その日第一回のラジオ・ニュースで、このことが、東京は勿論、全国に伝えられた。.3
闇の中に、鼻をつく屍臭、氷の様に冷え切った死体。目がなれるに随って、ほのかに浮出して見える、恐ろしい死人の顔。
三谷はそれを物ともせず、いきなり、棺の中から老人の死骸を引ずり出すと、軽々と小脇に抱え、音もなく、物の怪の様に部屋を出て、廊下を台所横の物置部屋へとたどりついた。
死骸を物の蔭に隠すと、彼は例の床板をめくり、石のふたをとりのけ、蚊の様な声で、井戸の中へ呼びかけた。
「倭文子さん、僕です。これからまた別の隠れ場所へ変るのです。しっかりして下さい」
倭文子のかすかな返事を聞くと、彼は物置部屋にあった小梯子を持って来て、古井戸の中へおろした。
倭文子と茂少年は、三谷に励まされ、彼の手助けで、やっとその梯子を昇ることが出来た。
「茂ちゃん、だまって。少しでも声を出したら、こわい小父さんが母さまを捕まえに来るのですよ」
三谷は茂少年に泣き出されることを最も恐れた。だが、おびえ切った六歳の少年は、まるで泥棒猫の様に、身をすくめ、足音を忍ばせ、声を立てようともしなかった。
三谷は二人を洗面場に立寄らせ、それから、廊下を忍んで、棺のある広間へと連れて行った。
倭文子達は勿論、三谷もその頃は暗に目がなれて、電燈を消した室内の様子が、ハッキリ見える程になっていた。
「サア、この棺の中へ隠れるのです。大型の寝棺だから、少し窮屈だけれど、あなた方二人位は入れます」
三谷の異様な指図を聞くと、倭文子はびっくりして、思わず身を引いた。
「マア、こんな物の中へ?」
「イヤ、縁起などをいっている場合ではありません。サア、お入りなさい。この外に、無事に邸の外へ出る方法は絶対にないのです。葬式は明日のお午過ぎです。それまでの辛抱です。死んだ気になって、隠れていて下さい」
結局三谷のいうままになる外はなかった。倭文子が先に、その裾の方へ茂少年が、重なり合って、棺の中へ横になった。三谷はその上から元通りふたをした。
それから、彼は物置部屋に引返して、梯子を上げ、石のふたと床板を元通りに直し、斎藤老人の死骸の仕末をした。どんな風に仕末したかは、やがて間もなく分る時が来る。
さて、翌日出棺の時間まで、棺の中の二人の苦しみはいうまでもないことだが、三谷青年の気苦労も並大抵ではなかった。
彼は早朝から、棺の側を離れず、中でかすかな音でもすれば、それをまぎらす為に、咳払いをしたり、不必要な物音を立てたり、滑稽な程気をくばった。棺のふたに釘を打ちつけ、中をのぞかれぬ用心をしたことはいうまでもない。
三谷はこの殺人事件の原因となった人物だけれど、家内の者が、それとハッキリ知っていた訳でもなく、親戚知己は集まって来たが、日頃疎遠の人が多く、倭文子誘拐事件以来、畑柳家の相談役の様な立場にある三谷が、さしずめ葬儀委員長であった。
定刻が来ると、三谷は人々をせき立てて、出棺を急いだ。
人夫が棺をかつぐ時には、若し悟られはせぬかと、非常に心配したが、そんなこともなく、生きた親子の潜んだ大型寝棺は、無事門前の葬儀自動車へ運び込まれ、畑柳家菩提寺での葬式も型の如く終り、更に葬儀車は、近親の者の自動車を従えて火葬場へと向った。
人殺し、短刀、血のり、警察、裁判所、牢獄、絞首台、恋人、愛児、畑柳家、財産、唇のない男、…………というような観念が、あるいは恐怖の、あるいは愛着の、目まぐるしき絵となって、倭文子の頭の中を、グルグルグルグル駈け廻った。
その癖、とりとめたことは、何一つ考えられなかった。この先、我身がどうなることやら、まるで見当さえつかなかった。
彼女は無我夢中で、恋人三谷の指図に従った。可愛い、たよりない茂少年を抱きしめて、一刻も手離すまいとする心遣いだけで精一杯だった。
真暗な、よみじの様な、井戸の底の数時間、そこを出たかと思うと、我家の廊下を、まるで泥棒でもある様に、忍び忍んで、物もあろうに、たった今まで、我手で殺した斎藤老人の、死骸が横たわっていた棺の中へ、親子で身をひそめなければならないとは。
頑丈な棺ではあったけれど、三谷が釘うつ時に、外からは見えぬ様に、丸めた紙をくさびにして、細い隙間を作っておいてくれたので、空気の欠乏を気遣うことはなかったが、それにしても、狭い箱の中で、音も立てず、身動きも出来ず、出棺までの長い時間、じっとしていなければならぬとは、アア既に、彼女の罪を償う為に、地獄の責苦が始まったのではなかろうか。
おびえ切った茂少年は、倭文子の裾にちぢまって、地獄の鬼めに、母さまを渡すまいと、彼女の膝小僧を、しっかり抱きしめ、こっそりとも音を立てず、息を殺して、ブルブルふるえていたが、ふと気がつくと、そのふるえがパッタリ止って、呼吸も静かになっていた。おびえながら寝入ったのだ。幼い肉体は、昨日から一睡もせぬ心労にたえかねて、恐ろしい棺桶の寝床の中で、グッスリ寝入ってしまったのだ。
倭文子は、無邪気な子供を羨むと同時にいくらか気やすさを覚えた。
耳をすましても、何の物音もなく、目には幽かな光さえも見えぬ。身をひそめた棺が、いつの間にか地中に葬られ、上から覆いかぶさった、厚い土の層の為に、光も音も、全く途絶えてしまったのではないかと、怪しまれる程であった。
心が静まるにつれて、麻痺していた末梢の神経が働き始めた。そして、まず鼻をうつのは、ほのかな屍臭であった。
「アア、今の先まで、この中にあの老人の死骸が入っていたのだ。しかも、その老人は、この私が手にかけて、むごたらしく殺したのだ」
今更の様に、彼女はそれを、ハッキリと意識した。
今、彼女の頬にさわっている板の、同じ部分に、さっきまで、死人の頬が当っていたのかも知れない。彼女はそうして、間接に、彼女の殺した老人と、頬ずりしているのかも知れない。
と思うと、何ともいえぬ恐ろしさに、ゾーッと、襟元の毛穴が立った。
盲目の様な、真の暗闇の中で、死人の怨霊が、彼女の身体をしめつけている様な気がする。彼女は、
「キャーッ」
と叫んで、棺の蓋をはねのけ、いきなり逃げ出したい衝動にかられた。だが、叫ぼうものなら、逃げ出そうものなら、立所に身の破滅だ。彼女は歯を食いしばって、我慢しなければならなかった。
不気味な屍臭は、益々強く鼻にしみて、耐え難い程になった。神経という神経が、きゅう覚ばかりになってしまったような気がする。
と、突然、異様な記憶が、彼女の鼻によみがえって来た。
オヤ! この匂いは今が初めてではない。ついさっきまで、これと全く同じ匂いをかいでいた様な気がする。変だな。一体どこで、そんな匂いがしたのかしら。……アア、そうだ。井戸の中だ。さっきまで身をひそめていた古井戸の中だ。
井戸の中にいる間は、興奮のあまり、それを意識しなかったけれど、思い出して見ると、匂いばかりではない、あの厚い蒲団の下は、決して平な井戸の底ではなかった。何かしら弾力のある、しかし綿よりはずっとかたい、でこぼこしたものが、足の下に感じられた。
あれは一体何であったのか、今よみがえった屍臭の記憶とむすび合せて考えると、ギョッとしないではいられなかった。
「でも、まさかあの井戸の中に……錯覚だわ。私の神経がどうかしているのだわ」
倭文子は、強いても、その恐ろしい想像を打消そうとした。そんなことがあるべき道理はないと思った。
やがて、屍臭とばかり思っていたのが、突然ほのかなバラのかおりとなった。と思う間に、今度は、誰かしらのみだらな体臭がにおって来る。過敏になった彼女の鼻が、幻覚を起したのだ。
その体臭は誰のものであったか。ふと情慾をそそる様なその匂いは、まぎれもなく、我が三谷青年のものだ。
併し、アア、またしても、その匂いが、突然彼女の嗅覚の古い記憶を呼び起した。それは三谷の体臭であると同時に、どこかしらの、もう一人の男の体臭でもある様な気がした。
誰だったかしら。誰だったかしら。
「オオ、そうだ。あいつの匂いだ。マアあいつの匂いだわ」
倭文子は、この恐ろしい一致に、途方に暮れてしまった。
「あれから、長い間、私はどうして、そこへ気がつかなかったのでしょう」
何年も何年も胴忘れしていたことを、ポッカリ思い出した感じだ。棺の中の闇と静寂とが、彼女の心に、不思議な作用を及ぼしたのだ。
三谷と全く同じ体臭の、もう一人の男とは、一体誰のことか。
読者は、この物語りの初めに、倭文子が青山の怪屋にとじこめられたことを記憶されるであろう。そこの地下室で、唇のない男に襲われた時、彼女が相手の身体から、全く初めてではない、よく知っている誰かの体臭を感じた。という事実をも記憶せられるであろう。
倭文子は当人と度々会いながらも、他事にまぎれて、今の今までそのことを忘れ果てていたのだ。それを、今、異常に鋭くなった嗅覚が、ふと思い出したのだ。
あれは三谷の体臭であった。唇のない怪物は、三谷青年と全く同じ体臭を持っていたのだ。
「マア、なんて馬鹿馬鹿しい暗合でしょう。本当に本当に、私の鼻は、気が違ってしまったのだわ」
鼻ばかりではなく、頭までも狂ってしまったのではないかと、あまりのことに、倭文子は空恐ろしくなった。
だが、読者諸君、この二つの不思議な匂いの一致は、屍臭と井戸の中の匂い、三谷の体臭と唇のない男のそれとの二重の符合は、果して倭文子の錯覚に過ぎなかったであろうか。若しや、そこに、何かしら恐ろしい秘密が伏在するのではあるまいか。
取りとめもない妄想と、恐怖の内に夜が明けた。
細い隙間から、棺内に忍び込む薄明り。やがて、人の足音、話し声。
倭文子は、アアまだこの世にいたのかと、ハッと気を引しめた。身動きをしてはいけない。音を立ててはならぬ。息をするにも気を兼ね、我が心臓の鼓動にさえビクビクした。
それから出棺までの数時間が、彼女にとって、どれ程の地獄であったか。まるで長い長い一生の様にさえ感じられた。
だが、やっと、読経が済んで、出棺の時刻が来た。棺を運ぶ為に、人夫の足音が近づいて、ヨッコラショと、倭文子達の体ははげしく揺れた。
その拍子に、アアどうしよう。茂少年が目を覚ましたのだ。
茂に声を立てられたら、何もかもおしまいだと思うと、倭文子はゾッとした。
「茂ちゃん、母さまはここにいますよ。怖くはないのよ。怖くはないのよ」
口を利く訳には行かぬので、両手を伸ばして、下の方にいる我子の頬を軽く叩き、その心を伝えた。
丁度その時、棺がまた一つ大きくゆれたかと思うと、人夫のドラ声が、
「こいつあ、重い仏様だぞ」
と力むのが、聞こえて来た。
倭文子は、若しや死骸の身代りが、ばれはしないかと、ギョッとして、身をすくめたが、人夫達は深くも疑う様子はなく、棺はそのまま表へ担ぎ出された。
何が仕合せになるか、この人夫の声が、今にも泣き出そうとしていた茂少年を黙らせてしまった。彼は子供ながらも、その一言に、自分達の恐ろしい境遇を思い出したのか、死にもの狂いに、母の膝へしがみついて、身動きもしなかった。
暫く宙を漂って、やがて、ガタンと何かの上におろされた感じ、ジリジリと棺の底が揺れる音、葬儀車の中へ入れられたのだ。
ついで、エンジンの響。自動車の走る烈しい動揺。
倭文子は、ホッと安堵の溜息をついた。もう少し位物音を立てても大丈夫だ。葬儀車の中には、棺の外に人はいない。運転手席も、普通の車と違って、厚いガラスで隔てられている筈だ。
「茂ちゃん、苦しくはない? ね、いい子だから、もう少し我慢しているんですよ」
ソッとささやくと、少年は、母の腹の上を、無理に上の方へはい上って来た。暗くて見えはせぬけれど、せめて母の顔のそばにいたかったのだ。
やがて、狭い箱の中で、母と子が重なり合って、窮屈な頬ずりをしていた。そうする為には、お互の後頭部が、棺の板にゴツゴツ当って、ひどく痛かったけれど、痛い位は何でもなかった。
「坊や、堪忍してね。苦しいでしょ」
「母さま、泣いてるの? 怖いの?」
茂は我が頬に母の涙を感じて、心配そうに尋ねた。
「イイエ、泣いてやしません。もうなんともないのよ。今に三谷の小父さんが助けて下さるのよ」
「いつ?」
「もうじきよ」
間もなく車はお寺についたらしく、棺が運び出されまたしても、長たらしい読経が始まった。
倭文子はその間中、人々に感づかれはしないかと、気が気でなかったが、茂少年が、まるで大人の様に用心深くしているので、別段のこともなく、やがてまた、棺は葬儀車内に運ばれた。
「アア、何て待遠しいことだろう。でも、もうほんの少しの辛抱だわ」
倭文子は何よりも早く恋人の顔が見たかった。あの人の顔さえ見れば、さっきのような恐ろしい妄想も、忽ち消えてしまうのだと思った。
葬儀車はまたブルル、ブルル走り出した。
「母さま、まだなの?」
茂少年がたまり兼ねて、たずねた。
「もう少しよ、もう少しよ」
倭文子は我子に頬ずりしながら、答えた。
「どこいくの?」
茂は彼等の行先が、ひどく不安らしい様子である。
聞かれて見ると、母にもそれはハッキリ分らなかった。
多分どこかで車を止めて、三谷が棺を取出し、蓋を開いて助けてくれるものと、想像するばかりだ。
「若しも、アア、若しも、どうかして三谷の手筈が狂う様な事があったら、私達は、このまま火葬場へついてしまうのではあるまいか」
倭文子は、突然、心の底からわき上って来る、名状し難い恐怖にとらわれた。
生地獄
それから長い間、暗やみの動揺が続いて、やっと車が止った。
アア、とうとう、救われる時が来た。三谷さんは、どこにいるのであろう。呼んで見ようかしら、呼べば、あの人は、きっと懐しい声で答えてくれるに違いない。倭文子は、まさか本当に声を立てるようなことはしなかったけれど、激しい期待に、胸をワクワクさせながら、恋人の手で棺のふたが開かれるのを待ち構えていた。
やがて、ズルズルと棺の底板のきしむ音。いよいよいまわしい葬儀車から、おろされるのだ。棺を引出しているのは、三谷さんの雇った人夫達であろう。イヤ、ひょっとしたら、あの人もその中に混って、お手伝いをしているかも知れない。
棺は、車の外に一度おろされたが、すぐまたかつぎ上げられ、しばらくゴトゴトゆれていたかと思うと、ジャリジャリと底のすれる音、カランというほがらかな金属性の響、棺は何か金で出来た道具の上におろされた感じである。
「オヤ、変だな」
と思う間もあらず、ガチャンと、びっくりするような、金属と金属とぶつかる音。同時にあたりの騒音が、パッタリきこえなくなってしまった。まるで墓場の底のような、ヒシヒシと身に迫る静けさだ。
「どうしたの? ここ、どこなの?」
汗ばむ程もしっかりと、母の頸にしがみついていた茂少年が、おびえて尋ねた。
「シッ」
倭文子は、用心深く茂の声を制しておいて、なおしばらく耳をすました。
ひょっとしたら、三谷の手筈が狂ったのではあるまいか。とすると、ここは一体全体どこであろう。若しや、若しや……
葬儀車の行きつく先は、いわずと知れた火葬場だ。
アア、分った、この棺は火葬場の炉の中へとじこめられてしまったのだ。さっきのガチャンという金の音は、炉の入口の鉄の扉がしまった音に違いない。そうだ。もう少しも疑う処はない。私達は今、恐ろしい炉の中にいるのだ。
彼女は、かつて近親の葬儀を送って火葬場へ行った記憶を呼び起した。陰鬱なコンクリートの壁に、黒い鉄のとびらがズラリと並んでいた。
「ここが地獄行きの停車場だね」
誰かがコッソリそんな冗談をいっていたのを覚ている。恐ろしい鉄のとびらの並んだ有様は、如何にも「地獄の停車場」みたいな感じであった。
棺をおさめると、隠亡が鉄のとびらをしめて、外から鍵をかけた。その時のガチャンという、物すごい音が、考えて見ると、さっきの金属性の音と、全く同じであった。
それから、どうなるのか、くわしくは知らぬけれど、夜になるのを待って、石炭が焚かれ、朝までには、すっかり灰になってしまうとのことであった。
近頃では、その外に、便利な重油焼却装置が出来ている。それは、炉の中へ棺を入れるが否や、四方から火が吹き出して、会葬者が待っている間に、見る見る灰になってしまうという話しだ。だが、今まで何の変ったことも起らぬ所を見ると、これは石炭の炉に相違ない。ひっそりと、静まり返っている様子では、会葬者は皆帰ってしまったのであろう。
隠亡も、夜更けになって、石炭に火をつけるまで、用事もないので、どこかへ立去ったものに相違ない。
アア、こうしてはいられぬ。たとい夜更けまでは、安全であるとしても、炉の中にいると分ったからには、どうしてじっとしていられよう。
生きながら、焼かれる恐ろしさは、思っただけでも身の毛がよだつ。しかも、いとしい我子までも、何の罪もない茂までも、同じ憂き目に会わねばならぬのだ。
ほとんど三十分程も、とつおいつ、あわただしい思案を繰返していたが、外からは何の物音も、気配さえも聞こえては来ぬ。
戸外なれば、ひそかに光りのもれて来る、棺のふたの隙間も、今は一様に真暗で、すぐ目の前の茂の顔さえ、少しも見えぬ程だ。
いよいよそれときまった。このままじっとしていれば、親子もろ共、焼殺されてしまうばかりだ。もう便々と三谷の助けを待っている場合でない。彼は何か、よくよくの邪魔がは入って、ここへ来られなくなったのであろう。
「サ、茂ちゃん、構わないから、手足をバタバタやって、ありったけの声で呶鳴るのです。助けて下さいって」
「母さま、いいの?」
少年は継子の様におじけた声で聞き返した。きっと狐みたいな目をしていたことであろう。
「もう、お巡りさん、来ないの?」
アア、何ということだ。倭文子は、焼死の恐れに、現在の我身の境遇を胴忘れしてしまっていた。それを、六歳の幼児に教えられたのだ。
「いけません。いけません。声を出してはいけません」
世の中に、これ程つらい、苦しい立場がまたとあろうか。じっとしていれば、棺桶と共に焼殺されてしまうのだ。生きながらの焦熱地獄の大苦悶を味わわねばならぬのだ。いとし子を抱た女の身で、これが堪え得ることであろうか。
といって、この思いもよらぬ災厄を逃れようと、呶鳴り立てて救いを求めたなら、忽ち警察の手に引渡されるは知れたこと。それでなくても下手人とにらまれているのに、この様な大それた逃亡を試みたとあっては、それが何よりも有力な自白となり、もうもうお仕置きはのがれられることでない。
アア恐ろしい。牢獄だ。絞首台だ。そして可愛い茂とも離れ離れ。この子は、みじめなみなし児だ。イヤ、そればかりではない。棺桶の秘密がバレたら、三谷さんも、重罪犯人を逃がしたかどで、重い刑罰を受けるは知れている。
「どうしよう。どうしよう」
じっとしていても、逃げ出しても、火あぶりでなければ絞首台だ。右しても左しても、行手には、ただ真暗な死があるばかりだ。
「茂ちゃん。お前、死ぬのは怖いかえ」
冷い頬と頬とを、ギュッと押しつけて、囁き声で、やさしく尋ねて見た。
「死ぬって、どうするの?」
その癖、大凡は知っていると見え、少年は、おびえた様に、小さい両手で、母の頸にしがみついて来た。
「母さまと一緒に、雲の上の美しい国へ行くのよ。しっかり抱き合って、離れないでね」
「ウン、僕いいよ。母さまと一緒なら死ぬよ」
湧き上る熱い涙が、くっ着きあった二人の頬の間を、にじむ様に拡がって行った。倭文子の喉が、奇妙な音を立てた。歯を食いしばっても、その歯を割って、こみ上げて来る嗚咽である。
「ではね、お手々を合わせて、心の中で神様にお祈りするのよ。どうか坊やを天国へお連れ下さいましってね」
アア、何という、ふさわしいお祈りであろう。場所は、棺桶の中なのだ。その棺桶も、ちゃんと火葬の炉の中に納まっているのだ。古往今来、この様な場所で、神様にお祈りを捧げた人が、一人でもあったであろうか。
そして、無情の時は、容赦もなくたって行った。一時間、二時間、だが、まだやっと日が暮た時分だ。石炭が焚かれるのは、夜更けてからというではないか。
「母さま、僕、死ぬ前に、ほしいものがあるの」
ふと、茂少年が、妙なことをいい出した。
それを聞くと倭文子はギョッとした。
母を困らせまいと、どんなにか我慢に我慢をして来たことであろう。考えて見ると、二日にわたる絶食である。大人の倭文子さえ、痛みを感じる程も空腹なのだ。子供が、とうとう耐え難くなって、それをいい出したのは、決して無理ではない。
「ほしいといっても、ここにはなんにもありはしないわ。いい子ですわね。今に、今に、天国へ行けば、どんなおいしいお菓子だって、果物だって、どっさりありますわ。もう少しの我慢よ」
「そんなものじゃないの」
茂は怒った様な調子である。
「でもお腹が減ったのでしょう。喉が渇いたのでしょう」
「ウン、あのね、母さまのお乳のみたいの」
茂ははずかし相に、やっとそれをいった。
「マア、お乳なの。……母さま、笑いはしないことよ。いいとも。さあお上り。少しはひもじさを忘れるかも知れないわね」
狭い真っ暗な棺の中で、頭や肩をゴツゴツぶっつけながら、茂はやっと母の乳房にすがった。
彼はまだ、乳の飲み方を忘れてはいなかった。乳頸を柔かい舌で巻つけて、チュウチュウと、出もせぬ乳を、おいしそうに吸い始めた。そして、一方の手では、あいている方の乳房を、クネクネとひねくり廻しながら。
倭文子は、久しく忘れていた、両の乳房の物なつかしい感触に、ふと夢見心地になって、現在の恐ろしい境遇も打忘れ、我子の背中を撫でさすりながら、低い悲しい声で、昔々の子守歌を歌い出した。
しばらくの間、恐ろしい火葬の炉のことも、窮屈な棺桶のことも、迫って来る「死」のことも、みんなどこかへ消え去って、母も子も、春の様になごやかな、夢見心地にひたっていた。
しかし、そんなことが長く続く筈はない。やがて、二人ともまた恐ろしい現実に引戻され、前に倍する苦痛と恐怖にさいなまれなければならなかった。
棺の中まで感じられる、冷々とした夜気、もう夜も更けたことであろう。それにしても、三谷さんは、一体全体、どこにどうしていらっしゃるのだろう。こんなことになろうとは、あの人とても、思いもよらぬ所であろう。定めし今頃は、イライラしながら、私達のことを案じていらっしゃるに相違ない。
それとも、もしや、あの人は今、私達を助けるために、この火葬場へ自動車を飛ばしているのではあるまいか。と思うと、どこか遠くの遠くの方から、エンジンの響が聞こえて来る様な気もするのだ。
「坊や、ホラ聞いてごらんなさい。自動車の音が聞こえるでしょう。あの自動車にね、三谷さんが乗っていらっしゃるのよ」
倭文子は幻聴を信じて、気違いめいたことを口走り、なおも耳をすました。
聞こえる、聞こえる。だが、エンジンの音ではない。もっと近くの、倭文子達の真下から聞こえて来る、一種異様の物音だ。
ザラザラと何かの落る音。カランと金属の触れ合う響。そして、かすかに人の歌う声。
卑俗な流行歌を歌う、男のドラ声だ。
アア、分った。隠亡が鼻唄を歌いながら、下の焚き口へ、ショベルで石炭を投げ入れているのだ。
いよいよ最後の時が来た。
耳をすますと、気のせいか、ボーと燃え上る炎の音まで聞こえて来る。
「母さま、どうしたの? アレなに?」
茂が乳房を離して、おずおずとたずねた。勿論ささやき声だから棺と鉄扉と二重の外まで、聞こえる筈はない。
「茂ちゃん、いよいよ天国へ行けるのよ。今、神様がお迎えにいらっしゃるのよ」
とはいうものの、倭文子の心臓は、恐怖のために破れ相だ。
「神様、どこにいるの?」
「ホラ、聞こえるでしょう。ボーッという音、アレ神様のはねの音なのよ」
彼女はもう気が違い相だ。
茂はじっと聞耳を立てていたが、彼にも火の燃えるかすかな音が聞こえたのか、俄に母にしがみついて、乳房に顔を埋めた。
「母さま、怖い! 逃げようよ」
「イイエ、ちっとも怖くはないのよ。ちょっとの間よ。ほんの少し苦しいのを我慢すれば、私達は天国へ行かれるのよ。ネ、いい子だから」
火焔の音は、刻一刻強くなるばかりであった。それにつれて、棺内の温度が徐々に昇り始めた。板に燃え移るのも、間もあるまい。
「母さま、熱い」
「エエ、でも、もっともっと熱くならなければ、天国へは行けないのよ」
倭文子は、歯を食いしばって、我子をしっかり抱きしめていた。
たえ難い熱さだ。
もう棺の底に火が移ったのであろう。ピチピチと板のはぜる音と共に、ふたの隙間から、真っ赤な光が、地獄の稲妻の様に、チラ、チラと棺の中を照らし始めた。
「火事! 母さま、火事! 早く、早く」
茂少年は、出来ぬまでも、棺の蓋を突き破って、逃げ出そうと、もがき廻り、はね廻った。
棺内の空気は乾燥し切て、ほとんど呼吸も困難になって来た。それよりも恐ろしいのは、底の板の焼る熱度だ。観念をした倭文子でさえ、もう我慢がし切れなくなった。
「アア、分った。やっぱりそうなのだ」
最後の瞬間、火焔のようにハッキリと、倭文子の頭にひらめいたものがあった。
三谷さんは、私達を棺に入れる時から、それが火葬場の炉の中で焼捨てられることを、チャンと知っていたのではあるまいか。
三谷青年が即ち唇のない怪物ではなかったか。あの体臭の一致を何と解釈すればよいのだ。
何もかも、最初から、深くも企んだ悪事だ。ひょっとしたら、斎藤老人の変死事件も、悪魔が巧なトリックで、さも私が下手人と思い込むように、仕向けたのではあるまいか。アア、恐ろしいことだ。
倭文子はかつ然として、何事かを悟った様に思った。
「それなれば、それなれば、私は今おめおめと死ぬべき時ではない。どうともして、この窮地を逃れ濡衣をほさなければならぬ」
彼女は俄に、茂と一緒になって棺のふたを破ろうと、死にもの狂いにもがき始めた。
「茂ちゃん。サア、もう構わないから、呶鳴るんです。外の小父さんに聞えるように、わめき立てるのです」
そして、母と子は、ワーッと、泣くとも叫ぶともつかぬ、恐ろしいうなり声を立てて、滅多無性に棺の板を蹴りたたき始めた。
だが、何をいうにも、厚い板と鉄の扉で、二重に隔てられている上に、ごうごうと燃えさかる火焔の音にさまたげられ、充分には外へひびかぬ。のみならず、隠亡にして見れば、まさか棺の中に、生きた人間が入っていようとは、思いもよらぬので、たとい少々声が聞えても、それと気づく筈がない。
アア、そういう内にも、火は既に棺の底を焼抜いて、真赤な焔がチョロチョロと倭文子の着物の裾をなめ、むせ返る煙に、母も子も早や叫ぶ力さえなくなってしまった。
生地獄、本当に生地獄だ。
誰がした訳でもない。倭文子が殺人罪を犯した。それを恋人の三谷青年が、機智を働かせて、棺桶という絶好の隠れ簑で、邸から逃がしてやった。一つ間違えば、この様な焦熱地獄が待構えていようとは、当の倭文子は勿論、三谷さえもつい気づかないでいたのだろう。
斎藤老人を殺したといっても、倭文子自身では、まるで知らない間に起ったことだ。過失とでも何とでも、弁解の道はあろうものを、ただ裁判所恐ろしさ、牢獄恐ろしさ、逃げ隠れをしたばっかりに、絞首台よりもっとむごたらしい、焦熱地獄へ落込んでしまった。運命というものの恐ろしさだ。
だが、三谷も三谷である。折角苦心を重ねて逃がしておきながら、今になっても何の音沙汰がないとは、一体どうしたというのだろう。
若しや、倭文子の恐ろしい疑いが当って、三谷こそ、世にも憎むべき悪魔ではなかったか。彼は先の先まで考えて、彼女に、この焦熱地獄の苦しみを与える為に、棺桶のトリックを案じ出したのではなかろうか。
それなれば、倭文子にどの様な恨みがあるのかは知らぬけれど、彼の企ては、充分すぎる程成功したといわねばならぬ。世の中にこれ程残酷な責め苦が、またとあろうとは思われぬからだ。
それはとも角、倭文子の苦しみは、最早ここに書き記すのも恐ろしい程であった。
火焔は母の着物の裾に、子の洋服のズボンに、チリチリと燃え移り、避けるにも、身動きもならぬ箱の中、その上ふたを押し上げようと、力をこめれば、焼こげてもろくなった底の方が、メリメリとくずれ相で、もう棺を破ることも出来ぬ。ただ声を限りに泣き叫ぶばかりだ。
だが、その泣き叫ぶことさえも、今は不能になった。立ちこめる毒煙は、目、口、鼻を覆むせ返り咳き入って、叫ぶはおろか、息も絶え絶えの苦しみである。
無慙にも、幼い茂少年は、もう母親の見境がつかず、まるで彼女を恨み重なる仇敵でもあるかの様に、倭文子の胸に武者振りつき、柔かい肌に、けものの様な爪を立てて、かきむしり、かきむしるのであった。
そして、アア、何というむごたらしいことだ。我子の苦悶を見るにたえ兼ねた母親は、自分も死に相にうめき入りながら、無我夢中で茂の頸に両手をかけ、絞め殺そうとしたのである。
丁度その時、どこかで、ガチャンという音がしたかと思うと、棺が地震の様に揺れて、メリメリと板の割れる音がした。
いよいよ最後だ。生身の身体が、燃えさかる火の中へ落ち込んでチリチリ溶けてしまうのだ。オオ神様!……
ふと目を見開くと、だが、不思議なことに、彼女はまだ死んではいなかった。そればかりか、いつしかあの恐ろしい熱さも煙もなくなって、ポカリと開いた棺の上から、じっと彼女を見おろしている顔は、何と、三谷青年ではないか。
これが断末魔の幻覚ではないかと思うと、ゾッとした。
「倭文子さん、しっかりして下さい。僕です。こんなひどい目にあわせてしまって、実に申訳がありません」
聞きなれた三谷の声だ。懐しい恋人の顔だ。アア、幻覚ではない。救われたのだ。とうとう救われたのだ。
「警察の見張りがきびしくて、今の今まで、抜け出して来る機会がなかったのです。僕はどんなに、イライラしたでしょう。でも、やっと間に合って仕合わせでした」
「マア、三谷さん!」
倭文子は、ただ胸にせまって、泣くより外はなかった。
墓あばき
それから、どんなことがあったか。
倭文子と茂少年は三谷につれられて、ソッと火葬場を抜け出しどこかへ立去った。
隠亡には、三谷から充分の謝礼をして口止めした上、倭文子達の代りに、衛生標本屋から買って来た、一体の人骨を棺に入れ、骨上げの時疑われぬ用意をしておいた。
倭文子は一たんあの様に三谷を疑ったものの、こうして救い出されて見れば、根もない疑いにすぎなかったことが判明した。正直にそのことを打ちあけて、本当に済みませんでしたと、詫言をした程だ。
彼等が火葬場から、立去った先が、畑柳家でなかったことはいうまでもない。では一体どこに隠れ家を求めたのか。そして、そこでどの様な事件が起ったか。
倭文子達が求めた隠れ家というのは、全く想像もつかぬ様な、奇怪千万な場所であった。また、そこで起った事件というのは、実に身の毛もよだつ、文字通り前代未聞の恐ろしい出来事であった。だが、これをお話しする前に、事の順序として、しばらく、我が明智小五郎の、これまた甚だ異様なる行動について、紙面を費さねばならぬ。
斎藤老人の葬儀があった日には明智は病床から起き上って、もう忙しく活動していた。その都度様々の人物に変装して、度々外出した。
葬儀の翌々日、恒川警部が明智のアパートを訪問した。
「もう起きているんですか、大丈夫ですか」
恒川氏は、明智の元気に驚いて心配そうに尋ねた。
「イヤ、寝てなんかいられませんよ。事件はますます面白くなって来るじゃありませんか」
明智は警部に椅子を勧めながら例のニコニコ顔でいった。
「事件というと?」
「無論畑柳事件ですよ。唇のない悪魔の一件です」
「エエ、それじゃ、何か犯人の行方について手懸りでもあったのですか。僕等の方では、斎藤老人殺しの下手人の畑柳夫人捜索に全力を尽しているのです。歯型の一件といい、あの夫人を探し出してたたいたら、唇のない奴の方も種が割れ相な気がしますからね。しかし、女の身で、しかも子供づれで、よくもこんなにうまく逃げられたものです。いまだに何の手懸かりもありません」
恒川氏は正直な所を打ちあけた。
「イヤ、僕だって、確なことはまだ分っていないのです。併し手懸かりはあり余る程あります。それを一つ一つたぐって行くだけでも、大変な仕事です。寝てなんかいられませんよ」
それを聞くと警部は、ちょっといやな顔をした。警察の方ではそんなにあり余る程手懸りはないのだ。でもまさか、職掌柄、頭を下げて明智の発見した手懸かりを、教えてくれともいえぬ。
「たとえばですね」
明智は相手の顔色を見て取って水を向けた。
「例の代々木のアトリエにあった三人の女の死体ですね。あれの身元は分りましたか」
「アア、それなれば、僕の方でも手を尽して調べているのですが、不思議なことに今以てあれに相当する様な、家出娘を発見しないのです」
「あの三人の娘は、みなひどく腐らんして、顔も何も分らなくなっていましたね」
明智はふとそんなことをいって相手の顔をジロジロ眺めた。恒川氏は、
「そうでした」
と答えたものの、明智の意味を悟りかねて困惑の体だ。
「ところで、恒川さん。幸いあなたが御出でになったから、一つ見て頂き度いものがあるのですよ」
明智の話しはまたもや飛躍した。
「なんです、拝見しましょう」