげてあたりの様子を窺っていましたが、やがてそっと立ちあがると、襖のそばへすべり寄り、両手でそのへんを撫でまわしていましたが、ほっと安堵《あんど》の吐息をもらすと、
「ああ、いってしまった!」
と、——今度こそもう間違いはない。舌のもつれる、陰にこもったあの声は、まぎれもなく虹之助の唇から洩れたではありませんか。
「あれえッ!」
いまや綾子は恐怖のかたまりでありました。日頃はあれほど賢い、分別のある女なのに、そのときは、唯もう恐ろしさが胸いっぱい。
いっときも早くここを出ていきたい一心から、前後も忘れて襖のほうへ走りよったが、南無三、暗闇のなかで虹之助にぶつかったからたまらない。
「あっ。……」
虹之助の腕が鞭のように、綾子の首にからみつきました。
「はなして、はなして。——嘘吐き、おまえは口が利けるのだわ。それをいままで隠しているなんて。……」
綾子は夢中で、虹之助の腕をふりはなそうとする。しかし、そうすればするほど、虹之助の腕は、ますます強くからみついて来る。それは何かしら、えたいの知れぬ蔓草に、巻きつけられたようなかんじなのです。
虹之助はそうして片手で綾子の首をまくと、もう一方の手で、ソロソロ綾子の顔を探りにかかる。綾子はゾッとして首を左右にふります。しかし、虹之助のネットリと汗ばんだ指は、まるで気味の悪い昆虫ででもあるかのように、しつこく綾子の顔をなでまわし、やがてピッタリ唇のうえに吸いつきました。
「ああ、わかった、おまえはあたしの唇を、指で読もうとするのね。おまえはそうしてひとの話すこともわかり、自分で話すことも出来るのね。それをいままでかくしているなんて、嘘吐き! 嘘吐き! あたしはおまえが嫌いだわ。ああ、わかった!」
ヒステリー性の女性というものは、どうかすると、とんでもない思考の飛躍を示すことがあります。綾子はそのとき、思いついたことを、思いついたまま、べらべらと喋舌《しやべ》り立てました。
「おまえはそうしていつかの夜も、甲野の奥さんと話をしたのにちがいない。そして自分がどこにいるか、自分の周囲にどんなひとびとがいるか、奥さんからきいて、おまえはちゃんと知っていたのにちがいない。おまえは甲野家となにか関係があるのだから、奥さんから話をきくと、すぐにわかったにちがいない。そして……そして……ああ……」
綾子の言葉はふうっと暗闇のなかでとぎれました。虹之助の両手が、尺取り虫のように綾子の咽喉にはいると、音もなく、声もなく、じわりじわりと。……綾子は二、三度、咳をするように弱々しくいきを吐きました。
それから、骨を抜かれたように、ズルズルと畳のうえにくずおれました。
シーンとした、恐ろしい闇中のしじま。——
虹之助は障子をひらいて、渡り廊下へ出ると、手さぐりで、庭へおりようとしましたが、そのとき、やにわに虹之助にからみついて来たものがある。
[#小見出し] 大団円
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
美しき人間の疫癘——闇! 闇! 闇!——甲野家の崩壊——船中よりの第一信
[#ここで字下げ終わり]
一
「それじゃ、先生、梨枝子夫人を殺し、五郎を殺し、静馬を殺し、由美を殺そうとした犯人は、あの虹之助だとおっしゃるのですか」
「ふむ、そのことはさっきも話したとおりです。虹之助をとらえれば、立派にそのことを証明してあげる」
中御門の、大道寺綾子の邸宅へ駆け着けて来たのは、由利先生に三津木俊助、志賀恭三のうしろからは、江馬司法主任がおいすがるようにして、まだ解けやらぬ疑問の解明に忙しい。
「しかし、虹之助がいったいどうして……」
「いや、江馬君、それはもう少し待ってくれたまえ。それよりも今は大道寺の奥さんのことが心配なんだ。三津木君……」
一同がどやどやと門のなかへなだれこんだそのあと。まっくらな繁みのなかから、ぬうっと這い出した二つの影がある。
「まあ、虹之助さん、それじゃあなたは……」
「琴絵、早く逃げよう。おれ、もうこの家はいやなのだ」
「ええ、もうこうなったら仕方がないわ。あたしもいっしょにあなたと逃げるわ」
いうまでもなく、それは琴絵と虹之助、手を取りあって闇から闇へとさまよい出たとも知らぬこちらは一同。案内をこうのもまどろかしく、そのまま奥へ踏み込む、といいぐあいに綾子はいま医者の手当てで呼吸を吹きかえしたところでした。
「ああ、志賀さん」
あんな気丈な女だけれど、このときばかりはよほど動顛していたのでしょう。恭三のすがたを見ると、思わずよよと泣きくずれます。
「ああ、綾子さん。気がついていたのかい。僕はどんなに心配したか知れやしない。ひょっとすると、このまま君はかえって来ないひとかも知れないと思っていたんだ」
「すみません。御心配をおかけして。……」
綾子は由利先生のすがたに眼をとめると、泣きじゃくりをしながら、
「先生、あたしが馬鹿だったのね。これが気まぐれな未亡人に対する天罰だったのね。あたしやっぱり、先生の御忠告にしたがわなければいけなかったのね」
「いや、そんなことはどうでもいいが、それよりどうしてこんなことになったのです」
由利先生の声音《こわね》には、いたわりと、優しさが溢れていました。
「あたし、今夜はじめてあの人が、人並みに口を利けることを発見しましたのよ。ええ、口が利けるばかりじゃないわ。指先で、ひとの言葉を読むことも出来るのよ。それに気のついたときの恐ろしさ!」
悪夢にも似た、さっきの恐怖を回想して、ゾッと肩をすくめると、
「ところがあいつは、あたしがそういう秘密に気がついたことを覚ると、いきなりあたしに躍りかかって、両手であたしの咽喉をしめつけて……」
と、綾子は泣き笑いをしながら、
「これもやっぱり、あたしの気紛《きまぐ》れと我儘《わがまま》が招いた天罰なのね」
「いや、それにしてもあいつの力の足りなかったのは仕合わせでした。そうでなかったら、いまこうして泣いたり笑ったりしていることは出来ないわけだ。それで虹之助は……?」
「逃げたらしいですの。いま、叔母さんや姐やに探してもらったんですが、どこにも姿は見えないの」
「逃げた……? しかし、どうせあの盲聾唖では……」
「いいえ、そうじゃないのよ、警部さん、あの男といっしょに、もうひとり若い娘が逃げ出したのよ。だから皆さん、あたしはもう大丈夫ですから、一刻も早くあのふたりを探し出して。……」
「ああ、琴絵が……」
由利先生と恭三は、おびえたように眼を見交わせたが、ちょうどその頃。
美しい仮面をかぶった人間の疫癘《えきれい》、あの恐ろしい毒殺狂の虹之助は、狂女琴絵に手をとられて鎌倉の闇から闇へとさまようているのでありました。
闇! 闇! 闇!
それはまったく暗闇以外のなにものでもない。
空には月も星もなく、生ぬるい風が梢を鳴らして渦を巻く。虹之助はいくたびか石に躓《つまず》き、からたちの垣根にぶつかり、からだじゅう傷だらけになりながら、泳ぐように琴絵のあとについていく。
「琴絵。——琴絵。——おれをどこへつれていくのだ」
「どこでもいいわ、ぐずぐずしてるとお巡りさんにつかまるのよ。あんた、また悪いことをしたのね。叔母さんや、静馬兄さんを殺したのね。いいえ、かくしてもあたしちゃんと知ってるわ。さっき通りかかったお巡りさんがそういってたわ。だから今度つかまると、とてもたいへんなことになるのよ。さあ、逃げましょう。誰もおいつけないところへ行きましょう」
そうして喋舌《しやべ》っているあいだじゅう、琴絵は虹之助の手をとって、自分の唇を読ませている。虹之助は物凄い微笑をうかべて、
「それじゃ、あいつらとうとう死んでしまったのかい」
そういった虹之助の声には、なんともいえぬ陰気なものがありました。
「ええ、そうよ、だからぐずぐず出来ないのよ。ああ、誰か来たわ」
素速く路傍のくらやみに身をかくして、通りかかった人をやり過した二人は、それからまた手をとりあって海のほうへ逃げていく。それは実に、なんともいいようのない変梃な道行きなのです。片っ方は盲聾唖の美少年、片っ方は狂える美少女、しかも二人は瓜二つといっていいほど、似かよった面影の持ち主なのです。やがてふたりが辿《たど》りついたのは波打ち際。
「あ、あそこにボートがあるわ。あれに乗って逃げましょう。あのボートに乗って逃げましょう」
「ボート?」
と、きいて虹之助の顔には、一瞬ひるんだいろが浮かびました。
「ええ、そうよ。ボートに乗って海へ逃げるのよ、海のうえなら、誰もあたしたちの邪魔をする者はいやあしないわ。さあ、何をぐずぐずしていらっしゃるの? ああ、誰か来るわ」
まったく狂女にかかってはかなわない。恐ろしい力で虹之助をひきずっていくと、いやがるかれを無理やりにボートへおしこみ、自分もあとから乗り込むと、狂った手先にオールを操り、ボートははや汀をはなれました。ちょうど退潮時であったのでしょう。ボートは恐ろしい勢いで、ぐんぐん沖へ吸われていく。
「琴絵! 琴絵! おれをどうしようというのだ。お願いだからおれを岸へかえしてくれ。おれ、ボートはきらいだ。海はきらいなんだ」
「駄目よ、駄目よ、あなたはあの人たちにつかまりたいの。ほら、誰かあたしの名を呼んでいるわ。ああ、あれ、兄さんの声だわ」
「兄さん?」
「ええ、恭三兄さんの声よ」
そのとたん、虹之助の顔にはさっと狼狽のいろがうかびました。美しい頬が恐怖のためにはげしくふるえました。
読者諸君は憶えていられるでしょう。この物語のはじめ頃、虹之助がほくろのある男の顔を描いて、それに鬼のような角を生やしたのを。そうなのです。この悪魔の申し子のような虹之助には、世の中に怖いものはない。唯ひとりの恭三をのぞいては。——
「キョ、キョ、恭三兄さんがおっかけて来るのかい。ほんとにあいつが追っかけて来るのかい」
「ええ、来るのよ。追っかけて来るのよ。ほら、ボートをおろしたわ。みんなでこっちへやって来るわ」