「え?」
「お父さんのポケットに入っていられりゃ、別々に暮さなくても済むのにね」
「とんでもない! あんな汚ないハンカチと一緒なんてごめんだわ」
綾子はそう言って、自分で笑い出していた。
——あの魔術師、どこへ行ったんだろう?
洋子は思った。そう、今後、どこかでお人形を見かけたら、誰かが知っている人と似ていないか、気を付けて見ておこう……。
帰って来た娘
1
トントントン……。
階段に響く足音に、坂根祐子はハッと耳を澄ました。
あの子かしら? 佳子が帰って来たのだろうか?
一階下の部屋の玄関のドアが開く音がして、
「ママ、ただいま!」
と、男の子の声が響いた。
祐子は、ふっと肩を落とした。——そう。そんなはずはないのだ。佳子が帰って来るなんて、そんなことは……。
どうして団地って、あんなに足音や話し声が響くのだろうか。それも、子供たちの声や女の子たちのにぎやかな笑い声は、何倍にも大きくなって聞こえて来る。
いや、それはただ祐子がそう感じているだけなのかもしれない。もちろん、団地のせいでもないし、住んでいる隣人たちのせいでもないのだ。
分っている。分っているけど……。でも……。
祐子は、至って常識的に生きて来た人間である。短大を出て、就職。OL生活五年で、社内結婚。職場を移って一年で、妊娠して仕事を辞めた。
そして後は子育てと家事に専念して来た。特別いい妻だったか、いい母だったかと問われれば自信はない。しかし、世間並には苦労もし、喜びも辛《つら》さも味わって、娘の佳子をやっと十五歳まで育てて来たのだ。
浮気もしなかったし、ぜいたくもしていない。夫とはたまに夫婦喧《げん》嘩《か》もしたが、離婚の危機にさらされるところまでは行かなかった。
娘が大きくなると親子喧嘩もした。でも、それは家庭内暴力というところまでは行かなかったのである。
一人っ子とはいえ、佳子はほどほどに気のいい呑《のん》気《き》な娘に育ち、学校の成績もまずまずで、見かけも、タレントにスカウトされるほどでなくても、まあ可愛《かわい》い部類にはなっていた。
夫の坂根は、仕事柄やや出張が多く、佳子が小さい内は祐子も少々心細い思いもしたが、この団地へ三年前に越して来てからは、ご近所も多いので、さして不安もなかった。
佳子は私立の中学に入って、ここからバスで三十分の距離を通っており、そのまま、よほどのことがない限り、高校、大学へと進めるはずだった。
祐子が、やっと少し時間を持て余すようになって、そろそろ、よその奥さんたちのように、
「何かおけいこごとでも、通ってみようかしら……」
などと考えていた矢先、総《すべ》ては覆《くつがえ》ったのだった。
——事故。
校門を出て、横断歩道を、ちゃんと信号を守って渡っていた佳子が、信号無視で突っ走って来た赤いスポーツカーにはねられたのだ。
もう……三か月もたってしまった今でも、祐子はあの電話があったときのことを、はっきりと憶《おぼ》えている。
「お嬢さんが事故に遭われて——」
学校の先生の電話に青くなって、家を飛び出したものの、足の骨でも折ったのかしら、ピアノの発表会には出られるかしら、などと祐子は考えていたのだ。
即死だった。——病院で、そう聞かされた祐子は、その場で気を失って倒れた。
それからの一か月は、ほとんど記憶にない。生きているからには、食事もし、眠ってもいたに違いないのだが、何も憶えていない。
ただ、どうしてあの子が死んで、私が生きているのかしらと、そればかりを考えていた……。
佳子をはねた車は、ついに見付からなかった。赤いスポーツカー。
「目立つ車だから、すぐ割り出せますよ」
と慰めてくれた警官。
でも、正直なところ、祐子にはどうでも良かったのだ。佳子が戻って来るとでもいうのならともかく、犯人が捕ったところで、それは何の慰めにもならない。
「俺《おれ》が殺してやる」
と、夫が声を震わせていたことを、祐子は奇妙にはっきりと憶《おぼ》えていた……。
ともかく、三か月が過ぎたのである。
夫は会社へ行き、祐子は毎日、掃除をし、洗濯をし、食事の仕度をしている。その限りでは、「日常」が再開していた。
しかし、佳子の部屋は今でも元のままになっていた。机も椅《い》子《す》も、そして、服も。机の上で広げたままだったノートも、そのページをきちんと見せて、帰ることのない主を待っていた……。
——トントントン。
また誰かの足音が聞こえて来た。
足音がする度に、祐子は、佳子が帰って来たのではないかと思う。死んだのは、そっくりな別の子で、本当は佳子は生きていて……。
もちろんそんなはずはないのだけれど。
トントントン……。どんどん上って来る。
誰だろう?
祐子の住んでいるのは、四階で、建物の最上階である。
夫ではない。もっと重苦しい足音だし、それに——そうだわ、今日から三日間、関西へ出張しているのだった。
でも、足音は四階まで上って来る。誰かしら?
それはまるで佳子の足音のように、軽やかで、弾むようだったのだ。
玄関のドアが開いた。祐子は居間のソファから体を起こした。
「ただいま!」
若い女の子の声だった。
祐子は、訳も分らないままに、玄関へと出て行った。
「ワッ!」
勢い良く上って来た相手が、祐子とぶつかりそうになって、声を上げた。「ああ、びっくりした!」
祐子はポカンとして、立っていた。
「寒いなあ! お腹《なか》空《す》いた! ——お母さん、何か食べるものない?」
紺のブレザーを着たそ《ヽ》の《ヽ》娘《ヽ》は、マフラーと鞄《かばん》をソファへ投げ出すと、台所へさっさと入って行った。
「あ、カップラーメン! ねえ、これ食べちゃっても構わないの?」
と、大きな声が聞こえて来る。
祐子が台所へ行くと、その娘は、早々とヤカンをガステーブルにかけている。
「お腹空いてて死にそうよ! クラブがあって、お昼、ろくに食べられなかったんだ」
「あなた……」
と、祐子は言いかけて、言葉を切った。
その娘が、食器戸棚から、佳《ヽ》子《ヽ》の《ヽ》使っていたミルクカップを迷いもせずに取り出したからである。
「やっと冬休みだ! 宿題ね、ずっと少ないの。みんなで万歳しちゃった」
——その娘は、佳子と全然似てもいなかった。
年齢は、たぶん同じくらい。それに、体つきや背丈も似たようなものか。でも、顔は全く違っていた。
「着替えて来ようっと。お母さん、ヤカン見ててね」
その娘が台所を出ながら、もうブレザーを脱いでいる。ソファの上の鞄とマフラーをつかんで、さっさと——間違いなく、佳子の部屋へ入って行くのだ!
祐子は、呆《ぼう》然《ぜん》として突っ立っていた。——これは一体、どういうことなんだろう?
そんなに辛くしたら、体に悪いわよ。
いつも、祐子は佳子にそう言っていたものだ。何しろ、佳子は何でもやたらと辛くして食べるくせがあった。
「——お母さんの味つけ、甘いもんな」
と、そ《ヽ》の《ヽ》娘《ヽ》は、皿に取り分けた分に、食塩をふった。
「お父さん、遅いの?」
「え?——ああ」
祐子は、さっきから、夕食にほとんど手をつけていなかった。「出張よ。三日間」
「また? よく行くわねえ」
ご飯をワッと口へ放り込みながら、「ムグ……そんなにお母さん……放っとかれちゃ、寂しいね」
「そうね……」
どうしたらいいんだろう? 祐子には分らなかった。
その娘は、しかし、実に自然に、佳《ヽ》子《ヽ》の《ヽ》よ《ヽ》う《ヽ》に《ヽ》振舞っていた。祐子は、自分が夢か幻覚を見ているのか、と思った。
それとも、これが本当の佳子で、自分の記憶の方が間違っているのか。——何度か、本気でそう問いかけさえしたのである。
「あ、テレビ!」
茶碗を持ったまま、娘はTVの方へ走って行き、スイッチを入れた。「間に合った!」
祐子はハッとした。——それはいつも佳子が欠かさず見ていた番組だったのだ。だからこそ、佳子の死以来、見たことがなかった……。
——夕食を終えると、娘はソファに引っくり返って、週刊誌を見ていた。よく佳子もそうしていたものだ。
「お風《ふ》呂《ろ》に入ろうっと」
ヒョイと立ち上ると、欠伸《あくび》をしながら、風呂場の方へ姿を消す。少しして、お湯を湯舟に入れる音が聞こえて来た。
洗いものも終り、ソファに身を沈めた祐子は、少し冷静になって、事態を考えようと思った。
あれは佳子ではない。それは確かなことだ。いくら我が子を失って混乱したといっても、子供と他人の見分けがつかないということはない。
では、なぜあの娘は、ここにいるのか?
しかも、佳子のことを、あんなにもよく知っているのは、どうしてだろう?
そして——あの娘は一体誰なのか?
祐子には分らなかった。ただ、はっきりしていることは、こんな風に、いつまでも、続けてはいられないということだ。
正面切って、はっきりと訊《き》いてみなくてはならない……。
お風呂から、あの娘の歌が聞こえて来た。声は、もちろん違う。佳子よりは、ずっと歌も上《う》手《ま》いようだ。
しかし、その歌は、佳子が、本当にお風呂の中で歌っていたものだった。
祐子の目に、じわりと涙がにじんで来た。
——佳子。佳子。
「——ああ、いい気持!」
佳子のパジャマを着て、洗った髪をタオルで包んだその娘が入って来たとき、祐子は、一瞬、本当に佳子が入って来たのかと息を呑《の》んだ。
その若さの、匂《にお》うような発散が、佳子のそれと同じだったのかもしれない。
「お母さん、入って来たら? 冷めない内に。寒いから、すぐ冷めちゃうよ」
「ええ」
祐子は、じっと娘を見つめながら、「ねえ……。お話があるの。座って」
と言った。
「いいわよ。なあに?」
ソファに、大きく息をつきながら身を沈める。そのキラキラ輝く大きな瞳《ひとみ》が、真直ぐに祐子を見つめていた。
そこには、人を騙《だま》そうというような暗い色は、みじんも感じられなかった。
「話してみて」
と、いとも無邪気に言う。
「ええ。あの……」
言葉が出て来ないのだ。
「——変よ、お母さん。ねえ、もしかして、お父さんと別れたいの?」
「え? どうして?」
「だって、——そんな深刻な顔しちゃってさ。さてはお母さん、いつも放っとかれて、寂しいから、よそに恋人でも作ったのかなって思っちゃったの。まあ、私はいいけど、できたら私が大学に入るまでは待っててほしいわね」
「そんなこと——考えてないわよ」
と、祐子は言った。
「そう。じゃ、何なの?」
不思議そうな顔。——その顔は違っていても、表《ヽ》情《ヽ》そのものは、佳子を思わせた。
佳子。——佳子。もしかしてあなたは本当に……。
「——ねえ、どうしたのよ」
と、その娘は言った。
「何でもないわ」
祐子は首を振って立ち上った。「じゃ、お母さん、お風呂に入って来るわ」
そして風呂場の方へ歩きかけて、足を止めると、祐子は振り返って、言った。
「早く髪を乾かさないと、風邪引くわよ、佳《ヽ》子《ヽ》」
2
「参ったよ」
と、坂根は首を振り、ため息をついた。
「面白い話ね」
と、私は言った。
「君は面白いで済むかもしれないけどね、こっちは気が狂いそうだ」
大学の、私の研究室である。
もう大学そのものは冬休みに入っていて、静かなもので、その分、こちらは研究者としての生活に没頭できる。
私の名は宮島令子。J大学の社会学科に在籍する助教授である。年齢は——まあ、まだごまかすほどの年齢でもない、三十五歳だ。
「先生。資料のコピーが……」
ドアが開いて、助手の佐々木哲平が、両手一杯に分厚い本をかかえて入って来た。
「ちゃんとドアをノックしてから入りなさいよ」
と、私は無理を承知で言った。
「すみません」
二十七歳にもなっているにしては、哲平も素直である。大学の外へ出ると、未だ独身の私にとっては、年下の恋人に変るのだ。
「お客様にお茶をいれて」
「はい」
「いや、構わないでくれ」
と、坂根が急いで言った。
「いいのよ。この人、無器用だけど、お茶をいれるのだけは上手なのよ」
私の言葉に坂根はちょっと笑って、
「相変らずだなあ」
と言った。
坂根は大学の先輩。もっとも、向うが大学院で私は一人のうら若き一年生だった。
恋人、というところまで行くには時間がなさ過ぎたが、楽しくお付合いをしていたこともあった。
久々に会って、亡くした娘が十五歳だったと聞いて、私も自分の年齢を思い知らされたものだ……。
「しかし、どう考えたらいいんだろう?」
と、坂根は眉《まゆ》を寄せた。「出張から帰ってみると、見たこともない娘がいて、『お父さんお帰り』と言うんだ。びっくりしたどころじゃない」
「そりゃそうね」
「家内も、今はもうすっかり、その娘を『佳子』と呼んで、何とも幸せそうなんだ。困っちまってね。——君のことを思い出して、相談に来たわけさ」
「私は探偵じゃないわよ」
「しかし、その手のことが大好きだったじゃないか」
「今でもですよ」
と、お茶を出しながら、哲平が言った。
「奥さんはどう言ってるの?」
と、私は訊《き》いた。
「咎《とが》めるようなことを言うと、泣いて怒るんだ。せっかくあの子が帰って来たのに、とね」
「なるほどね」
「女房は、佳子の魂が、その娘に乗《ヽ》り《ヽ》移《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》と思ってる」
「乗り移った?」
「そんな馬鹿なこと、あるわけがない、といくら言っても聞かないんだ」
「乗り移った、ね……」
と、私は肯《うなず》いて、「面白い話じゃない」
「他《ひ》人《と》ごとだと思って」
「あなた、大金持?」
「何だって?」
「財産あるの?」
「冗談じゃない」
坂根は苦笑した。「平凡なサラリーマンだぜ。どうやって財《ヽ》産《ヽ》なんてものが作れる?」
「じゃ、あの子が、実の娘をかたって、狙《ねら》うほどのものはないわけだ」
「うん。——それは確かだ」
と、坂根は肯《うなず》いた。「理由が全く分らないんだよ。女房をあんな風に騙《だま》してみたって、何の得にもならないはずなんだ」
「人間、必ずしも損得だけで動くわけじゃないわ」
と、私は言った。「奥さんの話じゃ、その子は、娘さんのことを、よく知ってたっていうのね」
「うん。部屋の配置から、服の好み、食べ物の好き嫌いも、同じだというんだ」
「なるほどね」
私は両手を組み合わせて、額に当てた。シャーロック・ホームズ辺りを気取っていると思っていただけばよかろう。
「その子が来て、何日たつの?」
「十日——いや、もっとか。正月が間《あいだ》にあったから、ちょっと日にちの感覚がずれてるけどね」
「その子とゆっくり話してみた?」
「いいや。ともかく、女房がピッタリくっついてるんだ。もう二度と逃したくないって感じでね。——見ていると哀れで、何も言い出せなくなっちゃうんだよ」
「まだ学校は冬休みね」
「来週まではね」
「ご近所はどう言っているの?」
「それなんだ」
坂根は困り切った様子で、「僕は、一応親《しん》戚《せき》の娘を預かったってことにしておいたんだが、何しろ佳子の服を着て歩いているし、僕のことも『お父さん』だろう。——近所から変な目で見られてるよ」
「お気の毒」
「そう思ったら助けてくれないか」
私は、少し考えてから、言った。
「——いいわ。どうせ大学はまだ当分休みだしね」
「ありがたい!」
坂根はホッとした様子で、「僕は明日からまた会社だ。女房とあの娘を二人で置いておくのも心配なんだよ」
「あなたの家を教えて。それから、会社の連絡先も」
「分った」
——坂根がメモを残して、くれぐれも頼むと言って帰ってから、私は哲平に言った。
「どう思う?」
「変った話だな。でも、結局は、その女の子が嘘《うそ》をついてるだけじゃないの? それしか考えられないよ」
「問題はその理《ヽ》由《ヽ》よ。その娘の化けの皮をはがしただけじゃ、事件は終わらないわ」
「まさか本当に、死んだ娘がその子に乗り移ったなんて思ってんじゃないだろうね」
「さあね」
と、私は微笑《ほほえ》んだ。「ね、あなたの例のお友だちに調べてもらってよ」
哲平の友人が、警視庁の捜査一課に勤めているのである。
「その娘の身《み》許《もと》を?」
「違うわよ。坂根佳子が死んだときの状況を知りたいの」
と、私は言った。「私、出かけて来るわ」
それが坂根祐子らしい、と私は思った。
ちょうど玄関のドアを開けて出て来ると、足早に階段の方へ歩いて行く。
「今日は、奥さん」
上って来たソバ屋の出前持ちが挨《あい》拶《さつ》すると祐子は、
「今日は。ご苦労さま」
と返事をした。
いかにも元気そうで、楽しげな声に、出前持ちの方は、ちょっと不思議そうな顔をしている。
きっと、娘を亡くしてから、祐子はじっとふさぎ込んでいたので、あまりの変り様に面食らったのであろう。
私は、〈坂根〉と表札の出たドアの前に立った。——例の娘は中にいるはずだ。
呼びリンの方へ手を伸そうとしたとき、誰か上って来る足音がした。
私は、ちょっと迷ったが、何食わぬ顔で、階段を下りて行くことにした。
すれ違ったのは、三十前後の女性で、何やら風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みをかかえている。
私は、少し下まで降りて、足を止め、上の様子をうかがった。
その女性は、坂根の家のチャイムを鳴らした。——少しして、ドアが開く。
「はい、どなたですか」
と、若い娘の声。
これが例の「佳子」だろう。
「あの——すみませんけど、坂根さん……いらっしゃる?」
訪ねて来た女の方は、戸惑っている様子だった。
「坂根って——父ですか、母ですか?」
と、娘が言った。「もっとも、二人とも出かけていますけど」
「えっ?」
女の方は訳が分らないらしい。「あなた——どなたなの?」
「ご自分は?」
娘の方がよっぽど落ちつき払っている。
「私は——坂根さんと同じ会社に勤めている伊東伸子。あなた——ご親《しん》戚《せき》の方か何か?」
「ここの娘です」
少し間があった。
「——まさか!」
と、女が言った。
「まさか、って、どういう意味ですか? 私、坂根佳子ですけど」
「あの——坂根さんは、いらっしゃらないの?」
「出かけてて、まだ帰りません」
「そう。じゃ……また改めて」
「おいでになったこと、伝えます」
「いえ、いいの」
と、その伊東伸子という女は、あわてて言った。「じゃ、失礼します」
「どうも」
私は、急いで、足音を殺しながら、階段を降りた。
建物を出て、わきへそれ、物陰から見ていると、伊東伸子が出て来た。そして、釈然としない様子で、足を止め、建物の上の方を見上げている。
ちょうど、そこへ坂根が戻って来るのが目に入った。
私の研究室から、他を回って帰るということだったので、一足先に私の方から出向いて来たのだが……。
「——伊東君じゃないか」
と、坂根がびっくりした様子で言った。
「坂根さん!」
「うちへ——来てくれたのかい?」
「ええ。でも……。今うかがったら、娘さんが……」
「会ったのか」
坂根は頭をかいた。
「どういうことなんですか? お嬢さん、亡くなったと——」
「実はね。とんでもない話なんだ。ちょっと——」
坂根は、伊東伸子を促して歩き出した。
私は、その後をついて行こうとして、ためらった。何といっても、目につきすぎるのだ。
でも、ためらったのが良かった。
その二人が歩いて行くのを見すまして、その娘が、出て来たのである。
もちろん姿を見るのは初めてだが、二人を見送る様子で、その娘に違いないと知れた。
娘は、足早に、二人とは逆の方へと歩き出した。私は、こっちの後を尾《つ》けることにしたのである。
——団地を出てすぐ、ちょっと表通りから外れて、少々うらぶれた感じの喫茶店があった。
娘はそこへ入って行く。私も、適度に間を置いて中へ入った。
幸い、こんな場所ながら、店の中は適度に混んでいて、目立たずに済んだ。
娘の方は、奥の席で、若い男と話をしている。できることなら、その隣の席へ行きたかったが、そう都合良く空いていないので、できるだけ近い席で我慢した。
話を聞くのは——店の中は音楽も流れているので——無理だったから、私は、極力その二人を観察することにした。
娘の方は、もし死んだ佳子と同じなら十五歳ということになるが、こうして見ているとどうも、実際はもう少し年齢が行っているらしい。
相手の若者は、あまり考えるまでもなく、顔立ちがその娘に良く似ている。兄妹なのだろう。年齢は十八歳、というところか。
しかし、兄妹だとしても、二人の話は、至って真剣そのものだったようだ。
お互い、声をひそめ、ニコリともせずに、話し込んでいる。充分に用心している、という様子だった。
もし、この二人が、何か犯罪を企《たくら》んでいるのだったら、当然そうなるに違いない。しかし、私のカンは、必ずしもその方向へ、向いはしなかったのである……。
話は、十分とかからなかった。
二人は席を立った。
「いいの」
と、娘の方が相手を押えて、「先に出るから」
若者は、また腰をおろした。
「気を付けろよ」
と、若者は言った。
「大丈夫よ」
娘が微笑《ほほえ》む。——初めて見せた笑顔だった……。
娘が出て行くのを、私はただ見送っていた。今度は相手の若者の方に用がある。
五分ほどして、若者が店を出た。私も、少し間を置いて、後を追った。
「——それで?」
と、哲平は訊《き》いた。
「何が?」
と、私が訊き返す。
「後を尾《つ》けたんだろ? 何か分ったの?」
「今はいいわよ」
私は起き上った。
ここはホテル。更に詳しく言うと、ホテルの部屋のベッドの中である。
哲平とはこうして時々、「師弟の交流」を図っているのである。
「あなたの方はどうだったの?」
私は、グラスに冷たい水を入れて、一口飲んでから、言った。「——お友だち、調べてくれた?」
「忙しいのに、って散々文句言われたけどもね」
「で、どうなの?」
「大したことは分らないよ。坂根佳子をはねたのは赤いスポーツカータイプの車。たぶん国産車だろうってことだった」
「信号無視。人をはねて殺し、そのまま逃走か」
「ひどい奴《やつ》もいるよな」
哲平は首を振った。気のやさしい男である。
そんなことは許せないのだ。
「相当スピードを出してたの?」
「推定だと百キロは出てたらしい」
「制限速度は?」
「四十キロ」
「百キロね……。現場へ行ってみた?」
「言われた通りね」
「どんな感じ? スピードを出したくなるような道?」
「全然」
と、哲平は肩をすくめた。「まあ、人によるだろうけど、出しやすい道じゃないのは、確かだな。手前も少し先もカーブだし、見通し良くないし」
「なるほどね」
と、私は肯《うなず》いた。
「それにさ、一つ変なことがあったんだ、って、友だちが思い出してくれたんだよ」
「何なの?」
「その車が坂根佳子をはねた、そのころね、その道の五百メートルくらい手前で、スピード違反の取締りをやってたんだって」
「赤いスポーツカーは?」
「引っかかってない。もちろん用心したのかもしれないけどね」
「その場所へ——」
「行ったよ。もちろん」
私は、微笑《ほほえ》んで、哲平にキスしてやった。
「上出来! で、どうだった?」
「取締りやるだけあって、いやでもスピードを上げる道だな。少し下りで、広い直線なんだ。ちょっと出せば、すぐ三十キロぐらいオーバーするよ」
「すると、その赤いスポーツカーは、スピードを上げたくなる道ではのんびり走って、わざわざ危い道でスピードを出したってことになるわけね」
哲平は、私の顔をまじまじと見て、
「——ね、何を考えてるんだい?」
「見当つくでしょ」
「つまり——坂根佳子は、殺されたってこと?」
「計画的にね」
「で、その娘が入れかわったのかい? でも何のために?」
「それはまだ、これからよ」
私は、天井を眺めて、大きく伸びをした。
「——その若い男のこと、分ったの?」
「ええ。名前は辻井俊一」
「何者?」
「大学の一年生よ。今のところは、それだけしか分らない」
「調べてみる?」
私は、少し考えてから、
「いいわ、私、自分でやる」
と言った。
「危いよ」
「大丈夫。あなたには、他に調べてほしいことがあるの」
「もちろんいいけどさ」
哲平が、私の方へにじりと寄って来る。
「その代り、もう一回——」
「調べてくれたらね」
私はスルリとベッドから脱け出した。
「ちえっ!」
「来週の講演の準備があるわ。今日、これから大学へ戻るわよ」
私はバスルームへ入りながら言った。
「分りました、先《ヽ》生《ヽ》」
哲平はそう言って、ため息をついた……。
3
辻井俊一は、何とも心細い顔で、待ち合わせた喫茶店に入って来た。
店のマスターに何やら訊《き》いている。もちろんマスターは私のいる席を指さし、辻井俊一は、おずおずとこっちへやって来た。
「あの……」
と、恐る恐る声をかけて来る。
「辻井君ね? 私、宮島令子よ。座ってちょうだい」
「はい」
俊一はホッとした様子で、向い合った席に腰をおろした。
「悪かったわね、せっかくの冬休みなのに」
「いいえ」
と、俊一は首を振った。「でも——びっくりしました」
「何が?」
「いえ——こんなこと言っちゃ失礼かもしれませんけど、J大学の先生というから、もっとその——」
「年寄りかと思った?」
「ええ——まあ。怖いおばさんかと思ってました」
「怖いおばさんよ。あなたの二倍近くも年《と》齢《し》を取ってるわ」
と、私は笑顔で言った。
それで大分、辻井俊一の緊張もほぐれたようだ。
辻井俊一の通っている大学に、私のよく知っている助教授がいたので、そっちから話をして、ここへ俊一を呼んだのである。
「——で、僕にどんなご用でしょうか」
「私ね、社会学科にいて、今、大学生の意識調査をやってるの。色々、全般的なことについて、君の意見を聞きたいのよ」
「僕なんか、お役に立つんですか?」
「誰だって役に立つわ。一人一人、みんなが大学生に違いないんだもの」
「じゃあ……僕に答えられることなら」
「じゃ、早速始めるわよ」
飲物を取って、私は、即席でデッチ上げた調査項目を並べ始めた。
こんなもの、二、三分もありゃできてしまうのだ。
二、三問終ったところで、私はコップの水を飲んだ。
奥の方の席にいた、紺のブレザーの女の子が立ち上って、私たちの席のわきを通って、レジへ歩いて行く。
「次の質問はね……」
と、私は言った。「——どうしたの、辻井君?」
辻井俊一が、今通って行った少女を、じっと目で追っている。
「辻井君」
「すみません!」
俊一はパッと立ち上って、店を出て行った少女の後を、追いかけて行った。
私は、俊一が戻って来るのを待っていた。
——戻って来るに違いないのだ。
五分とはかからなかった。戻って来た。
見た目にも、哀れなほど気落ちした様子である。少々気の毒な気持になった。
「——失礼しました」
俊一は、席につくと、目を伏せたまま、言った。
「どうしたの、一体?」
「いや……。ちょっと、今通った女の子が、知り合いに似ていたもんですから」
「そう。で——その人だったの?」
「いいえ」
俊一は、首を振った。唇の端に、苦々しい笑みが浮んだ。
「別の人です。——当り前なんです。あ《ヽ》の《ヽ》子《ヽ》であるはずがないんです」
私は、彼の目が涙で潤むのを見た。
「好きな子だったのね」
と言うと、俊一は、ちょっと照れたように微笑《ほほえ》んで、
「ええ。でも——死んでしまったんです」
と言った。
「まあ、若かったでしょうに」
「十五歳でした。——本当に子供みたいなもんだけど、可愛《かわい》い子で、僕にとっては妹みたいなものだった……」
「気の毒に」
「ありがとうございます。——すみません、余計な時間を取らせてしまって」
「いいえ、いいのよ。あなたのことが、とても良く分ったわ」
「え?」
俊一は戸惑ったように私を見た。
「これ、コーヒー代にでもしてちょうだい」
私は、彼に五千円札を一枚渡した。
「とんでもないですよ! 僕は——」
「年上の女の言うことは聞くもんよ」
と、私は彼の手を押えて、「その代り、それでここの払いをお願いするわ。男が払うものだから」
「——分りました」
俊一は微笑んだ。「宮島先生……でしたね」
「ええ」
「素敵な方ですね」
「ありがとう」
私もいい気分で、その喫茶店を出た。まあ誉《ほ》められるのは慣れているけど(!)。
「——失礼します」
と、私が声をかけても、伊東伸子は、しばらく気付かなかった。
何やら考え込んでいる様子で、ベンチに座ったまま、じっと隅の方の芝生を見つめている。
昼休みの公園。——今日は冬にしてはよく晴れて暖い日なので、まだ正月気分の抜けない様子のOLやサラリーマンたちが、大勢散歩に出て来ていた。
たいていは何人かで連れ立って来ているのだが、伊東伸子は、一人、ベンチに腰をかけているのである。
「——え?」
大分間があってから、やっと顔を上げる。
「あの——私ですか?」
「ええ。伊東伸子さんでしょう?」
「そうですけど……」
と、ちょっと用心するような目つきで私を見る。
それは普通の反応と言えるだろう。変なセールスや勧誘だったらかなわない。
「私、坂根さんの友だちで宮島といいます」
「坂根さんの?」
「ええ。ちょっと探偵みたいなことをやってましてね」
「ああ」
伊東伸子は、思い出したように、「坂根さんがおっしゃってた方……大学の先生とか?」
「まだ駆け出しですよ。好奇心が強いもんですからね」
「まあ、失礼しました。——こんなにお若い方だと思わなかったので」
「いいえ。いつもそう見られますから」
とは少々図々しかったかな。「——心配事でも?」
「私、ですか?」
「何だかそんな風に見えましたよ」
伊東伸子は、ちょっとためらってから、
「それは——例のことです。坂根さん、このところ仕事も手につかないようで」
「それでご心配なんですね」
「入社以来、ずいぶんお世話になりましたもの。——とても良い方だし、私……」