やがて太鼓の響きがパタッとやんで、次いでドッというどよめきが聞こえて来た。
「始まったようですね」
私は覚悟を決めた。どうあろうと、夕子を救わねばならない。私は植村へ向かって一歩踏み出した。植村はギクリとして銃を構え直すと、
「近付くな! 撃つぞ!」
「撃つなら撃て!」
私は構わず、じりじりと前へ出た。「貴様にその引金が引けるなら引いてみろ! 俺はな、たとえ二発ともくらったって死ぬ前に貴様をしめ殺してやるぞ!——さあ、撃て」
「撃つぞ! 本当に撃つぞ!」
さすがに植村も青くなって、戸口をふさぐように立って、外へ退がり始めた。いつ引金を引くだろう? 万に一つ、引金を引くよりこっちが飛びかかる方が早いかもしれない。今はそれに賭けるしかないのだ。こうしている間にも、狼の牙が夕子の白い喉をかみ裂いているかもしれない。——よし!
今、まさに飛びかかろうとした時、植村が急に短い叫び声を上げた。目がカッと見開かれ、散弾銃がダラリと銃口を下げると、植村はその場に、崩れるように倒れた。背中に肉切り包丁が深々と突き刺さり、それを見下ろしていたのは、あの狂人を装っていた若い娘だった。
「待ってたわ……この時の来るのを……」
娘は誰に言うともなく、放心したように呟いた。「あの人を突き落としたのは、こいつだった……」
「おい! 大丈夫か?」
私の声に、娘ははっと我に帰った様子で、
「早く逃げて!」と叫んだ。
「そうはいかない。彼女を助けなきゃ。村の連中は全部、祭の方へ行ってるんだろう?」
「ええ」
「じゃ君は町の警察へ走ってくれ。できるな?」
「馬車を操れます」
「じゃ頼むぞ!」
私は倒れている植村の手から散弾銃を引ったくると、全速力で駆け出した。
6
無人の村を突っ切ると、あの囲いが見えて来た。村人たちは囲いを見下ろす階段状のベンチに坐って、外へ背を向けている。私は足音を殺しながら近付いた。ベンチの一角が切れて、囲いの中へ入る狭い通路になっている。私は身をかがめて、人一人、やっと通れるその通路へと滑り込んだ。内側へ出るための扉は、外側からカンヌキがかかっている。私はそれを外すと、細く扉を開けて中の様子に目をこらした。
狼が見えた。土佐犬より一回りも二回りも大きい。それが何かの上にかがみ込んで、鋭い牙と爪で食い散らかしている。——遅かったのか! 一瞬、凍りつくような恐怖の思いが背筋を走った。だがよく見ると、それはワラ人形に服を着せたものであった。狼は服や中身のワラをめちゃくちゃに食いちぎっていた。その時村人たちがワッとどよめいたと思うと、囲いの中へ、夕子が投げ出された。夕子は一旦倒れたが、すぐにはね起きて、狼を見た。さすがに顔が真っ青で、囲いにピッタリと体をはりつけるように立ちすくんだ。狼の方も、今度こそ、本物だと気付いたのだろう、人形から離れると、低い唸り声を立てながら、夕子の方へ足を進めた。夕子は立ちすくんだまま観念したように動かない。私は水平二連式散弾銃の撃鉄を起こし、銃床を肩に当てて狼を狙った。走って来たせいで激しく胸が上下し、銃口が揺らいで定まらない。
「かかれ!」
「飛びつけ!」
「早くやれ!」
「殺せ! 食い殺せ!」
村人たちの声が飛び交っている。女の声も、子供の声さえある! 狼は夕子から数メートル手前で一度足を止めると、身を沈めて、飛びかかる態勢になった。息を止め、銃を握りしめる。狼が飛ぶのと、引金を絞るのと、同時だった。激しい反動が肩に食い込む。銃声。硝煙。——狼は横倒しに地面に転がった。頭が半分ほどもふっ飛んでいる。
——一瞬、水を打ったように静まりかえる。私は扉を開け放して叫んだ。
「こっちだ! 早く来い!」
夕子は私に気付いて、駆けて来る。
「早く出るんだ!」
通路を抜け出るのに、五秒とはかからなかったはずだが、それは途方もなく長かった。村の連中は、何が起こったのか、しばらく理解できなかったに違いない。その間、ただザワザワと騒いでいるだけだった。私と夕子が外へ飛び出すと同時に、村人たちが、爆発した。
「殺せ!」
「逃がすな!」
怒号の津波が私たちをせきたてるように追って来る。
「走れ!」
私は夕子に叫んだ。二人とも必死に走った。追って来る村人たちの足音がはっきりと耳を打つ。私たちは村の通りを駆け抜けようとしたが、夕子の足がいくら達者でも、鍛えられた村の若者たちにはかなわない。村を出る前に追いつかれる、と気付いて、夕子の方へ、
「林へ飛び込め!」
と声をかける。家と家の狭い隙間を突っ切って、私たちは深い林の中へと身を躍らせた。
「どこに行っちまいやがった?」
「もう逃げちまったんと違うか?」
「そんなはずはねえ! この近くにいるんだ。よく捜せ! 必ず、この辺にいる」
聞き憶えのある添田村長の声だ。その他にも、植村の父親の声、雑貨屋のおかみの声、それに絢路夫人の声までが入り混じっている。
「何をぐずぐずしてるの! 早く捜し出すのよ! 去年みたいに崖から突き落としちゃ面白くないわ」
「みんなで叩き殺してやれ!」
こんな声が、しきりと頭上を行き来するのは、あまり気分のいいものではない。私と夕子は、結局あの鋭い崖っ縁に追いつめられて、崖の下、ほんの一メートルほどの所の、狭い凹みに身を潜めているのだ。足下はもう何一つ手掛りとてない断崖。絶体絶命を絵に描いたようなもんだ。
あれから、どれくらい時間がたったのか、すっかり夜は明けて、頭上には澄んだ青空が広がっている。この世の見納めにはいい眺めだ。
「行きそうもないわね」
夕子が低い声で言った。できるだけ身を縮めて、ぴったりくっつき合っているので、大きな声を出す必要もないのだ。
「どうもね」
「そのうちきっと見つかるわ」
「そうだな……。あの娘が早く警察を連れて来てくれるといいんだが」
「無理よ。馬車を走らせたって、町まで三十分はかかるでしょう。それに、警察が話をすぐ信用するとは思えないわ」
「悲しい事を言ってくれるな」
「事実は事実よ」
「しかし、そうなると、見つかった時、ここにいちゃ、それこそ万事休すだな。いっそ思い切って飛び出すか」
「で、どうするの?」
「僕が先に出て連中を引きつける。君はその隙を見て逃げればいい」
「だめ」
「どうして?」
「死ぬ気ね。私を助けるために。そんなの、私、いやよ」
「言う事を聞けよ! 君はまだ若いんだぞ。僕は警官だ。こういう時、危い目に遭うように給料をもらってるんだ」
「やめてよ。英雄なんて、あなたに似合わないわ」
「おい!」
「死ぬなら一緒よ。——そうでしょ?」
夕子は至って気軽な口調でそう言った。私は、彼女の笑顔を見つめた。生意気で、負けん気で、頑固で、図々しくて——何て娘だ! 仕方なく私も笑った。
「全く、君といると、どこかの喫茶店にでも入ってるような錯覚に陥るよ」
「私、楽天家なの」
夕子は言わずもがなの事を言った。「こんな善良な人間を天は見放すはずがないって信じてるのよ」
「しっ!」
すぐ上で、誰かの声がした。
「この下にいるのかもしれねえ」
「よし、覗いてみるか」
私と夕子は顔を見合わせた。
「どうやら見放されたらしいわ」
と夕子がため息をつく。「上に行く? 下に行く?」
「下に?」
「上ってって殺されるより、お手々つないで飛び降りちゃった方が楽じゃないかしら」
私はため息をついて、
「——何とか君だけでも助けたかった」
その時、夕子がふと上を見た。
「何の音かしら?」
「何が?」
「あれ。ほら——」
頭上に轟音が近付いて来た。村の連中も何やら騒いでいる。
「ヘリコプターだ!」
轟音はぐんぐん近付いたと思うと、私たちの頭上で動かなくなった。
「一体何だ?」
その時、魔法のように、私たちの目の前に何やらユラユラと下がって来たものがある。縄ばしごだ!
「しめた! つかむんだ!」
私は夕子の体を支えて押し出した。腕を一杯にのばして、夕子がやっと縄ばしごに取り付く。
「そこにいたぞ!」
頭上で声がした。私は銃を投げ捨てて、縄ばしごに思い切って飛びついた。とたんにヘリコプターは急上昇し始めた。
生れてこの方、この時ほどのスリルを味わった事はない。これからもそう度々はないだろうと思う。何しろ、ヘリコプターの縄ばしごにぶら下がったまま、森を越え、山を越え、木の頂をかすめながら、猛スピードで飛んだのである。二人とも、猛烈な風に堪えながら振り落とされないようにしがみついているのが精一杯。とても、眼下のパノラマに見入るゆとりはなかった。それでも私は比較的落ち着いていたのではないかと思っている。風に振り回されながら、何とも下らない事を考えていたのだ。
——これこそ正に「天の助け」だな、と……。
ヘリコプターは町の上空へ来ると、小学校の校庭へ着陸した。地べたに坐ってぐったりしている私たちの方へ、ヘリから降りて駆け寄って来たのは、善人村へ着いた夜、入れ違いに村を去ったテレビ局の男だった。
「大丈夫ですか?」
「何とかね……。いや、助かりました。もうちょっとで殺されるところだったんです」
「上空から撮影してたんですが、何だか様子がおかしいのに気付きましてね。で、飛んでるうちに、あなた方が、あの崖の所に隠れてるのが見えたもんで、縄ばしごを降ろしたんです。ぶら下がったままで大変だったでしょう。降りる場所がなくってね」
「ぜいたくは言いませんわ」
と夕子はまだ肩で息をしながら、言った。
「でも、お正月に仕事ですの?」
「ウチの部長が、あの村の空中からのショットをどうしても撮れって言い出しましてね。仕方なく飛んだんです」
「まあ!」
夕子は私に言った。「ね、その部長さんのお宅へお年始に行かなくちゃ!」
私が町の小さな旅館へ戻ったのは、もう夜中近かった。夕子は浴衣姿でくつろいでいる。
「どうだった?」
「今、県警も出て来て、二十人ばかり、トラックで村へ向かったよ。いや、納得させるのに大変だった」
「でしょうね」
「あの娘の証言がかなり効いたね。それに僕の身分が確認されてから、すっかり向こうも信用してくれるようになったよ」
「どうするのかしら? 村の人を全部逮捕するの?」
「さてね。まあ、とりあえず村長を連行して、村には警官隊を置いておくんだろうな。しかし、何にしても、前代未聞の事件だよ、村ぐるみの殺人なんて。といっても、去年までの事件は、今さら立証するのが難しいと思うがね」
私も浴衣に着替え、ビールで乾杯した。
夕子が言った。
「——善人村っていう名が悪かったのね」
「え?」
「善意の固まりなんていう人間は、いやしないわ。不自然なのよ。人間は愛したり、憎んだりするものでしょ。あそこでは、みんなが自分の不満や憤りを押し殺して、むりに|善人《ヽヽ》になっていたのね。そのはけ口が、あの年に一度の殺人だったのよ。——あの囲いの中へ投げ出された私を見てた村の人たちの目ったら……もう、ぞっとするほど凄まじい憎しみが溢れてるの。一年間の積り積った憎悪を、いけにえに向かってぶっつけていたのね。だから、いつまでも祭が続いて来たんだと思うわ」
「祭か。——大変な祭だ」
「人間、自分の感情に素直でいるのが一番ね」
「命がけで得た教訓だね、それは」
「ねえ、コブはどう?」
「ああ……。もう大したことないよ」
「それじゃ」
夕子はさっさと立って布団の傍に立つと、浴衣を脱いで全裸になった。
「自分の感情に素直なの、私」
と、布団の中へ滑り込む。私も急いでそれに続く。一度、ともに死ぬ覚悟までしたせいだろうか、いっそう彼女が可愛く思えた。
「ねえ」
夕子が囁いた。
「何だい?」
「今日、私と死んでも後悔しなかった?」
「ああ。——いや、後悔したろうね。何とか君を助けられなかったか、と思ってね」
「優しいのね。大好きよ」
私は裸の彼女を抱きしめた。
「ね、私たち、巧くやって行けそうね」
私はドキッとした。どういう意味だろう! もしかして……。
「お願いがあるの」
「言ってごらん」
「大学を出たら……私と……」
「う、うん?」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
「探偵社を開業しない?」
と夕子は言った。
[#地付き]〈了〉
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<a name=6>あ と が き——「幽霊列車」の頃
[#地付き]赤川次郎 <t-left>
「幽霊列車」は僕の処女作である。
もっとも、それは初めて活字になったという意味であって、小説というものを書いたのは、中学三年生のとき。当時熱中していたシャーロック・ホームズものの短編だった。
以来、活字になることのない小説を書き続け、高校時代には千枚を越す長編を二つ書いている。
サラリーマン生活に入ってからも、量は多くなかったが、書くことだけは続けていた。その十年目に、「幽霊列車」が新人賞を受けたわけである。
その一年前に、TVのシナリオ公募に入選して放映されたのに味をしめて、「幽霊列車」を書いた前後には、ずいぶんあちこちの賞や公募シナリオに作品を送っていた。「文學界」や「太宰治賞」から、「東芝日曜劇場」まで、幅広く——と言えば聞えはいいが、要するに手当り次第という感じだ。
だが、その中で、推理小説はこの「幽霊列車」だけだった。
十日間で九十三枚の原稿を書き上げ、応募締切当日に発送したが、何しろ他にも応募するものが沢山あって、「幽霊列車」のことは忘れていた。特に第二次選考まで残った、「東芝日曜劇場」のシナリオの方が気がかりで、その発表を今か今かと待っていたのである。結局それが三次選考で落ちて、がっかりした翌日に文藝春秋から「幽霊列車」が新人賞の最終候補に残ったという通知を受けた。
入選すると、この作品は「日本に珍しいユーモア推理」と言われた。当人は、しかし、そんなつもりはまるでなかった。あまり重苦しくてやり切れないものは嫌いだし、かと言って、緻密に組み立てた謎とき小説は、頭の構造上不可能である。
そこで、明るいタッチで読めることを心がけ、トリックを一つ放り込んで、後は軽快なスリラーのつもりで書いたら、というぐらいの気持だった。
主人公の永井夕子というキャラクターには、別にモデルはない。この一年前に放映されたTV映画でも、中年の男と若い娘という組み合せを使っていて、それを持って来た、というわけで、まさかこのコンビの連作がここまで続こうとは思いもしなかった。
それでも応募のときに多少の下心があったのは事実のようで、ちゃんと二作目が書けるような終り方にしてある。入選すると決ってもいないのに図々しい話だ。
僕は推理小説ただ一筋という作家にはとてもなれないけれど、このシリーズは長く続けて行きたいと思っている。
このコンビのものを書いていると、住み慣れた町に帰って来たような、そんな安心感を覚えるのだ。
[#改ページ]
初出一覧(発表誌=オール讀物)
幽霊列車 昭和五十一年九月号