饭饭TXT > 海外名作 > 《吸血鬼(日文版)》作者:[日]江户川乱步【完结】 > 吸血鬼.txt

 その日第一回のラジオ・ニュースで、このことが、東京は勿論、全国に伝えられた。

「賊をのせた風船は、遂に雲の中に隠れました。……」

 という、アナウンサアの一句が、全国のラジオ聴取者を、ドキンとさせた。夢かお伽噺みたいな出来事。それがラジオ・ドラマではなくて、政府の監督下にある放送局の真面目なニュースなのだから、びっくりしないではいられぬ。

 人間が二人よれば、風船男の話だ。山の手方面の人達まで、若しやその風船が見えはしないかと、何もない空を見上げる。地方の人々も、気早やの連中は、風船見物の目的で、汽車に乗って、両国駅へ押しよせる程の騒ぎになった。

 犯人は、何も最初から、空へ逃げることを考えていた訳ではない。四方追手にふさがれたから、屋根へ逃げたのだ。その屋根も危くなったから、窮余の一策、とうとう風船の繩をよじ昇る様な芸当を思いついたのだ。好きこのんでした訳ではない。賊にしては、のっぴきならぬ風船乗りであった。

 警視庁刑事部では、各主脳者が集まって、対策を協議した。

 騒ぎがひどいので、一同可成緊張していたが、考えて見れば、問題は至極簡単であった。飛行機を飛ばすこともない。鉄砲を持ち出すこともない。じっと待っていれば、賊はひとりでにつかまるのだ。

 広告風船の不完全な気嚢のことだから、その内にガスが漏れて、徐々に下降を始め、遂に地上に落下するにきまっている。ただそれが落下した時、賊を逃がさぬ手配さえして置けばよいのだ。

 今や、風船賊のうわさは、全国に知れ渡っている。どんなさびしい場所へ落ちたところで、人目を逃れることは出来ぬ。コッソリ逃げ出すには、余りに有名になってしまった。警察としては、近県一帯の各署へ、通牒を発して置きさえすれば、もう賊は捕えたも同然である。という訳で、気長に風船の下降を待つことに一決した。

 一方某新聞社の飛行機は、隅田川両岸の群集、附近一帯の屋根に群がる市民の歓呼をあびて、国技館の空高く、燕の様に、雲の中へと、勇ましい姿を隠したが、十数分の後、空しく引返して来るのが眺められた。

 新聞記者は、西部劇のカウ・ボーイではないのだから、飛行機から、投げ繩で、風船の賊を捕えるなどという、芸当は出来ない。といって風船を射落す様なことをすれば、こちらが人殺しの罪人だ。

 では、彼は雲の中で、一体何をして来たかというに……

 飛行機が薄い雲を破って、上空に出ると、そこに、夢の様な広告風船がポッカリと浮んでいるのが見えた。昇るだけ昇り切って、風のまにまにゆるやかに、雲の海を漂っているのだ。

 先ずカメラを向けるのが、新聞記者の習慣だ。空中でもそれに変りはない。あるいは遠景を、あるいは近景を、飛行機の位置を見はからっては、パチパチと、数枚の写真をとった。

 新聞記者としては、これだけでも大手柄だが、写真を撮ってしまうと、今度は賊に向って、大声に呼びかけたものだ。

 プロペラの音に消されて、先方に通じるかどうかも分らなかったけれど、兎も角も叫んで見た。

「オーイ、そうしていたところで、自然にガスがもれて、落るにきまっているぞオ。眠くはないのかア。腹はへらないのかア。そんな苦しい思いをするよりも、ナイフで気嚢を突き破って、おりろやあい」

 というようなことを、切れ切れに、繰返し繰返し、叫びつづけた。

 だが、賊は死んでいるのか、生きているのか、風船ハンモックにすがりついたまま、身動きもしない。叫び声は聞えぬのか、答える様子も見えぬ。やけっ八のくそ度胸を極めてしまったものであろうか。

 それ以上、どうすることも出来ないので、飛行機は、空中写真をお土産に、一先ず着陸場へ引返した。

 その日の夕刊社会面は、「風船男」の記事で埋められたが、中にも、飛行機を飛ばした新聞社の奇怪な写真版は、満都の読者の好奇心を、いやが上にも募らせた。

「風船男」

「唇のない殺人鬼」

「石膏像に包まれた娘達の死骸」

 人目をひく、それらの大活字は、心ある読者を、極度にひんしゅくせしめたと同時に、物ずきな弥次馬共をやんやと喜ばせた。あまりにも荒唐無稽な、怪奇小説が、現在、この東京に実演せられているという、激情的な事実が、彼等を有頂天にした。

 が、それは少し後のお話、場面はまた、両国の空へ戻る。

 風船が雲間に隠れてから数時間、その日のお昼過ぎになって、警視庁幹部の人々が、予想した通りの現象が起った。

 不完全な風船は、廉物の空気枕みたいに、どこからともなく瓦斯が漏れて、段々重くなって行った。

 そして、再び雲を破って下界に姿を現わしたのは、隅田川の下流、清洲橋の空であった。

 その頃から吹き始めた、北風に送られて、いつの間にか遠く国技館の空を離れていたのだ。

 風船は、まるで綱で引かれてでもいるように、グングン地面に近づいて来る。

 またたく内に、浜町公園を中心として、附近一帯に人の山だ。ツェッペリンが飛来した時と、そっくりの騒ぎだ。

 吹きつける北風、「ワーッ、ワーッ」と上る群衆の声、走る雲、その中を、風船は横なぐりに吹き飛ばされて、その巨体が、地上二十メートルの間近に迫った時には、既に永代橋を南に越えて、品川湾へと流れていた。

「あの調子だと、水に落ちるまでに、お台場あたりまで、飛んで行きますぜ」

 屋根の上に鈴なりの人々が、話し合った。

 待ち構えていた警官隊は、水上署のランチに同乗して、隅田川を風と共に走った。

 空を飛ぶ怪風船、水を往くランチ。世にも不思議な追駆けが始まった。

 風船は月島を横切って、お台場の方角へ、ランチは、相生橋をくぐって品川湾へ。

 風は益々早く、風船は巨大な鉄砲玉だ。ランチが如何に快速力であっても、空飛ぶ気球は一直線、水路は曲りくねっているので、見る見る距離が遠ざかって行く。

 ランチには、最初から畑柳家の事件に関係した、警視庁の名探偵、恒川警部が、指揮官として同乗していた。

 この肝要の場合、我が明智小五郎の姿が、追手の中に見えぬのは、甚だ物足りぬ感じだが、彼は屋上の活劇に痛手を負い、丁度その頃は、アパートのベッドで、発熱の為にしん吟していたのだから、是非もない。

 その代りには、恒川名探偵がいる。数々の犯罪事件において示した、彼の天才的手腕は、世に隠れもないところだ。しかも、敵は今、憐れにも浮力を失った気球を唯一のたよりに、孤立無援、何の隠れ場所もない、海上を吹き流されている。恒川警部をわずらわすまでもなく、この捕物は、赤子の手をねじるよりもたやすいことだ。

 ランチは、月島を離れて、大海に乗り出した。見ると、賊の気球は、五六丁向うの海上を、波立つ水面とすれすれに危くも飛びつづけている。

「オイ、君あの風船に乗っている奴が、いつの間にか、人形に変っているのじゃあるまいね」

 恒川警部が、傍らの一刑事を顧みて、突飛なことをいった。あの怪賊がこんなに易々とつかまるのは、どうも変だという気がしたのだ。人形使いの魔術には、こりごりしていたからだ。

 だが、それは不可能だ。人形が繩を切る筈もないし、現に賊が、風船の下でもがいているのが、見えている。ロボットでもあるまいし、人形があんなに動けるものか。

海火事

 二人は顔を見合わせて、何ともいえぬ苦笑いをした。

「僕はどうかしているね。あいつは何だか苦手だ」

 恒川氏は、ちょっと恥かし相にいった。

 人形でないことは分り切っている。それを「若しや」と思うのは、相手を恐れているからだ。鬼刑事の名に恥じなければならぬ。

 隅田川の川口を離れる頃には、追手の船は、警察ランチ一艘ではなかった。

 町で泥棒を追駆ける時、必ず弥次馬がついて走る様に、水の上でも、弥次舟が、どこからともなく現われて来て、ランチと先を争う様に、賊の風船めがけて、波を切る、三艘のモーターボートがあった。

 その内、一艘は、競争用の舟と見えて、形も小さく、速力が馬鹿に早かった。さすが警察の快速艇も、この小型ボートには及ばず、見る見る抜かれて行った。

 ボートの中には、一人の黒い洋服を着た男が、まるで競馬の騎手か、自転車競争の選手みたいに、猫背になって、ハンドルの上に、かがみ込み、傍目もふらず、前方を見つめていた。

「畜生め、やけに早い野郎だなア」

 警察ランチの運転手はしばらく競漕して見たが、とても抜き返せないことを知ると、腹立たしげにつぶやいた。

「あいつ、何だろう。まさか同類じゃあるまいな」

 一刑事が不審を抱いた。

「いくら何でも、そんな無茶はしないだろうぜ。いくら速力が早いからといって、この荒れ模様に、あんな小さな舟で、賊を救って、逃げおおせるなんて、思いもよらぬことだよ。……素人の物好きさ。警察のお手伝いをして、ほめてもらうのが楽しみの特志家だよ。いつでも、あんな連中が、二三人、飛出して来るものだ」

 水上署の老巡査が、多年の経験から割出して、事もなげに答えた。

 警察ランチ、お手伝いのモーターボート、都合四艘の快速船が、吹きつのる北風に、波立つ海を、真ッ二つに切り裂いて、四つの鋭いのこぎりの様に、勇ましく突き進んで行った。

 一方、賊の風船は、第一のお台場を越したあたりで、遂に全く浮力を失い、ダブダブにしわのよった気嚢を、巨大な章魚の死骸の様に、水面に浮べた。

 墜落した刹那、下部に、ぶら下っていた賊は、ザブンと水中にもぐり、したたか潮水を呑まされたが、もがきにもがいて、やっと水面に浮上り、漂う気嚢の片隅にすがりつくことが出来た。

 彼はもう疲れ切っていた。屋根から空、空を半日も吹き流されて、落ちた所は、荒れ狂う波の上だ。大抵の者なら、とっくに気を失っていたであろうが、さすがは怪物、まだへこたれぬ。

 気嚢は波のまにまに、突き上げ、押しおとし、ブランコの様に、めちゃめちゃに揺れ動く。そのすべっこい表面に、とりついている努力は、並大抵ではなかった。

 ザブンザブンと波がかぶる。その拍子に手が辷って、サッと一間程も押し流される。もがきにもがいて、やっとまた、気嚢にとりすがる。それが、幾度となく、むごたらしく繰返されるのだ。人間界の怪物も、自然力に対しては、みじめであった。

 だが、彼の大敵は、自然力ばかりではなかった。もっと恐ろしい奴が、追手の舟共が、舳をそろえて、まっしぐらに迫って来るのだ。

 彼は波と戦いながら、隙を見てチラチラ振返った。振返るごとに、敵の船体は、大きくなっていた。慌ただしいエンジンの響きも、刻々その音が高まって来た。

 しかし、彼はまだへこたれなかった。

 見るも無慙な努力を続けて、とうとう気嚢の上によじ昇り、その平な中央に、ヨロヨロと立上って、図太くも、追手の船を迎える様に、身構えた。

 警察ランチと、先頭の小型モーターボートとの距離は、いつの間にか、二丁程も隔たっていた。

 その異常に熱心な素人追撃者は、今、風船ボートの上に、スックと立ちはだかった怪賊めがけて、舳が空に飛び上る程の快速力で、まっしぐらに進んで行く。

「オイ、もっとスピードは出ないのか。あの舟に追つけないのか」

 警察ランチの上では、恒川警部が、いらだたしく、運転手に呶鳴りつけた。

 警官一同、何とも名状し難い不安に襲われていた。やっぱり、あの快速艇に乗っている奴は、賊の同類ではあるまいか。あんなにめちゃめちゃに急ぐのは、警察を出し抜いて、賊を救う為ではあるまいか。という、恐ろしい疑いが湧き上って来るのを、どうすることも出来なかった。

 見る見る、モーターボートは、賊に近づいて行った。そしてもう一二間という所で、波の為に思う様に接近出来ず、木の葉の様にもまれているのが、眺められた。

 近づいては、押しもどされ、近づいては、押しもどされている内に、ボートの舳が、流れる気嚢にぶつかったかと思うと、賊の方から、ヒラリと、ボートに飛込んで行った。

 アア、やっぱりそうだ。あの舟は賊の同類なのだ。でなければ、賊の方から飛込んで行く筈がないではないか。

「ア、いけない。早く、早く」

 警官達は走るランチの上で、じだんだを踏む。

 だが、あれは何だ? 同類なれば、なにもあんなに、とっ組み合うことはない筈だ。

 賊はボートに飛び移ったかと思うと、いきなり運転席の洋服男につかみかかって行った。こちらも負けてはいなかった。立上ると、これを迎えて、たちまち、小舟の上の烈しい格闘となった。

 ブランコの様に揺れ漂う、狭い舟の中の、奇怪な立廻り。つかみ合うのは、双方とも黒い洋服姿。こちらからは、どれが賊とも味方とも、ハッキリ見分けがつかぬ丈けに、猶更ハラハラさせられる。

 警察ランチとても、並々ならぬ速力だ。見る見る、現場へ接近して行く。だが、ボートの中の格闘は、それよりも早く、アッと思う間に、かたづいてしまった。

 一方が打倒されて、舟の底に見えなくなったかと思うと、勝った奴が、いきなり運転席にしゃがみ込んで、ボートを操縦し始めた。

 勝ったのは賊に極っている。一人と一人で、あの怪物を取りひしぐ程の勇者があろうとは思われぬ。悪運強き怪賊は、追手の舟を逆用して、あの恐ろしい速力で、逃げ去ろうとしているのだ。

 ボートは波を切って、走り出したかと思うと、突如として、世にも恐ろしい椿事が起った。

 ボートの上に、パッとのろしの様な火炎が上ったかと見ると、非常な物音が波を伝って聞えて来た。

 どうしてそんな馬鹿馬鹿しいことが起ったのか、あとになっても、その原因をつきとめることは出来なかったが、ガソリンに引火して、それの金属製タンクが、ひどい勢いで爆発したのだ。

 舟一面に燃え上る火。

 その火炎の中に、あわてて海中へ身を投じる怪物の姿。同時に、ボートは烈しく揺れて転覆してしまった。

 ガソリンが海一面に拡がった。

 人々は、あとにも先にも、あの様に奇怪な、しかも美しい光景を見たことがなかった。

 海火事だ。荒れ狂う波が、焔となって燃え立つのだ。

 暫くは、顛覆したボートに近づくことも出来なかったが、やがて聞もなく、焔は螢合戦のくずれる様に、海上に散り乱れて、消えて行った。

 見ると、顛覆したボート間近く、浮きつ沈みつする人の姿。「ソレッ」というので、ランチは現場へと走り出した。

 溺れている人物が、敵か味方か判然しなかったけれど、いずれにもせよ、捨ててはおけぬ。

 大急ぎでランチを近寄せ、二三人がかりで、その人物を引上げた。引上げられたのは何者であったか。あの恐ろしい唇のない怪物か。イヤ、そうではない。だが、その顔を一目見るや、恒川警部が、頓狂な叫び声を立てた。

「オヤ、これは例の畑柳家の知合の三谷という人物だぜ。僕は二三度会ってよく知っている」

 それでは、あの快速艇の主は、事件に関係浅からぬ三谷青年であったのか。彼なれば、あの様に無我夢中で、賊を追駆けたのも、無理ではない。

 三谷は、さして水を飲んでいないらしく、一同の介抱に、間もなく正気を取戻した。

「アア、恒川さんでしたか。どうも有難う。もう大丈夫です。あいつは? あいつはどうしましたか」

 先ず尋ねたのは、賊のことだ。

「今の爆発でやられたかも知れません。これから探すところです。だが、三谷さん、君はどうして、僕達を出し抜いて、あんなことをしたのです。僕達のランチを待合わせてくれたら、こんなことにはならなかったのですよ」

 三谷青年が、存外しっかりしているので、恒川氏は、つい相手を叱る様な口調になった。

「申訳ありません。あいつには、これまで度々、今ちょっとの所で、うまく逃げられていますので、今度こそはと、ついあせったのです」

「だが、賊はかえって、君に飛びかかって来た」

「そうです。僕は自分の腕力を頼みすぎたのです。あいつが、あれ程強いとは思いませんでした。僕はたちまち、あいつの一撃を食って、ボートの中にぶっ倒れてしまいました。それ切り、何も知りません。ボートが爆発したというのも、今聞くのが初めてです」

「それが、君の仕合せだったかも知れません。何も知らず、ボートの顛覆と共に、水の中へもぐったまま、もがき廻らなかったので、焼けどもせず、大して水も飲まなんだのです、賊の方はきっと大怪我をしているでしょう」

 この恒川氏の想像は、たちまち的中した。丁度その時、さい前から舟を徐行させて、海面を探し廻っていた警官達が、とうとう賊の死骸を発見したのだ。

 死体は直様ランチに引上げられたが、どう介抱して見ても、無駄であった。

 爆発の時か、それとも海面をもがき廻っている間にやられたのか服は無慙に焼けこげ、手足にも焼けどをしていたが、殊更顔は、二目と見られぬ物すごい形相に変っていた。

「気味が悪いようだね。よくも、これまでひどく焼けただれたものだ」

 人々は、その顔面を、正視するに忍びなかった。

 たださえ恐ろしい、鼻も唇もない顔が、更に焼けただれて、滅茶滅茶にくずれ流れた様子は、この世のものとも思われぬ。

「何だか変だね。これが本当の人間の顔だろうか」

 ふと気づいた様に、恒川警部が妙な事をいい出した。彼は何か思う所あるらしく、死体の上にかがみ込んで、しばらく、死人の物すごい形相を熟視していたが、ヒョイと手を出して、頬のあたりをおさえて見た。

 おさえたかと思うと、ビックリして手を放したが、同時に、彼の顔に、非常な驚きの表情が浮んだ。

「アア、これはどうしたというのだ。僕達は、ひょっとしたら、賊の為に、まんまと一杯食わされていたのかも知れない」

 彼はそういって、一同の顔を見返した。

 人々はその意味を解し兼ねて、目をパチパチやるばかりだ。

「この焼けただれたものは、本当の人間の顔ではないというのさ」

 恒川氏は、益々変なことをいう。

 一同、思わず賊の恐ろしい顔を見つめたが、見つめていると、段々、恒川氏の妙な言葉の意味が分って来る様に思われた。

 だが、果してそんなことがあるのだろうか。あまりにも奇怪な着想である。いつの間にか、空一面、鼠色の雨雲に覆われ、ランチはわき返る波に、たとえば大時計の振子の様に、ほとんどリズミカルに、絶え間もなく動揺していた。見渡せば、眼路の限り、黒い波が、無数の怪物の頭の様に、根気よくうごいていた。

 その船の中に横たわっている死骸の、この世のものとも思われぬ、恐ろしい形相。

 今朝からの、奇想天外な賊の逃走といい、打ち続く奇怪事に、人々は異様な悪夢を見続けているような気がした。ジワジワとあぶら汗がにじみ出す程、何ともいえぬ恐怖を感じた。

 恒川氏は、思い切って、賊の顔に両手をかけると、力をこめて、メリメリとその皮をはいだ。

 醜怪極まる、怪物の顔が、薄気味悪く、めくれて行く。

 アア、何という残虐、牛の皮をはぐように、たとい死人とはいえ、顔の皮をはぎとるとは。

 人々はドキンとして、思わず目を閉じた。めくれた皮の下から、黒血がほとばしって、ベロベロの、見るも無悪な赤肌が現れて来ることを、想像したからだ。

 しかし、血も流れなければ、肉も現れなかった。醜怪な皮の下から出て来たのは、全く違った、もう一つの顔であった。つまり、焼けただれた唇のない顔は、世にも巧みな蝋製の仮面であったのだ。

 人々は、それが蝋細工と分っても、そんなもので、どうして長い間、世人を欺くことが川来たのかと、不思議にたえなかった。

 だが、蝋細工の技術は、我国でも、ちょっと想像も及ばぬ程、進歩しているのだ。ショウウィンドウの蝋人形が、本当に生きて見えるのも、お菓子や、果実の蝋細工が、本物と寸分違わぬのも、何にでも化ける、蝋というものの、不気味な性質を語るものだ。

 現に俳優は、自分の顔と生写しの、蝋製の仮面を使って、度々一人二役の舞台を勤めている事実さえある程だ。

「これが賊の正体だ。長い間、唇のない顔で、我々をおどかしていたのは、こいつなんだ」

 恒川氏は、はぎ取った、蝋面を手にしたまま、賊の顔を凝視していった。

 誰も、その顔を知らなかった。三十五六歳の、無※の男だ。これという特徴もない。その顔の所々に、熱い蝋にやけどをして、異様な斑紋が現れている。

「三谷さん、君は岡田道彦の顔を記憶しているでしょうね」

 恒川氏がたずねた。

「エエ、決して忘れません」

 三谷青年は、幽霊の様に、真青な顔をして、力なく答えた。

「で、この男が、その岡田道彦ですか」

「イヤ、違います。僕は岡田だと信じ切って、明智さんと彼のアトリエを調べに行ったりしたのです。岡田が薬で顔を焼いて、あの恐ろしい変装をしていたのだと思い込んでいたのです。ところが、この男は、岡田ではありません。全く見知らぬ人物です」

 三谷は、信じ切れない様な、困惑の表情でいった。

 局面は俄に一変した。犯人は岡田ではなかったのだ。とすると、どういう事になるのだ。あのアトリエに、死体の石膏像を作ったのは、岡田に違いはない。では、この賊は、あの殺人事件については、全く無罪であったのか。二つの全然別な犯罪事件が、三谷の頭の中で、こんがらがっていたのであろうか。

三つの歯型

 品川湾の活劇があった翌々日、恒川警部が、明智小五郎の病室を見舞った。

 病室といっても、彼の事務所と住宅を兼ねた、開化アパートの寝室である。肩の打撲傷の為、一時はひどい発熱を見たけれど、もう熱もとれ、傷の痛みが残っているばかりで、ほとんど元気を回復していた。

 明智は已に、新聞紙上で、大体のことは知っていたけれど、恒川氏は、更にくわしく、事件の経過を語って聞かせた。

 素人探偵は、ベッドに仰臥したまま、時々は質問を発しながら、熱心に聞いていた。ベッドの枕元には、文代さんが、つき切って、一切の世話をしている。

「電話でお願いしたものは、お持ち下さいましたか」

 一応、犯人溺死の模様を聞き取ってしまうと、明智が、待兼ねたように尋ねた。

「持って来ました。どういうお考えか分らなかったけれど、あなたの御依頼ですから、兎も角、型を取って来ました」

 恒川氏は、白布に包んだ、小さなものを、枕元のテーブルに置きながら、

「しかし、こういうものは、もう必要ありますまい。犯人の素性が、やっと分ったのです。実はそれをお知らせしようと思って」

 今度の事件での、明智の働きは、警視庁の名探偵から、斯様な取扱いを受ける値打が、充分にあったのだ。

「分りましたか、一体何者でした」

「非常に変った男です。医学上、一種の変質者なのでしょう。あまり有名でない探偵小説家で、園田黒虹という奴です」

「ホウ、探偵小説家でしたか」

「新聞に出た死人の写真を見て、そこの家主が知らせて来たので、早速彼の住いをしらべて見ましたが、実に恐ろしい奴です」

 園田黒虹というのは、一年に一度位ずつ、忘れた頃に、ポッツリと非常に不気味な短篇小説を発表して、猟奇の読者を怖がらせている、奇妙な作家であった。

 世間は勿論、彼の作品を発表した雑誌でさえも、黒虹という男が、どこに住んでいるのか、どんな顔をしているのか、少しも知らなかった。原稿はいつも違った郵便局から郵送され、稿料はその時々の局留おきで送ることになっていた。

 彼が探偵小説作家であることは、家主も近所の人達も、まるで知らなかった。

 少しもつき合いをしない、いつも戸を閉めて、家にいるのかいないのか分らぬ、独身の変り者ということが分っていたばかりだ。

「それは、池袋の非常に淋しい場所にある、一軒建ての小住宅なんですが、家の中を検べて見ると、まるで化物屋敷です。押入れの中に、骸骨がぶら下っている。机の上には、人形の首が転がっている。その首に、赤インキがベタベタ塗ってある。壁という壁には、血みどろの錦絵が張りつけてある。といった具合です」

「ホウ、面白いですね」

 明智は熱心に合槌を打つ。

「本棚の書物はといえば、内外の犯罪学、犯罪史、犯罪実話といったもので埋まっている。……机の抽斗には、書きかけの原稿紙が沢山入っていましたが、その原稿の署名で、黒虹という変なペンネームが分ったのですよ」

「僕は黒虹の小説を読んだことがあります。非常に変った作家だとは思っていました」

「あいつは、生れつきの犯罪者なんです。その慾望を満たすために、恐ろしい小説を書いたのです。それが、小説では満足出来なくなって、本当の犯罪を犯す様になったのでしょう。国技館の生人形に化けて見たり、風船に乗って空中へ逃げ出すなんて、小説家ででもなければ、ちょっと考えつかないことです。今度の事件はすべて、如何にも、小説家の空想が嵩じたという、突飛千万なものでした」

「賊がつけていたという蝋面の製造者をお検べになりましたか」

 明智がたずねる。

「検べました。東京には、蝋細工の専門工場は四五軒しかありませんが、それを残らず調べさせました。しかし、どこにも、あんなものを作った家はないのです」

「蝋細工は、別に大仕掛けな道具がいる訳でもないのでしょう」

「エエ、型さえあれば、あとは、原料と鍋と、それから染料だけで出来るのです。多分あいつは、専門の職人に頼み込んで、自宅で秘密に作らせたものでしょう。僕は蝋細工の工場へ行って見ましたが、少し骨を飲込みさえすれば、素人にだって出来相な、ごく簡単な仕事です。それで、出来上ったものは、まるでセルロイドのように薄くって、いくらか弾力もあって、その上、人間の生顔にソックリなんだから、考えて見れば、恐ろしい変装道具ですよ。それを、額の生え際から耳のうしろまで、スッポリかぶっていたのです。色眼鏡やマスクで隠さずとも、一寸見たのでは、面と気付かぬ程よく出来ていました」

 この様な思い切った変装手段は、老練な恒川氏にとっても最初の経験であった。

「実に何から何まで、小説家の着想です。実際的な警察官にとって、こういう空想の嵩じた、気違いじみた犯罪は、一番苦手ですよ。しかし、あなた方のお骨折りで、奴もとうとう参ってしまいました。殺したのは少し残念ですが、世間を騒がせた、唇のない怪物の事件も、これで落着した訳です」

 警部は本当に安堵したらしい口調であった。

「一応落着した様に見えますね」

 明智がニコニコしながら、妙な事をいい出した。

「エ、何ですって?」

 恒川氏はギョッとした様子で、

「すると、あなたは、まだ……アア、共犯者のことをいっていらっしゃるのですか」

「イヤ、共犯者なぞではありません。今度の事件の恐るべき首魁のことを考えているのです」

「しかし、その首魁は、死んでしまったではありませんか」

「僕には、何んだか、それが信じられないのです」

 流石の鬼警部も、明智のこの奇怪千万な言葉には、あっけにとられてしまった。

 この薄気味の悪い素人探偵は、一体全体何を考えているのだ。犯人が、生き返って、仮埋葬をした墓地から、抜け出したとでもいうのかしら。

「それは、どういう意味でしょうか」

 警部は仕方なく、正面から尋ねて見た。

「この事件は、一小説家の死によって、解決してしまうには、余りに複雑に見えるのです。例の岡田道彦のアトリエで発見された、死体石膏像について考えただけでも」

「しかし、あれは全然別の犯罪です。そして、その犯人である岡田は、とっくに死んでしまいました。岡田が生きていて、唇のない男に化けていたという、ちょっと誘惑的な考え方を、やめてしまえば、問題はないのです」

「それは、あなた方にとって、非常に好都合な解釈ですが、果してそんな単純にかたづけてしまって差支えないでしょうか。たとえば、こういう事を考えて見ただけでも、既に大きな矛盾が生じて来るのです。それは、……岡田があの死体の石膏像の犯人であったとすれば、彼は非常に残虐な一種の変質者ですが、そういう男が、ただ畑柳夫人に失恋した為に、純情な少年のように自殺するというのは、ちょっと考えられないことではありませんか」

「では、あなたは、やっぱり、岡田と唇のない男と、同一人だとおっしゃるのですか」

 警部は、何を馬鹿馬鹿しいといわぬばかりに、やや軽蔑の色さえ浮かべて、聞き返した。

「その外、今度の事件には、解き難い謎が、色々残されています」

 明智は相手の質問には答えず、喋り続けた。

「たとえば、畑柳家の密閉された書斎で殺された小川正一と名乗る男の謎があります。犯人はどこから出入りしたか。何の為に殺したのか、また被害者の死体が、どうして消え失せてしまったのか。それから、あんなに苦心して誘拐した倭文子さんを、あの殺人鬼が、傷一つつけないで、なぜやすやすと我々の手に戻したか。あの時、連れて逃げようと思えば、訳はなかったのです。イヤ、もっと変なことがある。僕は鹽原の温泉宿へ電話をかけて、女中から聞き出したのですが、温泉場で倭文子さんを驚かせた怪物は、本当に唇がなかった。ご飯のお給仕をした女中が、確かに見たというのだから、間違いはありません。ところが、今度風船に乗って逃げた奴は、仮面をつけていたとすると、この二人は、全く別人なのでしょうか。数え上げると、説明の出来ない点が、まだ沢山あります。それでも、事件が落着したといえましょうか」

「すると、君は、岡田道彦が、どこかに生き残っていて、それが本当の犯人だとおっしゃるのですね」

「恐らく……、イヤ、想像は禁物です。我々は決定的な証拠品によって、判断しなければなりません。その証拠品が、多分今に……アア、来ました。さい前から、僕はこれを待ち兼ねていたのですよ」

 丁度その時、外に人の足音がして、寝室のドアが開き、小林少年のリンゴの様な頬がのぞいた。

「小林君、アア、君はあれを手に入れて来たね」

 明智が、少年の顔色を読んでいった。

「エエ、案外訳なく見つかりました。やっぱり、あの近所の歯科医院でした。頼んだら、すぐ貸してくれましたよ」

 少年は、快活にいって、小さな紙包を差出した。

 明智はそれを受取って、テーブルに置き、文代さんに命じて、戸棚から、もう一つ、同じ様な包物を取出させた。テーブルの上には、さっき恒川警部が持参したのと合わせて、三つの小さな包が並べられた訳だ。

「恒川さん、それを開いて、よく見くらべて下さい。その中のどれか二つが、全く同じであったら、問題は忽ち解決するのです。しかし、恐らく……」

 恒川氏は、言葉半ばに、明智の心を察して、あわただしく、包を開いた。赤いゴム様のかたまりが一つ、白い石膏のかたまりが二つ。三つの包からころがり出した。

 すべて人間の歯型である。その内、赤いのは、恒川氏自身、風船男の死骸の歯型を取って、持参したものだ。

「同じのがありますか」

 仰臥したまま、明智がいらだたしくたずねる。

 恒川氏は、三つの歯型を、あれこれと見くらべていたが、

「ありません。三つが三つとも、全く違った歯型です。一目で分ります」

 と、やや失望して答えた。

 そのあとを、文代さんと小林少年が、熱心に見くらべてみたが、答えは同じことだ。一致する歯型は一つもない。

「で、この石膏の方の歯型は、一体誰のものですか」

 警部が、大方は察しながら、尋ねた。

「今、小林君が持って来たのは、岡田道彦の歯型です。小林君が二日がかりで、岡田が歯医者に通っていたことを探り出し、その医者を探して、やっと手に入れたものです」

「で、あと一つは?」

「それが、真犯人の歯型です」

「エ、真犯人の歯型? あなたは、真犯人を知っていたのですか。一体どうして手に入れたのです」

 恒川氏は、益々意外な明智の言葉に、あっけにとられてしまった。

「僕が三谷君と一緒に、青山の空家を調べたことは、御存じでしょう。例の倭文子さんが幽閉された、賊の住家です」

 明智が説明した。

「それは聞いてますが、……」

「その時、あの空家の戸棚の中で、たべあましのビスケットとチーズを発見したのです。ビスケットの上にチーズを重ねて、かじったもので、それにハッキリ歯型が残っていたのを、ソッと持帰って、石膏の型にこしらえたのです」

「しかし、それが賊の歯型というのは……」

「あの家は、二ヶ月以上も空家になっていたのですから、他にそんな所へ食べ物を持込むものはありません。倭文子さんも茂君も、賊にビスケットとチーズを、度々勧められたけれど、幽閉されている間、何ものも口にしなかったといっています。その言葉によっても、賊のたべあましであることは確かです。それが彼等の食料だったのです」

 あの時、明智はその発見について、同行者の三谷にさえ何事もいわなかった。ただ、妙ななぞみたいな独言をしたばかりだ。なぜ三谷に隠さなければならなかったのか、明智が無意味に隠し立てをする筈はない。何かそこに特別の事情があったのではなかろうか。

「すると、つまりこれは、賊かその相棒か、どちらかの歯型ですね。あの時空家には、二人の奴がいた筈だから」

 恒川警部は、やっと明智の説明を理解した。

「そうです。しかし、それが岡田道彦の歯型とも、品川湾で溺れた小説家の歯型とも一致しないとすれば、奴等はまだどこかに生残っているのです。そして、恐らくは、更に恐ろしい悪事を計画していることでしょう」

 恒川氏はまだ、明智の様にそれを信じ切ることは出来なかった。どうも、歯型だけではないらしい、明智はもっと色々なことを知っているのではなかろうか。

「では、園田黒虹は、なぜ文代さんをおびき出したり、風船に乗って逃げたり、変な真似をしたのでしょう。君は、歯型なんかよりは、ずっと有力な、この事実を認めないのですか。あれが犯人でないとおっしゃるのですか」

 警部は、どうしても変質小説家が思い切れぬ様子だった。

「あれは真犯人ではないのです」明智がキッパリいい切った。

「共犯者かも知れません。そうでないかも知れません。いずれにしても、小説家は小説家です、真犯人はもっと外にいる筈です」

 警部はそれを聞くと、変な顔をした。この男は、発熱のために頭がどうかしたのではないかと思われて来た。

「僕が途方もないことをいっている様に、見えるでしょう。それです。あなたでさえ、そんな風に考えるところに、今度の犯罪の恐ろしい秘密があるのです。誰が見ても、真犯人はあの小説家に違いないと思う。そう思わせる様に出来ている。賊のずば抜けたトリックです」

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页