その日第一回のラジオ・ニュースで、このことが、東京は勿論、全国に伝えられた。.5
廊下の尽きる所に、細い裏階段がある。小悪魔は、この階段の穴へ、すべり込むように消えて行く。
階段を降りて、狭い廊下を、裏口の方へ、少し行くと、物置部屋がある。一寸法師は、その引戸をソッと開いて、物置の中へ忍び込んで行った。
明智を先頭に、三人も続いて、その小部屋にはいり、入口の横手の壁にそって、たたずんだ。
引戸はわざとあけたままにしておいたので、そこから僅に夕方の薄い光がさし込むけれど、物置の中は、人の姿を見分けるのが、やっとである。
アア、この物置。読者は記憶せられるであろう。数日以前、倭文子と茂少年が身を潜めた古井戸は、この物置部屋の床下にあるのだ。その古井戸を知っていて、あの時倭文子達をここにかくまった三谷青年は、今どんな気持でいるのだろう。
この恐ろしい素人探偵は、あの古井戸を知っているのだ。それでは、彼はもう、倭文子達の行方さえも、とっくに感づいているのではあるまいか。三谷が、さい前から、不安に耐えぬものの如く、モジモジし始めたのは、誠に無理もないことだ。
やっぱりそうだ。小怪物は、わら人形を傍らにおいて、例の床板をめくり始めた。苦心をして、一間四方程の穴を造ると、今度は床下に降りて、古俵をかきのけ、古井戸のふたの敷石を、ウントコウントコ引ずり始めた。
彼は、井戸の中へはいる積りであろうか。それとも、この井戸に、もっと別の用事があるのかしら。
一寸法師は、やっとのことで、五枚の重い敷石をとりのけた。敷石の下には、井戸の口に、太い丸太が二本横たえてある。彼はそれをも、とり除いた。怪物が敷石を動かし始めた頃から、むせ返る様な、一種異様の臭気が、部屋中にただよい出した。胸がムカムカする、甘酸ぱい様な腐敗の匂いだ。
恒川氏は、すぐ様、それが何の匂いであるかを悟って、非常な驚きにうたれた。
「アア、何ということだ。若しかすると、俺は大失策を演じたのではあるまいか。こんな所に古井戸のあることを気づかず、その中に何があるかも、まるで知らなかったというのは、鬼刑事の名に対しても、取り返しのつかぬ大失態ではないかしら」
と思うと、もうじっとしてはいられぬ。彼は明智の腕をつかんで呶鳴り出した。
「君、あの穴の中に、一体何があるのです。この匂いは何です。君はそれを知っているのでしょう。サア、いってくれ給え、あれは一体何です」
「シッ…………」
明智は落ちつき払って、唇に指を当た。
「お芝居の順序を乱してはいけません。もうすこし我慢して下さい。三十分以内には、すべての秘密が、すっかり暴露するのです」
警部はなおも、井戸の中を調べることを主張しようとしたけれど、丁度その時、例の黒怪物が、妙な仕草をしたために、それにとりまぎれて、つい口をつぐんでしまった。
敷石をすっかり取りのけた一寸法師は、床の上においてあった、わら人形を引ずりおろすと、いきなり、それを井戸の中へ投げ込んでしまった。
それから、二本の丸太を元通り横たえて、上に古俵をしき並べた。
「本当は、あの石も元通りにしなければならないのですが、時間を省く為に、石だけは略したのです」
明智が小声で説明する。
小怪物は、上にあがって、床板をはめると、手落ちはないかと、あたりを見廻した上、また少しも音を立てぬ歩き方で、二階の書斎へと引返す。見物達が、そのあとを追ったのは、いうまでもない。
書斎に帰った怪物は、見物達が、部屋に入るのを待って、ドアにかぎをかけると、その辺を入念に見廻してから、また仏像を足場に、細引を伝わって、クモの様に、スルスルと天井裏へ舞い上って行った。そして彼の消えたあとへ、格天井の板が、元通り、ピッタリとはめ込まれた。
「これが第一幕の終りです」
いいながら、明智は壁のスイッチを押した。パッと部屋が明るくなる。第一幕の終り? でまだ第二幕があるのかしら。
「こうして、小川正一の死体が紛失したのです。あの黒い奴が、これだけの仕事を終ったあとへ、恒川さん、あなた方警察の一行が、ここへ来られたという順序です」
「すると、小川をたおした短剣は?」
恒川氏が待ち兼ねて、質問した。
「短剣はさっきの一寸法師が天井から投げつけたのです」
「それは分ってます。しかし、その短剣がどうして消えてなくなったのです」
「天井へ逆戻りをしたからですよ。つまりあの重い短剣には、丈夫な絹の紐がついていたのです。……
奴さん、考えたではありませんか。現場に兇器を残さぬ為に、天井から、これを投げつけて、相手を殺したあとで、この紐で、短剣をたぐり上げる仕掛けなんです。密閉された部屋の中の、犯人も兇器もない殺人というと、如何にも奇怪千万に聞えますが、種を割って見れば存外あっけないものですよ」
成程、成程、死体紛失の一件はこれで明瞭になった。しかし、まだ分らぬことが山程ある。
「で、下手人は? あのちっぼけな黒い奴は、一体全体何者です」
警部が第二問をはなった。
「あの黒覆面が演じているのは、誰しも考え及ばなかった、実に驚くべき人物です。僕もつい二三日前に、それを発見したのですが、余り意外な人物なので、ちょっと本当に思えなかった程です」
「で、つまり」恒川氏はもどかしげに、
「あいつが、今度の事件の真犯人だとおっしゃるのですね」
「真犯人、……そうです。ある意味では」
明智は言葉を濁して、
「あいつが、何者であるかをお話しする前に、まだお見せするものがあります。これから、今晩のお芝居の第二幕目が始まるのです」
と、またもや口上めかしていう。
「第二幕目ですって。じゃ、今の続きが、まだあるのですか」
「エエ、そして、今度の実演こそ、あなた方にお見せしたい、ごく肝要な場面なのです」
「ホホウ、それは」
警部は、素人探偵の思わせぶりに、少からずへき易したが、事の真相を知りたさに、しばらく明智のお芝居気を、許しておく外はなかった。
「で、今度は、今の出来事、即ち小川正一死体紛失事件があってから、二三日の内に起った出来事をお目にかける訳です。実に奇怪千万な殺人事件です。しかし、これは全く蔭の出来事で、警察でも、畑柳家の人達さえも、まるで知らなかった犯罪です」
「斎藤老人の事件とは別にですか」
警部がびっくりして叫んだ。
「別にです。小川の事件と、斎藤の事件の間に、誰も知らないもう一つの殺人罪が、しかもこの部屋で行われたのです」
この前口上は、確に大成功であった。見物達は、少からず興奮して、第二幕目の開演を、今やおそしと待受けた。
「では、またしばらくの間、電燈を消します。その前に、お断りしておきますが、今この部屋で、まことに異様な殺人罪が、如実に演じられますが、それは勿論お芝居に過ぎません。どんな恐ろしいことが起っても、決して口出しや手出しをなさらぬようにお願いします。では、……」
前口上が終ると、パチンと電燈が消えて真っ暗になった。窓の外には、もう暮れ切って、美しい星がまたたいている。
こんなに暗くっては、お芝居が見えやしないと、いぶかる内に、ポッカリと向うの壁に、大きな円光が現われて、不気味な仏像達が、幻燈の絵の様に浮き上った。
明智が、いつの間にか、懐中電燈を用意していて、その丸い光を、正面の壁に投げていたのだ。
円光は、徐々に、仏像群を通り過ぎて、壁のはずれ、入口のドアの前にとまった。
見ると、その光の中で、ドアの引手がソロリソロリと廻っている。何者かが、外からドアを開こうとしているのだ。
引手の廻転が止まると、ドアそのものが、一分ずつ、一分ずつ、極度に用心深く、開き始めた。
黒い一寸法師は、まだ天井裏にいる筈だ。彼ではない。とすると、今、恐ろしい程の用心深さで、ドアを開いている奴は、そもそも何者であろう。
鬼といわれた恒川警部でさえ、湧き起る好奇心と、何ともいえぬ恐怖の為に、呼吸がはずんで来る程であった。
一寸、二寸、一尺、二尺、遂にドアは全く開かれた。外の奴は合鍵を所持していたのだ。
懐中電燈を持つ、明智の動悸を拡大して、壁の円光は、ブルブルとリズミカルに揺れている。
その揺れる光の中へ、外の廊下から、スーッと入って来た、異様の人物。
それを見ると、二人の見物は、予め明智の注意があったにも拘わらず、思わず「アッ」と小さな叫び声を立てないではいられなかった。
その人物は、黒いソフト帽、黒マント、大型の色眼鏡に、マスクをつけた、例の唇のない怪賊と、そっくりそのままの扮装であったからだ。
怪人物は、円光の中を、ジリジリと進んで行く。進むにつれて、明智の懐中電燈も、丁度スポットライトが、舞台の演技を追うように、人物と共に壁をはって行く。移動撮影の映画を見る感じだ。
怪物の眼は、歩きながら、格天井の、例の一寸法師が隠れた一こまに、釘づけになっている。彼は、あの奇妙な屋根裏への通路を、ちゃんと知っている様子だ。
やがて、正面の壁の中程まで進むと、一体の如来座像の前に立止り、やっぱり目丈けは格天井を見つめたまま、そこへしゃがみ込んでしまった。一体何をしようというのだろう。
と、まるでそれが合図ででもあった様に、天井の例の個所に当って、カタンと妙な音がしたかと思うと、バッと風を切って、白銀の棒のように、蹲る怪物めがけて、投げつけられたのは、あの恐ろしい西洋短剣だ。
アア、第二の殺人! これだな!
と思った時には、マスクの怪人は、まるで軽業師のように身を飜して、短剣の軌道をよけていた。目にも止まらぬ早業だ。
よけながら、素早く短剣の紐を掴んで引きちぎってしまった。
「キャッ」
という異様な叫び声。続いてゴトゴト天井を走る足音。武器を奪われた一寸法師が、悲鳴を上げて、逃げ出したのだ。
マスクの人物は、部屋の真中においてあった小テーブルを、天井の穴の下へ引ずって行き、その上に椅子を二脚積み上げて、足場を作り、非常な身軽さで、それをよじのぼり、格天井のわくへ飛びついた。
その間、懐中電燈のスポットライトが、名優の演技を追って、移動した事はいうまでもない。
しばらくの間、その円光の中に、怪人の足がバタバタともがいていたが、やがて、それも天井の穴へ消えてしまった。
懐中電燈は、空しく天井の隅を照らすばかり、俳優は二人とも、見物の視野から、真暗な屋根裏へと、姿を消したまま、急に降りて来る様子もない。この所、やや暫らく舞台は空虚である。
その代り音が聞える。まるで鼠でもあばれているような、ひどい音が、天井から降って来る。
二人の怪物が、暗の中で、追っかけっこをしているのだ。
やがて、その物音が、バッタリ止った。逃げる一寸法師が、つかまったのだ。
ややしばらく、不気味な静寂。
怪物達は争っている。無言のまま、物音も立てず、汗みどろに闘っている。その物すごい有様が、まざまざと見えるようだ。
舞台監督明智小五郎、仲々味をやる。
二人の見物は、息を呑んで、耳をすました。天井裏ではどんなことが起っているのだ。あんまり静かすぎるではないか。どちらが勝ったのだ。
と、死のような静寂の中から、かすかに、かすかに、糸より細いうめき声が聞こえて来た。
どちらかが、しめ殺されたのだ。ゾッと総毛立つような、断末魔のうめき声だ。
その細い声が燈火が消えるように、段々衰えて、暗の中にとけ込んでしまうと、一層不気味な静寂が戻って来た。
それから、待遠しい数十秒が過ぎ去ると、ミシリミシリ、天井に足音が聞こえて、間もなく、例の穴から、一本の細引が、ソロソロと降りて来た。細引の先には、グッタリとなった人間の身体が括りつけてある。
死骸だ。
懐中電燈の丸い光が、その死骸と共に、壁をすべり落ちて、絨氈の上に楕円を描いた。
死骸は、足場においた椅子、テーブルをよけて、静かに絨氈の白い楕円の中に横たわった。
やっぱり、そうだ。身体の小さい奴が負けたのだ。細引でおろされた死骸は、あの醜い一寸法師であった。
全身真黒な小怪物の首には、一本の赤い紐が、恐ろしい傷口の様に、まきついていた。その紐で絞め殺されたのだ。
楕円の光でふちどられた、絨氈の上の黒い死骸、その首の真赤な紐、奇怪な、しかし美しい絵であった。
やがて、同じ細引を伝わって、加害者のマスクの怪物が、スルスルと、静かな画面の中へ入って来た。
彼は暫く死骸の上にかがみ込んで、しらべていたが、蘇生の心配がないと分ったのか、身体を括った細引を解いて、椅子とテーブルの足場によじ昇り、細引を天井へ隠し、今降りて来た穴に、元通り板をはめ、さて、不要になった椅子、テーブルは元の場所へ戻し、注意深く、犯罪の跡を消してしまった。
次には、死骸の始末をするのかと思うと、そうではない。マスクの怪人は、さっきその前で立止った、如来座像に近づくと、いきなり、力をこめて、この金仏をおしころがした。
ゴーンと陰鬱な響を立てて、台座を外れ、のけざまに倒れた如来様の、お尻の下はがらんどうだ。
見ると、残った台座の上に、小さな手提金庫がおいてある。
見物達にも、やっと事の次第が分って来た。二人の怪物は、この手提金庫の為に、あのような恐ろしい争いをしたのだ。
如来様が、身を以て隠していた手提金庫、その中には、定めしおびただしい財宝が秘められていたに相違ない。
マスクの人物は、その金庫のふたをあけて、中の品物を、方々のポケットに、分けて入れた。いや、入れる格好をして見せた。
「あとで詳しく申上げますが、金庫の中にはおびただしい宝石類が入れてあったのです」
明智が説明する。
中味を取り出すと、金庫はそのままにして、賊は、自分の身体よりも大きい金仏を、元通り起そうとするのだが、仲々手におえぬ、そこで、口上役の明智が、そこへ行って手を貸して、やっと元の台座に据えつけるという御愛嬌があって、
「本当の賊は、もっと力が強かったのです。手助けはなかったのです」
と解説がついた。
それがすむと、怪人物は、一寸法師の死骸を抱えて、部屋を出る。またしても三人連れの尾行が始まった。
恒川氏は左程でもなかったが、三谷青年は、素人の悲しさに、このお芝居を面白がるどころか、すっかりおびえていた。
「三谷君、気分でもお悪いのですか」
明智が、ふとそれに気づいて、懐中電燈を、三谷の顔にさしつけた。
「イヤ、何でもないのです。あまり不思議なことばかりなので、ちょっと……」
三谷は、そういって、笑って見せたが、顔色は紙の様に真白だ。額にはこまかい油汗さえ浮かんでいる。
「しっかりなさい。もう少しで、何もかも分るのです」
明智は元気づけて、青年の手を握り、それを引っぱる様にして歩いて行った。
怪物の行先は、やっぱり例の物置であった。
彼はさい前の一寸法師と同じ順序で、古井戸の蓋を取除き、抱えて来た死骸を、その中へ投げ入れた。イヤ、投げ入れる真似をした。
井戸の底
一寸法師の怪物は、彼がさっき小川正一(の藁人形)にした通りの手続きで、今度は自分が古井戸へ投げ込まれたのだ。
といって、本当に飛び込んだ訳ではない。死骸といっても、彼はお芝居の死骸なのだから。投げ込まれる格好をしただけで、ピョイと井戸の口を飛び越して、物置の隅に立った。
マスクの人物も、同じ隅へ行って、敵同志が、なかよく並んで、控えている。
「これが第二幕目の終りです」
明智が解説した。彼はやっぱり三谷の手を握りつづけている。
「で、まだ三幕目があるのですか」
恒川氏が、真暗な古井戸をのぞき込みながら、鼻をピクピクさせて、尋ねた。
「エエ、三幕目があります。しかし、ご退屈でしたら、三幕目は口でいっても分るのです」
「それがいい」
警部は即座に賛成して、
「だが、その前に、僕はこの井戸の中を調べて見たいのです」
と、もう我慢が出来ぬ様子だ。
「では、そこの隅に小さい梯子がありますから、それを井戸の中へ立てて、降りてごらんなさい。懐中電燈をお貸ししますから」
舞台監督のお許しが出たので、警部は早速、懐中電燈を借り、梯子をおろして、井戸の中へ入って行った。その底に、あんな恐ろしいものが横わっていようとは、まるで予期しないで。
降りて行くと、先ず最初、懐中電燈の光に照らし出されたのは、さっき投げ込まれた藁人形だ。
警部はそれを拾って、井戸の外へ、投げ上げた。
その下は、読者も知っている通り、三谷青年が倭文子を隠す時に、投げ入れた二枚の蒲団だ。
「ちょっと、手伝って下さい。大変な蒲団だ」
井戸の底から恒川氏の声が響いて来る。
それを聞くと、明智の指図で隅にたたずんでいた二人の怪人物が、井戸の口へ近づき、警部が下からさし出す蒲団を、一枚ずつ、引上げた。
さて、蒲団の下に何があったか。
それが二人の人間の死骸であることは、さっきからのお芝居で、恒川氏にもよく分っていた。一人は小川正一に極っている。だが、もう一人は? あの醜い小人島は、小川の下手人は、一体全体何者であろう。彼はそれが一刻も早く確めたいのだ。
警部は、井戸一杯に斜めになった、梯子の下段に足をかけたまま、懐中電燈をさしつけて、底を覗いた。
「ワッ」
という叫び声。
さすがの警部も、びっくりしないではいられなかった。
「どうしたんです」
上の暗闇から明智の声、彼も井戸の中をのぞき込んでいるのだ。
「これだ。……」
警部は懐中電燈を、一層底に近づけて見せた。
死骸を見るのは、覚悟の前だ。しかし、こんな風な死骸だとは、誰しも想像しなかった。
晩秋の十日間では、まだ形がくずれる程腐爛はしていない。だが、腐爛よりも、うじ虫よりももっと恐ろしい現象が、二つの死体に起っていた。
そこには、二人の巨人が、二人の角力取りが、丸くなって重なっていたのだ。
一人の方の腹部へ、梯子の足が食い入って、その部分が三寸程もくびれて見える。まるで飴細工のタヌキみたいな太鼓腹だ。
死体膨脹の現象である。内臓に発生したガスが、非常な力で、死骸をゴム風船みたいに、ふくらませてしまったのだ。
顔なども、しわがのび、毛穴が開いて、巨人国の赤ん坊の様に、はち切れ相にふくれ上っている。
「これが小川だな」
服装によって、その人と推察出来る。
警部は次に、もう一人の死骸の顔にヒョイと目を移したが、一目見るなり、あまりのことに、さすがの彼も「ギャッ」と叫んで、思わず梯子を駆け上ろうとした。
警部が驚いたのも無理ではない。
そこにふくれ上っていた、もう一つの死骸は、決して未知の男ではなかった。イヤ未知どころか、忘れようにも忘れることの出来ない、今度の事件の大立物が、みじめにも、風船玉のような巨体を、そこに横たえていたのだ。
警部は品川湾で、一度そいつに出会したことがある。あの時のは、ろう製の仮面であった。だが、今足の下にころがっている怪物は、仮面をかぶっているのではない。本当に、唇がないのだ。鼻がかけているのだ。顔中がピカピカと赤はげになっているのだ。しかも、それが生前の二倍の大きさにふくれ上って、何とも形容の出来ない、相貌を呈していた。
恒川氏は不思議な昏迷を感じた。彼自身の視覚を信じ得ないような、妙な不安に陥った。
唇のない男との二度目の対面、しかもふるえる懐中電燈の白い光に照らされた、井戸の底で、全く不意打ちに、彼奴の角力取みたいにはれ上った死骸を見たのだ。警部が我にもあらず、逃げ出し相にしたのは、決して無理ではない。
「何者です。こいつは?」
やっと気をとりなおして、恒川氏は、井戸の外の明智にたずねかけた。
「唇のない男」の存在は知り過ぎる程知っている。だが、彼がどこの何という奴だかは、誰も知らないのだ。
「書斎の天井裏に住んでいて、小川正一を殺した奴です」
明智がやみの中から答える。
成程、今のお芝居で、そこまで分っている。小川正一になぞらえたわら人形が黒覆面の一寸法師に殺された。その一寸法師がまた、マスクの怪物にしめ殺された。そしてわら人形も、一寸法師の死骸も、この井戸の中へ投げ込まれた。
わら人形は小川正一である。とすれば、残る一人は、この唇のない奴は、お芝居の方の一寸法師に当る訳だ。あの小怪物が「唇のない男」の役を、如実に演じて見せたのである。
「すると、我々があんなに探し廻っていた犯人は、この邸の天井裏にかくれていたとおっしゃるのですか」
恒川氏は信じ切れぬ調子だ。
「で、こいつは、一体何者です。第一どういう訳で、場所もあろうに、この邸の天井裏なんかを、隠れ場所に選んだのです」
彼はむらがり起る数々の疑問に何からたずねてよいのか、判断もつかぬ有様だ。
「この男が、天井裏へ隠れていたのは、何も不思議なことではありません。誰しも、我が家は、殊に自分の書斎はなつかしいものですからね」
やみの中の明智が、事もなげに答える。
「我が家ですって? 自分の書斎ですって? というと、何だか、畑柳家が、こいつの邸みたいに聞えますが……」
警部は益々分らなくなった。
「そうですよ。この男こそ、この家のあるじなのですよ」
「エ、エ、何ですって?」
恒川氏の頓狂な叫び声。
「この唇のない男が、外ならぬ、倭文子さんの夫、畑柳庄蔵氏なのです」
「そんな、そんな馬鹿なことがあるものですか。畑柳庄蔵は二ヶ月以前刑務所内で病死した筈です」
「と信じられています。しかし、彼はよみがえったのです。土葬された墓の下で、蘇生したのです」
恒川氏は、井戸からはい出して、懐中電燈を、明智の顔にさしつけた。
「それは本当ですか。まさか冗談ではありますまいね」
「意外に思われるのはごもっともです。彼は蘇生しました。だが、自然の蘇生ではないのです。すべて彼の同類がたくらんだ仕事です」
明智は厳粛な面持で、奇怪千万な事実を語り始めた。
「容易ならん事だ。君は、それを知りながら、今までだまっていたのですか」
恒川氏は、素人探偵に出し抜かれたくやしさも手伝って、思わずはげしい口調になる。
「イヤ、故意に隠し立てをしていた訳ではありません。僕も、やっと昨日、それを知ったのです」
明智はいいながら、話しを明るくするために、物置の天升からブラ下っていた、ほこりまみれの電燈を点じた。薄暗い五燭光であったが、暗になれた目には、まぶしい程、パッと、部屋の中が明るくなった。
「それを探り出した功労者は、僕のところの文代さんです。あの人が、Y刑務所の医員の一人を、うまくあやつって、とうとうそれを聞き出して来たのです」
明智が説明を続ける。
「くわしいことは、いずれお話しする機会があるでしょう。今は、お芝居の第三幕目もまだ残っていることですから、ごく簡単に申しますと、つまり、刑務所内の医局の人々と、看守と、二三の病囚人が、ぐるになって畑柳庄蔵を死人にしてしまったのです。彼はやや重態の病人には相違なかった。しかし、まだ死んではいなかったのです。死骸と寸分違わぬ、一種の麻痺状態にあったに過ぎません。南洋の植物から製せられた、クラーレという劇薬を御存じでしょう。恐らくその様な薬品が使用されたのかも知れません。兎も角、畑柳庄蔵は、彼の同類のはからいで、生きながら、無事に刑務所の門を出ることが出来ました。そして、その後、土葬された墓場から、よみがえったのです。よみがえって、彼の盗みためた宝を守護する鬼となったのです」
「小説ではあるまいし、日本の刑務所で、そういうことが行われるとは信じられません」
警部が、たまり兼ねて口をはさんだ。
「畑柳家は大金持です。数人の人々の生涯を保証する位の金銭は、何でもありません。生涯安楽に暮らせる程の大金をさしつけられて、目のくらまぬものがありましょうか。……墓場からよみがえった畑柳は、その儘の容貌では、すぐ捕まってしまうので、非常な苦痛を忍んで、硫酸か何かで、顔を焼きくずしてしまったのです。そして、全く別人となって、即ち唇のない怪物となって再びこの世に現われて来ました」
「だが、変ですね。畑柳の刑期は、たしか七年だったと思いますが、なぜそれを待たなかったのでしょう。何も顔を焼く様なことをしなくても、……」
恒川氏は、明智の説明が、どうも腑に落ちぬのだ。
「恒川さん、あなたはまさか、杉村宝石店の盗難事件をお忘れではありますまいね」
明智はニコニコしながら、突然妙なことをいい出した。
「エ、杉村宝石店の……覚えていますとも、しかし、それがどうかしたのですか」
「去年の三月でしたね。杉村宝石店の金庫が破られ、二名の店員が惨殺されていたのは」
「そうです。非常に巧妙な犯罪でした。残念ながら、今以て何の手懸かりもつかみ得ないのです」
「それから、早瀬時計店の盗難、小倉男爵家の有名なダイヤモンド事件、北小路侯爵夫人の首飾り盗難事件、……」
「アア、君もやっぱり、そこへ気づいていたのですね。そうです。皆同じ手口でした。僕等も犯人は同一人物とにらんで、捜査を続けていたのです」
恒川氏は、やや面食って答えた。
「我々は今、その犯人を捕らえたのです」
明智はますます突飛なことを口走る。
「エ、エ、どこに? どこに?」
警部はどぎまぎしないではいられなかった。
「ここに」明智は足元の古井戸を指した「こいつが、宝石泥棒です」
恒川氏が彼の言葉の意味を了解するのを待って、明智は更に語り続ける。
「幽霊会社を起したり、詐欺を働いたりするのは、畑柳にとっては、むしろ表向きの正業で、その実彼は、恐ろしい宝石泥棒だったのです。イヤ、泥棒ばかりではありません、人殺しの大罪さえ犯しています。彼には数人の同類がありました。どうせ悪者達のことですから、いつ裏切りをして、大切の宝石を横取りしないとも限らぬ。事によったら密告する様な奴も出て来るだろう。と思うと、首領格の畑柳にして見れば、七年の間、監房に安閑としてはいられない訳です。余罪が発覚して、死刑になることを思えば、死人のまねをしたり、硫酸で顔を焼くなどは、なんでもありません。いや、それだけではまだ安心が出来ず、彼は満足な手足を義手義足に似せたものをはめて、ひどい不具者をよそおいさえしました。……
さて、相好をかえて、全く別の人間に生れ変って、我家へ帰って見ると、実に滑稽なことが起った。彼はただ死刑がこわさに、盗みためた宝石欲さに夢中になっていて、つい可愛い妻子のことを勘定に入れていなかった。それが、いざ我家の門前まで来て見ると、愛していた妻だけに、可愛い子供だけに、さすがに変り果てた、恐ろしい我が姿がはずかしくなった。牢破りの大罪を打開ける勇気がなかった。……
脱獄以来二ヶ月の間、彼は深川のある同類の家に身を隠していました。――その同類の名前もちゃんとわかっています――。そして夜にまぎれて、我邸内に忍び込み、妻子の姿を垣間見て、また宝石の隠し場所をあらためて、僅に自ら慰めていたのです。倭文子さんが、鹽原の温泉へ行けば、そのあとを追って、同じ宿屋に泊り込み、湯殿の窓から我が妻の入浴姿をのぞくというような、みじめな苦労さえしているのです。……
彼が盗みためた宝石は、さっきのお芝居でごらんなすった通り、書斎の仏像の中に隠してあったのです。彼は、そこへ人の近づくのを防ぐために、色々工夫をこらしました。不気味な仏像群もそれです。宝石を隠した金仏の目にからくりを仕掛けて、人がその前に立つと、ひとりでに目を見開くようにしておいたのもそれです。また、いざという時の隠れ場所として、あの天井裏に暗室を作り、格天井の一枚をはずして出入り出来るようにしたのも、彼の工夫です。……
彼は、その深川の同類の家に、二ヶ月程潜伏していましたが、最近になって、それでは、どうにも安心が出来なくなったのです。第一に宝石への執着。彼は気違いの様に宝石を愛しました。何不自由のない身で、宝石泥棒になったのもそのためです。妻子よりもいとしい宝石と、別々に住んでいるのは、もう我慢が出来なくなったのです。それに、仲間の一人が宝石の隠し場所を、勘づいて、コッソリ手に入れようとしていることもわかった。また、畑柳にして見れば、三谷君がここの家に入りびたりになっているのも、不安の種であったに相違ない。そこで彼は泥棒のように、我家に忍び込み、かつて作っておいた、書斎の天井裏の隠れ場所へ、身をひそめ、そこから宝石の見張りをすることになったのです。……
さすがに彼の用心は無駄ではなかった。疑っていた仲間の一人が、ある日、案の定書斎に忍び込み、仏像の中の宝石を盗もうとした。畑柳は、天井裏で、それを待ち構えていたのです。あらかじめ用意しておいた、紐のついた短剣が役立ったという訳。その有様は、さっきお芝居の第一幕でお目にかけた通りです」
「では、その宝石を盗みに来た同類というのは、……」
恒川氏が、思わず口をはさむ。
「そうです。小川正一です。無論偽名ですが、あいつこそ、首領を裏切った憎むべき曲者だったのです」
三幕目
「畑柳庄蔵が、悪人だと知っていたけれど、人殺しまでやっているとは意外でした。しかし、それにしても、腑に落ちないのは、お説の通り、今度の犯人が畑柳だとすると、彼はどうして、我子を誘拐して、身の代金を要求する様な、ひどいまねをしたのでしょう。その辺の心理に、大きな矛盾があるような気がしますね」
恒川氏がいぶかしげにたずねた。
「そこです。今夜のお芝居の第二幕目は、その点をハッキリさせるために、実演してお目にかけたのです。ごらんになった通り、畑柳は、もう一人の奴に殺されました。あの男を、一体何者だとお思いですか」
「分りません。ただ、そいつが、眼鏡をかけ、マスクをはめていた奴らしいという外には」
警部はさっき実演されたことを、そのまま答える外はなかった。唇のない男を代表する小さな黒い奴は、マスクの人物に殺されたのであった。
「では、その人物をお目にかけましょう。君、眼鏡とマスクをとって下さい」
明智は、物置のがらくた道具の間にたたずんでいた、最前の黒マントの俳優に声をかけた。
恒川氏と三谷青年とは、破損した椅子やテーブルの積上げてある隅っこを、熱心に見つめた。陰気な五燭の電燈が、大小二人の黒怪物を、異様に照らし出している。
黒マント、黒ソフトの不思議な人物は、言葉に応じて、顔を上げると、先ず大きな色眼鏡をはずした。
眼鏡がとれただけで、その人物が非常に奇怪な顔をしていることがわかった。
眼は焼けただれた様に、赤くなって、まぶたは短く、まつげはぬけ落ち、その間から、腐りかけたさかなの目の様な、白っぽい両眼が、あらぬ空間を見つめていた。
恒川氏は、ある予感に、ハッとして、思わず一歩前に進んだ。三谷青年もひどく心を乱されたらしく、真青になって、何か訳の分らぬたわごとを口走った。
黒マントの怪物は、次に、半面を覆い隠していた、大きなマスクを、引きちぎる様に取去った。
顔全体が、赤茶けた電燈の光に、むき出しになった。想像した通り、そいつの鼻は半分しかなかった。頬からあごにかけて、無慙な赤はげが光っていた。そして、唇が、アア、唇が。
「アッ、唇のない男!」
恒川氏が、頓狂な声で叫んだ。
何が何だか、さっぱり分らぬ。まるで悪夢にうなされているような気持だ。警部は念の為に、懐中電燈をさしつけて、古井戸の底をのぞいて見た。唇のない怪物、畑柳庄蔵のふくれ上った死体は、ちゃんと元の場所に横わっている。
離魂病の様に、全く同じ怪物が二人現われたのだ。どちらが本物で、どちらが幽霊なのだ。
恒川氏にとって、こいつは、正しくいえば、第三番目の「唇のない男」であった。最初は、品川湾で焼け死んだ園田黒虹のかぶっていたろう製のお面、第二は今井戸の底に死んでいる畑柳庄蔵、そして、ここに第三の怪物がたたずんでいるのだ。
「すると、唇のない奴が、唇のない奴を殺したということになる訳ですが……」
彼は面食って明智の顔を見た。
「そうです。唇のない奴が、唇のない畑柳庄蔵を殺したのです。つまり、今度の事件には、二人の唇のない人物がいて、全く別の目的で、別の罪を犯していたのです。我々は今までそれを混同していた為めに、事件の真相をつかむことが出来なかったのです」
「そんなことが、こんなによく似た片輪者が、同じ事件に関係するなんて、余り馬鹿馬鹿しい偶然です」
恒川氏は、明智の言葉が子供だましみたいで、どうにも合点出来なかった。
「偶然ではありません。両方とも本当の片輪だとすれば、そんな風にお考えになるのも無理ではありませんが、一方は真赤な偽物です。……サア、それを取って下さい」
明智は半分を恒川氏に、あとの半分を、黒マントの人物に向っていった。
その指図を聞くと、黒マントの男、いや女は、手早く帽子をかなぐり捨て、耳のうしろまで、自分のあごに手をかけると、いきなり、我が顔を、メリメリとめくり取った。……それは非常に精巧なろう製のお面に過ぎなかったのだ。
お面の下から現われたのは、――見物の二人は、さい前から薄々感づいてはいたが――明智の女助手文代さんの、美しい笑顔であった。
「よっちゃん、あなたも覆面をおとりなさいな」
文代さんは、お芝居の中で彼女がしめ殺した、黒装束の小怪物に、優しく声をかけた。
すると、醜怪な一寸法師は、声に応じて、顔にまきつけていた黒布を、クルクルと解いて、
「アア、苦しかった」
と、快活な調子で、ひとり言をいった。
読者も想像された通り、それは同じく明智の助手の、小林少年であった。
「アア、やっぱり君達でしたね。あんまりお芝居が上手だものだから、屋根裏の悲鳴を聞かされた時などは、ゾッとしましたよ」