かくて二人はこの「屋外無料ホテル」へと足を運んで来たのだ。
「正志のアパート、だめなの?」
と、ケイが言うと、正志はあわてて、
「とんでもないよ。兄貴、年中、違う女を連れ込んでるんだ。そんな最中に帰ったりしただけでも、ぶん殴られちまう。俺が女の子なんか連れてったら……」
「ふーん」
ケイは口を尖《とが》らした。「だけど、ずいぶんね。いつも正志が食べるものとか万引きしてるんでしょ? たまには部屋ぐらい使わしてくれたっていいのにね」
「そうはいかねえよ。兄貴は兄貴なんだ。命令にゃ服従さ」
もちろん、本当の兄というわけじゃない。ただ、ちょっとしたことで知り合ったチンピラなのだが、ケイから見ると、正志をいいようにこき使っているだけみたいだ。
でも、それは正志の問題なのだから……。
「じゃ、もう帰ろうよ」
と、ケイは正志の腕を取った。
「だけどさ、もうちょっと歩いてみようぜ。な?」
「もう一回りしちゃったじゃない。これ以上歩いたって——」
言いかけて、ケイは足を止めた。——目の前に、誰かが立っていた。
ちょうど、街灯の光が立木で遮られた場所で、相手はぼんやりとした影でしかない。
「何だよ。何か用か?」
と、正志がにらむ。
「場所を捜してるのかね」
低い、男の声だった。——若い男、という感じではなかったが、話し方のせいでそう思えたのかもしれない。
「お前の知ったことかよ」
と、正志は、ケイの腕をつかんで、「さ、行こうぜ」
と、歩きかけた。
「その先が空《あ》いてるよ」
と、その男が言った。
「ええ?」
正志が訊《き》き返す。「何て言ったんだ?」
「その右手に、いい場所があるよ。行ってみな」
変らぬ低い声で言うと、その男は、ゆっくりと歩いて行った。
ケイは振り返って、その男の後ろ姿を見送った。
「——何だか気味悪いね」
と、ケイは言った。
「その右だって言ったな」
「行くの?」
「ものはためしだ」
「でも……」
ケイは、気が進まなかった。「何か、今の人、変だったよ」
「妙な奴がいるもんさ、こんな所にゃ」
「でも——黒いコート着てた。この真夏に」
「いいじゃねえか。覗《のぞ》くだけ、覗いてみようぜ」
ケイは、あまり気が進まないままに、右手の茂みの奥へと入って行った。
「——へえ! こりゃいいや」
正志は、声を上げた。
そう。——高い茂みに囲まれて、ポカッと草地が空いているのだった。
しかも、街灯の光が、ほどほどに射《さ》し込んで、真暗でもないが、といって覗き屋に覗かれるほど明るくもない。
「なあ、ここならいいだろ? ちゃんと下にジャンパー敷いてさ」
「うん……。でも……」
ケイは、もちろん正直、ちょっと不安でもあったのだが、今は、むしろあの妙な男のことの方が気になっていた。
「なあ……」
正志がケイを抱きしめてキスする。——ケイは、ちょっと身《み》悶《もだ》えしたが、じっと抱かれていると、もともとそうなってもかまわないという気持でいたのだし……。
「蚊に刺されないかなあ」
と言いながら、草地に腰をおろした。
「——救急車だ」
と、哲平が言った。
「パトカーよ」
ウトウトしながら、私は訂正した。
「——何かあったのかな」
「東京は、いつも何かのサイレンが聞こえてる町だわ」
私は、頭を振って、少しスッキリさせると、
「さあ、もう出ましょうよ」
と言った。
「泊らないの?」
「あなた、泊って行けば? 私は今夜、レポートを見ないとね」
私は、ゆっくりとベッドに起き上った。
——私の名は宮島令子。J大学社会学科の助教授をつとめている。
ホテルのベッドの中で「特別講義」を受けていたのは、助手の佐々木哲平である。もちろん、三十五歳になる私よりぐっと若い、二十七歳。
単純素朴というか、人の良さが取り柄の恋《ヽ》人《ヽ》である。
助教授と助手という関係だからといって、付合いを無理強いしていると思われては困る。——この関係はあくまで大学外のもの。ちゃんとけじめはつけている。
要するに私の年上の魅力に、哲平が参っているだけのこと——とは、自分で言うことじゃないかもしれないが。
先にシャワーを浴びて出て来ると、哲平の方は、またぐっすりと眠り込んでしまっている。
ま、起こすこともないか。支払いも済んでいるし。
「明日は、と……」
私は服を着ると、バッグから手帳を出して、めくった。
「講義は午後だけね」
それなら、哲平をまだ寝かせておいても大丈夫だ。
ベッドのわきの目覚し時計を朝の十時に合わせてセットし、そっと部屋を出た。
そろそろ夜中——十一時半になるところだ。帰って、レポートに目を通し、採点しておかなくては。
充分に運《ヽ》動《ヽ》して、体がほぐれたせいか、大いにやる気になっていた。
タクシーを拾おうと歩いて行くと、後ろからサイレンの音が近付いて来る。今度は救急車だ。
ちょうど、すぐわきが病院の救急入口で、そこへ入るのだろう。
救急車は、見ていると、やはりその入口を曲って中へ入り、停った。
病院の中から、看護婦と当直の医師が飛び出して来る。救急車の後ろの扉が開いた。
「——正志! しっかりしてよ! 目を開けてよ!」
と、一人の少女が泣きながら降りて来る。
担架に乗せられているのは、その少女の恋人なのか。
「死んじゃいやだ! 正志!」
少女の叫び声が、何となく私の足を止めさせていた。
「あれ、もしかして……」
と、私は呟いた。
「早く! 早く何とかして!」
と、少女は医者にすがりつかんばかりにしている。
「落ちつくんだ。——今、警察の人が来るから、事情を話すんだよ」
と、医師が少女の肩をつかんで、「いいね?——そこに座ってなさい」
少女は、病院の中へ、うなだれたまま入って行く。
私は、いつの間にか、そっちへと歩き出していた。
急患入口のドアのすぐ奥の長椅《い》子《す》に、少女は腰をかけて、祈るように固く両手を握りしめている。
私は、その前に行って、足を止めた。
少女が、私に気付いて顔を上げるのに、少しかかった。
涙に濡《ぬ》れた目で、最初は私に気付かなかったようだ。
「やっぱり」
と、私は言った。「啓子ちゃんでしょう」
少女は手の甲で目をこすると、
「——令子おばさん」
と、言った。
正直なところ、「お姉さん」と呼んでほしいが、今はそこにこだわっている場合ではない。
「今、かつぎ込まれたの、啓子ちゃんの、恋人?」
と、私は訊《き》いた。
啓子が肯《うなず》く。
「何ごとなの?」
「分んないの」
と、啓子は首を振った。「急に——急に、彼、首を吊《つ》って——」
「何ですって?」
私はびっくりして訊き返した。
「自殺なんて、するわけないのに! そんなはずないのに!」
啓子は、両手で顔を覆った。
2
「わざわざ悪かったわねえ、令子さん」
と、宮島八重子が言った。
「いいえ。——啓子ちゃんは?」
「あの子は、何だか一人で泣いてるわ」
その、突き放したような言い方に、私はちょっとカチンと来た。
「困ったもんだわ、あの子にも」
と、八重子は言って、ソファに腰をおろした。
「兄さんは?」
と、私は訊《き》いた。
「学会で、ニューヨークへ行ってるの」
「そう」
私は、冷え冷えとした思いで、冷めたお茶を一口飲んだ。
立派な応接間である。
ここは私の兄の家だ。——大学の教授で、もっとも、私とは大分タイプが違う。
工学部にいる兄は、十を下らない数の企業の顧問をやって、いとも優雅な暮しを楽しんでいた。
この家だって、顧問をしている建設会社に、かなり安く建てさせているはずだ。車は、いつも新車。——自動車メーカーが、〈試乗〉という名目で、次々に新しい車をくれるのである。
そういう生活に順応してしまうと、もう、コツコツとお金にもならない研究など、やる気になれなくて当然である。
兄は、専ら財力に任せて、人脈とコネで学部長のポストをものにして、今や天下を取った、という様子。
多少年齢も離れていたせいか、もともと私は兄になじめない妹だった。特に、ここ数年、めったに会うこともない。
妻の八重子という女性が、また気位の高さと、貯金通帳を座右の書にしていることでは兄といい勝負——いや、兄以上かもしれなかった。
初めから、私とは反りが合わず、お互い、会っても挨《あい》拶《さつ》以上の口はきかないという、賢明な付合い方をしていた。
「本当に恥さらしだわ」
と、八重子が言った。「父親の名に傷がつくのを分ってて、あんなことをして……」
私は、黙って、居間の方へ通じるドアを見やった。その向うで、啓子が泣いているだろう。
一人っ子の啓子は、両親がやたら社交で忙しいのが逆に幸いしたのか、とても優しい、可愛《かわい》い娘に育った。兄や八重子には会いたくもなかったが、私もたまにはこの姪《めい》に、プレゼントをしてやったり、食事をおごったりしたものだ。
その啓子が、不良と付合い出したと兄からグチを聞かされたのは、一年くらい前だったろうか。
「何を言っても、すぐに口答えばかりするんだ。全く、かなわん」
兄は苦々しく言って、太った腹をゆすったものだ。
私としては、十五、六歳にもなって、親に反抗一つできない子では、却《かえ》って心配だと言ってやりたかった。特に、頭でっかちに育って、心の発達が幼児並みの大学生を、いつも間近に見ているだけに、そう思っていたのである。
しかし、言ったところで兄には分らなかったろう。——私は、傷つきやすい年代に入った啓子のことが心配だったが、自分の仕事の忙しさに、こちらから声をかけることは、なくなっていた……。
「啓子ちゃん、家を出ていたの?」
と、私は訊《き》いた。
「ええ。何だか、ロックをやっているとかいう、薄汚い男の子たちと大勢で暮してたわ。でも、その内、飽きたのか、プイと姿を消して、三週間ぐらいになるかしらね」
「捜さなかったの?」
「騒がれても困るし。体面というものがあるでしょ」
これが母親の言葉か、と腹が立った。
「八重子さん——」
と、言いかけたとき、ドアが開いた。
「啓子ちゃん……。大丈夫?」
私は、立って行って、泣きはらした目を真赤にしている啓子の肩を、そっと叩《たた》いた。
「ウン……」
啓子は、力なく肯《うなず》いた。「でも……分らない。どうして正志が……」
「分ったでしょう」
と、八重子がかぶせるように言った。「そういう不良は、わけもなく死んだりするものなのよ。生きる気力もないんだから」
「お母さん! やめて!」
啓子が、じっと母親をにらんだ。「私、正志が好きだったのよ」
「結構な恋人ね。好きになりゃ、その辺のくさむらで愛し合う。——犬や猫と同じだわ」
啓子が青ざめた。
「八重子さん。やめなさいよ」
と、私は言った。「今は啓子ちゃんを、そっとしておいてあげて」
「そうはいきませんよ」
八重子は、立ち上って、「学校の方は、ずっと病気休学ということにしてあるわ。お医者様に診断書を作ってもらって、明日、持って行くのよ」
「学校なんて行かないわ」
と、啓子が言い返す。
「成績の方は、お父様から話していただけば何とでもなる。ともかく、明日は私と一緒に学校へ行くのよ」
ほとんど感情のない、命令口調だった。
そこに、母親としての怒りでも感じられれば、まだ救われたかもしれないが……。
「令子さん、ご苦労さまでした。もう引き取って下さいな」
八重子は、ロボットの合成音のような声で言った。
「幽霊?」
と、私は、読みかけの論文から顔を上げて、言った。
「——の、た《ヽ》た《ヽ》り《ヽ》じゃないですかね」
と、哲平が、コピーをドサッと置いて、「これ、昨日言われた——」
「ありがとう」
私は、コーヒーを一口飲んで、「ね、そのたたり、って何のこと?」
「やっぱり興味ありますか?」
と、哲平がニヤついている。
ここは大学。大学の中では、助教授と助手の間柄である。
「何をもったいぶってんのよ」
と、私は苦笑した。
「例の、アベックの名所で自殺した男のことですよ」
「正志とかいう男の子ね。十七歳だったんでしょ?——それがどうかしたの?」
「例の、友だちに聞いたんですけどね」
哲平には、警視庁の捜査一課に勤める友人がいるのだ。「——あの同じ木で首を吊《つ》った女の子がいるんですって。一年前くらいだそうですよ」
「女の子?」
「ええ。男に捨てられたらしいんですね。で、男のことを恨んで死んだ、と……」
「その子の幽霊が出るの?」
「いや、その後、あの場所には、アベックも近寄らないんだそうですよ」
「でも、正志って子は——」
「ええ。たまにそこへ行く、何も知らないカップルがあって……。もう、これまでに二人。首を吊ってるんですって」
「二人も? じゃ、正志って子で、三人目なの?」
「そういうことですね。——面白いでしょう?」
少々不謹慎な言い方だが、哲平は、私が「呪《のろ》い」とか「幽霊」とかいった超自然的なものに関心があることを知っているのだ。
しかし。今度の場合は……。何といっても。啓子のことがある。
単純に、面白がってはいられない。
「ねえ、哲平」
「大学では、佐々木君と呼んで下さい」
と、哲平がやり返した。
「こら!——ね、その二人の自殺者のこと、少し詳しく調べてよ」
「仕事中にですか? それとも——」
「いつでもいいわよ。息抜き中で。一日に何回もあるでしょ?」
「あ! ひどいなあ。こんなにこき使われてるのに」
と、文句を言いつつ、哲平はすぐに私の頼みを聞いてくれる。
恋人のためなら、休みも返上して悔いがないのが若者というものだ。
研究室のドアをノックする音がして、
「どうぞ」
と声をかけると、少し間があってから、
「失礼します……」
と、入って来たのは、啓子だった。
「あら、よく来たわね」
私はできるだけ明るい口調で言った。
——啓子は、この前とは別人のようだった。いかにも「お嬢さん」風の、地味で高そうなワンピース姿。髪も短く切って、きちんとセットしてある。
「——座ったら? 佐々木君、啓子ちゃんに何か飲みものを——」
「はい!」
やっぱり、若い子となると、哲平も、私以上に熱心にサービスしたくなるらしい。
啓子は、何やら思い詰めた風に、じっと座ったなり、身じろぎもせずに顔を伏せていたが、私は声をかけなかった。
やがて、啓子は顔を上げると、
「私——死にたい」
と言った。
「なぜ? 正志って子の後を追いたいの?」
「いいえ」
と、啓子は首を振った。「自分が、惨めで——恥ずかしくて」
「というと……」
「母の言うなりで、こんな風に、いい子の服装して、学校へ通ってるんですもの。勉強なんかしないのに、ちゃんと進級させてくれて、それは父のお金の力なんだもの。そんなものいらない、ってはねつけられない自分が、いやでたまらない……」
啓子が、ため息をついた。「でも——泣けないの。涙が出ない。——寂しいわ」
今は、恋人を失って、一種の放心状態にあるのだ。
「令子おばさん」
と、啓子は身を乗り出した。「正志は、そりゃあ、世間から見りゃ、役に立たない、不良かもしれない。でも、私のこと好きだったのは本当よ。私だって——好きだった!」
「分ってるわ」
と、私は肯《うなず》いた。
「でも、彼、死んだわ。なぜ?——私、それが知りたい! 私のせいで死んだのかどうか……」
「思い当ることはないのね?」
「全然」
と、首を振って、「正直に言うわ。——あのとき、私、正志に抱かれてもいいと思ってたの。正志もそのつもりだった。私、拒んだりしなかったわ。それなのに、どうして死ぬことがあるの?」
「どうして彼はあなたから離れたの?」
「何だか……手を洗って来るって。すぐに戻ると思ってたのに、いつまでも帰って来なくって。——変だと思って、捜しに行ったら、木から……」
と、顔を伏せる。
「詳しいことは聞いてないんだけど、使った縄は?」
「分らないわ。そんなもの、持ってなかったのに」
「遺書らしいものもなくて?」
「ええ。——警察だって、真剣に調べちゃくれないの。どうせ役立たずが一人減った、ぐらいにしか思ってないんだもの」
啓子の目から涙が溢《あふ》れ出た。「役立たずは人を恋しちゃいけないの? 不良に恋はできないの?」
私は、じっと啓子を見ていた。
哲平が、紅茶を運んで来る。
「——私が調べてあげる」
と、私は言った。
「本当に?」
「でも、どんな結果が出るかは分らないわよ。それは承知しておいてね」
啓子は、肯いた。——私は、啓子から、正志という男の子のことをいくつか聞いて、彼女を表まで送って行った。
「——仕事の邪魔して、ごめんなさい」
と、啓子は言って、帰って行った。
その後ろ姿は、まるで、大人のそれのように、疲れていた。
研究室に戻ると、
「哲平——」
と、声をかける。
「明日の講義は休講ですね」
と、哲平がすかさず言った。「ちゃんと手配しときました」
私は、笑って、言った。
「気がきくじゃないの! ついでにもう一つ、お願い」
と、机に向かって、「正志って子の死に他《ヽ》殺《ヽ》の疑いがないかどうか、例のお友だちに確かめてちょうだい」
「了解」
「それとね、ちょっと付合ってよ」
「いつでも!」
と、哲平が目を輝かす。
「そんなにがっつかないの。——一つ、夜のデートコース見学でもしましょうよ」
私は、哲平にちょっとウインクして見せた。
これは大学内の行為としては、少々行き過ぎだったかもしれない……。
3
残念ながら、夜のデートコース見学は、哲平と二人というわけにはいかなかった。
哲平は、例の警視庁の友だちから話を聞き出すために、飲みに行っている。もちろん、その「軍資金」は私のポケットマネーである。
私は私で、一人でアベック天国を歩くのも気づまりなので、啓子を呼び出すことにしたのだ。
母親の八重子には、
「啓子ちゃんを、少し元気付けてやりたいから」
と言っておいた。
しかし、考えてみれば、啓子と一緒でなければ、この公園をただ歩いたって、何も分りはしなかっただろう……。
「すみません、令子おばさん」
と、啓子は言った。「仕事、忙しいんでしょ?」
私としては、忙しいよりも、「おばさん」の呼び名の方が気になったが、まあ、二十近くも年齢が違って、「お姉さん」と呼べと言うのも無理というものだろう。
「これも仕事の一つよ」
と、私は言った。「社会学者としては、世間の実相を、よく見ておく必要があるんだから」
「アベックも?」
「もちろん。恋人たちの様子を見ていれば、その時代のことが、よく分るものよ」
「本当ですか?」
「これは有名な学説なのよ。——〈宮島令子の法則〉といってね」
私たちは顔を見合わせて、フフ、と笑った。
これでいい、と思った。——何といっても、啓子にとっては恋人の死んだ場所である。
少し、気持をほぐしておく必要がある、と思ったのだ。
「へえ! 凄《すご》いのね」
——公園へ足を踏み入れて、私は目を丸くした。
もちろん、夜の公園のベンチを埋めるアベックの列を、見たことがないわけではないが、それにしても壮観である。
加えて、互いが互いを刺激する、ということもあるのだろう、そこここで、かなり大胆なラブシーンが展開されている。
「あそこへ行きますか?」
と、啓子が訊《き》く。
「そうね。でも、真直ぐに行ったんじゃ、見落とすこともあるかもしれないわ」
と、私は言った。「ゆっくり、見物しながら行きましょ。——啓子ちゃん、もし、見たくなければ——」
「いえ、大丈夫」
啓子は首を振った。「他の恋人たちなんか見たって、何とも思いません」
少しは強がっている。
「その元気!」
と、私は啓子の肩を叩《たた》いた。「さ、行きましょうか」
ゆっくりと二人して歩き出す。——少しして、啓子が言った。
「ね、令子おばさん」
「なあに?」
「あの研究室の助手の人——おばさんの恋人?」
私は、びっくりした。
「まあ——そんなところね。でも、どうして分った?」
「当った!」
と、啓子は微笑《ほほえ》んだ。「自分が恋をしてみると、他の人のことも分るのね。ちょっと目を見交わす様子とか、口のきき方なんかで」
「そんなものかしら」
私は、感心していた。「啓子ちゃんに見破られるとはね。——でも、哲平君にそんなこと言っちゃだめよ」
「どうして?」
「照れるから」
——ほの暗い照明の下、芝生で抱き合っているアベックもいる。
若さ、といってしまえばそれまでだが、しかし、私がたとえ二十歳の若い娘だったとしても、こんな所でラブシーンを演じようとは思わないだろう。
この時代は幸福なのか不幸なのか……。
と、そこへ、
「こら!」
と、怒鳴る声がした。
ザザッ、と茂みが揺れる。暗がりの中を、駆けて行く人影が二つ、見えた。
ヒョイと目の前に現われた人影を見て、啓子が、なぜかハッとした。
「——何してるんです?」
と、その男が訊いた。
それは制服姿の警官だった。
「どうも。——私、大学で社会学を専攻しているんです」
と、私は言った。「こういう場所の、恋人たちの生態を研究しようと思って」
「ふむ」
と、警官は、いぶかしげに、「証明書か何か、持っていますか?」
拒否してもよかったが、まあ、ここは素直に身分証明書を出して見せた。
警官が、懐中電灯でそれを照らす。——その光に、まだ二十代らしい警官の顔が浮かび上った。
「なるほど。いや、失礼いたしました」
と証明書を返してくれる。「何しろこの時期はアベックが多いので、その分、覗《ヽ》き《ヽ》も多くて……」
「じゃ、今の二人も?」
「常連ですよ。常連が少なくとも二十人はいる。また中には、覗かれて平気なカップルもいましてね」
と、苦笑する。
「それで、パトロールしてらっしゃるんですか」
「中には、財布を取られたとかいう人もいるんでね。——それなら、こんな所に来なきゃいいと思うんだが……」
私も、その警官に同情したくなった。
「この間、自殺した人がいたとか」
と、私は言った。
「ええ。知らせがあって、僕が一番先に駆けつけたんです」
「大変でしたね」
「でも、それでアベックの数が減ったか、というと、これが全然で。却《かえ》って、ふえているくらいですから」
その警官はそう言ってから、「おや、君は——」
と、啓子に気付いて、
「あのときの子じゃないか」
「はい」
「私の姪《めい》なんです」
「そうでしたか。——いや、正志も、悪い奴《やつ》じゃなかったけど……」
「ご存知でした?」
「ええ。よくここの辺で見かけましたからね」
啓子が、ちょっと戸惑ったように、
「でも——彼、ここは初めてだって言ってましたけど」
警官は、ちょっとためらってから、
「あいつは、いつもそう言ってたんだよ」
と言った。
「い《ヽ》つ《ヽ》も《ヽ》?」
「よく女の子を連れて歩いてた。——パッとしないのに、不思議ともてる子だったね」
「——そんな!」
啓子がショックで青ざめているのが、私には分った。
「実は——」
と、私は急いで話を変えた。「この子たちにあの場所を教えた人間がいるらしいんです。心当りはありませんか?」
「さて、ね……」
と、警官が首をひねる。「そんな奴がいるかな。——ま、浮浪者みたいなのも、よくうろついてるけどね」
警官が行ってしまうと、啓子は無言で、うなだれていた。
「——行きましょう」
と、私はその肩を軽く叩《たた》いた。「あなたは正志のことを信じてるんでしょう? だったら、他人の言葉ぐらいで、フラついちゃいけないわ」
啓子は、ハッとしたように顔を上げた。
「分りました。——すみません」
「あの人、私たちのこと、恋《ヽ》人《ヽ》同士だと思ったのかしら」
と、歩き出しながら言うと、啓子は、ちょっとキョトンとして、それから、
「いやだ!」
と笑い出した。
これなら大丈夫。
「じゃ、現場へ案内してよ」
と、私は促した。
「——本当に?」
「しつこいわね」
と、私は哲平をにらんでやった。
「だって……気になるんだから、しようがないだろ」
哲平は、車のハンドルを握りながら、仏頂面をしている。
日曜日の昼下り。——いいお天気で、少し蒸し暑い。
哲平がふくれているのは、私があの公園の視察に、一人で行ってしまったからで、つまりは、私が他の男と一緒だったんじゃないかと疑っているのである。
「啓子ちゃんに訊いてごらんなさい」
「分ったよ」
と、哲平は、やっと機嫌を直したらしく、笑顔になった。
「啓子ちゃんの名前を出したら、急にニコニコし始めて。さては気があるのね?」
「馬鹿言え!」
と本気で怒っている。
この辺が可愛《かわい》いところである。
「——道、分ってるの?」
と、私は訊《き》いた。
「詳しく聞いて来たよ。もう少しだと思うけど」
「——正志って子、他殺の可能性もあるってわけなのね」
「一応はね」
と、哲平は肯《うなず》いた。「でも、可能性だけじゃ調べないよ。他殺って証拠でも出ればともかく……」
「動機がないわ、自殺の。——それが理由にならないの?」
哲平は首を振った。
「正直なところ、大して捜査しようって気もないみたいだよ」
「なるほどね」
私は、ため息をついた。
これが、もし兄のような、「社会的名士」が殺されたのだったら、警察だって大騒ぎするだろうに。
私から見れば、正志という子より、兄の命の方が大切だと思う理由は一つもない。
「この辺だな」
車がゆっくりと停る。「あのアパートじゃないの?」
「そうらしいわね」
正志が、「兄貴」と住んでいたアパートへやって来たのである。
「いるかな?」
——ドアの前まで来て、哲平が言った。
「どうかしら。ともかく——」
と言いかけて、明らかにその「兄貴」が在室している証拠の声に、言葉を切った。
「——呆《あき》れたな」
と、哲平が首を振って、「こんな真昼間から……」
聞こえて来るのは、女と男の絡み合う、派手な声だったのだ。——私が肯《うなず》くと、哲平はドン、ドン、とドアを力一杯叩《たた》いた。
中でしばらくモゾモゾやっていたが、やがてドアが開いた。
「何だ? うるせえな!」
上半身裸の男が、髪もボサボサにして、無精ひげを生やし、突っ立っていた。
「あなたが『兄貴』?」
と、私は言った。
「何だって?」
と顔をしかめる。
「私、正志君の知り合いなの」
「正志?」
と、少し考えて、「ああ、この前、ここに居候してた野郎だな」
「憶《おぼ》えてないの?」
「もう、次の奴《やつ》が入ってるんでね。今は、外へやってるが」
「邪魔だから?」
と、中を覗《のぞ》くと、布団の上に、裸の女が起き上って、タバコをふかしている。
「そばで見学されてちゃ、やりにくいからな」
と、男はニヤついて、「あんたなら、仲間に入れてやってもいいぜ」
「遠慮しとくわ」
と、私は言った。「正志君が自殺する理由に心当りは?」
「そんなもの、知るかい」
と、男は面倒くさそうに言った。「何にしたって、死んじまった奴はそれきりさ。——あんた、正志とできてたのかい?」
「いいえ」
「じゃ、俺《おれ》と、どう? 三人でやるってのも楽しいぜ」
危いなあ、と思ってはいたのである。
隣で、哲平がカッカしているのが分っていたからだ。でも、まあ——止めることもないか。
哲平が、その「兄貴」の胸ぐらを、ドンと突いた。相手は二、三メートルも吹っ飛んで、女の上に引っくり返った。
「キャアッ!」
「熱い! タバコの火が——」
と、大騒ぎをしている間に、私たちは、アパートから外へ出た。
「胸が悪くなる」
と、哲平が顔をしかめる。「どこかでアルコールでも入れたいや」
「そう言わないで」
と私はポンと哲平の肩に手をやって、「少し、車を動かして」
「どうするの?」
「見張るの」
「あいつを? そんなの、むだだよ。あんな奴——」
「いいから、言う通りにして」
と、私は車の方へ歩きながら言った。
哲平は、ため息をつきながら、後からついて来た……。
——三十分ほどして、あのアパートから、女が出て来た。
Tシャツとジーパンという、学生っぽいスタイルだ。
「あの女を尾《つ》けるのよ」
と、私は言った。
「ええ?」
哲平は面食らったようで、「あの女を——どうして?」
「いいから! ほら、タクシーを拾うわよ。見失わないで」
「分ったよ」
哲平は肩をすくめて、車をスタートさせた。
しかし、その女の方は、目的地までタクシーに乗るほどのこともないと思ったのか、駅の前でタクシーを降りた。
「——私、尾行するわ」
と、車を素早く降りて、「あなたは、お友だちに、例の場所で最初に自殺した女の子のことを調べてもらって」
と、言うと、キョトンとしている哲平を後に、さっさと券売機へと走った。
こういう仕事をしていると、人の尾行というのもうまくなる。
もちろん、人は、自分が尾《つ》けられるなどとは、普通は考えないものである。
電車を乗りかえたりして、尾行すること一時間。——その女は、古ぼけた建物の中へと入って行った。
私は、その入口の前まで行って、看板を見た。——〈××演劇研究所〉とある。
「やっぱりね……」
と、私は呟《つぶや》いた。
4
講義を終えた私が研究室へ戻って来ると、意外な客が待っていた。
「あら——」
私は、椅《い》子《す》から立ち上った八重子を見て、
「珍しい。何のご用?」
と言った。
八重子は、固い表情だった。
「啓子はどこ?」
「啓子ちゃん? 私がどうして……」
「分ってるのよ。あなたが啓子をそそのかしたんだわ」
と、八重子は、ほとんど金切り声に近くなっている。
「八重子さん、落ちついてよ」
と、私は言った。机の前に座った。「講義を終えたばかりで、くたびれてるの。——啓子ちゃんがいなくなったの?」