人工の滝は、モーターを止めたので、もう流れてはいなかった。死の様な静けさ、さも幽邃にしつらえた人造の峡谷、ブリキ細工の奇岩怪石、枝を交えた老樹の影、そこに小波一つ立たぬ黒い池が不気味に黙り返っていた。
池の真中に、青ざめた顔を上にして、文代さんの死骸が、静かに浮いている。
嚥脂色の洋服が、奇怪な蓮の花の様に開いて、黒い水の中に、透き通って見える滑かな二の腕、不可思議な藻の様に漂う髪の毛、美しい、陰鬱な、油絵の景色だ。
ふと一方の岸を眺めると、大きな黒い岩の上、樹木の茂みに隠れる様にして、一人の人物がたたずんでいた。
カーキ色の軍服、防寒外套を身につけた、美しい女だ。頭巾をとっているので、豊な髪も、美しい顔もまる出しである。さっきの、異様な士官人形の正体は、この美少女であったのだ。
彼女は、青ざめて、瞑目して、池に漂う女の死骸を、とむらっている様子だ。これまた、奇怪なる画面の人である。
彼女が少しも身動きをしないので、人々は暫く、その存在に気づかなかった。人形共に満ち充ちたこの場内では、動かぬ人は、人形と誤られることが屡々であったからだ。
だが、その中で、小林少年丈けは(先にもいった通り、明智小五郎はそこにいなかったので)軍服の女を見た。アア、さっきの士官人形がいるなと、気附いた、そして、今は、あらわになった、その美しい顔を、ハッキリ見て取った。
「ア、文代さん。文代さんだ」
彼は歓喜の為に、顔を真赤にして、いきなり軍服の女に駆けよった。
「オオ、小林さん」
少女は、その声にハッと目を開いて、相手を認めると、両手を拡げて、少年を抱き迎える様にしながら、叫んだ。
「あなた、生きていたんですね」
「エエ、生きていますとも」
「僕もそう思っていたのだ。あなたが、あんな奴にやられる筈はないと思っていたのだ」
二人は、この人工の大峡谷、奇岩の上、老樹の下に、まるで尋ね合っていた姉弟の様に、思わぬ再会を喜んだ。
人々は、この異様なる光景にあっけにとられてしまった。何が何だか、さっぱり分らなかった。
不思議に思った館の係員の一人が、ザブザブと浅い池を渡って、文代と信じていた女の死骸を確めに行った。
「ナーンダ。こいつは人形ですぜ。ほら、六番の舞台に飾ってあった、ダンスの人形ですぜ」
彼は、死骸の首を掴んで、それをグルグルと廻して見せた。
文代さんが、いつの間に人形に代っていたのか。それを、賊を初め一同が、どうして本物と間違える様なことが起ったのか。
文代さんが、賊のポケットの、麻酔薬をしませた白布を、水にぬれたハンカチと、すり換えて置いたことは、前に記した。賊は激情の余り、少しもそれに気づかず、文代さんが麻酔したものと思い込み、意識を失った彼女を桜姫の人形に仕立てるという、気違いめいたトリックを思いついたのだ。
そして、自分も清玄人形になりすます為に、例の鏡の前の箱の中へ這入っている間に、その実正気の文代さんは、そっと桜姫の体内を抜け出し、近くの舞台に飾ってあったダンス人形を運んで来て、自分の洋服を着せ、桜姫の鬘を冠らせ、菊の衣の中へ埋めて、我が身替をさせたのだ。箱の中で、清玄の役を勤めていた賊は、まさかそんなことが起ろうとは、夢にも思わず、少しもそれを気附かないでいた。
文代さんは女探偵だ。そのまま逃出すようなことはせぬ。遼陽大会戦の舞台へ走って、一人の士官人形を岩のうしろに隠し、その外套を剥いで、女士官になりすまし、清玄庵室の前の、老杉の木立に身を潜めて、賊を監視していたのだ。
そこへ明智と小林少年がやって来て、ピストル騒ぎ、賊の逃走となったのだが、賊は折角我物とした文代さんを、そのままにして逃げ去るに忍びず、桜姫の人形を、それがやっぱり人形に変っているとは知らず、小脇に抱えて走った。
中途人形であることを悟ったけれど、今度はそれを逆に利用して、追手の度胆を抜いてやろうと、軽い人形のことだから、苦もなく鉄骨の上に運び上げ、その頂上にブラ下げて、下界の人々を嘲笑した。という訳である。
さて、舞台は再び、丸天井の上に移る。
文代さんの人形に一杯食わされ、その上、鉄砲玉のお見舞まで受けた、仕事師の若者は、何しろ名うての命知らずのことだから、「なにくそ!」というので、相手が飛道具を持っているのも承知の上、猛然と賊を目がけて突き進んだ。
頂上の丸孔には、もう賊の姿は厚えぬ。真逆様の不利な位置を捨てて、広い丸屋根の上へ逃げ出したのであろう。
若者は、軽業師でも震え上る様な、目もくらむ鉄骨の上を、スルスルと進んで、頂上の孔から、屋根の上へと這い出した。
ゆるい勾配の大円球。もう足場は確だ。「サア来い」と身構えて、あたりを見廻したが、どこへ隠れたのか賊の姿はない。
屋根を縁取るイルミネーションは、明るいけれど、それが足元から眼を射るので、チロチロして、却って遠くが見すかせぬ。
と、いきなり起る銃声。夜の大気を切って、耳元をかすめる弾丸。
「畜生め!」
若者は夢中になって、その方へ飛びつこうと身構えたが、ふと気がつくと、少し向うを、ノタクタと、巨大な蛇の様に這っている洋服姿。
「ウヌ!」
ひと飛びで、飛びついた。
大円球上に、死にもの狂いにもつれ合う、二つの肉塊。
「馬鹿野郎、馬鹿野郎」
暗夜に上る憤怒の叫び。その叫び声を空高く残して、もつれ合う二人は、丸屋根の上をゴロゴロと、初めはゆるやかに、徐々に加速度を増して、果ては弾丸の様な早さで、アッと思うまに、風を切って、屋根の外へと転落した。
しかも、不思議千万なことには、まだ一人、誰か屋根の上に人がいたものと見え、落ち行く二人のあとから、ゲラゲラと、不気味な笑い声が、闇に響いた。
飛ぶ悪魔
夜更けといっても、国技館前の大通りには、まだ電車や自動車が行き違っていたし、附近の商店は、明々と電燈をつけて商売をしていたし、人道を往き来する人々も、少くなかった。
菊人形の入口に、物々しく見張りを続けている警官の姿、館内を右往左往する、ただならぬ人影、自然、往来の人々の注意をひかぬ訳には行かなかった。
一人立ち、二人立ち国技館の前は、いつの間にか、黒山の人だかりになっていた。
そこへ、高い丸屋根の上から、響いて来る、罵り声。びっくりして見上げる空から、とっ組み合った人間の雨だ。
「ワーッ」
と上るときの声、気の弱い連中は、悲鳴をあげて逃げ出すので、人波が右に左にもみ返す。
屋根から転落した二人が、そのまま地上へ落ちたならば、無論命はなかったであろうが、あの建物は、屋根の下に、複雑な出っ張りが出来ている。彼等は、とっ組み合ったまま、その出っ張りの一つに落ちたのだ。
命は助かった。だが、急に起き上る元気はない。両人とも、そこにへたばったまま「馬鹿野郎、馬鹿野郎」と罵る声が降って来るばかりだ。
あの狭い棚のような場所で、争いを続けたなら、負けた方が、今度こそ、真逆様に、地面へ墜落して、命を失うは必定だ。
黒山の見物人には、人の姿は見えぬけれど、罵り合う声で、二人が危険な争いを続けていることが分るので「あぶない、あぶない」とわめき立てる声が、嵐の様にわき返る。
やがて、その事が館内に伝えられ、なだれを打って、飛び出して来た一群の人は、さい前館内で、賊を追っかけた警官、係員、仕事師などの連中だ。その中に、異様な軍服姿の文代さんや、小林少年もまじっていた。
館内から、長い梯子が持出され、二人の争っている、棚の様な個所へかけられた。
二三人の仕事師が、先を争って、梯子を駆け上り、まだとっ組み合っている二人を、とり押えた。
一人はいうまでもなく、さっきの勇敢な若者、今一人は賊の筈だ。ところが、奇妙なことに、その賊の方が、
「馬鹿野郎、馬鹿野郎」
と、さも腹立たしげに、若者を罵っているではないか。
若者の方はと見ると、さっきの威勢はどこへやら、グッタリとなって、相手の罵るに任せている。
「オイ、どうしたんだ」
背中をこづいて、尋ねて見ると、若者は、がっかりした調子で、
「その人は、賊じゃないんだ。味方の明智さんだ。それが今やっと分ったのだ」
とうめいた。
成程、そういわれて見れば、さっきまで、館内で、追手の先頭に立っていた、明智探偵に相違ない。
「賊はまだ屋根の上にいる筈だ、早く捕らえてくれ給え」
明智は顔をしかめながら、指図した。
「この男が、飛んだ思い違いをしたものだから、僕の計画が滅茶滅茶になってしまった」
明智が馬鹿野郎、馬鹿野郎と罵ったのも無理ではない。折角、彼が単身、敵の背後を襲って、屋根の上で賊を引捕えようとした計画が、すっかり齟齬してしまったのだ。
そこで、明智と若者を助けおろすと同時に、一方では、身軽な連中をすぐって、屋上の大捜索が行われた。手隙のものは、館の内外、賊のおりて来そうな個所を、少しの隙もなく、見張り続けた。
だが賊はどこにもいなかった。またしても解き難き不思議が起ったのだ。
真夜中まで、大がかりな捜索が続けられたが、何の得る処もない。結局、見張りの人数はそのまま残して、夜の明けるのを待つことになった。
さて、夜があけると、賊は実に意外な場所に隠れていたことが分った。彼は蒸発してしまったのではないかと疑われたが、本当に蒸発していたのだ。屋根よりも、もっと高い、大空へと姿を隠していたのだ。
大捜索が無駄に終って、夜が明ける時分には、警官も、館の係員も、大部分新手の人々に代っていた。
明智小五郎は、屋根から墜落した時、肩のあたりに打撲傷を負って、到底活動を続けることが出来なかったので、文代さんと小林少年が付添って、一先ず事務所へ引上げた。
思わぬ邪魔が入って、賊はとり逃がしたけれど、文代さんを賊の手から奪い返したのだから、目的の一半は達した訳である。
さて、現場では、夜があけて、丸屋根の空が白む頃、早くも賊の隠れ場所が発見された。
夜の闇が、こうも人をめくらにするものかと、人々は、今さら太陽の有難さを感じないではいられなかった。
あんなにも探し廻って、発見出来なかった賊が、暁の光の中では、たった一目で、馬鹿馬鹿しい程造作なく、見つかってしまったのだ。
それにしても、何という奇想天外な隠れ場所であったろう。人々は、まさか屋根より高い場所へ、賊が逃げ出そうとは、想像もしなかった。うっかり、それを度外視していた。
国技館は、あの巨大な丸屋根が、立派な目印になっているのだから、別にそんなものを、使用する必要はなかったのだが、宣伝好きの興行主任が、看板代りの広告風船を採用していた。飛行船型の風船が、丸屋根の空高く、繋留され、その大きな胴中に「菊花大会」の四文字が、どんな遠くからでも見えるように、黒く染め出してあるのだ。
風船をつないだ、太い麻繩は、館の裏手の地上から、丸屋根の縁を伝って、一直線に、空へ昇っている。
賊は屋根から麻繩をよじ昇って、その広告風船へ天上していたのだ。
風船の腹の四方から丁度たこの様に、沢山の細い繩が集まって、地上からの太繩にむすびつけてあるのだが、その細い繩の中心に、ハンモックに乗った格好で、賊は楽々と身を横たえていたのである。
アア、何という突飛なかくれがであろう。警察始まって以来、空中へ逃げ昇った犯人というのは、この怪物が最初であったに相違ない。
我々の知っている所によると、この賊は、義手義足をつけている筈だ。その不自由な身で、国技館の天井裏をはい廻るさえあるに、あの長い繩を空高く、どうしてよじ昇ることが出来たのであろうか。
おもうに犯人は、あの醜い容貌にかわる以前の正体を、見破られまいため、身体全体の格好を別人に見せるため、健康な手足に、にせの義手義足をかぶせていたのであろう。
それはとも角、国技館前は、瞬く内に、昨夜に倍した、恐ろしい人だかりとなった。どんな大角力でも、どんな見世物でも、この早朝これ程の人を集めることは出来ぬ。しかも、群衆は、刻一刻、増すばかりだ。
警官隊は、裏手の風船繋留所へと集合した。
そこに、繩を巻き取る、大きな車の様な道具が据つけてある。
数名の警官がその両端にとりついて、ヨイトマケ、ヨイトマケ、車を廻す。一寸、二寸、一尺、二尺、空の風船は、巻取る繩に引かれて、徐々に下降し始めた。
それに気づいた、表側の群衆は、嬉しがって、「ざまあ見ろやーい」と鬨の声だ。
「何て馬鹿な奴でしょう。あんな所へ昇れば、見つかるにきまっているし、見つかれば、引おろされるにきまってるじゃありませんか。ごらんなさい、今に、何の造作もなく引くくられてしまいますから」
見物達は時ならぬ見世物に興じながら、口々に、賊の愚挙をあざ笑った。警官も、館の人々も、同じ様に考えていた。もう賊は逮捕したも同然だと思い込んでいた。
ところが、人々がそんなにたやすく考えたのは、大変な間違いであったことが間もなく分った。賊の方には最後の非常手段が残されているのだ。
繩はジリジリと縮まって行った。風船につかまった賊は、いやでも応でも、一尺ずつ、一尺ずつ、敵の手中に、たぐり寄せられて行った。
怪物はじっとしていた、あせったり、騒いだりする様子はなかった、地上から眺めると、夜を徹しての活動に、疲れ切って、眠りこけているのではないかとすら思われた。
だが、無論彼は眠っていたのではない、風船を引きおろす為に、汗になって働いている警官達と同じ様に、彼もセッセと働いているのだ。下の人々に気づかれぬ様に、右手を絶え間なく動かして、ある仕事を続けているのだ。
風船が地上に着くのが早いか、彼の奇妙な仕事が終るのが早いか、命がけの競争だ。
風船は動かぬようでいて、いつの間にか、群衆の頭上に、倍の大きさまで近づいていた。距離の接近に比例して、薄茶色の巨大な怪物は、ジリリ、ジリリ、ふくれ上って行くように見えた。
やがて、とうとう、丸屋根の縁とすれすれまで、引きおろされた。もうこっちのものだ。可哀相に、賊は今、どんな気持でいるだろう。群衆の心に、鼠取り機械にかかった鼠を眺める様な、淡い同情の念さえわき上った。
「ア、あいつ、何をやっているのだ」
やっと、一人の警官が、賊の異様な動作に気づいて叫んだ。
「右手をしきりに動かしている。何だかキラキラ光っている」
「ナイフだ。ナイフで繩を切っているのだ」
「いけない。早く、早く、あいつが繩を切り離さぬ内に……」
警官達が、間近くなった風船を見上げて、口々に呶鳴った。巻取り作業の人々は、それを聞くと、一層力を加え、速度を早めて、繩を巻取る。
風船が屋根の縁にぶつかって、ユラユラとゆれた。賊のハンモックが異様に震えた。
と同時に、太繩の繊維の最後の一筋がプツリと切れて、風船は、気違いの様に、ブリブリとお尻をふりながら、大空へと舞い上った。
はずみを食って、巻取器が、ひどい勢いで空廻りをし、それにとりついていた数名の警官ははね飛ばされ、あるものは降ってきた繩にうたれて、ころがった。
「ワーッ」
と上る喊声、川開きのどんな立派な花火だって、この奇想天外な風船花火には及ばぬ。
騒ぎずきの東京市民は、ほとんど熱狂して、怪賊の思い切った曲芸を喝采した。うわさは疾風の様にちまたに拡がり、続々とかけつける見物人で、両国橋の東西は時ならぬ川開きの人山だ。
見渡すかぎり、屋根という屋根に、人間の鈴なりだ。
風がなかったので、賊の風船は、一直線に、グングン天上した。見る見る小さくなって、果ては子供のおもちゃのゴム風船みたいになって、とうとう、低い白雲の中へ姿を隠してしまった。
この絶好のナンセンス種に、喜んだのは社会記者だ。ソレッというので、写真器を掴んで、国技館へと自動車が飛ぶ。明智のアパートへ駆けつけるもの、畑柳家へ談話筆記に走るもの。
なにしろ相手は、数人の娘を惨殺して、石膏づめにした、稀代の殺人鬼だ。そいつが風船で天上したのだ。世にこれ程激情的な事件が、またとあろうか。
「飛行機だ。飛行機で追っかけろ」
誰しもそれを考えた。何というすばらしい活劇であろう。想像したばかりで胸が躍った。
そして、事実飛行機が飛んだのだ。
警視庁は流石に自重して、そんなことはしなかったけれど、ある新聞社が民衆の意向を迎えて、お先走りになって、所有の飛行機を飛ばせた。
その飛行機に搭乗した社会記者は、賊を捕えるのではなくて、大空の雲の中で、この人気者「風船男」の、談話筆記をとるつもりであったかも知れない。