「放っとけない、という気にさせられるんですよね」
と、私が言うと、伊東伸子も、ホッとしたように笑顔になった。
「本当に! おっしゃる通りですわ」
「事情はお聞きになった?」
「ええ。妙な話ですね。——きっと何か目的があって、坂根さんの奥様を騙《だま》してるんだと思います」
「ところがその目的というのが——」
「そうなんです。坂根さんも、それで頭をかかえておられて」
「私もね色々調べてはみたんです。でも、これ、といった動機は見付からないし……。ただ、坂根さん自身も、私に何もかも打ちあけてくれたとは限らないので、あなたからもお話をうかがおうと思ったんです」
「そうですか。でも——」
「坂根さん、あなたに何か話しておられませんか?」
伊東伸子は、しばらくためらっていたが、やがて、ゆっくりと肯くと、
「私、本当に心配なんです」
と言った。
「どういうことが?」
「坂根さんから、今度のことを初めてうかがったとき、私、どう考えていいものか分りませんでした。でも坂根さんは、はっきりしていて、これは何かの詐欺に違いない。何とかあの娘の正体を暴いてやらなくちゃ、とおっしゃっていたんです」
私は肯《うなず》いて、
「それがまあ、普通の反応でしょうね」
「それに、妻が可哀《かわい》そうだ、とも。——騙《だま》されているのに、本当に娘が帰って来たような気でいるのを見ていると、辛《つら》いんだ、ともおっしゃってました」
「分りますわ」
「でも——私の立場で、ああした方が、とか、こうなさったら、とは言いにくいので黙っていたんです。ところが——」
「ところが?」
「このところ、段々、坂根さんの様子が変って来ました。何だか——ご自分でも、迷っておられるようで」
「というと、その娘を——」
「今さら、追い出したら、女房がどうなるか分らない、とか……。それに、しばらく見ていると、段々本当に娘の佳子と似ているように思えて来る、とか……」
伊東伸子はため息をついた。「まさか、とは思ったんですが、本気でおっしゃっておられるようなので」
「それで心配されているわけですね」
「ええ」
伊東伸子は肯《うなず》いた。「——それに、今日もちょっとお話しする機会があったんですけど……」
「何と言っていました?」
「私——耳を疑ってしまいましたわ。だって——『あの子に、娘の魂が本当に乗り移ったのかもしれないよ』なんておっしゃるんですもの」
「乗り移った、ね……」
と、私は肯いた。
「そんな馬鹿な話! そうでしょう? この科学の世の中に、人が人に乗り移るなんて、そんな馬鹿げたことがあるわけないじゃありませんか!」
伊東伸子は、激しい、といえるほどの口調で言うと、ハッとしたように、「すみません。つい——興奮して」
「分りますよ、お気持は」
私は言った。「ただね、私はそういう方面の専門家ですけど、坂根さんの話はそう馬鹿げてもいないんですよ」
「まさか」
と、伊東伸子は目を見張った。
「いいえ、本当です。そういう実例はいくつもあるんですよ。ただ、科学的に立証できるわけじゃないから、表に出ないだけで」
「じゃあ……本当に今、坂根さんの所にいる娘に、乗り移った、と?」
「かもしれません。特に若くて死ぬ人は、この世界に執着がありますものね」
「執着……」
「まだまだ、世の中には、よく分らないことが一杯あるんですよ」
と私は言った。「どうも失礼しました。——じゃ、これで」
「あの——」
と、伊東伸子は、腰を浮かした。
「何か?」
私は、足を止め、振り返った。
「いいえ……。坂根さんに会われたら……」
伊東伸子は、思い直したように首を振った。
「いいえ、もういいんです」
私は、歩き出した。
少し陽《ひ》がかげって、寒々としていた。公園が、まるで別の場所のように見えた……。
4
「重たいなあ!」
と、佳《ヽ》子《ヽ》が言った。
「我慢して持ってよ」
祐子は笑いながら、「あなたが沢山食べるから、仕方ないじゃないの」
「でも信じられないよ」
「何が?」
「こんなに重い食料がお腹《なか》の中に入って、結構体重もふえないなんて!」
スーパーの袋を両手に下げて、佳子は息を弾ませていた。
「もう少しよ。頑張って」
祐子は楽しげに言った。
もう、暗くなって、風は冷たい。
「——ねえ、佳子」
と、祐子が歩きながら言った。
「なあに?」
「もう来週から学校よ」
「うん。知ってるわよ」
と、佳子は顔をしかめた。「忘れたいのに! 思い出させないで」
「ごめんなさい。——準備はいいのかしら、と思ったの」
「いいわけないじゃないの。二日前から、ワーッと宿題やるわ」
本当に、と祐子は思った。この子だ。この子は佳子だ。
話し方も、笑い方も、本当にあの子そのまま……。
いや、実のところ、佳子と違っていたとしても、「今は」、この子が佳子なのである。祐子の中で、佳子の顔は、少しずつ、この娘のそれと入れかわりつつあった。
でも、祐子は幸せだった。
これで充分だ。新しい娘が出来たんだから、これで充分……。
ただ、一つの不安は、学《ヽ》校《ヽ》だった。
来週からは学校に行く。——佳子として学校へ行ったら、どうなるか?
佳子の葬儀には、学校の友人たち、何人か来て、泣いていたのだ。
それが——全然違う顔の子が、「佳子」として登校したらどうなるだろう?
それだけが、祐子の不安だった。
今の、この生活が、いつまでも続けばいいのに、と思った。
「——さあ、あとは階段」
と、祐子が、建物の下まで来て、言った。
「それが大変じゃないの」
「手伝う?」
「いい! 若いんだから」
と、足を止め、佳子は、荷物を持ち直した。——その時だった。
ダダッ、と足音がしたと思うと、
「危い!」
という叫び声。
佳子の体をかかえて、誰か男が、数メートルも転った。
ドシン、という鈍い音。
「——どうしたの?」
起き上った佳子は、呆《ぼう》然《ぜん》としていた。
「佳子! 大丈夫?」
祐子の手から、荷物が落ちる。——祐子のすぐわき、佳子が立っていた場所に、重い植木鉢が砕けて、土が飛び散っていた。
「——危かった」
と、男が立ち上った。「頭を直撃するところだったよ」
「ありがとう。——私、死ぬところだったのね」
やっと、危険が実感されたのか、佳子は青ざめた。
「ありがとうございました!」
祐子が駆けて来て、男に何度も頭を下げるのだった。
「いや——偶然ですよ」
若いその男は、照れたように言った。「でも、よく手すりに鉢を置いとく人がいるけど、危いなあ」
「ええ……」
佳子は、建物を見上げた。「本当に、危く……」
その呟《つぶや》きは、独り言のようだった。
そして、祐子が名前を訊《き》こうとしたとき、もう、男は、どんどん遠くへと歩き出してしまっていた……。
「上出来よ」
と、私は言った。
「いてて……」
哲平は、すりむいた肘《ひじ》の傷に、オキシフルをつけられて、目を丸くした。
「だらしないわね。じっとして!」
私は、キズテープを貼《は》って、「はい、一丁上り!」
「ウドンか何かみたいだね」
と、哲平は苦笑した。
——車の中で、この寒い夜を過すのは、どうにも快適とは言えなかった。
たとえ恋人と二人でも、よほどの物好きということになるだろう。
車からは、坂根のいる団地の建物が見えている。
「あの子を助けたのは、あなたにしちゃ殊勲賞ものね」
「とっさのことだったからね」
と、哲平は、ちょっと得意げである。「でも——」
「何か気付いたの?」
「卵が落ちてこわれてた。オムレツ四つ分はあったな。もったいない!」
「食い意地ばっかり」
と、私は笑った。
「そればっかりでもないよ」
と、私の肩へ回して来る手を、ピシャリとやって、
「今は探偵と助手! けじめをつけてちょうだい」
「はい」
哲平は肩をすくめた。「でも、本当に、今夜、何か起るの?」
「知らないわよ」
「そんな! だって——」
「他人の気持は、分らないもの」
と、私はとぼけた。「まだ坂根さんは帰って来てないわね」
「うん。そりゃ大丈夫だよ。出入口はあそこしかないんだもの」
「よく見ていてね。目がいいのだけが取り柄でしょ」
「はっきり言うなよ」
哲平は渋い顔で言った。「——誰か歩いて来た」
暗がりの中でも、コートをはおった男と分る。勤め帰り、という様子だ。
「坂根かな?」
「よく分らないわね。建物の前まで来ないと……」
少し明るい所まで、その男が歩いて来た。——と、いきなり、物陰から黒い影が飛び出して来たと思うと、コートの男にぶつかって行った。
「アッ!」
という叫び声。
「いけない!」
私はあわてた。「早く行くのよ!」
二人して車を飛び出す。
「ワーッ!」
と、いう男の叫び声があたりに響きわたった。
まさか——こんなことになるとは思わなかったのだ!
哲平が先に駆けつけた。
「おとなしくしろ!」
ナイフが落ちる。——哲平に、しっかりと押えつけられて、もがいているのは、伊東伸子だった。
「あなたが殺したのね! 佳子さんを」
私は、倒れた男の方へかがみ込みながら、言った。
「赤いスポーツカーを持ってたことも突き止めてあるぞ」
と、哲平が言うと、伸子は、急に力が抜けたように、グッタリした。
「私は——坂根さんが好きだったのよ!」
「だからって娘を——」
「あの人がいつも言ってたわ。『娘のことがあるから、離婚はできない』って。だから私——」
「——伊東君!」
と、声がした。
そこに立っていたのは、白いコートを着た坂根だった。
「人違いよ」
私は、刺された男の顔を見て、言った。「もう手遅れだと思うけど……。哲平、一一〇番して来て。もうこの人も逃げないでしょうから」
哲平が手を離すと、伊東伸子は、地面に崩れるように倒れた……。
「宮島君……」
坂根が呆《ぼう》然《ぜん》として、呟《つぶや》くように言った。
「あなたを待って、話をするつもりだと思ってたの。まさかいきなり刺すとはね」
私は首を振った。「読みが浅かったわ」
「何てことだ!」
「坂根さん。——あなたの責任でもあるのよ。この人と関係があったんでしょう?」
坂根は苦しげに肯《うなず》いた。
「ほんの——二、三度だ」
「それが、結局、佳子さんの命を奪うことになったのよ」
「佳子!」
坂根がうずくまって泣き出した。
階段を下りて来たのは、祐子と、そして、佳《ヽ》子《ヽ》だった。
「——申し訳ありませんでした」
畳に手をつくと、その娘は、深々と頭を下げた。「私、辻井芳江といいます」
「僕は、佳子さんと付合っていたんです」
辻井俊一が横に座っていた。「あの子は本当に可愛《かわい》くて、妹みたいだった……。死ぬ少し前、あの子は悩んでました。お父さんに女がいると知ったんです。赤いスポーツカーに乗っているのを、偶然見てしまった、と……」
「赤いスポーツカー……」
と、祐子が呟《つぶや》くように言った。
「ええ。——佳子さんが死んだと聞いて、それも赤いスポーツカーにはねられたと知って、もしかしたら、殺されたんじゃないか、と思ったんです」
「それで、こんなことを考えたのね」
と、私は言った。
「私の考えだったんです」
と、芳江が言った。「警察へ行くにも、証拠があるわけじゃないし、それに相手の女が誰なのかも分らなかったし。——私、夏に、佳子さんと一緒に湖で合宿して、色んなことを話し合ったりしていたので、彼女のこと、よく知っていたんです。それに私演劇をやっているので、つい人の仕《し》草《ぐさ》やくせを観察するのが習慣になっていて……。お母さんを苦しめることになる、とそれが気になりましたけど、でも、どうしても犯人が許せなかったんです。本当に申し訳ありませんでした。——佳子さんのものを使ったり、服を着たりするのは、辛《つら》かったんですけど……」
芳江が涙ぐんだ。
「いいのよ」
祐子が首を振った。「本当にありがとう。——佳子も浮かばれるでしょう」
——どうにも、ハッピーエンドとは言いがたい終り方である。
坂根夫婦の間も、どうなるか分らないし、伊東伸子に間違って刺された男性、一命は何とか取り止めたが、どうなることか……。
しかし、母親、祐子の顔が意外に明るいのは、救いだった。
「——私は、あなたのこと、本当に娘のような気がしてるのよ」
と、玄関へ出て来て、祐子は言った。「いつでも遊びに来てちょうだい」
「はい!」
芳江は、芳江の顔に戻って、返事をした。
——外へ出ると、もう明るくなりかけている。
「——僕、あのときはびっくりしたな」
と、辻井俊一が言った。「佳子とそっくりの子が——」
「あれは私が頼んだ劇団の子なの」
と、私は言った。「あなたの反応を見たくてね」
「そうだったんですか!——本当によく似てた」
「でもね、あなたは生きてるんだから、しっかりしなきゃだめよ」
「ええ、分ってます」
と、俊一は肯《うなず》いた。
「しっかりした娘がついてます」
と、芳江が俊一の腕を取って言った。「あ、そうだ。命を助けていただいたお礼も言わないで」
哲平が、頭をかきながら、
「別に——大したことじゃないよ」
と照れている。
私は微笑《ほほえ》んだ。
「——これで一区切りついたわけね。どう? 二十四時間営業のおいしい焼肉の店を知ってるの。みんなでくり出しましょうか?」
「賛成!」
と、哲平が声を上げた。「それからホテルへ行って——」
口をすべらした哲平が、あわてて手を口に当てた。
私は吹き出してしまった。
避暑地の出来事
1
「まるで、あ《ヽ》れ《ヽ》みたいじゃない。ほら——」
と、令子は言った。
全くね、と清美は缶ジュースをちょっと持て余しながら、思った。令子って、「あれ」と言えば、何でも通じると思ってるんだから。
「だからさあ、あ《ヽ》れ《ヽ》をあ《ヽ》れ《ヽ》して——やっぱ、あ《ヽ》れ《ヽ》じゃない?」
なんて言われて、まるで「虫食い算」みたいに、カッコの中を埋めて行かなきゃいけないというのは、いくら友だち同士でも辛《つら》いものだ。
もちろん悪気はないのだ。そりゃ、令子とも長い付合いの清美である。よく分ってはいるのだが——。
時として苛《いら》々《いら》するのも確かだった。
「ほら、ほら——何だっけ」
令子は、何やら思い出そうとしている様子だった。
「ほら、人のいないキャンプ場か何かにさ、若い子たちが遊びに来て、わけの分んない殺人鬼が出て来てさ」
「分った!」
と、ユカが声を上げた。「令子が言いたいの、『十三日の金曜日』でしょ」
「そう、それ! ね、私たちも何となく似てるじゃない」
令子は車の窓から吹き込んで来る風に負けないように大声を出していた。
清美は、三分の一くらいは残ってしまった缶ジュースを、どうしようもないので、手に持ったまま、ふっと笑ってしまった。
「十三日の金曜日」か。
清美も、映画は好きだが、あの手の映画は好きじゃない。いや、怖いのがいやなんじゃないのだ。
怖きゃ怖いで、それなりに楽しい。あの手の映画の大半は、怖くもないのである。
ただ、「十三日の金曜日」をもじって、「十四日の土曜日」という映画ができたと聞いたときは、思わず笑ってしまったものだが。
「だけどさ——」
車の助手席で、長い足を持て余し気味にしていた隆一が振り向いて、「ああいうのって、やっぱ、可愛《かわい》い女子学生が出て来なきゃいけないんだぜ」
「何よ! 何が言いたいのよ!」
と、令子が隆一をつっつく。
清美はちょっと笑っただけだった。
令子と隆一は恋人同士なのだ。要するにじゃれ合っているだけなのである。
——車は中古で、かなり凄《ヽ》い《ヽ》乗り心地だった。もう三時間以上座っているので、お尻《しり》が痛くてたまらなかった。
夏とはいえ、この車、もちろん冷房なんてぜいたくな物はついていない。窓を開けておくと、凄《すご》い風で、目を細めなくちゃいけないくらいだった。
どんどん後ろへ飛んで行く林。車は、山の中へ中へ——奥へ奥へと入って行く。
そう。おかしいくらい、私たち、「十三日の金曜日」みたいだわ、と清美は思った。
三人の女子大生——中道清美、「あれ」を連発する水田令子、そして、おっとりした井上ユカ。正確には、三人とも短大生である。一年生の夏休み。
短大となると、もう来年は「最後の夏」ということになる。
「好きなことできるの、今年だけよ」
いつも、かなり好きなことをしているように見える令子が、そう主張して、このキャンプが実現したのだ。
家には、「女の子だけ五人」と言って来てある。令子の所は、もう親も諦《あきら》めムードらしいし、ユカは四国から上京して一人暮し。清美の所だけ、至ってやかましい(といっても、世間並だが)両親が揃《そろ》っているのである。
でも、アンバランスな五人だった。
女の子三人と、男の子二人。
助手席の森田隆一は令子の恋人だが、ハンドルを握っている山中和宏は、別に誰かの恋人というわけではなかった。ただ、何となく頼りになりそうだったし、清美が、
「運転手みたいで悪いんだけど」
と頼んだら、
「いいよ。どうせ行く所なくて暇なんだ」
と引き受けてくれた。
隆一と同じ大学の、二年生だ。今はやめてしまっているが、一年のときはフットボールの選手で、大いに活躍したらしい。
もっとも、そのころ、清美は全然山中のことを知らなかったし、フットボールに興味もなかったから、女の子にキャーキャー騒がれていたとか、足を挫《くじ》いたのがきっかけで、フットボールをやめてしまった、とかいう話も、隆一から聞いていただけである。
さすがに上背もあって、体格はがっちりしている。——隆一に紹介されて、初めて会ったとき、いやに山中が無口なので、清美はてっきり嫌われちゃったのかな、と思ったものだ。
でも、そうでもないらしい。
最近の大学生にしては珍しく、無口な男なのだ。
「——この缶ジュース、どうしよう」
いい加減生ぬるくなって、飲む気にもなれない。
「放り投げとけば」
と、令子が言った。
「いけないわ」
と、ユカが言った。「中身だけ窓から捨てて、缶は、ほら、このビニールへ入れなさいよ」
さすが独り暮しをしているだけあって、用意がいい。
「うん」
一組の恋人と、男一人に女二人。——妙な五人組だった。
向うへ着いたら、どうなるんだろ、と清美は思った。
古い別荘で、ろくに手入れもしていないというから、まず大掃除。でも、そんなとき、男の子は、たいていボケっとしているだけなのだ。
部屋がどうなっているか、行ってみなくちゃ分らない。
令子と隆一は同じ部屋にした方がいいのだろうか? でも、それじゃ、あ《ヽ》ん《ヽ》ま《ヽ》り《ヽ》かもしれない。
といって、夜中にノコノコ隆一の方が女の子たちの部屋へ忍んで来たりしたら、却って気になってしようがないし。
——ま、いいや。向うへ着いてから、考えよう。
清美は、性格的に(成《ヽ》績《ヽ》的《ヽ》にも)、何となくこの三人の中では、リーダー的な立場だった。別に、そこまで考えなくてもいい、と思うようなことも、つい先回りして考えてしまう。
損な性格なのかもしれない。
「——まだ大分かかるの?」
と、令子が言った。
「知らないよ。行ったことないんだからな、ともかく」
と、隆一が地図を広げる。
「もう少しだと思うよ」
と、ハンドルを握った山中が、口を開いた。
「その地図だと、あとせいぜい十分くらいだな」
「この地図が、当《ヽ》て《ヽ》になりゃだけどな」
と、隆一は肩をすくめた。
「あんたが捜したんでしょう」
と、令子が隆一の肩をつつく。「無責任なこと言わないでよ」
——清美は、ジュースの缶を持った右手を、窓から出して、ジュースが車にかからないように、できるだけ手を伸した。缶を逆さにして中身を——。
「キャッ!」
と、清美は叫んで、手を引っ込めた。
「どうした?」
山中が素早く振り向いた。「停める?」
「いえ——いいの」
清美は、首を振った。「何でもないわ。大丈夫」
「そう?」
山中は、ちょっと気にしているようだったが、ともかくカーブの多い山道で、運転に集中していなくてはならなかったから、それ以上、何も言わなかった。
清美は、そっと左手を胸に当てた。——まだドキドキしている。
今のは、どうしたんだろう? 何かに手がぶつかったのかしら。
いや、そんなことはないはずだ。それに、ぶつかった、というのとは、はっきり違う感覚があった。
パッ、と缶を誰《ヽ》か《ヽ》が《ヽ》奪い取った。本当に、そんな気がしたのだ。
でも——そんな馬鹿なことが。走っている車の、清美は後部座席の一番右に座っている。そして窓を開けて右手をぐっと突き出したのだ。
令子とユカは、おしゃべりをしていて、清美が声を上げたのにも気付いていない様子だった。
清美は、そっと息を吐き出した。——ちょっとびっくりしたが、でも、何でもない。
風のせいか、それとも、木の枝でも——小石か何か、前輪ではね飛ばしたのが、たまたま缶に当ったのかもしれない。
でも、あんなに凄《すご》い力で、もぎ取るように……。
清美は激しく頭を振った。
変なこと考えないで! それこそ、「十三日の金曜日」じゃあるまいし……。
「やあ、きっと、あれだ」
と、隆一が声を上げた。
木立ちの向うに、黒ずんだ木造の二階家がうずくまるように見えていた。
「ああ、お腹《なか》空《す》いた!」
と、令子が大声で言った。「もう死にそうだよう!」
「ほら、運んで」
清美は笑いながら、ローストビーフの皿を令子に渡した。
「こんな重いもの持てない! 空腹で力が出ない!」
と騒ぎながら、令子は皿を手に台所を出て行った。
「——うるさいんだから」
と、清美は笑って言った。
「いいじゃない、にぎやかで」
ユカがサラダを盛りつけながら言った。
「ええと——ドレッシングはどうしよう?」
「自分でかけるようにしたら?」
「そうね。——じゃ、これでいいかな」
ユカは、手の甲で、額の汗を、ちょっと拭《ぬぐ》った。
「ご苦労様。さすがに独り暮しね」
「これでも、家じゃ、役立たずって言われ続けてたのよ」
「私なんか、それじゃどうしたらいいの?」
と、清美は笑って言った。「さて、男たちを呼んで来なきゃ」
——実際、お腹が空いたと騒いではいるものの、令子はほとんど大したことはしていない。
別荘は、予想していたよりずっときれいで、みんなホッとしたのだが、やはり一通り掃除はしなくちゃならない。
それだって、一番こまめに動き回っていたのはユカだった。
令子は、ねえ、あの絵、素敵ね、とか、こんなもん見付けちゃった、とかよくしゃべるくせに、その実、ほとんど何もしていないのである。
清美は?——まあ、やる気はあるが、技術が伴わない、というところか。
もっとも、掃除、窓拭《ふ》きに「技術」というのもおかしなものだが。
隆一と山中の二人は、壊れたドアを直したり、床板がめくれているのを、打ちつけたりしている。
サラダのボウルを食堂へ運んで行くと、清美は、週刊誌を見ている令子に、
「ねえ、森田君は?」
と声をかけた。
「二階。ドアがきしんでうるさいからって、油さしに行ったわ」
「そう。もう、夕ご飯にしよう。呼んで来てよ」
「うん。——これ読んだらね」
と、令子は顔も上げない。
清美は苦笑して、玄関の方へ出て行った。
山中が、さっき外へ出て行ったようだったからだ。
頭の上で、足音がした。——コツ、コツ、と歩き回っている様子。
隆一だろうか? 見上げていると、背後の階段に、足音がして、当の隆一が降りて来た。
「手が油だらけだ! これじゃ、令子に嫌われちゃうよ」
と顔をしかめている。
「ご苦労様。もう夕食にするわ」
「やあ、そりゃありがたいな!」
隆一が、浴室の方へ、手を洗いに行った。
コツ、コツ。——また足音。
じゃ、山中君、上にいるんだ。
清美は、玄関のドアの鍵をかけた。もう、外は暗くなっている。
もちろん、こんな人里離れた山の中、危険なことなんてないだろうけど、一応、用心に越したことはない。
大体、清美は何事にも慎重なたちである。
食堂に戻ると、相変らず令子は週刊誌を見ていて、ユカがせっせとテーブルを準備している。
「ほら、令子、あんた手伝いなさいよ」
と、清美は言った。
「はいはい。ごめんね、ママ」
と、令子がおどけて立ち上った。
仕度が終ると、ちょうど隆一が、顔を出す。
「おっ、旨《うま》そうだな」
「ね、隆一、そこに座って」
と、たちまち令子が世話を焼き始める。
やってられないわね、と清美は首を振った。
「山中君は?」
と、ユカが訊《き》く。
「二階じゃない? さっき足音がしてた」
「あら、いつ戻ったの? さっき外、歩いてたけど」
「そう?」
清美は大して気にもしなかった。
そうだ。コーヒーを淹《い》れとこう。——清美はコーヒーがないと食事ができない。
食べながらでも、二、三杯は飲んでしまうのである。ちゃんと、コーヒーの粉をどさっと持って来てあった。
「いいわね、こういう山の中の小さな湖って」
「泳げないのかなあ」
「冷たいんじゃない?」
——令子たちの話を後に、清美は一人で台所へ入って行った。
お湯を沸かして、ドリップにペーパーフィルターを敷いて……。
——ふと、目が窓の方へ向いた。
陽《ひ》が沈んだ方角には、最後の残照が、かすかに漂っていて、汚れたガラス窓越しに、この別荘の小さな庭と、その向うの木立ちを見分けられた。
そこに、誰かが立っていた。ほとんどシルエットでしかない、男の姿。顔は、全く見分けられなかった。
山中君かしら? でも——二階で足音がしていたのに……。
ドンドン、と玄関のドアを叩《たた》く音がして、清美はハッとした。
「おーい! 締め出さないでくれよ!」
山中の声だ!
清美は、窓の方へ目を戻した。——もう、男の姿は、見えなくなっていた。
2
月明りが、こんなにまぶしいなんて……。
清美は、寝返りを打って、目を開いた。
ウトウトしてはいたのだが、つい、目を覚ましてしまう。
カーテンのない、一番端の部屋。
「いいわよ、私、ここで」
と進んで言った手前、文句も言えない。
時計を見ると、午前一時だった。
こんな山の中、大してすることもない。TVはないし、トランプか何か、三十分もやれば飽きてしまう。
十時ごろ、早々と順番にお風《ふ》呂《ろ》に入って、寝てしまったのだが……。
月明りが、まともに清美のベッドを照らして来るのだ。
「明日、何か布を下げよう」
と、清美は呟《つぶや》いた。
損しちゃったな、全く。——これも性格か。
二階は、割合に小さな部屋に分れていて、大きなダブルベッドのある主寝室は、当然の如く、令子と森田隆一が使うことになった。
その向うの部屋を、山中。反対側、今、清美のいる部屋の隣を、ユカが使っていた。
「あんまり気分出されて、眠れなかったら、どうしよう」
と、ユカが、本気で令子たちのことを心配していた。
でも、別荘にしてはしっかりした造りで、壁もそう薄くない。たぶん、大丈夫でしょ、と清美は慰めておいたのだが。
——清美は、ベッドに起き上った。
無理に眠ろうとすると、ますます目が冴《さ》えてしまう。
窓から、表を眺めた。
ちょうど、小さな湖が見渡せる位置で、月明りの下、湖——というより池に近い程度のものだが——は、薄い膜でも張っているように、穏やかだった。
静かだわ、と清美は思った。——都会なら、こんな風に、何の物音も聞こえて来ないなんてことは、まず考えられない。
——でも、と清美は、ちょっと眉《まゆ》をひそめた。あの二階の足音は、誰だったんだろう?
そして、台所の窓から見えた、あの男は……。
どちらも山中でないのは、確かだった。外に出ていた、といっても、清美が、あの男の姿を見ているとき、山中は玄関のドアを叩《たた》いていたのだ。
どうってことないんだわ。——清美は肩をすくめた。
足音のように聞こえたのは、たぶん、久しぶりに料理をしたりして、木がきしんで音をたてただけかもしれないし、表に立っていたのは、この近くの人……。
いくら、人里離れた、といっても、近くに人家がまるでないわけじゃないだろうし、清美たちのように、避暑に来ている人が、いたっておかしくない。
そう。——当り前のことなんだ。
ふと、笑い声が聞こえたような気がして、清美は振り返った。
甲高い笑い声。——もしかして、あれは……。
そっと、ドアを開けて、廊下に出る。
階段の下り口の所まで行くと、下の居間に明りが点《つ》いていた。
「だってさあ……」
令子だ。何がおかしいのか、キャッキャと声を上げて笑っている。
「おい、聞こえるよ」
と、隆一の声。
二人して、下でシャワーでも浴びたのだろうか。
清美は肩をすくめて、そっと部屋に戻った。
ベッドに入ると、今度は、何となく、自然に眠りがやって来そうだ。
月明りに背を向けて、壁の方に体を向けて、目を閉じた。
——あれは?
目を開いた。
誰かが泣いている、押し殺した声で。
清美は、頬《ほお》が熱くなるのを感じた。
そうじゃない。——愛されている女の声だ。ギッ、ギッ、とベッドが揺らぎきしむ音も聞こえる。
「ユカ……」
と、清美は呟《つぶや》いた。
令子たちは、今、一階にいた。ということは——ユカと山中だ。
山中君が……。まさか……でも……。
清美は、胸苦しさに、キュッと目をつぶった。
知らなかった! 山中君とユカが……。
ああ、やめて。やめて。
清美は、両手で耳を力一杯ふさいで、叫び出したい気持を、必死でこらえていた……。
「——清美、どうしたの?」
声をかけられて、初めて清美は、そこにユカが立っているのに気付いた。
「あ、ユカ」
清美は、無理に笑顔を作った。「一緒に行ったんじゃなかったの?」
清美は、湖のほとり、倒れた太い木の幹をベンチ代りに、腰かけて、静かな湖面を眺めていた。
「うん……」
ユカは、清美と並んで、木の幹に腰をおろした。「だって——何だか気になって」