その日第一回のラジオ・ニュースで、このことが、東京は勿論、全国に伝えられた。.8
倭文子の方にも谷山の復讐を受けるだけの罪はあったのかも知れない。谷山ばかりを責めるのは、たとえ彼が冷酷無悪の殺人者であったとしても、少し酷かも知れない。
恒川氏も明智も、「困ったものだ」という目を見かわして、だまり込んでしまった。
看病につき添っていた文代さんも口をはさんだ。
「私、だまっていましたけれど、そういえば、思い当ることがあります。二三日前、帝劇の前を通りました時、倭文子さんとそっくりの方が、自動車を降りて、あの正面の入口から這入っていらっしゃるのを見かけましたわ。それがお一人ではないのです。若い男の方と、さも親し相に肩を並べて……」
あんな恐ろしい事件のあった直後、倭文子がこりずに、勝手気ままな真似を始めたというそのことが、既に何かの前兆のように感じられた。これでは無事に済む筈がないというボンヤリした気持が、誰の胸にもあった。
「あたし、何だか、こわい様に思いますわ」
文代さんが、ふと、その恐れを口にした。
「こわいって、倭文子さんの生活がですか。それとも、谷山がどっかでまだ生きているという考えがですか」
ベッドの明智が、占者にでもたずねるようにいった。
「両方ですわ。あたし、倭文子さんがあんな風だと、尚更谷山が死んだのはうそのように思われるのです。この二つの事柄には、恐ろしい運命のつながりがある様な気がしますの」
文代さんは、考え考え、なぞのようないい方をした。
「恒川さん。僕もそんな風に感じるのです」明智は真面目な低い声でいった「これは理論ではありません。感覚以上のものが、直接心にささやくのです。あなた方のいわゆる第六感という奴かも知れません」
恒川氏は、妙な気持になった。ここに二人の占者がいる。そして、陰気な予言をしているのだ。
しばらく話し続けていると、看護婦が、恒川氏へ電話を知らせて来た。警視庁からだ。それを聞くと、警部はたちまち職業的な態度に帰って、アタフクと電話室へ出て行ったが、間もなく引返して来た彼の顔色は変っていた。
「明智さん、君の予言は的中しました」
「エ、何ですって?」
「倭文子さんが、殺されたのです」
一刹那、異様な沈黙があった。三人はだまって、お互の目を見合った。
「くわしいことは分りませんが、犯人の手懸りは全くない。非常に不思議な殺人事件だという知らせでした」
警部は帰り支度をしながらいった。
「僕は兎も角畑柳家へ行って見ます。その上でくわしい事情をお知らせしましょう」
「電話を下さい。僕も現場へ行けないのが残念です。しかしここの電話室位なら歩けますから是非模様を知らせて下さい」
明智は病床から起き上る様にして、熱心に頼んだ。
恒川氏がタクシーを飛ばして、畑柳家へ行って見ると、書生に変装した二人の刑事が、顔色をかえて玄関に出迎えた。検事局の人々も既に来着していた。
殺人現場は、読者にも馴染の深い例の洋風客間であった。倭文子はそこの長椅子の前に、あけにそまって絶命していた。致命傷は背後から左肺の深部に達する突き傷で、兇器は別段特徴もない短刀であった。
「全く分りません。どうしてこんなことが起ったのか、まるで夢の様でございます」
その客間には、ベソをかいた茂少年をだきしめるようにして、乳母のお波がたたずんでいた。
「わたし、あれはただおばけだと存じて居りました。それがこんな本当の人殺しをするなんて……」
恒川氏は、お波のこの異様な言葉を、聞きとがめないではいられなかった。
「お化けだって。何かそんなことでもあったのかね」
「エエ、奥様が、それを御覧になったのです。四五日前のことでございます。奥様は、婆あや夢かも知れないけれどといって、私にお話しなさいました。真夜中に、妙な影の様な人間が、奥様の寝台の枕もとにションボリ立って、じっと奥様の寝顔をのぞき込んでいたのだそうでございます」
「フン、そいつはどんな風体をしていたとおっしゃったね」
警部はお波の怪談に興味を感じた。
「それがあなた。着物は何だか黒っぽいもので、ハッキリ分らなかったけれど、顔は、確かにあの三谷のやつに相違なかったと、おっしゃるのでございます」
「で、奥様は、どうなすったのだね」
「どうにもこうにも、ただもう夢中で、蒲団を頭からかぶったまま、ふるえていらしったと申します。そして、しばらくたって、怖々蒲団の中からのぞいて見ると、その時は、もうおばけは、どっかへ姿を消してしまって、何も見えなかったそうでございます。だから、やっぱり夢だったかも知れない。こんなこと誰にもいっちゃいけないよと、私だけにお打あけなさいました」
「お前は、そのいいつけを守って、誰にも話さなかったのだね」
警部は少し非難の調子を含めていう。
「エエ、まさかこんなことになろうとは、夢にも思わぬものですから……わたし、奥様の気のせいで、そんなものをごらんなすったのだろうと思いましてね」
お波も倭文子のだらしない生活を見兼ねていたのだ。
「ところが、あなた。それもつい今朝になって分ったのでございますが、奥様のごらんなすったのは、満更夢ではなかったのです」
「ほう、すると、やっぱり谷山が、生きてここへ忍び込んだ証拠でもあるというのかね」
「女中の花が、ソッと私にいいますには、この間中から、夜の内に、台所の戸棚に入れておいたハムだとか、卵とか、色々なものがなくなっているというのでございますよ。若しや、誰かが、縁の下にでも忍び込んでいたのではありますまいか」と、お波は声をひそめる。
「それはいつ頃からだね」
「やっぱり四五日前、丁度奥様がおばけをごらんなすった時分からだと申しますの」
同じ犯罪現場には、所管警察の司法主任が、最前から窓やドアや調度などを熱心に調べ廻っていたが、彼はそれをしながらお波の話しを小耳に入れたらしく、その時、二人の側へやって来て口をはさんだ。
「しかし、縁の下にもせよ、天井にもせよ、そこからこの部屋へ、どうして入ったか、又どうして出て行ったかということが問題です。それは婆あやさん、あなたが証人じゃありませんか」
「エエ、それがわたしも不思議で不思議で仕様がないのですよ」
お波は眉をしかめて、同意する。司法主任は恒川氏に向き直って説明した。
「この婆あやさんが、被害者と話していて、子供をつれてちょっとの間廊下へ出ている隙に、犯罪が起ったのです。悲鳴を聞きつけて、ドアを開いて見ると、被害者はこの通り倒れていて犯人は影も形もなかったというのです。そうだったね、婆あやさん」
「エエ、その通りでございます。茂ちゃんを廊下で遊ばせていたのは、僅か五分かそこいらです。その間、わたし、このドアのそばを一度も離れませんから、悪者はどこか、もっと別の所から入ったに違いございません」
「ところが、不思議なことには、外に入口といっては、全くないのです」司法主任が引きとって「窓には、鉄格子がはめてあります。天井は漆くいで塗かためてあります。床板にも異状はありません。といって、この部屋には、ごらんの通り、戸棚も押入れも何もないのですから、何かの蔭に潜伏していたという想像は、全然不可能です」
恒川氏は、この説明を聞いても、俄に信用する気にはならなかった。以前同じ建物の二階の書斎でも、同じ殺人事件が起り、犯人の出入が全く不可能に見えた実例があるからだ。
そこで、恒川氏は、自ら床をはい廻り、壁をさすり廻して、長い時間、綿密極まる調査をとげた。
天井にも壁にも床にも、隠し戸などは全くなかった。窓の鉄格子も、新に倭文子が取りつけた、頑丈極まるもので、何等の異常がなかった。
とすると、残るは入口のドアたった一つだ。お波が繰返し繰返し取調べられた。だが、彼女は断乎として前言をひるがえさなかった。
「そのドアは、私が部屋を出てから、あのことが起るまで、絶えず私の目の先にあったのです。いくらもうろくしても、そこを人が通るのを、見のがす筈はありません」
といい張った。
すると、犯人は空気のように、フワフワと形のない奴であったか。倭文子が自殺したのか、どちらかでなければならない。しかし、二つとも考えられぬ事だ。倭文子の傷は、どうしても自分では、つけられぬような個所にあった。
恒川氏は途方にくれた。そしてさっき病院で明智に頼まれたことを思い出した。
「そうだ、兎も角も、明智君に電話をかけよう」
幸い、その部屋に卓上電話があった。病院を呼び出して、しばらくまつと、明智の弱い声が出た。彼は熱のある身を、病院の電話室まで運んだのだ。
警部は要領よく、殺人現場の模様、犯人の侵入不可能であった事実を告げた。
明智は電話口で、しばらく考え込んでいる様子だったが、やがて、やや活気づいた声が響いて来た。
「倭文子さんは、その部屋の家具も新しいものと取替えたのですか。そして、その家具屋が来たのは、いつでしょう。誰かに聞いて下さい」
警部はお波にたずねてから答えた。
「すっかり取替えたのだそうです。家具屋が運んで来たのは五日前だそうです。しかし、それが何か……」
「五日前……谷山のお化が現れたのも、台所の食べものがなくなったのも、丁度その頃からですね」
「アア、そういえば、そうですね」
恒川氏は、真相は分らぬながら、何か意味ありげな時日の一致に驚いて答えた。
「倭文子さんは、長椅子の前に倒れていたのですね。……それで、婆やがその部屋を出る時には、被害者はどこにいたのです。長椅子に掛けていたのではありませんか」
「そうです。その通りです」
「すると、長椅子の上にも血が流れてはいませんか」
「流れています。可成の量です」
そこで、明智はまたパッタリだまり込んでしまった。
恒川氏は電話をかけながら、明智の推理が、ある点に集中されて行くのを感じた。だが、それが何であるかを、まだハッキリつかむことが出来ないのだ。
「モシモシ、それではもう電話を切りますよ」
いつまでたっても、明智がだまっているので警部が念を押した。
「イヤ、ちょっと待って下さい。何だか分りそうです」
突然、明智の興奮した声が聞えた。
「絶対に犯人の出入する個所はなかったのですね」
「絶対になかったのです」
「それから、犯罪が発見されてから、その部屋が少しでもからっぽになった時はありませんか。死骸だけ残して、みんな出てしまったことはありませんか」
恒川氏は、側にいた刑事にたずねて、答えた。
「ありません。絶えず誰かが、部屋の中にいたそうです」
「ではやっぱりそうです。僕は、犯人は多分、まだその部屋の中にいると思うのです」
恒川氏は、びっくりして、あたりを見廻した。明智は電話で犯罪を解決しようとしている。しかも、犯人がまだこの部屋にいるというのだ。だが、この警官達の詰かけている部屋の、どこに犯人がいるのだろう。隠れる様な場所のないことは、さい前からの調査で、充分解っているのだ。
「ここには、検事局と警察以外のものは、誰もいません……」
といいさして、警部はふと異様な考えにうたれた。検事局や警察のものばかりだとはいえぬ。乳母のお波がいる。彼女は犯罪の直前、倭文子に接近したただ一人の人物だ!
恒川氏は、ジロジロお波の方を眺めながら、意味ありげに続けた。
「その外には乳母のお波さんだけです」
「イヤ、まさか犯人が、あなた方の目につく場所にいるとは思いません。隠れているのです。若し僕の想像が間違っていなければ、奴は非常に変てこな、誰も探しても見ない様な所に隠れているのです」
「そんな場所は絶対にありません。僕はあらゆる部分を調べました。まさか僕が、人間一人見落としたとは考えられません」
警部は少々かん癪を起していい放った。
「ところが、あなたも調べなかった部分があるのです」
「どこです。それは一体どこなのです」
「恒川さん、あなた、園田黒虹という小説家を覚えていますか」
明智は突然、妙なことをいい出した。
「知ってます」
「あの男が『椅子になった男』という小説を書いているのを、ごぞんじですか」
「椅子になった男……ですって?」
「そうです。ね、園田は谷山の助手を勤めて非業の最後をとげた男です。彼等は一度は友達だったのです。で、谷山があの小説を読んでいない筈はありません。読めば、あいつのことだ。小説家の考え出した奇抜な空想的犯罪を、そのまま実際に行って見る気にならなかったとはいえません。……なぜって、ホラ、丁度五日前には、新調の家具が、その部屋に運びこまれたのですからね」
「家具ですって?」
園田黒虹の奇怪な小説を読んでいない恒川氏には、まだ明智の真意が分らなかった。
「倭文子さんの殺された長椅子です。その長椅子をよく調べてごらんなさい」
警部は、受話器を握ったまま、その長椅子に目を向けた。そして、ジッと見つめている内に彼の目は、いい知れぬ驚愕に、大きく大きく見開いて行った。
カタンと音を立てて、受話器が、彼の手をすべり落ちた。
「あれ、あれを見給え。あの椅子の下を見給え」
警部の叫び声に、人々の視線が、そこに集中された。
ポトリ、ポトリ、…………
雨だれのような、かすかな音が聞こえる。
長椅子の底から、床のじゅうたんの上へと、真赤なしずくが垂れているのだ。そして、いつの間にか、じゅうたんの窪みに、不気味な血の池が出来ていたのだ。
殺された倭文子の血潮でないことは明かだ。成程長椅子の表面に血のあとはあるけれど、それはとっくにかわいてしまった。今頃までしたたり落ちている筈がない。
しかも、今、血の雨だれは、刻々その速度をまし、ついには赤い毛糸の様につながって、益々はげしく降りそそいでいるではないか。
巨大な長椅子そのものが、まるで一個の生物ででもある様に、血を流しているのだ。
人々は息を呑んで、その血の雨だれを凝視したまま、立ちつくした。
無生物の長椅子が、うめき、のたうつが如き、奇怪な幻想が、彼等を悩ました。
園田黒虹の犯罪小説「椅子になった男」を読まれた読者諸君は、すでにすでに、悪魔のトリックが如何なるものであったかを、気付かれた筈だ。
アア何という異様な着想であったろう。谷山三郎は、その長椅子の中に身をひそめて、もたれと座席との境目の、深い隙間から短刀を突き出して、そこに腰かけていた倭文子を殺害したのだ。
彼は黒虹の小説をそのまま、椅子になった男であった。
長椅子を破って見ると、厚いクッションの下に、バネの代りに、瀕死の谷山が、長々と横たわっていた。
彼はそこから、恒川氏の電話を聞いて、最早やのがれられぬ運命と、観念したのであろう。可哀相に武器もない彼は、小さな懐中ナイフを心臓部に突き立てて、ほとんど絶命していた。執念の復讐は為し遂げた。死んでも惜くない命だ。
人々は谷山を椅子の中から引き出して、倭文子の死骸のそばに横たえた。
美しい男、美しい女、彼等はかつて恋人同志であった。そして実は討つものと討たれるものであった。それが双方ともほとんど同時に去って行くのだ。
「谷山、僕だ、恒川だ。分るか。いいのこすことはないか」
警部は、瀕死の谷山に、慈悲の言葉をかけた。
谷山はかたくとじていた両眼を、僅かに開いて、恒川氏の顔を見た。それから、かすかに頭を動かして、隣に横たわっている倭文子の死骸を眺めた。
彼は一言もいわなかった。ただ最後の力をふりしぼって、血の気の失せた手を、倭文子の方へのばした。
その手先が、まるで虫のはう様に、少しずつ、少しずつ、にじり寄って、とうとう倭文子のつめたい左手にさわった。
アア、何という執念だ。復讐鬼は、瀕死の際に、敵の死骸につかみかかろうとしているのか。
イヤ、そうではない。彼はつかみかかったのではない。倭文子の手を握ったのだ。つめたい手と、つめたい手とが、握り合わされたのだ。
そして、谷山の口が奇怪にゆがんだかと思うと、ゾッと身のすくむ様なすすり泣きの声が漏れ、そのまま彼の体は動かなくなってしまった。
人々は、異様な感慨にうたれて、深い沈黙の中に、手を握り合った男女の死体を眺めた。そこには最早や何等の敵意も感じられなかった。彼等はまるで、美しい一対の情死者の様に、仲むつまじく眠っていた。
× × × × × ×
復讐鬼谷山三郎が、最後の殺人に使用した、巧妙な仕掛けの長椅子は、長く警視庁に保存され、参観者達の目をみはらせている。読者諸君が伝手を求めて、あの陳列室に入る機会があったなら、今でも、その不思議な長椅子を見ることが出来るであろう。
これを製作した家具屋が取調べられたことはいうまでもない。だが、彼は恐らく谷山から莫大な報酬を受取ったのであろう、惜しげもなく店を捨てて、既に行方をくらましていた。
憐れをとどめたのは、一人取残された茂少年であった。今、彼は乳母のお波と共に、畑柳邸を引継いだ親族のものに養われているが、作者は畑柳邸の新主人が、この可憐なる孤児に対して、親切ならんことを祈るものである。
明智小五郎は、事件の殊勲者として、例によって新聞に書き立てられた。明智びいきの読者達は、その記事の最後に、近々名探偵とその恋人の文代さんとが結婚式を上げる旨記されているのを発見して、好意の微笑を禁じ得なかった。同時に、新婚の明智小五郎が、恐らく当分の間は、血なまぐさい探偵事件に手を染めないであろうことを、遺憾に思わないではいられなかった。
底本:「江戸川乱歩全集 第6巻 魔術師」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年11月20日初版1刷発行
2013(平成25)年2月20日2刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十二巻」平凡社
1932(昭和7)年2月発行
初出:「報知新聞夕刊」
1930(昭和5)9月30日~1931(昭和6)3月12日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。