饭饭TXT > 海外名作 > 《吸血鬼(日文版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 吸血鬼.txt

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作者:日-江户川乱步 当前章节:15427 字 更新时间:2026-6-22 23:19

 この男を警官に引渡すのは訳はない。だが、それでは、相手の真意が分らぬ。麻酔薬を持っていたからといって、必ず危害を加えると極ったものではない、どうしてやろうかしら?

「何を考えていらっしゃるのです」

 男は不審らしく、文代の顔を覗き込んだ。

「イイエ、何でもないのです。アノ、わたしちょっと……」

 文代の視線をたどると、通路から少し引込んだ所に、化粧室のドアが見えた。

「アアそうですか。どうか」

「アノ、すみませんけれど、これ持ってて下さいませんでしょうか」

 文代は毛皮でかさばった外套を脱いで、男に渡した。麻酔薬のケースは、とっくに、外套のポケットから、ハンドバッグへと移し換てある。

 男は両手を差出して、大切そうに外套を受取った。

 日頃の文代さんに似合わしからぬ、不躾なやり方である。が、その実は、こうして、男の手をふさいでおいて、彼女が化粧室に入っている間、例のケースが紛失したことを気付かせまい策略であった。

 第一化粧室へ入るというのも、彼女にその必要があった訳ではない。ただ、男の目の届かぬ場所で、ケースの中味をすり変える為だ。

 彼女は、化粧室に隠れると、手早く、麻酔薬のしみこんだガーゼのかたまりを捨てて、その代りにハンカチを引裂いて、手洗場の水にぬらし、ケースの中へ押し込んで、何食わぬ顔をして、男の側へ帰って来た。

「どうも、済みません」

 彼女は、ちょっと恥らって見せて、男から外套を受取ったが、その拍子に、例のケースを、相手の外套のポケットへ、ソット辷りこませたのは、いうまでもない。

 また肩を並べて少し歩くと、通路の壁に「非常口」と貼紙のしてある箇所へ来た。

「こちらです。この中に明智さんが待っているのです」

 そういって、男が、壁と同じ模様の、隠し戸みたいな、小さな扉を押すと、無論鍵なんかかけてないので、なんなく開いた。

 扉の向うには、薄暗い、芝居の奈落の様な感じの長い廊下が見える。

 その廊下に、また小さな扉があって、そこをくぐると、六畳敷程の、殺風景な小部屋だ。

 一方の壁に、夥しいスイッチが列を為し、束になった電線が、ウネウネ這い廻っている様子で、それが、この建物全体の電燈を点滅する、配電室であることが分った。

 配電室といっても、開館と同時に、全部の電燈を点じ、閉館の時、その大部分を消せばよいのだから、電気係は、ここに詰切っている訳ではないのだ。

 マスクの男は、文代が部屋に入るのを待って、ピシャリ扉を閉め、どうして手に入れたのか、ポケットから鍵を出して、錠をおろしてしまった。

「アラ、何をなさいますの? ここには明智さんなんて、いないじゃありませんか」

 文代は非常に驚いた体で、男の顔を見つめた。

「フフフフフフ、明智さんですって? あなた、本当にあの人が、ここにいると思ったのですか」

 男は薄気味悪く笑いながら、落ちつき払って、そこに転がっていた何かの空箱に腰をおろした。

「では、どうしてこんな……」

 文代は、配電線の前に立ったまま、恐怖に耐えぬものの如く、声を震わせて尋ねた。

「お前さんと、さし向いで、話がして見たかったのさ。ここはね、俺の隠れがなんだ。誰も邪魔をするものはありやしない。電気係の奴は、ちゃんと買収してあるから、仮令ここへやって来ても、お前さんの味方はしやしない。……フフフフフフフ、流石の女探偵さんも、驚いた様だね、なんてうまい隠れがだろう。いざという時にや、スイッチを切って、場内を真ッ暗にしてしまえば、つかまりっこはないのだからね」

 男は猫が鼠を楽しむ様に、ジロジロと美しい獲物を眺めながら、舌なめずりをしていった。

「すると。あなたは、若しや……」

「フフフフフフフ、気がついた様だね、だが、もう手おくれだよ。……如何にも御推察の通り、俺はお前さん達が探している男なんだ。お前さんの旦那の明智小五郎というおせっかいものが、血眼になって探し廻っている男なんだ」

「では、昼間、ドアの下から、あの恐ろしい手紙を入れて行ったのは……」

「俺だよ。……今、あの手紙に書いて置いた約束を、果しているのさ。俺は約束は必ず守る男だからね」

「で、どうしようというのです」

 文代はきっとなって、男を睨みつけた。

「サア、どうしようかな」男はさもさも楽し相に、「俺は明智の奴をこらしてやればいいのだ。お前さんを人質にとって、あいつを苦しめてやればいいのだ。併しね、そのお前さんの美しい顔や身体を見ていると、また別の望みが湧き上って来るのだよ」

 文代は、ギョッとした様に、身をかたくして、配電盤によりかかったまま、黙っていた。

 男は黒い眼鏡越しに、彼女のよく似合った洋服姿を、嘗める様に見上げ見下しながら、これも物をいわなかった。

 長い間、息づまる睨み合いが続いた。

「ホホホホホホホ」

 突然、文代は気でも違った様に、笑い出したので、今度は、男の方はギョッとして相手の顔を見つめた。

 文代は、本当に気違いになってしまったのか、そんな際にも拘らず、呑気ないたずらを始めたのだ。

 彼女は、建物全体の電燈を点滅する、大元のスイッチの把手を掴むと、滅茶滅茶に、切ったりつないだり、おもちゃにした。パチパチと、青白い火花が散った。

 男はそれを見ると「アッ」と叫んで、いきなり飛びかかって行って、文代を抱きすくめてしまった。

「貴様、なにをするのだ」

 男は文代を羽交締めにして、肩越しに彼女の顔を覗きこみながら、熱い息でいった。

「なんでもないのよ。ただ、ちょっと……」

 文代は抱きすくめられたまま平気で答える。

「貴様、笑っているな。どうして笑えるのだ。誰かが救いに来るとでもいうのか」

「エエ、多分……」

「畜生、誰かと約束がしてあったのか、手筈が出来ていたのか」

 文代は落ちつき払っているので、男の方で、気味が悪くなって来たのだ。

「お前さん電信記号を知らないのね」

 文代はまだ笑っている。

「電信記号だと。それがどうしたのだ」

 男はびっくりして尋ねた。

「あたしを、配電室なんかへ、連れ込んだのが、失策だったわね」

「何ぜだ」

「あたし、電信記号を知っているのよ」

「畜生め、すると、今のあれが?」

「そうよS・O・Sよ。何千人という見物の中に、あの簡単な非常信号を読める人が、一人もいないって訳はないと思うのよ」

 さっき彼女がスイッチを切ったりつないだりしたのは、無意味ないたずらでなくて、救助を求める信号であったのだ。場内全体の電燈が、パチパチと点滅してS・O・Sをくり返したのだ。

「小女郎の癖に、味をやったな。……だが、そんなことでへこたれる俺だと思うか」

 もうぐずぐずしてはいられぬ。男はポケットから麻酔薬の容器を取出した、愈々最後の手段である。

「あたしを、どうしようっていうの」

 文代は態と驚いて見せる。

「その可愛い舌の根をとめてやるのさ。貴様を身動きの出来ない人形にしてやるのさ」

 男は容器から濡れた白布のかたまりを取出して、いきなり文代の口をふさごうとした。彼はそれが、とっくに贋物に変っているのを、少しも気附かぬのだ。

 文代は、じっとしていても、別に危険はなかったのだけれど、この機会に男の顔を見てやろうと、烈しく抵抗を始めた。

 マスクの怪物と、洋装の美女との、世にも不思議なアパッシュ・ダンスだ。

 文代のしなやかな身体が、艶かしいけだものの様に、すり抜けては逃げ廻るのを、男は息遣いはげしく、追いすがった。

 だが、女の腕が、そうそう続くものではない、遂に文代は部屋の隅に追いつめられた。

 彼女はそこへ蹲ってしまった。

 顔の前で、四本の手が、めまぐるしく、もつれ合った。

 とうとう、白い冷いものが、彼女の口と鼻とを押さえつけた。

 と同時に、彼女の手は、男のマスクにかかっていた。力まかせに、グッと引張ると、紐が切れて、マスクが彼女の手に残った。男の鼻から下が、むき出しになった。

「アラッ!」

 文代が非常に驚いて、押しつけられた白布の下で叫んだ。

 彼女は何を見たのか。唇のない赤はげの顔であったか。だが、彼女はそれを予期しなかった筈はない。今更、こんなに驚くというのは変だ。

 それは兎も角、この場合、危急を脱する為には、一応意識を失って見せなければならぬ。賊は彼女の顔に押しつけたものが、麻酔薬だと信じ切っていたのだから。

 文代は目をつむって、グッタリと、動かなくなった。

「骨を折らせやがった」

 男は呟きながら、マスクの紐をつないで、顔を隠し、死んだ様になった文代を、小脇に抱て、扉を開くと、薄暗い廊下へと姿を消した。

お化人形

 何段返しとか称する、余興舞台の前の広っぱには、数百人の群集が、この館専属の少女達の素足踊りを見上げていた。

 靴下の代りに、肉色の白粉を塗った、ムチムチと肥った素足共が、紡織機機械の様に、ピョコンピョコンと、お揃いで、客の前へ飛上った。

 踊り半に、突然、パッと電燈が消えた。

 最初は誰も怪しまなかった。目まぐるしく背景の変る、この見世物は、その転換の度毎に、電燈を消すことになっていたので、見物達は、アア、また背景が変るのかと、思ったのだ。

 ところが、一向舞台が動く様子はなく、踊子達も、立ちすくんでしまったまま、電燈丈けが、一斉にパチパチ、パチパチお化けみたいに、ついたり消えたりしている。

 踊子達の面くらっている様子が、滑稽に見えたので、見物席にワーッとどよめきが起った。

 がそれも束の間で、今にも消え相にパチパチやっていた電燈が、パッと明るくなるともう何事も起らなかった。

 舞踊は続けられた。見物は安心して、また少女達の素足に見入った。

 だがその見物の中にたった一人、今の電燈明滅の意味を悟って、非常に不安を感じた青年があった。

 彼はもう、素足の美しさなんか、目に入らなかった。青ざめて、キョロキョロして、係員を探す為にあちこちと歩き廻った。

 見物席の一隅に、制服制帽の場内整理係の男が立っていた。青年はその男を捉えて、どもりながらいった。

「この舞台の照明係はどこにいるのです。その人に会わせて下さい」

「仕事中は面会させないことになっています」

 男はぶっきら棒に答えて傍を向いた。

「イヤ。是非会わせて下さい。何かしら非常な事が起っているのです。君は、今電燈が消えたのを、停電かなんかだと思っているでしょうが、あれは恐ろしい信号です。救いを求める非常信号です」

 係の男は、青年の昂奮した顔を、ジロジロ眺めていたが、黙ったまま、ノソノソと、その場を立去ってしまった。気違いだと思ったのであろう。

 青年は、仕方がないので、その辺に立っていた見物人を捉えて、今の電燈信号の意味を、クドクド説明したが、誰も取合うものはなかった。

「百姓、だまれ!」

 熱心な見物は、耳ざわりな話声に腹を立てて、呶鳴り出した。

 青年は取りつく島がなかった。彼はとうとう、泣き出し相になって、何か訳の分らぬ事をわめきながら、出口の方へ走って行った。

 文代の折角の思いつきも、かくして、無駄に終ったのであろうか。

 如何にも、場内には、信号の分るものは、外に一人もいなかった。だが、場外に、国技館目がけて疾走する自動車の中に、我が明智小五郎がいた。彼は当然、走る車の窓から、あの巨大な丸屋根に輝くイルミネーションを見つめていたのだ。

 その時、彼等の自動車はまだ浜町辺にさしかかったばかりであったが、国技館の丸屋根はどんな遠方からでも見通しだ。

 真黒な大空に、ベラ棒に大きな、支那人の帽子みたいな、丸屋根を縁どって、輻射状の、異様な星がつらなっていた。

 アア、何という物凄い光景であったか。その星共が、パチパチ、パチパチと、ある拍子を取って、一斉に瞬いたのだ。S・O・S……S・O・S……と。

 明智は、直にその恐ろしい意味を悟った。暗の大空に、文代さんの、のたうち廻る、巨大な幻影が明滅した。

「運転手君、フル・スピードだ。僕が責任を持つ。四十哩、五十哩、出せるだけ出してくれ」

 明智は、殆ど肉体的苦痛を感じて、叫んだ。

 丁度その頃、国技館の事務所では、この興行を預かる、支配人のS氏が次々とかかって来る、不思議な電話に、面くらっていた。

 最初の電話は、いま帰省中の、ある船会社の電信技師からであった。

「私の二階から国技館の丸屋根のイルミネーションがよく見えるのですが、今し方、あの電燈が変な風に明滅しました。お気づきでしょうか。難破船から救助を求める時に使うS・O・Sを三度も繰返したのです。電気係なんかのいたずらかも知れませんが、少しいたずら過ぎると思います。それとも何か特別の事件でも起ったのではありませんか。念の為に御注意します」

 というのだ。

 暫くすると、今度は水上署から、同じ様なお叱りの電話、続いて、誰かが報告したと見えて、所轄警察署からもお小言が来るという始末だ。

 明智小五郎が到着して、支配人のS氏に刺を通じたのは、丁度その騒ぎの最中であった。

 S氏は愈々ただ事ではないと、青くなって、兎も角も、有名な素人探偵を、事務室へ招じ入れた。

 明智は委細を語って、一応配電室を検べて見たいと申出でたので、S氏は直接彼をそこへ案内したが、無論、その時分には、部屋は空っぽ、何の異状もない。

 配電係を探し出して、明智自身で、根掘葉掘り、尋ねて見ると、遂に隠し切れず、妙なマスクの男に、多額の礼金を貰って、配電室の鍵を貸たことを白状した。

「やっぱり、この部屋で、何事かあったのです。あの信号をしたのは恐らく、とじこめられた被害者でしょう。私は、その被害者の文代という婦人が、電信の技術に通じていたことを知っているのです」

 明智は心配に額をくもらせて、いらだたしくいった。

 俄に騒ぎが大きくなった。直に警察へ電話がかけられ、係員達は、ある者は出入口に飛んで、出入の見物人に眼を光らせ、ある者は、広い場内を右往左往して、それらしい風体の人物を探し廻った。

 やがて所轄警察から、数名の警官が駆けつけたが、協議の結果、最早九時の閉館に間もないので、見物が残らず立去るまで、手分けをして、各出入口を、厳重に見張ることとなった。

 九時三十分、見物は一人残らず、帰り去った。場内売店の売子、俳優、道具方、その他下廻りの係員達も、ほとんど帰宅した。

 だが、不思議なことに、マスクの男も、文代らしい洋装の女も、どの出入口にも姿を現わさなかった。

 残ったのは、支配人を始め二十人程の重だった係員、十名の警官、それに明智と小林少年である。

 各木戸口、非常口は、厳重に戸締りをした上、一人ずつ警官の見張りがついた。

 そうして置いて、残る二十何人が、もう一度、夫々受持区域を定めて、場内隈なく検べ廻ったが、どこの隅にも、人の影さえなかった。

「これだけ探してもいない所を見ると、曲者はとっくに、外へ出てしまったのでしょう。あの大勢の見物人の間に混っていますと、いくら注意して見張っていても、見逃すということもありましょうからね」

 警官隊を引きつれて来た老警部が、あきらめた様にいった。

「イヤ、僕にはどうもそう思えないです」

 明智が反対した。「賊は文代さんを、態々ここへおびき出したのです。おびき出したからには、この国技館の建物が、ある犯罪を行う為に、特に好都合であったと考えなければなりません。配電室へつれ込むのが、最終の目的ではなかったのでしょう。御承知の通り、あいつは殺人鬼なのです。仮令賊はここから逃げ出したとしても、被害者か、或は……被害者の死骸が、場内のどこかに隠されている筈です」

 更に協議の結果、今度は手段を変えて、警官達は、各出入口に集まり、明智と小林少年と二人丈で、足音を盗み、耳をすまして、広い場内を一巡して見ることにした。

 もう捜索を断念したと見せかけ、相手が油断をして、姿を現すか、物音を立てるのを待って、引捕えようというのだ。

 その頃には、騒ぎを聞きつけて、土地の仕事師連中が事務所へつめかけていたので、万一の為に、その人々の手で、ピストルが用意され、明智も小林少年も、それを一挺ずつポケットにしのばせて、最後の捜索にと出発した。

 電燈はまだつけたままになっていたが、明るければ明るい程、人気のない、ガランとした場内は、異様に物淋しく、不気味であった。

 今や場内ひっくるめて、何百体という、人形共の天下であった。

 彼等は、誰も見ていない時には、コッソリあくびをしたり、小声で話し合ったりするのではないかと思われた。

 その中を、たった二人で歩いている人間は、却て人形共に眺められ、批判されている様で、薄気味が悪かった。

 じっと見ていると、どの人形も、どの人形も、夫々のポーズで、ひそかに呼吸し、瞬きさえした。

 彼等に賊の行方を尋ねて見たら「ホラ、そこにいるじゃないか」と教えてくれたかも知れないのだ。

 捕物の経験を持たぬ小林少年は、いくら力んで見ても、ゾクゾクとこみ上げて来る恐怖を、どうすることも出来なかった。彼はポケットのピストルを握りしめて、力と頼む明智のうしろに、より添う様にして歩いて行った。

 やがて、二人は、場内で一番薄暗い、見上げる様な並木と、竹藪とにとり囲まれた箇所へ、進み入った。

 作り物である丈けに、本当の森林よりも、却て妙に恐ろしかった。その上、思いもかけぬ木蔭から、生々しい人形の首が、ニーッと覗いていたりするので、まるで化物屋敷へ迷い込んだ感じである。

 その森の中で、先に立って歩いていた明智が、ふと足を止めて、向うの暗闇を覗くようにしたので、少年もギョット立止って、怖々すかして見ると、ボンヤリと、妙な所に、妙なものが突立っていることが分った。

 その辺は一体、歌舞伎劇になぞらえた菊人形の舞台なのに何を間違えたのか、防寒外套に身を包み、毛皮裏の頭巾をスッポリと冠った、陸軍士官が、杉の大木に凭れてヒョイト立っていたのだ。

「変だな」と思いながらも、併し、まさかそれが、生きた人間とは知らぬので、何気なく通り過ぎ様とすると、その士官が、機械仕掛けの様にツート動き出して、明智の行手に立ちふさがり、アッと思う間に、彼の手を握ったかと見ると、いきなり耳に口を寄せて、何事か囁いた。

 小林少年は、ゾッとして、思わず逃げ腰になったが、見ると、士官人形は、そのまま、フワフワと風みたいに、先に立って歩いて行く。明智はそれを引捕え様ともせず、平気で、あとからついて行く。

 何が何だか分らぬけれど、少年は、明智の様子に安堵して、兎も角、あとに従った。

 少し行くと、「清玄庵室」の不気味な場面がある。

 立ち並ぶ杉木立の、殆ど真暗な中に、破れすすけた庵室が建っている。その庭先の、雑草生い繁った地面に、桜姫の人形が、物におびえた青ざめた表情で樽り、顔の部分丈けが、薄暗い電燈に照らされている。

 士官人形は、その桜姫の前で、立止った。闇の中に彼のおぼろな影が、右手を上げて、何かを指さしているのが、やっと見わけられる。

 不気味に明滅する、非常に薄暗い電燈のせいもあった。また、その人形が殊によく出来ていたからでもあろう。清玄の亡霊におびえた桜姫の顔は、まるで生きている様に見えた。

 イヤ、もっと正確にいうならば、本当の人間の死に顔にそっくりであった。

 ただ驚き恐れているのではない。断末魔の苦悶の形相だ。残酷に殺害された女の、死の刹那の表情だ。

 小林少年は、心臓が喉の所へ押し上って来る様な、苦悶を感じた、恐ろしいものを見たのだ。余りの恐ろしさに、その発見を、明智に告げることさえ、憚られる様なものを見たのだ。

 膝をついた桜姫の胴体は、すっかり菊の葉で包まれていたが、その感じがどこか、他の人形と違って見えた。表面が滑かでない。引きちぎった菊の枝を、不細工に覆いかぶせた感じで、ある部分はひどく密集しているかと思うと、ある部分は、はげた様に隙間だらけだ。

 その隙間から、何か嚥脂色のものが、チラチラ見えている。確かに洋服の布地だ。人形が菊の衣の下に、御叮嚀に洋服を着ているというのは変である。

 イヤ、そればかりではない。桜姫のかさばった濡羽色の鬘の下から、覗いているのは、赤茶けた現代娘の髪の毛だ。

「若しや、あれは、賊が文代さんを殺して、巧に人形に見せかけたものではあるまいか」

 小林少年は、悪夢にうなされているような気がした。

 そうでなくて、菊人形が、菊の下に洋服を着ていたり、鬘の中に、別の色の洋髪が隠れていたりする筈がない。それに、あの洋服は、文代さんの外出着と、全く同じ色合ではないか。

 少年は、極度の恐怖に、釘づけになった目で、人形を見つめながら、明智の腕を掴んだ。

 明智は、無論その心を察したけれど、彼はその時、小林少年の恐怖にとり合っていられぬ程、もっと重大なものを発見していたのだ。

 奇怪な士官人形の指さしている所、庵室の舞台の奥の暗闇に、ボンヤリと白張りの提灯が立っていた。

 その提灯が、今徐々に、何かしら別のものに変りつつあるのだ。

 化物屋敷の見世物に、よく使われる、鏡仕掛けのトリックであることが容易に想像された。その白張りの提灯が、ぼかす様に、清玄の亡霊に変って行くことも予想された、だが、……

 提灯がボーッと霞んで行くあとから、それに入れ代って、幽かに現れて来た人の顔は!

 扮装は確に清玄だ。蓬々伸びた頭髪、鼠色の着付、芝居でお馴染の清玄に相違ない。それにしても、清玄には唇があった筈だが。

 今、現れた人の顔には、唇がない。骸骨そっくりだ。

 アア、何という隠れ場所であったか。どこを探しても、賊の姿がなかった筈だ。彼は竹藪の奥の暗闇で、清玄の亡霊になりすましていたのだ。

 文代を桜姫になぞらえ、自ら清玄に扮した思いつきには、ゾッとする様な、犯罪者のいびつな誇示があった。

「音を立てぬ様に、ソッと忍びよるのだ。ピストルを持って。だが、撃ってはいけないよ」

 明智が、小林少年の耳に口をよせて、あるかなきかの声で囁いた。

 二人は柵を越えて、竹藪の中へ入って行った。

 相手は鏡に写っているのだ。本物がどの辺にいるのか、ちょっと見当がつかぬ。その代りに相手の方からは、薄暗いこちらの様子は見えぬ便宜がある。音さえ注意すればよいのだ。

 唇のない清玄は、進むにつれて、不気味に宙に漂って、フワフワとこちらへ迫って来る。

離れ業

 暗闇を進んで行くと、鏡の少し手前で、真黒な、大きな箱の様なものに行当った。

 賊はその箱の中に立っていて、電燈の自動明滅によって、鏡の表に、現われたり消えたりしている。

 敵は、箱の板張り一枚を隔てて、すぐ目の前に、立っている。袋の鼠だ。

 ところが、その大切な場合に、非常に拙いことが起った。事に慣れぬ小林少年が、何かにつまずいて、その黒い箱へ、ちょっと寄りかかったのだ。

 別に音を立てた訳ではないけれど、ほんの少しばかり、箱が揺れた。神経の鋭くなっている賊が、それを感じぬ筈はない。

 鏡に写っている怪物の影が、異様に動いたかと思うと、鏡と箱との隙間から、本物の恐ろしい顔が、ヒョイと覗いた。

 アッと思う間に、黒い箱が、ユラユラと揺れて、明智の前に倒れて来た。竹藪がパッと明るくなる。箱が上向きに倒れて、内側に仕掛けてあった電燈が、むき出しになったからだ。

 明智は箱の角で、肩を打たれて、思わずよろける。その隙に、怪物は一飛びで、小林少年に飛びかかった。

 と同時に、顛倒した小林が、引金を引いたのであろう、パン……というピストルの音。

 怪物は少しもひるまぬ。ひるまぬどころか、小林の右手にかじりついて、ピストルを奪いとり、それを擬しつつ、じりじり通路の方へあとしざりを始めた。

 明智は、直ぐ立ち直って、賊を追おうとしたが、まだ煙を吐いているピストルの筒口、それを構えた賊の死にもの狂いな表情を見ると、迂濶に近づくことも、自分のポケットのピストルを取出すことも出来ぬ。

 ためらっている間に、怪物は例の桜姫の人形を、菊の衣からスッポリと、引抜いて、小脇に抱た。その拍子に鬘が落ちて、現われたのは、案の定、現代娘の洋髪。服装は文代の外出着とそっくりの嚥脂色。

「アッ、文代さんが」

 小林少年の叫声。

 と、またしても恐ろしい、ピストルの音。

 賊は威嚇の一弾を放ったまま、柵を飛び越え、通路を、杉木立の暗闇へと、消えてしまった。

 殆ど一瞬間の出来事であった。

 明智が直に賊のあとを追ったのはいうまでもない。だが、場所は薄暗い杉木立、その向うには、複雑を極めた菊人形の舞台が続いている。隠れ場所も、逃げ路も、無数にあるのだ。

 怪物はどこへ消えたのか、影も形もない。

 さっきの不思議な士官人形も、もうその辺には見えなかった。

 間もなく、銃声に驚いた警官達が、駆けつけて、明智と一緒に、賊の行方を探し廻ったけれど、何をいうにも、複雑な飾りつけをした場所のこと、急に見つかるものではない。

 併し、いくら逃げ隠れたところで、賊は館内から一歩も出られぬことは確だ。出口という出口には、厳重な見張り番が残してあったのだから。

 捜索は執拗に続けられた。張りぼての岩をめくり、板張りの床をはぎ、人の隠れ相な隙間を探し廻った。

 そして、無駄な捜索が、殆ど一時間も続いた頃、どこからか、けたたましい叫び声が響いて来た。

「オーイ、オーイ」と声を限りに呼んでいるのは、小林少年だ。

 何事が起ったのかと、一同が声をたよりに駆けつけて見ると、小林は、菊人形の舞台の外の、薄暗い廊下に立ってしきりと、天井を指さして、譫言の様に、

「文代さんが、文代さんが」

 と口走る。そこからは、巨大な丸天井の内側が一目に見えるのだが、その天井を支えた、輻射状の鉄骨に、何かしらブラ下っているのが薄ボンヤリと、小さく見える。確に人間だ。しかも洋装の婦人である。

 菊人形の舞台全体を覆うて、青空の感じを出す為めに、一面の空色の布が張りつめてあったから、直接の光線はなかったけれど、少し青味がかった、もやの様な光りが、巨大な丸天井を、奇怪な夢の景色の様に、ぼかしていた。

 べら棒に大きな、傘の骨みたいに、輻射状に拡がった鉄骨を、じっと見つめていると、フラフラとめまいがする様だ。非常な高さと、非常な広さが、いい知れぬ恐怖を誘う。

 その鉄骨の頂上に近い部分に、一人の洋装婦人が、豆粒の様に、ぶら下っているのだ。

 洋服の色合から、さっき賊が小脇に抱えて逃げた桜姫の人形であることは一目で分った。桜姫は即ち文代さんだ。賊は意識を失った文代さんを、途方もない高所へ運んで、戦慄すべき軽業を演じさせたのだ。

 併し、なぜそんな馬鹿馬鹿しいことを思いついたのか。あの高所へ人間一人運び上げるのは並大抵の苦労ではない。なぜそんな無駄骨を折らねばならなかったか。

 丸天井の頂上には、ポッカリと丸い孔があいていて、その外に、別の小さな屋根が塔の格好でとりつけてある。つまり一種の通風孔なのだ。

 賊はその通風孔から、屋根の上へ、文代さんを連れ出そうとしたのかも知れない。連れ出して、どうしようというのか、それから先の見当はつかぬけれど、文代さんがあんな所にブラ下っている所を見ると、そうとしか考えられぬ。

 賊が態々運び出そうとしたからには、文代さんは、殺されたのではない。一時気を失っているのだ。そうでなくて、どんな美しい娘にもせよ、死骸などに用のある筈はないのだから。

 追手の一同は、大体そんな風に見て取った。

 だが、態々あすこまで運んで置いて、中途でその目的を放棄した賊の気が知れぬ。

「賊は今、文代さんをあすこへ引かけて置いて、疲れを休めていたのです。そこへ僕が呶鳴ったものだから、驚いて、支代さんはそのままにして、自分丈け逃げ出してしまったのです」

 小林少年が息をはずませて説明した。

「どこへ? 屋根の外へか?」

 警官の一人が叫んだ。

「そうです。あの丸い孔から、外へ這い出したのです」

「誰か、あすこへ昇って、婦人を助けるものはないか」

 主だった警官が、追手の人々を顧みて呶鳴った。

 追手の中には、二三人、国技館に出入りの仕事師が混っていた。

「あっしが、やって見ましょう」

 威勢のよい法被姿が、人々をかき分けて、進み出たかと思うと、もうそこの柱によじ昇り、柱の頂上から鉄骨へと飛び移り、見事な軽業を始めていた。

 若しその場に、明智が居合わせたならば、きっとこの仕事師を引き止めたのであろうが、少し前から、どこへ行ったのか、その辺に彼の姿は見えなかった。警官達も小林少年さえも、激情の余り、それを少しも気づかぬのだ。

 若者は、見る見る、長い鉄骨のなか程まで這い上ったが、流石に疲れたのか、徐々に速度がにぶって来た。

 無理もない。もうその辺は、真っ逆様に、天井を這うも同然の、危険な個所なのだ。

 その時、恐ろしいことが起った。

 頂上の丸い通風孔から、チラッと小さな顔が覗いたのだ。まるで蛇が石垣の間から、鎌首を覗かせる様に。

 賊だ。彼はまだ通風孔の真上に、様子を窺っていたのだ。

 人々は、余りの不気味さに、思わず「アッ」と声を立てないではいられなかった。

 蛇の頭の様な、怪物の顔は、チラッと覗いたかと思うと引込み、また覗いたかと思うと引込んだ。

 若しその顔が――唇のない顔が――活動写真の様に、クローズ・アップ出来たら、定めし一層恐ろしかったであろうけれど、幸、そこは、めまいがする程、遙かなる高所だ。ただ、ほの白いものが、チラ、チラと見え隠れするばかりである。

 だが、賊は飛道具を持っている。昇って行く若者を狙い撃ちに、射落すのは訳もないことだ。

「オーイ、用心しろ。上から覗いているぞ。ピストルを用心しろ」

 誰かが呶鳴ると、その声が、物凄く丸天井にこだまして、ウォーッ、ウォーッと消えて行った。

 若者は、ちょっと下を見たが、「ナアニ」という顔で、なおも上へ上へと、よじ昇る。

 一尺ずつ、文代さんとの距離が縮まって、とうとう、手が届くまで接近した。

 怪物はもう顔を見せぬけれど、若者が文代さんの身体に手をかけたら、一うちに撃ち殺そうと、真暗な孔の外で、待ち構えているのかも知れない。

 無鉄砲な仕事師は、そんなことにお構いなく、鉄骨に足をからんで、火消しの梯子乗りの格好で、両手を離し、文代さんを、宙に抱き取った。

 アア、今にも、今にも、ズドンとピストルの音がして、文代さんを抱いた若者の身体が、もんどり打って、数十丈の地上へと、墜落するのではあるまいか。

 人々は、手に汗を握り、息を呑んで、首が痛くなる程、天井を見つめていた。

 案の定、頂上の丸孔から、真逆様に、怪物の上半身が、ニューッと覗いた。右手が徐々に下へ伸びた。その手先には、ピストルだ。遠くて、見えぬけれど、腕の格好で、それと分る。

「ア、ピストルだ。危いッ」

 思わず異口同音の叫び声。

 若者は、それと気づいて、流石に驚いたらしく、鉄骨にブラ下ったまま、グルッと身もだえをしたかと思うと、アア、何という無茶なことだ文代さんの身体を、楯にして、賊の方へつきつけた。

 と同時に、パン……と、丸天井にこだまするピストルの音。

「ギャッ!」

 という恐ろしい悲鳴。

 人々はドキンとして、思わず顔をそむけた。だが、見ない訳には行かぬ。恐ろしければ、恐ろしい程、自然と、目がその方へ、引きつけられて行くのだ。

 彼等は、ヒューッと風を切って矢の様に落ちて行くものを見た。赤いものだ。文代さんだ。

 気の毒な少女はグルグル廻転しながら、刻々加速度を加えて、まるで赤い棒の様になって、忽ち菊人形の天井の、青い布張りにぶつかり、砲弾の様にそれを打破ったかと思うと、パチャンと不気味な音が聞こえて来た。

「池だ。池へ落ちたのだ」

 誰かが叫んで、もうその方へ階段をかけ降りていた。一同どやどやと、それに続いた。

 空では、仕事師の若者は、別状なく鉄骨にブラ下ったままだ。怪我をした様子はない。ただピストルに驚いて、肝腎の文代さんを取落としてしまったのだ。

 怪物はと見ると、やっぱり、逆様に顔をつき出したまま、若者を睨みつけて、不気味にゲラゲラ笑っているのが、幽かに聞える。

 勇猛な若者は、思わぬ失策に、むかっ腹を立てた様子で、逃げ出すどころか、却って、恐ろしい闘志を見せて、猛然と、怪物へ迫って行った。

 地上の人々は、階段を駆け降り、廊下から、菊人形の中へとなだれ込んで行った。

 折れ曲った通路を、もどかしく走って、文代さんが墜落したと覚しき個所へ急いだ。

 場内中央に人工の滝と、その滝壺に続いて浅い池が出来ている。文代さんが墜落した箇所は丁度その見当に当るのだ。

 人々は迷路みたいに曲りくねった細道を、そこへ走りながら、走っても走っても、走り切れぬ、あのドロドロした悪夢の中を、もがき廻っている様な気がした。

 殺人鬼が、犠牲者を抱いて、丸天井をよじ昇った離れ業。不可能な事ではない。だが、何という途方もない、桁はずれな思いつきだ。

 更に変てこなのは、美しい娘さんが、丸天井のてっぺんにブラ下っていたこと、それが、何かつまらない品物みたいに、投げおとされて、ペシャンコにつぶれてしまったこと。まるで狂人の夢だ。余りの突飛さに、吹き出したい位だ。

 人々は、彼等の目で、たった今ハッキリと見た事柄を、信じ得ない気持だった。何かしら飛んでもない間違いがある様な気がした。

 やがて、彼等は目的の池に到着した。そして、まさかまさかと思っていた事柄が、ちゃんとそこに起っているのを見て、今更の様に、ギョッと立ちすくんだ。

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