と、私は澄まして言った。
——公園は静かだった。
「別にTV局も何も来てないじゃないの」
と、私は言った。
「そうだね。じゃ、きっと忙しいんだ」
「狼男の方で、TV局に出向いたのかもしれないわ」
と、私は言った。
公園の中を抜けて行くと、例の、田端が狼男と出くわしたらしい、暗がりにさしかかる。
「街灯代をケチったのね、きっと」
「公共事業費の配分に問題があるんだ」
と、哲平が言いかえる。
「また出て来るかしら」
「あんまり会いたいとは思わないなぁ」
と、哲平は首を振った。
私たちは、暗がりの中へと足を踏み入れた。
ほんの二、三十メートルでしかないのだが、確かにあまりいい気分ではない。
つい、足取りも早くなった。——と、半分くらい来たところで、突然、
「ガオーッ!」
と、声を上げて、何かが、茂みから飛び出して来た。
「ワァッ!」
と、哲平が仰天して尻《しり》もちをつく。
私はサッと身を沈めた。のしかかって来た黒い影を、エイッと……。
言い忘れていたが、私は多《ヽ》少《ヽ》合気道の心得がある。
その何《ヽ》か《ヽ》は、私の体の上で一回転して、デン、と地面に落下した。
「——誠にどうも」
と、そのプロデューサーは、何度も頭を下げた。
「謝っていただけば済むってものではありません」
と、私は言った。
「いえ、本当に手違いでして……」
「暴行未遂で訴えてもいいんですよ!」
「いや、どうかそれだけは——」
——あの公園の中が今はやたらと明るい。
別に夜が明けたわけではなく、TVカメラのためのライトが当っているのである。
「ウーン」
と、呻《うめ》いているのは、頭に狼のマスクをかぶった役者。
私に投げられて、腰をしたたかに打っていた。
要するに、TV局がやはり待ち構えていて、本当は、や《ヽ》ら《ヽ》せ《ヽ》の被害者が、二人、ここへ来ることになっていたらしいのだ。
それが手違いで遅れ、そこへちょうど私たちが通りかかった、というわけである。
「まあいいでしょ」
と、私は肩をすくめた。「ただ、おたくももう少し中身のある仕事をしたらいいわ」
「恐れ入ります」
プロデューサーは平謝りである。
わきへよけて、こりもせずに茶番劇をくり返している様子を眺めていると、哲平がやって来た。
「あんまりいじめちゃ可哀《かわい》そうだよ。実質的に被害にあったのは、向うなんだから」
「少しは痛い目にあっていいのよ、ああいう手合は」
「厳しいね」
「あなたも、腰抜かしたくせに」
「腰を抜かしたんじゃないよ!」
と、むきになって、「ただ——びっくりして、足を滑らせて、座っちゃったというだけだ!」
私は思わず笑い出してしまった。——こういうところが可愛《かわい》いのだ。
「でも、こんな調子じゃ、とても狼男なんて出そうにないわね」
と、私は言った。
「よほど目立ちたがり屋ならともかくね」
「帰りましょう。——ここにいたって、何にもならないし……」
と、言いかけたとき、
「助けてくれ……」
と、切れ切れの声が聞こえた。
「——また、何かやってるのね」
「他の局とはち合わせしたのかな」
私たちは振り向いた。そして——ギョッとした。
誰かが、よろけるように歩いて来る。
「——田端!」
と、哲平が言った。
そう、田端だった! 喉《のど》から胸の辺り、ワイシャツを、真赤な血が染めている。
「どうしたんだ!」
と、哲平が駆け寄った。
「君か!——助けて——」
と、口走るなり、田端はその場に、崩れるように倒れてしまった。
「大変だ!」
「救急車を——」
私はTV局の人間たちの方へと走って行った。
「救急車を呼んで!」
と、怒鳴ると、さっき私に投げ飛ばされた役者が、目の前に立っていた。
「あんたか! こっちの方が救急車を呼んでほしいくらいだぜ!」
「やかましい!」
と、私は大声を上げた。「早く救急車を呼べ!」
相手は飛び上って、駆けて行った。
もちろん、これで良かったのだ。——すぐに、救急車がやって来て、田端は命を取り止めたのだから。
ただ、一つまずかったのは、私が怒鳴っているところが、TVの生番組に出てしまったことだった……。
4
病室のドアを開けて、
「ごめんなさい……。入っても?」
と、私は言った。
「あ、先生」
飯田真子が、椅《い》子《す》から立ち上った。
「先生って呼ばれると、照れくさいわ」
と、私は言った。「どう、具合は?」
「ええ、一応、順調です」
「良かったわね」
私は肯《うなず》いて、ベッドの上の田端を見た。
「今、ちょっと眠っていて……」
「じゃ、廊下へ出ましょうか」
と、私は促した。
——あの事件から、三日がたっていた。
私の武《ヽ》勇《ヽ》伝《ヽ》は、すっかり大学に知れわたって、学部長から、たっぷりといやみを言われた。
でも、別に大学当局に迷惑をかけたわけではなし、クビになるわけはないので、こっちも平気な顔で受け流していた。
「——困ったことになったわね」
と、私は言った。「マスコミが大騒ぎしてるわ。この病院が知れたら、あなたも逃げられないわよ」
「私……」
真子は、思い詰めたように、「私のせいです。あの人があんな目にあったのは」
と言って、目を伏せた。
「あなたの? どうして?」
「だって——」
真子は、ちょっとためらってから、「私が襲われたとき、あの人が助けてくれたんですもの。だから今度はあの人が狙《ねら》われたんだわ」
「それはおかしいわ」
と、私は言った。
「え?」
「だって、そうでしょ? だったら、どうして大沼が殺されたの?」
「それは……」
と、真子が詰まる。
「ね? 田端さんが襲われたのは、あなたとは関係ないのよ。ただ、帰りが遅かったから、狙われただけ。——分った? 気にしちゃいけないわ」
真子は、しばらく顔を伏せていたが、やがて目を上げ、ゆっくりと肯いた。
「——分りました」
「そう! それでいいのよ。あなた、田端さんを愛してるんでしょ?」
「ええ」
やっと、真子は笑顔を見せた。
「狼男が取りもった縁ね。満月の夜にでも結婚式を挙げたら?」
と、私は言った。
「そうですね」
と、真子はちょっと笑った。「——本当にありがとうございました」
「いいえ。あなた、ずっとここに詰めてるの?」
「いえ——ちょっとマンションに戻って、取って来たいものがあるんです」
「ああ、それじゃ、佐々木君に車で送らせるわ」
「いいえ、そんなこと——」
「いいのよ。どうせヒマなんだから」
と、私は言った。
「この忙しいのに」
と、哲平はいつものように文句を言った。
「先生の命令よ」
「だけど——」
「いいわね、あなたにぜひ行ってもらいたいの」
「え?」
と、哲平は目をパチクリさせた。
「聞いて」
私は、病院の玄関の方へと、哲平と並んで歩きながら、言った。「——あの子を送って、向うに着いたら、やってほしいことがあるのよ」
「ちょっと待った」
と、哲平は私を見て、「また何か企《たくら》んでるね?」
「人聞きの悪いこと言わないで。これは正義のためなんだから」
「オーバーだなぁ。要するに趣味のためなんだろ?」
「似たようなもんよ」
「——で、何をすりゃいいの?」
哲平は、ため息をついて、言った。
「あの子をね、ホテルに誘ってほしいの」
私の言葉に哲平は目をむいた。
私は、一足先に病院を出ると、タクシーでそのマンションへと向かった。
哲平に、十五分ほど遅れて出るように言ってある。先に着かなくてはならなかったのだ。
マンションの少し手前でタクシーを降りると、私は、建物の裏側へと回った。
建物の陰から覗《のぞ》くと、駐車場が見えている。
あの、大柄な駐車場のおじさんが、ブラブラと歩き回っているのが見えた。
哲平の車はまだ来ていない。——うまく行くのだろうか?
いや、もちろん何もなければ、それに越したことはないのだが。
しかし、もし私の想像が当っているとしたら……。
「——来たわね」
と、呟《つぶや》く。
見《み》憶《おぼ》えのある中古車が、駐車場に入ってきた。
車が停ると、真子が降りて来て、小走りに、建物の中へと入って行った。
駐車場のおじさんが、哲平の車の方に寄って行く。そして、中の哲平と、何やら話している様子だった。
真子はなかなか出て来ない。
入院に必要なもの、となると、揃《そろ》えるのは大仕事である。時間がかかるのも当然だろう。
待ちかねたのか、哲平が車を出た。
駐車場のおじさんが、どこかへ歩いて行くのが見えた。
哲平が、建物の中へと入って行く。
私も、静かに、階段を上って行った……。
哲平が、ドアを開けて出て来ると、
「じゃ、これを運んでおくからね」
と、大きなバッグをかかえて、言った。
「すみません。すぐ行きますから」
と、真子の声がした。
哲平は、バッグをかかえて、エレベーターの方へ歩いて行ったが——
「何だ、〈点検中〉か。さっきは動いていたのに」
と呟いて、肩をすくめ、階段の方へと歩いて行った。
トコトコと階段を降りて行く。——ヒョイ、と角を曲ったときだった。
何《ヽ》か《ヽ》が、前に立ちはだかった。——燃えるように赤い目。そしてカーッと開いた口に光る牙《きば》——。
「ワーッ!」
哲平は飛び上った。
バッグを投げ出して、駆け出す。
廊下へ飛び出し、駆けて行く。そして、途中で足を滑らして、転んでしまった。
「——ご苦労さま」
と、私は言った。
後から追って来た狼《ヽ》男《ヽ》が、ハッと足を止め、ためらった。
「何もかもわかってるのよ、待って!」
と、私は声をかけた。「そのマスクを外して、駐車場のおじさん」
相手は、しばらく息を弾ませていたが、やがて諦《あきら》めたように肩を落として、ゆっくりとマスクを外した。
「ああ、びっくりした」
哲平が、やっとの思いで立ち上る。
「言った通りにしたわね?」
「うん。真子さんとホテルに行くんだって自慢げに言ったよ」
「そりゃ、おじさんとしては、黙って見過せなかったわね。真子さんは、あなたの娘でしょ」
駐車場のおじさんは、ゆっくりと肯いた。
「その通りだよ」
「そして、大沼のせいで自殺した娘さんの父親でもある」
「よく分ったね」
「見当はついてたわ。——大沼に仕返しするために、ここへ住み込んだのね」
「その通りだ。——あの子は、何も知らずに大沼のやつを愛してた。それが、あんなに冷たく捨てられて……」
と、声を震わせる。「大沼の奴《やつ》を殺してやらなきゃ、気が済まなかったんだ!」
「女を食いものにする狼《おおかみ》、というわけで、その格好を思い付いたわけね」
「ああ。あいつにゃピッタリだろう。それに——こっちは若くない。まともに争って勝てるとは思えんからな。だから向うが度肝を抜かれるような工夫をしたんだ」
「確かに効果があるよ」
と、哲平が言った。
「その試験台として、田端さんをおどかしてみたわけね。——ところが、とんでもないことになった。真子さんが、それをきっかけにして、田端さんにひかれるようになったんだわ」
「もう男なんて信じない、と言っとったのに……。あの子をとられたくなかったんだ」
「そこで、今度は田端さんを襲った。——でも、あなたのしたことで、真子さんは苦しい立場にいるんですよ。それを分ってあげなくては」
「そうだな……。よく分る」
「では、引き上げましょう」
と、私は哲平を促した。
「でも——いいの?」
「いいのよ。あとはお二人に任せるわ。自首してくれると信じてるけど」
私は、哲平と歩き出したが、ふと足を止めて振り向き、
「でも、そのマスク、みごとね。どこで手に入れたの?」
と訊《き》いた。
「これかね、私は昔、役者だったんだ。これは、舞台で使ったものに、鋭い歯をうえて、手を入れたんだよ」
「名演技でしたよ」
と、哲平は言った。
——車の所へ戻ると、
「僕をずいぶん危い目にあわせてくれたね」
と、哲平は恨みがましい目で私を見た。
「いいじゃないの。冒険は若い内よ」
「命あっての話だよ」
車が走り出すと、私は言った。
「——じゃ、予《ヽ》定《ヽ》通り、ホテルにでも寄って行く?」
「賛成!」
哲平が躍り上るようにして、思い切ってアクセルを踏んだ。
「——いけね!」
白バイのサイレンが追いかけて来ていた。
哲平にはツイてない日だったようだ。これも狼男のたたりかもしれない……。
吸血鬼の静かな眠り
1
それは、確かにそこにあった。
埃《ほこり》をかぶり、クモの巣に飾られて、横たわっていた。和郎が得意そうに、
「ね、嘘《うそ》じゃないだろ」
と言ったとき、敏子は素直に肯《うなず》いた。
いつもなら、弟の言うことを、いちいちからかってやらずにはいられない、それが習慣にすらなっている敏子だったのだが、このときばかりは、からかうだけの余裕がなかった。
「僕が見付けたんだ」
和郎は、得意げに言って、鼻を動かした。興奮しているときのく《ヽ》せ《ヽ》なのだ。
敏子は和郎ほど子供ではない——といっても、まだ中学の一年生で、和郎は小学校の四年生だった——けれども、こういう発見に胸を躍らせるだけの心は持ち合わせていた。
しかし、このときばかりは、奇妙に胸をしめつけられるような、息苦しいほどの不安で一杯になって、興奮するような余裕がなかったのである。
そう。——敏子だって、お棺ぐらい見たことがある。
まだ四十という若さで、大好きだった叔《お》父《じ》さんが突然死んだとき、それから、おじいちゃんが、屋根から足を滑らして落ちて死んだときにも——そのとき敏子は七歳、今の和郎より小さかった——ちゃんと、お葬式に出て、お棺の中に横になっている、死人の顔を見ていた。
でも、ああいうときのお棺は、ただの白い木の箱で、もちろん飾りも何もない、簡単なものだった。後で、焼いてしまうんだから、当り前のことだが。
今、二人の目の前に置かれているのは、それとは全く違っていた。ともかく、大きい。長さも、幅も高さも、普通のお棺より、一回りも二回りも大きかった。それに、色も黒ずんでいて、光沢があり、しかもただの四角い箱ではなくて、まるで家具のように、曲線のへりや装飾らしい模様がある。
そう。——よくTVでやる吸血鬼ものの古い映画に出て来るような、ちょっといわくありげなお棺だったのだ。
「ね、凄《すご》いだろ」
弟の和郎は得意がっている。
そう。確かに凄《ヽ》い《ヽ》。でも——敏子は落ちつかなかった。
怖いとか、そんな気持ではない。何だか早くここから離れたいという思いを、強く感じていた。
「中、入ってんのかなあ」
と、和郎が言った。
「まさか! そんなものここに置いとくわけないじゃないの」
敏子は、自分でもびっくりするような強い調子で言った。
「でも、どうしてこんな所にあるんだろうね?」
と、和郎が言った。
——ここは、地下室である。
敏子と和郎の家——いや、もちろん両親の家だが——には地下室などついていない。
ここは別荘である。夏の間だけ、借りているのだ。
一家がここへやって来たのは、つい二日前だった。夏休みになって、もう十日たっている。本当はもっと早く来るはずだったのだが、和郎の通っている小学校で、プール指導があって、来るのが遅れたのだった。
都会っ子の敏子と和郎にとっては、見るものの一つ一つが珍しい。この別荘そのものも、一家の住んでいるせせこましいマンションとは違って、古い木造の建物で、二階があり、しかも地下室まである!
和郎ならずとも、「探険」して回る楽しみで、アッという間に一日目は過ぎた。
——地下室には、まだ両親も入っていなかった。ママはママで、炊事ができるように台所を整えるのに大忙し。パパはあちこちの蝶《ちよう》番《つがい》に油をさしたり、壊れた戸を直したりして頑張っている。
ともかく、かなり長いこと使われていなかったのだ……。
だから今のところ地下室は二人の天下だった。
二階へ上る階段のちょうど真下に、頭を低くして入る戸があり、そこから地下へ降りられるようになっている。
掃除もしていないので、埃《ほこり》っぽい匂《にお》いがしたし、クモの巣があちこちにレースのカーテンのように絡まっていた。
地下室には、何だか分らない木箱がやたらに積み上げてあった。
「荷物をいじくったりしちゃいけないぞ」
と、パパに言われていたが、いじりたくたって、頑丈な板が打ちつけてあって、とても子供の力で開けられるものではなかった。
——これは誰の荷物なんだろう?
敏子は、初めて目にしたとき、首をかしげたものだ。
そ《ヽ》れ《ヽ》は、積み上げた木箱の陰に、まるで身をひそめるように置かれていた。だから、昨日敏子がここへ入ったときには目に入らなかったのだ。
和郎が木箱によじ上って遊んでいて、見付けたのだった。
「重そうだね」
と、和郎が言った。
「うん」
——何だか落ちつかない。なぜだろう? どこかから、誰かが見ているような、そんな印象が、敏子を捉《とら》えて放さない。
敏子は窓の方へ目をやった。——地下室の天井近くに、明り採りの窓があって、そこがちょうど地面の高さになっている。その向うは、裏庭だった。
地下室には電灯一つないのだが、その窓から射《さ》し込む光で、充分に明るい。棺は、その窓の斜め下に、置かれていた。
「——え? 何か言った?」
敏子はハッとして弟の顔を見た。
「これ、内緒だよ、って言ったんだ。僕がパパに言うからね」
「ああ。——いいわよ、好きにしなさい」
と、敏子は、ちょっと笑って言った。「もう行こう。暗くなって来たわ」
夕方だった。陽《ひ》がかげり始めて、地下室もスッと沈み込むように薄暗くなった。
棺が、ただの黒い箱のように見える。
「さあ、出て」
と、敏子は、弟の肩を叩《たた》いて促した。
「うん」
和郎の方は、まだ多少未練があるようだったが、もう一度つつかれて、歩き出した。
和郎について、敏子は木箱のわきを回り、階段の方へ歩いて行った。
——動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。
「え?」
敏子は、足を止めた。「——何か言った?」
階段を上りかけていた和郎が、足を止めて振り返った。
「何も言わないよ、僕」
「そう」
でも——何だか、いやにはっきりと聞こえたようだった。確かに、和郎の声じゃなかったみたいだけど……。
和郎が先に階段を上って行く。敏子は足下を見ながら上り始めた。
——私《ヽ》を《ヽ》動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。
敏子はギクリとして、振り向いた。
そこには誰もいない。でも、確かに、その声は耳もとで聞こえたようだった。
誰? 誰がしゃべったの?
地下室は、もう、大分暗くなっていた。木箱の一つ一つも見分けられない。
ちょうど正面に見える明り採りの窓だけが、ほの白い長方形に光って見えた。
「——お姉ちゃん、どうしたの?」
と、和郎が上から呼んだ。
敏子はハッと我に返った。
「何でもない」
急いで階段を駆け上ると、敏子は頭を下げてドアの所をくぐった。
「——敏子」
ママの声だ。
「はい!」
「晩ご飯の仕度、手伝って」
「はあい」
返事をして、敏子は、大分古びたそのドアを閉めた。気のせいか、急に体が軽くなったようだ。
敏子は台所の方へ駆けて行った。手伝いをするのが楽しいなんて、本当に珍しいことだった。
「ほら、そのサラダ、お皿に入れてちょうだい」
と、ママは炒《いた》めものの手を休めずに言った。
「一つに盛っていいの?」
「取り分ければいいでしょ。あんまり沢山お皿を汚さないで。ここには食器洗い機はないんだから」
「分った」
敏子は、まず手を洗った。「——パパは?」
「お庭で雑草を抜いてるわ。もう暗くなるから、入って来るでしょ」
ママは、ちょっとやせ型で、一見神経質そうだが、その実、至ってのんびり屋である。何をするのものろい和郎は、ママの性格を受けついでいるようだ。
その点、敏子はパパ似で、割合にきちんとしておくのを好む性質だった。
といって、もちろん、さぼるのが嫌いってわけじゃないのだけれど。
あれやこれやと十五分ほどやって、何とか食卓が整った。車でスーパーまで行って、しこたま買い込んで来たので、やっと普段並みの食卓になったのだ。
「——もう、和郎とパパを呼んで」
「はい」
敏子は、台所を出て、「和郎、ご飯よ!」
と大声で言った。
「はーい」
返事は二階から返って来た。
敏子は、廊下の奥のドアを開けた。そこから裏庭へ出るようになっているのだ。
表は、まだ少し明るさが残っている。
「パパ、ご飯だって」
汗のにじんだシャツ姿のパパが、立ち上った。大分お腹が出て来て、あんまりカッコいいパパとも言えなくなったが、でも敏子は父親っ子である。
「分った。——働いていると一日が早いな」
パパは額の汗を拭《ぬぐ》った。
「寒くない?」
夏とはいえ、こういう山間の林の中では、夜は結構冷えて来るのだ。だからこそ「避暑」に来たのだけれど。
「ちっとも! 暑くてたまらんよ」
と、パパは笑顔で言った。「そこの柵の戸が壊れてるんだ。明日直そう」
「あんなの、あってもなくても同じじゃないの?」
「しかし、一応は柵だからな」
柵といっても、庭の周囲にめぐらした、せいぜい敏子の腰ぐらいの高さのもので、ちょっとした犬なら、楽に飛び越してしまうだろう。
「わあ、凄《すご》い汗」
家の中に入って、敏子は声を上げた。「シャワーでも浴びた方がいいんじゃない?」
「うん、そうしよう。こう汗くさくちゃ、ママに嫌われそうだ」
パパは笑って、
「ちょっと二階でシャワーを浴びるとママに言っといてくれ」
「分ったわ」
歩き出したパパの背中に、敏子は、「ねえ、地下室に——」
と声をかけたが、パパの耳には入らなかったようだ。
そうか。和郎が、黙っててくれ、って言ってたっけ。じゃ、言わないでいてあげよう。
敏子はそう思った。裏庭へのドアを、閉めようとして、ふと庭が明るくなったのに気付いた。
庭の端に——正確に言うと外側なのだが——水銀灯が立っていて、周囲が暗くなると、自動的に点くのだった。
青白い光が、庭に広がる。昼間には、やたら雑草が目につく庭も、その青ざめた光の下では、何となく詩的な雰囲気を作っていた。
敏子はドアを閉め、カンヌキをかけた。
——水銀灯の光は、明り採りの窓から、斜めに地下室へと落ちて、あの黒い棺の上に投げかけられていた。
窓の格子が、ちょうど十字の影となって、棺の上に落ちているのだった。
「——どうして地下室には——」
と、敏子が言いかけると、和郎がパッと顔を上げて、姉をにらんだ。「荷物があんなに置いてあるの?」
和郎がホッとした表情で、食事を続ける。パパは、もう三杯目のご飯を空にしかけていた。
「——うん、パパもちょっと覗《のぞ》いたが、山と積んであるな」
「誰のものなの?」
「ここの持主だ」
「持主って?」
「パパは知らん。何でも外国人だってことだ」
「へえ、外国人」
と、和郎が言った。「どこの国の人?」
「そこまで知らんな」
「あなた、まだ食べるの?」
と、ママが呆《あき》れ顔で言った。「せっかく汗を流しても、それじゃちっともやせないわよ」
「いいさ。明日もどうせ汗を流す」
と、パパは笑顔で言った。「しかし、いいなぁ、こんな所で暮せたら」
「そうかしら。たまに来るからいいんじゃない?」
と、敏子は言った。
「お前も大人っぽくなったな」
パパがため息をつく。
「——パパが、その外国人から、ここを借りたの?」
と、和郎が訊《き》いた。
「いや、パパは不動産屋から借りただけだよ」
「じゃ、その持主の外国人は——」
敏子が、お茶を飲みながら言った。「買って住んでないわけね。どうして、それなのに荷物があるのかしら?」
「それが、不動産屋も首をひねってたんだ」
「どういうこと?」
「売買は、手紙と書類のやりとりで済んで、荷物も送られて来た。ところが、待てど暮せど、当人がやって来ないんだ」
「連絡もなかったの?」
「連絡を取ってみると、確かに向うを出てはいるらしい。しかし、こっちには姿を現わさないんだ」
「変な話ね」
と、ママが言った。「和郎、ちゃんとキャベツも食べなさい!」
「それで、どうしたの?」
「不動産屋としても、どうしようもない。向うが何か言って来るのを待っている内に、三年たってしまった。それで、このままだと、ただでさえ古い家だし、ますますいたみがひどくなるというんで、手入れをして、貸すことにしたんだよ。家ってのは、人が住んでないといたむものなんだ」
パパは四杯目のご飯を、さすがに少しもて余している様子で、「——おい、お茶をかけてくれ」
とママの方へ出した。
「いやねえ。胃に悪いわよ」
「やせていいじゃないか」
敏子は、はしを置いた。
「じゃ、明日にでも、突然その外人がやって来て、出て行ってくれって言われるかもしれないわね」
「そんなこともあるまい」
と、パパは笑った。
「でも、本当にその人、どうしちゃったんでしょうね」
と、ママが言った。
「さあね。——外国での話だからな。独りで身寄りのない人なら、突然どこかで病死したりしたら、こんな家のことまで分らんかもしれんよ」
〈死〉という言葉に、敏子はちょっとビクッとした。
——お棺。
私《ヽ》を《ヽ》動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。
そんな馬鹿なことがあるだろうか?
そう。きっと気のせいなんだ。いちいちパパやママに話すこともない。
「金持の中には、色々と変った人間がいるからな」
と、パパは続けた。
「買っておいて気が変ったとか、そんなこともあるかもしれん」
「でも、何だかちょっと落ちつかないわね」
と、ママが言った。
「そのせいで、格段に安く借りられたんだ。文句はないさ」
パパはそう言って笑った。
「どうして言わなかったの?」
ベッドに入って、しばらくしてから敏子は言った。
返事はなかった。敏子は、暗い天井を、じっと見上げていた。
「起きてるんでしょ。分ってるわよ」
「——何さ」
やっと、和郎の声がした。
木の、少し古いベッドは、動くとミシミシ音を立てた。でも、クッションも寝心地も悪くない。
「あのお棺のこと、どうして黙ってたの?」
「何だか……惜しくって」
「ちゃんと言った方がいいわよ。もちろん——どうってことないだろうけど」
「そうかなぁ……」
敏子は、弟の方へ顔を向けた、
「そうかな、って?」
「持主って人……。死んで、あの中に——」
「馬鹿言いなさい」
と、敏子は遮った。「そんなこと、あるわけないじゃないの」
「でも、だったら、どうしてお棺なんてあるのさ?」
「向うの人はね、生きている内から、立派なお棺を作らせたりするらしいわ。本で読んだことがあるもの」
「へえ」
「きっと、あれも、死んでから入るつもりで、作らせたのを運んで来たのよ」
「そうか……。何だかガッカリだな」
敏子は、ちょっと笑って、
「嘘《うそ》言いなさい。怖かったくせに!」
「怖かないよ! あんなもん、ちっとも怖かない!」
和郎は、むきになって言った。
「分ったから寝なさい」
と、敏子は言って、寝返りを打った。「おやすみ」
「うん……」
五、六分すると、和郎の寝息が、敏子の耳に届いていた。
怖かったくせに、か……。本当に怖がっていたのは、実は自分の方だったと、敏子には分っていた。
何でもない。何でもないんだわ。
敏子は目を閉じた。——でも、あのとき耳もとで、確かに……。
——私《ヽ》を《ヽ》動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。
2
「疲れたよう!」
帰って来るなり、敏子は、大声で言った。
「女の子でしょ、あんたは」
と、ママが苦笑する。「ほら、二人とも、お風《ふ》呂《ろ》へ入りなさい」
「まだ明るいよ」
と、和郎が不満げに言った。
「泥だらけじゃないの。いいから、早く!
敏子、ちゃんと和郎も入れてよ」
「一緒には入んないよ」
と、和郎が口を尖《とが》らした。
このところ生意気にも、女とは風呂に入らない、と言い出しているのだ。
「じゃ、別でもいいから、早くして!」
ママにせき立てられて、二人は階段を上って行った。
一日中、近くの湖と、その周囲で駆け回っていたのである。——もともと、あまり土くさい遊びには慣れていない二人だが、それだけに、慣れると、たまらなく面白い。
お昼までのはずが、とうとう一日中、遊び回ることになった。
「少しはお勉強もしなきゃ——」
と、苦い顔のママだが、内心は、子供なんてこんなものでいいわ、と思っているから、一向に二人には怖くないのである。
かくて一日は終った……。
二人とも、遊び回っている内に、昨日のこと——あの棺のことは、すっかり忘れていた。
「——ちゃんと着替えるのよ!」
と、敏子は、和郎に向って怒鳴った。
「分ってらい!」
「素直じゃないんだから、もう……」
と、敏子は呟《つぶや》きながら、窓の方へと歩いて行った。
ちょうど、裏庭が見下ろせるのだ。——パパが、例の柵の戸を相手に格闘しているところだった。
敏子は、少々動きの悪い窓を何とか開けると、
「パパ!」
と呼びかけた。
パパが振り向いて、敏子を見付けると、手を上げた。敏子も手を振って見せる。
「どう? 直りそう?」
「分らんな」
パパが、ちょっと大げさに肩をすくめて見せる。「木が腐ってるところがあるんだ。釘《くぎ》を打っても、全然きかない」
「適当にやっとけば?」
「もう少し頑張ってみるさ」
パパは、そう言って、また、外した戸の方へかがみ込んだ。
パパは、ごく普通のサラリーマンだ。家では、あまり活躍する場がない。だから、こういう所へ来て、大工仕事などで、自分の腕を見せられるのが、嬉《うれ》しいらしいのである。