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作者: 当前章节:15378 字 更新时间:2026-6-22 20:36

「え?」

「お父さんのポケットに入っていられりゃ、別々に暮さなくても済むのにね」

「とんでもない! あんな汚ないハンカチと一緒なんてごめんだわ」

 綾子はそう言って、自分で笑い出していた。

 ——あの魔術師、どこへ行ったんだろう?

 洋子は思った。そう、今後、どこかでお人形を見かけたら、誰かが知っている人と似ていないか、気を付けて見ておこう……。

帰って来た娘

 トントントン……。

 階段に響く足音に、坂根祐子はハッと耳を澄ました。

 あの子かしら? 佳子が帰って来たのだろうか?

 一階下の部屋の玄関のドアが開く音がして、

「ママ、ただいま!」

 と、男の子の声が響いた。

 祐子は、ふっと肩を落とした。——そう。そんなはずはないのだ。佳子が帰って来るなんて、そんなことは……。

 どうして団地って、あんなに足音や話し声が響くのだろうか。それも、子供たちの声や女の子たちのにぎやかな笑い声は、何倍にも大きくなって聞こえて来る。

 いや、それはただ祐子がそう感じているだけなのかもしれない。もちろん、団地のせいでもないし、住んでいる隣人たちのせいでもないのだ。

 分っている。分っているけど……。でも……。

 祐子は、至って常識的に生きて来た人間である。短大を出て、就職。OL生活五年で、社内結婚。職場を移って一年で、妊娠して仕事を辞めた。

 そして後は子育てと家事に専念して来た。特別いい妻だったか、いい母だったかと問われれば自信はない。しかし、世間並には苦労もし、喜びも辛《つら》さも味わって、娘の佳子をやっと十五歳まで育てて来たのだ。

 浮気もしなかったし、ぜいたくもしていない。夫とはたまに夫婦喧《げん》嘩《か》もしたが、離婚の危機にさらされるところまでは行かなかった。

 娘が大きくなると親子喧嘩もした。でも、それは家庭内暴力というところまでは行かなかったのである。

 一人っ子とはいえ、佳子はほどほどに気のいい呑《のん》気《き》な娘に育ち、学校の成績もまずまずで、見かけも、タレントにスカウトされるほどでなくても、まあ可愛《かわい》い部類にはなっていた。

 夫の坂根は、仕事柄やや出張が多く、佳子が小さい内は祐子も少々心細い思いもしたが、この団地へ三年前に越して来てからは、ご近所も多いので、さして不安もなかった。

 佳子は私立の中学に入って、ここからバスで三十分の距離を通っており、そのまま、よほどのことがない限り、高校、大学へと進めるはずだった。

 祐子が、やっと少し時間を持て余すようになって、そろそろ、よその奥さんたちのように、

「何かおけいこごとでも、通ってみようかしら……」

 などと考えていた矢先、総《すべ》ては覆《くつがえ》ったのだった。

 ——事故。

 校門を出て、横断歩道を、ちゃんと信号を守って渡っていた佳子が、信号無視で突っ走って来た赤いスポーツカーにはねられたのだ。

 もう……三か月もたってしまった今でも、祐子はあの電話があったときのことを、はっきりと憶《おぼ》えている。

「お嬢さんが事故に遭われて——」

 学校の先生の電話に青くなって、家を飛び出したものの、足の骨でも折ったのかしら、ピアノの発表会には出られるかしら、などと祐子は考えていたのだ。

 即死だった。——病院で、そう聞かされた祐子は、その場で気を失って倒れた。

 それからの一か月は、ほとんど記憶にない。生きているからには、食事もし、眠ってもいたに違いないのだが、何も憶えていない。

 ただ、どうしてあの子が死んで、私が生きているのかしらと、そればかりを考えていた……。

 佳子をはねた車は、ついに見付からなかった。赤いスポーツカー。

「目立つ車だから、すぐ割り出せますよ」

 と慰めてくれた警官。

 でも、正直なところ、祐子にはどうでも良かったのだ。佳子が戻って来るとでもいうのならともかく、犯人が捕ったところで、それは何の慰めにもならない。

「俺《おれ》が殺してやる」

 と、夫が声を震わせていたことを、祐子は奇妙にはっきりと憶《おぼ》えていた……。

 ともかく、三か月が過ぎたのである。

 夫は会社へ行き、祐子は毎日、掃除をし、洗濯をし、食事の仕度をしている。その限りでは、「日常」が再開していた。

 しかし、佳子の部屋は今でも元のままになっていた。机も椅《い》子《す》も、そして、服も。机の上で広げたままだったノートも、そのページをきちんと見せて、帰ることのない主を待っていた……。

 ——トントントン。

 また誰かの足音が聞こえて来た。

 足音がする度に、祐子は、佳子が帰って来たのではないかと思う。死んだのは、そっくりな別の子で、本当は佳子は生きていて……。

 もちろんそんなはずはないのだけれど。

 トントントン……。どんどん上って来る。

 誰だろう?

 祐子の住んでいるのは、四階で、建物の最上階である。

 夫ではない。もっと重苦しい足音だし、それに——そうだわ、今日から三日間、関西へ出張しているのだった。

 でも、足音は四階まで上って来る。誰かしら?

 それはまるで佳子の足音のように、軽やかで、弾むようだったのだ。

 玄関のドアが開いた。祐子は居間のソファから体を起こした。

「ただいま!」

 若い女の子の声だった。

 祐子は、訳も分らないままに、玄関へと出て行った。

「ワッ!」

 勢い良く上って来た相手が、祐子とぶつかりそうになって、声を上げた。「ああ、びっくりした!」

 祐子はポカンとして、立っていた。

「寒いなあ! お腹《なか》空《す》いた! ——お母さん、何か食べるものない?」

 紺のブレザーを着たそ《ヽ》の《ヽ》娘《ヽ》は、マフラーと鞄《かばん》をソファへ投げ出すと、台所へさっさと入って行った。

「あ、カップラーメン! ねえ、これ食べちゃっても構わないの?」

 と、大きな声が聞こえて来る。

 祐子が台所へ行くと、その娘は、早々とヤカンをガステーブルにかけている。

「お腹空いてて死にそうよ! クラブがあって、お昼、ろくに食べられなかったんだ」

「あなた……」

 と、祐子は言いかけて、言葉を切った。

 その娘が、食器戸棚から、佳《ヽ》子《ヽ》の《ヽ》使っていたミルクカップを迷いもせずに取り出したからである。

「やっと冬休みだ! 宿題ね、ずっと少ないの。みんなで万歳しちゃった」

 ——その娘は、佳子と全然似てもいなかった。

 年齢は、たぶん同じくらい。それに、体つきや背丈も似たようなものか。でも、顔は全く違っていた。

「着替えて来ようっと。お母さん、ヤカン見ててね」

 その娘が台所を出ながら、もうブレザーを脱いでいる。ソファの上の鞄とマフラーをつかんで、さっさと——間違いなく、佳子の部屋へ入って行くのだ!

 祐子は、呆《ぼう》然《ぜん》として突っ立っていた。——これは一体、どういうことなんだろう?

 そんなに辛くしたら、体に悪いわよ。

 いつも、祐子は佳子にそう言っていたものだ。何しろ、佳子は何でもやたらと辛くして食べるくせがあった。

「——お母さんの味つけ、甘いもんな」

 と、そ《ヽ》の《ヽ》娘《ヽ》は、皿に取り分けた分に、食塩をふった。

「お父さん、遅いの?」

「え?——ああ」

 祐子は、さっきから、夕食にほとんど手をつけていなかった。「出張よ。三日間」

「また? よく行くわねえ」

 ご飯をワッと口へ放り込みながら、「ムグ……そんなにお母さん……放っとかれちゃ、寂しいね」

「そうね……」

 どうしたらいいんだろう? 祐子には分らなかった。

 その娘は、しかし、実に自然に、佳《ヽ》子《ヽ》の《ヽ》よ《ヽ》う《ヽ》に《ヽ》振舞っていた。祐子は、自分が夢か幻覚を見ているのか、と思った。

 それとも、これが本当の佳子で、自分の記憶の方が間違っているのか。——何度か、本気でそう問いかけさえしたのである。

「あ、テレビ!」

 茶碗を持ったまま、娘はTVの方へ走って行き、スイッチを入れた。「間に合った!」

 祐子はハッとした。——それはいつも佳子が欠かさず見ていた番組だったのだ。だからこそ、佳子の死以来、見たことがなかった……。

 ——夕食を終えると、娘はソファに引っくり返って、週刊誌を見ていた。よく佳子もそうしていたものだ。

「お風《ふ》呂《ろ》に入ろうっと」

 ヒョイと立ち上ると、欠伸《あくび》をしながら、風呂場の方へ姿を消す。少しして、お湯を湯舟に入れる音が聞こえて来た。

 洗いものも終り、ソファに身を沈めた祐子は、少し冷静になって、事態を考えようと思った。

 あれは佳子ではない。それは確かなことだ。いくら我が子を失って混乱したといっても、子供と他人の見分けがつかないということはない。

 では、なぜあの娘は、ここにいるのか?

 しかも、佳子のことを、あんなにもよく知っているのは、どうしてだろう?

 そして——あの娘は一体誰なのか?

 祐子には分らなかった。ただ、はっきりしていることは、こんな風に、いつまでも、続けてはいられないということだ。

 正面切って、はっきりと訊《き》いてみなくてはならない……。

 お風呂から、あの娘の歌が聞こえて来た。声は、もちろん違う。佳子よりは、ずっと歌も上《う》手《ま》いようだ。

 しかし、その歌は、佳子が、本当にお風呂の中で歌っていたものだった。

 祐子の目に、じわりと涙がにじんで来た。

 ——佳子。佳子。

「——ああ、いい気持!」

 佳子のパジャマを着て、洗った髪をタオルで包んだその娘が入って来たとき、祐子は、一瞬、本当に佳子が入って来たのかと息を呑《の》んだ。

 その若さの、匂《にお》うような発散が、佳子のそれと同じだったのかもしれない。

「お母さん、入って来たら? 冷めない内に。寒いから、すぐ冷めちゃうよ」

「ええ」

 祐子は、じっと娘を見つめながら、「ねえ……。お話があるの。座って」

 と言った。

「いいわよ。なあに?」

 ソファに、大きく息をつきながら身を沈める。そのキラキラ輝く大きな瞳《ひとみ》が、真直ぐに祐子を見つめていた。

 そこには、人を騙《だま》そうというような暗い色は、みじんも感じられなかった。

「話してみて」

 と、いとも無邪気に言う。

「ええ。あの……」

 言葉が出て来ないのだ。

「——変よ、お母さん。ねえ、もしかして、お父さんと別れたいの?」

「え? どうして?」

「だって、——そんな深刻な顔しちゃってさ。さてはお母さん、いつも放っとかれて、寂しいから、よそに恋人でも作ったのかなって思っちゃったの。まあ、私はいいけど、できたら私が大学に入るまでは待っててほしいわね」

「そんなこと——考えてないわよ」

 と、祐子は言った。

「そう。じゃ、何なの?」

 不思議そうな顔。——その顔は違っていても、表《ヽ》情《ヽ》そのものは、佳子を思わせた。

 佳子。——佳子。もしかしてあなたは本当に……。

「——ねえ、どうしたのよ」

 と、その娘は言った。

「何でもないわ」

 祐子は首を振って立ち上った。「じゃ、お母さん、お風呂に入って来るわ」

 そして風呂場の方へ歩きかけて、足を止めると、祐子は振り返って、言った。

「早く髪を乾かさないと、風邪引くわよ、佳《ヽ》子《ヽ》」

「参ったよ」

 と、坂根は首を振り、ため息をついた。

「面白い話ね」

 と、私は言った。

「君は面白いで済むかもしれないけどね、こっちは気が狂いそうだ」

 大学の、私の研究室である。

 もう大学そのものは冬休みに入っていて、静かなもので、その分、こちらは研究者としての生活に没頭できる。

 私の名は宮島令子。J大学の社会学科に在籍する助教授である。年齢は——まあ、まだごまかすほどの年齢でもない、三十五歳だ。

「先生。資料のコピーが……」

 ドアが開いて、助手の佐々木哲平が、両手一杯に分厚い本をかかえて入って来た。

「ちゃんとドアをノックしてから入りなさいよ」

 と、私は無理を承知で言った。

「すみません」

 二十七歳にもなっているにしては、哲平も素直である。大学の外へ出ると、未だ独身の私にとっては、年下の恋人に変るのだ。

「お客様にお茶をいれて」

「はい」

「いや、構わないでくれ」

 と、坂根が急いで言った。

「いいのよ。この人、無器用だけど、お茶をいれるのだけは上手なのよ」

 私の言葉に坂根はちょっと笑って、

「相変らずだなあ」

 と言った。

 坂根は大学の先輩。もっとも、向うが大学院で私は一人のうら若き一年生だった。

 恋人、というところまで行くには時間がなさ過ぎたが、楽しくお付合いをしていたこともあった。

 久々に会って、亡くした娘が十五歳だったと聞いて、私も自分の年齢を思い知らされたものだ……。

「しかし、どう考えたらいいんだろう?」

 と、坂根は眉《まゆ》を寄せた。「出張から帰ってみると、見たこともない娘がいて、『お父さんお帰り』と言うんだ。びっくりしたどころじゃない」

「そりゃそうね」

「家内も、今はもうすっかり、その娘を『佳子』と呼んで、何とも幸せそうなんだ。困っちまってね。——君のことを思い出して、相談に来たわけさ」

「私は探偵じゃないわよ」

「しかし、その手のことが大好きだったじゃないか」

「今でもですよ」

 と、お茶を出しながら、哲平が言った。

「奥さんはどう言ってるの?」

 と、私は訊《き》いた。

「咎《とが》めるようなことを言うと、泣いて怒るんだ。せっかくあの子が帰って来たのに、とね」

「なるほどね」

「女房は、佳子の魂が、その娘に乗《ヽ》り《ヽ》移《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》と思ってる」

「乗り移った?」

「そんな馬鹿なこと、あるわけがない、といくら言っても聞かないんだ」

「乗り移った、ね……」

 と、私は肯《うなず》いて、「面白い話じゃない」

「他《ひ》人《と》ごとだと思って」

「あなた、大金持?」

「何だって?」

「財産あるの?」

「冗談じゃない」

 坂根は苦笑した。「平凡なサラリーマンだぜ。どうやって財《ヽ》産《ヽ》なんてものが作れる?」

「じゃ、あの子が、実の娘をかたって、狙《ねら》うほどのものはないわけだ」

「うん。——それは確かだ」

 と、坂根は肯《うなず》いた。「理由が全く分らないんだよ。女房をあんな風に騙《だま》してみたって、何の得にもならないはずなんだ」

「人間、必ずしも損得だけで動くわけじゃないわ」

 と、私は言った。「奥さんの話じゃ、その子は、娘さんのことを、よく知ってたっていうのね」

「うん。部屋の配置から、服の好み、食べ物の好き嫌いも、同じだというんだ」

「なるほどね」

 私は両手を組み合わせて、額に当てた。シャーロック・ホームズ辺りを気取っていると思っていただけばよかろう。

「その子が来て、何日たつの?」

「十日——いや、もっとか。正月が間《あいだ》にあったから、ちょっと日にちの感覚がずれてるけどね」

「その子とゆっくり話してみた?」

「いいや。ともかく、女房がピッタリくっついてるんだ。もう二度と逃したくないって感じでね。——見ていると哀れで、何も言い出せなくなっちゃうんだよ」

「まだ学校は冬休みね」

「来週まではね」

「ご近所はどう言っているの?」

「それなんだ」

 坂根は困り切った様子で、「僕は、一応親《しん》戚《せき》の娘を預かったってことにしておいたんだが、何しろ佳子の服を着て歩いているし、僕のことも『お父さん』だろう。——近所から変な目で見られてるよ」

「お気の毒」

「そう思ったら助けてくれないか」

 私は、少し考えてから、言った。

「——いいわ。どうせ大学はまだ当分休みだしね」

「ありがたい!」

 坂根はホッとした様子で、「僕は明日からまた会社だ。女房とあの娘を二人で置いておくのも心配なんだよ」

「あなたの家を教えて。それから、会社の連絡先も」

「分った」

 ——坂根がメモを残して、くれぐれも頼むと言って帰ってから、私は哲平に言った。

「どう思う?」

「変った話だな。でも、結局は、その女の子が嘘《うそ》をついてるだけじゃないの? それしか考えられないよ」

「問題はその理《ヽ》由《ヽ》よ。その娘の化けの皮をはがしただけじゃ、事件は終わらないわ」

「まさか本当に、死んだ娘がその子に乗り移ったなんて思ってんじゃないだろうね」

「さあね」

 と、私は微笑《ほほえ》んだ。「ね、あなたの例のお友だちに調べてもらってよ」

 哲平の友人が、警視庁の捜査一課に勤めているのである。

「その娘の身《み》許《もと》を?」

「違うわよ。坂根佳子が死んだときの状況を知りたいの」

 と、私は言った。「私、出かけて来るわ」

 それが坂根祐子らしい、と私は思った。

 ちょうど玄関のドアを開けて出て来ると、足早に階段の方へ歩いて行く。

「今日は、奥さん」

 上って来たソバ屋の出前持ちが挨《あい》拶《さつ》すると祐子は、

「今日は。ご苦労さま」

 と返事をした。

 いかにも元気そうで、楽しげな声に、出前持ちの方は、ちょっと不思議そうな顔をしている。

 きっと、娘を亡くしてから、祐子はじっとふさぎ込んでいたので、あまりの変り様に面食らったのであろう。

 私は、〈坂根〉と表札の出たドアの前に立った。——例の娘は中にいるはずだ。

 呼びリンの方へ手を伸そうとしたとき、誰か上って来る足音がした。

 私は、ちょっと迷ったが、何食わぬ顔で、階段を下りて行くことにした。

 すれ違ったのは、三十前後の女性で、何やら風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みをかかえている。

 私は、少し下まで降りて、足を止め、上の様子をうかがった。

 その女性は、坂根の家のチャイムを鳴らした。——少しして、ドアが開く。

「はい、どなたですか」

 と、若い娘の声。

 これが例の「佳子」だろう。

「あの——すみませんけど、坂根さん……いらっしゃる?」

 訪ねて来た女の方は、戸惑っている様子だった。

「坂根って——父ですか、母ですか?」

 と、娘が言った。「もっとも、二人とも出かけていますけど」

「えっ?」

 女の方は訳が分らないらしい。「あなた——どなたなの?」

「ご自分は?」

 娘の方がよっぽど落ちつき払っている。

「私は——坂根さんと同じ会社に勤めている伊東伸子。あなた——ご親《しん》戚《せき》の方か何か?」

「ここの娘です」

 少し間があった。

「——まさか!」

 と、女が言った。

「まさか、って、どういう意味ですか? 私、坂根佳子ですけど」

「あの——坂根さんは、いらっしゃらないの?」

「出かけてて、まだ帰りません」

「そう。じゃ……また改めて」

「おいでになったこと、伝えます」

「いえ、いいの」

 と、その伊東伸子という女は、あわてて言った。「じゃ、失礼します」

「どうも」

 私は、急いで、足音を殺しながら、階段を降りた。

 建物を出て、わきへそれ、物陰から見ていると、伊東伸子が出て来た。そして、釈然としない様子で、足を止め、建物の上の方を見上げている。

 ちょうど、そこへ坂根が戻って来るのが目に入った。

 私の研究室から、他を回って帰るということだったので、一足先に私の方から出向いて来たのだが……。

「——伊東君じゃないか」

 と、坂根がびっくりした様子で言った。

「坂根さん!」

「うちへ——来てくれたのかい?」

「ええ。でも……。今うかがったら、娘さんが……」

「会ったのか」

 坂根は頭をかいた。

「どういうことなんですか? お嬢さん、亡くなったと——」

「実はね。とんでもない話なんだ。ちょっと——」

 坂根は、伊東伸子を促して歩き出した。

 私は、その後をついて行こうとして、ためらった。何といっても、目につきすぎるのだ。

 でも、ためらったのが良かった。

 その二人が歩いて行くのを見すまして、その娘が、出て来たのである。

 もちろん姿を見るのは初めてだが、二人を見送る様子で、その娘に違いないと知れた。

 娘は、足早に、二人とは逆の方へと歩き出した。私は、こっちの後を尾《つ》けることにしたのである。

 ——団地を出てすぐ、ちょっと表通りから外れて、少々うらぶれた感じの喫茶店があった。

 娘はそこへ入って行く。私も、適度に間を置いて中へ入った。

 幸い、こんな場所ながら、店の中は適度に混んでいて、目立たずに済んだ。

 娘の方は、奥の席で、若い男と話をしている。できることなら、その隣の席へ行きたかったが、そう都合良く空いていないので、できるだけ近い席で我慢した。

 話を聞くのは——店の中は音楽も流れているので——無理だったから、私は、極力その二人を観察することにした。

 娘の方は、もし死んだ佳子と同じなら十五歳ということになるが、こうして見ているとどうも、実際はもう少し年齢が行っているらしい。

 相手の若者は、あまり考えるまでもなく、顔立ちがその娘に良く似ている。兄妹なのだろう。年齢は十八歳、というところか。

 しかし、兄妹だとしても、二人の話は、至って真剣そのものだったようだ。

 お互い、声をひそめ、ニコリともせずに、話し込んでいる。充分に用心している、という様子だった。

 もし、この二人が、何か犯罪を企《たくら》んでいるのだったら、当然そうなるに違いない。しかし、私のカンは、必ずしもその方向へ、向いはしなかったのである……。

 話は、十分とかからなかった。

 二人は席を立った。

「いいの」

 と、娘の方が相手を押えて、「先に出るから」

 若者は、また腰をおろした。

「気を付けろよ」

 と、若者は言った。

「大丈夫よ」

 娘が微笑《ほほえ》む。——初めて見せた笑顔だった……。

 娘が出て行くのを、私はただ見送っていた。今度は相手の若者の方に用がある。

 五分ほどして、若者が店を出た。私も、少し間を置いて、後を追った。

「——それで?」

 と、哲平は訊《き》いた。

「何が?」

 と、私が訊き返す。

「後を尾《つ》けたんだろ? 何か分ったの?」

「今はいいわよ」

 私は起き上った。

 ここはホテル。更に詳しく言うと、ホテルの部屋のベッドの中である。

 哲平とはこうして時々、「師弟の交流」を図っているのである。

「あなたの方はどうだったの?」

 私は、グラスに冷たい水を入れて、一口飲んでから、言った。「——お友だち、調べてくれた?」

「忙しいのに、って散々文句言われたけどもね」

「で、どうなの?」

「大したことは分らないよ。坂根佳子をはねたのは赤いスポーツカータイプの車。たぶん国産車だろうってことだった」

「信号無視。人をはねて殺し、そのまま逃走か」

「ひどい奴《やつ》もいるよな」

 哲平は首を振った。気のやさしい男である。

 そんなことは許せないのだ。

「相当スピードを出してたの?」

「推定だと百キロは出てたらしい」

「制限速度は?」

「四十キロ」

「百キロね……。現場へ行ってみた?」

「言われた通りね」

「どんな感じ? スピードを出したくなるような道?」

「全然」

 と、哲平は肩をすくめた。「まあ、人によるだろうけど、出しやすい道じゃないのは、確かだな。手前も少し先もカーブだし、見通し良くないし」

「なるほどね」

 と、私は肯《うなず》いた。

「それにさ、一つ変なことがあったんだ、って、友だちが思い出してくれたんだよ」

「何なの?」

「その車が坂根佳子をはねた、そのころね、その道の五百メートルくらい手前で、スピード違反の取締りをやってたんだって」

「赤いスポーツカーは?」

「引っかかってない。もちろん用心したのかもしれないけどね」

「その場所へ——」

「行ったよ。もちろん」

 私は、微笑《ほほえ》んで、哲平にキスしてやった。

「上出来! で、どうだった?」

「取締りやるだけあって、いやでもスピードを上げる道だな。少し下りで、広い直線なんだ。ちょっと出せば、すぐ三十キロぐらいオーバーするよ」

「すると、その赤いスポーツカーは、スピードを上げたくなる道ではのんびり走って、わざわざ危い道でスピードを出したってことになるわけね」

 哲平は、私の顔をまじまじと見て、

「——ね、何を考えてるんだい?」

「見当つくでしょ」

「つまり——坂根佳子は、殺されたってこと?」

「計画的にね」

「で、その娘が入れかわったのかい? でも何のために?」

「それはまだ、これからよ」

 私は、天井を眺めて、大きく伸びをした。

「——その若い男のこと、分ったの?」

「ええ。名前は辻井俊一」

「何者?」

「大学の一年生よ。今のところは、それだけしか分らない」

「調べてみる?」

 私は、少し考えてから、

「いいわ、私、自分でやる」

 と言った。

「危いよ」

「大丈夫。あなたには、他に調べてほしいことがあるの」

「もちろんいいけどさ」

 哲平が、私の方へにじりと寄って来る。

「その代り、もう一回——」

「調べてくれたらね」

 私はスルリとベッドから脱け出した。

「ちえっ!」

「来週の講演の準備があるわ。今日、これから大学へ戻るわよ」

 私はバスルームへ入りながら言った。

「分りました、先《ヽ》生《ヽ》」

 哲平はそう言って、ため息をついた……。

 辻井俊一は、何とも心細い顔で、待ち合わせた喫茶店に入って来た。

 店のマスターに何やら訊《き》いている。もちろんマスターは私のいる席を指さし、辻井俊一は、おずおずとこっちへやって来た。

「あの……」

 と、恐る恐る声をかけて来る。

「辻井君ね? 私、宮島令子よ。座ってちょうだい」

「はい」

 俊一はホッとした様子で、向い合った席に腰をおろした。

「悪かったわね、せっかくの冬休みなのに」

「いいえ」

 と、俊一は首を振った。「でも——びっくりしました」

「何が?」

「いえ——こんなこと言っちゃ失礼かもしれませんけど、J大学の先生というから、もっとその——」

「年寄りかと思った?」

「ええ——まあ。怖いおばさんかと思ってました」

「怖いおばさんよ。あなたの二倍近くも年《と》齢《し》を取ってるわ」

 と、私は笑顔で言った。

 それで大分、辻井俊一の緊張もほぐれたようだ。

 辻井俊一の通っている大学に、私のよく知っている助教授がいたので、そっちから話をして、ここへ俊一を呼んだのである。

「——で、僕にどんなご用でしょうか」

「私ね、社会学科にいて、今、大学生の意識調査をやってるの。色々、全般的なことについて、君の意見を聞きたいのよ」

「僕なんか、お役に立つんですか?」

「誰だって役に立つわ。一人一人、みんなが大学生に違いないんだもの」

「じゃあ……僕に答えられることなら」

「じゃ、早速始めるわよ」

 飲物を取って、私は、即席でデッチ上げた調査項目を並べ始めた。

 こんなもの、二、三分もありゃできてしまうのだ。

 二、三問終ったところで、私はコップの水を飲んだ。

 奥の方の席にいた、紺のブレザーの女の子が立ち上って、私たちの席のわきを通って、レジへ歩いて行く。

「次の質問はね……」

 と、私は言った。「——どうしたの、辻井君?」

 辻井俊一が、今通って行った少女を、じっと目で追っている。

「辻井君」

「すみません!」

 俊一はパッと立ち上って、店を出て行った少女の後を、追いかけて行った。

 私は、俊一が戻って来るのを待っていた。

 ——戻って来るに違いないのだ。

 五分とはかからなかった。戻って来た。

 見た目にも、哀れなほど気落ちした様子である。少々気の毒な気持になった。

「——失礼しました」

 俊一は、席につくと、目を伏せたまま、言った。

「どうしたの、一体?」

「いや……。ちょっと、今通った女の子が、知り合いに似ていたもんですから」

「そう。で——その人だったの?」

「いいえ」

 俊一は、首を振った。唇の端に、苦々しい笑みが浮んだ。

「別の人です。——当り前なんです。あ《ヽ》の《ヽ》子《ヽ》であるはずがないんです」

 私は、彼の目が涙で潤むのを見た。

「好きな子だったのね」

 と言うと、俊一は、ちょっと照れたように微笑《ほほえ》んで、

「ええ。でも——死んでしまったんです」

 と言った。

「まあ、若かったでしょうに」

「十五歳でした。——本当に子供みたいなもんだけど、可愛《かわい》い子で、僕にとっては妹みたいなものだった……」

「気の毒に」

「ありがとうございます。——すみません、余計な時間を取らせてしまって」

「いいえ、いいのよ。あなたのことが、とても良く分ったわ」

「え?」

 俊一は戸惑ったように私を見た。

「これ、コーヒー代にでもしてちょうだい」

 私は、彼に五千円札を一枚渡した。

「とんでもないですよ! 僕は——」

「年上の女の言うことは聞くもんよ」

 と、私は彼の手を押えて、「その代り、それでここの払いをお願いするわ。男が払うものだから」

「——分りました」

 俊一は微笑んだ。「宮島先生……でしたね」

「ええ」

「素敵な方ですね」

「ありがとう」

 私もいい気分で、その喫茶店を出た。まあ誉《ほ》められるのは慣れているけど(!)。

「——失礼します」

 と、私が声をかけても、伊東伸子は、しばらく気付かなかった。

 何やら考え込んでいる様子で、ベンチに座ったまま、じっと隅の方の芝生を見つめている。

 昼休みの公園。——今日は冬にしてはよく晴れて暖い日なので、まだ正月気分の抜けない様子のOLやサラリーマンたちが、大勢散歩に出て来ていた。

 たいていは何人かで連れ立って来ているのだが、伊東伸子は、一人、ベンチに腰をかけているのである。

「——え?」

 大分間があってから、やっと顔を上げる。

「あの——私ですか?」

「ええ。伊東伸子さんでしょう?」

「そうですけど……」

 と、ちょっと用心するような目つきで私を見る。

 それは普通の反応と言えるだろう。変なセールスや勧誘だったらかなわない。

「私、坂根さんの友だちで宮島といいます」

「坂根さんの?」

「ええ。ちょっと探偵みたいなことをやってましてね」

「ああ」

 伊東伸子は、思い出したように、「坂根さんがおっしゃってた方……大学の先生とか?」

「まだ駆け出しですよ。好奇心が強いもんですからね」

「まあ、失礼しました。——こんなにお若い方だと思わなかったので」

「いいえ。いつもそう見られますから」

 とは少々図々しかったかな。「——心配事でも?」

「私、ですか?」

「何だかそんな風に見えましたよ」

 伊東伸子は、ちょっとためらってから、

「それは——例のことです。坂根さん、このところ仕事も手につかないようで」

「それでご心配なんですね」

「入社以来、ずいぶんお世話になりましたもの。——とても良い方だし、私……」

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