明智は客間の大きな肘掛椅子に凭れて、好物のフィガロという埃及煙草を吹かしていた。その紫色の煙幕を隔てて、有名なモジャモジャ頭と、無※の、どことなく愛嬌のある混血児の様な顔と、その癖鋭い目とがあった。
美しい文代さんは、よく似合った洋装の裾を飜して、快活に客をもてなした。彼女の小鳥の様な明るい笑声が、このいかめしい探偵事務所に、新婚の家庭の様な華やかな空気を漂わせていた。
三谷は、文代さんの入れてくれたお茶を啜りながら、鹽原温泉以来の出来事を、少しも隠さず、詳しく物語った。
「何もかも訳の分らぬことばかりです。到る所で、あり得ないことが起っているのです。私は妖術なんてものを信じることは出来ません。しかも妖術とでも考える外に、解釈の仕様もない事柄ばかりです」
三谷は憮然としていった。
「巧な犯罪は、いつでも、妖術の様に見えるのです」
明智は、絶えず、一種奇妙な微笑を浮べて、三谷の話を聞いていたが、やっと口を開いた。
「ところで、その唇のない男は、一体何者だと思います。あなた方は全くお心当りがないのですか」
明智は、相手の心の奥底に潜んでいるものを、見通している様な調子で尋ねた。
「アア、若しや、あなたもそれをお気づきなすったのではありませんか」
三谷は、ギョッと恐怖の表情を浮べて、明智の目色を読みながらいった。
「実は、まだ誰にも話したことはありませんが、私はある恐ろしい疑いを持っているのです。払のけても、その悪夢の様な疑いが、頭の隅にこびりついていて、離れぬのです」
彼はそこまでいって、ふと口をつぐみ、あたりを見廻した。文代も、隣室に退き、客間には、主客二人切りだ。
「誰も聞いているものはありません。で、あなたの疑いというのは?」
明智が先を促した。
「例えばですね」三谷は何かいいにく相に、「硫酸か何かで、ひどく焼けただれた皮膚が癒着するのには、どれ程の日数がかかりましょう。半月もあれば十分ではないでしょうか」
「そうですね。半月位のものでしょうね」
明智は、何ぜか、面白くてたまらぬといった調子で答えた。
「すると、ある恐ろしい想像が、成立つのです」
三谷は青い顔をして話しつづける。
「今度の犯人は、茂を誘拐して、身代金を要求した所を見ると、金銭が目的の様ですが、実は金銭などは従であって、茂の母を手に入れるのが、第一の目的ではなかったかと思うのです。それが証拠に、あの時も、身代金は必ず倭文子自身で持参せよという、条件がついていました」
「成程、成程」
明智は非常に興味をそそられて、合槌を打った。
「ところで、例の化物みたいな男が、鹽原温泉に現われたのは、さっきお話した岡田道彦が、温泉宿を出発してから、丁度半月程のちなのです」
三谷は、声をひそめて、思い切った調子でいった。
「だが、その岡田は滝壺に身を投げて、失恋の自殺を遂げたのではありませんか」
「と、世間は信じているのです。ところが、岡田の死体が発見されたのは、死後十日以上たっていて、ただ、着物や持物、年配、背格好などの一致で、単純に、それを極められてしまったに過ぎません」
「ホウ、すると、顔などは、もう皮膚がくずれていたのですね」
明智は膝に手をついて、ちょっと身体を乗り出す様にした。
「そうです。川を流れて来る間に、岩角に当ったという風に、顔はほとんど赤はげになっていました」
「するとつまり、あなたのお考えは、川を流れて来たのは、岡田の着物を着た別人の死体であって、本物の岡田は、硫酸か何かをあびて、化物みたいな面相になって、生き残っているというのですね」
「その上、完全な手足を義手義足と見せかけて、この世に籍のない、謂わば仮空の人物になりすましたのです。失恋の鬼となって、悪魔の恋を成就したのです」
「常識では考え得ない心理だ」
明智は首をかしげて、独言の様に呟く。
「それは、あなたが、岡田という男をご存じないからです。あいつは気違いです。職業は画家でしたが、芸術家なんてものは、我々に想像出来ない、えたいの知れぬ気持を持っているものです」
三谷は、嘗つて岡田が宿を立去り際に、三谷と倭文子の死体写真を拵えて、残して行ったことを語った。
明智は黙って聞いている。
「あいつの恋は恐ろしい程でした。私に、毒薬決闘を申込んだのも岡田です。そればかりではありません。あいつが温泉宿に滞在中の一ヶ月ばかり、倭文子さんをつけ廻した様子は、思い出してもゾッとする程、気違いめいていました。情慾ばかりのけだものみたいでした。どうも、あの男は、ずっと以前から、倭文子さんを恋していて、ただ倭文子さんに接近する機会が得たいばかりに、態々、あとを追ってあの温泉へやって来たとしか考えられないのです」
三谷は憎悪に燃えて、夢中に話しつづける。
「だが、奴の目的は、倭文子さんを手に入れるだけではありますまい。態々贋の死骸を拵え、苦しい思いをして、顔を焼いてまでもこの世から姿をくらますというのには、もっと深い企らみがなくてはなりません」
「例えば、復讎という様な?」
「そうです。私はそれを考えると、身体中にあぶら汗がにじみ出す程、恐ろしいのです。奴は僕に復讎しようとしているのです。理由のない復讎をとげ様としているのです」
だが、あとになって、岡田という男は、三谷が考えていたよりも、もっともっと恐ろしい悪事をたくらんでいる、極悪非道の悪魔であったことが分った。
「あなたに、御相談に伺ったのも、倭文子さんに加えられた、極度の侮蔑を恨む外に、一つはその復讎が恐ろしかったからです。彼奴は悪魔の化身です。あなたはお笑いなさるか知れませんが、私はこの目で見たのです。彼奴のあの不可解な消失は、妖術とでも考える外考え様がないではありませんか。あいつは全く別の世界から、この世に迷い出して来た、非常に不気味な、一種の生物みたいに思われるのです」
「岡田の元の住所を御存知ですか」
三谷の物語が一段らくついた時、明智が尋ねた。
「温泉で名刺を貰っていました。何でも渋谷辺の、ずっと郊外の様に記憶しています」
「まだ、そこを調べて見ないのですね」
成程、岡田の元の住所を調べて見るという手があったな。と三谷はちょっと迂濶を恥じた。
「イヤ、いずれそこへも、行って見なければなりますまい」
明智はニコニコしながらいった。
「併し、先ず第一に、現在の賊の巣窟を見たいと思います。あなたの所謂妖術が、どんな風にして行われたか。そいつを調べたら、自然賊の正体も分って来る訳です」
「ではお差支えなければ、これから直ぐ青山へ御出かけ下さいませんでしょうか」
三谷は、名探偵を見上げる様にしていった。
明智はこの事件に、ひどく興味を覚たので、少しも勿体ぶる事なく、直に同行を承諾した。
ところが、いざ出発という間際に、甚だ幸先の悪い出来事が起った。
明智が外出の支度をして、文代さんに留守中のことをいい残していた時、一足先に廊下へ出ようとした三谷が、ドアの下の隙間から、一通の封書が覗いているのを発見した。誰かが黙って差入れて行ったものに相違ない。
「アア、お手紙の様です」
彼はそれを拾い上げて、明智に渡した。
「誰からだろう。ちっとも見覚のない筆跡だが」
明智は独言をいいながら、封を切って読み下した。読むに従って、彼の顔に一種異様の微笑が浮んで来た。
「三谷さん。賊は、あなたがここへいらしったことを、もうちゃんと知っていますよ」
明智がそういって、差出した手紙には、左の様な恐ろしい文句が認めてあった。
明智君、とうとう君が出馬することになったね。俺の方でも働き甲斐があるというものだよ。だが、用心し給え。俺はね、君が今まで手がけた悪人共とは、少々違っているのだ。その証拠には、君がたった今この事件を引受けたのを、俺の方では、もうちゃんと知っているのだからね。
「すると、あいつは、私達の話を、ドアの外で立聞きしていたのでしょうか」
三谷が青ざめていった。
「立聞きなんて出来ませんよ、僕はドアの外へ聞える様な声では、決して話をしませんし、あなたも、非常に低い声でした。賊は多分、あなたを尾行して、ここへはいられたのを見届け、僕がこの事件をお引受することを、見抜いてしまったのです」
「では、奴はまだこの辺にウロウロしているかも知れませんね。そして、また私達のあとをつけて来るのではありますまいか」
三谷が心配すればする程、明智は却って、ニコニコ笑って見せた。
「尾行をして来れば、寧ろ好都合ですよ。あいつのありかを捜索する手数が、省ける訳ですからね」
彼は三谷を励ます様にして、先に立って、玄関に待っていたタクシーに乗った。
青山の例の怪屋への途中、絶えずうしろの窓を注意していたけれど、尾行して来る自動車を発見することは出来なかった。
賊は彼等の行先を察して、とっくに先廻りをしているのではあるまいか。危い、危い。あの化物屋敷へ、武装もせず、たった二人で乗り込んで行くのは、あまりに向う見ずな、振舞ではなかったか。
二人は、少し手前で車を捨てて、小春日和の、晴れ渡った日をあびながら、例の怪屋へ歩いて行った。
締切った門には、警察でとりつけたのか、いかめしい錠前がぶら下っている。白日に照らし出された怪屋は、何の変てつもない、ただの空家としか見えなかった。
「鍵がなくては這入れませんね」
三谷が、錠前を見ていった。
「裏へ廻って見ましょう。賊が消えたという塀の所へ」
明智はもう、その方へ歩き出していた。
「でも、裏の方からは迚も這入れませんよ。裏門なんてありませんし、それに塀がとても高いのです」
「併し、賊はそこから這入ったのです。我々も這入れぬという訳はありませんよ」
明智は無論妖術を信じてはいなかったのだ。
並んだ屋敷を迂回して、広い復興道路に出で、そこから裏手の高い塀にはさまれた、問題の通路へ曲って行った。
「ここですね」
「そうです。ごらんの通り、梯子を掛けて乗り越す外には、ここから邸内へ這入る方法がないのです。どんな高飛びの名人だって、この高い塀に飛びつくことは出来ません。それに、上には一杯ガラスのかけらが植えつけてあるのですから」
「あの晩は月夜でしたね」
「昼の様な月夜でした。それに、繩梯子をかける余裕なんて、絶対になかったのです」
二人はそんな会話を取交しながら、その通路を行ったり来たりした。明智は両側のコンクリート塀を見上げたり、地面を眺めたり、そうかと思うと、突然広い幹線道路に走り出して、附近を見廻していたが、例の一種異様のニコニコ笑いをして、妙なことをいい出した。
「賊がここから這入ったとすれば、仮令我々の目に見えなくても、どこかに出入口がある筈です、例えば、余り変てこな出入口である為に、我々はマザマザとそれを見ながら、少しも気がつかぬ様な。……」
「まさか、この塀に隠し戸があるとおっしゃるのじゃありますまいね」
三谷は驚いて相手の顔を眺めた。
「隠し戸なんかは、警察で十分調べたでしょうし、こう見た所、そんなものがあるとは思えませんね」
「すると、外にどんな方法があるのでしょう」
三谷はいよいよ変な顔をした。
「やれるか、やれないか、一つ僕も賊の真似をして、ここから這入って見ましょう。あなたは、その時の様に僕のあとから追駈けて見てくれませんか」
この際、明智が冗談なぞをいう筈はない。しかも、彼は賊と同じ妖術を使って見せようというのだ。全く入口のない、コンクリートの壁を、つき抜けて見ようというのだ。
三谷はあっけにとられて、しかし非常に好奇心にそそられた様子で、兎も角名探偵の言葉に応じて見ることにした。
三谷は幹線道路の十間程向うに、明智は幹線道路から問題の場所への曲り角に立った。
明智の合図で、二人は同時に走り出した。明智は曲り角から姿を消した。三谷は息せき切って、明智の立っていた個所へ走りついた。そして、ヒョイと、塀の方を見ると、彼は「アッ」と叫んで、立ちすくんでしまった。
一丁程も続いた、見通しの通路に、人の影もないのだ。先夜と全く同じことが起った。明智小五郎は、完全に消え失せてしまったのだ。
「三谷さん、三谷さん」
どこかで、呼ぶ声がした。キョロキョロ見廻していると、ポンポンと拍手の合図、それが確に、高いコンクリート塀の向側から響いて来る。
三谷は声のする個所に近づき、塀越しに伸び上る様にして、耳をすましていると、暫くは何も聞えなかったが、やがて、うしろの方で、カタンと妙な物音がした。
塀の向側へ注意を集めていたのに、反対に、うしろの道路に音がしたので、オヤッと思って、振返ると、これはどうだ。そこにヒョッコリ明智が立っているではないか。
三谷は狐につままれた様な顔をした。
ウラウラと晴渡った、昼日中、何とも解釈の出来ない、奇蹟が行われたのだ。日が照っている。明智の影が、黒々と地面に射している。夢でも幻でもないのだ。
「ハハハハハハハ」
明智は笑い出した。
「まだ分りませんか。ナアニ、馬鹿馬鹿しい様なトリックなんです。手品がすばらしければ、すばらしい程、その種は一向あっけないものですよ。あなたは錯覚にかかっているのです。現に見ていながら、気づかないのです」
三谷は眼を落して、何気なく明智の足元を見た。そこの地面に直径二尺程の丸い鉄の蓋がある。近頃、東京市中に目立ってふえた、下水道のマンホールだ。
「アア、それですか」
「マンホールとは考えたものですね。我々はこの鉄の蓋の上を踏んで歩きながら、一向意識しないのです。復興道路には、到る所にこれがあります。田舎から出て来たばかりの人は、存外これが目につく相です。併し東京人の我々は、慣れてしまって、道に落ちている石塊程にも注意しません。いわば盲点に入ってしまっているのです」
明智の説明を聞いている内に、三谷はやっとそこへ気がついた様に、口をはさんだ。
「それにしても、こんな狭い横丁に、マンホールがあるのは、変ですね」
「そこですよ」明智は引取って、
「僕もさい前、それを変に思って、よく見ると、この鉄の蓋は、向うの大道路の奴とは、どこか違った所があります。ごらんなさい。真中に心棒があって、一寸ここの留金をはずすと、がんどう返しに、グルッと廻転する仕掛けになっている」
明智はいいながら、鉄蓋を押して、半廻転させた。丁度一人通れる程の穴である。
「つまり、これは私設のマンホールなんです。下に下水道がある訳ではなく、狭い穴がこの塀の内側へ通じている。簡単な抜け穴の入口のカムフラージュです」
私設の赤いポストを、町角に立てておいて、重要書類を盗んだ泥棒の話さえある。我々は、ポストがどこに立っているかを、常に正確に記憶しているものではないからだ。マンホールとても同様である。全く不用のマンホールが、一つ位余計にあったところで、当の工事をした人夫でさえ、気がつかぬかも知れないのだ。
二人はそこの狭い穴を通って、塀の内側へ抜け出した。穴は庭内の小さな物置小屋の床下へ通じている。床板の一部分が上げ板になっている。
入口の鉄の蓋を元通りにして、留金をかけ、この上げ板をはめて置けば、誰だってこれが抜け道とは気がつかぬ。
「こんな抜け穴を拵えた所を見ると、賊は非常に大げさな悪企みをしていたのかも知れませんね。折角の隠れ家がバレてしまって、彼奴さぞかしくやしがっている事でしょう」
明智は例の微笑を浮べていった。
まさか邸内に賊が隠れているとは思わぬけれど、何となく薄気味悪く感じないではいられなかった。
やがて二人は、台所の引戸を開けて、薄暗い土間に踏み込んだ。そこの板の間の下に、倭文子がとじこめられていた、例の穴蔵があるのだ。
裸女群像
三谷は、土間に立って、暫く耳をすましていたが、何の気配もせぬので、やっと安心した体で、広い台所の板の間に上り、そこの上げ板をとりのけた。
「この下に例の穴蔵があるのです。併し、何か明りがないと……」
「僕がライターを持っています。兎に角降りて見ましょう」
明智はパチンとライターを点火し、地下室への階段を降りて行った。
狭い階段を降り切ると、頑丈な扉が開けっぱなしになっている。その奥がコンクリートの箱の様な、真暗な穴蔵だ。
ライターを壁に近づけて、グルッと一廻りすると、例のカンテラが見つかったので、明智はそれに火をつけた。穴蔵がボンヤリと明るくなる。
そうして置いて、彼はもう一度階段に引返し、その辺を念入りに眺め廻していたが、やがてライターを消して、まだ穴の上に躊躇している三谷に、声をかけた。
「あなたも降りて来てごらんなさい。御一緒に、もう一度よく調べて見ましょう」
三谷は、その声に励まされて、怖々階段を降り始めた。
半分程くだると、薄暗い光線ながら、穴蔵の中が一目に見える。
「明智さん、どこにいらっしゃるのですか。明智さん」
三谷はゾッとして、思わず大きな声を立てた。見渡した所、明智の姿がかき消す様に、なくなっていたからだ。
彼は外へ走り出たいのを、やっと我慢して、階段を駈降り、扉の中を探し、狭い穴蔵の中をキョロキョロと歩き廻った。どこにも人の気配さえせぬ。
墓場の様な静けさ。陰気なカンテラの赤茶けた光り。目に浮ぶは、いつかの晩の、あの恐ろしい怪物の姿だ。唇のない歯ばかりの笑い顔だ。
三谷は背筋に水をあびた様な感じで、急いで穴蔵を飛出し、階段を昇り始めた。すると、どこからか、姿はなくて、声ばかりが、
「三谷さん……」
と聞こえて来る。ギョッとして、立止り、
「どこです。どこにいらっしゃるのです」
叫ぶ様に聞き返す。
「ハハハハハハハ、ここですよ」
パチンと音がして、三谷の頭の上でライターが点ぜられた。
見ると、階段の天井に、平蜘蛛の様にへばりついた明智の姿。
「これが賊の妖術ですよ。ごらんなさい。この両側に、天井を支えている太い横木があります。これに両手両足を突っ張っていれば、下を通る人は少しも気がつきません」
明智は天井から飛び降りて、手をはたきながら、
「つまり、賊は、あなた方が奥の穴蔵へ這入ったのと、引違いに、この隠れ場所を降りて、外へ逃げ出してしまったのです。それから暫くたって、この辺をいくら探して見た所で、誰もいなかったのは、当り前なのです。ハハハハハハハ、何とあっけない、手品の種ではありませんか」
いわれて見ると、成程それに相違ない。あの時は、慌ててもいたし、夜のことで、今よりも一層暗かったのだ。賊のちょっとした気転に気づかなかったのは、是非もない。
「ここを飛び出した賊はどこへ行ったか。いうまでもなく、裏の塀際の物置小屋、そこから地下を通って、例のマンホールです。見張りの巡査はいたけれど、あなたと同じ様に、塀ばかり見つめていたことでしょうから、隙を見て、穴から逃げ出すのは訳はない、……これが、あなたのいわゆる妖術の種明しですよ」
二人は更に、怪賊が消えうせたという、邸内の廊下を検分したが、そこにも、燈火の蔭を利用して、身をかわす余地がないではなかった。
第一に畑柳家の書斎での、奇怪な殺人、続いて死体の紛失、怪物を発見して、追駆けて見ると、例のマンホール利用の消失と、不思議が次々と重なった為に、何でもないことが、妖術めいて見えたのであろう。
それが、マンホール、穴蔵の天井の隠れ場所と、賊のトリックがあっけなく暴露されてしまうと、今度は反対に、廊下での消失など、最早調べて見るまでもない様に思われて来る。三谷は明智の説明を、ほとんど上の空で聞いていた。
さて、邸内の検分を終って、外に出た時には、三谷はすらすらと解けた謎に、さも満足そうな顔をしていたに引かえ、不思議なことに、謎を解いた明智の方が、何ともいえぬ、困惑の色を浮かべているのだ。
「どうかなすったのですか」
三谷が心配して尋ねた程である。
「イヤ、何でもないのです」
明智は、気をとり直して、例のニコニコ顔を作りながら答えた。
「だが、正直にいいますとね、僕は何だか、えたいの知れぬものにぶつかった様な気がしているのです。恐ろしいのです。賊の巧妙なトリックではありません。そのトリックを、こんなに易々と解き得たことがです」
彼はじっと三谷の顔を見た。
「どうしてですか。おっしゃる意味がよく分りませんが」
三谷も相手の目を凝視しながらいった。
二人はうららかな秋の日をあびて、なぜかしばらくお互の顔を眺め合っていた。何となく異様な光景であった。
「イヤ、気にかけることではありません。いつか詳しくお話しする機会もあるでしょう。それよりも、僕達はこれから、岡田の元の住所を訪ねて見ようではありませんか」
明智が気を変えて、何気なくいった。
だが、この訳の分らぬ会話には非常に重大な意味が含まれていたのだ。その時明智が示した困惑の表情は、彼が決して並々の探偵でないことを証するに足るものであった。読者はこの些細な出来事を後々まで記憶にとどめて置いて頂きたい。
それは兎も角、三谷の名刺入れに、幸い岡田の名刺が入っていたので、それによって、彼の元の住所を訪問することになった。
タクシーが止まったのは、代々木練兵場の西の、まだ武蔵野の俤を残した、淋しい郊外であった。
探すのに少々骨が折れたけれど、結局元岡田が住んでいたアトリエを見つけることが出来た。
雑草の蓬々と生い繁った中に、奇妙なとんがり屋根の、青ペンキの洋館が建っていた。純然たるアトリエとして建築したものだ。
這入ろうとしたが、扉も窓も厳重に締がしてある。まだ空家のままなのであろう。
半町程隔たった、やっぱり野中の一軒家が、このアトリエの家主と聞いて、二人はそこを訪ねた。
「あの家をお貸しになるのでしたら、一度拝見したいのですが」
明智はきっかけをつける為に、そんなことをいって見た。
「あなた方も、絵や彫刻をなさる方ですかね」
家主というのは、四十余りの、慾ばりらしい田舎親爺だ。すると、岡田は彫刻もやったものと見える。
「僕達は、死んだ岡田君とは、間接に知り合のものです。やっぱり同じような仕事をしているのですよ」
明智は出鱈目をいった。
家主は暫らく二人の風体をジロジロ眺めていたが、やがて妙なことをいい出した。
「あの家は訳があって、ちっと高くつくのですがね」
「高いといいますと?」
縁起の悪い水死人の住んでいたアトリエ、しかも長く空家のままになっているのに、高いというのは変だ。
「イエね、家賃の方は、高い訳でもありませんが、つきものがあるのです。岡田さんが残して行った、大きな彫刻があるのです。そいつを一緒に引取って頂き度いので」
家主の話を聞くと、このアトリエは元、ある彫刻家の持家であったのを、彼が買受けて貸家にしたので、岡田はその最初から二年ばかりの借り主であったが、非常に孤独な男で、奇妙なことには、身寄りのものも、親身の友達もないらしく、警察から水死の通知を受けても、死骸の引取手もなかったので、さしずめ家主が一切を引受けて、葬式から墓地のことまで心配した。
そんな訳で、岡田がアトリエに残して行った品物は、凡て家主の所有に帰したのだが、その中に、仲々高価な彫刻があるというのである。
「一体どの位の値打のものなのです」
明智が何気なく尋ねると、驚いたことには、
「おやすくして、二千円です」
との返事だ。誰の作かと聞くと、無論岡田が作ったのだという。無名の岡田の作品が、二千円とは法外な値段である。
「それがね、お話しなければ分りませんがね」
家主は、仲々お喋りである。
「実は岡田さんの葬式をすませると間もなく、商売人が訪ねて来ましてね、どうしても譲ってほしいというので、いくら位に引取ると聞くと、二百円と切出したのです」
「わたしは、あんなものの値打はちっとも分りませんが、その人がひどく執心らしいので、掛引きをしましてね、それでは売れぬといいますと、三百円、三百五十円とせり上げて行って、とうとう、四百円とつけたのです。
こいつは大変な金儲けになり相だと思いましたのでね。エへへ……わたしも慾が出ましてね、それでも売らねえと頑ばって見ました。
流石に、その商人も、弱ったと見えて、一度は帰って行きましたが、ナアニその内やって来るに違いないと思っていると、案の定、翌日訪ねて来て、そこでまた、五十円百円と値をせり上げましてね、千円でさあ。
この調子だと、どこまで上るか分らないと、わたしも妙な意地が出て、まだ頑ばっていると、それからというものは三日にあげずやって来て、そのたんびに、段々とせり上げて、二千円まで来てしまったのです。私もとうとう手を打ちましたよ。
ところが、それでは明日にも引取るからと約束して帰ったまんまもう半月にもなりますが、その後何の音沙汰もないのです。
折角借りてやろうとおっしゃるのですから、お貸申したいのは山々ですが、お貸するには、あの彫刻をどっかへ運び出さなけりゃなりません、ひどくでっかい彫刻で、あれを置いたままでは、迚もお仕事は出来やしませんからね。
といって、二千円の代物を雨ざらしにもならず、誠に困ったものです。どうでしょう。あなた方のお目で、一つその彫刻をごらん下すって、値打のあるものでしたら、お買上げ下さいませんでしょうか。わたしとしては、どなたにお譲りするのも同じことですからね」
家主はニヤニヤ笑いながら、明智と三谷の顔を、見比べるようにした。
二人とも、仲々立派な身なりをしていたので、この慾ばり親爺は、うまく話し込んで、一商売しようという腹であろう。二千円という値段も、余程掛値があるに違いない。
だが、どう考えても、岡田の作品にそんな高価な買手がつくとは変である。それには何か仔細がなくてはならぬ。
「兎も角、その彫刻というのを、一度見せてくれませんか」
明智は少からず興味を覚えて、二千円の作品の一件を申出でた。
家主は二人を案内して、アトリエに這入り、二つ三つ窓を開いて、部屋の中を明るくした。
見た所、十坪程もある、天井の高い寺院のお堂みたいな部屋であったが、画架だとか、描きかけのカンヴァスとか、塑像の材料だとか、石膏の塊だとか、額縁のこわれたの、脚のとれた椅子、テーブルなどが、隅々に転がっている中に、非常に大きな、まるでお祭りの山車みたいな感じのものが、殆ど部屋の三分一程を占領していた。
「これが、その彫刻なんですが」
家主は、いいながら、その巨大なものにかぶせてあった、白い布をとりのけた。
白布の下から現れたのは、アッという程大がかりな、石膏製の裸婦の群像であった。
「ワア、こいつは素敵だ。だが、何て拙い人形だろう」
三谷はびっくりして叫んだ。
如何にも驚くべき群像であった。これなれば、手間賃を考えたら、二千円の値打はあるかも知れぬ。
石膏をふんだんに使った、山の様な台座の上に、寝そべっているのや、蹲っているのや、立っているのや、八人の等身大の裸婦の像が、手を交え、足を組違えて、目まぐるしく群がっているのだ。
僅の窓から這入る、乏しい光線が、複雑な陰影を作り、下手は下手ながら、一種化物屋敷めいた妙に不気味な感じを与えた。
それにしても、こんなべら棒な代物を、真面目に買いに来るというのは、どう考えても変であった。第一、こんな子供のいたずらみたいな、不細工な石膏の塊に、二百円だって勿体ないことだ。
「その買いに来た商人というのは、一体どんな男ですか」
明智が尋ねると、家主の親爺は顔をしかめて見せて、
「それがね、どうも変な奴でね。わたしも、なるべくなれば、あなた方に買って頂き度いと思うのですよ」
「変な奴というと?」
「ひどい片輪者でね、手も足も片方ずつ不自由で、目が悪いのか、大きな黒眼鏡をかけ、その上、鼻と口はマスクで隠しているのですよ。言葉がひどく曖昧で、鼻へ抜ける所を見ると、鼻欠けさんかも知れやしません」
それを聞くと、こちらの二人は、思わず顔を見合わせた。例の唇のない怪物にソックリなのだ。だが、あいつはなぜ、こんなつまらない石膏像を、それ程欲しがっているのであろう。何か深い仔細がなくてはかなわぬ。
明智の口辺から微笑が消えた。
彼の機智が烈しく活動し始めたしるしだ。
「岡田君は、どういう考えで、こんな大きな像を作ったのでしょうね。何かあなたに話しませんでしたか」
明智は裸婦の一人一人を、入念に検査しながら、尋ねた。
「別に展覧会に出品なさる様なお話もなかった様です。失礼ですが、あなた方、絵かきさんや、彫刻家さんのなさることは、我々凡人にゃ、てんで見当もつきませんのでね」
家主は苦笑しながら、遠慮のない所をいった。
「これが出来上ったのは、いつ頃でした」
「サア、それが分らないのですよ。一体岡田さんは、ひどい変り者で私共に道で会っても、物もいわない様な人でしたが、家にいる時でも、窓という窓を締切て、入口の戸も中から鍵をかけて、昼間でも電燈をつけているといった、そりゃ風変りな人でした。仕事の方もきっと電燈の光でなすったのでござんしょう。私共はこの家の窓が開いていたのを見たことがない位でした」
聞けば聞く程、奇怪な事柄ばかりである。岡田がそんな男であったとすれば、岡田即ち唇のない男という、三谷の考えも、あながち突飛な空想とはいえぬのだ。
「その妙な男が、この像に値をつけて置きながら、今まで引取りに来ぬというのは、変ですね」
明智がいうと、家主の親爺はやっきとなって、
「イヤ、なにしろ二千円ですからね。ちょっと工面がつかぬのかも知れませんよ。併し、この人なら真からこれを欲しがっていたことは確です。あたしゃ決して出鱈目をいっているのではありません」
と弁解した。
「あなたを疑っている訳ではないのです」
明智は三谷と目を見合せて、例の不思議な微笑を浮かべながら、
「その男の考えが変ったのでしょう。恐らく、いつまで待っても、引取りに来ることはないかも知れません。三谷さん、これは僕達にとって、非常に興味深い事柄ですね」
と意味ありげにいった。
三谷はそれを聞くと、何とも知れぬ、冷い風の様なものを感じて、ゾッと身震いした。
「三谷さん、あなたは『六つのナポレオン』という探偵小説を御存じですか。ナポレオンの石膏像を、片っ端から叩きこわして歩く男の話です。みんなその男を気違いだと思っていた所が、その実は、ナポレオン像の一つに、高価な宝石が隠してあって、男はそれを見つける為に、同じ型の石膏像を、次々と叩きこわして歩いたというのです」
明智は群像の裸婦の一人の、肩のあたりを、コツコツと指先で叩きながらいった。
「その話は読んだことがあります。でも、まさかこの群像に宝石が隠してある訳ではありますまい。小さな宝石を隠すのに、こんなべら棒な群像を作る必要もない訳ですからね」
三谷は素人探偵の空想を笑った。
「イヤ、僕はなにも石膏像に隠されるものが、いつも宝石に極っているとはいいません。ある人にとっては、宝石よりも、もっと値打のある、そしてまた、こんな大きな群像の中でなければ、隠し切れないようなものも、あるだろうと思うのです」
寺のお堂の様な感じのアトリエの中へ、僅に開かれた窓々から、いつともなく、夕闇が忍び込んで来た。
真白な裸女達は、肌の陰影が薄れて、夢の様な、たそがれの灰色の中へ、溶けこんで行くかと見えた。
「ごらんなさい。このまずい塑像の中に、三体だけ、他のとは比べものにならぬ程、よく出来た像があります。僕はさい前から、それに気づいていました」
明智は、その三人の裸女を、一人一人指さしながらいった。
成程、そういえば、五人の拙い裸女の蔭に、隠れるようにして、三人の生きた女が、夫々のポーズで蹲っていた。
夕闇が、荒削りな肌の細部を隠してしまったので、その三人の、生けるが如き五体が、まざまざと浮かび上ったのだ。
たそがれが、作り出した、物の怪であろうか。
「こうして見ていると、彫刻なんて、本当に薄っ気味の悪いものですね」
心なき田舎親爺にも、ただならぬ気配が感じられたのか、家主は低い声で不気味らしく呟くのであった。
三人は、迫り来る薄くらがりに、無言のまま、立ちつくしていた。その様は、恰も、八人の群像に、更に奇怪なる三体を、増したかの如く見えたのである。
「アッ、いけない。お前さんなにをするんだ」
突如、家主がけたたましい叫び声を立てて、明智の側へ駆け寄った。
だが、もう遅かった。
明智は、一人の裸婦の腰のあたりを、いやという程蹴飛ばしたのである。
家主の親爺が怒ったのは無理はない。見も知らぬ男が、何の断りもなく、二千円の商品を蹴飛ばしたのだ。そして、その大切な石膏像が欠けてしまったのだ。
「あんた、気でも違ったのかね。何という乱暴をするんだ。サア、弁償して下さい。売物が台無しになってしまった、二千円がビタ一文かけても承知するこっちゃない」
親爺は明智の胸ぐらをとらんばかりにして、がなり立てた。
裸女の一人は、腰のあたりが四五寸程も欠けて、気の毒な姿になった。欠けた石膏の下から、うす黒い布みたいなものが、まるで魚の臓腑かなんぞの様に、不気味にのぞいている。
明智はその側にしゃがみ、親爺の罵しり声も耳に入らぬ体で、熱心に、石膏像の芯の布みたいなものを検べていたが、やがて、こちらを向いて立上った時には、彼はハッする程険しい表情になっていた。