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作者: 当前章节:15394 字 更新时间:2026-6-22 20:36

 かくて二人はこの「屋外無料ホテル」へと足を運んで来たのだ。

「正志のアパート、だめなの?」

 と、ケイが言うと、正志はあわてて、

「とんでもないよ。兄貴、年中、違う女を連れ込んでるんだ。そんな最中に帰ったりしただけでも、ぶん殴られちまう。俺が女の子なんか連れてったら……」

「ふーん」

 ケイは口を尖《とが》らした。「だけど、ずいぶんね。いつも正志が食べるものとか万引きしてるんでしょ? たまには部屋ぐらい使わしてくれたっていいのにね」

「そうはいかねえよ。兄貴は兄貴なんだ。命令にゃ服従さ」

 もちろん、本当の兄というわけじゃない。ただ、ちょっとしたことで知り合ったチンピラなのだが、ケイから見ると、正志をいいようにこき使っているだけみたいだ。

 でも、それは正志の問題なのだから……。

「じゃ、もう帰ろうよ」

 と、ケイは正志の腕を取った。

「だけどさ、もうちょっと歩いてみようぜ。な?」

「もう一回りしちゃったじゃない。これ以上歩いたって——」

 言いかけて、ケイは足を止めた。——目の前に、誰かが立っていた。

 ちょうど、街灯の光が立木で遮られた場所で、相手はぼんやりとした影でしかない。

「何だよ。何か用か?」

 と、正志がにらむ。

「場所を捜してるのかね」

 低い、男の声だった。——若い男、という感じではなかったが、話し方のせいでそう思えたのかもしれない。

「お前の知ったことかよ」

 と、正志は、ケイの腕をつかんで、「さ、行こうぜ」

 と、歩きかけた。

「その先が空《あ》いてるよ」

 と、その男が言った。

「ええ?」

 正志が訊《き》き返す。「何て言ったんだ?」

「その右手に、いい場所があるよ。行ってみな」

 変らぬ低い声で言うと、その男は、ゆっくりと歩いて行った。

 ケイは振り返って、その男の後ろ姿を見送った。

「——何だか気味悪いね」

 と、ケイは言った。

「その右だって言ったな」

「行くの?」

「ものはためしだ」

「でも……」

 ケイは、気が進まなかった。「何か、今の人、変だったよ」

「妙な奴がいるもんさ、こんな所にゃ」

「でも——黒いコート着てた。この真夏に」

「いいじゃねえか。覗《のぞ》くだけ、覗いてみようぜ」

 ケイは、あまり気が進まないままに、右手の茂みの奥へと入って行った。

「——へえ! こりゃいいや」

 正志は、声を上げた。

 そう。——高い茂みに囲まれて、ポカッと草地が空いているのだった。

 しかも、街灯の光が、ほどほどに射《さ》し込んで、真暗でもないが、といって覗き屋に覗かれるほど明るくもない。

「なあ、ここならいいだろ? ちゃんと下にジャンパー敷いてさ」

「うん……。でも……」

 ケイは、もちろん正直、ちょっと不安でもあったのだが、今は、むしろあの妙な男のことの方が気になっていた。

「なあ……」

 正志がケイを抱きしめてキスする。——ケイは、ちょっと身《み》悶《もだ》えしたが、じっと抱かれていると、もともとそうなってもかまわないという気持でいたのだし……。

「蚊に刺されないかなあ」

 と言いながら、草地に腰をおろした。

「——救急車だ」

 と、哲平が言った。

「パトカーよ」

 ウトウトしながら、私は訂正した。

「——何かあったのかな」

「東京は、いつも何かのサイレンが聞こえてる町だわ」

 私は、頭を振って、少しスッキリさせると、

「さあ、もう出ましょうよ」

 と言った。

「泊らないの?」

「あなた、泊って行けば? 私は今夜、レポートを見ないとね」

 私は、ゆっくりとベッドに起き上った。

 ——私の名は宮島令子。J大学社会学科の助教授をつとめている。

 ホテルのベッドの中で「特別講義」を受けていたのは、助手の佐々木哲平である。もちろん、三十五歳になる私よりぐっと若い、二十七歳。

 単純素朴というか、人の良さが取り柄の恋《ヽ》人《ヽ》である。

 助教授と助手という関係だからといって、付合いを無理強いしていると思われては困る。——この関係はあくまで大学外のもの。ちゃんとけじめはつけている。

 要するに私の年上の魅力に、哲平が参っているだけのこと——とは、自分で言うことじゃないかもしれないが。

 先にシャワーを浴びて出て来ると、哲平の方は、またぐっすりと眠り込んでしまっている。

 ま、起こすこともないか。支払いも済んでいるし。

「明日は、と……」

 私は服を着ると、バッグから手帳を出して、めくった。

「講義は午後だけね」

 それなら、哲平をまだ寝かせておいても大丈夫だ。

 ベッドのわきの目覚し時計を朝の十時に合わせてセットし、そっと部屋を出た。

 そろそろ夜中——十一時半になるところだ。帰って、レポートに目を通し、採点しておかなくては。

 充分に運《ヽ》動《ヽ》して、体がほぐれたせいか、大いにやる気になっていた。

 タクシーを拾おうと歩いて行くと、後ろからサイレンの音が近付いて来る。今度は救急車だ。

 ちょうど、すぐわきが病院の救急入口で、そこへ入るのだろう。

 救急車は、見ていると、やはりその入口を曲って中へ入り、停った。

 病院の中から、看護婦と当直の医師が飛び出して来る。救急車の後ろの扉が開いた。

「——正志! しっかりしてよ! 目を開けてよ!」

 と、一人の少女が泣きながら降りて来る。

 担架に乗せられているのは、その少女の恋人なのか。

「死んじゃいやだ! 正志!」

 少女の叫び声が、何となく私の足を止めさせていた。

「あれ、もしかして……」

 と、私は呟いた。

「早く! 早く何とかして!」

 と、少女は医者にすがりつかんばかりにしている。

「落ちつくんだ。——今、警察の人が来るから、事情を話すんだよ」

 と、医師が少女の肩をつかんで、「いいね?——そこに座ってなさい」

 少女は、病院の中へ、うなだれたまま入って行く。

 私は、いつの間にか、そっちへと歩き出していた。

 急患入口のドアのすぐ奥の長椅《い》子《す》に、少女は腰をかけて、祈るように固く両手を握りしめている。

 私は、その前に行って、足を止めた。

 少女が、私に気付いて顔を上げるのに、少しかかった。

 涙に濡《ぬ》れた目で、最初は私に気付かなかったようだ。

「やっぱり」

 と、私は言った。「啓子ちゃんでしょう」

 少女は手の甲で目をこすると、

「——令子おばさん」

 と、言った。

 正直なところ、「お姉さん」と呼んでほしいが、今はそこにこだわっている場合ではない。

「今、かつぎ込まれたの、啓子ちゃんの、恋人?」

 と、私は訊《き》いた。

 啓子が肯《うなず》く。

「何ごとなの?」

「分んないの」

 と、啓子は首を振った。「急に——急に、彼、首を吊《つ》って——」

「何ですって?」

 私はびっくりして訊き返した。

「自殺なんて、するわけないのに! そんなはずないのに!」

 啓子は、両手で顔を覆った。

「わざわざ悪かったわねえ、令子さん」

 と、宮島八重子が言った。

「いいえ。——啓子ちゃんは?」

「あの子は、何だか一人で泣いてるわ」

 その、突き放したような言い方に、私はちょっとカチンと来た。

「困ったもんだわ、あの子にも」

 と、八重子は言って、ソファに腰をおろした。

「兄さんは?」

 と、私は訊《き》いた。

「学会で、ニューヨークへ行ってるの」

「そう」

 私は、冷え冷えとした思いで、冷めたお茶を一口飲んだ。

 立派な応接間である。

 ここは私の兄の家だ。——大学の教授で、もっとも、私とは大分タイプが違う。

 工学部にいる兄は、十を下らない数の企業の顧問をやって、いとも優雅な暮しを楽しんでいた。

 この家だって、顧問をしている建設会社に、かなり安く建てさせているはずだ。車は、いつも新車。——自動車メーカーが、〈試乗〉という名目で、次々に新しい車をくれるのである。

 そういう生活に順応してしまうと、もう、コツコツとお金にもならない研究など、やる気になれなくて当然である。

 兄は、専ら財力に任せて、人脈とコネで学部長のポストをものにして、今や天下を取った、という様子。

 多少年齢も離れていたせいか、もともと私は兄になじめない妹だった。特に、ここ数年、めったに会うこともない。

 妻の八重子という女性が、また気位の高さと、貯金通帳を座右の書にしていることでは兄といい勝負——いや、兄以上かもしれなかった。

 初めから、私とは反りが合わず、お互い、会っても挨《あい》拶《さつ》以上の口はきかないという、賢明な付合い方をしていた。

「本当に恥さらしだわ」

 と、八重子が言った。「父親の名に傷がつくのを分ってて、あんなことをして……」

 私は、黙って、居間の方へ通じるドアを見やった。その向うで、啓子が泣いているだろう。

 一人っ子の啓子は、両親がやたら社交で忙しいのが逆に幸いしたのか、とても優しい、可愛《かわい》い娘に育った。兄や八重子には会いたくもなかったが、私もたまにはこの姪《めい》に、プレゼントをしてやったり、食事をおごったりしたものだ。

 その啓子が、不良と付合い出したと兄からグチを聞かされたのは、一年くらい前だったろうか。

「何を言っても、すぐに口答えばかりするんだ。全く、かなわん」

 兄は苦々しく言って、太った腹をゆすったものだ。

 私としては、十五、六歳にもなって、親に反抗一つできない子では、却《かえ》って心配だと言ってやりたかった。特に、頭でっかちに育って、心の発達が幼児並みの大学生を、いつも間近に見ているだけに、そう思っていたのである。

 しかし、言ったところで兄には分らなかったろう。——私は、傷つきやすい年代に入った啓子のことが心配だったが、自分の仕事の忙しさに、こちらから声をかけることは、なくなっていた……。

「啓子ちゃん、家を出ていたの?」

 と、私は訊《き》いた。

「ええ。何だか、ロックをやっているとかいう、薄汚い男の子たちと大勢で暮してたわ。でも、その内、飽きたのか、プイと姿を消して、三週間ぐらいになるかしらね」

「捜さなかったの?」

「騒がれても困るし。体面というものがあるでしょ」

 これが母親の言葉か、と腹が立った。

「八重子さん——」

 と、言いかけたとき、ドアが開いた。

「啓子ちゃん……。大丈夫?」

 私は、立って行って、泣きはらした目を真赤にしている啓子の肩を、そっと叩《たた》いた。

「ウン……」

 啓子は、力なく肯《うなず》いた。「でも……分らない。どうして正志が……」

「分ったでしょう」

 と、八重子がかぶせるように言った。「そういう不良は、わけもなく死んだりするものなのよ。生きる気力もないんだから」

「お母さん! やめて!」

 啓子が、じっと母親をにらんだ。「私、正志が好きだったのよ」

「結構な恋人ね。好きになりゃ、その辺のくさむらで愛し合う。——犬や猫と同じだわ」

 啓子が青ざめた。

「八重子さん。やめなさいよ」

 と、私は言った。「今は啓子ちゃんを、そっとしておいてあげて」

「そうはいきませんよ」

 八重子は、立ち上って、「学校の方は、ずっと病気休学ということにしてあるわ。お医者様に診断書を作ってもらって、明日、持って行くのよ」

「学校なんて行かないわ」

 と、啓子が言い返す。

「成績の方は、お父様から話していただけば何とでもなる。ともかく、明日は私と一緒に学校へ行くのよ」

 ほとんど感情のない、命令口調だった。

 そこに、母親としての怒りでも感じられれば、まだ救われたかもしれないが……。

「令子さん、ご苦労さまでした。もう引き取って下さいな」

 八重子は、ロボットの合成音のような声で言った。

「幽霊?」

 と、私は、読みかけの論文から顔を上げて、言った。

「——の、た《ヽ》た《ヽ》り《ヽ》じゃないですかね」

 と、哲平が、コピーをドサッと置いて、「これ、昨日言われた——」

「ありがとう」

 私は、コーヒーを一口飲んで、「ね、そのたたり、って何のこと?」

「やっぱり興味ありますか?」

 と、哲平がニヤついている。

 ここは大学。大学の中では、助教授と助手の間柄である。

「何をもったいぶってんのよ」

 と、私は苦笑した。

「例の、アベックの名所で自殺した男のことですよ」

「正志とかいう男の子ね。十七歳だったんでしょ?——それがどうかしたの?」

「例の、友だちに聞いたんですけどね」

 哲平には、警視庁の捜査一課に勤める友人がいるのだ。「——あの同じ木で首を吊《つ》った女の子がいるんですって。一年前くらいだそうですよ」

「女の子?」

「ええ。男に捨てられたらしいんですね。で、男のことを恨んで死んだ、と……」

「その子の幽霊が出るの?」

「いや、その後、あの場所には、アベックも近寄らないんだそうですよ」

「でも、正志って子は——」

「ええ。たまにそこへ行く、何も知らないカップルがあって……。もう、これまでに二人。首を吊ってるんですって」

「二人も? じゃ、正志って子で、三人目なの?」

「そういうことですね。——面白いでしょう?」

 少々不謹慎な言い方だが、哲平は、私が「呪《のろ》い」とか「幽霊」とかいった超自然的なものに関心があることを知っているのだ。

 しかし。今度の場合は……。何といっても。啓子のことがある。

 単純に、面白がってはいられない。

「ねえ、哲平」

「大学では、佐々木君と呼んで下さい」

 と、哲平がやり返した。

「こら!——ね、その二人の自殺者のこと、少し詳しく調べてよ」

「仕事中にですか? それとも——」

「いつでもいいわよ。息抜き中で。一日に何回もあるでしょ?」

「あ! ひどいなあ。こんなにこき使われてるのに」

 と、文句を言いつつ、哲平はすぐに私の頼みを聞いてくれる。

 恋人のためなら、休みも返上して悔いがないのが若者というものだ。

 研究室のドアをノックする音がして、

「どうぞ」

 と声をかけると、少し間があってから、

「失礼します……」

 と、入って来たのは、啓子だった。

「あら、よく来たわね」

 私はできるだけ明るい口調で言った。

 ——啓子は、この前とは別人のようだった。いかにも「お嬢さん」風の、地味で高そうなワンピース姿。髪も短く切って、きちんとセットしてある。

「——座ったら? 佐々木君、啓子ちゃんに何か飲みものを——」

「はい!」

 やっぱり、若い子となると、哲平も、私以上に熱心にサービスしたくなるらしい。

 啓子は、何やら思い詰めた風に、じっと座ったなり、身じろぎもせずに顔を伏せていたが、私は声をかけなかった。

 やがて、啓子は顔を上げると、

「私——死にたい」

 と言った。

「なぜ? 正志って子の後を追いたいの?」

「いいえ」

 と、啓子は首を振った。「自分が、惨めで——恥ずかしくて」

「というと……」

「母の言うなりで、こんな風に、いい子の服装して、学校へ通ってるんですもの。勉強なんかしないのに、ちゃんと進級させてくれて、それは父のお金の力なんだもの。そんなものいらない、ってはねつけられない自分が、いやでたまらない……」

 啓子が、ため息をついた。「でも——泣けないの。涙が出ない。——寂しいわ」

 今は、恋人を失って、一種の放心状態にあるのだ。

「令子おばさん」

 と、啓子は身を乗り出した。「正志は、そりゃあ、世間から見りゃ、役に立たない、不良かもしれない。でも、私のこと好きだったのは本当よ。私だって——好きだった!」

「分ってるわ」

 と、私は肯《うなず》いた。

「でも、彼、死んだわ。なぜ?——私、それが知りたい! 私のせいで死んだのかどうか……」

「思い当ることはないのね?」

「全然」

 と、首を振って、「正直に言うわ。——あのとき、私、正志に抱かれてもいいと思ってたの。正志もそのつもりだった。私、拒んだりしなかったわ。それなのに、どうして死ぬことがあるの?」

「どうして彼はあなたから離れたの?」

「何だか……手を洗って来るって。すぐに戻ると思ってたのに、いつまでも帰って来なくって。——変だと思って、捜しに行ったら、木から……」

 と、顔を伏せる。

「詳しいことは聞いてないんだけど、使った縄は?」

「分らないわ。そんなもの、持ってなかったのに」

「遺書らしいものもなくて?」

「ええ。——警察だって、真剣に調べちゃくれないの。どうせ役立たずが一人減った、ぐらいにしか思ってないんだもの」

 啓子の目から涙が溢《あふ》れ出た。「役立たずは人を恋しちゃいけないの? 不良に恋はできないの?」

 私は、じっと啓子を見ていた。

 哲平が、紅茶を運んで来る。

「——私が調べてあげる」

 と、私は言った。

「本当に?」

「でも、どんな結果が出るかは分らないわよ。それは承知しておいてね」

 啓子は、肯いた。——私は、啓子から、正志という男の子のことをいくつか聞いて、彼女を表まで送って行った。

「——仕事の邪魔して、ごめんなさい」

 と、啓子は言って、帰って行った。

 その後ろ姿は、まるで、大人のそれのように、疲れていた。

 研究室に戻ると、

「哲平——」

 と、声をかける。

「明日の講義は休講ですね」

 と、哲平がすかさず言った。「ちゃんと手配しときました」

 私は、笑って、言った。

「気がきくじゃないの! ついでにもう一つ、お願い」

 と、机に向かって、「正志って子の死に他《ヽ》殺《ヽ》の疑いがないかどうか、例のお友だちに確かめてちょうだい」

「了解」

「それとね、ちょっと付合ってよ」

「いつでも!」

 と、哲平が目を輝かす。

「そんなにがっつかないの。——一つ、夜のデートコース見学でもしましょうよ」

 私は、哲平にちょっとウインクして見せた。

 これは大学内の行為としては、少々行き過ぎだったかもしれない……。

 残念ながら、夜のデートコース見学は、哲平と二人というわけにはいかなかった。

 哲平は、例の警視庁の友だちから話を聞き出すために、飲みに行っている。もちろん、その「軍資金」は私のポケットマネーである。

 私は私で、一人でアベック天国を歩くのも気づまりなので、啓子を呼び出すことにしたのだ。

 母親の八重子には、

「啓子ちゃんを、少し元気付けてやりたいから」

 と言っておいた。

 しかし、考えてみれば、啓子と一緒でなければ、この公園をただ歩いたって、何も分りはしなかっただろう……。

「すみません、令子おばさん」

 と、啓子は言った。「仕事、忙しいんでしょ?」

 私としては、忙しいよりも、「おばさん」の呼び名の方が気になったが、まあ、二十近くも年齢が違って、「お姉さん」と呼べと言うのも無理というものだろう。

「これも仕事の一つよ」

 と、私は言った。「社会学者としては、世間の実相を、よく見ておく必要があるんだから」

「アベックも?」

「もちろん。恋人たちの様子を見ていれば、その時代のことが、よく分るものよ」

「本当ですか?」

「これは有名な学説なのよ。——〈宮島令子の法則〉といってね」

 私たちは顔を見合わせて、フフ、と笑った。

 これでいい、と思った。——何といっても、啓子にとっては恋人の死んだ場所である。

 少し、気持をほぐしておく必要がある、と思ったのだ。

「へえ! 凄《すご》いのね」

 ——公園へ足を踏み入れて、私は目を丸くした。

 もちろん、夜の公園のベンチを埋めるアベックの列を、見たことがないわけではないが、それにしても壮観である。

 加えて、互いが互いを刺激する、ということもあるのだろう、そこここで、かなり大胆なラブシーンが展開されている。

「あそこへ行きますか?」

 と、啓子が訊《き》く。

「そうね。でも、真直ぐに行ったんじゃ、見落とすこともあるかもしれないわ」

 と、私は言った。「ゆっくり、見物しながら行きましょ。——啓子ちゃん、もし、見たくなければ——」

「いえ、大丈夫」

 啓子は首を振った。「他の恋人たちなんか見たって、何とも思いません」

 少しは強がっている。

「その元気!」

 と、私は啓子の肩を叩《たた》いた。「さ、行きましょうか」

 ゆっくりと二人して歩き出す。——少しして、啓子が言った。

「ね、令子おばさん」

「なあに?」

「あの研究室の助手の人——おばさんの恋人?」

 私は、びっくりした。

「まあ——そんなところね。でも、どうして分った?」

「当った!」

 と、啓子は微笑《ほほえ》んだ。「自分が恋をしてみると、他の人のことも分るのね。ちょっと目を見交わす様子とか、口のきき方なんかで」

「そんなものかしら」

 私は、感心していた。「啓子ちゃんに見破られるとはね。——でも、哲平君にそんなこと言っちゃだめよ」

「どうして?」

「照れるから」

 ——ほの暗い照明の下、芝生で抱き合っているアベックもいる。

 若さ、といってしまえばそれまでだが、しかし、私がたとえ二十歳の若い娘だったとしても、こんな所でラブシーンを演じようとは思わないだろう。

 この時代は幸福なのか不幸なのか……。

 と、そこへ、

「こら!」

 と、怒鳴る声がした。

 ザザッ、と茂みが揺れる。暗がりの中を、駆けて行く人影が二つ、見えた。

 ヒョイと目の前に現われた人影を見て、啓子が、なぜかハッとした。

「——何してるんです?」

 と、その男が訊いた。

 それは制服姿の警官だった。

「どうも。——私、大学で社会学を専攻しているんです」

 と、私は言った。「こういう場所の、恋人たちの生態を研究しようと思って」

「ふむ」

 と、警官は、いぶかしげに、「証明書か何か、持っていますか?」

 拒否してもよかったが、まあ、ここは素直に身分証明書を出して見せた。

 警官が、懐中電灯でそれを照らす。——その光に、まだ二十代らしい警官の顔が浮かび上った。

「なるほど。いや、失礼いたしました」

 と証明書を返してくれる。「何しろこの時期はアベックが多いので、その分、覗《ヽ》き《ヽ》も多くて……」

「じゃ、今の二人も?」

「常連ですよ。常連が少なくとも二十人はいる。また中には、覗かれて平気なカップルもいましてね」

 と、苦笑する。

「それで、パトロールしてらっしゃるんですか」

「中には、財布を取られたとかいう人もいるんでね。——それなら、こんな所に来なきゃいいと思うんだが……」

 私も、その警官に同情したくなった。

「この間、自殺した人がいたとか」

 と、私は言った。

「ええ。知らせがあって、僕が一番先に駆けつけたんです」

「大変でしたね」

「でも、それでアベックの数が減ったか、というと、これが全然で。却《かえ》って、ふえているくらいですから」

 その警官はそう言ってから、「おや、君は——」

 と、啓子に気付いて、

「あのときの子じゃないか」

「はい」

「私の姪《めい》なんです」

「そうでしたか。——いや、正志も、悪い奴《やつ》じゃなかったけど……」

「ご存知でした?」

「ええ。よくここの辺で見かけましたからね」

 啓子が、ちょっと戸惑ったように、

「でも——彼、ここは初めてだって言ってましたけど」

 警官は、ちょっとためらってから、

「あいつは、いつもそう言ってたんだよ」

 と言った。

「い《ヽ》つ《ヽ》も《ヽ》?」

「よく女の子を連れて歩いてた。——パッとしないのに、不思議ともてる子だったね」

「——そんな!」

 啓子がショックで青ざめているのが、私には分った。

「実は——」

 と、私は急いで話を変えた。「この子たちにあの場所を教えた人間がいるらしいんです。心当りはありませんか?」

「さて、ね……」

 と、警官が首をひねる。「そんな奴がいるかな。——ま、浮浪者みたいなのも、よくうろついてるけどね」

 警官が行ってしまうと、啓子は無言で、うなだれていた。

「——行きましょう」

 と、私はその肩を軽く叩《たた》いた。「あなたは正志のことを信じてるんでしょう? だったら、他人の言葉ぐらいで、フラついちゃいけないわ」

 啓子は、ハッとしたように顔を上げた。

「分りました。——すみません」

「あの人、私たちのこと、恋《ヽ》人《ヽ》同士だと思ったのかしら」

 と、歩き出しながら言うと、啓子は、ちょっとキョトンとして、それから、

「いやだ!」

 と笑い出した。

 これなら大丈夫。

「じゃ、現場へ案内してよ」

 と、私は促した。

「——本当に?」

「しつこいわね」

 と、私は哲平をにらんでやった。

「だって……気になるんだから、しようがないだろ」

 哲平は、車のハンドルを握りながら、仏頂面をしている。

 日曜日の昼下り。——いいお天気で、少し蒸し暑い。

 哲平がふくれているのは、私があの公園の視察に、一人で行ってしまったからで、つまりは、私が他の男と一緒だったんじゃないかと疑っているのである。

「啓子ちゃんに訊いてごらんなさい」

「分ったよ」

 と、哲平は、やっと機嫌を直したらしく、笑顔になった。

「啓子ちゃんの名前を出したら、急にニコニコし始めて。さては気があるのね?」

「馬鹿言え!」

 と本気で怒っている。

 この辺が可愛《かわい》いところである。

「——道、分ってるの?」

 と、私は訊《き》いた。

「詳しく聞いて来たよ。もう少しだと思うけど」

「——正志って子、他殺の可能性もあるってわけなのね」

「一応はね」

 と、哲平は肯《うなず》いた。「でも、可能性だけじゃ調べないよ。他殺って証拠でも出ればともかく……」

「動機がないわ、自殺の。——それが理由にならないの?」

 哲平は首を振った。

「正直なところ、大して捜査しようって気もないみたいだよ」

「なるほどね」

 私は、ため息をついた。

 これが、もし兄のような、「社会的名士」が殺されたのだったら、警察だって大騒ぎするだろうに。

 私から見れば、正志という子より、兄の命の方が大切だと思う理由は一つもない。

「この辺だな」

 車がゆっくりと停る。「あのアパートじゃないの?」

「そうらしいわね」

 正志が、「兄貴」と住んでいたアパートへやって来たのである。

「いるかな?」

 ——ドアの前まで来て、哲平が言った。

「どうかしら。ともかく——」

 と言いかけて、明らかにその「兄貴」が在室している証拠の声に、言葉を切った。

「——呆《あき》れたな」

 と、哲平が首を振って、「こんな真昼間から……」

 聞こえて来るのは、女と男の絡み合う、派手な声だったのだ。——私が肯《うなず》くと、哲平はドン、ドン、とドアを力一杯叩《たた》いた。

 中でしばらくモゾモゾやっていたが、やがてドアが開いた。

「何だ? うるせえな!」

 上半身裸の男が、髪もボサボサにして、無精ひげを生やし、突っ立っていた。

「あなたが『兄貴』?」

 と、私は言った。

「何だって?」

 と顔をしかめる。

「私、正志君の知り合いなの」

「正志?」

 と、少し考えて、「ああ、この前、ここに居候してた野郎だな」

「憶《おぼ》えてないの?」

「もう、次の奴《やつ》が入ってるんでね。今は、外へやってるが」

「邪魔だから?」

 と、中を覗《のぞ》くと、布団の上に、裸の女が起き上って、タバコをふかしている。

「そばで見学されてちゃ、やりにくいからな」

 と、男はニヤついて、「あんたなら、仲間に入れてやってもいいぜ」

「遠慮しとくわ」

 と、私は言った。「正志君が自殺する理由に心当りは?」

「そんなもの、知るかい」

 と、男は面倒くさそうに言った。「何にしたって、死んじまった奴はそれきりさ。——あんた、正志とできてたのかい?」

「いいえ」

「じゃ、俺《おれ》と、どう? 三人でやるってのも楽しいぜ」

 危いなあ、と思ってはいたのである。

 隣で、哲平がカッカしているのが分っていたからだ。でも、まあ——止めることもないか。

 哲平が、その「兄貴」の胸ぐらを、ドンと突いた。相手は二、三メートルも吹っ飛んで、女の上に引っくり返った。

「キャアッ!」

「熱い! タバコの火が——」

 と、大騒ぎをしている間に、私たちは、アパートから外へ出た。

「胸が悪くなる」

 と、哲平が顔をしかめる。「どこかでアルコールでも入れたいや」

「そう言わないで」

 と私はポンと哲平の肩に手をやって、「少し、車を動かして」

「どうするの?」

「見張るの」

「あいつを? そんなの、むだだよ。あんな奴——」

「いいから、言う通りにして」

 と、私は車の方へ歩きながら言った。

 哲平は、ため息をつきながら、後からついて来た……。

 ——三十分ほどして、あのアパートから、女が出て来た。

 Tシャツとジーパンという、学生っぽいスタイルだ。

「あの女を尾《つ》けるのよ」

 と、私は言った。

「ええ?」

 哲平は面食らったようで、「あの女を——どうして?」

「いいから! ほら、タクシーを拾うわよ。見失わないで」

「分ったよ」

 哲平は肩をすくめて、車をスタートさせた。

 しかし、その女の方は、目的地までタクシーに乗るほどのこともないと思ったのか、駅の前でタクシーを降りた。

「——私、尾行するわ」

 と、車を素早く降りて、「あなたは、お友だちに、例の場所で最初に自殺した女の子のことを調べてもらって」

 と、言うと、キョトンとしている哲平を後に、さっさと券売機へと走った。

 こういう仕事をしていると、人の尾行というのもうまくなる。

 もちろん、人は、自分が尾《つ》けられるなどとは、普通は考えないものである。

 電車を乗りかえたりして、尾行すること一時間。——その女は、古ぼけた建物の中へと入って行った。

 私は、その入口の前まで行って、看板を見た。——〈××演劇研究所〉とある。

「やっぱりね……」

 と、私は呟《つぶや》いた。

 講義を終えた私が研究室へ戻って来ると、意外な客が待っていた。

「あら——」

 私は、椅《い》子《す》から立ち上った八重子を見て、

「珍しい。何のご用?」

 と言った。

 八重子は、固い表情だった。

「啓子はどこ?」

「啓子ちゃん? 私がどうして……」

「分ってるのよ。あなたが啓子をそそのかしたんだわ」

 と、八重子は、ほとんど金切り声に近くなっている。

「八重子さん、落ちついてよ」

 と、私は言った。机の前に座った。「講義を終えたばかりで、くたびれてるの。——啓子ちゃんがいなくなったの?」

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