その日第一回のラジオ・ニュースで、このことが、東京は勿論、全国に伝えられた。.7
三谷の谷山三郎は、陰気な機械室の中で明智と恒川警部を前にして、叫び続ける。
「僕は兄に代って、倭文子一家をねらう、復讐鬼となった。その準備のためには、如何なる苦痛も、如何なる罪悪もいとわなかった。それまでも度々やっていた泥棒を、もっと大げさにやり始めた。ろう仮面を作らせたのも、この工場を買入れたのさえ、そうして得た金だ。……
最初の計画では、兄の恋敵に当る、畑柳庄蔵も殺してやる積りだったが、準備のために、日を暮している間に、あいつは牢死してしまった。それが、実はあいつが深くも企んだトリックであることを知ったのは、僕もごく最近なのだ。それからまた、一年以上の月日が無駄に過ぎた。おれは、食うためにも稼がなければならなかったからだ。そればかりではない。おれはこの世の思い出に、可哀相な兄への手向けに、この復讐を、出来るだけはでやかに、しかも出来るだけ巧妙な方法によって、なしとげようと心魂を砕いたからだ。……
だが、とうとう、おれの準備は完成した。気違い文士の園田黒虹という、おあつらえ向きの助手も手に入れた。それからはあんた方の知っている通りだ。おれは岡田道彦という変りものの画家を殺して、おれの身替りにする計画を立てた。しかも、丁度その時、鹽原温泉へ、例の唇のない男が現われた。おれはそれが畑柳庄蔵だとは少しも知らなかったけれど、犯罪を一層複雑にするために、これ幸いと、同じ様な唇のないろう仮面を作らせて、怪談めいた趣向をこらした。……
おれは思う存分、あいつを怖がらせ、悲しませ、苦しめ抜いてやった。斎藤執事には、何の恨みもなかったが、倭文子を苦しめる為なら、おいぼれの命なんか、問題じゃない。……
おれはまた、最近になって、思わぬ獲物を発見した。屋根裏の守銭奴、畑柳庄蔵だ。おれは歓声を上げた。早速あいつの裏をかいて、屋根裏に昇り、一思いに絞め殺してしまった。そして、畑柳家の財産の半以上を占める、あの宝石類を奪い取ってしまった。……
ワハハハ、……おれは愉快でたまらないのだ。兄に約束したことは、すっかり果してしまったのだ。おれはこの二三日兄の夢ばかり見る。兄は夢の中で、さもうれし相にニッコリ笑っておれにお礼をいって呉れるのだ。ね、お礼をいって呉れるのだぜ。ワハハハ……」
谷山は、手を振り足を踏み鳴らして、躍り狂いながら、気違いの様に哄笑した。
恒川警部は、復讐鬼の呪いの独白を聞いている内に、非常な不安に襲われ始めた。
彼は、兄との約束をすっかり果してしまったと、広言している。兄との約束の最も重要な部分は、倭文子を殺すことではなかったか。すると彼は、既にその最終の目的まで、果してしまったのではなかろうか。
警部はそれを考えると、ゾッとしないではいられなかった。
「で、倭文子さんはどこにいるのだ。君はよもや、あの人を……」
彼はその次の言葉を、口にする勇気がなかった。
「倭文子は、ここにいるといったじゃありませんか」
谷山は昂奮のさめやらぬ、真赤な顔、泡を吹いた唇で答えた。
「ここにいるんだって。オイ、でたらめをいうと、承知しないぞ」
警部は、とうとうかん癪を起して呶鳴りつけた。
「ハハハ……今になって、でたらめなんかいいませんよ。なにも急ぐことはありません。倭文子も茂も、逃げ出す様なことはありませんからね。イヤ、逃出す力を失ってしまったのですからね」
谷山は、すてばちな笑いと共に、異様ないい方をした。
アア、倭文子達は「逃げる力を失ってしまった」という。一体、どんな風に逃げる力を失ったのであろうか。
「じゃ、倭文子に会わせて上げましょう。ここにいるのです」
谷山は、ツカツカと部屋の隅へ行って、小さなドアの引手を握った。そこは隣室への通路になっているらしい。
「アア、その部屋に監禁してあったのか」
警部は、意気込んで、ドアの前に走り寄った。
「サア、ゆっくり御面会なさい。しかし、一緒に連れて帰るには、少し重過ぎるかも知れませんぜ」
谷山はあざけるようにいいながら、ドアを押し開いた。と同時に、サッと吹き出す異様な冷気。
「ア、真暗じゃないか、スイッチは、スイッチは?」
警部にせき立てられて、谷山は一歩隣室へ踏み入り、壁のスイッチを押した。
パッと明るくなった電燈の光りで見ると、その部屋はやっぱり機械室の続きで、コンクリートの池の様な巨大な製氷タンクが、室の半をふさいでいた。
「オヤ、誰も居ないじゃないか」
警部は、あたりを見廻しながら、けげんらしくいった。だが、その実、彼の心の隅には、既に、ある戦慄すべき予感が、雨雲のようにひろがり始めていたのだ。
「ここにいるのですよ」
谷山は身軽に、池の縁を伝わって、向うの隅にある小配電盤の所へ行き、スイッチの一つを、カチンと入れた。
と、同時に、ギリギリと歯車のきしむ音がして、タンクの中央から、亜鉛の巨大な角柱が、ニューッと首を出して、徐々に天井へまき上げられ、それがタンクから出切てしまうと、今度は横に宙づりをして、タンクの外側へ、ズルズルと降りて来た。
丁度その下に、多少熱湯をたたえたものであろう、モヤモヤと湯気の立昇る別の小さなコンクリートの池がある。巨大なる角柱は、ズブズブとその中へつかって行った。
ややしばらくあって、角柱は再び池からつり上げられ、今度はコンクリートの床の上に、ズッシリと安置せられた。
最早少しも疑う所はない。倭文子と茂が、どんな目にあわされたのか、明智にも、恒川氏にも、分り過ぎる程分っている。
だが、あまりといえば奇怪千万な殺人手段に、流石の警部も、茫然自失の体に見えた。
「倭文子と茂少年です」
谷山は大角柱の側によると、まるで見世物の口上でも述べる調子で、空うそぶきながら、角柱の向側で、カチカチと音をさせた。
と、巨大な亜鉛箱は、底が開いて、中味を床に残したまま、スルスルと天上して行った。
その下から現われたものは、一目見た時には、何かしら非常に美しい、キラキラと光りかがやいた、巨大な花のように感じられた。
予期はしていたものの、悪夢のように怪奇で、艶麗な光景に、両人とも「アッ」といったまま、二の句がつげなかった。
アア、何といういたましくも、美しい光景であったろう。
そこには、かつて見たこともない、ずばぬけて大きな花氷が電燈を反射して、キラキラと美しい虹を浮かべて、立っていた。
花氷!
如何にも花氷には相違なかった。しかし、世にありふれた、草花の花氷ではない。そこにはいたましい断末魔の苦悶をそのままに、人間界の花が、美しい倭文子の一糸まとわぬ裸体姿が無慙にもとじこめられていたのだ。
その側には、やっぱりはだかの茂少年が、苦しさのあまり倭文子の腰にしがみついた形で、凍っていた。
アア、人間の、しかも世にも美しい女性と少年の、裸体像をとじこめた花氷。かつて此世に、かくも残虐な、同時に、かくも艶麗な、殺人方法を案出したものが、一人でもあっただろうか。
明智は、さしたる驚きも示さなかったが、恒川警部は、この人体花氷を見ると、本当に肝を消してしまった。
事件全体が、彼の従来の経験からは、ひどく飛び離れた、魔術の連続のようなものであったが、それ故に、彼は事毎に驚きを倍加して来たのであるが、この悪魔の最後の演技に至っては驚き以上のものであった。
警部は「殺人芸術論」というようなものの存在を、少しも知らなかったけれど、氷に包まれた、被害者の姿の、あまりの美しさに、不思議な困惑を感じた。
彼は、いつも、血みどろの死骸や、むごたらしい傷口や、いまわしい死臭や、ゾッとする様な死相ばかり見ていた。殺人事件というのは、汚ならしいものときめてしまっていた。
それが、今目の前に、一種の苦悶のポーズを作りながら、立っている被害者達は、氷柱のにじにつつまれて、犯罪とか、殺人とか、死骸とかいう観念からは、ひどく縁遠い、一種の美術品の如く、世にも美しいものに見えたではないか。
彼はほとんどこうこつとして、それが恐るべき犯罪の結果であることも、そこに当の犯人がいることも、一瞬間忘れ果てて、すぐれた絵でも眺める様に、美しい花氷に見とれた。
だが、次の瞬間には、彼は犯人の着想のあまりの恐ろしさに、身ぶるいしないではいられなかった。
倭文子と茂少年とは、生きながら、氷にせられてしまったのだ。彼等は水中にとじこめられ、その水が刻一刻冷気をまして、ついにこおりつくまで、どの様な思いをしたことであろう。イヤ、まさかこおるまで生きてはいなかったであろうけれど、つめたくつめたくなりまさる水の中で、呼吸困難にもがきながら、彼等は犯人の目的が何であるかを悟っていたに違いない。
死体の有様が、美しければ美しいだけ、この殺人方法はむごたらしいのだ。警部は、いつか氷柱にとざされている美しい金魚を見て、それを客間に飾っている主人の残酷さに驚いた経験を思い浮かべた。しかも、今目の前にあるものは、金魚どころではない。彼のよく知っている人間なのだ。
「ワハハハハ、如何ですね。僕の思いつきがお気に入りましたか。人殺しも、こんな風に綺麗に行き度いものですね」
殺人美術家、罪悪の魔術師は、高らかに笑いながら、我が作品の自慢をした。
「君達は僕が逃げたと思ったのですか。ナニ、逃げるものですか。この立派な美術品が見てほしかったのですよ。探偵さんの助手達が、僕を尾行して来たこともちゃんと知ってます。つまり僕は、君達をここへおびき寄せた訳ですぜ。……
僕がさっき、倭文子を連れて帰るには、少し重過ぎるでしょうと、いったことを覚えていますか。……
探偵さん、イヤサ明智君、流石の君も、ちっとばかり困ったような顔をしているね。おれは君の鼻をあかしてやっただけでも、非常な満足だよ。君は、日本一の名探偵なのだからね」
谷山は、またもや顔を真赤にして、口からあわをふきながら、半狂乱の体で、わめき続けた。
「おれが、どうして倭文子を殺したか。この美しい花氷が、どんな順序で出来上ったか。それをまだ話さなかったね。君達はそれが聞きたいだろう。おれも聞かせたいのだ。倭文子親子がどんなむごたらしい目にあったかということをね。……
君達は多分、この二人が、斎藤の棺に隠れて、あの家を逃げ出したことを感づいているだろう。その通りだ。おれが親切ずくで、そうさせたのだ。ところで、棺の行先はどこだと思うね。いわずと知れた火葬場だ。……
ハハハハハハ、火葬場なんだぜ。倭文子達の隠れている棺は、火葬場の炉の中へ入れられたのだぜ。おれは側にいて、だまってそれを眺めていた。……
棺の中で、声を立てたら、倭文子は恐ろしい殺人犯人として、早速警察に引渡されなければならぬ。といって、だまっていれば、生きながら焼き殺されるのだ。それが、か弱い女にとって、どんな苦しみであったか想像が出来るかね。……
倭文子は、とうとうわめき出した。絞首台よりも、今さし迫った、棺の下の火焔の方が恐ろしかったのだ。倭文子がどんなむごたらしい声で泣き叫んだか。きっとあの世にいる兄の耳にも聞えたと思うと、おれはせいせいした」
アア、谷山という奴は、何という恐ろしい復讐者であったろう。気違いだ。イヤ、鬼だ。人外の吸血鬼だ。如何に恨みがあるといって、人間がこの様な鬼々しい心になれるものではない。
恒川警部も、明智小五郎さえも、この、地獄の底からひびいて来る様な、のろいの言葉に、異様な悪寒を感じないではいられなかった。
谷山は止めどもなく叫び続ける。
「おれは、棺の中の倭文子に、思う存分の苦しみをなめさせた上、焼死の一歩手前で、あの女を救い出してやった。親切からだと思ってはいけない。ただ焼き殺したのでは、あんまりもったいないからだ。……
救い出された倭文子は、おれの顔を見るとさもうれしそうにしがみついて来た。おれはあの人の恋人である上に、命の恩人となった。ハハハハハハ、このおれがだぜ。それから、二人をこの工場へ連れて来たのだ。倭文子も茂も、何も知らず、いそいそとおれのあとからついて来た。……
おれは二人をこの部屋へ連れ込み、そこで、四五日もかかって、一寸だめし五分だめしに、おれの本当の心をジワジワと告げ知らせてやった。その時の、あいつらの驚き、恐怖。おれは初めて敵を討った様な気持がした。それから、泣き叫ぶ二人を、あの亜鉛箱の中へとじこめ、水をつぎ込んだ。倭文子は、せめて茂の命だけ助けてくれと、手を合わせて頼んだが、おれは聞えぬふりをしていた。……
それから、奇妙な製氷作業が始まったのだ。おれは、この池の縁にしゃがんで、水中の亜鉛箱の中から、かすかに漏れて来る、憎い女の、断末魔の苦悶の声に聞入った。亜鉛箱がビリビリとふるえた。水中からの陰にこもった絶叫が、虫の鳴く様に聞えて来た。アア、それが、おれにとっては、何という微妙な音楽であっただろう。……
そして、今日やっと、この美しい花氷が出来上った。君達に観賞してもらう為に。……おれ一人で楽しむには、もったいない美術品だからね」
谷山はいい終って、ニヤニヤと、顔一杯に悪魔の笑いをただよわせ、さも得意らしく、聞き手の方を眺めた。
「ワハハハハハハ」
極めて唐突に、谷山は勿論、恒川氏でさえも、びっくりした様な、ほがらかな笑い声が、明智の口からほとばしった。
「成程成程、君はそれで、我々をアッといわせたつもりなのだね。僕をペシャンコにやっつけた積りでいるんだね。ところが、案外、そうでもなさそうだぜ。君に聞くがね。君はこの氷柱が出来上る間、絶えずここに見張り番をしていたかね」
明智が、犯人にとっては、何とやら不気味な、えたいの知れぬ問いを発した。
谷山の顔から、笑いの表情が消え失せた。
「君は、亜鉛箱をこのタンクに漬ると、間もなくこの部屋を出て行った。工場の外で、異様な呼笛の音が聞えたからだ。君は若しやと思って、塀の外をのぞきに行ったのだ。あの時のことを覚えているかね」
谷山は、図星をさされて、何かしらギョッとした。どう答えてよいのか分らなかった。
「その君の留守の間に、この部屋で、どんなことが起っていたか、君は少しも知らない様だね」
明智はますます妙な事をいう。
谷山は、キョロキョロと、不安らしくあたりを見廻していたが、何も不安がる理由のないことをさとると、憎々しげにいい返した。
「で、それが一体どうしたというのですね。僕がちっとばかりこの部屋を留守にしたからといって、まさか倭文子達が、逃げ出した訳じゃあるまいし。僕の目的には何のさしさわりもないことだ」
「果してそうかね。君は、僕がここへ来るのに、何のお土産も持って来なかったと思っているのかね」
明智はニコニコ笑って、
「それは兎も角、この部屋の電燈は少し暗過ぎるようだね。すべての間違いの元は、この暗い電燈にあるのじゃないかと思うのだがね」
と、じっと谷山の顔を見た。
谷山は相手の意味を悟り兼てキョトンとしていたが、やがて、何事かに気付いた様子で、突然、非常な狼狽の色を浮べた。
「ア、貴様……だが、そんなことはない。そんな馬鹿なことがあるものか」
彼は、なぜか花氷の方を見ぬようにして叫んだ。
「ハハハハハハ、僕のお土産の意味が分ったらしいね。ホラ、君は氷柱を見ることが出来ぬではないか。閉じこめられている倭文子さん達を、よく見るのが、君はこわいのだ」
事実、谷山はそれをこわがっていた。彼は真青になって叫んだ。
「いってくれ。本当のことをいってくれ。君は一体何をしたのだ。君の土産というのは何だ」
「僕の口からいうまでもなく、君がちょっと、その花氷へ近づいて、中の人間を調べて見ればいいのだ」
「それじゃあ君は、あれが、倭文子と茂でないというのか」
谷山は脇見をしたまま、うつろな声でたずねた。
「ウン、倭文子さんと茂少年ではないのだ」
明智がキッパリとどめをさした。
「違う、違う。おれはそんな馬鹿気たことを信用する訳には行かぬ」
谷山は、みじめに、だだをこねた。
「見たまえ。氷の中をのぞいて見たまえ。よく見れば、すぐ解るのだ」
谷山は、額にあぶら汗を浮かべながら、必死の気力で、ヒョイと氷柱を振り向いた。そして、血走った目を氷の中の母子の裸体像に釘づけにした。
「ワハハハハ、探偵さん。君は気が違ったのか。夢でも見ているのか。これが倭文子と茂でなくて、一体誰だというのだ」
「誰でもない」
「エ、誰でもない?」
「人間でないというのさ」
「エ、エ、人間……」
「蝋人形だよ。君は唇のない仮面を作らせた位だから、蝋細工がどんなに真に迫って出来るものだか、よく知っている筈ではないか。僕はあらかじめ君の計画を察したものだから、二人の蝋人形を作らせて、君の留守の間に、本物と入替えておいたのだ。あの時の妙な呼笛は、僕の部下の小林君が、君をおびき出す為に吹いたのだよ」
いわれて見ると氷詰になった二人は、人間の死骸にしては、あまりに肌の色艶が美しかった。
その上よく見ると、倭文子も茂少年も、顔には一向苦悶の表情が現れていないことも解って来た。谷山も恒川警部も、アッといったまま、明智のあまりの放れ業に、あいた口がふさがらなかった。
「まだ疑わしいと思うなら、本当の倭文子さんと茂少年を引合せて上げてもいい。……文代さんもう入って来てもよろしい」
明智がドアの外へ声をかけると、待ち兼ねていたように、それがあいて、三人の人物が入って来た。同時に陰惨な部屋の中が、パッと明るくなった。
入って来たのは、明智の助手の文代さんを先頭に、殺されてしまったとばかり思っていた、畑柳倭文子と、茂少年であった。
逃亡
その時の谷山三郎の驚愕と憤怒の形相は、見るも無慙であった。
無理もない、たとえ吸血鬼のような悪魔にもせよ、兎も角も兄の敵を討つ為めに、苦労に苦労を重ねた上、ついに最後の目的を達したと信じ切って、得々としてその巧妙な殺人手段を見せびらかしていた時、殺してしまった筈の、当の敵の倭文子が、生きて彼の目の前に現れたのだ。
冷蔵庫の中のように冷々とした製氷室であったにも拘わらず、玉の汗が、彼の青ざめたこめかみをツルツルと流れ落ちた。血走った目は、倭文子の顔を凝視したまま、ガラス玉のように動かなくなってしまった。かわいた唇をブルブルとふるわせて、何事かいおうとするけれど、声さえも出なかった。
今這入って来た倭文子はと見ると、なき谷山二郎に対する、罪深い仕うちを恥てか、しょんぼりとうなだれて、消えも入りたい風情に見えた。
「明智さん、君はいつの間に、この魔術を行ったのです。君は実に恐ろしい人だ」
恒川氏は、驚嘆の声を発しないではいられなかった。
「倭文子さんと茂君のろう人形はいつか僕のアパートで、あなたにもお目にかけた筈です。この氷にとざされているのは、あの時の人形ですよ」
明智が説明した。
「僕は、犯人が三谷の谷山であることを悟り、彼が倭文子さんを棺に入れて逃亡させたことを知ると、文代さんと小林君に頼んで、二人の努力によって火葬場から谷山の本拠をつきとめることに成功しました。そして、その本拠が製氷工場であること、倭文子さん達がそこに幽閉されたことが分ると、僕はすぐ、谷山の恐ろしい目論見を感づいたのです。……
若し彼が、火葬場から工場に連れ込んで、すぐ様製氷作業に着手したなら、到底倭文子さん達を救い出す余裕はなかったでしょう。警察の力を借りて、工場を包囲することは、よく知っていました。しかし、彼は倭文子さんが生きている間は、一秒だって側を離れず、ピストルを手にして見張っていたのです。危険と見れば忽ち倭文子さんはうち殺されてしまうのです。……
僕はなまじ警察に知らせて、取返しのつかぬ結果を招くことを恐れました。ところが、幸いなことには、倭文子さんを工場に幽閉すると、彼は、丁度猫が鼠をもてあそぶように、数日の間犠牲者を生かしておいて、存分責めさいなむ様子が見えました。……
僕がどんなに急いで、あのろう人形を作らせたかは、あなたも御存じの通りです。たとい製氷箱の中で死んでからでも、ただ倭文子さん達を盗みだしたのでは、危険です。犯人が、それを知ったら、どんな暴挙に出るか知れたものではない。今の様子でも解る通り、こいつは半気違いなのですからね。逃亡するだけならまだしも、もっと恐ろしい仕返しをしないとも限りません。僕が人形の替玉を使って、彼をだましだまし、網に入れる手段をとったのは、それを極度に恐れたからです。……
いよいよ製氷作業が始まったと知ると、あらかじめ定めておいた手筈によって小林君が犯人を外におびき出し、出来るだけ長く引とめている間に、僕と文代とで、手早く倭文子さん達とろう人形の入替えを行ったのです。人形はその前日、ちゃんと工場の物置小屋へ運んでおいたのですから、入替えに、大して時間はかかりませんでした。……
救い出した倭文子さんと茂君は、僕のアパートへかくまっておきました。それを犯人は少しも気づかなかった。亜鉛箱の中は、ちょっとのぞいた位では見分けのつかぬ、ろう人形が、ちゃんと入っていたのですからね」
明智がそんな説明をしている間に、谷山は早くも放心状態から回復していた。回復すると、敵を討ちそくなった激怒が、彼を狂気させてしまった。彼はとっさの間に、恐ろしい最後の手段を考えついた。
谷山は部屋の隅へ走って行って、そこの小机のひきだしから、いざという時の用意に、丸をこめておいた小型ピストルを取出し、その引金に指をかけて、一同の前へ戻って来た。恒川警部も、このとっさの行動を阻止する暇がなかった。
「手を上げろ。モソモソすると、ぶっ放すぞ。おれが人の命なんかなんとも思っていないことは、君達もよく知っている筈だ」
一同手を上げる外はなかった。
「ワハハハハ、明智君、流石の名探偵も、馬鹿馬鹿しい失策をやったものだね」
谷山は油断なくピストルの筒口を左右に動かしながら、小気味よげにちょう笑した。
「倭文子の生きた姿を見て、このままおれが、ノメノメとお繩を頂戴すると思っているのか。おれはやっぱり負けたのではない。倭文子の命はおれのものだ。ピストルであっさり打ち殺すのは、少し物足らぬが、この場合仕方がない。サア、邪魔立てすると誰であろうと容赦はせぬぞ」
ねらう一人と、ねらわれる一団とは、互に相手から目を離さず、ジリジリと部屋の中を半周した。その結果、故意か偶然か、谷山は唯一の出入口であるドアを背にして立つことになった。
倭文子は、茂少年を抱きしめて、ブルブルふるえながら、人々の蔭に身を隠す様にしていた。
「探偵さん、邪魔だ。どいてくれ。それとも、君は倭文子の身代りになって、このピストルを受ける積りかね」
谷山の血走った両眼に、気違いめいた憎悪のほのおが燃えた。
「身代り結構。一つズドンとやって呉れ給え。ここかね、ここかね、それともこの辺をねらうかね」
明智は無謀千万にも、相手のピストルの前に立ちはだかって、我が額を、喉を、胸を、順次に指さして見せた。
文代と小林少年の顔色が、サッと変った。谷山の指がホンの一分か二分動けば、明智の命はないからだ。
「危いッ」
たまり兼ねた恒川警部は、とっさの機転で、いきなり明智を弾道の外へ突き飛ばした。
同時に、谷山のピストルがカチッと鳴った。彼は妙な顔をしてカチ、カチと続けざまに、引金を引いた。
「ハハハハハハ」
突き飛ばされた明智がよろめきながら、こう笑した。
「丸が出ないようだね。そのピストルは」
谷山は、忽ちそれに気づいて、ピストルを床に投げつけた。
「畜生ッ、さては貴様、ピストルの丸まで抜き取っておいたのだな」
「御推察の通り。僕はこういう事には、非常に用心深いたちだからね」
明智がニコニコしながら答えた。
谷山は、絶望のあまり、しばらくの間、茫然と立ちつくしていたが、ふと、現在の彼の位置に気がつくと、口辺に笑いの影が浮かんだ。彼はその時ピッタリとドアに背中をつけて立っていたからだ。
「フン、ところで、君のいい草はそれでおしまいかね。だが、おれの方には、まだ最後の切札が残っていたのだぜ。こういう具合にね。……」
いいながら、既に谷山の姿はドアの外へ消えていた。カチカチとかぎをかける音。
「ワハハハハハ、ざま見ろ。恒川警部も、明智君も、なまじ手出しをしたばっかりに、飛んだことになってしまったね。今にね、君達は一かたまりになって、その部屋でお陀仏様だよ」
ドアの外から、ゾッとする様な悪魔のじゅそがひびいて来た。
明智と、恒川氏と、文代と、倭文子母子の五人は、まんまと製氷室にとじこめられてしまった。
谷山は、一体彼等をどうしようというのだろう。
製氷室にとじこめられた五人のものは、思わず顔を見合わせた。
どうなるのかしら。何か犯人のわなにかかったのではあるまいか。五人とも、このまま命を奪われてしまうような、恐ろしい機械仕掛けが、どこかに用意されているのではないだろうか。
薄暗い電燈、黒い水をたたえた奇妙な池、機械の作る複雑な隠影、ろう人形の巨大な花氷、部屋にみなぎる身を切るような冷気などが、人々をおびえさせた。
「ハハハハハハ」
恒川警部が頓狂に笑い出した。その声が高い天井にこだまして、異様にひびいた。
「馬鹿野郎、あいつ我々をとじこめておいて逃げる積りだろうが、工場の外には、表にも、裏にも、厳重な見張りがついている。奴さん、今頃はもう刑事の誰かにつかまっている時分ですよ」
「僕もそう思うのだが、しかし……」明智は何か少し不安らしい調子で「兎も角、僕等はこの部屋を出なければ、あいつが出て行ってからもう大分時間がたった」
「僕におまかせなさい。こんなドアの一枚位」
恒川氏は、威勢よくドアにぶつかって行った。
ドシン、ドシン、……
部屋が地震のようにゆれた。
そして、三度目の体当りで、ドアの鏡板がもろくも、メリメリと破れた。
破れたかと思うと、その穴から吹き込む風と共に、人々は異様な臭気を感じた。物の焼ける匂いだ。
「オヤ、あいつ、ひょっとすると、……」
明智が思わずつぶやく。
ドアが開かれた。五人のものは、一かたまりになって、次の機械室へ走り出た。
「畜生め、ここにもカギをかけて行きやがった」
恒川警部は、機械室の出口のドアに走り寄って叫んだ。
またしても、体当りだ。恐ろしい音を立てて、二三度部屋がゆれたかと思うと、ドアは蝶交いから離れて、外の廊下へ倒れてしまった。
倒れると同時に、アア、やっぱりそうだ。黄色い煙が、モクモクと室内へ侵入して来た。火事だ。谷山は工場に火を放ったのだ。
鋭い女の悲鳴が起った。そして、ワーッと泣き出す子供の声。茂少年だ。
明智と恒川氏とは、狭い廊下へ踊り出した。見ると、廊下の向うには、うずまく毒煙を隔てて、チョロチョロと、赤黒い焔が隠顕している。
だが、外に逃げ道はない。この廊下を突き切るばかりだ。
「早く、早く、ここを走り抜けるのです」
恒川氏が叫んで、先頭に立った。
倭文子の手を取る文代、泣き叫ぶ茂少年を抱き上げた明智小五郎という順序で、火焔に向って突進した。
アア、あぶなかった。彼等が製氷室で、ほんの少し躊躇していたら、無事に逃げ出すことは出来なかったに相違ない。谷山は、無論彼等を焼き殺してしまう積りだったのだ。
人々は、恒川警部の肩の力に感謝しなければならない。ドアがあんなに早く破れなかったら、もっとひどい目に会っていたに違いないからだ。
一同は無我夢中で門外に走り出た。幸い、誰も怪我をしたものはない。
振り返ると、工場の窓という窓から、黄色い煙が吹き出している。
「どうしたのです。あの煙はなんです」
見張り番を勤めていた二人の刑事が駆け寄って、一同に呼びかけた。
「放火だ。犯人はどうした。谷山は、三谷は、あいつを捕えたか」
恒川氏が息せききって、呶鳴り返した。
「イイエ、誰も出て来ません。裏口じゃありませんか」
刑事が答える。
「よし、君達はここを動いちゃいけない。じっとしているんだ。そして、どんな奴であろうと、人間の形をしたものが出て来たら、有無をいわせず引くくるのだ」
恒川氏は、いい捨てて、単身裏口へと走って行った。
だが、裏口の刑事も同じ答えだ。誰も工場から逃げ出した者はない。
不思議だ。火の手はすでに工場全体に廻った。この火焔の中に、どうして潜伏していられるものか。
兎角する内に、火事場の混乱が始まった。あるいは近くあるいは遠く、警鐘の物すごき合奏、早くも駆けつけた消防車のサイレン、提燈の火と共に、群り来る群集、エンジンのうなり声、飛び違う消防手、火の粉の雨、逃げまどう人波、泣き声、わめき声。……最早や、捕り物どころではなかった。
だが、その中でも、恒川氏初め刑事達は、鵜の目鷹の目、犯人らしき人物が逃げ出しはせぬかと、一生懸命見張っていたが、ついに鎮火するまで、疑わしき人物さえ発見することが出来なかった。
「ひょっとしたら、彼奴、自殺したのかも知れぬぞ」
恒川氏がむなしく火事場を眺めながら、つぶやいた。
「僕も、それを考えていた所です」
側に立っていた部下の一刑事が、合づちを打った。
逃げ出した奴がないとすると、そうでも考える外はなかった。谷山はもうのがれられぬと観念したのだ。どうせ絞首台にのぼる位なら、敵の倭文子を初めとして、恨み重なる探偵や警部を道連れに、いさぎよく自殺をしようと決心した。それには五人のものを一室にとじこめておいて、工場に火を放ちさえすればよいのだ。あいつの考えつき相な事である。
翌朝、焼跡捜索の結果、恒川氏の推察が的中したことが分った。
人夫達は、先ず第一に、大小二つの死骸に驚かされた。
「ヤ、死骸だッ」
最初それを見つけた男は、頓狂な叫び声を立てて飛びのいた。
しかし、それは、本当の死骸ではなかった。例の花氷のろう人形なのだ。氷が厚かったために、中のろうがとけ切る暇がなく、形はくずれながらも、裸体人形のおもかげをとどめていた。
死骸でないと分っても、そんな不気味な代物を見た人夫達は、ひどく神経的になっていた。
「オイ、今度は本物だ。人間のお骨だ」
間もなく一人の人夫が叫んだ。
「ヤ、本物だ。本物だ」
今度こそ間違いでないことがわかった。
焼けて灰になった材木の下に、バラバラに砕けた人骨が埋まっていた。そこは、建物の内でも、最も火のはげしかった部分だから、肉も臓腑もとけてしまったとしても、不思議はなかった。
巡査が駆けつけた。
「やっぱり、犯人はここで焼け死んだのだ」
彼は警視庁にこのことを急報した。
しばらくすると、恒川警部が明智小五郎を同伴してやって来た。
「僕の思った通りだ。奴はとうとう自殺したのです」
バラバラの白骨を前にして、警部が感慨をこめていった。
「そうです。彼奴は死んだのかも知れません。しかし、……」
明智はむずかしい顔をして言葉を切ったまま、だまり込んでしまった。彼にも、この白骨が谷山のものでないと、いい切る程の自信はなかったからだ。
執念
事件は落着した。
吸血鬼の如き執念の悪魔、谷山三郎は死んでしまった。彼の為にさんざん責さいなまれ、最後には、焼殺されようとさえした畑柳倭文子は、危く難をのがれて、元の無事平穏な生活に帰った。目出度し、目出度しである。誰しもそれを疑わなかった。
だが、たった一人、事件の落着を信じない人物があった。明智小五郎である。彼にはあの蛇の様な執念が、あのまま消え失せてしまったとは、どうしても考えられなかった。火事は倭文子を焼殺す為ではなくて、ただ悪魔の「火遁の術」であったとしか思えなかった。
「火遁の術」だ。それを一層まことしやかに見せる為の白骨だ。焼けてボロボロになった白骨には、目印がないからだ。生理標本室の骸骨を持って来て、ころがしておいても、充分身代りになるからだ。
それを疑っている人物が、明智小五郎たった一人であったことが第一の不幸であった。しかもその明智が、あの火事騒ぎ以来、いつかの打撲傷が原因で、ドッと床についてしまったことが更に一層の不幸であった。
偶然であったか、あるいは不可思議なる天の摂理であったか、明智の病気が、この物語りに意外な、しかもまた考え様によっては、甚だ妥当な結末を与えた。それは、いわゆる「目出度し、目出度し」ではなかったのだけれど。
ある日恒川警部が、本郷のS病院に入院中の明智小五郎を見舞った。
「もう、あれから半月ですね。しかし、何の変った事もありません。やっぱり谷山は火事場で焼け死んだのが本当でしょう。でなくて、こんなに長い間、沈黙している筈がありません」
警部も、多くの人々と同じく、谷山焼死説を信じていた。
「我々は、あの骨が谷山のものであるという、何等の確証を持ちません。探偵道には『多分そうだろう』という考え方は許されないのです。どんなさ細な疑いも見のがしてはなりません。それが非常に重大な結果をひき起すことがあるからです」
明智はベッドに仰臥したまま、肩のいたみに顔をしかめながらも、熱心にいった。
「で、僕等は警戒しているのです。畑柳家には今でも、二名の刑事が書生に化けて入り込んでいます。だが、何の変ったこともありません。倭文子さんがひどく快活になって行く外には」
警部は苦々しげにいった。
「快活に?」
「そうです。困った人です。あれに懲りて謹慎していなければならない倭文子さんが、半月たつかたたぬに、若い男友達をこしらえて、毎日の様に逢っているということです。谷山二郎が悶死したというのも、無理ではないのかも知れません。あんな事件をひき起した元は、やっぱりあの人です。あの人にもいやな弱点があるのです」