TITLE : 怪奇博物館
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狼男 町を行く
吸血鬼の静かな眠り
呪いは本日のみ有効
受取人、不在につき —
帰って来た娘
避暑地の出来事
恋人たちの森
狼男 町を行く
1
「まさか」
と、私は言った。
「本当だよ」
と、彼はむきになった。
すぐむきになるところが、いかにも年下らしくて可愛《かわい》いんだけど。
まあ、可愛いったって、彼ももう二十七。いい加減、男らしい落ちつきが出てもいいころだ。
でも、実際には私の研究室へ来たときから、一向に成長しないように見える。それは私の責任でもあるのかもしれない。
私がいつまでも彼を子供扱いし過ぎるから、こうなってしまうのか……。でも、もう三十五歳の女の目から見れば、八つも年下の男なんて、正に「男の子」なのである。
「信用しないのかい? 僕は確かに——」
「分ったわよ」
と私は笑って、「信じるわ。でも、あなただって、そ《ヽ》れ《ヽ》を自分の目で確かめたわけじゃないんでしょう?」
「そりゃあね。だけど、あいつは決して嘘《うそ》をつくような奴《やつ》じゃない」
「じゃ、その人が、本当に狼《おおかみ》を見た、って——」
「狼《ヽ》じゃないよ」
と、彼は言った。「狼《ヽ》男《ヽ》を見たんだ」
——私の名は宮島令子。J大学の社会学科に在籍している。
三十五歳で助教授というのは、まあ、やや早いくらいだろう。
今、私の隣にいるのは、助手の佐々木哲平である。もちろん、仕事の上でも助手であるが、実生活でも——助手、といったら、またふくれてしまうだろう。一応、恋人ということにしておこう。
現に、この会話だって、都内某ホテルの一室のベッドの中で交わされていたのだから。
「狼男、ね……」
私は、ゆっくりと首を振った。「変身したんですって?」
「それは知らないけど……」
と、哲平は肩をすくめて、ベッドサイドテーブルの上のタバコに手を伸した。
「ベッドの中じゃ喫《す》わないって約束よ」
と、私は言った。
「あ、ごめん。——ついくせになってるんだ」
「タバコなんて、体にいいこと一つもないのよ。やめた方がいいわ」
つい、お説教じみた言い方になってしまうのは、八つも年齢が違うせいか。
哲平は、大きく伸びをした。ただでさえノッポなので、ベッドからはみ出しちゃうんじゃないか、という気がする。
「さあ、もう帰りましょう」
と、私は起き上った。
「まだ早いよ」
と、哲平は不満そうだ。
「こういうことはね、ちょっと物足りないくらいで、ちょうどいいのよ」
と私は言ってやった。「先にシャワーを浴びるわよ」
「やれやれ。——分ったよ」
哲平も渋々起き上って、頭を振った。
私は一人でバスルームに入り、熱いシャワーを浴びた。
湯気でぼんやりと曇った鏡に、自分の姿が写っている。
ぼやけて見えるから、というわけではなくて、三十五歳にしては、たるみのない、引き締った体をしているつ《ヽ》も《ヽ》り《ヽ》だ。
三日に一度はプールに通って泳いでいるし、暇があると、大学のキャンパスの中をランニングしたり、自転車を乗り回したりしている。
それに大体週末には、こうして哲平と、ベッドの中での「運動」もしている。
授業も忙しいし、論文の発表や、もろもろの事務に追われつつ、女研究者が若さと美しさ(ここは主観の問題が入るが)を保つのは、容易なことではない。
付け加えておくと、私はもちろん独身。結婚の経験も同《どう》棲《せい》の経験もない。
さて……。シャワーを浴びて、服を着る。その間に、哲平の方も、シャワーを浴び、バスタオルを腰に巻いて出て来た。
「腹減ったなあ」
と、欠伸《あくび》をする。
「近くで何か食べて帰りましょ」
と、私は言った。「明日のスライド、揃《そろ》えといてくれた?」
「もう仕事の話?」
と、哲平は顔をしかめる。
「いつも言ってるでしょ。シャワーを浴びて服を着たら、助教授と助手に戻るのよ」
哲平はため息をついて言った。
「狼男よりずっと怖い変身だよ」
私は笑い出してしまった。
「狼男っていうのは、映画の主人公だけど、人狼っていうのは、実在するのよね」
と、私は言った。
「どう違うの?」
哲平は、猛烈な勢いで、ハンバーグを平らげながら言った。
「人の死体の肉を食い荒したりする異常者がいたの。それを人狼と呼んでたの」
哲平は、ちょっと顔をしかめて、
「食事してるときに……」
「あら、意外とデリケートなのね」
と、私はステーキにナイフを入れながら、からかってやった。
「意外に、はないでしょう、先生」
と、哲平はやり返して、「でも、その男の見たのは、そんな異常者とは違ったようだよ」
「ふーん。一度会って、話が聞いてみたいわね」
「本当に? 何なら紹介してあげる。でも……」
「なに? 問題でもあるの?」
「あいつ、三十歳なんだ。しかも独身で、いい男と来てる」
「へえ。ますます会いたくなった!」
と、私はからかってやった。「何て人なの?」
「田端。本人、コンピューターの技術者なんだよね。だから、超自然なんて、まるで信じてない。世の中のことは、総《すべ》て0と1で表現できると思ってるんだ」
「その人がどうして狼男を?」
「うん、田端の話だと——」
その夜も、帰りは遅くなった。
ともかく、時代の最先端を行くコンピューターの技術者が、最も前近代的な重労働を課せられているのだから、皮肉なものだ。
田端も、ここ何か月の間、夜十時前に、その公園を通ったことはなかった。
いや、たいていが十二時過ぎという実状だったのである。
三十とはいえ、もうずいぶん体は参って来ていた。まるで、すっかり中年になってしまった気分だ。
いくら、世界は0と1で成立していると思っていても、学校時代の友人たちが、みんな結婚して、子供と遊んだりしているのを見ると、ふと我が身の侘《わび》しさを痛感することはあった。
田端とて、別に独身主義というわけではなく、だからこそ、こうして、いくらか通勤に時間はかかるが、3DKのマンションまで手に入れて、結婚しても住めるように、と備えているのである。
しかし、いかんせん、恋人一人、作る時間がないのだ。日曜出勤は当り前、徹夜も日常茶飯事、期間不明の出張で、時には数か月もマンションに戻らない。
これでは、見合いする時間もないのである。
いい加減、少し考えなきゃいけないなぁ、などと、夜の公園を歩きながら、田端は考えていた。
この公園は、駅からマンションへの、近道になっていた。少し寂しい所なので、女性は敬遠しているらしかったが、ともかく普通の道を辿《たど》ると、十五分も余計にかかるのだから、いくら物騒とはいえ、ここを通る人が断然多かった。
もっとも、こんな時刻になると、さすがに田端の前後にも人影はなくて……。
田端は、足を止めた。
何だ? 今、聞こえたのは——悲鳴だったようだが……。
空耳かな。いや……。
「キャーッ!」
まただ! これはどうやら聞き違いではないらしい。
もう少し行くと、道が大きくうねって、木立ちの暗がりの中へと入る所がある。悲鳴はその中からのようだ。
ともかく、公園の中でも一番危い場所らしいし、女性が一人で歩いていて、襲われるという事件も何度か起っている。
「助けて!——誰か!」
と、また声が聞こえた。
田端は、突っ立ったまま、動かなかった。——助けを求められているのは分っている。
しかし、自分が行って、何ができるだろう?
どうせ、子供のころから、頭は良かったのだが、腕っぷしは滅法弱かった。
たとえ、駆けつけたって——そうだとも、襲ってくる奴をノックアウトするなんてことが、できるわけはない。
逆に、殴られてけがでもするのがオチだ。それだったら、けがをするだけ損じゃないか。どうせあの女性だって助からないし……。
「いや!——助けて!」
悲鳴は、一層甲《かん》高《だか》くなった。
放っとくんだ。可哀《かわい》そうだけど……。
そうだ、あと一本早い電車で帰ってたと思えば、出くわさなかったんだから。
そうだとも……。
田端は駆け出していた。暗がりの中へと、まるでプールにでも飛び込むように突っ込んで行った。
「誰だ! 何してるんだ!」
と、できる限り大声でわめいた。
ともかく、向うがどこにいるのか分らないのだ。
それに、いきなり、街灯の光の届かない所に入って来たので、何も見えない。
「警察だぞ! 逃げろ!」
と、大声で言いながら、俺《おれ》が逃げろって言うのは変だな、などと考えていた。
すると——突然、傍《そば》の茂みが揺れて、誰かが目の前に飛び出して来たのだ。
それは人間——いや、少なくとも、手足は人間らしかった。しかし、いきなり田端の目をぐっと見据えたのは、とても人間のものとは思えない、燃えるように赤い目だった。
そして、そ《ヽ》れ《ヽ》は、カーッと口を開いた。鋭く光った牙《きば》が見えた。
ほんの二、三秒、それは田端の前に止まっていただけだろう。
しかし、田端には、まるで何分も相対しているように思えた。
それから、突然、そ《ヽ》れ《ヽ》は姿を消した。
といっても、もちろん消えてなくなったわけではないが、あたかもそう見えるかのように、素早く去ってしまったのだ。
何だ……あれは?
田端は、しばし呆《ぼう》然《ぜん》と立っていた。
今度こそ、何分間か、突っ立っていたのだろう。それから——力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
体中から汗が噴き出て来る。——今のは、何だったんだ?
ともかく、得体の知れないものだった。
しかし、そんなことが、この世に起り得るのだろうか?
化物? 怪物?
そんなものは、田端の中に、存在していなかった。もちろん、概念としてはあっても、実在するとは考えてもいない。
しかし、今のは……。
田端が、やっと少し気持の鎮まるのを覚えたとき、
「あの……」
と声をかけられた。
「ワァッ!」
田端はひっくり返った。
「ずいぶん頼りないヒーローね」
と、私は笑って言った。
「もともと、気の小さな奴《やつ》なんだもの。よく気絶しなかったもんだよ」
「自分のことは棚に上げて」
「僕は田端とは違うよ」
と、哲平が胸を張る。
「そう?」
「そうさ! 僕なら、すぐ一目散に逃げ出すよ」
「正直でよろしい」
私は苦笑しながら言った。
——哲平が、こんな話をしてくれているのは、理由がある。
私が、この手の話のと《ヽ》り《ヽ》こ《ヽ》になっているからなのだ。
日本だけでなく、世界の民間伝承を調べている研究者として、いわばその副産物のように生れたのが、怪奇伝説——吸血鬼、幽霊、人狼といった問題への興味だったのである。
今では、本業の方よりもよほど面白くなって、その手の文献や小説を読み漁《あさ》っているのだ。
「それで、どうなったの?」
と、私が促すと、
「それは当人に訊《き》いてよ」
と、哲平が言った。
「当人に?」
「ほら、今やって来たよ」
哲平の言葉に振り向くと、確かに三十歳ぐらいと見える、いかにも知的タイプの男性と、こちらは二十三、四らしい女性が、レストランへ入って来たところだった。
私は、ちょっと哲平をにらんだ。
「わざわざ招《よ》んだの?」
「向うが会いたいって言ったんだ。——おい、ここだよ」
と、田端という男へ手を振る。
「やぁ。——どうも」
田端は、私の方へ一礼した。
「こちらが僕の先生で、宮島令子さん。田端です。それから……」
「飯田真子といいます」
なかなか可愛《かわい》い顔立ちのその娘が頭をさげた。
ただ、二人の表情が、私には気になっていた。
田端は、どことなく落ちつかない様子だったし、飯田真子の方は、それ以上——どこか不安げですらあった。
「——今、お話はうかがいました」
と、私は言った。「こちらが、狼《おおかみ》男《おとこ》に襲われたという方ね?」
「そうです」
と、田端が肯《うなず》いて、「ただ——今日の事件があったんで、黙っているのも、と思って、二人で困っているんです」
「今日の事件?」
と、私は訊《き》き返した。「何ですの、それは?」
「TVで夕方からくり返し放送しています。ご存知ありませんか」
「そうですか。ちょっと——二人とも、研《ヽ》究《ヽ》で忙しかったものですから」
と、私は言った。
「何があったんだい?」
と哲平が訊く。
田端は、飯田真子と、ちょっと顔を合わせて、言った。
「団地の人が一人、死んだんです」
「死んだ?」
「ええ」
と、真子が言った。「しかも——喉《のど》をかみ切られて。まるで——狼男にでもやられたみたいに……」
今度は、私と哲平が顔を見合わせる番だった……。
2
「物好きなんだから……」
と、哲平はため息をついた。
「あなたが文句言うことないのよ」
と、私は言った。「それとも、一人で大学に戻って、資料を整理しといてくれる?」
「そんなことじゃないよ」
哲平はハンドルを握っていた。——車は、かなりひどい中古だったが、道も良く、車も少ないとなれば、快適に走らなくては不思議である。
「じゃぁ、何なの?」
「危いってこと」
「危い?」
「そうさ。——殺人事件なんだよ」
「分ってるわ」
「ということは、犯人がいるわけだ」
「そりゃそうね」
「だから危いって言っているのさ。素人が首を突っ込む場面じゃないよ」
「ほら、そこを右よ。——でもね、警官は、例の狼男の話を知らないわ」
「そりゃそうだろ。それに、もし田端が話したとしても、信じちゃくれないよ」
「それを信じてるのが私。——だから、刑事たちの知りようのないことが分ると思うのよ」
「頑固なんだから! 好きにするといいさ」
「ええ、してるわよ。どうせ、私が死んだって悲しんでくれる人はいないんだしね」
哲平が、いやな目で私を見る。
からかうと、すぐ反応があるから、面白いのだ。
「——どうする気なの?」
と、哲平が言った。「こっちは刑事でも何でもないんだよ」
「当って砕けろよ」
「それが学者の言うセリフかい?」
と、哲平はやり返して来た。
「——被害者のこと、調べてくれた?」
「そんなヒマ、あるはずないだろ」
と、哲平がふてくされて言った。
私がじっと黙っていると、哲平は諦《あきら》めたように、ジャンパーのポケットから、メモ用紙を出した。
「大沼幸矢。四十歳。——へえ、割といい所に勤めていたのね」
「結構エリートらしいよ」
「あのマンションに住んでたのね」
「そういうこと。奥さんと二人暮しで、子供はなかった。殺されたときの状況は——」
「奥さんってのは、まだいるの?」
「と思うけどね。葬式もまだ出してないんだ。たぶん、検死解剖に手間取ってるんだろう」
「ちょっと変った事件だものね」
「そりゃそうだよ。喉《のど》をかみ切られてるなんて……。警察の方でも、困ってるらしい。意図的な犯行なのか、それとも、何か凶暴な野犬にでもやられたのか……」
「へえ。でも、殺人と報道されてたじゃないの」
「そこが気になって、訊《き》いてみたんだ」
「例のお友だちに?」
哲平の幼ななじみが、警視庁の捜査一課に勤めているのだ。普通の人の耳には入らないような情報が、ちょくちょく私のところへ入って来るのは、そういうルートなのである。
「で、お友だち、何ですって?」
「要するに、妙な噂《うわさ》が広まっては困るってことらしいんだな。はっきりした証拠もないのに」
「野犬の方が危険じゃないの」
「うん。そこは、あいつにもよく分らないらしい。ともかく、どうもすっきりしない所があるんだよ」
「つまり、何か発表してないことがあるってことね」
「どうもその気配だな。そいつが何なのかは分らないけどね」
「あ、そろそろこの辺じゃないの?」
「そうらしいや。あれが例のマンションだろう」
——あの田端という男が、ここを「団地」と呼んでいたのも、よく分る。
マンションというには少々大規模で、四つか五つの棟が、一つのブロックを形造っているのである。
車を、駐車場へ入れようとしていると、誰かが走って来るのが見えた。
いやに大柄な、五十がらみの男だ。車を停めて、私が窓から顔を出すと、その作業服みたいなものを着た男は、
「あんた、ここの人じゃないだろ」
と言った。「この駐車場に勝手に停められちゃあ困るんだ!」
「あのね、ここの人に招《よ》ばれて来たのよ」
と、言っても、まるで信用していない様子で、
「そんないい加減なこと言ってもだめだよ。どうせどこかのセールスなんだろう」
と、譲らない。「大体、まともな仕事をしている人間なら、こんな時間に、こんな所でうろついてるわけがないんだ!」
人間、思い違いでも、こうまで固く信じられてしまうと、却《かえ》って腹もたたない。
「ねえ、いいかい——」
若いせいか、すぐにカッとなる哲平が食ってかかりそうになる。
そこへ、遠くから、
「おじさん!」
と、声がした。
見れば、飯田真子が走って来るところである。
「——おじさん、いいのよ。その方は私のお客様なの。大学の偉い先生なんだから」
「へえ! こりゃどうも」
誤解していたと分ると、コロッと変って、顔を赤くし、すっかり照れてペコペコ頭を下げている。何とも、実直そうな、可愛《かわい》い男である。
「いや、すっかりお見それして」
と頭をかいて、「で、こっちは秘書の方か何かで?」
と、私の方を見た。
「すみません、失礼なことばっかり言って」
と、飯田真子は、お茶を出しながら、恐縮している。
「いいのよ。若く見られて嬉《うれ》しいわ」
と、私は言った。
哲平の方は、「先生」に見られたというので、すっかりいい気持で胸を張っている。
「とてもいい人なんですけど、一本気なもんで」
「ああいう人もいなくちゃ困るわ。——で、あなたは、今ここに……」
「時々来ているんですの」
と、真子は言った。
田端の部屋である。しかし、男一人の部屋に見えないのは、きっと真子があれこれ手を加えたからだろう。
「いわば、その狼男が、あなた方の仲を取りもった、ってわけね」
と、私は言った。
「ええ。でも、あんまりロマンチックな出会いとは言えませんけど」
と、真子は苦笑した。
「そのときのことを憶《おぼ》えてる?」
「ええ、でも——ともかく真暗でしたし……。憶えているのは、相手が人間じゃない、と思ったことぐらいなんです。後は真赤な目と、カーッと口を開けたときの、尖《とが》った牙《きば》と……」
その辺の印象は、田端のそれと一致している。
「殺された人——大沼さんっていったかしら」
「ええ。奥さんとは知り合いで、時々一緒に買物に行くこともあるんです。でも、私はお勤めがあるし……。あちらも、子供がいなかったので、このところ、時々仕事に出ていたんです」
「ご主人のことは、ご存知だった?」
真子は首を振った。
「いいえ。——一、二度、ご挨《あい》拶《さつ》したことはありましたけど……」
「かなり、エリートだったようね」
「ええ、見るからに。典型的なエリートでしたわ。忙しそうだったから、奥さんも寂しそうでしたわ」
「奥さんは今、まだ自宅に?」
「ええ、たぶん。隣の棟にいらっしゃるんです」
「ちょっとお会いしてみたいわ」
「じゃ、ここへ来てもらいましょうか」
と、腰を浮かしかけるのを、私は止めた。
「いえ、いいの。こちらが訪ねて行くわ。佐々木君、ここで待ってて」
「え? でも——」
「いいのよ。ちょっと電話を拝借して、大学の方に、昨日注文した資料が届いたかどうか、問い合わせてみておいてよ」
「分りました」
と、哲平はすっきりしない表情で肯《うなず》いた。
他の人の前では、あくまで、「先生と助手」なのである。
〈大沼〉という表札も、心なしか寂しげに見える。
どうしてだろう、と思って、考え当った。
——他の部屋は、どこも、姓だけでなく、一家の名前がズラリと表札に並んでいるのに、ここは大沼という姓だけが、ポツンと出ているからなのだ。
玄関のチャイムを鳴らすと、インターホンから、ちょっと疲れたような声が、
「どなたですか」
と聞こえて来た。
「ご主人のことで、ちょっとお話が——」
と、私は言った。
向うがもっと何か訊《き》いて来るかと思ったのだが、すぐにドアが開いた。
黒いスーツの女性が出て来る。
「奥様でいらっしゃいますね」
「はあ。——どうぞ」
と、向うは、あまり関心のない表情で、私を中へ入れた。
奥さんの名は岐《みち》代《よ》。三十八歳と聞いていた。
しかし、こうして会ってみると、ずいぶん老けた感じがする。
いや、見た感じは、むしろ若いのだが、どこか生気がないというのか。——それも、夫を亡くしたばかりだから、というより、たぶん、ずっとこういう風だったのではないかという気がするのだ。
これはもしかすると、私の想像が当っていたのかもしれない、と思った。
「——どういうご用でしょうか」
と、ソファに腰を下ろして、岐代が言った。
「実は——申し上げにくいことなんですけど——」
私は、ちょっとためらって見せて、「私、ご主人と愛し合っていたんです」
と言った。
だが、岐代の表情は一向に変らない。というより、無表情のまま、
「そうですか」
と言った。
「奥様にはとても申し訳ないと思っておりますが、隠しておくのも、どうも気が済まなかったので。——ぜひ、ご焼香だけでもさせていただきたい、と思いまして」
「いくらほしいんですか」
と、岐代が言った。
「え?」
「いくら? そちらの言い値をうかがわないと」
「——何のお話ですか?」
岐代は、初めて、薄笑いを浮かべた。
「遠慮しないで下さいな。どうせ慰謝料を出せと言いに来たんでしょう?」
「とんでもない! 私、お金なんて、一円だっていただく気はありませんわ」
私の言葉に、岐代は、ちょっと不思議そうな顔をした。
「——珍しい人ね」
と、言って、岐代は肩をすくめた。「焼香ぐらいなら、いくらでもどうぞ」
私は、初めて見る大沼の写真の前で、手を合わせた。
もちろん、いつの写真かは分らないが、それにしても、なかなか二枚目で、かつ、田端と違って、どこか人を見下したような高慢さを感じさせる顔だった。
私は、もう一度ソファに戻ると、
「さっき、『珍しい人ね』とおっしゃいましたね」
と言った。
「ええ」
「どういう意味なんですの?」
「別に。——もうあなたの前にも三人、女の人が来たけど、みんな結局はお金が目当てだったから」
「三人?」
私は目を丸くした。
「これからも一人や二人は来るんじゃないかしら。——みんな、あなたみたいに、欲のない人ばかりだといいけど」
これは、想像していた以上に凄《すご》かったようだ。
「奥様は——ご存知だったんですか」
「ご存知も何も……」
と、岐代は笑って、「私はただの『飾り』。あの人にとっちゃ、外に女を作るのが生きがいみたいなものだったんだから」
「——怒らなかったんですか」
「諦《あきら》めたわよ。——怒ったって、向うは平気なもんで、俺《おれ》はエリートなんだ、エリートはストレスがたまる。だから、どこかで発散しなきゃいけないんだって言ってたわ」
「そうですか」
と、私は肯《うなず》いた。
「でも、あなたは、ちょっと変ったタイプねえ」
と、岐代は私を見て言った。
「そうですか」
「ええ。だって、若い子ばっかりが好きだったの。それも二《は》十《た》歳《ち》とか二十一とか。だから余計に罪が深いと思ったのよね。何しろ、まだ何も分ってないような子でしょ。——中には十八なんて子もいて……。少し前になるけど」
「十八歳ですか」
「ええ、若いっていうより、まだ子供よね。それに大沼は、特にそういう世間知らずのタイプが好きだったのよ」
「よく、問題になりませんでしたね」
「叔《お》父《じ》さんだか何かに、有力な議員がいて、いつももみ消してもらってたみたい。——いつもはたからは羨《うらやま》しがられてたけど、こっちは地獄だったわよ」
私は、ゆっくりと肯いた。
3
「やっぱり、その通りだったよ」
と、研究室へ入って来て、哲平が言った。
「何よ、いきなり。ちゃんと、助手らしくしなさい!」
と、にらみつける。
「失礼しました」
哲平は頭をかいた。
「で、話を聞いて来たの?」
「うん。ともかく、あの大沼って男、何度も訴えられちゃ、もみ消してるんだ」
本に埋れた机をどかして、私は、インスタントコーヒーをすすった。
「それで、警察も、何とも断定できないでいるわけね」
「そうらしい。通り魔的な犯行という見方もあるんだけど、あれくらい、殺されても不思議でない人間もいないだろうってことなんだよ」
「あんまり名誉なことじゃないわね」
と、私は苦笑した。
「だけど、当のマンションでは、そろそろ噂《うわさ》が広まってるみたいなんだ。狼《おおかみ》男《おとこ》が出るってね。新聞あたりもかぎつけたらしいし……」
「じゃ、話題になるのは時間の問題ね」
と、私は言った。「他に何か?」
「うん。これは秘密にしてくれ、って言われたんだけど、一人、女の子が自殺してるんだって」
「大沼のせいで?」
「そうらしいよ。十八だったっていうんだけどね。——ひどいもんだな」
哲平は顔をしかめて言った。
岐代が言っていた女の子のことだろう。
それにしても、ひどい男だ、と私は思った。
これが、いい年《と》齢《し》の女性を相手にしているというのなら、その女性の方にも責任はあるわけだが、大沼のように、まだ男とは何かということもよく分っていないような若い女性たちばかりを相手にしているというのは、いわばいかさまのトランプみたいなものである。
大沼の死も、自業自得と言っていいようなものだった。
「どうするんですか、先生?」
と、哲平が言った。
「何を? 講義のこと? 休んでもいいわよ」
「違いますよ。事件のこと」
「何だ。それならもう少し言い方を変えてくれなきゃ」
「だって、研究室の中じゃどうこうって、うるさいから」
「当り前でしょ。学問は神聖なりよ。——さて、次の講義の仕度!」
「はい」
と、哲平は飛び上るようにして立ち上った。
——大学の先生の中には、およそ「教える」ということに興味を持っていない人もいる。
だったら、大学に残らなきゃいいと思うのだが、本人は研究こそが生きがいで、講義をしたり、テストをしたりするのは、総《すべ》て余計な「雑用」だと思っているのだ。
まあ、私も多少そういう所がないでもない。
しかし、慣れて来ると、教えることも、なかなか面白いものである。私は講義というのが、そう嫌いではなかった。
私の講義は人気がある。
自分で言うのも変だが、事実だから、仕方あるまい。
「女は得だ」
とか、陰口を叩《たた》く者もいるが、言いたい人には言わせておけばいい。
ご機嫌を取って人気があるのと、中身があって人気があるのとでは、大違いなのである。
この日も講義室はほぼ満員の盛況だった。こちらもその方が調子が出る。
講義をしていて、段々調子も乗って来たところで、誰かが講義室へ入ってくるのが見えた。
私はジロッと、そっちの方をにらみつけてやった。
だが——学生ではない。どうみても、いい年《と》齢《し》の大人たちである。
「すみません!」
と、一人が、無神経にドカドカ前の方へやって来ると、「〈××新聞〉の者です! 先日の殺人事件について、先生は、あれが狼男による犯行だと信じておられるとか聞きましたけど、本当ですか?」
と、声を張りあげる。
私は頭に来て、
「今は講義中ですよ! 分らないんですか!」
と怒鳴った。
「こっちも記事が夕刊に間に合わなくなるんですよ。今言った通りに書いていいですね?」
「そうね。——じゃ、もう少しこっちへ来て下さい」
と、私は手招きした。
「はあ」
記者がノコノコ進み出て来る。
私は、机の上の水さしを手に取って、コップに注いだ。
哲平がわきで見ていて、不安げに、
「先生——」
と、言いかけたが、既に遅かった。
私はコップの水を記者の頭からたっぷりと浴びせてやった。
「皆さん」
と、学生の方へ、「権利を侵害されたときは、このように対処しましょう」
ワーッと拍手が起った。
哲平が、絶望的な表情でため息をついた……。
「全くもう——」
「それ以上言わなくていいの」
と、私は遮った。「もっと他に考えることがあるでしょ」
「それにしたって——」
哲平はまだ不満顔である。「学長から大目玉を食らうよ」
「構やしないわ。クビになっても、行く所はあるもの」
「僕はどうなるんだ?」
「あら、ついて来てくれる?」
「当り前のこと、訊《き》かないでくれよ」
と、またふくれる。
よくふくれるのだ。
——大学からの帰り、お好み焼の店に入っていた。
お好み焼にふくらし粉が入っているから、ふくれているというわけでもあるまいが。
「きっとあのマンションの辺りは大騒ぎでしょうね」
と、私は言った。
「TVの連中なんかは物好きだからね」
と、哲平は肯《うなず》いた。「きっとくり込んで、月の出るのを待ってるんじゃないかな」
「やりかねないわね」
と、私は笑って言った。「——行ってみようか」
「どこへ?」
「あのマンションよ。決ってるじゃない」
「こんな時間に? 着いたら夜中だよ」
「どうせ狼男が出るのも夜中じゃないの」
と、私は言ってやった。
かくて——深夜のドライブとなったのである。
あのマンションについたのは、正に狼男の登場にはピッタリの十二時ジャスト。
月も出て、いい雰囲気だった。
「——あの公園ね」
「そうらしいね」
「行ってみましょ」
「物好きなんだから」
と、哲平は苦笑した。
「学者は、好奇心旺盛でないといけないんですわよ」