その気持は、敏子にもよく分った。
振り向くと、和郎が、お風《ふ》呂《ろ》から出て、パンツ一つで歩いて来るところだった。
「早いのねえ。ちゃんと洗った?」
「洗ってるよ」
とふくれっつらになる。「早く入ったら? 女は時間がかかるんだから」
「入りますよ、だ」
「日が暮れるまでには出なよ」
「失礼ね」
敏子は、弟の頭をつついた。——まあ、長風呂は事実でもあるのだけれど。
散々体を動かした後の長風呂は、確かに気分のいいものだ。日が暮れるまで、はオーバーだったけど、日が傾き始めるころまでは、充分にかかった。
髪もついでに洗ってしまったので、余計に手間がかかったのである。
やっと新しいシャツとショートパンツに替えて、台所へ入って行くと、ママが、フライパンを手にして振り向いた。
「あら、出たの? パパはまだお庭かしら」
「さあ。——見て来ようか?」
「そうね。もう入ってって言ってくれる?」
「戸を直してるんだよ、きっと」
「外しちゃったもんだから、意地になってるのよ。適当にやっときゃいいのにね」
と、ママは笑った。
「見て来る!」
敏子は、裏庭へ出るドアの方に歩いて行った。そして、二階への階段のわきを通り抜けようとしたときだった。
いきなり、何《ヽ》か《ヽ》が敏子を引き止めた。それは、まるで目に見えないロープが、敏子の身に巻きついたかのようだった。
「キャッ!」
と、敏子は声を上げた。
が——その感覚は、一瞬の内に、消えた。振り向いても、そこには誰もいなかった。
ただ、ドアがあった。地下室へ降りる、低いドアが。
でも、ドアは閉っていたのだ。開く音も閉じる音も、聞こえなかった。それなのに……。
今の力は何だろう? 見えない腕につかまれたような……。
いつの間にか、敏子は、ドアの方へと手を伸していた。ノブに手が触れたとき、敏子は、またあの声を聞いた。
——私《ヽ》を《ヽ》動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。
誰? 誰がしゃべってるの?
敏子は身震いした。空耳か。幻聴というやつなのだろうか?
だって、その声は、耳から入って来るのでなく、頭の中《ヽ》で《ヽ》響いているように、敏子には思えたのだ。
どうして? こんなこと、初めてだ!
「——おい」
声をかけられて、敏子は飛び上りそうになった。
「パパ!」
「何をびっくりしてるんだ?」
と、パパは笑って言った。
「何でもないの。——どうしたの、あの戸、ちゃんと付いた?」
「だめだ」
と首を振って、いまいましげに、「新しい板を打ちつけて、補強しないとだめなんだよ。明日、板を捜してみよう」
「ママが、もう入るように、って」
「ああ。少し暗くなって来た。続きは明日だ」
と、パパは肯《うなず》いた。
「どうしたの? 戸は外しちゃったんでしょ?」
「仕方ないから、その辺にたてかけて来た。一晩くらい戸がなくても大丈夫だろう」
「あんな戸、誰だって乗り越えられるわ」
と、敏子は笑って言った。
「さあ、今夜も腹一杯食べるぞ!」
パパが腕を振って、力強く言った。
——敏子は、パパが手を洗いに行ってしまうと、裏庭へ出るドアを開けてみた。
外は、微妙に黄昏《たそが》れて来る時刻だった。まだ明るいから、水銀灯は点《つ》いていないが。
——外した戸は、家のわきに、たてかけてあった。
あちこちが欠けたり裂けたりしているのは、パパの苦闘の跡を物語っている。敏子はちょっと微笑《ほほえ》んで、首を振った。
始めたら、とことんやらないと気が済まない。——パパと敏子に共通の性格である。
あ、と敏子は思った。戸をもたせかけてあるのは、ちょうど、地下室の明り採りの窓の所だった。
あれじゃ、光を遮って、昼間でも暗くなっちゃうな、と思った。
敏子は、ドアを閉め、カンヌキをかけた。
——話すべきだ。忘れてたけど、あの棺のこと、パパに言わなきゃ。
敏子は、心を決めると、台所の方へ戻って行った。
「——お棺だって?」
パパはそう訊《き》き返して、ママと顔を見合わせた。
「お姉ちゃん」
と、和郎が敏子をにらむ。
「あんたが言わないからよ」
「敏子、それ本当なの?」
と、ママが目を大きく見開いて訊いた。
「うん」
「何か——箱じゃないのか、ただの。それとも……」
「お棺よ。見れば分るわ」
「——まあいやだ!」
ママは、そう言って、息をついた。実際、そうとしか言いようがなかったんだろう。
「もっと早く言わなきゃだめじゃないか」
パパは渋い顔をした。
「ごめんなさい。でも、いじってないわ」
「当り前よ。気味が悪い!」
ママは顔をしかめた。「いやだわ、パパ。どうする?」
「どうって……参ったな。ともかく、地下の荷物には手をつけないという約束なんだ」
「だけど、そんな物があるなんて、知らなきゃともかく、分ってからじゃ気味が悪くて眠れないわ」
「うむ……」
パパも考え込んでしまった。——ママじゃなくても、確かにお棺の上で寝てるなんて、あまり気持のいいものではない。
「不動産屋さんに連絡してみたら?」
と、ママが提案した。
「こんな時間に、連絡なんか取れないよ」
と、パパは首を振って、「——仕方ない。今夜はともかくそのままだな。知らなかったと思えば——」
「でも、いやだわ」
と、ママはキュッと顔をしかめた。
楽しい食卓は、お通夜のようなムードに一変してしまった。——しばらく黙々と食べていたパパは、やがてため息をついた。
「分ったよ。ともかく後で見に行こう」
「どうするの?」
「どうって……。まさか外へ放り出すわけにもいかないけどな。一応、この目で確かめてから考えよう」
もしかしたら、敏子たちの思い違いかもしれない。パパがそこへ望みをかけていることに、敏子は気付いた。
そう。——もし間違いだったら、どんなにいいだろう。敏子も、そう思った。
あの声。私《ヽ》を《ヽ》動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。——あれは何だったんだろう?
敏子も、そのことまで言う気にはなれなかった。ママがこれ以上聞かされると、
「もう東京へ帰りましょう」
とでも言い出しかねなかったからだ。
それに、あの声のことは、単なる空耳かもしれないのだし……。
「——よし、行ってみよう」
パパは、食事を終えると、立ち上った。
「明りがないわよ、地下室」
と、敏子は注意した。
「ちゃんと持って行くさ。ママも来るか?」
「いやだわ、そんなもの……」
と言いながら、結局ママもついて来ることになった。
四人でゾロゾロと——パパを先頭に、敏子、和郎、ママの順だった——階段の下のドアに列を作った。
ドアをパパが開けて、大型の懐中電灯をつける。かなり光が強いので、地下室の中を充分によく見ることができた。
「どの辺だ?」
「一番奥よ。あの小窓の下あたり」
「よし。降りよう。足下に気を付けろ」
頭をかがめて、地下への階段を降りて行く。
「やあ、ひどい匂《にお》いだな」
と、パパが言った。
そう。何だかいやに生ぐさい、いやな匂いが鼻をついた。敏子は、おかしいわ、と思った。
こんな匂い、昨日は気が付かなかったけど……。
敏子は、じっと耳を澄ましたが、あ《ヽ》の《ヽ》声《ヽ》は聞こえて来なかった。それに、いやな匂いはしていたが、初めて棺を見たときに感じた、何かがのしかかって来るような圧迫感は、消えているようだった。
——棺は、そこにあった。
「こいつは立派なもんだ」
光を当てて、パパは唸《うな》った。「相当重かったろうな」
「呑《のん》気《き》なこと言って!」
と、ママも覗《のぞ》き込みながら、パパをにらんでいる。
「——お棺には違いないが、しかし、これはきっと、一種の美術品みたいなものじゃないのかな。実用的なもんじゃないよ」
「でも、やっぱり気味が悪い」
と、ママは首を精一杯伸ばして、「まさか中に……?」
「馬鹿言え」
と、パパは笑った。
「開けてみるか?」
「やめて!」
ママがあわてて言った。
「中、空だよ」
と、和郎が突然言った。
「どうして分るんだ?」
「ただ——何となく」
和郎は口ごもった。
不思議だった。敏子も、同時にそう思っていたのだ。いや、空だと分《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》の《ヽ》だ《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》。
「開けてみたら?」
と、敏子は言った。
「よし。懐中電灯を持っててくれ」
「パパ、やめなさいよ——」
ママは眉《まゆ》をひそめた。でも、本気で止めようとしているわけでもないようだった。
怖いもの見たさ、というわけなのだろう。
「——動くぞ、この蓋《ふた》」
パパが、蓋に手をかけて、ぐっと押した。ゴリゴリと、こすれるような音がして、蓋がずれて行った。
「——お姉ちゃん」
と、和郎の声がした。
「何よ。まだ寝てないの?」
敏子は寝返りを打った。
もう、二人がベッドに入ってから、三十分以上たっていた。昼間、あれだけ駆け回って疲れているのに、敏子は一向に眠くならない。
「何だか……」
和郎が言いかけて、ためらった。
「何なの?」
「動いてたみたい、そう思わない?」
敏子は黙っていた。——やっぱり、気のせいじゃなかったんだろうか?
お棺の中は空だった。敏子は、ともかくホッとしたのだが、戻ろうとして、ふと妙な印象に捉えられたのだった。
棺の位置が、前見たときと違っているような……。それほど大きなずれではないのだが、たぶん、数十センチか、せいぜい一メートルくらい。
でも、そんなことがあるかしら? あんな重い物、そう簡単には動かないだろう。でも——確かに——。
私《ヽ》を《ヽ》動《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。
頭の中に響いたあの声と、動いていた棺。偶然だろうか? でも偶然でな《ヽ》い《ヽ》としたら、どういうことになるんだろう。
そんな馬鹿なこと!——そ《ヽ》ん《ヽ》な《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》、映画か小説の中でしか起らない。そうだわ、本当にそんなことがあるわけないんだ……。
それに、棺の中は、どっちみち空っぽだったんだから。——変なこと考えるのはよそう。もう私、子供じゃないんだから。
敏子は無理に目をつぶった。昼間の疲れが敏子の瞼《まぶた》を閉じるには、まだ一時間近くかかった。
眠りに入る直前、敏子は誰かが、廊下を歩いている足音を聞いたような気がした。パパかママがトイレに起きたのかな。それとも、今から寝るのかもしれない。大人は夜ふかしだから……。そう考えたという記憶だけが、かすかに残った。
和郎が夜中に起き出したのは、別に、頭の中に声が響いたからでも何でもない。
ただ、オシッコがしたくなっただけなのである。——和郎は、半分眠っているような、トロンとした目で、欠伸《あくび》をしながら、部屋を出た。
トイレは一階になっている。いつの間にか階段を降りていた。よく踏み外さなかったものだ。
一階はもちろん明りも消えているが、廊下だけが点《つ》けてあった。パパが、電球の数を間違えたので、その弱い電球をつけてあって、少し薄暗い。
和郎は、また欠伸をした。
トイレに入って、用を足すと、手を洗って——指先を濡《ぬ》らす程度だが——タオルで拭《ふ》く。
今、何時だろう、なんてぼんやりと考えながら、和郎は、また廊下に出た。何だか……いやに暗い。
ちゃんと、電球は点いている。それでいて、光が何かに遮られているかのようで、廊下がひどく暗いのだった。
和郎は、そろそろと歩いて行った。階段の方へ。方向まで、間違ってはいないはずだ。
不意に、何かに包まれたようだった。黒い布か何かに。和郎はギョッとして、さすがに目も覚めた。
包まれたように思ったのは錯覚で、要するに誰かが目の前に立っていたのだった。
パパかしら?——パパにしても、ちょっと大きいような気がする。
息づかいが頭の上で聞こえた。何だか、いやに生ぐさい匂《にお》いがした。——そうだ。パパたちと一緒に地下室へ入ったとき、ムッとするように襲って来た、あの匂いだ。
和郎は、ゆっくりと顔を上げた。
3
「不動産屋さん、何ですって?」
パパが食堂へ入って来ると、ママはすぐに訊《き》いた。パパは、肩をすくめて、
「今は夏休みで、誰もいないんだそうだ」
と言うと、椅《い》子《す》を引いて座る。
「そんな……。一人ぐらいは——」
「残っているのはアルバイトの学生だとさ。何しろ今週一杯は休みだ、ってことしか知らない」
「いやねえ」
ママは顔をしかめた。ハムエッグをフライパンから皿に落とす。
「仕方ない。まあ、空の家具が一つあると思っときゃいいじゃないか」
「それにしたって……。お棺なんて、家具とは言わないわよ」
敏子は、先に食べ始めていた。——パパが、
「和郎はどうした?」
と、空いた椅子を見て訊《き》いた。
「いくら起こしても起きないのよ」
と、敏子が言った。「布団をかぶっちゃって寝てるの」
「昨日、暴れ過ぎたのよ、きっと」
と、ママが言った。「敏子、もう一度行って来てくれる?」
「うん」
敏子は、パンを一口かじって、立ち上った。
階段を一気に駆け上る足取りは、もう昨日の疲れなど感じさせなかった。
実際、一晩寝た後、敏子は至って元気だった。ゆうべの不安も、すっかり消え去っている。眠れないくらい考え込んでいたことが、朝になってみるとおかしいようだ。
「——お寝坊さん! もう起きな」
敏子は、ドアを開けながら言った。ちょっと戸惑って、足を止める。さっき敏子のあけたカーテンが、また引いてあり、部屋が薄暗かったからだ。
「和郎! どうしたの?」
ベッドの方へ近づいて、「具合でも悪いの?」
毛布から、目だけが覗いている。
「まぶしいんだ……」
和郎は、力のない声で言った。
「変ね。熱でもあるの?」
敏子は、弟の額に手を当てた。——熱くないどころか、少し冷たいくらいだ。
「お腹、痛い?」
和郎が、頭をちょっと横に振った。「じゃ、どうしたの?」
「だるいんだ……」
敏子は、急いで、ママを呼びに行った。もちろんママは飛んで来た。
でも、別に痛いところもなく、熱もないというのでは、結局、ただ、少し寝かしておこうというしかなかった。
ただ、顔色は良くなかった。カーテンを開けるのをいやがったが、ママが作った熱いスープを飲ませるときだけ、少しカーテンを開けて、部屋を明るくしなくてはならなかったのだ。
敏子は、そばで見ていて、何となく落ちつかなかった。弟の顔は、貧血でも起こしたように青白く、目にも力がなかった。
ひどく疲れているようで、すぐまたベッドに潜り込んでしまう。
またカーテンを引いて、部屋を暗くして廊下に出ると、ママが、低い声で言った。
「明日になってもあの調子だったら、あの子を医者へ連れて行かなくちゃ」
「顔色、良くないね」
「貧血みたいね。でも、あの子、今まで、そんなもの、縁がなかったのに……」
ママは不安そうだった。
敏子は、一日、一人で遊んでいた。——いや、遊ぶといっても、ただ、近くの林の中を歩き回るだけだったのだが……。
一人が欠けるだけでも、急に「家」というのは静かになってしまうものだ。特に和郎は元気な子で、少々の風邪など構わずに泳ぎに行ってしまうぐらいだった。
あんな風に、ご飯も食べずに寝ているというのは、普通じゃない。敏子は、林の中の倒れた木に、腰をおろして、木々の間に覗《のぞ》いている、古い別荘を眺めていた。
よく晴れて、陽《ひ》射《ざ》しは夏らしく強いのに、何となく、あの家の辺りは、ほの暗いように見えた。気のせいだろうけど……。
敏子が座っている所から、パパが、あの外れた柵の戸を相手に苦戦しているのが見えた。ママはきっと中で、ぼんやりと座っているんだ。
——私たち、何をしにここへ来たのかしら? 敏子は考えていた。
私たちは、あまりに都会の、刺激の多い生活に慣れすぎてしまったのかもしれない。静かで、自然に囲まれたこんな場所へ来ると、却《かえ》って落ちつかず、不安になって来るのだ。
そう。——もちろん、あの奇妙な棺のせいでもあるだろうが、みんなが、何だか不安そうなのだ。おまけに、和郎は具合が悪い。
「——来るんじゃなかった」
と、敏子は呟《つぶや》いた。
——一日が、のろのろと過ぎて行った。
和郎を起こすといけないというので、敏子は、部屋で寝転がっているわけにもいかず、仕方なく、外を歩き回っていた。
学校の宿題も持って来ていたが、やる気にもなれない。ママの方も、和郎が心配でそんなことを注意する気にもなれないようだった。
午後もいい加減遅くなって、ママの呼ぶ声が聞こえた。
「どうしたの?」
と、敏子が歩いて行くと、
「ちょっとパパと買物に行って来て」
「今から?」
「そう。車だからすぐでしょ。今、パパも仕度してるから」
「分ったわ」
「買うものはここに書いたわ。量は適当に見てね。パパじゃ、それが分らないから」
「うん」
敏子は、メモをジーパンのポケットへねじ込んだ。パパが車のキーを手に出て来る。
「行こうか、敏子」
「うん」
車、といっても、ミニカーに近い、小型車である。これだって、ローンが終っていない。
「じきに暗くなるから、気を付けて」
と、ママが言った。
「ああ、分ってる」
パパは面倒くさそうに、手を上げて見せた。
——スーパーまで、車で十五分ほどだ。
林の中の道は、ほとんど通る車もなかった。敏子は、何となくホッとした気分だった。
パパと二人でいると、気の許せる友だちといるときのように、安心できた。もちろんママが嫌いなのではないが、パパといる方が、「いい子」でいようとしなくて済む分だけ、楽だったのだ。
「——まずかったな」
と、運転しながら、パパが言った。
「何が?」
「あの別荘さ。——無理をするんじゃなかった。我が家に別荘なんて、似合わないんだ」
敏子は微笑《ほほえ》んだ。
「パパのせいじゃないわ」
「しかし、みんな家にいるときより元気がない。これじゃ、来た意味がないよ」
敏子は、少し間を置いて言った。
「私、気味が悪い」
「あのお棺か? あれもまずかったよ」
「それだけじゃないの。——あの家、そのものが……」
敏子は、少しためらってから言った。「何《ヽ》か《ヽ》がいるような気がする」
「『何か』?——どういうことだ?」
「分らないけど」
敏子は首を振った。
しばらく車は走り続けた。スーパーの建物が見えて来る。
「明日にでも、東京へ帰ろう」
と、スピードを落としながら、パパが言った。「そのつもりで買物をしてくれ」
「うん」
敏子は肯《うなず》いた。少し、気が楽になったようだ。
——買物を終えて出てみると、もう外は暗くなっていた。
「さあ、急いで戻ろう」
パパは、敏子を促した。
車が、あの家へ近づくにつれ、敏子は、言いようのない不安が、自分の中でふくれ上って来るのに気付いていた。——夜。
夜になると動き出す。何が? 何か、得体の知れない者が。
「パパ、急いで」
パパも、何かを感じていたようだった。アクセルを踏んで、木立ちに衝突せずに済むぎりぎりのスピードで突っ走った。
「明りが見えた!」
敏子は、少しホッとして言った。
車を停めてみると、あちこちの窓に、明るく灯がともって、別に、変ったところはないようだ。車を出て、二人は、玄関の方へと歩き出した。
その足を止めたのは、中から聞こえて来た笑い声だった。——ママの声だった。
いや、ママの声だということは、すぐに分ったのだが、でも、それは聞いたこともない声だったのだ。
高笑い——哄《こう》笑《しよう》というのとも、違う。叫ぶような、というか、ほとんど悲鳴に近いような笑い声だったのだ。
それは、敏子の背筋を凍りつかせた。まともな声ではなかったからだ。
「パパ……」
敏子の声は震えていた。パパも、表情を固くしている。
「ここにいろ」
パパは、敏子にそう言った。玄関の方へ歩いて行った。
「気を付けて!」
敏子は、自分でも分らない内に、そう叫んでいた。パパは、玄関のドアを開け、中へ入って行った。
開け放したドアから、光が射《さ》して、敏子を照らし出している。——無限に長い時間がたった。
いや、本当は、ほんの二、三分だったのだろう。誰かが玄関に出て来た。
パパだ。シルエットになっていたけど、間違いはなかった。パパは、ゆっくりと敏子の方へ歩いて来た。
「パパ。——どうしたの?」
敏子は、そっと声をかけた。
「何でもないよ」
と、パパは言った。「パーティをやってるんだ。中へお入り。もう和郎も元気になった」
何だかおかしい、と思った。パパの話し方が、いやに平板で、表情がない。
「でも——」
「お前を待ってるんだ。さあ、おいで」
パパが近づいて来て、手を差しのべた。
——そのとき、敏子はパパの息に、あの生ぐさい、いやな匂《にお》いをかぎ取った。
「いや!」
敏子は素早くわきへ退いた。パパの顔が、玄関からの光を受けて見えた。——まるで死人のように青白い顔。子供のころ見た、棺の中の顔と同じだ。
「どうしたんだ? 怖がらなくていい。パパがどうして怖いんだ?」
パパは笑った。
「パパ! どうしたの? パパじゃない! 変っちゃった!」
「何を言ってるんだ?」
と、パパは首を振った。
「——お姉ちゃん、早くおいでよ」
和郎の声がした。玄関の所に、ママと並んで立っている。
「敏子、いらっしゃい」
ママの声だ。
「ほら、みんなお前を待ってるんだぞ」
パパが、ママと和郎の方を見た。その隙《すき》に、敏子は、車の方へと駆け出した。
「敏子!」
パパの声がしたときには、もう敏子は車のドアを開けて、中へ入っていた。ドアをロックする。これで入って来られない。
パパたちが、車の方へ寄って来た。窓をトントンと叩《たた》く。
「開けなさい、敏子」
パパの声が、ずっと遠いように聞こえて来る。——ママも、和郎もやって来て、車の周囲を回るようにしながら、フロントガラスや窓を叩き、顔を近づけ、笑いかけた。
「出ておいで……」
「お姉ちゃんたら——」
「敏子、早くおいで」
みんな——みんなおかしいんだ! ああ、どうなっちゃったんだろう!
敏子は、体中から噴き出す汗で、びっしょりとシャツまで濡《ぬ》れていた。
ガラス越しに迫って来る笑顔は、見慣れたパパやママ、和郎のもののようで、どれも違っていた。
青ざめて、目が赤く充血して、開いた口は血のように真赤だった。
「あっちへ行って! 行って!」
夢中で、敏子は叫んでいた。そして——ふと、目が、差し込んだままになっている車のキーに止った。
これで——車を動かせるだろうか?
前に、パパから教えてもらったことがある。面白がって、少し走らせたことも。
でも——できるかしら?
敏子はキーに、震える指を伸した。
激しく、ドアを引張る音がした。パパが怒っている。凄《すご》い形相で、
「ここを開けろ!」
と怒鳴っている。
車のエンジンが目覚めて、車体がブルルと震えたとき、パパが、力をこめて、窓を殴りつけた。ガラスに白い筋が走った。
「やめて!」
叫びながら、敏子はアクセルに足をかけた。クラッチ——ギヤ——アクセル。
動いた! 車がぐんと飛び出した。
パパたちが追って来る。敏子の手と足が、不思議なくらい、一度だけの運転の記憶をよみがえらせた。
走る! 走ってるんだ!
振り返る余裕はなかった。ただ一心に、正面を見つめて、ハンドルを握りしめている。
木の幹をこすったり、道の端に乗り上げたりする度に、車は大きくバウンドして、バラバラになってしまうかと思えた。
でも、車は走っていた。走り続けていた。
汗か涙か分らないもので、敏子の顔は光っていた……。
「——ここが?」
と、彼が言って、敏子を見た。
敏子は肯いた。
「ええ。ここよ」
林の中は、静かだった。爽《さわ》やかな初秋の日である。
木々は、少しも変っていないように見えた。
「何もないんだね」
と、彼が言った。
そう。——もう、そこに残っているのは、石の土台と、埋められてしまった地下室の跡だけだ。
「焼けたのよ」
と、敏子は言った。
「焼けた?」
敏子は、彼の車にもたれていた。
——あのときのような小型車とは違う、モダンな高級車である。
「そう」
敏子は肯《うなず》いた。これを言ってしまっていいのだろうか? でも、今さらやめるわけにはいかない。
彼は戸惑っていた。当然だろう。婚約者が、突然、怪談めいた話を真顔でしゃべり始めれば、当惑して当り前だ。
「その次の日に」
と、敏子は言った。「私は戻って来たの。夜の間は、車の中にいて、夜が明けるのを待っていたのよ。——昼間なら、み《ヽ》ん《ヽ》な《ヽ》眠ってると思って。ここは静かだったわ。誰も起きていなかった」
「で——どうしたんだい?」
「火をつけたの」
「火を? 君が?」
「そう。——そうするしかない、と思ったの。分らないけど、なぜそう思ったのかは、ね」
「じゃ、ここは焼け落ちて……」
「アッという間だったわ」
敏子は、かつて建物のあった空間へ目を向けていた。
「ほとんど燃え尽きたころになって、近くの町の消防の人が駆けつけて来て——この前で泣いている私を、見付けたってわけ。私は警察へ連れて行かれて、ありのままに話をしたわ」
「今の話を?」
「ええ。でも——」
敏子は微笑《ほほえ》んだ。「みんな、困ったような顔をしてた。当然でしょうね。私は両親と弟を、焼き殺したんだから。——結局、私は叔母に預けられ、火事は、失火ということになったの。私の話は、ショックのせいで頭が混乱してたんだ、ということで、片付けられたわ」
敏子は、ゆっくりと、残った土台の方へ歩いて行った。——少し離れて、彼もやって来た。
「でも、確かに、私は、家族を殺したのよ。あのときには、そうするしかない、と思った……。ずっと後になって考えれば、何もかも私の思い過しだったのかもしれないの。お棺が動いてたとか、弟が寝込んだとか、みんなの顔が青白く見えたのも、月明りのせいだったかも……でも、やっぱり、そうじゃなかったと思うわ。焼け跡から、三人の遺骨しか出て来なくてもね」
彼が顔を伏せた。——迷っているのだ。どう考えたものか。
「その——肝心の奴《やつ》は? 死ななかったのかい?」
と、彼は訊《き》いた。
「分らないわ。建物は焼けたけど、地下室はどうだったのか。結局、焼け落ちる家の残《ざん》骸《がい》で埋って……もう十年以上だもの。土に還《かえ》ってるわ」
敏子は、彼の方へ真直ぐ向いた。「——あなたが決めて。私と、これでも結婚するかどうか」
彼は敏子を見て微笑《ほほえ》んだ。
「よく話してくれたね。君の過去は、もう僕が引き受ける」
敏子は、彼の胸に飛び込んだ。力強く、抱きしめられて、敏子の中に淀んでいたものが、どこかへ流れ出して行くようだった。
「——さあ、行こう」
と、彼が言った。「陽《ひ》がかげって寒くなったよ」
「ええ」
二人は肩を寄せ合いながら、車の方へと戻って行った。
敏子が、ふと振り向いた。
「どうしたんだい?」
「いいえ。——別に」
敏子は首を振った。
車が走り出すと、敏子はバックミラーの中に遠《とお》ざかるあの場所へ、最後の一《いち》瞥《べつ》を投げた。
——あそこを離れかけたとき、微《かす》かな声が、聞こえたような気がしたのだ。
——私《ヽ》を《ヽ》出《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》く《ヽ》れ《ヽ》。
いいえ。いいえ。もう二度と。
二度と眠りを覚ましたりしないわ。
「少し眠っていい?」
と、敏子は、隣の彼に言った。
「ああ、いいとも」
敏子はゆったりと座り直して、
「起こさないでね」
と言うと、目を閉じた。
呪いは本日のみ有効
1
「ハッピー・バースデイ、トゥーユー……」
口の中で呟《つぶや》くように、辻木秀美は歌った。
「トゥーユー」、じゃない。本当は「トゥーミー」なんだ。
でも、みんながそう歌ってたから。——当り前ね。私の誕生日なんだから!
辻木秀美は、広いリビングルームから、庭へ出るガラス戸を開けた。裸足《はだし》のままで、芝生へ出て行く。
——もう、朝が忍び寄っている気配。
少し、辺りは明るくなり始めていた。
ブルル……。車のエンジン音が、遠ざかって行く。
あれはきっと、大崎君のスポーツカーだわ。そう考えて、秀美の胸はチクリと痛んだ。
どうして、あの車に、私《ヽ》が《ヽ》乗っていないんだろう? 大崎君の肩に頭をもたせかけて、一杯に開けた窓から吹き込む風に頬《ほお》を撫《な》でられながら……。
そのまま、大崎君と二人で、どこへだって行ってしまうのに。海岸でだって、モテルでだって構わない。大崎君に抱かれるのなら、どこでだって……。
「やめてよ! 馬鹿らしい!」
秀美は声を上げた。
大崎の隣には、ちゃんと浩子がいる。坂本浩子。——私の親友が。
二人はどこへ行くんだろう? 大崎君のことだ。騎士道精神を発揮して、真直ぐに浩子を自宅まで、無《ヽ》傷《ヽ》で《ヽ》送り返しているかもしれない……。
秀美は、大きく両手を空に向かって伸すと、冷え冷えとした、夜明けの湿った空気を、胸の中へ吸い込んだ。
少し立っていると、寒くなって来る。何しろ、薄いネグリジェ姿なんだから。
秀美は、それでも、肌寒さに堪える快感を味わおうとするように、芝生にしばらく立っていた。
——二十歳。秀美は、二十歳と一日になったところである。
少しきつい感じの顔立ち。しかし、美人である。
冷たい印象を与えるのは、くっきりと濃い眉《まゆ》や、薄く真直ぐに結ばれた唇のせいかもしれない。けれども、気性の激しさは生来のもので、それは黒く濡《ぬ》れたような、大きな瞳《ひとみ》に、燃えるような輝きを与えていた。
「——お嬢様」
と、声がした。
開け放した戸の所から、良江が顔を出している。
「良江さん。——先に寝てていい、って言ったのに」
「いいえ、私は大丈夫ですけど。お嬢様、その格好では風邪をひかれます」
良江は、エプロンを外して、手に持っていた。
秀美は、良江の姓が何なのか、知らない。年齢も——たぶん、秀美とそう変らないと思うのだが——分らなかった。気にもしていなかったのである。
「——そうね」
秀美は素直に言って、芝生から家の中に入った。家というより屋敷である。
「足が濡れませんでしたか?」
と、良江が、かがみ込んで、「——汚れてますわ。今、お拭《ふ》きしますから」