怪物は悲鳴を上げた。
「放せ、放せ。こん畜生、さもないと……」
丁度その時、天井の方から、またしても、茂少年の、絶え入る様な泣き声が聞こえて来た。
ピシリ、ピシリ、残酷な鞭の音だ。
「打て、打て、もっと打て。餓鬼が死んでも構わねえ」
不明瞭な、ゾッとする様な、呪いのわめき声が、怪物の口からほとばしった。
「分ったか。お前が抵抗している間は、餓鬼の折檻をやめないのだ。お前の抵抗がひどければ、ひどい程、お前の子供は、死ぬ苦しみを受けるのだぞ」
そういわれては、流石に啣えている指を、放さぬ訳には行かなかった。
そして、彼女がグッタリ抵抗力を失うと、不思議なことに、上の泣き声も静まった。
またしても、ヌメヌメと、襲いかかる怪物の触覚。
ゾッとして、身を固くして、襲いかかるのを、払いのけると、
「ワーッ」
と上る、子供の悲鳴、鞭の音。
アア分った、怪物は何かの方法で、上にいる相棒に、指図をしているのだ。折檻させたり、やめさせたり、緩急自在に操って、倭文子を責める武器としているのだ。
抵抗すれば、間接ながら、我がいとし子を死ねとばかり、責めさいなむも同然だ。アア、どうしたらいいのだ。こんな残酷な責道具が、この世にまたとあろうとは思われぬ。
倭文子は、子供の様に、声を上げて泣き出してしまった。智恵も分別も尽きたからだ。
「とうとう、参ってしまったね。フフフフフフフ、どうせそうなるのだ。じたばたするだけ、無駄というものだ」
耐えがたき圧迫感、耳元に響く嵐のような呼吸の音、熱い息。……
その刹那、倭文子は、名状し難き困迷を覚えた。今彼女の上に、のしかかっているものの体臭に、微な記憶があったからだ。
「こいつは、決して見ず知らずの人間ではない。それどころか、いつか、非常に親しくしていたことのある男だ」
知っている人だと思うと、彼女は猶更ゾッとした。今にも思い出せそうで、なかなか思い出せぬのが、非常に不気味であった。
奇妙な客
茂少年が誘拐され、倭文子が行方不明になった翌日、主人のない畑柳家に、奇妙な客が訪ねて来た。
三谷は、一先ず下宿に引上げたし、変事を聞いてかけつけた親戚の者なども、帰ったあとで、邸内には執事の斎藤老人を初め召使ばかりであった。
警察では、無論両人の行方捜査に全力を尽していたのだけれど、何の手懸りもない、雲を掴む様な探しもののこと故、急に吉報が齎される筈もなかった。
例の呼出しの贋手紙にあった、北川病院を調べたことはいうまでもないが、予想の通り、病院はこの事件に何の関係もないことが分ったばかりだ。
奇妙な客が来たのは、その夕方のことであったが、今度の事件について、密々でお話したいことがあるというので、斎藤老人が、客間へ通して面会した。
客は、背広服を着た、これという特徴もない、三十五六歳の男で、小川正一と名乗った。が、斎藤がせき立てる様にしても、仲々本題を切出さぬ。つまらない世間話などを、いつまでも、繰返している。
しびれを切らして、倭文子の知人から、見舞の電話があったのをしおに、一寸中座したのが、間違いだった。
老人が客間に引返して見ると、小川と名乗った客は、影も形もないのだ。
帰ってしまったのかと、玄関番の書生に尋ねると、帰った様子がないとの答えだ。何よりの証拠は、靴を脱いだままになっている。まさかはだしで帰る訳もあるまい。
事件の際ではあり、何となく気になる節があったので、老人は召使一同にも命じて、部屋部屋を隈なく探し廻って見た。
すると、なくなった主人の、畑柳氏の書斎であった二階の洋室のドアが内側から鍵でもかけた様に、開かなくなっていることが分った。
そんな筈はない。変だというので、鍵を探して見たが、そのドアは別段締りをする必要もないので、鍵は室内の机の抽斗に入れてあったことを思い出した。
按うに、何者かが書斎に入って、抽斗の鍵で、内側から締をしてしまったものであろう。
鍵穴に目を当てて見ると、案の定、向側から鍵をさしたままと見え、穴がつまっていて、何も見えぬ。
「仕方がない。庭から梯子をかけて、窓を覗いて見よう」
ということになり、一同庭に廻り、一人の書生が命を受けて、梯子をかけ、二階の窓へと昇って行った。
もうたそがれ時であったから、ガラス越しに覗いた室内は、深い霧がたちこめた様で、ハッキリ見分けるのは、仲々困難であった。
書生は、ガラスに顔をくっつけて、いつまでも覗いている。
「窓をあけて見たまえ」
下から斎藤老人が声をかけた。
「駄目ですよ。内側から締がしてある筈です」
書生がそういって、でも、念の為めに、ガラス戸を押上げて見ると、案外にも、何の手答えもなく、スルスルと開いた。
「オヤ、変だぞ」
書生は呟きながら、窓をまたいで、室内へ姿を消した。
下から見ていると、書生の入って行った窓だけが、まるで巨大な化物の口の様に、ポッカリと黒く開いているのが、何となく不気味であった。
下の一同は、一種の予感におびえながら、耳をすまして、黙り返っていた。
暫くすると、黒く開いた窓の中から、何ともいえぬ、まるで締め殺される様な「ギャーッ」という叫声が聞えて来た。
屈強の書生が、みじめな、鵞鳥の鳴声の様な、悲鳴を上げたのを聞くと、室内には、どの様に恐ろしいことが起っているのかと、斎藤老人を初め、ゾッとして、梯子を昇る勇気もなかった。
「オーイ、どうしたんだア」
下から別の書生が、大声に呶鳴った。
暫くは何の返事もなかったが、やがて、化物の口の様に見える、真黒な二階の窓へ、ボーッと白く書生の顔が現われた。
彼は右手を顔の前に持って行って、近眼の様に、じっと自分の指を見ている。なぜ、そんな馬鹿馬鹿しい真似をしているのであろう。
と思う内に、彼はいきなり、気狂いの様に、その右手を振り振り、変なことを口走った。
「血、血、血だ。血が流れている」
「何をいっているのだ。怪我をしたのか」
斎藤老人が、もどかし相に尋ねた。
「そうじゃありません。誰れかが倒れているのです。身体中ベトベトに濡れているのです。血だらけです」
書生がしどろもどろに答えた。
「ナニ、血まみれの人間が倒れているというのか。誰だ。さっきの客ではないのか。早く電燈をつけ給え、何をぐずぐずしているんだ」
呶鳴りながら、気丈な老人は、もう梯子を昇り始めていた。書生もあとにつづいた。女達は梯子の下に一かたまりになって、青ざめた顔を見交わしながら、押黙っていた。
老人と書生とが、窓をまたぎ越した時には、既に電燈が点じられ、室内の恐ろしい有様が、一目で分った。
故畑柳氏は、骨董ずきで、書斎にも古い仏像などを置き並べていたが、氏の没後も、それが皆そのままになっている。
両手を拡げて立ちはだかっている、真黒な、どこの仏様ともえたいの知れぬ、奇怪な仏像の足元に、一人の洋服男が、血まみれになっていた。確に小川と名乗る、さっきの客人だ。
半面血に染まった、断末魔の苦悶の表情。ワイシャツの胸の夥しい血のり。空を掴んだ指。
老人と二人の書生とは、棒立ちになったまま、暫くは口を利く力もなかったが、やがて、書生の一人が、面妖な顔をして、呟いた。
「おかしいぞ。犯人はどこから来て、どこへ逃げたのだろう」
室の入口のドアは、内側から鍵をかけたままである。窓は締がしてなかったけれど、軽業師ででもなければ、この高い二階の窓から、出入りすることは不可能だ。
それよりも、変なのは小川と名乗る男の行動であった。この見ず知らずの人物は、なぜ断りもなく、二階の書斎へ上って来たのか。その上、内側から、ドアに鍵までかけて、何をしていたのか。加害者は勿論、被害者の身元も、殺人の動機も、一切合切不明であった。
これが、この物語の、最初の殺人事件である。だが、何という不得要領な、不可思議千万な殺人事件であったことか。
斎藤老人は、死体には少しも手をふれず、兎も角警察に知らせることにした。
書生の一人がドアを開て、電話室へと走った。
あとに残った二人は、庭の女中達に梯子をはずさせ、窓をしめて掛金をかけ、ドアにも外から鍵をかけて、階下に引取った。
つまり、それから暫くの間、小川の死体は、その書斎の中に、完全に密閉されていた訳である。
三十分程して、麹町警察と警視庁とから係官が出張して来た。
その人数の中に、名探偵と聞えた捜査課の恒川警部が混っているのを見ると、当局が、引続いて起った、畑柳家の怪事を、可成重大に考えていることが分った。
警官達は、斎藤老人から、大体の事情を聞取ると、兎も角現場を検分することにして、老人の案内で、二階の書斎へと上って行った。
「部屋の中は、少しも乱さぬよう、十分注意を致しました。死骸は勿論、何一品動かしたものはござりません。私共は、むごたらしい死骸を一目見たばかりで、逃げ出してしまった様な訳で」
老人はそんなことをいいながら、鍵を廻してドアを開いた。
人々は血腥い光景を想像して、ややためらいながら、部屋の中を覗いた。電燈はつけたままになっていたので、一目で隅々まで眺めることが出来た。
「オヤ、部屋が違うのじゃないかね」
最初に踏込んだ、麹町署の司法主任が、けげんらしく呟いて、老人を振返った。
何だか、変てこな質問である。
一同妙に思って、続いて部屋の中へはいって行った。
「オヤッ」
案内者の斎藤老人までが、頓狂な叫声を発した。
さっきの死骸は、影も形もなくなっているのだ。
まさか部屋を取違える筈はない。血みどろの男が転がっていたのは、あの黒い仏像の前であった。外の部屋にそんな仏像なんて、ないのだ。
老人は、うろたえて、窓際へ走って行って、密閉された二つの窓の掛金を検べて見たが、少しも異状はない。
全くあり得ないことが起ったのだ。死骸は溶けてしまったか、あるいは蒸発してしまったとしか考え様がないのだ。
老人は狐につままれた様な顔をして、キョロキョロとあたりを見廻しながら、
「まさか三人が、揃って夢を見たのではありますまい。私の外に、二人の書生が、確に死骸を目撃しておるのです」
と死体紛失が、彼の粗相ででもある様に、恐縮した。
恒川警部は、老人に、死骸の横たわっていた場所を尋ねて、そこの絨氈を検べていたが、
「あなたは夢を見たのでありませんよ。ここに確に血の流れた跡があります」
と絨氈のある個所を指さした。
絨氈の模様がドス黒いので、ちょっと見たのでは分らぬが、触って見ると、まだ指先に赤いものがついて来るのだ。
警官達は、この奇怪千万な出来事に、異常なる職業的緊張を覚え、手分けをして、室の内外を隈なく取調べたが、これという発見もなかった。
「召使を残らず集めて下さい。何か見たものがあるかも知れない」
恒川警部の要求に応じて、召使一同、階下の客間へ呼び集められた。書生二人、乳母のお波、女中二人。
「お菊がいないが、どこへ行ったのか、誰か知らないかね」
斎藤老人が気づいて尋ねた。小間使のお菊の姿が見えぬのだ。
「お菊さんなら、さっき、シグマがひどく鳴いているのを聞いて、犬小屋を見て来ると言って、庭へ出て行きました。でも、それからもう大分時間がたっていますわ」
女中の一人が思い出して答えた。
シグマは先日の負傷以来、手当を加えて、庭の犬小屋につないであった。お菊は日頃、この犬をひどく可愛がっていたので、鳴声を聞いて病犬を慰めに行ったものであろう。
斎藤老人の命を受けて、書生の一人が、お菊を探す為めに、犬小屋のある裏庭へ出て行ったが、暫くすると、何かわめきながら、客間へ駈込んで来た。
「大変です。お菊さんが殺されています。庭に倒れています。早く来て下さい」
それを聞くと、警官達は驚いて、書生について裏庭へ駈つけた。
「ホラ、あすこです」
書生の指さす所を見ると、犬小屋から大分離れた、庭の芝生に、一人の女が、青白い月光に照らされて、仰向ざまに打倒れていた。
妖術
月光に照らされて、倒れていたのは、小間使のお菊だ。えたいの知れない殺人魔は、矢継早に、第二の犠牲者を屠ったのであろうか。
書生は気味悪がって、たじろいでいる暇に、事に慣れた恒川警部は、いち早くお菊の側に駈け寄り、上半身を抱き起して、大声に名を呼んだ。
「大丈夫、御安心なさい。この人はどこにも傷を受けていません。気絶したばかりです」
恒川警部の言葉に、一同ホッとして、近々と小間使を取囲んだ。
やっと意識を取戻したお菊は、暫くあたりを見廻していたが、やがて何か思出した様子で、その青ざめた美しい顔には、何とも言えぬ恐怖の表情を浮べた。
「あれ、あすこです。あの茂みの中から覗いていたのです」
彼女が、さも恐ろし相に、震える指先で、真暗に見える木立の蔭をさし示した時には、屈強な警官達でさえ、ゾッと、襟元に水をかけられた様な感じがした。
「誰です。誰が覗いていたのです」
恒川氏が、せき込んで尋ねた。
「それは、あの、……アア、わたし怖くて、……」
青白い月光、真暗な木立、怪物の様な物の影。その恐ろしい現場で今見たものの姿を話すのは、余りに怖いのだ。
「怖いことはない。僕等はこんなに多勢いるじゃないか。早くそれをいい給え、捜査上大切な手掛りなんだから」
恒川氏は、小川の死骸紛失と、お菊の見たものとの間に、必然的な関係がある様に思ったのだ。
せめ立てられて、お菊はやっと口を開いた。
シグマが余り鳴き立てるものだから、傷口が痛むのかと、可哀相になって、見てやる積りで、犬小屋の側へ来て見ると、流石は猛犬、痛さなどで鳴いているのではなかった。
何か怪しいものを見つけたのか、今いう木立の蔭を、遠くから睨みつけて(というのは、シグマは犬小屋に縛られていたので)勇敢に吠え立てていた。
お菊は、思わず、犬の睨みつけている茂みを、すかして見た。すると、
「アア、わたし、思出してもゾッとします。生れてから、一度も見たことのない様な、恐ろしいものが、そこにいたのです」
「人間だね」
「エエ、でも、人間でないかも知れません。絵で見た骸骨の様に、長い歯が丸出しになって、鼻も唇もないのっぺらぼうで、目はまん丸に飛出しているのです」
「ハハハハハ、馬鹿なことを、君は怖い怖いと思っているものだから、幻でも見たんだろう。そんなお化があってたまるものか」
何も知らぬ警官達は、お菊の言葉を一笑に附したが、その笑い声の終らぬ内に、またしても、シグマの恐ろしい唸り声が聞えて来た。
「ホラ、また吠えていますわ。アア、怖い。あいつは、まだその暗闇の中に、隠れているのではないのでしょうか」
お菊は、おびえて恒川警部にしがみついた。
「変だね、誰か念の為に、あの辺を検べて見給え」
司法主任が部下の巡査に命じた。そして、一人の巡査が、木立の中へ踏み込んで行こうとした時である。
「ワ、ワ、ワ、ワワワワワ」
と、悲鳴とも何ともつかぬ叫声がして、お菊は恒川氏の胸に顔を埋めてしまった。彼女は再び怪物を見たのだ。
「ア、塀の上だ」
巡査の声に、一同の視線が木立の斜向うの空に集まる。
いた、いた。高いコンクリートの塀の上に、蹲って、じっとこちらを見ている怪物。
半面に月を受けて、ニヤニヤと笑っている顔は、お菊の形容した通り、正しく生きた骸骨だ。
この化物が、小川の下手人だとすれば、被害者の死体を抱ていなければならないのに、怪物は身軽な一人ぽっちだ。では、死体は已にどこかへ隠してしまったのか。
だが、こいつは下手人であろうと、なかろうと、異様な面体といい、夜中他人の邸内をさまよう曲者、取押さえない訳には行かぬ。
「コラ、待てッ」
警官達は、口々にわめきながら、塀際へと駈けつけた。
怪物はいたずら小僧が「ここまでお出で」をする様な格好で、キ、キ、と不気味な声を立てたかと思うと、塀の向側へ姿を消した。
ある者は塀をよじ昇って、ある者は門を迂廻して、恒川氏と二人の警官とが、怪物のあとを追った。麹町の司法主任丈けは、なお取調を行う為に、邸内に残った。
塀外へ出て見ると、人通りもない屋敷町の、もう一丁程向うを、黒の鳥打帽に、短い黒いマントを飜して、走って行く怪物の姿が、月の光りでハッキリ分る。
読者諸君は、この怪物の左手と右足が、義手義足であることは御存知だ。その不自由な身体で、杖もつかず、エッチラ、オッチラ、走る走る。かつて鹽の湯温泉の長い段梯子をかけ降りた調子である。義足だとて、使いなれると馬鹿にならぬものだ。
警官達は、帯剣を握って走る。もつれる影、乱れる靴音。
月下の大捕物だ。
怪物は、近くの大通りへと走って行く。まだ宵の内だ、賑やかな大通りへ出たら、忽ち捕まってしまうと、高を括ったのは、大きな思い違いだった。
町角を曲った所に、待ち構えていた一台の自動車、怪物の姿がその中へ消えたかと思うと、車は矢庭に走り出した。
丁度向うから走って来る空タクシー。恒川警部は、すかさずそれを呼び止めると、警官一同を乗込ませ、
「あの車のあとを追っかけるのだ。賃銀は奮発するぜ」
と怒鳴った。
賑やかな大通りを、横に折れると、淋しい町、淋しい町と、曲り曲って、飛ぶ様に走る怪物の車。
残念ながら、追うものは、撰りに撰ったボロ自動車。とても相手を追い抜く力はない。見失わぬ様について行くのはやっとである。その上、頼みに思う交番は、怪物の方で、巧みによけて通るのだ。
神宮外苑から、青山墓地を通り抜けて、暫く走ると、大邸宅の高い塀ばかり続く、非常に淋しい通りで、先の車がバッタリ止まったかと思うと、いきなり飛び出す黒マント。怪物は狭い横丁へと走り込んだ。
ソレッとばかり、警官達は車を降りて、同じ横丁へ駈け込む。
両側とも、一丈程もある高いコンクリート塀の、細い抜け道だ。見渡す限り、一丁ばかりの間、門一つなく、一直線に塀ばかりが続いている。
「オヤ、変だぜ。どこへ隠れたのか、影も形もありやしない」
一人の巡査が横丁へ曲るや否や、ビックリして叫んだ。
非常に変てこなことが起ったのだ。怪物が駈け込んでから、警官達が曲り角へ達するまで、ほんの数十秒、いくら足の早い奴でも、この横丁を通り抜けてしまう時間はない。
昼の様に明るい月の光り、どこに一ヶ所、身を隠す場所とてはないのだ。
いや、もっと確なことは、今しも横丁の向うから、ブラブラこちらへ歩いて来る通行人。近所の人と見えて、帽子も被らず着流しの散歩姿だが、その呑気らしい様子が、怪物と行違った人とは思われぬ。
「オーイ、今そちらへ走って行った奴はありませんかア」
一人の巡査が大声に尋ねると、その男は、驚いて立止ったが、
「イイエ、誰も来ません」
と答えた。
警官達は、変な顔をして、両側の高いコンクリート塀を見上げた。
何の手掛りもなく、一丈もある塀を、よじ昇ることは不可能だ。それに、警官達は知らなかったけれど、片足義足の怪物に、そんな芸当が出来る筈はない。
どんな恐ろしい姿にもせよ、目の前に見えている内は、まだよかった。それが白々とした月光の下で、煙の様に消失せてしまったと思うと、俄にゾッと気味が悪くなった。
妖術だ。悪魔の妖術だ。
だが、今の世に、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。
「ア、あんた、一寸待って下さい」
恒川警部は、さい前の通りがかりの人が、すれ違って行くのを呼びとめた。
彼は実に変なことを考えたのだった。さっきの怪物が、咄嗟の間に、風体を変えて、通行人に化けて、何気なく逃去るのではないかと思ったのだ。
「エ、何か御用ですか」
その男は、びっくりしたように振返る。警部は無遠慮に、男の顔を覗き込んだが、無論、怪物とは似ても似つかぬ、整った容貌の青年だ。身体の格好から、服装から、何一つ似通った所はない。第一、その青年が怪物でない証拠には、左手右足共に完全で、義手も義足もつけていないのだ。
いやいや、もっと確な証拠がある。というのは、恒川氏が念の為に、その男の姓名を尋ねると、彼は実に意外な答えをしたのである。
「僕ですか。僕は三谷房夫というものです」
それを聞くと、追手に加わっていた、麹町署の巡査が、びっくりして声をかけた。
「アア、三谷さんでしたか。あなたはこの辺にお住いなんですか」
「エエ、ついこの先の青山アパートにいるんです」
「この人なら、畑柳家の知合の人ですよ、ホラ、先だって、上野公園の事件のとき、畑柳夫人に化けて、子供を取り戻しに行った、あの三谷さんです」
巡査は青年を見覚ていて、一同に紹介した。恒川氏も三谷の名は聞いていた。
「今日も夕方まで畑柳にいて、さっき帰って食事と入浴をすませたばかりです。それにしても、あなた方は、やっぱり畑柳の事件で……」
「そうです。また奇妙な殺人事件があって、その犯人と覚しき怪物をここまで追いつめたのですが……」
と恒川氏は手短に仔細を語った。
「アア、その化物なら、倭文子さんが、一度鹽原温泉で姿を見たことがありますよ。すると、あれはやっぱり幻ではなかったのだ。今度の事件には、最初から、そいつが関係していたに違いありません」
「ホウ、そんなことがあったのですか。それでは猶更、あの化物を引捕えなければならん。しかし、一体どうして消失せてしまったのか、少しも見当がつかぬのです」
「イヤ。それについて、思い当ることがあります」
三谷は一方のコンクリート塀を見上げながら、調子を変えていった。
「この塀の向うに妙な家があるのです。僕はよくこの辺を通るので、気をつけて見ているのですが、いつも戸が締めてあって空家かと思うと、夜中に燈火が漏れていたりする、実に変な家です。人の泣き叫ぶ声を聞いたという者もある位で、近所では化物屋敷だといっているのです。若しや、その怪物は、どうかしてこの塀を乗り越して、今いう化物屋敷へはいったのではないでしょうか。そこが、悪人達の巣窟ではありますまいか」
あとになって、考えると、この塀外で、警官達が偶然にも三谷青年に出会ったのが、悪魔の運の尽きであった。
とも角も、三谷のいった怪屋を検べて見ることにして、一人の巡査を、念の為に、塀の所へ残して置いて、三谷青年を先頭に、恒川警部ともう一人の巡査とが迂廻して、その家の表口に廻った。
同じ様な門構えで、一軒立ちの、さして広くない邸が並んでいる。怪屋というのは、その一方の端にあるのだ。
門の戸は開っ放しだ。三人はかまわず門内には入って、玄関の格子戸を引いて見ると、何の手答えもなく、ガラガラと開いた。
中は真暗だ。声をかけても、誰も出て来るものはない。
なる程変な家である。まだ宵の内とはいえ、何という不用心なことであろう。悪人の巣窟だとすれば、なお更のことだ。それとも、こうして開けっ放しにしておくのが、彼奴らの深いたくらみなのだろうか。
流石に、無暗に踏ん込む訳にも行かぬので、一同玄関の土間にためらっていると、奥の方から、幽かに誰かの泣きじゃくる声が漏れて来た。
「泣いている。子供の様だね」
恒川氏が聞き耳を立てた。
「アア、あの声は畑柳の茂さんじゃないでしょうか」
三谷がふと気づいて囁いた。
「茂? 畑柳夫人の子供ですね。そうだ。ここが果して犯人の住家だとすれば、その子供も、畑柳夫人も、この家のどこかにとじこめられている筈だ。……踏ん込んで見ましょう」
恒川警部は臨機の所置をとる決心をした。
「君は門の外へ出て、逃げ出す奴があったら、引捕えてくれ給え」
彼は傍らの巡査に命じて置いて、三谷と共に、玄関の式台を上った。
真暗な部屋部屋を、手探りで探し廻ったが、人の気配もせぬ。
二人は思い切って、手分けをして、一部屋一部屋、電燈をつけて廻ることにした。
恒川警部は、最後に、最も奥まった座敷へ踏み込んだが、どの部屋も、どの部屋も、空っぽなので、ここもどうせ空部屋であろうと、高を括って、何気なくスイッチをひねると!
アッと思う間に、黒い風の様なものが、部屋を横切って、一方の廊下へ飛び出した。
「ヤ、曲者!」
警部の声に、怪しい男は、敷居をまたぎながら、ひょいと振返った。その顔! 畑柳家の塀の上で笑っていた、あの骸骨みたいな奴だ。唇のない男だ。
「三谷君、あいつだ。あいつがそちらへ逃げた。ひっとらえてくれ」
警部はわめきながら、廊下へ飛出して怪物を追駈けた。
「どこです。どこです」
廊下の行止りの部屋から三谷の声が聞えた。
飛び出して来る人影。恒川氏は、廊下の真中で三谷青年にぶつかった。
「あの骸骨みたいな奴だ。君はすれ違わなかったか」
「イイエ、こちらの部屋へは誰も来ませんよ」
怪物は確に、廊下を左へ曲った。その方角には三谷の出て来た部屋があるばかりで、両側は閉め切った雨戸と壁だ。怪物は再び、一瞬間にして消え失せてしまったのである。
またしても悪魔の妖術だ!
二人は気違いの様に、部屋から部屋へと歩き廻った。襖という襖は開け放され、戸棚も押入れも、人の隠れ得る場所は、便所の隅までも捜索された。
雨戸を密閉してあったので、そこから外へ逃げ出す心配はない。逃げ出せば音がするし、掛金をはずす時間もかかるのだ。
二人は捜しあぐんで、とある部屋に突っ立ったまま暫く顔を見合わせていたが、突然三谷が顔色を変えて囁いた。
「ホラ、聞えますか。あれはやっぱり子供の泣き声ですよ」
どこからともなく、物憂い様な泣声が、幽かに幽かに漏れて来るのだ。
二人は耳をすまし、足音を忍ばせて、泣き声をたよりに進んで行った。
「何だか台所の方らしいですね」
三谷はいいながら、その方へ歩いて行く。
だが、台所はさっき調べた時、何の異常もなかった。電燈もその時つけたままだ。
「そんな筈はないのだが」
と恒川警部が躊躇している間に、三谷はもう台所の敷居をまたいでいた。と同時に「アッ」というただならぬ叫び声。
恒川氏は驚いて駈けつけて見ると、三谷は、真青になって、台所の片隅を見つめたまま、立ちすくんでいた。
「どうしたんです」
と尋ねる警部の声を制して、三谷は、聞えるか聞えないかの囁き声で答える。
「あいつです。あいつがこの上げ板を取って、縁の下へ這入って行ったのです」
台所の板の間が、炭などを入れる為の上げ蓋になっている、よくある奴だ。
警部は、勇敢に飛んで行って、その上げ板をめくって見た。
「ヤ、地下室だ」
板の下は、意外にも、コンクリートの階段になっていた。その部分丈け箱の様に、床下とは遮断されているので、怪物は外へ逃げることは出来ぬ。地下室へ降りたに極っている。もう袋の鼠だ。
二人は、用心しながら、真暗な階段を下って行った。先に立つ恒川氏は、帯剣の柄を握りしめている。
階段を降り切った所に扉があって、その隙間から幽かな光りが漏れて来る。泣き声が俄に大きくなったのを見ると、子供はたしかにこの扉の向うにいるのだ。
どうしたことか、鍵穴には鍵をさしたままになっている。恒川氏は手早くそれを廻して、扉を開いた。
二人は扉を小楯に、部屋の中を覗き込んだ。と同時に、外からも、中からも、驚きと喜びの叫び声。
部屋の中には、淡いカンテラの光に照らされて、倭文子と茂が抱き合っていたのだ。
飛込んで行く三谷青年、すがりつく倭文子。
だが、恒川警部は、この感激の場面をよそに、不満らしい顔をして、キョロキョロと部屋を見廻していた。肝腎の賊の姿が見えぬのだ。
今来た階段の外に、どこにも出入口はない。確にここへ逃げ込んだ怪物が、またしても消え失せてしまったのだ。
倭文子に尋ねると、賊は昨夜茂をこの部屋へ連れて来て、立去ったまま、一度も顔を見せぬということであった。茂は、終日食事を与えられぬ空腹と、恐怖の為に泣いていたのだ。
恒川警部は、壁のカンテラをはずして、階段を上から下まで検べて見たが、どこにも隠戸や抜道はなかった。
結局、誘拐された畑柳母子を取戻すことは成功したけれど、その犯人の逮捕は全く失敗に終った。
表の門、裏の塀外に見張りをしていた二人の巡査に尋ねても、誰も家から出たものはないとの答えであった。
見張りはそのままに続けさせて置いて、附近の電話で、応援の警官を呼びよせ、その夜から翌日にかけて、邸内は申すに及ばず、両隣の庭までも、残す所なく捜索したけれど、犯人は勿論、たった一つの足跡さえも発見することは出来なかった。
怪物は不具者の身を以て、どうして一丈もあるコンクリート塀を乗り越すことが出来たか。(附近には足場になる様な電柱も立木もなかった)また、邸内で、恒川氏と三谷とに、はさみ撃ちになった時、一瞬の間にどこへ身を隠し得たか。その様な隠れ場所は一つもなかった。更に、明かに地下室へ姿を消した怪物が、どうしてそこにいなかったか。凡て、全く、解き難い謎であった。
名探偵
不思議は、青山の怪屋で、唇のない男が、三たび消失せたことばかりではなかった。
同じ日の夕方、突然畑柳家を訪ねた、小川正一とは抑も何人であったか、彼はなぜ無断で故畑柳氏の書斎へ入り、内側から戸締りをしたか、誰が彼を殺したのか。その下手人は、戸締りした部屋から、どうして逃出すことが出来たか。
更に奇怪中の奇怪事は、書斎に打倒れていた、血みどろの小川の死体が、何ぜ、誰によって、どこへ、運び出されてしまったのか。
恒川氏は、唇のない男が、この小川の下手人であって、彼奴が書斎から死骸を運び出し、どこかへ隠したのだと考えたが、なるほど妖術家の彼奴なら、この不可思議を為しとげ得たかも知れぬのだ。だが、その死体をどこへ隠してしまったのか。彼奴が畑柳家の塀を越して逃げ出す時には、全く単身であった。すると、死骸は邸内のどこかに隠してなければならぬ筈なのに、あのときあとに残った、麹町の司法主任が、屋内屋外、一寸角も余さず、検べ廻ったにもかかわらず、死骸は勿論、何の手掛りらしいものさえ、発見出来なかったのは、実に不思議といわねばならぬ。
それはさて置き、恒川警部の努力によって、畑柳倭文子と茂少年を、無事取戻すことが出来たのは、何よりの仕合せであった。
邸に帰ると、茂少年は、恐怖と疲労の為に、発熱して床につく、倭文子も唇のない男の、何ともいえぬいやらしい姿、ヌルヌルした歯ぐきの感触が忘れられず、恥かしさ、腹立たしさに、二三日の間は、一間にとじこもったまま、ほとんど誰にも顔を合わせなかった。
恒川氏は両人に犯人捜査上手懸りとなるべきことを、色々に訊ねて見たが、結局読者に分っている以上の事柄は、何も発見されなかった。茂少年を鞭打った人物も、ただ「顔を黒い布で包んだ小父さん」という外には、何も分らなかった。
三谷青年は、毎日の様に見舞にやって来た。彼の方から来ぬ時は、倭文子が待兼ねて電話で呼び寄せた。
親戚といっても、立入って口出しをする程の近しい人はなかったし、斎藤老人は実直一方の好々爺で、こんな時の力にはならなかった。乳母のお波は、多弁で、正直で、涙もろい外に取柄のない女だ。恋愛関係は別にしても、倭文子としては、さしずめ、三谷青年をたよる外はなかったのである。
二三日は別段の出来事もなく過去った。が、獲物を奪われた悪魔が、そのまま指を啣えて引込んでしまう筈はなかった。やがてまた、倭文子の身辺に、何ともいえぬ変なことが起り始めた。
彼女は、ある時は寝室の窓に、ある時は化粧室の鏡の中に、またある時は、客間のドアの蔭にさえ、あの恐ろしい怪物の顔が、ソッと彼女を覗いているのに気付いた。
どこから、どうして這入ってくるのか、いつの間に逃げて行くのか、書生などが、いくら素早く追っかけて見ても、相手を捕えることは出来なかった。
警察でも犯人捜査に手を尽していたのだけれど、流石の恒川警部も、この妖術使いにかかっては、ほとんど手も足も出ない有様であった。
三谷は、恋人が、日一日と憔悴して行く様子を、見るに見兼ねて、ある日、とうとう窮余の一策を案じ出した。
彼は倭文子の同意を得て、お茶の水の「開化アパート」を訪ねた。そこに有名な素人探偵、明智小五郎が住んでいたのだ。
三谷は新聞記事などで、この名探偵の噂を聞いていたばかりでなく、紹介状を手に入れる便宜もあった。
訪ねて見ると、丁度幸いなことには、名探偵は、関係していた事件が、どれも落着して、無事に苦しんでいる処だったので、三谷は喜んで迎えられた。
素人探偵明智小五郎は「開化アパート」の二階表側の三室を借り受け、そこを住居なり事務所なりにしていた。
三谷がドアを叩くと、十五六歳の、林檎の様な頬をした、詰襟服の少年が取次に出た。名探偵の小さいお弟子である。
明智小五郎をよく知っている読者諸君にも、この少年は初の御目見えであるが、その外に、この探偵事務所には、もう一人、妙な助手がふえていた。文代さんという、美しい娘だ。
この美人探偵助手が、どうしてここへ来ることになったか、彼女と明智とが、どんな風の間柄であるか、等々は「魔術師」と題する探偵物語に詳しく記されているのだが、三谷は、予ねて噂を聞いていたので、一目で、これが、素人探偵の、有名な恋人だなと、肯くことが出来た。