だが、二人の情熱は、時がたつに従って、衰えるどころか、愈々濃かになって行ったので、そうした曖昧な状態を、いつまでも続けることは出来なかった。
「倭文子さん、僕はもう罪人の様な密会に堪えられなくなった。君の境遇をハッキリさせて下さい。例の畑柳未亡人というのは、一体何のことです」
三谷はある日、鹽原以来幾度も繰返した質問を、今日こそはという意気込みで持出した。「畑柳未亡人」というのは、死んだ岡田道彦が、ふと口を辷らした、倭文子のもう一つの名前なのだ。
「あたし、どうしてこんなに臆病なのでしょう。きっと、あなたに見捨てられるのが、怖いからだわ」
倭文子は冗談らしく笑って見せたが、どこか涙ぐんでいる様な調子であった。
「君の前身が何であろうと、そんなことで、僕の気持は変りやしない。それよりも、今の状態では、僕は君のおもちゃにされている様な気がするのだ」
「マア」
倭文子は哀しい溜息をついて、暫く押し黙っていたが、突然、妙なやけくそみたいな調子になって、ぶっきら棒にいった。
「あたし、未亡人なのよ」
「そんなことは、とっくに想像している」
「それから、百万長者なのよ」
「……」
「それから、六つになる子供があるのよ」
「…………」
「ホラね、いやあな気持になったでしょう」
三谷青年は、何をいっていいのかわからない様子で、黙り込んでいた。
「あたし、みんないってしまいますわ。聞いて下さる。アア、いっそのこと、今からすぐ、あたしのうちへいらっしゃらない? そして、あたしの可愛い坊やを見て下さらない? それがいいわ、それがいいわ」
倭文子は、異様な昂奮に上気した頬を、流れる涙も意識しないで、フラフラと立上ると、青年の意向を確めもせず、いきなり柱の呼鈴を押した。
間もなく、二人は何が何だか分らない、気違いめいた気持で、自動車のクッションに膝を並べていた。
三谷は「そんなことで、僕の心が変るものですか」といわぬばかりに、じっと倭文子の手を握りしめていた。
二人とも一言も口を利かなかった。だが、頭の中では、錯雑した想念のアラベスクが、風車の様に廻転していた。
三十分程で、車は目的地に到着した。降り立った二人の前に、広い石畳と、御影石の門柱と、締め切った透かし模様の鉄扉と、打続くコンクリート塀があった。
門柱の表札には、案の定「畑柳」と記されていた。
通されたのは、落ついた、併し非常に贅沢な飾りつけの、広い洋風客間であった。
大きな肘掛椅子の掛け心地は悪くなかった。三谷の椅子の真向うに、深々とした長椅子があって、派手な模様の天鵞絨クッションを背に、丸い肘掛へ、グッタリと凭れかかった倭文子の、匂わしき姿があった。
倭文子の膝に肘をついて、長椅子の上に足をなげ出している、可愛らしい洋装の少年は、畑柳氏の忘れ形見、倭文子の実子の茂ちゃんだ。
くすんだ皮の長椅子の凭れをバックにして、倭文子の白い顔、派手なクッション、茂少年の林檎の様に赤い頬。「母と子」と題する、美しい絵の様に眺められた。
三谷は二人から目を上げて、彼等の頭の上の壁に懸っている、引伸ばし写真の額を見た。何となく人相の悪い四十恰好の男だ。
「死んだ畑柳ですの。こんなもの懸けて置いて、いけませんでしたわね」
倭文子は神妙に詫言をした。
「それから、茂ちゃんも。この子も畑柳と同じ様に、あなたには、お目ざわりでしょうか」
「イイエ、決して。こんな可愛い茂ちゃんを誰が嫌うものですか。それにあなたに生写しなんだもの。
茂ちゃんの方でも、小父さん好きでしょう。ね、そうでしょう」
そういって、三谷が少年の手を取ると、茂はニッコリ笑って、肯いて見せた。
窓の外には、ここの庭にも紅葉は色づいていたし、常緑木の茂みに、うらうらと暖かい日ざしが照りはえて、ほの白く、うら悲しく、夢見心地の一ときであった。
倭文子は、茂少年の頬を愛撫しながら、突然、彼女の身の上話を始めたが、周囲の情景がそんな風であったから、それさえも、何かしら、妖しき物語めいて聞こえたのである。
だが、彼女の身の上話を、そのままここに写すのは、余りに退屈なことだから、この物語に関係ある部分丈けを、極かいつまんで、記して置くに止めよう。
十八歳の倭文子は、両親を失い、遠い縁者に養われる身であった故か、金銭と、金銭によって贖い得る栄誉とに、珍らしい程、烈しい執着を持つ娘であった。
彼女は恋をした。だが、その恋を弊履の如く打棄て、百万長者畑柳に嫁づいた。
畑柳は年も違った。容貌も醜かった。その上、金儲けの為に、法網をくぐることばかり考えている悪者であった。だが、倭文子は畑柳が好きだった。彼が儲けてくれるお金は、畑柳その人よりも、もっと好きだった。
だが、悪運の強い畑柳にも、遂に報いが来た。法網をくぐりそこねて、恐ろしい罪に問われ、獄舎の人とならねばならなかった。
倭文子と茂とは、一年余りの月日を、淋しい日蔭の身で暮す内、獄中に発病した畑柳は、遂にそこの病舎で、この世を去った。
畑柳にも、倭文子にも、遺産の分配を迫る程の親戚はなかったけれど、巨万の富と、まだ若い未亡人の美貌に引きよせられて、求婚者が次から次へと現れ、余りの煩わしさと、富を目当の求婚のおぞましさに、茂は親切な乳母に任せ、たった一人で、偽名をして、気儘な湯治に出掛けたのだが。
そこで同じ宿に泊り合わせた三谷青年は、彼女の素性を少しも知らないで、彼女に烈しい思いを寄せた。それさえ好ましきに、あの毒薬決闘の際の、何ともいえぬ男らしい態度。倭文子の方でも、三谷青年を思い始めたのは、決して偶然ではなかったのだ。
「あたしが、どんなに慾ばりで、多情で、いけない女だかということが、よくお分りになりまして?」
倭文子は、長い打あけ話を終って、やや上気した頬に、棄て鉢な微笑を浮かべていった。
「その最初の、貧乏な恋人というのはどんな人だったのです。忘れてしまった訳ではないのでしょう」
三谷の口調には、一寸形容しにくい、妙な感じが含まれていた。
「あたしその人にだまされたのです。初めはうまいことをいって、あたしを仕合せにしてやると約束して置きながら、ちっとも仕合せになんかならなかったのです。その人は貧しかったばかりでなく、ゾッとする様な、いやあな性質があったのです。でも、あたしを愛してはいたのですけれど、そうされればされる程、虫酸が走る程いやでいやで仕方がなかったのです」
「その人が今どうしているか、どこにいるか、あなたは、ちっとも知らないのですね」
「エエ、八年も前の昔話ですもの。それに、あたしまだほんの子供でしたから」
三谷は黙って立上ると、窓の所へ歩いて行って外を眺めた。
「で、つまり、これがあなたの愛想づかしなんですか」
彼は外を眺めたまま、無表情な口調でいった。
「マア」倭文子はびっくりして、
「どうして、そんなことおっしゃいますの。ただ、あたし、あなたにあたしの本当の境遇を隠しているのが、苦しくなったからですわ。子供まである、獄死をした罪人の妻が、あなたとこうしているのが、恐ろしくなったからですわ」
「そういうことで、今更、僕達が離れられると思っているのですか」
倭文子にして見れば、離れられぬからこそ、身の上を打あけたともいえるのだ。それが分らぬ相手ではない筈だ。
彼女も立って行って、三谷と並んで、窓の外を見た。少し赤みがかった日光が、立木の影を長々と投げている、美しい芝生に、いつの間にか、部屋を抜け出して行った茂少年が、彼の身体の二倍程もある、愛犬のシグマと、たわむれているのが見えた。
「子供と同じ様に、あなたにも罪はないのです。僕はそういうことで、あなたに対する心持が、変りはしない。それよりも、僕にはあなたの富が恐ろしい。あなたの最初の人と同じ様に、僕も貧乏な書生っぽでしかないのですから」
「マア」
倭文子は、三谷の肩に手を置いて、頬と頬とがすれ合う程も、近々と相手の顔を視つめながら、マアよかったといわぬばかりに、美しく美しく笑って見せた。
丁度その時、邸の塀外から、俗っぽい、笛と太鼓の音楽が聞えて来た。
一番早くその音に気づいたのは、シグマだ。彼は何か不安らしく、耳を動かしてその方を眺めた。茂少年も犬の様子に誘われて、聞き耳を立てた。
音楽が門の前あたりで止ったかと思うと、チンドン屋の鹽辛声が幽かに聞え始めた。
三谷と倭文子とは、茂少年がいきなり門の方へ、駈け出して行くのを見た。シグマも御主人のお伴をして、あとになり先になり走って行った。
門の外では、珍妙な風体のチンドン屋が、お菓子屋の広告の、連ね文句を呶鳴っていた。
胸には太鼓、その上に箱があって、お菓子の見本が並んでいる。着物は友禅メリンスを滅茶滅茶に継ぎ合わせた、和洋折衷の道化服、頭には、普通の顔の倍程もある、張りぼての、おどけ人形の首丈けを、スッポリかぶって、その黒い洞穴みたいな口から、鹽辛声がボウボウとひびいて出る。
チンドン屋の声は、人形の首をスッポリと冠っていたせいか、やすものの蓄音器みたいに、変に鼻にかかって、殆ど意味が分らぬ程であった。
だが、意味は兎も角、歌の様な節廻しが面白く、その上、異様の風体の珍しさに、茂少年は、門の外へ駈け出して、思わずチンドン屋の側へ寄って行った。
「坊ちゃん、ホラ、このお菓子を差上げます。サァ、召上れ。頬っぺたがちぎれる程、おいしくてたまらないお菓子!」
張りぼての顔を、おどけた調子で振り動かしながら、太鼓の上の見本のお菓子を差出した。
茂少年は、サンタクロースの様に、親切な小父さんだと思って、喜んでそのお菓子を受取ると、別にお腹がすいていた訳ではないが珍らしさに、早速口へ持って行った。
「おいしいでしょ。サア、これからこの小父さんが、太鼓叩いて、笛吹いて、飛び切り面白い歌を歌って聞かせますよ」
ヒューヒュラ、ドンドン。頭でっかちのおどけ面が、肩の上でクルクルクル。友禅メリンスの道化服が、ピョンピョコ、ピョンピョコ、操り人形みたいに、面白おかしく踊り出した。
踊りながら、チンドン屋は、段々畑柳邸の門前を離れて行く。茂少年は、余りの面白さに、つい我を忘れて、まるで夢遊病者みたいに、そのあとからついて行く。
踊るチンドン屋を先頭に、可愛らしい洋服姿の茂。そのまたあとには、小牛の様なシグマ。いとも不思議な行列が、淋しい屋敷町を、どこまでもどこまでも歩いて行った。
それとは知らぬ、客間の倭文子。チンドン屋の音楽が、段々遠ざかって、とうとう聞えなくなってしまったのに、いつまでたっても、茂少年が帰って来ないので、ふと心配になり出した。
女中を呼んで、門前を探させて見たが、茂は勿論、愛犬のシグマさえ、どこへ行ったのか、影も形も見えぬという。何とやら唯ならぬ感じだ。
倭文子も、三谷も、召使達も、青くなって、邸の内外隅まで探し廻ったが、どこにも姿はない。そこへ、所用があって外出していた、乳母のお波が帰って来て申訳がないと泣き出す騒ぎである。
まさかチンドン屋に連れ去られたとは想像もしなかったが、こんなに探しても見つからぬ所を見ると、若しや人さらいの所業ではないかと、誰の考えもそこへ落る。
警察へ届けるか、イヤ、もう少し待って見ようと、ゴタゴタしている間に、時間は容赦なくたって行く。
やがて日が暮て、戸外が暗くなるにつれて、不安は募るばかりだ。果しも知れぬ暗闇の中を、母の名を呼びながら、さまよっている茂少年の、哀れな姿が見える様で、悲しい声が聞える様で倭文子はもう、居ても立ってもいられぬ気持である。
暫くすると、元の客間に集まって、不安な顔を見合わせていた倭文子達の所へ、一人の書生が、真青になって、惶しく駆け込んで来た。
「確かに誘拐です。シグマが帰って来ました。こいつは坊ちゃんの為に、こんなに傷つくまで忠実に闘ったのです」
書生の指さすドアの外を見ると、小牛の様なシグマが、全身あけに染まって、悲しいうなり声を立てながら、グッタリと横わっていた。
ハッハッという、せわしい呼吸。ダラリと垂れた舌、ともすれば白くひきつって行く眼。数ヶ所にパックリ口を開いた、むごたらしい傷口。
倭文子は、廊下に寝そべっている、真赤なものを見た刹那、どこか遠い所で、同じ運命にあっている、いたいけな我が子の聯想の為に、フラフラとめまいがして、倒れ相になるのを、やっとこらえた。
彼女には、血みどろのシグマが、むごたらしく喘いでいるのが、いつまでたっても茂少年の、のたうち廻る姿に見えて仕方がなかった。
畑柳家には、執事の様な役目を勤めている、斎藤という老人がいたのだけれど、あいにく不在の為に、三谷が代って、警察へ電話を掛け、事情を告げて、茂少年の捜索を依頼した。
警察からは、係りの巡査が出向くという返事であったが、その用件をすませて、受話器を掛けるか掛けないに、またけたたましいベルが鳴った。
まだその卓上電話の前にいた三谷が、再び受話器を耳に当てて二言三言うけ答えをしている内に、彼の顔が真青になった。
「誰ですの? どこからですの?」
倭文子が心配に息をはずませて尋ねた。
三谷は送話口を手で押えて、振返ったが、ひどくいい悪く相に躊躇している。
「何か心配なことですの? 構いません、早くおっしゃって下さい」
倭文子がせき立てる。
「確に聞き覚がある。贋物ではありません。あなたのお子さんが、自身で電話口に出ていらっしゃるのです。だが……」
「エ、何ですって? 茂が電話口へ? あの子はまだ電話のかけ方もよく知りませんのに。……でも聞いて見ますわ、あの子の声は、あたしが一番よく知っているのです」
倭文子は駆け寄って、まだ躊躇している三谷の手から、受話器を奪い取った。
「エエ、あたし、聞こえて? 母さまよ。お前茂ちゃんなの? どこにいるの?」
「ボク、ドコダカ、ワカラナイノ。ワカラナイシ、ヨソノオジサンガ、ソバニイテ、コワイカオシテ、ナニモイッテハ……」
バッタリ声が切れた。突然、その怖い小父さんが、少年の口を手で塞いだらしい様子だ。
「マア、本当に茂ちゃんだわ。茂ちゃん。茂ちゃん。サア、早くお話し母さまよ。あたし、お前の母さまよ」
辛抱強く声をかけていると、暫くして、また茂のたどたどしい声が聞えて来た。
「カアサマ、ボクヲ、カイモドシテクダサイ。ボクハ、アサッテ、ヨルノ十二ジニ、ウエノコウエンノ、トショカンノウラニ、イマス」
「マア、お前、何をいっているの、お前の側に悪者がいて、お前にそんなことを喋らせているのね。茂ちゃん。たった一言、たった一言でいいから、今いる場所をおっしゃい。サア、どこにいるの?」
だが、少年の声は、まるで聾の様に、倭文子の言葉を無視して、子供らしくない、恐ろしいことを喋っている。
「ソコヘ、十マンエン、オサツデ、カアサマガ、モッテイラッシャレバ、ボクカエレルノ。十マンエンオサツデ。カアサマデナクチャ、イケナイノ」
「アア、分った分った。茂ちゃん安心おし、きっと助けてあげるからね」
「ケイサツヘ、イイツケルト、オマエノコドモヲ、コロシテシマウゾ」
アア、何ということだ。「お前の子供」というのは、話ている茂少年自身のことではないか。
「サア、ヘンジヲシロ。ヘンジヲシナイト、コノコドモガ、イタイメニアウゾ」
その言葉が切れるか切れないに、ワーッという、悲しい子供の泣き声が聞えた。
悪魔の情熱
何という残忍酷薄の所業であろう。少年少女を誘拐して、その身代金を強要する犯罪はしばしば聞く所であるが、誘拐した少年自身に脅迫の文句を喋らせ、その悲痛な泣き声を聞かせ、母親の心をえぐらんとするに至っては、かつて前例のない悪魔の奸手段である。
だが、倭文子にしては、悪魔の所業を悪むよりは、電話口でゾッとする様な、脅迫の文句を喋っている、茂少年の、何ともいえぬ恐ろしい境遇に、気も心も顛動して、何を考える余裕もなく、電話器にしがみついて、相手の声を失うまいと、半狂乱の体であった。
「茂ちゃん。泣くんじゃありません。母さまはね、お前のいうことなら、何でも聞いて上げます。お金なんぞ惜くはありません。承知しました。エエ承知しましたと、そこにいる人にいっておくれ、その代り茂ちゃんは、きっと、間違いなく、返して下さいって」
それに答えて、受話器からは、まるで無感動な、暗誦でもする様な、たどたどしい子供の声が聞こえて来た。
「コチラハ、マチガイナイ。オマエノホウデ、サッキノコトヲ、一ツデモタガエタラ、シゲルヲ、コロシテシマウゾ」
そして、カチャンと、電話が切れてしまった。
いくら六歳の幼児でも、彼のいっている文句が、どんな恐ろしいことだかは、分っていたに相違ない。それをあの無感動な調子で喋らせた、悪魔の脅迫が、どんなに烈しいものであったか。思うだに身の毛がよだつ。
三谷を初め、乳母のお波、女中などが電話の前に泣き伏た倭文子を、慰めている所へ、やがて、所管の麹町警察から、司法主任の警部補が、一名の私服を伴って、訪ねて来た。
「よくある手ですよ、ナアニ、お金なんか用意する必要はありません、新聞紙包か何かを持って、兎も角もその約束の場所へ行って見るのですね。そして子供と引換てしまうのです。あとは警察の方で、うまくやります。無論犯人を引括るのです。ただ、最初から我々が行ったのでは、犯人の方で用心して、逃げてしまいますから、あなたが、先方の申出を守って、警察の力を借りず、単独でお金を持参した様に見せかけるのですよ。僕はいつかも、この手で犯人をおびき寄せて、うまく逮捕した経験があるのです」
司法主任は、事もなげにいってのけた。
「しかし、犯人はその場で、お金を検べて見るでしょうから、若し贋物と分ったら、子供に手荒らな真似をする様なことはないでしょうか」
三谷が不安そうに尋ねると、警官は笑って見せて、
「我々がついています。現場附近に数名の巡査を伏せて置いて、万一の場合は、八方から飛出して、有無をいわせず引括ってしまいます。それに、犯人にとって、子供は大切な商品なのですから、仮令この計画が失敗しても、危害を加える様なことは、決してありません。一体、身代金請求なんて一時代前の古くさい犯罪で、今時、こんな真似をする奴は、よっぽど間抜けな賊ですよ。それに、従来この手で成功した例は、殆どないといってもよい位です」
結局、当夜は、予め現場附近の森蔭に七八名の私服刑事を、潜伏させて置いて、表面上は倭文子が単身、茂少年を受取りに出向くということに、相談が一決したが、三谷は倭文子の身の上を気遣う余り、更に奇抜な一案を提出した。
「倭文子さん、僕にあなたの着物を貸て下さい。あなたに化けて、僕が行きましょう。僕は学生芝居の女形を勤めた経験がある。鬘だって訳なく手に入ります。真暗な森の中です、大丈夫ごまかせますよ。それに、僕が行きさえすれば、腕ずくだって、茂ちゃんを取戻して来ます。そうさせて下さい。あなたをやるのは、どうも危険な気がします」
それ程にしなくてもと、反対意見も出たけれど、遂に三谷の熱心な希望が容れられ、彼が倭文子の身替りを勤めることになった。
当夜、三谷は髭のない顔に念入の化粧を施し、鬘を冠り、倭文子の着物を着て、学生芝居以来久しぶりの女装をした。
彼はこの奇妙な冒険に勇み立ち、女装そのものにも、少からぬ興味を感じているらしく見えた。自ら提案した程あって、彼の女装は、本当の女としか思われぬ程、よく出来た。
「きっと茂ちゃんを連れて帰ります。安心して待ってて下さい」
彼は出発する時、そういって倭文子を慰めたが、その時、双方とも女の姿で、顔を見合わせたのが、暫くの別れになろうとは、誰が予知し得たろう。
女装の三谷が、山下で自動車を降りて、山内を通り抜け、図書館裏の暗闇にたどりついたのは、丁度約束の十二時少し前であった。
交番もそんなに遠くはなく、桜木町の住宅街もついそこに見えているのだけれど、その一角は妙に真暗で、まるで深い森の中へでも這入った様な気持だ。
刑事達は、どこに潜伏しているのか、流石商売柄、それと知っている三谷にも、気配さえ感じられぬ。
四方に気を配りながら、暫く暗の中に立っていると、カサコソと草を踏む音がして、ボンヤリと黒く見える、大小二つの影が近づいて来た。小さい方は確かに子供だ。相手は約束をたがえず、茂を連れて来たのであろう。
「茂のお母さんかね」
黒い影が、囁き声で呼びかけた。
「エエ」
こちらも、女らしい低声で答える。
「約束のものは、忘れやしめえね」
「エエ」
「じゃ、渡してもらおう」
「アノ、そこにいるのは茂でしょうか。茂ちゃん、こちらへいらっしゃい」
「オッと、そいつはいけねえ、例のものと引換だ。サア、早く出しな」
段々、暗に慣れて来るに従って、ウッスリ相手の姿が見える。男の服装は半天に股引、顔は黒布で包んでいる。子供は可愛らしい洋服姿が、確に茂だ。
少年は余程激しい折檻を受けたと見えて、母親の姿を見ても、声さえ立てず、男に肩先を掴まれたまま、小さくなっている。
「それじゃ、確に十万円、百円札が十束ですよ」
三谷は、嵩ばった新聞包を差出した。
それにしても、余りの金高である。いくら可愛い子供の為とはいえ、易々と渡すのは、少し変だ。相手の男が果して信用して受取るであろうか。
だが、賊の方でも、いくらか血迷っていたと見え、包を受取ると、別段検べもせず、子供をつき放して置いて、いきなり暗の中へ逃げ出した。
「茂ちゃん。小父さんですよ。母さまの代りに、君を迎えに来た、小父さんですよ」
三谷が、少年を引寄せて、そんなことを囁いていた時、賊の逃げた方角に当って、異様な叫び声と共に、何かが木の幹にドシンドシンとぶつかる音がした。
「捕えた。賊は捕えたぞ」
木蔭に忍んでいた刑事の一人が難なく曲者をとらえたのだ。
四方に起る「ワッ」という様な声、人の走る足音。
刑事の伏勢が、全部その方へ馳せ集った。
余りにあっけない捕物であった。
刑事の一団は、賊の繩尻をとって、その顔を見る為に、少し離れた所に立っている常夜燈の真下へ連れて行った。三谷も少年の手を引いて、そのあとからついて行ったが、明るい電燈の光で、少年の顔を一目見ると、彼はなぜか「アッ」と異様な叫声を発した。
読者諸君が想像された如く、三谷が取戻した少年は、茂とは似ても似つかぬ贋物であった。茂の洋服を着た、見も知らぬ子供であった。
だが、仮令茂が贋物でも、賊の本人が捕えられているのだ。子供はいつでも取戻せる。
三谷は見知らぬ少年を引連れて、賊を取巻く刑事の一団に近寄って行った。
ところが、これはどうしたのだ。そこにもまた、実に変てこなことが起っていたではないか。
「ヘエ、わしは、そんな悪いこととは知らねえで、十円の金に目がくれて、そいつのいいつけ通りやったまでです。わしは、何も知らねえ者です」
男は、覆面をとって、しきりと詫言を並べていた。
「僕はこいつを知っている。この山内に野宿している新米の子持ち乞食だ。あの洋服を着せられているのは、こいつの子供なんだよ」
一人の刑事が、男の言葉を裏書した。
「それで、貴様が贋の子供と引換えに、金を受取ると、どっかに待受けている、その頼んだ男の所へ、持って行く約束なんだな」
別の刑事が、乞食を睨みつけて呶鳴った。
「インヤ、金を受取れなんて、いやしねえ。ただ、女の人が四角な包を持って来るから、それをもらって、どっかへ捨っちまえ、といったばかりで」
「ホウ、そいつは妙だね。すると、賊の方では、金包が新聞紙だということを、チャンと知っていたんだな」
何だか狐につつまれた様な、変な具合だ。
「そいつの顔を覚えているだろう。どんな奴だった」
また一人の刑事が尋ねた。
「それが分らねえです。大きな黒眼鏡をかけて、マスクをつけて、その上外套の袖を顔へ当てて、物をいっていたんで……」
アア、この風体! 読者は恐らく、ある人物を思い出されたことであろう。
「フン、合トンビを着ていたのか」
「ヘエ、新しい上等の奴を着て居りました」
「年配は?」
「ハッキリ分らねえが、六十位の爺さんでがした」
刑事達は、この子持ち乞食を、一応警察署に同行して、なおきびしく取調べたが、上野公園で聞き取った以上のことは何も分らなかった。
態々女装までして、ノコノコ出かけて行った三谷は、実に間の悪い思いをしなければならなかった。
彼はそこそこに、刑事達に挨拶をして置いて、通りがかりのタクシーの中へ逃げ込んで、畑柳家に引返した。
帰って見ると、更に驚くべき事件が、彼を待受けていた。
「奥さんは、さい前、あなたからのお手紙でお出掛けになりました」
という書生の言葉だ。
「手紙? 僕はそんなもの書いた覚えはないが、その手紙が残っていたら見せて下さい」
三谷は烈しい不安の為に、胸をワクワクさせて、叫んだ。
書生が探し出して来た手紙というのは、何の目印もない、ありふれた封筒、ありふれた用紙、それに巧みに三谷の筆蹟を真似て、こんなことが書いてあった。
倭文子様。
この車に乗って直ぐ来て下さい。茂ちゃんが、怪我をして、今病院へ担ぎ込んだ所です。早く来て下さい。
上野、北川病院にて、三谷。
それを読むと、三谷は真青になって、いきなり玄関脇の電話室に飛込み、惶しく警察署を呼び出した。
手紙にある北川というのは、実在の病院だが、倭文子がそこへ行っていないのは、分り切つている。
では、可哀相な彼女は今頃は、どこで、どの様な恐ろしい目に合っていることであろう。
倭文子は、贋手紙に驚いて、無我夢中であったから、彼女の乗った自動車が、どこをどう走っているのか、少しも気づかなかったが、車が止って、降りて見ると、そこは全く見覚えのない、非常に淋しい町で、病院らしい建物は、どこにもなかった。
「運転手さん、ここは場所が違うのじゃありませんか。病院って、どれなんですの」
倭文子が驚いて尋ねた時には、既に、運転手と助手とが、両側に降り立って、彼女の腕を掴んでいた。
「病院っていうのは、何かの間違いでしょう。坊ちゃんはこの家にいらっしゃるのですよ」
運転手は、平気で、見えすいた嘘をいいながら、グングン倭文子を引張って行った。
小さな門を這入って、真暗な格子戸を開けると、玄関の式台らしい所へ上った。燈火のない部屋を二つ三つ通り過ぎ、妙な階段を下った所に、ジメジメと土臭い小部屋があった。
小さなカンテラがついているばかりで、よく分らぬけれど、柱も何もないコンクリートの壁、赤茶けた薄縁、どうやら地底の牢獄といった感じである。
声を立てて助けを求めるという様なことを、考える隙もない程、咄嗟の出来事であった。
「茂ちゃんは? あたしの子供はどこにいるのです」
倭文子は、だまされたと感づいていながらも、まだあきらめ切れず、甲斐なきことを口走った。
「坊ちゃんには、じき会わせて上げますよ。暫く静かにして、待っておいでなさい」
運転手達は、傲慢な調子で、いい捨てたまま、部屋を出て行ってしまった、ガラガラと閉める頑丈な扉、カチカチと鍵のかかる音。
「マア、あなた方は、あたしを、どうしようというのです」
倭文子は叫びながら、扉の所へ駈け寄ったが、もう遅かった。押しても叩いても、厚い板戸はビクともしない。
かたい、冷い薄縁の上に、くずおれて、じっとしていると、ひしひしと迫る夜気、地底の穴蔵の、墓場の様な、名状し難き静けさ。倭文子は気が落ちつくに従って、我身の恐ろしい境遇が、ハッキリと分って来た。
茂のことで、心が一杯になっていて、我身の危険を顧みる暇がなかったとはいえ、どうして、こうも易々と、こんな所へ連れ込まれたのかと、寧ろ不思議な感じがした。
ふと気がついて、耳をすますと、どこか上の方から、子供の泣声が聞えて来る。深々と静まり返った夜の中に、細々と絶えては続く、淋しい泣声。
幼い子供が、折檻されている様子だ。
いとし子の声を、なんで聞違えるものか。あれは確に、茂の泣声だ。そうでなくて、こんなにも、ヒシヒシと胸にこたえる筈がない。
「茂ちゃん。お前、茂ちゃんですね」
倭文子は、耐らなくなって、思わず高い声で叫んだ。
「茂ちゃん。返事をおし。お前の母さまは、ここにいるのよ」
恥も外聞も忘れて、気違いの様に叫び続ける声が、やっと相手に通じたのか、一刹那、泣声がパッタリ止ったかと思うと、俄に調子の高まった、身を切られる様なわめき声が響いて来た。その調子が母さま母さまと呼んでいる様に聞える。
それに混って、ピシリピシリと異様な物音、アア、可哀相に、子供は鞭で打たれているのだ。
だが、その間に、倭文子にとって、茂の泣声よりも、もっともっと恐ろしいものが、忍びやかに、彼女の身辺に近づいていた。
運転手達の出て行った、扉の上部に小さな覗き穴が作ってあって、今、その蓋が、ソロソロ開きつつあるのだ。
痛ましい子供の泣き声が、少し静まったので、天井の方に集まっていた注意力が、解けると同時に、目についたのは、扉の表面に起っている、異様な変化であった。
倭文子はギョッとして、少しずつ、少しずつ、開いて行く、覗き穴を凝視した。
カンテラの赤茶けた光が、僅かに照らし出だす扉の表面に、糸の様に黒い隙間が出来たかと思うと、それが徐々に半月形となり、遂にポツカリと、真黒な穴があいた。
誰かが覗きに来たのだ。
「茂に逢わせて下さい。あの子を折檻しないで下さい。その代りに、わたし、どんなにされても構いません」
倭文子は一生懸命に叫んだ。
「本当に、どんなにされても、構わぬというのかね」
扉を隔てたせいか、ひどく不明瞭な、ボウボウという声が、答えた。
その調子が、ゾッとする程不気味に思われたので、彼女は容易に次の言葉が出なかった程だ。
「お前さんが、そんなにいうなら、茂と逢わせてやらぬでもないが、今の言葉は、まさか嘘じゃあるまいね」
やっぱり、非常に聞き取りにくい声がしたかと思うと、丸い覗き穴に、ヒョイと人の顔が現われた。
一目それを見た倭文子は、余りの怖さに、ヒーッと、泣くとも叫ぶともつかぬ声を立てて袂で目かくしをしたまま、俯伏してしまった。
嘗つて鹽原温泉で見た、何ともいえぬ恐ろしい幻が、またしてもそこに現われたからだ。
顔一面の引釣、赤くくずれた鼻、長い歯がむき出しになった、唇のない口、この世の中のものとも思われぬ、不気味にも醜い怪物であった。
やがて、俯伏している襟元に、スーッと冷い風を感じた。扉が開かれたのであろう。
アア、一歩、一歩、あいつが近づいて来るのだ。と思うと、居ても立ってもいられぬ怖さだが、逃げようにも、身体がすくんで、立上るのはおろか、顔を上げることさえ出来ぬ。悪夢にうなされている気持だ。
倭文子は見なかったけれど、扉をあけて、はいって来たのは、黒いマント様のもので、身体ばかりでなく、顔まで隠した、異様の人物であったが、マントのふくれ具合といい、その隙間からチラチラ見える素肌といい、彼は真ぱだかの上に、直接マントだけを引かけているらしく見えた。
男は倭文子の上に、のしかかる様な格好になって、またもや不明瞭な声で、
「お前さんの言葉が、本当か嘘か、今すぐためして上げるよ」
といいながら、倭文子の背中を、軽く叩いたが、その拍子に、左の手首が、彼女の頬にさわった。
倭文子は、その手首の、瀬戸物みたいに、固くて冷い肌ざわりに、ゾッと動悸が止ってしまう様な、恐れを感じた。
「あなたは誰です。どうして私達をこんなひどい目に合わせるのか、その訳をおっしゃい!」
倭文子は死にもの狂いの顔を上げて、上ずった声で叫んだ。
いつの間に、カンテラを吹き消したのか、部屋の中は、真の闇だ。怪物のありかも、その異様な呼吸の音で、やっと察し得るに過ぎない。
相手は不気味に押黙っている。
闇の中に、暗よりも黒いものが、微に蠢いて、いまわしい息遣いが、徐々に徐々に、近づいて来るのが感じられる。
やがて、頬にかかる熱い息、肩を這い廻る指の感触……
「何をするんです」
倭文子は肩にかかる手を払いのけて立上った。
いくら怖いからといって、彼女は小娘ではないのだ。されるがままになってはいない。
「逃げるのかね、併し逃げ道はありやしないぜ。わめいて見るかね。だが、地の底の穴蔵だ。誰も助けに来るものはあるまいよ」
不明瞭な声が、毒々しくいいながら、逃げる彼女に、追い迫って来た。
暗の中の、悲惨な鬼ごっこだった。
何かにつまずいて、バッタリ倒れる倭文子。その上にのしかかって、抱きすくめようとする怪物。お互に顔も見えぬ、暗闇の触覚の争い。
あの唇のない、赤い粘膜そのものの様な顔が、今にも彼女の頬にふれはしないかと、倭文子は、それを考えただけで、気の遠くなる程、怖かった。
「助けて、助けて」
組みしかれた彼女は、絶え絶えの声で叫んだ。
「お前、茂に逢い度くないのかね。逢いたければ、おとなしくするがいいぜ」
だが、倭文子は抵抗をやめなかった。
おいつめられた鼠が、却って猫にはむかって行く、あのむごたらしい、死にもの狂いの力で、彼女は相手を突き倒そうとした。それがかなわぬと知ると、あさましいことだが、ふと口に触れた相手の指先を、思い切って、グニャッと噛みしめたまま、放さなかった。