「奥さん、大丈夫ですか?」
夕子が心配して声をかけると、綾子夫人ははっと我に帰って、慌てて首を振った。
「ええ——ええ、大丈夫です、何でもありませんの」
しかし夫人の視線は、サンデッキへふらりと出て来て、ぶらぶらと椅子の間を歩いているアロハの男をじっと追っていた。男の方は綾子夫人に気付く様子すらない。
「あの……私、失礼します。子供たちを……」
綾子夫人が逃げるようにデッキから立ち去ると、アロハの男は少し海の方を眺めてから、これもホテルへ入って行った。
「——何事かね」
「あの男、どうも感じが悪いわね」
夕子が首を振った。「平和な日々ばかりは続かないのね」
「僕らには関係ないさ」
「だといいけど……」
夕子はそう言うと、体をのばして目を閉じた。下の浜辺では、三人のベビーギャングの声が威勢よく飛び交っていた。
「僕はやっぱり、初めがあって、真中があって終りがある、っていう話が好きですねえ」
若いくせに前衛芸術には批判的な森山青年が言った。
「ゴダールだってそれは認めてるのよ」
夕子が応じて、「ただ、その順序に並んでる必要はないっていうのよ」
お手上げ、という様子で森山が肩をすくめる。このエリート銀行員には、定まった秩序を「適当に」入れ替えるなどという発想は、とうてい理解し難いのだろう。
ディナータイムのホテルのレストランはほぼ満員の盛況だ。私たちのテーブルには、森山青年の他に、白髪の上品な老婦人である織田きぬ女史がいた。
この人は英国に長く住んだ英文学者で、英古典文学の権威として知る人ぞ知る存在である。むろん今はすでに研究生活から退いて、悠々自適の生活を送っている未亡人だったが、物静かな中に優れた知性を感じさせて、人間、老いるならばこの人のように、と思わせた。といって決して固苦しい老人ではない。あの三人のベビーギャングも、ほんの数日前に知り合ったばかりのこの老婦人を、「おばあちゃん」と呼んで、孫のようになついている。
私たちが食事を終える頃になって、綾子夫人が三人組を連れてやって来た。たちまち、
「おばあちゃん、今日ね、お兄ちゃんったら……」
「やーい、由美が馬鹿なんだ。ほんとだよ、おばあちゃん……」
三人が一斉に織田女史を囲んで話し出す。その三人にいちいち微笑みながら|肯《うなず》いている女史の様子は全く平凡な、気のいいお婆さんである。
私は綾子夫人の様子をさり気なく窺ったが、いつも通りに、ただ穏やかに微笑んでいるだけで、格別変ったところも見られない。
「ほらほら、お母さんにご飯をお願いしてらっしゃい」
織田女史が三人組を綾子夫人の方へ押しやる。
「何をいただこうかしらね」
「エビはあまりいただけなかったですよ」
夕子が言った。
「今のエビはみんな冷凍食品ですからね」
織田女史が、嘆かわしい、といった風に首を振る。
「ねえ、レートーって何のこと?」
一郎が母親に言った。「ユウレイと関係あんの?」
「冷凍ってね、うんと冷やして凍らせておくことよ」
綾子夫人がメニューを見ながら答える。
「凍らすとどうなんの?」
「いつまでもいたまないのよ」
「そんな冷たいの、どうやって食べんの?」
「温めるのよ。そうすると元通りになるの」
「ふうん。ずっともつの?」
「長くね」
「百年でも?」
「まさか。——さ、何が食べたいの?」
「このホテルの料理は大部分冷凍だって聞きましたよ」
森山青年が言った。「とてつもなく大きな冷凍庫があるんだそうでね」
「でしょうね」
織田女史が肯いて、「でなかったら、こう毎日全く同じ味の料理は出せませんよ」
「しかし効率ということを考えれば、仕方ないと思いますがね。ある程度の水準を保って、大量に供給する方が、高級品を少数の人間にだけ供給するよりも、ある意味では価値があるんじゃないでしょうか」
銀行員らしい森山の意見に、織田女史が口を開きかけると、一郎が、
「キョーキューって何?」
と口を挾んだ。
「ご主人はいつお見えになるか分りまして?」
夕子が綾子夫人に訊いた。
「さあ、明後日ぐらいかと思いますけど。何しろ忙しいもので……」
夫の竹中氏は実業家で、世界中を飛び回っている。今もヨーロッパにいる、というだけで、ヨーロッパのどこにいるのか、夫人にも分らないのである。
私と夕子は先にテーブルを離れた。
「一杯やるか」
「いいわね。化粧室に寄ってくから、バーで待ってて」
レストランの奥のドアから、バーへ入ると、カウンターにかけて水割りを注文する。ほっと一息ついていると、
「宇野のだんなじゃありませんか」
懐しい声だ。振り向くと、五十がらみ、白髪の小柄な男が立っている。
「お忘れですかね?」
「とんでもない、声だけで分ったぜ」
「そりゃ嬉しいね。いや全く、お久しぶりですねえ」
「こんな所へ来てるのを見ると、仕事の方は巧く行ってるようだな」
「おかげさまで」
と、隣に腰をかけて、「それにしても、だんなの気持はありがたいですな。この前、あるホテルで昔のなじみのデカさんにお会いしましたらね、そのだんな、また俺が昔の商売に戻ったと思ったらしくて、ホテルに密告しましてね、俺はホテルから追ん出されましたぜ。でも、だんなは俺のことを疑いもしねえ。嬉しいですよ、本当に」
この男は名を辰見健吉といって、かつては通称「辰」と呼ばれた、天才的なスリであった。私がまだ駆け出しの刑事だった頃、この男を三カ月張り続けて、ついに現場を押えるのに成功したのがきっかけで、顔見知りになったのだが、辰の一種職人的な名人|気質《かたぎ》と、金持や悪党仲間からしか盗まない、という反骨に私は妙に魅かれるのを覚え、以来何年にもわたって、辰の更生に力を尽くした。辰はその指先の人並外れた器用さを生かして、金細工の職人として立派に成功したのである。
「お前の気持を疑うもんか」
と私は言った。「女房の葬式に花を贈ってくれた礼を、いつかは言おうと思っていたんだ」
「ご存知だったんで?」
「名札のない花を見てすぐにお前だと分ったよ」
「奥さんにはよくしていただきましたからねえ。——本当はお葬式に伺いたかったんですが、やはり俺みたいな|前科《マエ》のあるのが行って、却ってだんなに迷惑がかかっちゃ、と思いましてね」
「気を遣わせたな。——ところで、どうだい、奥さんも健治君も元気か?」
「ええ、ガキはもう俺より背が高いんですよ」
と辰は目を細めて、「おかげでお説教もやりにくい事。必ず坐ってやることにしてるんで」
「もうそんなになったか……」
「だんな、ここへは仕事で?」
「いやいや、休暇さ」
「そうですか」
辰は笑って、「いや、もしかして〈ゆすり屋〉を追っておいでかと思いましてね」
「ゆすり屋?」
「カウンターの一番奥に坐ってる男ですよ」
ちらりと横目で見やると、そこにはあのアロハ姿の男がいた。今は白い上衣を着ているが、サングラスはそのままだ。
「辰、あいつを知ってるのか?」
「へえ、ちょっとしたことでね。色沼って男ですが、悪い奴ですよ。ゆすり専門でしてね、素人をずいぶん泣かしてるんです。許せねえ、全く」
と腹立たしげにウイスキーをあおった。「で、だんな、お一人ですかい?」
「うん?——まあ——まあね」
「そうですか。……いや、こんなこと、余計な差出口かもしれねえが、だんなもまだお若いんだ。お考えになった方がいいですぜ。いや|家《うち》の奴とも、いつも話してるんですよ。|独身《ひとり》のままにしておくのは惜しいってね」
「気持は嬉しいがね。その——」
「いや悪いことは言いませんから、だんな」
「あら、お客様?」
夕子が私と辰を見ていた。辰はきょとんとして、突然出現したネッシーでも見る様な目つきで、派手なポロシャツにバミューダの夕子を眺めている。
「ああ、その——こちらは古い友人でね、辰見というんだ」
私は口ごもりながら、「それで、この|娘さん《ヽヽヽ》は、その……」
「初めまして」
夕子がにこやかに辰へ声をかけた。「私、宇野さんの恋人で永井夕子です」
「はあ……」
辰は茫然と、私と夕子を交互に眺めていたが、やがてぷっと吹き出すと、
「だんな! 人が悪いや! 隅におけねえってのはこのことだね。いや、早々に退散しますよ。じゃどうも」
辰の後姿を見送って、夕子、
「何か私、まずいこと言った?」
「いいや、別に……」
私は一つ咳払いをして、「何を飲む?」
2
「ゆすり屋ね」
夕子はジンフィズのタンブラーを手の中で揺らしながら肯いた。氷が涼しい音をたてる。
「竹中夫人はゆすられてるんだろうか?」
「でしょうね。昼間見た時から、そんなことじゃないかと思ってたわ」
「どうしてだい?」
「あの男——色沼っていったっけ?——あの男、サンデッキへ出て来ても、竹中さんの奥さんを一回も見ようとしなかったわ。もし色沼が奥さんをまるで知らなかったら、それとも知っていて思いがけず会ったのなら、あの人を見ないわけないもの」
「まあ美人だからな」
「でしょ? もっとも、私がいたから目立たなかったのかもしれないけど……」
「そうかね」
「何か異議がおあり?」
「いやいや、何も」
と慌てて首を振る。
「となると、色沼は竹中の奥さんを知っていて、故意に無視したとしか思えないわ。要するに自分の存在を知らせて、無言の脅しをかけたのね」
「しかしあの人は有名な実業家の奥様だよ。何を一体、ゆすられたりするんだろう?」
「誰にでも過去はあるわよ」
と夕子が、いささか芝居がかった深刻さで言った。
「——君にも?」
「大ありよ」
「へえ。どんな?」
「私ね」
と声をひそめて、「本当は宇宙人なの」
色沼という男がカウンターを離れて、私たちの後ろを抜けて出て行った。
「後をつけてみましょうよ」
「どうして?」
「今何時?」
私は腕時計を見た。
「ちょうど八時だよ」
「バーを出るのに、八時ぴったりっていうのは、ちょっと変じゃない? よほど見たいテレビでもあるのか……」
「どこかで誰かと会うとか……」
「そういうこと」
ぐい、とジンフィズをあける。
レストランへ戻ってみると、案の定、綾子夫人が席を立つところだった。三人の子供たちは織田女史の話に夢中で耳を傾けている。見ていると、綾子夫人は化粧室の方へ歩いて行って、途中から急ぎ足で出口へと姿を消した。
売店やクロークのあるロビーへ出ると、綾子夫人が海岸に降りる階段へと急ぐのが見えた。私たちも後を追ってロビーを横切り、階段を降りる。短い通路を抜けると、もうそこは砂浜である。——急に波のざわめきが体を包んで、潮の香が立ちこめる。
月夜だった。砂がほの白く光って、波頭に月が砕けている。何組ものアベックが、腕を組んだり、手をつないだり、肩を抱いたり、思い思いのスタイルで散歩を楽しんでいる。それでは、と、こちらも腕を組んでぶらぶら歩きながら、綾子夫人の姿を捜した。しかし月夜とはいえ浜辺は顔を見分けられるほどの明るさはなく、少し歩いてみて、結局捜索は諦めざるを得なかった。
「戻るか」
「そうね。ロビーで、上がって来るのを待ちましょうよ」
ロビーのソファに腰を下ろして待っていると、五分ほどして、色沼が階段を上がって来て、足早にエレベーターに乗って姿を消した。綾子夫人が上がって来たのは、さらに五分ほど後だったが、昼間と同じように顔を青白くこわばらせ、私たちにも全く気づかない様子でロビーを横切って行った。
「やはり会っていたんだな」
「そうね。……でも私たちに何かできるかしら?」
「ゆすりだってのが確かめられればなあ」
「そうね……」
夕子が眉をひそめて考え込んでいたが、やがて、ふっと思いついたように、「ね、あのさっきバーで会った何とかいう人」
「辰見かい?」
「ええ。あれはどういう人なの?」
「どうって……古い知り合いさ」
「ちょっと、ただ者じゃないように見えたけど」
私は苦笑して、
「君はきっと小さい頃から、おやつの隠し場所を見つける天才だったんだろうな」
私が辰のことを話すと、夕子は目を輝かせて、
「素敵! ね、私を弟子にしてくれないかしら?」
「金細工のかい?」
「馬鹿ね、もちろんスリのよ」
しばらく、名探偵にスリの技術は必要か否かという議論が続いたが、やがて結論は保留したまま、やっと話は本筋に戻った。
「あの人に力を貸してもらったら? そういう連中の扱いには慣れてるでしょうし」
「そうだなあ……。僕が言えばやってくれるだろうがね……。よし、明日にでも話してみるか」
「あのベビーギャング一味のためにもね」
夕子が微笑んで言った。「ところで、どう? そう決まった所で、もう一度砂浜を歩かない?」
赤頭巾ちゃんと狼の話をご存知ない方は、まずいないだろう。では、赤頭巾ちゃんが狼に食べられておしまい、というシャルル・ペローの寓話をご存知だろうか(猟師が巧い具合に現われて狼をやっつけるグリム童話やウォルト・ディズニー版は、ご都合主義の極みである)。ペローの寓話は、ベッドの中の狼には気をつけなさいよ、という極めて現実的な教訓話なのだ。
今頃になっていささか酔いが回って来たのか、私は浜辺で夕子を抱いて接吻した。夕子も黙ってされるままになっている。それで……。まあ、私たちは別々の部屋を取っていて、毎晩廊下で、「おやすみ」と手を振って別れていたのだが、どうも今夜は列車が別の支線をまっしぐらに進んでいる感じだった。
エレベーターで六階へ上がると、私は黙って自分の部屋の鍵を開け、夕子を中へ入れた。さっきの狼と赤頭巾ちゃんの話でいくと、どっちが狼で、どっちが赤頭巾ちゃんなのか……。そんなこと、どうだっていいや。
夕子は両腕を私の首にかけ、いたずらっぽく笑う目で、
「……男って狼」
と言った。
「僕は哀れな小羊さ」
「嘘ばっかり。あの温泉じゃ、そうでもなかったわよ」
「そうだったかな」
「ずるいんだから——」
柔らかい唇が私の唇をふさいだ。腕の中にしなやかな若々しい体が弾むように息づいている。
「ベッドまで運んで行ってよ」
夕子の囁きに、よしっとばかりにかかえ上げてはみたものの、とても外国映画のように、軽々とはいかない。やっこら、やっこらと足を運んで、|漸《ようや》くベッドに夕子を降ろした。
「頼りないのねえ」
「なに、準備運動をしてないからさ」
と少々息を切らしながら負け惜しみ。
さて——と、ここで映画ならばフェード・アウトとなるのだが、監督の無情な「カット!」の声よろしく、ドアのノックが私たちの間へ割り込んで来た。放っといてやれ、と思ったが、ノックの方も諦めてたまるか、といった調子で続く。
「——お客様のようよ」
「誰かな、思い当らないけど」
「他の女性と、デートの約束でもあったんじゃないの?」
と夕子がからかった。
私は渋々ドアを開けに行った。
「今晩は、おじちゃん」
ベビーギャングの下の二人、由美と治郎が立っている。
「よう、どうした?」
「ゲームして遊ぼうよ」
と治郎。
「ママがお出かけなの」
と由美。
「うん……。今ちょっとおじさん忙しいんだ」
「あっ、お姉ちゃんもいる!」
治郎が夕子を見つけて喜んで部屋へ飛び込んで来た。こうなっては諦める他はない。
「一郎君はどうしたの?」
と夕子が訊いた。
「ゲームセンターにいるよ」
「ママ、どこに出かけたんだい?」
「知らない」
私と夕子はちらっと見交わして肯いた。綾子夫人は、あの色沼という男と会っているのではなかろうか。
「じゃ行こうか!」
夕子が治郎の手を取って立ち上がった。
ゲームセンターは一階にある。レーザーライフルやらサッカーゲーム、ミニ・ボウリングだのの機械が並んだ、ちょっとしたフロアである。
ここで三人組に付合うこと一時間。使った小銭も少々の額では済まなかった。いい加減疲れて来たところへ、綾子夫人が三人を捜しにやって来た。私と夕子に何度も礼を言って三人を連れて行ったが、目は赤く充血して、涙の跡が頬に歴然としていた。
「またあの男に呼び出されたのかな?」
「たぶんね」
夕子が憂鬱な声で、「……会っただけじゃ済まなかったんじゃないのかしら」
「何だって? まさか——」
「奥さんの髪を束ねたリボン、さっきの夕食の時見たのと結び方が違ってたわ」
激しい怒りが胸に燃え立った。
「何とかしなきゃ」
私は言った。
夕子は黙って何か考え込んでいる様子だった。私たちは六階へ戻った。
「どうする?」
部屋の前で私は訊いた。
「今日は自分の部屋で寝るわ」
「分ったよ」
「おやすみなさい。ごめんね」
「いいさ。おやすみ」
夕子が自分の唇に当てた指先を私の額にひょいと触れて、自分の部屋へ入って行った。まるで学生同士だな。私は誰もいないのに何だか照れくさくなって、慌てて部屋へ入った。
3
翌日も、目がさめるような上天気だった。ハムエッグにトースト、オレンジジュースという朝食を一階のラウンジで済ませた後、夕子は水着に着替えに部屋へ上がって行き、私は一人で砂浜へ出た。数分前に、辰見が出て行くのを、ちらっと見かけたのだ。
九時を少し回ったばかりなのに、もう汗ばむような陽射しだった。まだ熱されていない砂が足を快い冷たさで包んだ。まだ浜辺に出ている客は少ない。まったく、観光客って奴は宵っぱりの朝寝坊なのだ。
波打ち際に、辰の姿を見つけた私は少々驚いた。辰を取り巻いて騒いでいるのは、例の三人組ではないか。
「やあ、だんな、おはようございます」
辰が私を見つけて声を上げた。スポーツシャツに普通のズボン——裸足で、ズボンをひざまでめくり上げている。何とも珍妙なスタイルに思わず吹き出しそうになる。
「おはよう」
と私は応じた。
「おじさん、おはよう」
一郎が言った。「このおじさんね、手品の名人なんだよ」
辰は笑って、
「なに、手品なんてもんじゃない。ほら、こんなもんで——」
辰が手を差し出すと、手のひらに小さな桜色の貝殻が載っていた。とたんに、辰の指が目にも止まらぬ速さで動き出すと、貝殻は目まぐるしく出没し、指の間をすり抜け、手の甲を走り、再び魔法の様に手のひらに戻った。スリ仲間で神業と言われた|指捌《ゆびさば》きだ。私も思わず息を呑んだ。
「鮮やかなもんだな」
私は言った。「ところで、ちょっと相談があるんだ」
「俺にですか? いいですとも。さ、みんな母さんとこへ戻んな」
三人組は波を足ではねながら、走り去って行った。辰はにやにや笑いを見せながら、
「ずいぶんと早起きですね、だんな」
「悪いか?」
「いえいえ。ただね、あんなイキのいい娘さん相手じゃ、朝にはあくびの一つも——」
「よせよ、そんなんじゃないんだ」
「そうですか。まあ、いいですよ」
「ところでな、辰、今の子供たちの母親、知ってるのか?」
辰が答えるまでに、ちょっと間があった。
「いいえ。なぜです?」
「昨日お前が話してくれた〈ゆすり屋〉のことで、少しばかり頼みがあるんだ」
「いささか真面目な話のようですね」
辰は真剣な表情になった。「伺いましょう」
私は辰と並んで砂地に腰を下ろし、事情を説明した。
「——こういうわけだ。どうだい。色沼って男にさり気なく声をかけてみちゃくれないだろうか?」
「いいですとも」
「むろん深入りしないようにしてくれよ」
「ご心配なく。|蛇《じや》の道はへび、でね。巧く聞き出してみせますよ」
と、早くも立ち上がる。
「フロントで部屋の番号を訊いて——」
と私が言いかけると、辰は手を振って、
「だんな、ああいう連中の居場所はこの鼻にすぐ匂って来るんでね、すぐ分りますよ」
辰は年齢にはとても思えぬ軽やかな足取りでホテルへ戻って行った。
ほとんど入れ替りに夕子がやって来た。ビキニの水着に、バスタオルを肩へかけているだけだ。
「どう? 辰さん、見つかって?」
「もう出かけてったよ」
「そう! じゃ、私たちは一泳ぎして待ってましょうよ。早く水着になってらっしゃいよ」
「朝っぱらから泳ぐのかい?」
「当り前でしょ。ご隠居さん」
タオルを私に投げると、夕子は引き締った体を二、三度前後左右に屈伸させて、海へ入って行った。朝の陽にきらきらと輝く海へ、夕子の体が滑るようにもぐり込む。その瞬間、陽焼けした肩と背中がしなやかに光って、はっとするようなエロティシズムを感じさせた。改めて思った。残念だったな、ゆうべは……。
十時半頃まで泳いでから、私たちは部屋へ戻ってシャワーを浴び、十一時に下のティールームで辰と落ち合った。
「さっそく会って来ましたよ」
と辰が事もなげに言った。
「もう?」
夕子が目を丸くした。
「裏稼業の人間には、それなりの連帯意識がありましてね。それに向こうも俺を憶えててね、話も早かったですよ」
「で、どんな具合だった?」
「ええ、それがね、俺は『あの女をゆすってるのは分ってるんだ。俺も一口乗せろよ』と持ちかけたんでさ。色沼の奴、かなり渋ってましたがね、結局承知させましたよ」
「さすがだな」
「おだてないで下さいよ。——あの野郎と来たら、『あの女はいい|金蔓《かねづる》だ。ずっとあいつに食らいついてりゃ、当分食いっぱぐれはねえ』なんて抜かしやがるんで。腹が立ったけど、そこは押えて口を合わしときましたがね。それで早速、今夜、女から支払いがあるっていうんで、一緒に行く事にしました」
「どこで?」
「海岸の隅の方の、岩の陰です。今夜十二時ちょうどに。——さて、だんな、どういう手を打ちます?」
私はしばらく考えてから、
「どうかな、辰、奴に少し脅しをかけてやろうか」
辰はニヤリとして、
「俺もそう思ってたんですよ。なに一皮むきゃあ、肝っ玉の小さい小悪党ですからね。サツのだんながちょっとにらみをきかせばブルっちまうと思いますよ」
「少なくともこのホテルからは退散するだろう。俺は俺で、休みが終ったら、奴を徹底的に洗ってみる。一つや二つはボロが出るだろう」
「いいですな。そうだ。今夜は俺もいるんですからね。俺はだんなを見て、ガタガタ震え上がって見せますよ、だんなが鬼刑事だって、タップリ奴に吹き込んでやりましょう」
「この|仏《ほとけ》のような顔で大丈夫かなあ」
「何言ってんの。私も忘れないでね」
と夕子が口を挾む。
「あの——お嬢さんもおいでになるんで?」
辰が目を丸くして夕子を見た。
「あら、もちろんよ。だってこの人、私がいないと全然|だめ《ヽヽ》なんですもの。でしょ?」
私は聞こえないふりをして水を飲んだ。
「でもそうすると」
夕子がラウンジの中を見回して、「色沼に、私たちと一緒の所見られちゃまずいんじゃない?」
「なに、大丈夫。奴はどこやら見物に出て来ると言ってましたよ」
「よし、それじゃ細かい手順を打ち合わせよう」
私は椅子に坐り直した。
十一時四十分。夜の海岸は、今夜もアベックのシルエットでにぎわっている。私と夕子は、辰の言った岩へ向って砂浜を斜めに横切って行った。
海へ張り出した岩と、砂浜から高台への急な斜面とがちょっとした窪みを作っていて、ホテルの方からはもちろん、波打ち際からも目に付かない場所だ。
「逢いびきにはもってこいね」
夕子が楽しそうに言った。
「やあ、だんな」
辰がすでに先に来て待っていた。
「色沼の奴はまだかい?」
「ええ。ああいう手合いは必ず遅れて来るんですよ」
「どうして?」
と夕子が訊いた。
「それはね、ゆすりの相手をいら立たせて、精神的に痛めつけるためですよ」
「いやらしいのね」
と眉を逆立てる。
「それに、サツの張込みを警戒するってこともあるんですがね。……じゃ、お二人はこの岩の上で様子を見てて下さい」
月夜とはいえ、背丈の倍ほどもある岩の上へよじ登るのはひと苦労だった。二人とも登り切ると、腹這いになって、下の様子を窺った。
「何時?」
「今、五十五分だ」
「竹中さんの奥さんは、もう来るんじゃないかしら」
「しっ! 誰か来る」
砂浜をこちらへ歩いて来る人影があった。綾子夫人にしては、少々小柄だな、と思って見ていると、月明りを受けて顔が見えた。
「なんだ、織田さんじゃない」
と夕子が呟く。月夜の散歩としゃれこんだのか、のんびりした足取りでやって来たのは、織田女史だった。
「あら、今晩は」
女史は辰見を見つけると、気軽に声をかけた。「いい月ですことね」
「はあ……」
辰はあいまいに言って、ちらっと私たちの方を見上げた。
「あなた辰見さんとおっしゃるんでしょ?」
「ええ」
「手品がとってもお上手だそうね。あの子たちが話してくれましたわ」
「いえ、とんでもない」
「ぜひ一度拝見したいわ。——あの、お散歩ですの?」
「いや、ちょっとその……人と約束がありましてね」
「まあ」
織田女史はパッと顔を輝かして、
「月の夜のロマンス、素敵ですこと」
「いや、そんなんじゃないんで」
と辰は慌てて言った。
「『月には誓わないで、日毎に形を変える不実な月。あんな風にあなたの愛が変ってしまったら大変だわ』」
「ロミオとジュリエットだわ」
夕子がそっと呟く。
「まだまだ、お若くて結構ね」
と、織田女史は辰の肩をポンと一つ叩いて行ってしまった。私は茫然と見送っている辰を見下ろしながら、
「織田さんにかかっちゃ、辰の奴も形なしだ」
「でも変ね」
夕子が私の腕時計を覗き込んで、「もう来てもいいのに」
十二時を過ぎ、十分、十五分たっても、綾子夫人は姿を現わさない。もっと妙なのは、恐喝者の色沼も現われないことだ。私たちは岩から砂浜へ降りた。
「変ですね」
辰が首を振る。「場所でも変えたんでしょうか?」
「奴の部屋へ行ってみよう」
私たちはホテルへ戻って、十階へ上がった。色沼が泊っているのは一〇一二号室。人気のない廊下を一番奥へつき当った右手がドアだった。ノックをしたが、反応はない。ノブを回してみると、鍵がかかっている。当然の事で、ドアはすべて、閉じると自動的にロックされるのである。
「開けましょうかね?」
辰が私の方を窺う。
「うむ。……仕方ないな」
と私は渋々肯いた。
「じゃお嬢さん、ヘアピンを一本貸していただけますか?」
夕子がヘアピンを頭から抜いて渡すと、辰は久々に腕を振える、とばかり、両手の指を何度も屈伸させて、ノブの前にかがみ込んだ。
こんなホテルの鍵など、辰の敵ではない。私が誰か来ないかと廊下を二、三度見回しているうちに、カチッと音をたてて鍵が外れた。
「見掛け倒しだなあ、こいつは」
辰は不満顔である。
部屋の中は、明りがついたままになっていた。このホテルでも一番高いクラスの部屋だけあって、広く、応接セットも備えてある。右手にはバスルームへのドア。正面はガラス戸で、小さなバルコニーへ出られるようになっている。バスを覗いてみたが、何事もない。すると、
「ねえ」
夕子の緊張した声がした。「ここにいるわよ」
夕子はガラス戸越しに表のバルコニーを見ていた。私と辰も夕子の肩越しに覗き込む。
色沼はガウン姿でバルコニーの椅子に坐っていた。だが何だか妙に縮こまった、不自然な姿勢をしている。
私はガラス戸を開けてバルコニーへ出ると、眠っているような色沼の体をそっと押してみた。それから手首をつかんで脈を探る。
「——どう?」
夕子が訊いた。
「もうこいつににらみをきかせる必要はなくなったよ」
私は言った。「それに、もう誰もこいつにゆすられる心配もなくなったね」
4
「警部殿はどうお考えでありますか?」
「いいかね」
私はため息をついて、「僕は休暇でここへ来ているだけだ。頼むから『警部殿』はやめてくれないか」
「はい、警部殿」
深草という地元の刑事は、初め、やたら横柄だったくせに、私が警視庁の警部だと知ると、今度は背中に物差しでも入れたようにしゃっちょこばってしまった。
間もなく夜明けだ。色沼の死体を見つけ、ホテルの支配人に警察へ連絡させてからの数時間は、正に戦場のような騒ぎだった。
警察を呼ぶ前に、まず決めておかねばならないことがあった。私たちが知っている事実をどこまで警察に教えてやるか。
私は警官として、当然捜査のためには全部の情報を提供すべきだと主張した。
「だめだめ」
夕子は断固反対した。
「どうしてだい?」
「竹中さんの奥さんのことなんか話してごらんなさいよ、何も訊かずに逮捕しちゃうわよ」
「推理小説に出て来る警察と違うんだぜ。そう単純じゃないよ」
「それにしたって、重要参考人として呼ばれるのは覚悟しなきゃならないでしょ。そうなれば奥さんがゆすられていたこと、その過去も明るみに出るわ。そうなれば奥さんにとってはすべて終りよ」
「そりゃそうかもしれないけど……」
「もし奥さんが犯人でなかったら? 何の利益もないのに奥さんの一生を破滅させることになるのよ」
「分ったよ。しかし、もし後で僕たちが事情を知っていて黙っていたと知れたら、正にクビものだぜ」
「責任は私が取るわよ」
頼もしいことをおっしゃる。しかし彼女はどこにも雇われてはいないのだから、クビになる恐れもないのである。
ともかくそう話が決まると、私は夕子と辰を部屋へ帰らせてから、フロントを電話で呼んだ。辰を帰らせたのは、前科のある人間が事件に関わっていると、すぐそこへ警察の疑惑が集中する場合が多いからだ。私が彼の潔白をいくら信じていても、地元の警察には通じないだろう。
こんな夜遅くに、色沼の部屋を訪ねて来た点については、色沼がバーに置き忘れたシガレットケースを渡しに来たのだということにした。時間が遅い説明には弱いと思ったが、ホテルというのは深夜でも結構人の出入りがあるから、特別疑われることもあるまい。ましてや警視庁の警部の証言とあれば、信じざるを得まい。それから、ドアは細く開いていたことにした。閉まればドアがロックされて外側からは鍵なしでは開かないのだから、開いていたことにする他はない。辰の手練の技ならば、鍵穴に目立つほどの傷は付けていないはずである。
通報して十五分ほどで警察と鑑識の一隊がやって来て、いつも私の見なれた手順で仕事を片付けて行った。
深草刑事は三十代半ばといったところであろう。小柄でころころした体つきの、血色のいい男であった。まだ眠そうな目をこすりながら、検証のつづく部屋の一隅で不愛想に私を訊問し始めた。訊問しながらも、途中一分おきくらいに大|欠伸《あくび》が入る。TVのスポットCMみたいだ。
しかしそれも私が「警視庁——」と名乗るまでのことだった。半信半疑の眼差しが私の差し出した身分証明書を穴のあくほど見つめたと思うと、深草刑事はいきなりぴょんと立ち上がり、
「失礼いたしました、警部殿!」
と最敬礼をやらかした。
次にはひざまずいて手に接吻されるのではないかと、気が気でなかった。
私が何ら秘密任務を帯びて来たわけではないと、この刑事に納得させるのは一苦労だった。警視庁の警部ともなれば、海へ遊びになど来ないものだと信じ込んでいるようだ。
「いやあ、それにしてもこれはまるで探偵小説ですなあ」
深草刑事は上機嫌になって、大声で言った。「休暇旅行中の警部が、たまたま殺人事件に出くわすなんぞ、全く探偵小説そのものじゃありませんか」
深草刑事が大口をあけて笑った。カバの欠伸を連想させる壮観さだ。