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作者: 当前章节:15387 字 更新时间:2026-6-22 20:36

 と、私は澄まして言った。

 ——公園は静かだった。

「別にTV局も何も来てないじゃないの」

 と、私は言った。

「そうだね。じゃ、きっと忙しいんだ」

「狼男の方で、TV局に出向いたのかもしれないわ」

 と、私は言った。

 公園の中を抜けて行くと、例の、田端が狼男と出くわしたらしい、暗がりにさしかかる。

「街灯代をケチったのね、きっと」

「公共事業費の配分に問題があるんだ」

 と、哲平が言いかえる。

「また出て来るかしら」

「あんまり会いたいとは思わないなぁ」

 と、哲平は首を振った。

 私たちは、暗がりの中へと足を踏み入れた。

 ほんの二、三十メートルでしかないのだが、確かにあまりいい気分ではない。

 つい、足取りも早くなった。——と、半分くらい来たところで、突然、

「ガオーッ!」

 と、声を上げて、何かが、茂みから飛び出して来た。

「ワァッ!」

 と、哲平が仰天して尻《しり》もちをつく。

 私はサッと身を沈めた。のしかかって来た黒い影を、エイッと……。

 言い忘れていたが、私は多《ヽ》少《ヽ》合気道の心得がある。

 その何《ヽ》か《ヽ》は、私の体の上で一回転して、デン、と地面に落下した。

「——誠にどうも」

 と、そのプロデューサーは、何度も頭を下げた。

「謝っていただけば済むってものではありません」

 と、私は言った。

「いえ、本当に手違いでして……」

「暴行未遂で訴えてもいいんですよ!」

「いや、どうかそれだけは——」

 ——あの公園の中が今はやたらと明るい。

 別に夜が明けたわけではなく、TVカメラのためのライトが当っているのである。

「ウーン」

 と、呻《うめ》いているのは、頭に狼のマスクをかぶった役者。

 私に投げられて、腰をしたたかに打っていた。

 要するに、TV局がやはり待ち構えていて、本当は、や《ヽ》ら《ヽ》せ《ヽ》の被害者が、二人、ここへ来ることになっていたらしいのだ。

 それが手違いで遅れ、そこへちょうど私たちが通りかかった、というわけである。

「まあいいでしょ」

 と、私は肩をすくめた。「ただ、おたくももう少し中身のある仕事をしたらいいわ」

「恐れ入ります」

 プロデューサーは平謝りである。

 わきへよけて、こりもせずに茶番劇をくり返している様子を眺めていると、哲平がやって来た。

「あんまりいじめちゃ可哀《かわい》そうだよ。実質的に被害にあったのは、向うなんだから」

「少しは痛い目にあっていいのよ、ああいう手合は」

「厳しいね」

「あなたも、腰抜かしたくせに」

「腰を抜かしたんじゃないよ!」

 と、むきになって、「ただ——びっくりして、足を滑らせて、座っちゃったというだけだ!」

 私は思わず笑い出してしまった。——こういうところが可愛《かわい》いのだ。

「でも、こんな調子じゃ、とても狼男なんて出そうにないわね」

 と、私は言った。

「よほど目立ちたがり屋ならともかくね」

「帰りましょう。——ここにいたって、何にもならないし……」

 と、言いかけたとき、

「助けてくれ……」

 と、切れ切れの声が聞こえた。

「——また、何かやってるのね」

「他の局とはち合わせしたのかな」

 私たちは振り向いた。そして——ギョッとした。

 誰かが、よろけるように歩いて来る。

「——田端!」

 と、哲平が言った。

 そう、田端だった! 喉《のど》から胸の辺り、ワイシャツを、真赤な血が染めている。

「どうしたんだ!」

 と、哲平が駆け寄った。

「君か!——助けて——」

 と、口走るなり、田端はその場に、崩れるように倒れてしまった。

「大変だ!」

「救急車を——」

 私はTV局の人間たちの方へと走って行った。

「救急車を呼んで!」

 と、怒鳴ると、さっき私に投げ飛ばされた役者が、目の前に立っていた。

「あんたか! こっちの方が救急車を呼んでほしいくらいだぜ!」

「やかましい!」

 と、私は大声を上げた。「早く救急車を呼べ!」

 相手は飛び上って、駆けて行った。

 もちろん、これで良かったのだ。——すぐに、救急車がやって来て、田端は命を取り止めたのだから。

 ただ、一つまずかったのは、私が怒鳴っているところが、TVの生番組に出てしまったことだった……。

 病室のドアを開けて、

「ごめんなさい……。入っても?」

 と、私は言った。

「あ、先生」

 飯田真子が、椅《い》子《す》から立ち上った。

「先生って呼ばれると、照れくさいわ」

 と、私は言った。「どう、具合は?」

「ええ、一応、順調です」

「良かったわね」

 私は肯《うなず》いて、ベッドの上の田端を見た。

「今、ちょっと眠っていて……」

「じゃ、廊下へ出ましょうか」

 と、私は促した。

 ——あの事件から、三日がたっていた。

 私の武《ヽ》勇《ヽ》伝《ヽ》は、すっかり大学に知れわたって、学部長から、たっぷりといやみを言われた。

 でも、別に大学当局に迷惑をかけたわけではなし、クビになるわけはないので、こっちも平気な顔で受け流していた。

「——困ったことになったわね」

 と、私は言った。「マスコミが大騒ぎしてるわ。この病院が知れたら、あなたも逃げられないわよ」

「私……」

 真子は、思い詰めたように、「私のせいです。あの人があんな目にあったのは」

 と言って、目を伏せた。

「あなたの? どうして?」

「だって——」

 真子は、ちょっとためらってから、「私が襲われたとき、あの人が助けてくれたんですもの。だから今度はあの人が狙《ねら》われたんだわ」

「それはおかしいわ」

 と、私は言った。

「え?」

「だって、そうでしょ? だったら、どうして大沼が殺されたの?」

「それは……」

 と、真子が詰まる。

「ね? 田端さんが襲われたのは、あなたとは関係ないのよ。ただ、帰りが遅かったから、狙われただけ。——分った? 気にしちゃいけないわ」

 真子は、しばらく顔を伏せていたが、やがて目を上げ、ゆっくりと肯いた。

「——分りました」

「そう! それでいいのよ。あなた、田端さんを愛してるんでしょ?」

「ええ」

 やっと、真子は笑顔を見せた。

「狼男が取りもった縁ね。満月の夜にでも結婚式を挙げたら?」

 と、私は言った。

「そうですね」

 と、真子はちょっと笑った。「——本当にありがとうございました」

「いいえ。あなた、ずっとここに詰めてるの?」

「いえ——ちょっとマンションに戻って、取って来たいものがあるんです」

「ああ、それじゃ、佐々木君に車で送らせるわ」

「いいえ、そんなこと——」

「いいのよ。どうせヒマなんだから」

 と、私は言った。

「この忙しいのに」

 と、哲平はいつものように文句を言った。

「先生の命令よ」

「だけど——」

「いいわね、あなたにぜひ行ってもらいたいの」

「え?」

 と、哲平は目をパチクリさせた。

「聞いて」

 私は、病院の玄関の方へと、哲平と並んで歩きながら、言った。「——あの子を送って、向うに着いたら、やってほしいことがあるのよ」

「ちょっと待った」

 と、哲平は私を見て、「また何か企《たくら》んでるね?」

「人聞きの悪いこと言わないで。これは正義のためなんだから」

「オーバーだなぁ。要するに趣味のためなんだろ?」

「似たようなもんよ」

「——で、何をすりゃいいの?」

 哲平は、ため息をついて、言った。

「あの子をね、ホテルに誘ってほしいの」

 私の言葉に哲平は目をむいた。

 私は、一足先に病院を出ると、タクシーでそのマンションへと向かった。

 哲平に、十五分ほど遅れて出るように言ってある。先に着かなくてはならなかったのだ。

 マンションの少し手前でタクシーを降りると、私は、建物の裏側へと回った。

 建物の陰から覗《のぞ》くと、駐車場が見えている。

 あの、大柄な駐車場のおじさんが、ブラブラと歩き回っているのが見えた。

 哲平の車はまだ来ていない。——うまく行くのだろうか?

 いや、もちろん何もなければ、それに越したことはないのだが。

 しかし、もし私の想像が当っているとしたら……。

「——来たわね」

 と、呟《つぶや》く。

 見《み》憶《おぼ》えのある中古車が、駐車場に入ってきた。

 車が停ると、真子が降りて来て、小走りに、建物の中へと入って行った。

 駐車場のおじさんが、哲平の車の方に寄って行く。そして、中の哲平と、何やら話している様子だった。

 真子はなかなか出て来ない。

 入院に必要なもの、となると、揃《そろ》えるのは大仕事である。時間がかかるのも当然だろう。

 待ちかねたのか、哲平が車を出た。

 駐車場のおじさんが、どこかへ歩いて行くのが見えた。

 哲平が、建物の中へと入って行く。

 私も、静かに、階段を上って行った……。

 哲平が、ドアを開けて出て来ると、

「じゃ、これを運んでおくからね」

 と、大きなバッグをかかえて、言った。

「すみません。すぐ行きますから」

 と、真子の声がした。

 哲平は、バッグをかかえて、エレベーターの方へ歩いて行ったが——

「何だ、〈点検中〉か。さっきは動いていたのに」

 と呟いて、肩をすくめ、階段の方へと歩いて行った。

 トコトコと階段を降りて行く。——ヒョイ、と角を曲ったときだった。

 何《ヽ》か《ヽ》が、前に立ちはだかった。——燃えるように赤い目。そしてカーッと開いた口に光る牙《きば》——。

「ワーッ!」

 哲平は飛び上った。

 バッグを投げ出して、駆け出す。

 廊下へ飛び出し、駆けて行く。そして、途中で足を滑らして、転んでしまった。

「——ご苦労さま」

 と、私は言った。

 後から追って来た狼《ヽ》男《ヽ》が、ハッと足を止め、ためらった。

「何もかもわかってるのよ、待って!」

 と、私は声をかけた。「そのマスクを外して、駐車場のおじさん」

 相手は、しばらく息を弾ませていたが、やがて諦《あきら》めたように肩を落として、ゆっくりとマスクを外した。

「ああ、びっくりした」

 哲平が、やっとの思いで立ち上る。

「言った通りにしたわね?」

「うん。真子さんとホテルに行くんだって自慢げに言ったよ」

「そりゃ、おじさんとしては、黙って見過せなかったわね。真子さんは、あなたの娘でしょ」

 駐車場のおじさんは、ゆっくりと肯いた。

「その通りだよ」

「そして、大沼のせいで自殺した娘さんの父親でもある」

「よく分ったね」

「見当はついてたわ。——大沼に仕返しするために、ここへ住み込んだのね」

「その通りだ。——あの子は、何も知らずに大沼のやつを愛してた。それが、あんなに冷たく捨てられて……」

 と、声を震わせる。「大沼の奴《やつ》を殺してやらなきゃ、気が済まなかったんだ!」

「女を食いものにする狼《おおかみ》、というわけで、その格好を思い付いたわけね」

「ああ。あいつにゃピッタリだろう。それに——こっちは若くない。まともに争って勝てるとは思えんからな。だから向うが度肝を抜かれるような工夫をしたんだ」

「確かに効果があるよ」

 と、哲平が言った。

「その試験台として、田端さんをおどかしてみたわけね。——ところが、とんでもないことになった。真子さんが、それをきっかけにして、田端さんにひかれるようになったんだわ」

「もう男なんて信じない、と言っとったのに……。あの子をとられたくなかったんだ」

「そこで、今度は田端さんを襲った。——でも、あなたのしたことで、真子さんは苦しい立場にいるんですよ。それを分ってあげなくては」

「そうだな……。よく分る」

「では、引き上げましょう」

 と、私は哲平を促した。

「でも——いいの?」

「いいのよ。あとはお二人に任せるわ。自首してくれると信じてるけど」

 私は、哲平と歩き出したが、ふと足を止めて振り向き、

「でも、そのマスク、みごとね。どこで手に入れたの?」

 と訊《き》いた。

「これかね、私は昔、役者だったんだ。これは、舞台で使ったものに、鋭い歯をうえて、手を入れたんだよ」

「名演技でしたよ」

 と、哲平は言った。

 ——車の所へ戻ると、

「僕をずいぶん危い目にあわせてくれたね」

 と、哲平は恨みがましい目で私を見た。

「いいじゃないの。冒険は若い内よ」

「命あっての話だよ」

 車が走り出すと、私は言った。

「——じゃ、予《ヽ》定《ヽ》通り、ホテルにでも寄って行く?」

「賛成!」

 哲平が躍り上るようにして、思い切ってアクセルを踏んだ。

「——いけね!」

 白バイのサイレンが追いかけて来ていた。

 哲平にはツイてない日だったようだ。これも狼男のたたりかもしれない……。

吸血鬼の静かな眠り

 それは、確かにそこにあった。

 埃《ほこり》をかぶり、クモの巣に飾られて、横たわっていた。和郎が得意そうに、

「ね、嘘《うそ》じゃないだろ」

 と言ったとき、敏子は素直に肯《うなず》いた。

 いつもなら、弟の言うことを、いちいちからかってやらずにはいられない、それが習慣にすらなっている敏子だったのだが、このときばかりは、からかうだけの余裕がなかった。

「僕が見付けたんだ」

 和郎は、得意げに言って、鼻を動かした。興奮しているときのく《ヽ》せ《ヽ》なのだ。

 敏子は和郎ほど子供ではない——といっても、まだ中学の一年生で、和郎は小学校の四年生だった——けれども、こういう発見に胸を躍らせるだけの心は持ち合わせていた。

 しかし、このときばかりは、奇妙に胸をしめつけられるような、息苦しいほどの不安で一杯になって、興奮するような余裕がなかったのである。

 そう。——敏子だって、お棺ぐらい見たことがある。

 まだ四十という若さで、大好きだった叔《お》父《じ》さんが突然死んだとき、それから、おじいちゃんが、屋根から足を滑らして落ちて死んだときにも——そのとき敏子は七歳、今の和郎より小さかった——ちゃんと、お葬式に出て、お棺の中に横になっている、死人の顔を見ていた。

 でも、ああいうときのお棺は、ただの白い木の箱で、もちろん飾りも何もない、簡単なものだった。後で、焼いてしまうんだから、当り前のことだが。

 今、二人の目の前に置かれているのは、それとは全く違っていた。ともかく、大きい。長さも、幅も高さも、普通のお棺より、一回りも二回りも大きかった。それに、色も黒ずんでいて、光沢があり、しかもただの四角い箱ではなくて、まるで家具のように、曲線のへりや装飾らしい模様がある。

 そう。——よくTVでやる吸血鬼ものの古い映画に出て来るような、ちょっといわくありげなお棺だったのだ。

「ね、凄《すご》いだろ」

 弟の和郎は得意がっている。

 そう。確かに凄《ヽ》い《ヽ》。でも——敏子は落ちつかなかった。

 怖いとか、そんな気持ではない。何だか早くここから離れたいという思いを、強く感じていた。

「中、入ってんのかなあ」

 と、和郎が言った。

「まさか! そんなものここに置いとくわけないじゃないの」

 敏子は、自分でもびっくりするような強い調子で言った。

「でも、どうしてこんな所にあるんだろうね?」

 と、和郎が言った。

 ——ここは、地下室である。

 敏子と和郎の家——いや、もちろん両親の家だが——には地下室などついていない。

 ここは別荘である。夏の間だけ、借りているのだ。

 一家がここへやって来たのは、つい二日前だった。夏休みになって、もう十日たっている。本当はもっと早く来るはずだったのだが、和郎の通っている小学校で、プール指導があって、来るのが遅れたのだった。

 都会っ子の敏子と和郎にとっては、見るものの一つ一つが珍しい。この別荘そのものも、一家の住んでいるせせこましいマンションとは違って、古い木造の建物で、二階があり、しかも地下室まである!

 和郎ならずとも、「探険」して回る楽しみで、アッという間に一日目は過ぎた。

 ——地下室には、まだ両親も入っていなかった。ママはママで、炊事ができるように台所を整えるのに大忙し。パパはあちこちの蝶《ちよう》番《つがい》に油をさしたり、壊れた戸を直したりして頑張っている。

 ともかく、かなり長いこと使われていなかったのだ……。

 だから今のところ地下室は二人の天下だった。

 二階へ上る階段のちょうど真下に、頭を低くして入る戸があり、そこから地下へ降りられるようになっている。

 掃除もしていないので、埃《ほこり》っぽい匂《にお》いがしたし、クモの巣があちこちにレースのカーテンのように絡まっていた。

 地下室には、何だか分らない木箱がやたらに積み上げてあった。

「荷物をいじくったりしちゃいけないぞ」

 と、パパに言われていたが、いじりたくたって、頑丈な板が打ちつけてあって、とても子供の力で開けられるものではなかった。

 ——これは誰の荷物なんだろう?

 敏子は、初めて目にしたとき、首をかしげたものだ。

 そ《ヽ》れ《ヽ》は、積み上げた木箱の陰に、まるで身をひそめるように置かれていた。だから、昨日敏子がここへ入ったときには目に入らなかったのだ。

 和郎が木箱によじ上って遊んでいて、見付けたのだった。

「重そうだね」

 と、和郎が言った。

「うん」

 ——何だか落ちつかない。なぜだろう? どこかから、誰かが見ているような、そんな印象が、敏子を捉《とら》えて放さない。

 敏子は窓の方へ目をやった。——地下室の天井近くに、明り採りの窓があって、そこがちょうど地面の高さになっている。その向うは、裏庭だった。

 地下室には電灯一つないのだが、その窓から射《さ》し込む光で、充分に明るい。棺は、その窓の斜め下に、置かれていた。

「——え? 何か言った?」

 敏子はハッとして弟の顔を見た。

「これ、内緒だよ、って言ったんだ。僕がパパに言うからね」

「ああ。——いいわよ、好きにしなさい」

 と、敏子は、ちょっと笑って言った。「もう行こう。暗くなって来たわ」

 夕方だった。陽《ひ》がかげり始めて、地下室もスッと沈み込むように薄暗くなった。

 棺が、ただの黒い箱のように見える。

「さあ、出て」

 と、敏子は、弟の肩を叩《たた》いて促した。

「うん」

 和郎の方は、まだ多少未練があるようだったが、もう一度つつかれて、歩き出した。

 和郎について、敏子は木箱のわきを回り、階段の方へ歩いて行った。

 ——動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。

「え?」

 敏子は、足を止めた。「——何か言った?」

 階段を上りかけていた和郎が、足を止めて振り返った。

「何も言わないよ、僕」

「そう」

 でも——何だか、いやにはっきりと聞こえたようだった。確かに、和郎の声じゃなかったみたいだけど……。

 和郎が先に階段を上って行く。敏子は足下を見ながら上り始めた。

 ——私《ヽ》を《ヽ》動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。

 敏子はギクリとして、振り向いた。

 そこには誰もいない。でも、確かに、その声は耳もとで聞こえたようだった。

 誰? 誰がしゃべったの?

 地下室は、もう、大分暗くなっていた。木箱の一つ一つも見分けられない。

 ちょうど正面に見える明り採りの窓だけが、ほの白い長方形に光って見えた。

「——お姉ちゃん、どうしたの?」

 と、和郎が上から呼んだ。

 敏子はハッと我に返った。

「何でもない」

 急いで階段を駆け上ると、敏子は頭を下げてドアの所をくぐった。

「——敏子」

 ママの声だ。

「はい!」

「晩ご飯の仕度、手伝って」

「はあい」

 返事をして、敏子は、大分古びたそのドアを閉めた。気のせいか、急に体が軽くなったようだ。

 敏子は台所の方へ駆けて行った。手伝いをするのが楽しいなんて、本当に珍しいことだった。

「ほら、そのサラダ、お皿に入れてちょうだい」

 と、ママは炒《いた》めものの手を休めずに言った。

「一つに盛っていいの?」

「取り分ければいいでしょ。あんまり沢山お皿を汚さないで。ここには食器洗い機はないんだから」

「分った」

 敏子は、まず手を洗った。「——パパは?」

「お庭で雑草を抜いてるわ。もう暗くなるから、入って来るでしょ」

 ママは、ちょっとやせ型で、一見神経質そうだが、その実、至ってのんびり屋である。何をするのものろい和郎は、ママの性格を受けついでいるようだ。

 その点、敏子はパパ似で、割合にきちんとしておくのを好む性質だった。

 といって、もちろん、さぼるのが嫌いってわけじゃないのだけれど。

 あれやこれやと十五分ほどやって、何とか食卓が整った。車でスーパーまで行って、しこたま買い込んで来たので、やっと普段並みの食卓になったのだ。

「——もう、和郎とパパを呼んで」

「はい」

 敏子は、台所を出て、「和郎、ご飯よ!」

 と大声で言った。

「はーい」

 返事は二階から返って来た。

 敏子は、廊下の奥のドアを開けた。そこから裏庭へ出るようになっているのだ。

 表は、まだ少し明るさが残っている。

「パパ、ご飯だって」

 汗のにじんだシャツ姿のパパが、立ち上った。大分お腹が出て来て、あんまりカッコいいパパとも言えなくなったが、でも敏子は父親っ子である。

「分った。——働いていると一日が早いな」

 パパは額の汗を拭《ぬぐ》った。

「寒くない?」

 夏とはいえ、こういう山間の林の中では、夜は結構冷えて来るのだ。だからこそ「避暑」に来たのだけれど。

「ちっとも! 暑くてたまらんよ」

 と、パパは笑顔で言った。「そこの柵の戸が壊れてるんだ。明日直そう」

「あんなの、あってもなくても同じじゃないの?」

「しかし、一応は柵だからな」

 柵といっても、庭の周囲にめぐらした、せいぜい敏子の腰ぐらいの高さのもので、ちょっとした犬なら、楽に飛び越してしまうだろう。

「わあ、凄《すご》い汗」

 家の中に入って、敏子は声を上げた。「シャワーでも浴びた方がいいんじゃない?」

「うん、そうしよう。こう汗くさくちゃ、ママに嫌われそうだ」

 パパは笑って、

「ちょっと二階でシャワーを浴びるとママに言っといてくれ」

「分ったわ」

 歩き出したパパの背中に、敏子は、「ねえ、地下室に——」

 と声をかけたが、パパの耳には入らなかったようだ。

 そうか。和郎が、黙っててくれ、って言ってたっけ。じゃ、言わないでいてあげよう。

 敏子はそう思った。裏庭へのドアを、閉めようとして、ふと庭が明るくなったのに気付いた。

 庭の端に——正確に言うと外側なのだが——水銀灯が立っていて、周囲が暗くなると、自動的に点くのだった。

 青白い光が、庭に広がる。昼間には、やたら雑草が目につく庭も、その青ざめた光の下では、何となく詩的な雰囲気を作っていた。

 敏子はドアを閉め、カンヌキをかけた。

 ——水銀灯の光は、明り採りの窓から、斜めに地下室へと落ちて、あの黒い棺の上に投げかけられていた。

 窓の格子が、ちょうど十字の影となって、棺の上に落ちているのだった。

「——どうして地下室には——」

 と、敏子が言いかけると、和郎がパッと顔を上げて、姉をにらんだ。「荷物があんなに置いてあるの?」

 和郎がホッとした表情で、食事を続ける。パパは、もう三杯目のご飯を空にしかけていた。

「——うん、パパもちょっと覗《のぞ》いたが、山と積んであるな」

「誰のものなの?」

「ここの持主だ」

「持主って?」

「パパは知らん。何でも外国人だってことだ」

「へえ、外国人」

 と、和郎が言った。「どこの国の人?」

「そこまで知らんな」

「あなた、まだ食べるの?」

 と、ママが呆《あき》れ顔で言った。「せっかく汗を流しても、それじゃちっともやせないわよ」

「いいさ。明日もどうせ汗を流す」

 と、パパは笑顔で言った。「しかし、いいなぁ、こんな所で暮せたら」

「そうかしら。たまに来るからいいんじゃない?」

 と、敏子は言った。

「お前も大人っぽくなったな」

 パパがため息をつく。

「——パパが、その外国人から、ここを借りたの?」

 と、和郎が訊《き》いた。

「いや、パパは不動産屋から借りただけだよ」

「じゃ、その持主の外国人は——」

 敏子が、お茶を飲みながら言った。「買って住んでないわけね。どうして、それなのに荷物があるのかしら?」

「それが、不動産屋も首をひねってたんだ」

「どういうこと?」

「売買は、手紙と書類のやりとりで済んで、荷物も送られて来た。ところが、待てど暮せど、当人がやって来ないんだ」

「連絡もなかったの?」

「連絡を取ってみると、確かに向うを出てはいるらしい。しかし、こっちには姿を現わさないんだ」

「変な話ね」

 と、ママが言った。「和郎、ちゃんとキャベツも食べなさい!」

「それで、どうしたの?」

「不動産屋としても、どうしようもない。向うが何か言って来るのを待っている内に、三年たってしまった。それで、このままだと、ただでさえ古い家だし、ますますいたみがひどくなるというんで、手入れをして、貸すことにしたんだよ。家ってのは、人が住んでないといたむものなんだ」

 パパは四杯目のご飯を、さすがに少しもて余している様子で、「——おい、お茶をかけてくれ」

 とママの方へ出した。

「いやねえ。胃に悪いわよ」

「やせていいじゃないか」

 敏子は、はしを置いた。

「じゃ、明日にでも、突然その外人がやって来て、出て行ってくれって言われるかもしれないわね」

「そんなこともあるまい」

 と、パパは笑った。

「でも、本当にその人、どうしちゃったんでしょうね」

 と、ママが言った。

「さあね。——外国での話だからな。独りで身寄りのない人なら、突然どこかで病死したりしたら、こんな家のことまで分らんかもしれんよ」

〈死〉という言葉に、敏子はちょっとビクッとした。

 ——お棺。

 私《ヽ》を《ヽ》動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。

 そんな馬鹿なことがあるだろうか?

 そう。きっと気のせいなんだ。いちいちパパやママに話すこともない。

「金持の中には、色々と変った人間がいるからな」

 と、パパは続けた。

「買っておいて気が変ったとか、そんなこともあるかもしれん」

「でも、何だかちょっと落ちつかないわね」

 と、ママが言った。

「そのせいで、格段に安く借りられたんだ。文句はないさ」

 パパはそう言って笑った。

「どうして言わなかったの?」

 ベッドに入って、しばらくしてから敏子は言った。

 返事はなかった。敏子は、暗い天井を、じっと見上げていた。

「起きてるんでしょ。分ってるわよ」

「——何さ」

 やっと、和郎の声がした。

 木の、少し古いベッドは、動くとミシミシ音を立てた。でも、クッションも寝心地も悪くない。

「あのお棺のこと、どうして黙ってたの?」

「何だか……惜しくって」

「ちゃんと言った方がいいわよ。もちろん——どうってことないだろうけど」

「そうかなぁ……」

 敏子は、弟の方へ顔を向けた、

「そうかな、って?」

「持主って人……。死んで、あの中に——」

「馬鹿言いなさい」

 と、敏子は遮った。「そんなこと、あるわけないじゃないの」

「でも、だったら、どうしてお棺なんてあるのさ?」

「向うの人はね、生きている内から、立派なお棺を作らせたりするらしいわ。本で読んだことがあるもの」

「へえ」

「きっと、あれも、死んでから入るつもりで、作らせたのを運んで来たのよ」

「そうか……。何だかガッカリだな」

 敏子は、ちょっと笑って、

「嘘《うそ》言いなさい。怖かったくせに!」

「怖かないよ! あんなもん、ちっとも怖かない!」

 和郎は、むきになって言った。

「分ったから寝なさい」

 と、敏子は言って、寝返りを打った。「おやすみ」

「うん……」

 五、六分すると、和郎の寝息が、敏子の耳に届いていた。

 怖かったくせに、か……。本当に怖がっていたのは、実は自分の方だったと、敏子には分っていた。

 何でもない。何でもないんだわ。

 敏子は目を閉じた。——でも、あのとき耳もとで、確かに……。

 ——私《ヽ》を《ヽ》動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。

「疲れたよう!」

 帰って来るなり、敏子は、大声で言った。

「女の子でしょ、あんたは」

 と、ママが苦笑する。「ほら、二人とも、お風《ふ》呂《ろ》へ入りなさい」

「まだ明るいよ」

 と、和郎が不満げに言った。

「泥だらけじゃないの。いいから、早く!

 敏子、ちゃんと和郎も入れてよ」

「一緒には入んないよ」

 と、和郎が口を尖《とが》らした。

 このところ生意気にも、女とは風呂に入らない、と言い出しているのだ。

「じゃ、別でもいいから、早くして!」

 ママにせき立てられて、二人は階段を上って行った。

 一日中、近くの湖と、その周囲で駆け回っていたのである。——もともと、あまり土くさい遊びには慣れていない二人だが、それだけに、慣れると、たまらなく面白い。

 お昼までのはずが、とうとう一日中、遊び回ることになった。

「少しはお勉強もしなきゃ——」

 と、苦い顔のママだが、内心は、子供なんてこんなものでいいわ、と思っているから、一向に二人には怖くないのである。

 かくて一日は終った……。

 二人とも、遊び回っている内に、昨日のこと——あの棺のことは、すっかり忘れていた。

「——ちゃんと着替えるのよ!」

 と、敏子は、和郎に向って怒鳴った。

「分ってらい!」

「素直じゃないんだから、もう……」

 と、敏子は呟《つぶや》きながら、窓の方へと歩いて行った。

 ちょうど、裏庭が見下ろせるのだ。——パパが、例の柵の戸を相手に格闘しているところだった。

 敏子は、少々動きの悪い窓を何とか開けると、

「パパ!」

 と呼びかけた。

 パパが振り向いて、敏子を見付けると、手を上げた。敏子も手を振って見せる。

「どう? 直りそう?」

「分らんな」

 パパが、ちょっと大げさに肩をすくめて見せる。「木が腐ってるところがあるんだ。釘《くぎ》を打っても、全然きかない」

「適当にやっとけば?」

「もう少し頑張ってみるさ」

 パパは、そう言って、また、外した戸の方へかがみ込んだ。

 パパは、ごく普通のサラリーマンだ。家では、あまり活躍する場がない。だから、こういう所へ来て、大工仕事などで、自分の腕を見せられるのが、嬉《うれ》しいらしいのである。

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