と、川北が言い出した。
「困ってるのよ、私だって」
と、綾子は顔をしかめた。「まさか、こんなに長いこと、部屋にいないなんて……」
「送り主へ返しちゃどうだ?」
「一《いつ》旦《たん》預ったんだもの……。それに、週末だから、帰って来るんじゃないかと思って」
「そうだといいな。何だか、家の中が狭くなったみたいな気がする」
「我慢してよ。お互い様なんだから」
「お母さん、後で行ってみようよ」
「そうね。もういい加減……」
——しかし、二人で五〇一号室のチャイムを、いくら鳴らしても、誰も出ては来なかった。
「しょうがないわねえ」
と、綾子はお手上げという顔で、「あんなもの、預るんじゃなかった」
「仕方ないわよ。今さら」
洋子はそう言って、「——あれ、何かしら?」
と、足を止めた。
誰やら、怒鳴っている。声が響いて、よく聞き取れないが、どうやら、あの管理人のおじさんの声も混じっているようだ。
「上の方ね。行ってみようよ」
洋子は好奇心旺盛な年齢である。
「もの好きね」
とは言ったが、綾子だって、興味がないわけではない。
八階だった。エレベーターホールの前で、おじさんが、八階の住人の一人と、大喧《げん》嘩《か》の最中だった。
「あんた、管理人だろう! 知らんで済むのか!」
八階に住んでいる旅行作家か何かである。
「知らんものは知りませんよ」
と、おじさんは相変らずだった。
「これじゃ、安心して取材にも出られんじゃないか!」
何があったのか、作家の方はえらく腹を立てている。
いささかお節介なところのある綾子は、
「おじさん、どうしたの?」
と声をかけた。
「やあ、川北さん」
と、作家の方が綾子の顔を見て、先に口を開いた。
「いや、旅行へ出て帰ってみるとね、泥棒が入ってたんだよ」
「まあ!」
「そんなのはわしのせいじゃないよ」
と、おじさんは顔をしかめた。「そりゃ、真昼間に泥棒が入口から入って来るのを見て気が付かなかったというんならわしのせいかもしれんが、夜中に入られたのまで、わしにゃ分らん」
「それにしたって——」
とまだ怒っている作家をなだめて、
「何か盗られたんですか?」
と、綾子が訊《き》いてみた。
「それが妙でしてね……」
と、作家は、当惑した様子で、「机なんですよ」
「机?」
思わず、洋子が口を出していた。「あの——ものを書く机ですか?」
「そうなんだ。こっちにとっちゃ商売道具だからね。ないと困る」
その点は、綾子も理解できた。しかし、机といえば、いくら小さくても、ポケットへ入れて歩くというわけにはいかない。
「そんなに高い机だったんですか?」
と、洋子がぶしつけなことを訊いて、綾子を赤面させた。
「いや、そうでもない。かなり大きくて、ちょっと古いしね。——どうしてあんな物を盗んだのか分らんが、ともかく、こっちにとっちゃ、いい気分はしない」
「それはそうですね」
と、綾子は肯《うなず》いて、「現金とか、何かそういったものは?」
「それは全然手をつけていないんだ」
綾子と洋子は顔を見合わせた。
——金銭的な損害はともかく、気味が悪いので、一応警察へ届ける、ということで、その場は落ちついた。
「——妙な話だなあ」
帰った綾子たちから話を聞いて、川北は首をひねった。
「ねえ」
と、洋子が言った。「今、思ったんだけどさ……」
「何なの?」
「あの作家の先生、奥さんと別れたんでしょ?」
「別居してるのよ。なに、急にそんなこと——」
「その奥さんがさ、机を持ってったんじゃない?」
「机なんか持ってってどうするの?」
「たきぎの代りにくべた、とかさ」
「あなたの話にゃ取り合っていられないわ」
と、綾子は苦笑した。
「洋子!」
学校からの帰り道、もうマンションの近くまで来たとき、声をかけられて、洋子は振り向いた。
「ああ、朱美。どうしたの?」
菅原朱美は、マンションの二階に、去年引越して来た。やはり中学二年生で、たまたまクラスも同じだったので、時々は行き来することもあったが、まあほどほどの付き合い。親友というほどの仲でもなかった。
「——今日のテスト、どうだった?」
と、朱美が言った。
「まあまあね。平均点すれすれってところかな」
「いいなあ。私も一度でいいから、『まあまあね』なんて言ってみたい。てんでだめなんだもの」
洋子は、笑っただけだった。
洋子の方は、至って正直で——「まあまあ」と言えば、本当にまあまあの点しか取らない。でも朱美は、こんなことを言ってはいるが、その実、洋子よりずっといい点を取っているのだ。
その辺が、何となく朱美の、敬遠したくなるところだった。
「ねえ、洋子」
と、朱美が、ちょっと言いにくそうに、「お願いがあるんだけどな」
「何なの?」
「うん……」
いやに言い辛《づら》そうにしている。朱美にしては珍しかった。
「言ってごらんよ」
「あのね——今夜、一晩、泊めてくれない?」
「うちに?」
「うん。洋子のとこ、お父さん単身赴任でしょ? 今日はいないんでしょ?」
「週末まで帰って来ない」
「だから……。悪いんだけど、今夜だけ。——お願い」
「いいわよ。そんなに拝まなくたって——大邸宅に住んでるってわけじゃないじゃないの、お互いに」
と、洋子は笑って言った。「でも、どうしたの? 急なお客さんでもあるの?」
「そうじゃないの。あのね——私の布団、盗まれちゃったんだ」
「え?」
洋子は目を丸くした。
「うち、ベッドじゃないから、ほら、昼間ね、お母さんが屋上に持っていって、陽《ひ》に当ててたんだって。そしたら、ちょっと目を離した隙《すき》に、かけ布団も敷布団も——消えちゃってたんだって」
「へえ……。結構、かついでくの大変だろうけどね」
「お母さんったら、わざわざ学校へ電話して来て——どうしようか、だって。私に言われたって……」
と朱美は肩をすくめた。「そんなもの、警察に届けたって、だめだと思うよ、って言ってやった」
「それでうちに?」
「うん。今夜だけ」
「構わないわ、どうせ父さんのベッドがあるから」
「うちで、お母さんと寝てもいいんだけど……。お父さん、ずっと出張だったの。で、今日帰って来るのよね」
「へえ」
「よく出張があるから、分ってんだ」
と、朱美は肯《うなず》いた。
「何が?」
「出張から帰った日は、必ず、お父さん、お母さんの布団を訪《ヽ》問《ヽ》するの、邪魔したくないものね、子供としては」
「そ、そうね」
年齢の割に、少々奥手な洋子は、ちょっと赤くなって、咳《せき》払《ばら》いしたのだった……。
「——朱美」
と、暗がりの中で、洋子が言った。
少し間があってから、
「なあに?」
と、訊《き》き返して来る。
「起こしちゃった? ごめん」
「ううん。まだ眠れない。いつももっと夜ふかしなんだもの」
「そうなの?」
「大体、寝るの一時ぐらいよ」
洋子はびっくりした。いつも十一時には寝て、それでも寝不足である。
——結局、綾子が気をきかして、夫婦の寝室を、洋子と朱美に使わせてくれているのである。
「このところ、変なことが続くでしょ」
と、低い声で、洋子は言った。
「変なことって?」
「敏子はまだ行方不明だし、八階の作家は机を盗まれるし……。まだあるのよ。ちょっと聞きかじっただけだけど、椅《い》子《す》が一つなくなっちゃったとか、洗面器が持って行かれたとか……」
「へえ。——変なものばっかしね」
「もちろん、中には単純になくしただけのものもあるかもしれないわ。でも、こんなことが続くのっておかしいと思わない?」
「うん」
と言ってから、朱美は、やっと思い当った様子で、
「じゃ、うちの布団も?」
「そうじゃないかと思うのよ」
二人は、しばらく黙っていた。
「——でも、誰がそんなことを?」
と、朱美が言った。
「分らないわ。ただ——奇妙だな、と思うことが、もう一つあるの」
「何だか怖くなって来たわ」
と、朱美は言った。「明り、点《つ》けてもいい?」
「うん。じゃ、頭のとこのを点けるわ」
手を伸ばし、手探りでスイッチを見付けると、洋子は押した。明りが点く。
「キャッ!」
朱美が、ベッドからはね起きるようにして、叫び声を上げたから、洋子もびっくりした。
「どうしたの?」
「誰か——そこに誰かいるわ!」
朱美の顔は血の気が失せて、大きく目を見開いている。指さしているのは、寝室と居間をつなぐドアの方だった。
ドアは少し開けてある。それが——確かに洋子の記憶よりは、大きく開いているように見えた。
「誰かいたの?」
と、洋子はベッドから出ながら、言った。
「分らない。明りが点くと同時にサッと白いものが——向うへ走って行ったわ」
よほど怖かったのだろう、朱美の声はまだ震えていた。
「どうしたの?」
そこへ綾子の声がして、また二人は、
「キャーッ!」
と悲鳴を上げて、ベッドの上に突っ伏してしまった。
「何なのよ、一体?」
と、綾子が呆《あき》れている。
「お母さん! びっくりさせないでよ」
と、洋子が体中で息をつく。
「こっちがびっくりしたわよ。どうしたの?」
洋子の説明を聞いて、綾子もちょっと緊張した。
何しろ女三人しかいないのだ。もし泥棒でも入っていたら……。
「二人ともここにいなさい」
と言うと、どこから持ってきたのか、バットを両手につかんで、ドアの方へ歩いて行った。
「私、明り点《つ》ける」
と、落ちついて来ると結構度胸のいい洋子が、母親の後について行く。
朱美も心細いのか、洋子のうしろにくっついていた。
洋子は、壁の方へ手を伸し、居間の明りを点けた。
綾子が、身構えつつ、居間へパッと飛び込む。——そこには誰もいなかった。
「いないわね。——他の部屋——といったってそんなにないわよ」
「お風《ふ》呂《ろ》場とかトイレ……」
「順番に見て行きましょう」
さすが、綾子は落ちついている——といっても、内心はビクビクものなのだ。
——しかし、トイレも風呂場も、誰も潜んではいなかった。
念のため、また寝室や洋子の部屋にも戻って調べてみたが、誰も隠れてはいなかった。
「——朱美さん、気のせいだったんじゃない?」
と、綾子が言うと、朱美は頭をかきながら、
「おかしいなあ……」
と首をかしげている。
「待って」
と、洋子が言った。「もう一つ調べていない所があるわ」
「どこ?」
「あの玄関の箱よ」
綾子がびっくりして、
「あれは——」
「預り物でしょ。分ってる。でも、もう何日もうちに置きっぱなしよ。それに——」
洋子は、ちょっと間を置いて、「ねえ、お母さん。敏子がいなくなったの、あの箱が来た次の日——いえ、その晩のことよ」
「そう——そうだったわね」
「それからだわ。次から次へと変なことばっかり起こるようになったのは」
「でも、洋子、まさか——」
「あの中に、机やら布団やらが入っているとは思わないわよ。でも、開けてみたっていいじゃない。何でもなきゃ、また元の通りにしとけばいいんだから」
「だけど……」
綾子は、なおもためらっている。
「お母さんが何と言っても、私、あの箱を開けてやる!」
「分ったわよ」
綾子は、あわてて言った。——洋子がこうまで言うのでは、止めてもむだと思ったのである。
「じゃ、開けてみましょう」
三人は、ゾロゾロと、玄関へ出て行った。
——箱はそこにある。
置かれたときそのままに、じっとしている。
「私がやるわ」
と、綾子が言った。
そのとき、朱美が、ふと、玄関のドアへ目をやった。
「おばさん」
「え?」
「玄関、鍵が開いてる」
三人の視線が玄関へ向く。——突然、ドアが開いた。
綾子は反射的に、二人の子供たちの前に立ちはだかった。
「——夜分失礼します」
と、そ《ヽ》の《ヽ》男《ヽ》は頭を下げた。
黒いスーツに身を包んだ、五十歳ぐらいの男だった。髪は少し白くなりかけていて、ちょっと外国人っぽい口ひげをたくわえている。
「どなた——ですか」
と、綾子は、辛うじて言った。
「下の階に越して参りました、水原と申します」
男は、無表情な声で、言った。
「水原さん……」
「はい。引越しを済ませて、すぐ旅に出ていたものですから、ご挨《あい》拶《さつ》が遅れまして」
「はあ……」
「この箱を、ずっとお預り下さったようで、申し訳ありません」
「い、いえ——どういたしまして」
「お邪魔でしたでしょう。持ち帰りまして、お礼はまた改めて——」
「そんなこと、どうぞお気になさらずに」
「では、失礼します」
水原というその男、玄関へ入って来ると、大きな箱を、まるで、ボール紙ででもできているかのように、ヒョイと手で持ち上げ、「——夜分、失礼いたしました」
と、会釈し、出て行った。
三人は、一様に息をついた。
「夢だったんじゃないの?」
と、洋子は呟《つぶや》いた。
本当に、そんな気がした。しかし、箱は、もうなくなっていたのだ。
「中を見せろ、って言えば良かった」
と、洋子が言った。
「言えなかったわ。お母さんには、とても」
と、綾子が首を振る。
正直なところ、洋子も朱美も同感だった。
「お母さん、鍵!」
言われるまでもなく、綾子は、急いで、玄関の鍵をかけ、チェーンをかけて、大きく息をついたのだった……。
3
「俺《おれ》が? いやだよ」
と、川北は顔をしかめた。
「いいじゃないの」
と、綾子が言った。「おかしくないわよ。こちらは上の部屋なんだもの。いつもご迷惑かけて、とか言って挨《あい》拶《さつ》に行っても、ちっとも変じゃないわ」
「しかし……。そんな変な奴《やつ》の所に行くのは気が進まないよ」
「変だからこそ、行って来てほしいのよ」
「そうよ」
と、洋子が加勢する。「お父さん、留守の間に、私たちにもしものことがあっても構わないの?」
十四歳といえば、口の方はすっかり一人前である。川北は、ため息をつくと、
「分ったよ」
と肯《うなず》いた。「じゃ、ともかく行ってみよう」
諦《あきら》めの境地、というところである。
——日曜日だ。
水原が、初めてマンションの人々の前に姿を現わして、もう三週間がたっていた。
しかし、今のところ、綾子の知っていることといえば、あの水原という男に、まだ七、八歳の女の子がいる、ということぐらいで、おそらく二人きりで生活しているのだろう、という話だった。
二人とも、まずめったに外へ出ていないし、水原が何の仕事をしているのやら、誰も知らなかった。
三橋敏子は、まだ行方不明のままで、母親のやつれようは、綾子の目にも辛《つら》かった。その他の机だの、布団だのも、戻って来たという話は聞かない。
「きっと、あの水原って人の部屋にあるのよ」
と、洋子は断言していた。「私が忍び込んでもいいんだけど」
「やめなさいよ」
と、綾子はたしなめた。
「じゃ、お母さんは、敏子がこのまま見付からなくてもいいっていうの?」
「敏子ちゃんのことは関係ないかもしれないじゃないの」
「関係あったら?——お母さん、私がもし行方不明になってたら、あの部屋を調べるの、遠慮する?」
この洋子の言葉には、綾子も参った。かくて、その偵察役が、川北へと回って来たわけである。
——綾子、洋子に送り出されて来たものの、川北は、本来技術者で、口下手な方である。営業マンか何かなら、うまくお愛想の一つも言って、さっと上がり込むのだろうが……。
困ったなあ、と考え込みつつ、五階の廊下を歩いて行くと、
「失礼」
と、後ろから声をかけられた。
振り向いて、すぐ、川北はこれが水原だな、と思った。見るのは初めてだが、綾子の言っていた、どこか暗い「夜」のムードを漂わせた男だ。
それは、単に黒いスーツを着ているからだけとは思えなかった。
「失礼ですが——川北さんでは?」
「はあ、川北です」
「やっぱりそうでしたか。私は水原と申します。奥様には、すっかりご迷惑をかけまして——」
「いや、とんでもないです」
と、川北は、あわてて頭を下げた。
「いや、一度、お詫《わ》びにうかがおうと思っておりましたが、なかなか時間が取れず、失礼しました。——どちらかへおいでになるのですか?」
「は? いや——あの——もう用が済んだので」
「そうですか。では、ちょっとお寄りになりませんか?」
川北は面食らった。向うから誘ってくれているのだ。
「いや——よろしいんですか?」
「構いませんとも。私も留守にすることが多いものですから。——さあ、どうぞ」
半ば、水原に背中を押しやられるような感じで、川北は五〇一号室へと向って歩いて行った……。
「——むさ苦しい所ですが、お入り下さい」
と、水原が言った。
五〇一と六〇一、造りは同じである。
しかし、こっちが大分広く見えるのは、家具などが少ないせいだろう。
「おかけ下さい。コーヒーでもいかがですか?」
「はあ。いただきます」
川北は、ソファに座りかけて、妻と娘のことを思い出した。
ここまで来て、コーヒーだけ飲んで帰ったというのでは、面目が立たない。
川北は、ちょっと咳《せき》払《ばら》いすると、
「ええと——申し訳ありませんが、ちょっと中を拝見させていただいて、よろしいですか? うちと同じ造りですから、どうお使いになっておられるのか、興味があって」
「まだ、ろくに片付いていませんがね」
と、水原は笑いながら、「よろしければ、どうぞご覧下さい」
「すみません。では、ちょっと……」
川北は、両手を後ろに組んで、いかにも、見物している、という風に、時々肯《うなず》いたりしながら、部屋を見て回った。
寝室も、ベッドが一つあるだけで、あまり飾り気はない。
例の机など、まるで見当たらなかった。
上では洋子の部屋になっている部屋の前に来ると、ガラッと戸が開いて、川北はびっくりした。
七、八歳の女の子が立っている。
「やあ——こんにちは」
川北は、辛うじて笑顔を作った。
女の子は、水原によく似ていた。いや、顔つきはともかく、どこか暗い、それでいて人の目をひきつけるというところが似ていたのである。
女の子は、その黒い、大きな目で、じっと川北を見上げていた。
奇妙な視線だった。川北の胸にまで突き刺さって来るような……。
「——ユカ。どうした?」
背後で、水原の声がして、川北はまたビクリとさせられた。
「ううん、何でもない」
ユカ、と呼ばれた女の子は、首を振った。
川北は、その部屋の中を、チラッと見た。
——女の子らしい、可愛《かわい》いベッド、他には、小さな子供用の勉強机、そしてぬいぐるみ、オモチャの類。
目につくのは、大きな家の模型というのか、外国の映画でよく見る、「人形の家」というやつらしい、と川北は思った。
ユカは、部屋へ入ると、戸を閉めてしまった。
「——母親を早く亡くしたものですから」
ソファに戻って、コーヒーを飲みながら、水原が言った。「つい、人見知りになりましてね。外へ出ないので、困ります」
「そうでしたか。大変ですね」
川北は肯《うなず》いた。
「もう学校へ行く年《と》齢《し》なのですが、行きたがらないのです。——あまり無理に行かせて、病気にでもなられても困る。むずかしいところです」
水原は微笑《ほほえ》んだ。
「——お仕事は、何をなさっておられるんですか?」
と、川北は訊《き》いた。
「私ですか?」
水原はそう言って、愉快そうに、「あまりまともに、朝出て、夕方帰るという仕事ではないので、さぞかし不思議がられているでしょうね」
と言った。
「すると、夜のお仕事ですか」
「そうですね」
と、肯き、
「何だと思われます?」
「いや——ちょっと、見当がつきませんねえ」
と、川北は首を振った。
「私は——魔術師なんです」
と、水原が言った。
「——魔術師?」
と、綾子と洋子は、異口同音に声を上げていた。
「そうなんだ。分ってみりゃ、あの雰囲気もどうってことないじゃないか」
川北は、家へ戻って来て、いい気分であった。
「魔術師かあ」
と、洋子がくり返す。
「部屋を全部覗《のぞ》いて来たぞ。だけど、その机らしきものも、布団もない」
「確かに?」
「ああ。机といやあ、ユカって女の子の、子供用の勉強机だけ、布団はベッドだから使わないだろうしね」
「そう」
と、綾子は肯いた。「じゃ、こっちの思い過しだったのかしら」
「そうだよ。人付き合いがあまり良くないからって、色メガネで見るのは間違いだぞ」
川北は珍しく、説教くさいセリフを吐いてみた。
洋子は、自分の部屋へ戻ると、ベッドに引っくり返った。
「——敏子」
と、呟《つぶや》く。
どこへ行ってしまったんだろう?——敏子……。
洋子は、父の話に、完全に満足してはいなかった。大体、父はお人好しで、騙《だま》されやすいた《ヽ》ち《ヽ》なのだ。
まだ目を離さないからね、と洋子は、心の中で呟いた……。
4
あの子だわ。
洋子は、すぐに、それが父の言っていた、ユカだと思った。
もちろん、大人と子供の違いはあるにせよ、ユカは、ある意味で、水原そっくりだったからだ。
洋子は、自転車で、マンションへ戻って来たところだった。
学校が終った後、母に頼まれて買物に行って来たのだ。そして、マンションの前の道で、一人遊んでいる女の子に気付いたのだった。洋子は、自転車を、その子の前で停めた。
「——こんにちは」
と、洋子が言っても、ユカの方は返事をしない。「私、川北洋子。上の六〇一にいるのよ。あなた、五〇一の、ユカちゃんね?」
女の子は、黙って肯《うなず》いたが、目は洋子を見ていなかった。
「——どうしたの?」
と、洋子は訊《き》いた。「この自転車、どうかした?」
「すてきね」
と、ユカが言った。
そっと手をのばして、ハンドルをなでる。
「そう? ありがとう。この前買ったばかりだから、新しいのよ」
と、洋子は言った。「でも、あなたには、ちょっと大きすぎるんじゃない?」
ユカは、聞いていないようだった。
ただ、じっと、キラキラ輝くような目で、自転車を見つめている。
「——じゃ、またね」
洋子は、ちょっと薄気味が悪くなって、そう言うと、自転車をこいで、マンションの裏手へと回って行った。
——部屋へ戻って、買って来たものを出しながら、
「わあ、気味悪かった」
と、洋子は言った。「あの子、本当に、ま《ヽ》と《ヽ》も《ヽ》じゃないわ」
「ちょっと変ってるのね、きっと」
と、綾子は言って、「——あ、いけない!」
「どうしたの?」
「一つ、頼むの忘れちゃったわ」
「なんだ。——もう一度行って来る?」
「いいわ。あなたじゃ分らないから。私があの自転車で行って来るわ。鍵をかして」
綾子は、エプロンを外して、急いで部屋を出た。
一階へ降りると、裏手の自転車置場へ回る。洋子の自転車の鍵をさし込んでいると、誰かがそばに立った。
振り向くと、水原が立っている。
「あら……」
「奥さん、こんにちは」
「どうも」
と、綾子は会釈した。「ちょっと買物に——」
「それは残念です」
「残念?」
「ええ。——ユカが、その自転車を欲しがっていましてね」
と、水原は言った。
「まあ、そうですの。でも、ユカちゃんには、小さい自転車でないと——」
「自転車だけではないのです」
「というと?」
「ユカは、母《ヽ》親《ヽ》も欲しがっていまして」
「お母さんを?」
「あなたを、とても気に入っているようです……」
「光栄ですわ」
綾子は、辛うじて笑顔を見せた。「でも、私にはとても——」
「ご心配なく」
水原は、綾子の目の前に、手をかざした。
「まだ充分に入《ヽ》る《ヽ》余《ヽ》地《ヽ》がありますよ」
綾子は、突然、目の前が暗くなるのを感じた。——手にしていた財布が、足下に落ちた……。
おかしい。
洋子は、時計を見た。——もう、母が出かけて一時間たっている。
すぐ表の八百屋へ行くだけだったのに。
自転車で行くほどの距離でもないのだが、荷物が重くなるので、わざわざ鍵を持って行ったのだ。
それなのに——一時間も。
事故にでも遭ったのか。洋子は、気が気でなかった。
決心して、部屋を出る。
一階で降りると、もう大分暗くなりかけた自転車置場へと行ってみた。
確かに、自転車はない。してみると、出かけてはいるのだ。
八百屋さんへ行って訊いてみよう。
歩きかけた洋子は、何かをけとばして、下を見た。——拾い上げて、息を呑《の》んだ。
母の財布である。
これなしで、買物に行くわけがない。
洋子は駆け出した。——マンションの表の道へ出てみる。
ユカの姿は、なかった。
どうしたものだろう?——洋子は、しかし、長くは悩まなかった。
母と違って、世間体など、どうでもいい。
ともかく、五〇一号室へ行ってみよう、と思った。
しかし——まともに行って、取り合ってくれるかしら?
エレベーターで上りながら、洋子は必死で考えをめぐらせた。そして、一旦、六階へ上って、自分の部屋へ戻った。
外はもう暗い。——これなら大丈夫。
洋子は、我ながら無鉄砲なことをやり始めた。
自分の家のテラスから、下のテラスへと降りようというのである。
普段なら、高い所は苦手なのだが、今はそれどころではない。得体の知れない不安が、洋子を追い立てていた。
——何とか、うまく下のテラスへ降り立った。
暗いのは、父の話では、例の、ユカという子の部屋らしい。
ガラス戸に手をかけると、網戸にして、風を入れていたのか、さっと開く。
網戸を開けると、洋子は、中へ入って行った。
暗がりの中、洋子は、手探りで、机の上のスタンドを点《つ》けた。
これぐらいの光なら、居間の方で気付かないだろう。
部屋の中を見回して、洋子は首を振った。
ここへ何をしに来たのか、自分でもよく分ってはいないのである。
しかし、母がここにいる、という理屈抜きの信念が、洋子にはあった。
部屋の戸口の方へ、行きかけて、ふと、洋子は立ち止まった。——何か、今、見たも《ヽ》の《ヽ》が気になる。何だろう?
振り向き、そして、ゆっくりと部屋の中を見回す。
洋子の視線が、人形の家に止まった。
——本物の家そっくりにできた、立派なものである。
洋子の目は、その表に立てかけてある、自《ヽ》転《ヽ》車《ヽ》に釘《くぎ》づけになった。
そっと近付いてみる。——似ている。
もちろん、その家《ヽ》にふさわしく、二、三センチの大きさになっているが、しかし、それにしても、形といい、色といい、まるで、洋子の自転車を、そのまま縮《ヽ》め《ヽ》た《ヽ》かのようだ……。
「まさか!」
と、洋子は呟《つぶや》いた。
その窓の中を覗《のぞ》いて、驚いた。机がある。タンスも、椅子も、本物そっくりのものが、ちゃんとセットしてある。
上の方の部屋を覗いて、洋子は、ふと眉《まゆ》を寄せた。
布団を敷いた上に、人形が寝ている。パジャマを着て。——そのパジャマの柄が——見たことのあるものだった。
そうだ、これは——敏子が、いなくなったとき、着ていたのと同じ……。
洋子の顔から血の気がスッとひいて行った。
そんなことが……あるわけない?
馬鹿な! いくら何でも……。
あの人《ヽ》形《ヽ》が、敏《ヽ》子《ヽ》だったら——では、ではお母さんは?
洋子は他の部屋を覗いて行った。ガクガクと、膝《ひざ》が震える。
母は、一番端の部屋に、倒れていた。出かけて行ったときのままの格好で。
「ああ……お母さん……」
思わず、声が洩《も》れる。
「——見たのかね」
背後で声がした。ハッと振り向くと、水原が立っていた。戸口の所に、ユカが立って、じっと洋子を見ていた。
「では、帰すわけにはいかないね」
と、水原は言った。「ユカは、母親を欲しがっていたんだ。前にはお姉さんをね。——もう一人、お姉さんを作ってあげるしかなさそうだ」
洋子は、首を振った。——恐怖で、声が出ないのだ。
「本《ヽ》物《ヽ》の母親は死んでしまうからいやだと言うのでね。それで、こうして小さな人形にしてやったのだよ。——君も、その中へ入ってもらおう」
水原が、洋子の顔へ、手をかざす。
そのとき——自分でもよく分らない。洋子は、ユカの方へ向って、突っ走ったのである。
そして思い切りユカを突き飛ばした。ユカがひっくり返って、どこかへ頭でもぶつけたのか、ワーッと泣き出した。
「何をする!」
水原が、あわててユカの方へ駆け寄っている間に、洋子は、玄関から廊下へ飛び出していた。
「誰か来て! 助けて!」
洋子は思い切り叫んだ。
そのとき、何かが激しく壊れるような音が、五〇一号室の中で聞こえて来た。
「お母さん!」
洋子は、怖さも忘れて、ドアを開け放った。
真白な煙が、吹きつけて来て、洋子は目を閉じた。
そして——それが静まると、洋子は、眼前の光景に、愕《がく》然《ぜん》とした。
何《ヽ》も《ヽ》ない。いや——あるものもあった。
机。——例の作家のだろう。
そして、布団も、投げ出されていた。その他も、方々でなくなったものばかりだ。
「お母さん!」
と、洋子が叫んだ。
母が、フラリと、奥から出て来た。続いて、敏子も……。
「良かった……お母さん!」
洋子は、綾子へ駆け寄って、力一杯抱きついた……。
「——何も憶《おぼ》えてないのよ」
と、綾子は照れたように言った。「ただ、ポカッと空白になってる感じ。その間の記憶が」
「敏子も、全然憶えてないみたい」
と、洋子は言った。
「ともかく、助かったわ」
綾子は、洋子の頭を、軽く撫《な》でてやった。
夕食の席に、今日も父の姿はない。
「——お父さんにも黙ってよう」
と、洋子は言った。「きっと誰も信じてくれないしね」
「そうね。ただの夜逃げ、ということにしておいた方が無難かもしれないわ」
「お母さんも——」