しかし、よほど急いで通り過ぎたらしい。私の目には、玄関の扉から消える、女のコートらしいものが、チラッと見えただけだった。
「あった! 三階だよ。三〇五」
「上ってみましょ」
私は、エレベーターの方へと歩いて行った。三階でエレベーターを降りると、三〇五号室を探して、廊下を歩いて行く。
「ここだ。——鳴らしてみる?」
「そうね」
と、私は肯《うなず》いた。
何だか、私は落ちつかなかった。——なぜだろう?
いやな予感があった。もちろん、人間には予知能力があるわけではないが、何か、自分でも意識しない内に気付いていたことから、ある推理をすることはある。
それが、あたかも予知能力のように思えるだけなのだ。しかし、今、私の胸をよぎっているのは何だろう? どこから来たのか……?
表札は〈竹上〉とある。しかし、哲平がチャイムを鳴らしても、一向に返事はなかった。
「留守かな」
私は手を伸して、ドアのノブをつかんだ。
「おい、そんなこと——」
哲平が言いかけたときには、もうドアを開けていた。
「——鍵もかかってないわ」
「そうだな。中も真暗だよ」
「でも、おかしいじゃないの。中へ入ってみましょ」
「よそうよ。鍵、かけ忘れただけかもしれないじゃないか」
「そんなことないわよ」
「どうして分るの?」
「私は先生、あんたは助手!」
これが私の切り札で、哲平は、渋々、
「分ったよ」
と肯く。
中へ入るのは哲平が先。——ここは男が危険を引き受けるべき、という私の結論に従っている。
明りを点《つ》けると、何だか、あまり趣味のいいとは言えない部屋である。造りは2LDKくらいか……。
「よく片付けない人なのね」
と、私は言った。
住んでいる人間のだらしない性格をうかがわせる、乱雑な部屋だった。
「誰かいますか!」
と、哲平が声を上げる。「——いませんか?」
「そっちを捜して。私、こっちの方を見るから」
「いやだな。死体でもヒョイと出て来たらどうするのさ」
「そう簡単に出て来るもんですか」
私は笑いながら、リビングルームから、廊下へ出るドアを開けた。
そこに、彼《ヽ》女《ヽ》はいた。
どうして立っていられたのか、私にもよく分らなかったのだが……。ともかく、彼女はそこに立っていたのである。
そして、私がドアを開けた、そのちょっとしたショックのせいか、ゆっくりと前のめりに倒れて、床に突っ伏した。
胸に突き立っていた、長い、太い釘《ヽ》が、体の重みで、ぐっと深く刺さったらしい。背中に、その端が突き出た。
「——誰もいないよ」
と、哲平がやって来る。「そっちは、どう?」
説明するより、私は有効な方法を取った。黙って、わきへ身をよけたのである。
哲平はポカンとして、その死体を眺めていたが……。やがて、私の顔を見て、
「この人、どうしたんだろう?」
と言った。
4
「——お待ちしてました」
何とも豪華な部屋の玄関のドアを開けてくれたのは、良江だった。
「秀美さんは?」
と、私は訊《き》いた。
「今、お出かけになっています」
と、良江は私と哲平を中へ入れて、「もうお戻りになると思いますけど」
「そう」
——何とも凄《すご》い屋敷である。
もちろん、外国映画に出て来る大金持の家というと、こんなものではないが、これはこれで、大変な財産だろう。
「どうぞ」
案内されたリビングルームは、広々として、ため息が出るほどだった。
「——広いなあ」
哲平は、ただ呆《ぼう》然《ぜん》としているばかりだった。
「ね、庭を見せてもらっていい?」
と、私は良江に言った。
「どうぞ、その戸からお出になれます」
——そろそろ黄《たそ》昏《がれ》の気配が忍び寄って来ている。
私は、ガラス戸を開けて、芝生の方へ出てみた。
「もう暗いじゃないか」
と、哲平がついて来て、言った。
「でも、まだ充分見えるわ」
「——何が?」
私は答えず、芝生をぶらぶらと歩いて行った。芝生だけでもかなりの広さがあるが、その向うは、木立ちと、その間に、曲りくねった小《こ》径《みち》が続いているようだ。
「——広いなあ、この庭も」
と、哲平は、ひたすら感心している。
「もう少し、他のことが言えないの?」
と、私が苦笑すると、
「僕は自分に素直なんだ」
と、哲平は一人前に言い返した。「——そんなに奥まで入っていいのかい?」
「〈立入禁止〉の札もないじゃない」
私は小径の中へ入って行った。
木立ちの間は、もうかなり薄暗い。
「何だか気味が悪いなあ」
と、哲平が言った。
「怖いの?」
「まさか。——お化けが出るとでも言うのかい?」
「そうかもしれないわよ」
「人をからかって!」
私は、足を止めた。
じっと、周囲の木々を眺めてみる。この暗さに、目が慣れてくれば……。
そう、どこか、この辺ではないかと思えるのだ。
「何を捜してるんだい?」
「決ってるじゃないの」
私は、ふと、一本の木に目を止めた。「——あれらしいわ」
木々の間を分けて行くと、一段と太く、古い年輪を重ねたらしい木がある。
「その木がどうしたの?」
私は黙って、その木の回りをぐるっと回った。——やっぱりだ。
「こっちへ来てごらんなさい」
と、私は言った。
「何かあるの?」
哲平は、私のそばへ来て、「やあ! これは——」
予想通りのもの、といおうか。
木の幹には、ワラ人形が、太い五寸釘《くぎ》で、深々と打ちつけてあったのである。
その人形には、薄いピンクのスカーフらしいものがからめてあった。
「このスカーフ、何だろう?」
「相手のものじゃないの。つまり、当然のことながら——」
「坂本浩子の? それとも、竹上信子のかな?」
「竹上信子でしょうね。この柄は、あの部屋にあった服なんかと似てるわ」
私は、そのスカーフを、指で持ち上げてみた。「このままにしておきましょ。警察の妨害をしたくないものね」
「だけど……」
哲平は不服そうだった。
大体、あのマンションに入り込んだことも、後でわかってうるさいことになると困るので、一一〇番はしたものの、こっちはその前に退散していたのである。
まあ、この一件が、全部落着したら、哲平の友人が、警視庁の捜査一課にいるから、そっと話をしておけばいい。
「じゃ、戻りましょうか」
と、私は哲平を促した。
芝生を歩いて行くと、もうさっきより一段と、暗さが濃密になっていた。
「——あ、いらしたんですか」
良江が、ガラス戸の所へ、顔を出す。何だかあわてている様子だ。
「どうしたの?」
「実は、今、お電話があって——大崎さんから」
「大崎? どうしたんですって?」
「ええ。坂本浩子さんの病室へ見舞いに行って話していたら、つい一時間くらい前に、お嬢様がみえていたと浩子さんが——」
「秀美さんが? 何の用だったのかしら?」
「それを、私も気になって……。もちろん、ただのお見舞いかもしれないとは思ったんですけど……」
「訊《き》いてみなかったの?」
「大崎さんの話では——」
と、良江がためらった。
私が代りに言った。
「秀美さん、また浩子さんと、何かを交換して行ったのね?」
良江は、黙って肯《うなず》いた。
「参ったな」
と、哲平が首を振った。「あんなに悩んでいるようだったのに!」
「で、今度は何を?」
と、私は訊いた。
「はい。——指輪だそうです」
「指輪?」
「お嬢様のは、本物のサファイアの入った、何百万円もするものなんです」
「何百万!」
哲平は、金額の方にショックを受けたらしかった。
「でも、浩子さんの指輪は、本物の宝石も使ってない、せいぜい五、六万円のものだそうで——」
「それを、また無理に交換したのね?」
「そうらしいです」
「浩子さん、困ったでしょうね」
「お嬢様に返すように、と大崎さんが預かられたらしいんですけど、お嬢様、絶対に受け取らないだろうし、どうしよう、って、電話で……」
「そうなの」
私は肯いた。
そのとき、遠くで車の音がした。
「お嬢様ですわ、きっと」
良江が急いで駆け出して行く。
「——どうする?」
と、哲平が言った。「それこそ、このまま行くと、彼女、精神病院ででも診てもらわないといけないんじゃないか?」
「それはどうかしらね」
私は、腕組みをした。「でも、いくら人を呪《のろ》って、ワラ人形へ釘を打ちつけたって、それは犯罪じゃないのよ」
「それはそうだけど——」
「たとえ、浩子さんのネックレスをかけてワラ人形に釘を打ち込み、そのとき、浩子さんが死んだとしても、これに殺人罪は適用できないわ」
「そりゃ分ってるよ」
と、哲平は言った。
そのとき、リビングルームへ入って来たのは——秀美ではなかった。
「何だ、哲平か」
と、声がした。
「お前……」
哲平は目をパチクリさせて、「何の用だ?」
「こっちが訊きたいよ」
と、哲平の幼なじみで、捜査一課に所属する刑事、松永がニヤリと笑った。
「こんな所で会うとは思わなかった」
「同感だな。——どうも、先生」
「こんにちは」
私も、何度か、この爽《さわ》やかな好青年の刑事さんには会っている。
「この件に、係り合っているんですか?」
「純粋に、学問的興味からね」
「それが怪しいんだな、お二人の場合は」
と、松永刑事は笑った。
「お嬢様は、外出しておられて——」
と、良江が言いかけると、また、玄関の方で音がした。
良江が出て行くまでもなく、辻木秀美が、姿を見せた。
「あなたなの!」
と、哲平を見て、嬉《うれ》しそうに言った。「よく来てくれたわね」
「やあ。——僕の先生だよ」
「宮島令子よ」
と、私は、秀美の手を握った。「でも、こちらの男性とは握手しない方がいいわ。手錠をかけられるかもしれないわよ」
秀美は、松永の方を見て、
「刑事さん?」
と言った。
「ちょっとうかがいたいことがありましてね」
と、松永は言った。
「何でしょう?」
「その前に——」
私は遮って、「ワラ人形の呪《のろ》いについて、解決した方がいいんじゃない?」
松永は顔をしかめて、
「ワラ人形? 何です、それは?」
と言った。
秀美は青ざめた顔で、私を見た。
「——ご覧になったのね」
「ええ」
「あの人、死んだの?」
「そうですよ」
秀美は、息をついた。——そして、ソファにぐったりと身を沈めた。
「竹上信子という女性を——」
と、松永が言い出すと、秀美は、すぐにそれを遮って、
「知っています」
と答えた。「私が、殺したんです」
「はあ……」
松永の方は拍子抜けの格好である。
「待って」
と、私は言った。「松永さん。あなた、なぜ、ここへやってきたの?」
「これを見付けたんですよ」
と、松永が、ポケットから封筒を取り出した。
そして、テーブルの上に、封筒からスルリと落としたのは——ネックレスだった。
「これは、誰のものか分りますか?」
と、松永が秀美に訊《き》く。
「もともとは、浩子のものです」
「坂本浩子さんの?」
「そうです。でも、私のネックレスと交換しました」
「じゃ、あなたのものだったわけだ」
「そうです」
「これが、どうして竹上信子の死体のそばにあったのか——」
「言った通りです」
と、秀美は言った。「私が殺したからですわ」
「待って」
私は、もう一度割って入った。「秀美さん、あなた、竹上信子って人を知ってたの?」
「もちろん」
と、秀美は肯《うなず》いた。「もっとも、知ったのは最近だけど」
「で、どうやって彼女を殺したの?」
「決ってるわ。ワラ人形に、彼女のスカーフをからませて、五寸釘《くぎ》を打ち込んだの」
松永が唖《あ》然《ぜん》として、私の方を見た。
「お嬢様!」
良江がたまりかねたように、「そんなの迷信です!」
「良江さん——」
秀美は、立ち上ると、良江の方へ歩いて行った。「長いこと、ありがとう」
「お嬢様……」
「私はあなたがいなかったら、とてもやって来れなかったわ」
秀美は、良江の肩に手をかけた。
「そんなこと——」
「私の持ってる宝石類はあなたにあげる。ちゃんと遺言状で、そうしてあるから!」
——突然のことだった。
秀美は、良江をわきへ押しのけると、いきなり駆け出して、リビングルームを出て行ってしまったのだ。
誰もが、一瞬、動けなかった。
「追いかけるのよ!」
と、私は言った。
哲平と松永が同時に駆け出していた。もちろん私も——。
玄関から外へ出ると、秀美が車を運転して走り去るところだった。
「畜生!」
松永が、自分の車へ飛び込む。
哲平も——車に乗り込んだが、なかなかエンジンがかからない。やっとこ走り出したときは、先行した二台のライトは、ずっと遠くへいっていた。
私は——一人、残った。
そして、家の中へ戻って行った。
足音を忍ばせて、リビングルームの方へと歩いていく。
「——そう。今、出て行ったわ」
と、話し声。
電話をしているらしい。その声は、良江のものだった。
「ええ、大丈夫。——ちゃんと教えてもらった通りにしたわ。——間違えてないわよ」
そっと覗《のぞ》き込むと、良江は、楽しげな顔でしゃべっていた。
「じゃ、誰か戻って来ると困るから。——ええ、愛してるわ」
良江は電話を切ると、軽く口笛を吹きながら、私の方を向いた。——口笛は途切れた。「聞いたわよ」
と、私が言った。
良江が青ざめる。
「誕生日のプレゼントに、あのワラ人形のセットを紛れ込ませたのは、うまかったわね」
「——何のお話ですか」
「でも、考えてみれば、一番上にのせられたのは、最後に帰った客でしょ。むしろ、誰がやったか知られたくなかったら、中の方へ、押し込んでおくはずだわ」
「何のことか……」
「あれを置いたのは、あなただった、ってこと」
「私が?」
「さっき、秀美さんが言ったじゃない。宝石類をあなたに遺《のこ》すって。あなたは、それを何かの機会に知ったのね」
「とんでもありません」
「あなたは大崎に近づいた。彼の方も、坂本浩子さんや秀美さんや——ともかく気の疲れるお嬢様たちとの付合いにうんざりしていたから、すぐに、あなたの誘いに乗った……」
「私なんか、男の人には魅力がありませんわ」
「分らないわよ。今の電話は、大崎でしょ?」
良江は、ちょっと詰った。
「それに、現代っ子に見える秀美さんが、意外に、呪《のろ》いとか、迷信にとりつかれやすい性格だってことも、あなたでなきゃ、分らなかったでしょうね」
「私がどうしてそんなことを——」
「お金」
と、私は言った。「あなたが馬鹿らしくなる気持も、分らないではないけどね」
私は、広々としたリビングルームを見渡した。
「あなたは、秀美さんが大崎に恋していて、悩んでいるのを知っていた。そして、あの呪いの話を吹き込めば……。秀美さんは、やってみようかと思った。ネックレスを交換して、それをワラ人形にかけて、釘《くぎ》を打ち込んだ。——その晩、浩子さんは発作を起こした。もちろん、大崎が薬を服《の》ませたのよ」
良江はもう、何も言わなかった。
「それを知って秀美さんは、呪いを信じ込んでしまった。でも——今度は良心が痛んで、それ以上呪いをかけるのをやめようかと思ったのね。それであなたは困って、大崎のもう一人の恋人——竹上信子のことを秀美さんが知るように仕向けた」
良江は、庭の方へ目をやった。
「嫉《しつ》妬《と》をかき立てられて、秀美さんはまた呪いをためしてみる気になった。竹上信子のスカーフを盗んで——あなたがやったのかもしれないわね。もちろん、本人のものでなくとも、それを秀美さんが本物と信じればいいわけだから」
と、私は言った。「そしてあなたは竹上信子を殺した。その後に、ネックレスを落として来て、秀美さんが、本当に自分の呪いで彼女が死んだと思い込ませようとした」
「そんな馬鹿げた話、誰が信じるもんですか!」
と、良江が激しい口調で言った。
「そうかしら? でも、あなた方はやり過ぎたんじゃない?」
「——何のことですか」
「秀美さんが車で逃げる。——死ぬつもりでね。でも、車には、スピードが上ると、故障を起すように細工をした。違う?」
良江の顔がこわばった。
「でもね、その気で調べれば、そういう細工はすぐにばれるものよ」
と、私は言った。「自然に任せておけばいいのに、つい、やりすぎるのよね」
良江は、急に体の力が抜けたように、床に座り込んでしまった。
「——こんな所で——少しも年《と》齢《し》だって違わないのに、どうしてお嬢様と私が、こんなに違うんだ、って……そう考え出したら、もう……」
と、切れ切れに呟《つぶや》く。
「気の毒にね。——気持は分るわ」
と、私は言った。「私の所へなぜ話を持って来たの? このワラ人形の話を、後で警察に信じてもらえるように、私を利用したかったのね」
良江は黙ってうなだれた。私は首を振って、
「専門家を馬鹿にしちゃいけないわ」
と言った。
「——やあ!」
哲平が入って来た。「助かったよ! 彼女の車が横転したけど、奇跡的にけが一つなかったんだ! いや、良かった!」
——それから、私と良江を見て、
「どうしたの? 何か——悪いものでも食べたのかい?」
と言った。
受取人、不在につき—
1
「ともかく、だめなものはだめなんだ!」
耳慣れた声が、マンションのロビーに入ったとたんに響いて来た。
川北綾子は、あら、また管理人のおじさん、やってるわ、と思わず笑みを浮かべた。
何しろ頑固を絵に描いたような老人で、元は何をしていたのか、誰も聞いたことはないのだが、警官だったんだろう、とか、教師だったんだ、とか、想像するにも、固い職業ばかりを連想させるのだった。
「でも、俺《おれ》だって困っちゃうんですよ」
と、ふくれっつらで突っ立っているのは、運送会社の人間らしい。
「お前さんが困ろうと、そいつはこっちの知ったこっちゃない!」
と、管理人の方は突っぱねる。
「置いてかないと、今日の仕事が終らねえんだもん。預っといてくれたっていいじゃないか」
「だめだ。わしはここに住み込んでるわけじゃないんだ。管理人室へ置いといて、盗まれでもしたら、こっちの責任になるんだからな」
「あんなもん、盗む奴《やつ》、いませんよ」
「分るもんか。盗まれなくたって、傷でもつけられた日にや、こっちは下手すりゃクビだよ。お前さん、わしがクビになったら、面倒みてくれるのかい? ええ?」
ここまで言われると、相手も言いようがない。ただ、困り果てた様子で頭をかくばかりである。
川北綾子は、スーパーでの買物を、両手に下げて、歩いて行った。
「おじさん、どうしたの?」
と、声をかける。
「やあ、あんたか。——いや、こいつが何が何でも荷物を置き逃げしようとするから、文句を言っとったんだ」
管理人の口調が、少し柔らかくなった。
このマンションの中でも、綾子は古い住人に属している。
マンションそのものは、もう十年以上たって、大分、薄汚れて来ていた。八階建ての、かなりの世帯数で、比較的都心に近い立地条件のせいもあって、建った時点で、決して安い価格ではなかったにもかかわらず、すぐに完売してしまったものだ。
川北家も、初めから入居していた一戸である。しかし、十年もたつと、転勤や、子供の学校の関係、もっと高いマンションへの住みかえなどで、大分、住人も入れかわっている。
この管理人のおじさんが、朝九時から夕方五時まで、受付に座るようになって、何年たつか、綾子も正確には覚えていない。しかし、たぶん、一人っ子の洋子が、まだ小学校に入ったばかりぐらいのころだったから、七、八年たつのではないか。
洋子も今は十四歳、中学の二年生になる。
それはともかく——長い付合いだけに、一見、取っつきの悪いこの「おじさん」も、決して根は悪い人じゃないのだということを綾子はよく知っている。
「——置き逃げはひどいなあ」
と、運送会社の若者が顔をしかめる。「だって、もう二日も、ここへ通ってるのに、いつも留守なんですよ」
「わしの知ったことか」
と、「おじさん」がそっぽを向く。
「どこのお部屋?」
と、綾子が訊《き》いた。
「五〇一です」
と、若者が言った。
「五〇一って——誰だったかしら?」
綾子が首をひねる。
このマンションにも自治会があって、古顔の綾子は役員もやるので、たいていの部屋の人は知っているのだが……。
「ほら、先月越して来た奴《やつ》だよ」
と、おじさんが言った。
「ああ! 前に太田さんのいた所ね。新しい方——何ていったかしら?」
「水原っていうんだ。でも、わしも会ったことがない」
「まあ、おじさんも?」
「そうなんだ。一度くらい挨《あい》拶《さつ》に来るもんだがな、普通は」
「でも——もう二十日はたつでしょ?」
「めったにいないらしいからな。きっと、若い夫婦者だろ。近所に引越しの挨拶もしないってのは、たいていそうだ」
「決めつけちゃいけないわ」
と、綾子が言った。
「ねえ、お願いしますよ」
と、話を聞いていた若者がため息をついた。
「この荷物一つのために、こっちへ回ってたら、商売上ったりだ」
「そんなことは——」
と、おじさんが言いかけるのを、
「待って」
と、綾子が押えた。「いいわ。うちで預るから」
「助かります!」
と、若者が言った。
「うちは六〇一なの。ちょうどその水原さんの上だからね、子供もいるし、一度は挨拶しとかなきゃ。話のきっかけに、ちょうどいいわ」
「じゃ、すぐ持って来ますから!」
と、若者が表のトラックへと走って行く。
「——あんまりいじめちゃ可哀《かわい》そうよ」
と、綾子は、おじさんに言った。
「若い奴は、少しきたえてやらんとな」
と、おじさんは澄ましている。
「だけど——全然見かけないっていうのも、変ね。まだ荷物だけで、越して来てないのかしら?」
「分らんね」
と、おじさんは首を振った。「ともかく、会社の方は売れりゃいいわけさ。住もうと住むまいと、そりゃ勝手だからな」
「それはそうだけど、人が住まないと、家って、傷みがひどいっていうじゃない? もったいない話ね。うちだったら——」
と、言いかけて、綾子は言葉を切った。
あの若者が、「箱」を、トラックから運び出して、ロビーにかつぎ込んで来るところだったのだが、それが……。
「ただいま!」
と、川北洋子は、いつもの通り、玄関へ、勢いよく飛び込んで来た。「わっ!」
と、声を上げたのは——いつもと違って、目の前に、突然、壁があったからだった。
いや——壁じゃなかった。馬鹿でかい箱が、目の前に、デン、と置いてあったのである。
「洋子? お帰り」
と、母の綾子が出て来た。
「なあに、この化け物みたいな箱?」
と、洋子が呆《あき》れ顔で言った。「本物の馬でも注文したの?」
「まさか」
と、綾子は笑った。「預り物よ。上りなさい、ともかく」
「うん……。でも、大きいな」
大きい、といえば、セーラー服姿の洋子ももう母親よりも背は高い。体重や胴回りは綾子の方が上で——それは四十歳という年齢を考えれば当然のことだった。
「——へえ、下の部屋の?」
夕食の席で、洋子は綾子の話を聞いて、肯《うなず》いた。
「そう。後で行ってみるわ。いるかもしれないから」
と、綾子は言った。「——もう一杯食べる?」
「うん。——お母さん、食べないの?」
「控えてるのよ」
綾子は、ご飯をよそいながら言った。
「むだな抵抗、やめたら?」
洋子は、憎まれ口をきいた。
川北家は、今のところ、この母と娘の二人暮し。父親は、単身赴任で、大阪に行って一年になる。
洋子の高校受験もあるので、一人で行くことにしたのだったが、週末にはたいてい帰って来ている。
洋子にとっては、もともと、父親が忙しくて毎日帰りが遅かったので、結局顔を合わせるのは週末だけという点、今も大して変化はなかったのだ。
「あの箱、中身、何なの?」
と、洋子が玄関の方へ目をやって、言った。
「知らないわ」
綾子は肩をすくめた。
「生《なま》物《もの》じゃないんでしょうね」
「それなら書いておくわよ。それに、大きいけど軽そうよ。運んで来た人も、何でこんなに軽いんだろう、って首ひねってたくらいだから」
「へえ。——いつまで預るの?」
「そりゃあ……下へ渡すまでよ。大丈夫、いくら何でも、そう何日もいないってことないでしょ」
綾子は、自分に言い聞かせるように、言った。「お母さん、ちょっと行ってみるわ」
「私も行く!」
「じゃ、早く食べてよ」
と、綾子は苦笑した。
——食事の片付けは後回しにして、二人は外へ出た。
一階下へ、階段を降りて、端の五〇一号室の前に来る。
「——真暗ね」
と、綾子が言った。「留守らしいわね」
「一応、チャイム鳴らしてみたら?」
「そうね」
綾子がチャイムを押す。——しばらく待って、もう一度押してみたが、返事はなかった。
「仕方ないわ。明日、また来てみましょ」
綾子が先に立って、廊下を戻って行く。洋子は、その後を歩き出したが——。
「待って」
と足を止め、振り返る。
「どうしたの?」
「今——音がしたみたい。部屋の中で」
「そう?」
綾子も戻って来て、しばらく聞き耳を立てていたが、何の音もしない。
「——気のせいよ。それとも他の部屋からだったか……」
「そうかなあ」
ともかく、二人は階段の方へと歩いて行ったのだった……。
「——おはよう」
と、洋子は欠伸《あくび》をしながら言った。
「早くしないと、遅刻よ」
「はあい。コーヒーちょうだい」
洋子も、大人並みに、朝食はコーヒーとパンになっている。もう、セーラー服も着込んで、いつでも出るばかりのスタイル。
「ハム・エッグは?」
「いらない。トーストだけでいいわ」
洋子は、朝刊を広げた。専ら、見るのはTV欄だけれど。
「あ、そうだ、洋子。ちゃんと寝るときには、チェーンをかけといてよ」
と、トーストを出しながら、綾子が言った。
「かけてるよ」
「ゆうべ、かけてなかったわよ」
「ウソ! ちゃんと寝る前に見たけどな」
「今朝、新聞取りに行ったら、かかってなかったわよ」
「そう?——変だなあ」
洋子は、いささか不満げに呟《つぶや》いた。
「いいから。早く食べなさい」
綾子がせかした。「あら——誰かしら?」
玄関のチャイムが鳴ったのだ。
「敏子かな。一緒に行こうって言ってたの」
「出てみるわ。早く食べて」
「はいはい」
——綾子は、玄関のドアを開けた。
「あら、三橋さん」
綾子は、意外そうに言った。洋子のいった敏子でなく、その母親の方が立っていたからである。
「どうなさったの?」
と、綾子が訊《き》いたのは、敏子の母親が、目を血走らせ、ただごとでない様子だったからである。
「あの——朝からごめんなさい。洋子ちゃん、いらっしゃる?」
「ええ、今、朝ご飯で。——洋子!」
洋子が、呼ばれるまでもなく、出て来る。
「おばさん、おはようございます。——敏子、具合でも悪いんですか?」
「いいえ、それが——」
と、敏子の母親は、青ざめた顔で、「ゆうべ、どこかへ行っちゃったの」
綾子と洋子は顔を見合わせた。
「どこかへ——って。家出か何か?」
と、綾子は訊いた。
洋子と敏子は、小学校、中学と同じで、母親同士も、割合に親しく付き合っている。
「分らないの」
と、母親は首を振って、「ともかく、朝起きてみたら、ベッドにいなくて……。別に、書き置きもないし、調べてみたけど、ボストンバッグ一つ、なくなってないの」
「変な話ねえ」
と、綾子も眉《まゆ》を寄せる。「洋子、あなた、何か心当りは?」
「全然! だって、今朝一緒に行こうって言ってたのに!」
「そう」
と、敏子の母親は肯《うなず》いて、「何かご存知かと思って……。じゃ、他を当ってみるわ」
とそそくさと帰って行った。
「——心配ねえ」
と、綾子は言った。
「駈《かけ》落《お》ちするには、ちょっと若いしね」
洋子が、真面目な顔で言った……。
「ともかく、あなたは早く出かけなさい。遅刻するわよ」
「うん」
洋子は、鞄《かばん》を手に、家を出た。
——一階までエレベーターで降りると、表のバス停へと急ぐ。
バスが混んで乗れないこともあるので、少し余裕を取って家を出ている。
今日は、幸い、すぐに乗れた。まだまだ後から混んで来るのが分っているので、奥の方へ進んで行く。
バスが動き出す。——吊《つ》り革につかまった洋子は、ふと、マンションの上の方へ目を向けた。バスが走り出して、マンションが背後に遠くなると、あの、五〇一の部屋の窓が見える。
その窓は、カーテンが開けてあった。
誰かいるのかしら? 洋子はじっと目をこらしたが、マンションは、すぐに視界から消えてしまった。
2
「結局、敏子ちゃん、行方不明のままなのよ、まだ」
綾子の話に、川北は、
「ふーん」
と肯いた。「そりゃ心配だな」
当り前のことではあるが、そうとでも言うしかない。
土曜日の夜。——父親が帰宅しているのだった。
「誘拐じゃないのか」
夕食をとりながら、川北は言った。
「一応、警察へ届けたから、その線でも調べてるみたい。でも、脅迫もないっていうし……」
「だって、変よ」
と、洋子が言った。「誘拐するのに、わざわざ夜中に家から連れ出す? しかも、敏子、パジャマのままいなくなってるっていうんだから」
「妙な話だな」
「自分で出てったとしても、服ぐらい替えそうでしょ?」
「もう——三日たつのか」
「そう。ご両親、気の毒で、見ていられないわ」
綾子は、ため息をついた。
「当然だろうな。——洋子、お前も気を付けろよ」
「分ってるわ」
珍しく、洋子も素直に肯いた。
「ところで——あの箱、どうするんだ?」